c - Rakuten Inc
100万ポイント山分け!1日5回検索で1ポイントもらえる
>>
人気記事ランキング
ブログを作成
楽天市場
3375515
ホーム
|
日記
|
プロフィール
【フォローする】
【ログイン】
カフェ・ヒラカワ店主軽薄
< 新しい記事
新着記事一覧(全855件)
過去の記事 >
全て |
ヒラカワの日常
|
ヒラカワの見方
2009.03.22
エルサレム賞スピーチ、再び。
(6)
カテゴリ:
ヒラカワの日常
いま書いている本の校正が、ほぼ終了した。
いくつかのトピックは、全面的に書き換えたり、
あるいは、まったく別のものと入れ替えたりした。
一冊の図書においては、<流れ>が重要であると考えて、
惜しいものもあったが、敢えて削除したのである。
削除したものの中に、村上春樹のエルサレム賞受賞スピーチに
関する文章もあった。
以前、ブログで書いたものと重複する部分が多いが、
書き足したところもある。
それをここで公表しておくことにしたいと思う。
政治的な現在、文学的な立ち位置
さて、村上春樹についての文章で本書を締めくくろうとしていたとき、その村上春樹がエルサレム賞を受賞との報があった(二〇〇九年二月十五日)。このエルサレム賞受賞に関しては、賛否両論があった。イスラエルによるガザ攻撃の直後ということもあり、かれがどのような行動をとるのかが注目されたのである。大阪の「パレスチナの平和を考える会」は、かれに受賞を辞退するよう求めていた。賞を辞退すべしの論拠は、この賞をスポンサードしているのがエルサレム市であり、エルサレム市長から賞が手渡されるその式典に村上春樹が出席することは、イスラエルによるガザの一般人虐殺の犯罪性を隠蔽することに加担することになるというものであった。
もちろん、村上春樹の小説や、洩れ聞こえてくるかれの言動から、かれがガザ虐殺(こう呼ぶべきものだとおもう)のような行為に対して同意を与えてはいないということは明らかである。だからこそ、市民運動の立場から見れば、その村上さんが、無辜の犠牲者の「敵」が贈る賞を嬉々として受け容れるべきではないということになる。
この賞が「社会における個人の自由」を標榜しており、エルサレム市がそれを掲げる事自体が欺瞞であり、イスラエルはこれを政治的プロパガンダとして、自らの行為の正当性を根拠付けることに利用するだろうというのが、その理由である。
この理由、つまり今回の式典がイスラエルの政治的プロパガンダに利用されるだろうということに関しては、私にはまったく異論がない。
ガザ虐殺で世界中の非難を浴びているイスラエルの当局者にとって、少しでも自国の正当性を主張できる機会があればそれを利用するのは当然のことだと思うからである。しかしそのことと、この度のイスラエルの行為に正当性があるかどうかということとは別の問題である。
あらゆる人間の行為は、歴史の中では必ず政治性として抽出される宿命にある。世間の耳目を集める出来事に、高名な作家がどう関わるかということになれば、その政治性はさらに鮮明度を増すことになる。
私はイスラエルの今回のガザ攻撃には、どのような意味においても正当性はないという気持を持っているが、そのこととイスラエルという国家を地上から抹殺せよと主張するハマスに陣営に立って政治行動をするということは別の問題であると思っている。ほんとうは、中東問題を引き寄せて考えるということは、(自分の問題としては)できればスルーしたい問題である。政治的な課題に関しては誰にも、それをスルーする権利があると思いたい。もし、政治的な課題をひとりの個人がスルーすることが、別のかたちでの政治的な立場の表明であるといわれるかもしれない。確かにどのような立場も政治的には何らかの意味を持つものだということには同意できるが、そのこととどちらか一方の陣営に同意署名して戦列の末端に組み込まれることとはまったく別のことであると答える他はない。
それゆえ、今回のエルサレム賞受賞に関して言うなら、それがどのような政治的な背景のものであったとしても、それを受賞するか辞退するかという決断に対して、それが政治的に利用されるという理由によって、他者がその決断に関与するということに関しては大いなる違和感を感じざるを得ないのである。
私は、この問題を聞いたときに、受賞を拒否するにせよ、イスラエルに行くにせよ、村上春樹はかれらしいやり方をご自分で決めるだろうと思ったし、そうしなければ意味はないだろうと思った。同時に、かれはきっとイスラエルに行って自分の言葉で喋るだろうと思ったのである。
この問題に関しては、これまでも様々な論争のバリエーションがあった。
かつてサルトルが「飢えた子どもの前で文学者は何ができるのか」と問うて以来、文学者による文化大革命支援声明のときも、文学者の反核声明のときもこの問題が議論されてきたと思う。それぞれ、場面も登場人物も異なっているが、中心にある問題は同じである。
人間は、とくにかれが作家であるならば、主観的にはたとえば文学的人間でありたいと思ったり、政治的に正しい人間でありたいと思ったりすることはできる。
しかし、生きている限りかれは、文学的なものと、政治的なものとの両方にいくぶんかの影響を与え、両方からいくぶんかの規制されることを逃れることはできない。
政治的であるとはどういうことか。
最も極端な比喩で言い表すなら、それは敵の敵は味方であり、味方の敵は敵であるというところに立ち位置を定めるということである。
文学的であるとはどういうことか。
それはまさに人間が政治的であること自体を拒否することであり、政治的言表を相対化し、無化することである。
もちろん、現実はそれほど単純でもなければ、旗色が鮮明でもないことは承知している。
重要なことは、人間は社会的な存在であると同時に、個人的な存在でもあるということである。そして、その上で、人間はひとつの行動を選ばなくてはならない。
人間は自分が意図しようがしまいが、必ず政治的な加担者になってしまうがゆえに、文学というものが存在するのだ。
村上春樹は、最終的にエルサムに行くことを選んだ。
なぜならかれは政治家ではなく、小説家であるからである。
それはまさに、政治的な色合いを帯びざるを得ないこの授賞式というものに対して、小説家というものに何ができるだろうかという問いを携える旅であっただろうと思う。
つまりは、政治的であると同時に文学的でもあることはどういうことかという解けない問題に、どう答えるのかということである。
その答えを、村上春樹はそのスピーチの中に潜ませていたはずである。
そのひとつは、すでに有名になった「壁と卵」の件りである。
<高くて頑丈な壁と、壁にぶつかれば壊れてしまう卵があるなら、私はいつでも卵の側に立とう> ええ、どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます。
この卵と壁の比喩は、ある意味ではわかり易い。前者はひ弱な人間であり、後者は冷酷な政治システムで、村上春樹はあくまでも人間の側につくというように解釈された方が多いだろうと思う。確かにそういう意味でこの比喩は使われている。だが、そんなことは村上春樹でなくとも言える事であり、ことさら小説家を自認するかれが問題の地で発言することだろうか。私は村上春樹の重点は、この比喩の後段にあると思っている。
つまり、小説家(自分)というものは、善悪正邪の判定者という立ち位置をとらないのだということである。では、かれは何処に自分の立ち位置の重心を置いているというのか。その答えもまたスピーチの中にある。かれはそれを直接名指しはしないけれど、「毎朝、朝食前に自宅の仏壇に向かって、長い祈りをささげている父親の姿」の上に、あるいは「死んだ人みんなの冥福を祈っているんだよ、味方も敵もみんなだよ」という言葉の中にその答えを暗示している。そして、こう続けるのである。
私たちはそれぞれ形のある生きた魂を持っています。体制にそんなものはありません。自分たちが体制に搾取されるのを許してはなりません。体制に生命を持たせてはなりません。体制が私たちを作ったのではなく、私たちが体制を作ったのですから。
(村上春樹エルサレム賞受賞スピーチの翻訳は、二〇〇九年三月二日および三日の毎日新聞夕刊掲載に拠る)
どうだろうか。読者はかれの発言に、物足りなさ、中途半端、政治的な日和見的主義を読み込むだろうか。その惧れは十分にありうるだろうと思う。しかし、私は、この稀有の作家が続けてきている努力、それは効率と正邪に依拠する政治的な言語(体制を支えるもの)から身を離してなお、否応無く向き合わなければならない政治的な場所に、小説家としてどのようにしてコミットしうるのかと問い続けていることに敬意を払いたい。かれは人間のヒューマニズムや善意に対して誠実な態度をつらぬこうとしているが、それと同じ分だけ愚かさや悪意に対しても誠実であろうとしているからである。
本書の筆をおくににあたって、私は政治的であることを拒む作家への共感を記した。同時に経済的であることもまた拒む立ち位置に立ちたいと思うのである。人間は誰もそれらから自由にはなれない。しかしそうであるがゆえに、政治的な力学関係や経済合理主義的な思想に回収されることのない「個の思想」の立ち位置というものを確保しておきたいと思っている。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
いいね!
0
シェアする
最終更新日 2009.03.23 13:25:59
コメント(6)
|
コメントを書く
■コメント
お名前
タイトル
顔選択
普通
うれしい
悲涙
アイタタ
え~っ
ムムッ
ないしょ
メッセージ
画像認証
別の画像を表示
上の画像で表示されている数字を入力して下さい。
利用規約
に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、
こちら
をご確認ください。
いろいろな考え方があるものですね
イカフライ さん
>政治的であるとはどういうことか。
最も極端な比喩で言い表すなら、それは敵の敵は味方であり、味方の敵は敵であるというところに立ち位置を定めるということである。
↑これは現行政治の「政治性」を言い当ててはいるものの、いわゆる本質的な意味での「政治性」を掴みとっているとは、わたしには思えません。女性の「女性性」を言い当てるのと、女性や男性や 性同一性障害を抱える人たちすべてを含めた人たちの「女性性」を掴み取ることが違うのと同じです。
わたしの考える本質的な意味での「政治性」とは、俗利益のために倫理を犠牲にするにあたって、いかに倫理的に振舞うかという、自己欺瞞の構造のことです。自己欺瞞。これをもってわたしは真の意味の「政治」的な態度、姿勢、メンタリティだと考えています。
こういうわたしの「政治性」からすればヒラカワさんの意見はこう書き換えられる。
>村上春樹は、最終的にエルサムに行くことを選んだ。なぜならかれは政治家ではなく、小説家であるからである。
↓
>>村上春樹は、最終的にはエルサレムに行くことを選んだ。なぜならかれは小説家ではなく、政治家だからである。
(2009.03.22 21:56:53)
返事を書く
いろいろな考え方があるものですね 2
イカフライ さん
それから、ヒラカワさんに限らず、ほとんどの人たちはサルトルの「飢えた子どもに文学(者)は何ができるか」という発言を間違えて解釈しているような気がしてなりません。これは文学の否定や懐疑ではなく、まさしく、文学にもっと想像力を! という激なのではないでしょうか? 想像力の翼によってのみ、無関係な他者が、飢えた子どものリアルな心象に近づくことができる。そのことによってのみ文学者はだれにもできないこと、すなわち、飢えた子どもそのものに成り代わったかのように、世界を告発する物語を紡ぐことができるのだと。サルトルは想像力の劣化した若い世代の作家たちに、そういう文学の可能性を問うたのであって、あまりに陳腐な政治と文学の問題に還元するようなものではないとわたしは思います。
よって、
>(村上の受賞は)つまりは、政治的であると同時に文学的でもあることはどういうことかという解けない問題に、どう答えるのかということである。
というのはかなりトンチンカンな問提起でしかないのではないでしょうか?
村上は小説家である。ダンサーやプロレスラーや女優や漫才師と同じく芸を売って生きていることには変わりがない。ところがアントニオ猪木が北朝鮮に招かれても何もいわない人たちが、村上だと大騒ぎする。このことがどういうことか、もう少し考えてもいい。つまり、あの受賞式でわたしが感じたように村上春樹は屠場に引かれた羊のように哀れだったのですが作家とはそのようにしかいまだに利用されてはいない因果な商売なのである、ということでしょうね。
(2009.03.22 22:10:49)
返事を書く
Re:エスサレム賞スピーチ、再び。(03/22)
源三郎 さん
体制に搾取?、冷酷なシステム?体制とかシステムとかいかにも個の魂とは関係ないように思われますが、実際、それを機能させているのは狡猾で邪悪な魂をもった特権的な個の集まりではないのですか。 (2009.03.23 07:15:34)
返事を書く
文学、政治、エルサレム
わど さん
時代を経るにつれて思想とか哲学とかが変わってきたのは、内田先生に(仮想的に)師事してきた経験から、なんとなく理解していました。なので文学や小説も、また変化してきたはず。ですがドンキホーテの時代からも変わらないのは、小説が「個」の立場から描かれている点だ、と平川さんに同意見。事件も政治も経済も体制も、そして人間もです。こうした意味で春樹氏の演説が秀逸だったのは、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立ちます」(平川訳)と言ってのけたところだった。と、これも平川さんに同意見(笑)。
ところが「受賞を辞退するよう求めていた」人もいます。こうした人々は、卵が卵を選別するように春樹氏に勧めたのです。仰るように、これは政治なんですね。文学じゃなく、その人たちは政治を見ています。ガザの虐殺でもわかりますが、よい卵が悪い卵を壊して選別する道を政治はたどります。ですから小説・文学の読者ともいえない(たまには読む)人々との間で、「死んだ人みんなの冥福を祈っているんだよ、味方も敵もみんなだよ」(平川氏訳)という言葉を共有するのは困難をきわめるでしょう。かれらこそ正しい壁の番人になることを目標にして生きているのですから。その壁を乗り越えようとする者は、たとえ少年でも撃ち殺す厳正な番人になることを。と書けば書いたで、「少年でも撃ち殺す厳正な番人」はイスラエルのことだろう、と読んでくれる人々が。
※タイトルの「エスサレム賞スピーチ、再び」は、エスではなく・・・。 (2009.03.23 10:05:07)
返事を書く
Re:文学、政治、エルサレム(03/22)
hirakawamaru
さん
わどさん
タイトル間違いご指摘ありがとうございます。
訂正しておきました。 (2009.03.23 14:20:03)
返事を書く
心に届くことを
まろ0301
さん
イスラエル軍が昨年12月から約3週間にわたってパレスチナ自治区ガザを攻撃した際に、無抵抗の市民を殺害したとする兵士の証言が相次ぎ、国内で波紋が広がっている。
ガザから帰還した複数の兵士が2月、同僚らによる民間人殺害の実態を、入隊前に通っていた教育施設で証言。事態を重く見た施設の責任者が、軍上層部に「告発」したという。
ハアレツ紙は、ガザ攻撃に加わった歩兵分隊長の証言を掲載。朝日3月20日
今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。
私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。 村上氏のイェルサレムでのスピーチ
☆兵士の告発、ハアレツ紙が証言を掲載したことと村上氏のイェルサレムでの発言が関連があるかどうかは分かりません。しかし、村上氏が訴えようとしたことと、兵士の告発、ハアレツ紙が証言を掲載したこととの間には響きあうものがあると思います。
戦時国家であるイスラエルでこのような事が起こったことに、「国籍・人種・宗教を超えた個人」の存在を感じます。「システム」に食い物にされることを拒否する個人を感じます。
今後、イスラエルの人たちの心にハアレツ紙に掲載された村上氏の言葉が届くことを祈ります。
(2009.03.23 20:56:24)
返事を書く
< 新しい記事
新着記事一覧(全855件)
過去の記事 >
ホーム
フォローする
過去の記事
新しい記事
新着記事
上に戻る
【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね!
--
/
--
次の日記を探す
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
広告を見てポイントを獲得する
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
エラーにより、アクションを達成できませんでした。下記より再度ログインの上、改めてミッションに参加してください。
ログインする
x
X
© Rakuten Group, Inc.
共有
Facebook
Twitter
Google +
LinkedIn
Email
Create
a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧
|
PC版を閲覧
人気ブログランキングへ
無料自動相互リンク
にほんブログ村 女磨き
LOHAS風なアイテム・グッズ
みんなが注目のトレンド情報とは・・・?
So-netトレンドブログ
Livedoor Blog a
Livedoor Blog b
Livedoor Blog c
JUGEMブログ
Excitブログ
Seesaaブログ
Seesaaブログ
Googleブログ
なにこれオシャレ?トレンドアイテム情報
みんなの通販市場
無料のオファーでコツコツ稼ぐ方法
無料オファーのアフィリエイトで稼げるASP
評判のトレンドアイテム情報
Hsc
人気ブログランキングへ
その他
Share by: