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ヒット商品応援団日記No68(毎週2回更新) 2006.5.31.医食同源という言葉は4000年の歴史をもつ中国に伝わるもので、古くは「薬食同源」ともいわれ、不老長寿の道を突きつめたところに生まれた言葉である。その意味は医も食も源は同じ。すなわち、薬は健康を保つ上で毎日の食べものと同じく大切であり、おいしく食べることは薬を飲むのと同様に心身をすこやかにしてくれるという教えである。今日の自然食ブーム、薬膳ブームの考えの基礎をなすものであるが、こうした考えから一歩先の「健美同源」へと進んできた。健美同源という造語は5年程前に私が勝手につくったキーワードであるが、健康であることと、美しくあることと源は同じである、という考え方である。ある意味では「外側」の人工的な美容の世界から、「内側」から出てくる自然美、生命美を志向する変化を指している。シニアのアンチエイジングも同じ考えであり、お肌すべすべジュースや食メニューも同様である。健康テーマ市場もこうした美肌、肥満予防、快眠効果といったより細分化されたテーマへと進んできた。一時期ブームとなったヨガも定着し、アロマ、玄米、早摘みかん、ある意味では気功や免疫力活性のエステなども入ってくる。こうした背景を踏まえ、今から1年半程前にあるホテルでテストを行ったことがある。「快眠」をテーマに周辺ホテルとの「違い」をどう創り出すかがポイントであった。周知の通り、快眠もストレス社会という時代から生まれたテーマであり、忙しく働く女性にとっては解決して欲しいテーマである。どのホテルも快眠のための工夫やサービスを取り入れた競争市場であった。そこで健美同源ならぬ「眠美同源」というコンセプトでホテルのサービスメニューを考え、実施した。その時のコミュニケーションキーワードは”ぐっすり眠ってキレイになる”で、快眠関連の大手メーカーの方々の協力を得て、<快眠+キレイ>になるプログラムを創り実施した訳である。わずか2室のテストであったが、勿論その2室から予約が埋まっていったが、ホテルの経営指標の一つである部屋の稼働率が全体にわたって上がり、経営が更に良好になるという結果であった。宿泊された女性達の調査結果も予想以上に満足度が高く、少し早すぎるかなとの思いもあったが眠美同源というコンセプトはホテル市場を引っ張るオピニオン女性にとってはぴったりと合致した小さなコト起こしであった。市場の構造から言うと、●オピニオン市場→眠美同源始め細分化されたコンセプト&テーマ市場への進化●マス市場→医食同源・健美同源市場こんな市場構造へと進化しているのが「今」の健康・美容関係市場といえよう。仕事をアグレッシブにこなすビジネス女性にとって、出張先のホテルで過ごす時間は貴重である。寸暇を惜しんで、「あれこれチョットづつ」キレイになるために心と身体をメンテナンスしている実態が調査結果からも出ていた。この調査結果の詳細については公開できないが、興味ある2つの結果が得られた。1つは「ぐっすり眠ってキレイになるプログラム」への評価であった。個別商品への評価もさることながら、「全体」=「プログラム」ストーリー(=物語)への評価が高く、プログラムそのものを販売していく可能性を秘めていると実感した点であった。もう一つは「美肌」への欲求の高さであった。冬場にテストをスタートさせたこともあり、部屋に加湿器を用意したのであるが、春になっても是非使いたいという要望が数多く寄せられていた。「健美」あるいは「眠美」を実感させる最大のものは、「しっとりとした美肌」であった。こうした「たった2部屋」の活動によって経営指標を大きく押し上げたということは、ホテル市場ばかりでなく一般家庭へと普及させる「キラーコンテンツ」の可能性を秘めていたと言えるであろう。残念ながら、私の退社によってそのプロジェクトは解散してしまったが、前回テーマの「小」ではないが、パラダイムが大きく変わる時代にあって、小さなコト起こしは、まずテストという方法をもって実施することが必要となる。「たった一つ」「たった一コーナー」「たった一日」「たった一人」、こうした最小単位から全てが始まる。そして、コンセプトという「仮説」を小さく実行することの中から、キラーコンテンツは生まれてくる。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.31
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ヒット商品応援団日記No67(毎週2回更新) 2006.5.28.”古池や蛙飛び込む水の音”は松尾芭蕉の俳句である。蕉風確立の画期をなした一句と言われているが、一方駄作という評価もある句である。いずれにせよ池を包む静けさを強く想像させる句である。そして、わずか五七五、17文字の謎を秘めた小宇宙の世界である。さて、豊かさによる個人化の進行は、”チョットだけよ”が日常の単位となった。ここ数年前から「個食」は「小食」になり、多くのものが小分けされたり、量り売りになったことは周知の通りである。この代表例が「一人鍋」であり、今やコンビニの定番商品にまでなった。食ばかりでなく、ファッションにおいても周辺小物、アクセサリーなどがコーディネーションの必須アイテムとしてどの専門店でも充実されるようになった。旅行で言うと、飛鳥IIの世界一周クルーズのような約3ヶ月で360~1800万といった豪華な船旅も人気となっているが、散歩ブームのように小さな旅が更に日常化されるであろう。若い世代風に言えば、プチ整形、プチダイエット、プチ断食、プチ修行といった「大人」になるためのプチ体験ブームはこれからも続くであろう。ところで「小」は小さな発見、小さな驚き、小さな喜びである。それは「小」のもつ世界をどれだけ想像的にできるか否かにかかっている。全てを物理的に小さくすれば良いという訳ではない。このブログでも繰り返し書いてきたが、物語消費の時代であり、どれだけ想像的な物語として伝え、感じてもらえるかにかかっている。料理であれ、ファッションであれ、住まいづくりであれ、特徴という意味を際立たせる創作者、演出家、ある場合は役者を演じなければならない。たった一言、たった一つのアクセント、たった一つのアイディア・工夫、たった一つの出来事をどれだけ大切に意味あるものにできるかである。そして、この時代全ての単位が変わったと認識しなければならない。モノという物理的な単位を小さくすることだけではなく、時間も、人も、テーマについてもである。健康というテーマもより小さなテーマに細分化されてきている。例えば、健康→成人病予防→血液サラサラ→・・・といった具合である。こうしたていねいなメニューづくりをしているのが、何回か取り上げた「野の葡萄」である。また、「小」売りの原点を一歩先歩んでいるのがやはりセブンイレブンである。多くのところで取り上げられており、ここでは割愛するが、鈴木敏文さんというある意味ではセブンイレブンの創業経営者の手腕もさることながら、小さなことへの判断が行き交う現場主義に経営の基盤を置いているからであろう。全てが「小」になっていくこととは、「小」情報が至る所で発信され、情報洪水状態にあると認識しなければならない。一時期明石市の「根性だいこん」が話題になった。道路のアスファルトの割れ目にけなげに芽を出していたあのだいこんである。こうした出来事は初めてでなおかつ「だいこん」であったから話題になった訳で、以降全国各地で同様の根性だいこんが現れることによって物語は終了した。情報というのは鮮度が命であり、次から次へと変化させていく宿命にある。「小」さな話題を常に店頭化させていく小売業においては、モノの小売りの前に、情報の小売り業たらねばならない。そのとき重要なことは、顧客興味が何処にあるかである。「根性だいこん」を理屈っぽく言えば、「生命力、そのけなげさ」であり、「癒し」につながるテーマと理解すればよいのだ。このように話題となった事象を定期的に集め、分析し、顧客興味の動向を見極めて、物語のメッセージとすればよい。私は研修会や勉強会の最後には必ず「小」に関する話をして締めくくりとしている。その一つであるが、ある老舗旅館の話である。ホテルであれ、旅館であれ、お客様がチェックアウトされる時、必ずお見送りをする。そして、宿泊のお礼と共に”またのお越しを”と言葉を添えるのが普通である。その旅館では”今年の桜はいかがでしたか!”そして、”秋にはまた素敵な紅葉がご覧いただけます。またのお越しを”という一言があった。つまり、桜への満足感を紅葉へと、想像を働かせ期待感へとつなげる「たった一言」を言える旅館であった。若い世代がプチ体験を積むのも、「次」への想像を働かせるためであると理解しなければならない。単なる「お試し」の延長線上ではない。チョット消費はチョット体験を通じ、「次」を想像させるものでなくてはならない。敢て、冒頭で松尾芭蕉の句を持ち出したのも、「チョットだけ」という小体験を小宇宙へと広げる物語創造が重要であることを伝えたかったからである。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.28
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ヒット商品応援団日記No66(毎週2回更新) 2006.5.24.江戸時代のライフスタイルをスタディすると分かるが、俗にいうところの「江戸っ子」は常に上方文化に対する「アンチ」「反」をそのスタイルアイディアの源泉としていたことがわかる。当時は全て上方からの「下りもの」であった。周知の「くだらないもの」の語源はこうした背景であるが。上方のうどんに対し江戸のそば、押し寿司に対しにぎり寿司、小さなことでは田楽の串が上方では2本であるのに対し江戸では1本、といった具合である。上方が貴族文化・「洗練」であったのに対し、江戸は町人文化・「粋」を美意識としていた。天野祐吉さん流にいうと、上方が「こしあん文化」で、江戸は「つぶあん文化」となる。今風に置き換えると、刺繍入りジーンズに対しダメージジーンズといったところである。江戸時代当時は今日と同じように主婦も忙しかったようである。京では内陸ということから塩乾物や加工食品をうまく活用する知恵が育って、今なお生活に残されている。一方、江戸では「人間一生、物見遊山」といった消費都市として、「新しい」「珍しい」「面白い」をエネルギーとして発展し、今日の消費都市TOKYOを創ってきたと言えるであろう。そして、今まで書いてきたのでここでは割愛するが、「新しい」「珍しい」「面白い」といったエンターテイメント的な仮想現実物語から、新たな物語へと移りつつある。つまり、消費の表舞台を飾っていたサプライズメニューから、職人のまかない食やスタイリストの日常着への興味など舞台裏メニューへと変化してきている。数年前流行った「隠れ家」も同様である。つまり、表舞台から裏舞台へ、大通りから裏路地へ、好きな沖縄でいうならば本島のリゾートホテルから離島の小さな宿へ、非日常から日常へ、大きなサプライズから小さなサプライズへ、と逆転現象が起り始めている。そして、今や散歩ブームが至る所で起きており、小さなテーマ毎の同好クラブが無数にある。私事で恐縮だが、好きな沖縄について言えば、沖縄の表舞台であるリゾートホテルや那覇国際通りには何十回と行っていたが、7~8年前までは他のリゾート地の中の選択肢の1つであった。それでも興味は回数を重ねる度に深まっていくものである。そんな時に出会った本の一冊が岩戸左智夫さんの「沖縄・旅の雑学ノート/路地の奥の物語」であった。以来、国際通りから市場通りや平和通りの奥へ、那覇から浦添へ、・・・・路地の奥にある「生活」「日常」へと小さな驚きと共感の散歩が始まったのである。先日京都の友人と会ったが、今京都も路地裏ブームであると話されていた。勿論、京都は歩いて絵になるシニアにも優しい街であるが、路地裏にあるのは「おばんざい(おふくろの知恵)文化」「生活の中にある四季」だと思っている。「千年の京」とは寺社仏閣だけでなく、「生活」も千年という「時」によって磨かれ今日へと続いているのだ。四季という自然時間に沿った生活が今なお色濃く残っている代表はやはり京都だと思う。ハレとケという自然時間の過ごし方で言えば、ケの日、つまり普段は「始末」して暮らし、ハレの日は「華やか」に楽しむ。そうした生活習慣が家庭の台所に存在している。「始末」の基本は、食べ物を「ほかさない」こと。素材を端っこまで使い切ったり、残ってしまったおばんざいを上手に使い回しする知恵やアイディアがもう一つの京都の魅力である。LOHAS運動は新しい運動などではなく、既に京都を始め日本全国至る所で日常となっている。しかし、地元の人にとっては「当たり前」のことでも、都市生活者にとっては「驚き」になるのだ。ヒット商品着眼の第一は、こうした「視座」を持って既存商品を見直すことから始めればよい。私がよくお邪魔する鳥取米子には「へしこ」という食べ物がある。多くの方は知らない食べ物であるが、江戸の初期以降広まった「鯖の糠漬」である。江戸の初期、生ものは御法度であったことから生まれた保存食であるが、今は日本海側の一部の人達の酒の肴として食べられているにすぎない。沖縄糸満には「バクダン」という食べ物があるが、リゾートで訪れる観光客にとっては全く知られていない食べ物である。糸満名産のかまぼこを握り飯にまいて揚げた大きなおにぎりであるが、これは糸満漁師が漁に行く時持っていく漁師食である。「へしこ」も「バクダン」も営々と続いてきた「知恵ある生活」そのものであり、固有の文化食といっても過言ではない。都心のデパ地下では恒例となっている各地域の食物産展が催されているが、モノを売ることが先行してしまい、固有文化を売ることにはなかなかつながってはいない。これからは「テーマ」というくくり方をした催事や売り場を作り、固有文化を売っていく時代へと進んでいくと思う。例えば、「日本の素食100撰」というテーマであれば、今私が挙げた商品などは全て入ってくる。素食とは日本の健康食であり、今の健康ブームを異なる視座=テーマで見ていくことでもある。常に顧客のライフスタイルに対し、次の何かを提案する小売業としては、是非「生活文化物語」を表舞台へと上げて欲しいと思う。(続く) 追記-1 「日本の素食」の素食は「そしょく」ではなく、「もとしょく」と読んでいただきたい。勿論、健康食としての意味も含めたものであるが、日本古来の現代食という新しいテーマとして考えたらどうであろうか。追記 -2 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.24
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ヒット商品応援団日記No65(毎週2回更新) 2006.5.21.ここ数年、若い世代がよく使う「かわいい」という表現、”これってかわいい”は「かわいい私よね!」という自己確認であり、他に対する確認であるとは小売業にとって良く知られている。数年前からのマイブームもそうであるが、「私のお気に入りのモノ」「私のお気に入りの場所」「私のお気に入りの時間」・・・・・大仰に言えば、全て「私」の世界へと豊かさを求めてきた戦後60年であり、消費も「私」に沿うようにビジネスされてきた。ひと頃流行った団塊ジュニアのセレクトショップも新人類世代によるインポートブランドブームも好みの在り方の違いこそあれ、全て「私」のお気に入りであった。5~6年前に、そうした背景を「シングル化」というキーワードでレポートを書いたことがあった。つまり、豊かになり、消費という欲望の在り方が変わってきたことへの指摘であった。次の豊かさの方向を、家族消費から個人消費へ、物理欲望充足から心理欲望充足へ、更には感性欲望充足へ、・・・・こうした変化は自立&自律した個人化社会へと向かうであろうとのレポートであった。おそらく、戦後初めて「私って何」と自己のアイデンティティをテーマにしたのは作家三田誠広さんの「ぼくって何?」であったと思う。以降、私探し・都市漂流を「私生活」への向上=豊かさへと閉じ込めてしまった、と自省を込めて指摘をしたのは寺島実郎さん(われら戦後世代の「坂の上の雲」/PHP新書)である。結論から言えば「私」ではなく「個人」であらねばならないという指摘である。「私生活主義人」ではなく、家庭人、社会人・日本人・地球人としての「個人主義者」へと向かわなければならないという指摘と理解している。私は既に価値のベクトルが「私生活主義」へと振れてきたことへの揺れ戻し、解体が始まっていると考えている。LOHAS運動や富士山の清掃といった環境ボランティア、コミュニティの再生などは地球へと向かう活動であろう。「夜回り先生」こと水谷修さんの活動や渋谷をキレイにしようと立ち上がった商店街の活動は、家庭へ、社会へと向かった活動である。また、今回の耐震偽装事件やライブドア事件に見られた「会社って何?」という本質への問いかけ、「私」の会社ではなく社会的存在としての側面を持つ、こうした認識などはまさに「公人」へと向かうものである。身近に起っている「騒音おばさん」や「ゴミ屋敷」などは、「私」と「公」、私と社会の遮断によって起きた事件である。グレーゾーンでも法を侵さなければ何をしてもかまわない、倫理は時代と共に変わるものだから「私の倫理に従えば良い」という考えへとつながっていく。つまり、エゴとしての「私」から、多元的な価値を認め合う「個人」への脱皮が求められているのだ。こうした脱皮を促す1つの例として取り上げたのが「家族のゆくえ」で書いた新しい住宅への考え方、互いにコミュニケーションが取れる住まい方であった。私はこのブログをスタートさせた当初から、都市化によって失ってしまった3つ(自然・健康、家族・絆、歴史・文化)をどう取り戻すのかに、新市場創造への着眼があると仮説を繰り返し述べてきた。新市場創造とは新しい価値創造のことであり、ある意味で既に壊れてしまっている「私」を新しい価値をもって自ら再生することでもある。私が物語消費に執着したりオタクに言及しているのは、従来の消費を促してきた仮想物語が終焉してしまった「後」の物語、それが何であるかを発見していくためである。「私」に閉じこもった欲望物語は、既に壊れていることに多くの人は気づき始めていると思う。特に若い世代に感じることであるが、食欲、物欲、表現欲、・・・・生きる欲、多かれ少なかれ欲を持っているのが人間であるが、欲望そのものを喪失してしまっているのではないかと思うことがある。仮想現実の象徴でもある渋谷109に関する調査であるが、来館するティーンに”これからなってみたいこと”を聞いたところ、上位には「モデル」「美容師」「ショップ店員」が並んでいた。しかし、それは強い仕事への欲でもなければ自己表現欲でもなく、「ただなってみたい」という希薄なものであった。「生き急ぐ、二十歳の老人」のところでも書いたが、今の若い世代は老成し、人間が人間である「野生」を喪失してしまっている。だから、野生を喪失しているが故に、アニマル柄ファッションという物語をまとうのである。しかし、家族と向き合い、社会と向き合い、自然と向き合い、生活の中に「五感」を取り戻し、自立&自律する「個人」へと脱皮することが問われている。都市化によって失ったものを取り戻すとは、こうした「脱皮物語」を自ら演じることになると思う。(続く)追記-1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.21
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ヒット商品応援団日記No64(毎週2回更新) 2006.5.17.1ヶ月程前、「物語消費」というテーマで大ヒット商品「ビックリマンチョコ」を取り上げた。それは、チョコレートというモノが買われたのではなく、「謎解き」という物語が買われた最初の商品であった。さて、そうした物語は以降どう推移し、今に至っているか「物語」という視座で消費を見てみたい。ここ10年程、ビジネス、マーケティングで流行ったキーワードの一つが「ソリューション」であった。このキーワードは、多くの場合「不満」「不安」といった言葉とセットで使われてきた。問題の解決、不安の解決にビジネス着眼、マーケティング着眼を見いだしていく方法であった。特に、時代の大潮流となっている「健康」といったテーマでは自己防衛&予防市場として実行されてきた。この底流は今なお続いており、これからも続いていくと思う。ただ不安の謎解き物語が「オーラの泉」のような占いブーム程度であれば良いのだが、免疫力アップ=癌が治るといった詐欺まがいの物語がつくられ被害に遭うといった事件も出てくると思う。誰もが明確に言葉で表現しえないような獏とした不安心理にいる中、「オレオレ詐欺」ではないがこれからも手の込んだ「物語」には注意しなければならない。こうした「不安解決物語」と共に、「違い」を求めた物語として様々な「こだわり物語」が進行している。例えば、お米であれば産地へのこだわりから有機など栽培方法へのこだわりへ、更には××さんがつくるといった人へのこだわりへと。塩であれば、精製塩から天然塩へ、更には○○の天日干し塩へ。付加価値というフィールドで「何」にこだわっているかの競争となっている。ファッションにおいても同様で、普通のジーンズはストーンウオッシュや刺繍をした洗練化が進む中、一方ではアンチ洗練という違いを求めたダメージジーンズが出てきている。つまり、「違いのディテール」物語としての「こだわり」競争である。しかし、「こだわり」もまた類似を生み、価格競争へと移っていく。こうした類似を生む情報化社会にあって、唯一固有な違いを産み出すことを可能にするのが「人」と「コミュニティ」である。これからは「人」と「コミュニティ」に着目した物語が始まっていくと思う。特に、地方経済の活性が急務となっている今、コミュニティが物語の中心になるであろう。商標法の改正により地域ブランドが続々と出てくるであろうが、単に名前をつけただけでは物語にはならない。以前、中沢新一さんが書かれた「アースダーバー」を借りて、縄文時代人の不思議・優しさに触れたが、日本全国いたるところに謎を解いてみたい不思議が埋もれている。幼少期には誰もが読んだ経験があると思うが、「浦島太郎伝説」は日本全国にわたって今なお地域に残っている。沖縄には古代から久高島では魂は不滅であると信じられてきた。人は死ぬと東の果て、太陽の出ずる二ライカナイに行き、そこで神となって再び島に帰ってくると考えられていた。こうしたニライカナイ伝説も浦島太郎伝説につながる海洋国家日本の不思議であると思っている。今、沖縄では「海人(ウミンチュウ)」というTシャツ程度が売られているにすぎない。今月5月30日には糸満ハーレーという海人のイベントがあるが、興味を引くような「海人物語」は残念ながらない。そもそも中国大陸を背にし、日本海という中海をはさんで日本はある。目の前には広大な海、太平洋である。既に室町時代には太平洋をこえて南米ペルーに渡った日本人がいると記述したのは異端の歴史家網野善彦さんであるが、海には想像力をかき立てる何かがあるのだ。こうしたコミュニティに依拠した物語づくりと共に、「人」という固有性を物語にした着眼もヒット商品へとつながる。この着眼で大ヒット商品となったのが、あのサントリーの「伊右衛門」である。京都福寿園の創始者の名前をネーミングにしたものであるが、従来のお茶のマーケットを競合的に戦いシェアを奪っていく戦略ではなく、新たなお茶マーケットを創造し得たことは特筆すべきであろう。ものの見事に一つの独自世界、物語を創った訳である。そして、今あるブランドの多くは「人」物語がその根底をなしているものが多い。奇人変人と呼ばれ、数々の挫折を繰り返したシャネルなどはその良い例であろう。だがこの「人」という固有性に依拠した物語づくりには難しさもある。わずかの時間でカリスマと呼ばれ、同時に翌日にはイカサマと呼ばれてしまう情報の時代でもある。物語の神秘性・不思議感は日常からは隔絶されたものとして存在しなければならない。遡る時間は別として、「過去」という見えざる世界に物語創造を求めることになる。最近折に触れて思うのだが、不満や不安の解決物語ではなく、「幸福」の謎解き物語が新たに生まれてくる予感がしてならない。(続く)追記-1「浦島太郎伝説」については浦島太郎を追跡し、日本全国・中国本土を旅した高橋大輔さんの書籍は時代を映し出す不思議物語の意味からも是非一読されたらと思う。「浦島太郎はどこへ行ったのか」高橋大輔著 新潮社追記-2 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.17
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ヒット商品応援団日記No63(毎週2回更新) 2006.5.14.話題、サプライズ、劇場化、ある意味で伝え方過剰の時代から、納得、奥行き、体験といったバランスの時代へと向かいつつある。年頭のブログで書いたように、様々な価値観がぶつかり合う時代になると予測したが、そうした対立・衝突がやっと一つの土俵に上り始めた。バブル崩壊後のグローバリゼーションの荒波に産業構造の変革を求められてきた日本は「株主資本主義」「グローバルスタンダード」というキーワードの基に再編がなされてきたが、周知のベストセラーである「国家の品格」(藤原正彦著)を始め、「会社はだれのものか」(岩井克人著)、更には「われら戦後世代の「坂の上の雲」」(寺島実郎著)など異論・反論が出そろい始めた。この3冊に共通していることは大きくいうと「国家論」であるが、国家をなす「個人いかに生きるべきか」に言及している点にある。誰もが認識していることであるが、戦後60年の日本は世界でも過去例を見ない急成長を果たしてきた豊かな日本である。その豊かさとは何か、三者とも専門分野が違い視点は異なってはいるが、共通していることは「過去」と「世界」という視座をもって豊かさを読み解いている。既に読まれている方もいると思うが、是非一読されることをお勧めしたい。ところで、消費面においてもダイエットや美容におけるサプリメント&各種エステの狂騒も落ち着きはじめ、より根本的な食を含めた生活それ自身の「日常」へと立ち戻りが始まりつつある。玄米や五穀米への注目やより原初的根本的な天然水、野生としての作物、・・・・つまり「工業製品」としての食から、「手作り製品」としての食への回帰である。別な言葉で言えば、米国型エンターテイメント食から、日本(東洋)の文化食への静かな移行である。数年前、ユニクロと永田農法、糸井重里さんのコラボレーションから生まれたSKIPは見事に失敗したが、今糸井さんは永田農法のDVDを販売し始めている。私もSKIPが導入された松屋銀座の地下売り場を見て実際買いもしたが、この失敗は生鮮食品の小売りについて全くの素人であったと言うしかないと思っていた。今回の再チャレンジ、糸井さんの「方法論」そのものの販売に拍手を送りたい。ところで、少し前に話題となった「冷凍みかん」は3人組GTPが静岡のFM局で人気となった曲をうまく活用したミニヒット商品である。このヒット商品の背景を調べてみると分かるが、若い子達の「給食ランキング」の10位以内(gooランキング)に入っている懐かしい商品である。若い子流にいえば、プチ懐古商品である。2月にオープンした表参道ヒルズにあるジェラートショップ「GERATERIA BAR Natural Beat」のSEA SALT CARAMEL(塩キャラメル)に話題が集まっているが、塩味をうまく使った大人の商品である。そもそも商業施設の設計を担当された安藤忠雄さんが意図したのは大人の密な香りのする建物であり、若い子達も「大人化」し始めていると言えよう。私が尊敬もし好きな天野祐吉さんは自身のブログ(天野祐吉のあんころじいhttp://blog.so-net.ne.jp/amano)で元気な言葉に言及し、次のような楽しくもあり、「今」を言い当てたブログを書かれている。そのブログによると、「広告批評」で若いコピーライターの卵100人に「からだことば」のテストをし、その結果について次のようにコメントされている。・「顔が立つ」/正解率54.9%/回答例 目立つ 、化粧のノリがいい・「舌を巻く」/正解率42.3%/回答例 キスがうまい、言いくるめる、珍味、・「あごを出す」/正解率35.2%/回答例 イノキの真似をする、生意気な態度をとる この結果を「無知」「国語の再勉強」というのではそれで全てが終わってしまう。天野さんは”「舌を巻く」なんていうのは、これからは「キスがうまい」というイミに使ってもいいんじゃないかと思うぐらい面白いですね。(どうせ、半数以上の若者は本来のイミを知らないんだし、そのことにいまさら舌をまいても仕方がないしね)と、書かれている。こうした「大人の知恵やセンス」が求められているのだと思う。その知恵は思想・主義・論理からではなく、自然にくるまれて育ってきた「大人」の美意識から生まれてくる。「いいか、わるいか」ではなく、「素敵か、素敵じゃないか」「カッコイイか、ワルいか」で、前回書いた「粋」や「鯔背」な世界、軽妙洒脱な、「間」を楽しむ、それでいて若い子にも分かるような「大人の世界」が新たな市場として現れ始めた。天野さんのように「キスがうまい」と、大人への扉を開けてあげる知恵やアイディアが次なるヒット商品の着眼になると思うが、みなさんはいかがお考えであろうか(続く)。追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.14
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ヒット商品応援団日記No62(毎週2回更新) 2006.5.10.一ヶ月程前このブログで「格差社会」について触れたことがあった。その内容について”格差を是認することは許さない”といったコメントが寄せられた。既に、私は1年前に様々な領域における格差、個人間や企業間、都市と地方、世代間、知の習得度(学歴ではない)、情報使用の習熟、といった視点で格差の広がりをスタディしてきた。経済格差については1997年の世帯収入の伸びを境に右肩下がりになり、それと反比例するように自己破産件数が増加し、今や消費者金融の利用者は2000万人を超え、その10%が多重債務者と言われていることも熟知している。一方、年収3000万以上のための雑誌が続々と出版され、3Aエリア(赤坂、麻布、青山)といった一等地には高額賃貸マンションが1万戸あり、その内10%が月額家賃100万以上で今もなお増加している。ジニ係数を持ち出すまでもなく、生活実感からも経済格差が広がってきていることは理解しており、政治の主要な課題との認識を持っている。また、平均値的見方ではなく、細部を見ていけば東京の中でも足立区と千代田区では経済格差は生まれており、シャッター通り商店街も存在している。しかし、米国のように年収200万以下の世帯が20%近くに及んでいるような状況にはない。ましてや、日本には「立って半畳、寝て三畳」という美学文化のある国である。何をもって「貧しい」とするのか、同様に「豊か」なのか、経済だけでなく、他にもある様々な格差の物差しを明確にした上で議論をしなければならないと思う。私はマーケッターであり、こうした分化しつつある市場に対し、どう創造してゆけば良いのかを使命としている。特に、こうした議論を踏まえた「市場の規定」、つまり誰をお客様とするのかが極めて重要な時代になっていると考えている。最近、地方の経営者と話す機会があるが、どこか噛み合ないことが多い。都市市場、特に東京であるが、都市の生活者情報を持っていない、というより情報を入手し得ても誰を顧客とし、どんな魅力を提供したら良いのかとする多面的な「視座」を持っていない。また、逆に、都市生活者も地方の埋もれている「宝物」の情報を持ってはいない。この5~6年都市生活者研究として、今日のライフスタイルの原型が「江戸時代」にあることから、江戸の生活をテーマにスタディしてきた。周知の通り、江戸時代の武士人口は半分ほどで、いわば「消費都市」が江戸であった。初期40万人ほどであった人口は最高時130万人にまでふくれあがり、「人返し令」が発令されるほどの世界No1の都市であった。今日の都心回帰とは比較にならないほどの魅力、江戸は人を引きつける「経済力」と「生活文化」があった訳である。(詳しくは昨年8月のブログNo4を参照ください)今日の東京は世界経済の中心都市の一つで、多くの外資系企業が集まっている。日本企業もまた同様に、その多くが本社機能を東京に置いている。つまり、世界経済のマネジメントセンター化しており、江戸時代の武士と単純に重ねてしまうことは無理な面もあるが、消費主導によって反映している都市である。例えば、ヴィトンのバッグを持って100円ショップダイソーで買い物をする「使い分け消費」、「お気に入り」のパンであれば一駅先でも買いにいく女性、従来の一人前サイズを小さくし「あれこれチョットづつ」食べられるようにし、客数増加が見込めない中での客単価アップを目指したコンビニの食メニュー、「あるある大辞典」や「おもいッきりテレビ」で取り上げられた食品素材はすぐさまあっと言う間に売れてしまう「話題消費」、今年の正月百貨店で億単位の「高額」福袋を購入する顧客、2月にオープンしたばかりの表参道ヒルズにあるメンズジュエリーショップでは200万クラスの「メンズアクセサリー」が既に100ほど売れている・・・・・いずれにせよ多様な消費局面のどの顧客のどこを狙うかである。一方、都市生活者も膨大な情報の中で地方の情報と出会うことが少ない。先行した地方企業がネット通販、カタログ通販、TVショッピングといったダイレクトマーケティングによる限られた情報の中での「お取り寄せ」である。成功している通販型商品には明確で分かりやすい他には無い魅力を有している。また、同時に顧客の興味・関心世界をついた「物語」を持ち、情報面でも独自性を発揮している商品である。楽天市場を始めとした各ショッピングサイトのランキング上位を分析すればわかることである。消費都市における顧客は、その商品は顧客にとって「新しいか、珍しいか、面白いか」という興味を入り口とする。しかし、こうした情報興味=話題販売はすぐさま終わる。結果、商品のライフサイクルが短くなる訳である。そして、定番・基本揃え商品を持ち、次々とニュースを発信する新商品導入が小売業のMDであった。しかし、ここ数年「ちょいワル」ではないが、オヤジの時代=大人の時代を迎えようとしている。江戸でいうならば、旦那の時代、「粋」を求めた文化の時代である。つまり、「こだわり」から「粋」「鯔背」へと、モノからスタイルへの転換が起き始めている。モノ消費から時間消費、出来事消費、スタイル消費への移行である。消費の主役である女性から、まだ端緒ではあるが「粋」で「鯔背」な男性が消費という舞台に上がる。フランスのような気障でもなく、ドイツのような野暮でもなく、粋で鯔背な「男文化」が消費の全面に現れてくると思う。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.10
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ヒット商品応援団日記No61 (毎週2回更新) 2006.5.7.4年程前、少子高齢社会を踏まえ「個人化」がどこまで進行しているかスタディしたことがあった。豊かさの象徴である住まいについて言えば、単身世帯とDINKS(夫婦2人世帯)を入れると既に50%を超えていた。丁度「マイブーム」が流行、あれもこれも「マイ」である。そうした中で隠れたヒット商品が「一人鍋」であった。そうした時、睡眠時無呼吸症候群という言葉と共に、不眠を訴える人が1/4にも及んでいることが表へと出てきた。ストレスによるものであるが、その多くはビジネスと人間関係によるものであった。また、食の不安を背景に、高カロリー、高脂質な食生活から逃れるように誰もがダイエットに熱中した。一方、夫婦共稼ぎがほとんどであり、DINKS世帯においては料理は作らずデパ地下の「中食」がテーブルにのることになり、子供がいる場合は「ワンプレート・ワンディッシュ」という偏った食生活となる。住まいはこうした生活を背景にキッチンスペースは小さくなり、バスルームやベッドルーム等「癒し」の場所への投資が行われてきた。更に癒しを求め、第三の家族と言われるペットブームを更に加熱させることになった。また、あらゆる情報を入手できるネット世界はケータイによって、個人から個人へといつでもどこでも瞬時につながり、情報を取り入れることがいとも簡単になった。しかし、同時に情報によって翻弄される「個」でもあった。その象徴例と思うが、たった一人、若い個達は友を求め街へと「漂流する」か、「ひきこもる」ことになる。「夜回り先生」こと水谷修さんが街へと夜回りしながら掲示板を開設するのもこの時期からである。既に、家族は崩壊していた。まだまだ残すべき家族という「過去」があると声をあげて言う人は少なかった。常に、過去の成功体験こそ唾棄すべきだとの意見が大勢を占めていたからである。誰もが気づいてはいるものの、分かりやすく声にする人は少なかったのである。私が知る限りでは糸井重里さんぐらいではないかと思う。ご自身のホームページ「ほぼ日刊イトイ新聞」をはじめ「智慧の実を食べよう」というフォーラムイベントで、先人達・専門家達の経験・知恵をいただこうという試みである。私はこうした「知」や「方法」をもって個と個とをつなぎ直す市場が続々と生まれてくると思っている。それは糸井さんのような「先人」と「今の私」という過去と現在をつないでいく方向と、「今の私」と「今のあなた」の方向の2方向で進んでいく。いわば、縦軸と横軸であるが、前者の縦軸においては前回のブログで書いたような「おふくろ物語」のような消費ストーリーが考えられる。「過去」を遡り「食卓」を中心に互いに確認し得るような家族物語である。例えば、三井ホームでは家族が互いのプライベートな空間を維持しながら、集い会えるセミオープンな空間の家づくりが始まっている。親子が自然に会話ができるような工夫である。いわば「寺内貫太郎一家」のような家族の真ん中にあったちゃぶ台がパソコンや遊ぶ作業スペースになる訳である。住まいについて言えば、こうしたリビングやダイニングキッチンが重要な場になる。この延長線上で言うならば、「親子クッキングスクール」をはじめ各種の「親子スクール」「親子遊び」が流行るだろう。残念ながら、こうしたスクールや道具を介してしか家族のコミュニケーションがはかれなくなってしまっている。食卓は親子が囲むことが前提で、鍋、焼き肉、バーベキュー、たこ焼きといった「一緒に作り、つつき合える」ものが多くなる。つまり、休日だけではなく、日常的な家族行動が増えてくるということである。今、爆発的なブームとなっているセガの子供向けゲーム「ラブandベリー」もある種母親とのコミュニケーションと言えよう。これは「ビックリマンチョコ」のような謎解きが無いためベストセラーにはなってもロングセラーにはならないと思う。ところで、最近日本の育児法が見直され始めている。いわゆる「川の字」に寝るスタイルである。特に、乳幼児期には母親がすぐ授乳できるようなそんな「親和力」を大切にする日本古来の育児法である。自傷したり自殺する子供は「母親の代理自殺」だと指摘したのは吉本隆明さんであるが、そうした子の母親の多くは心の傷を負っており、子へとつながっているとの指摘である。三木成夫さんが「胎児の世界」で書かれているように、受胎後数ヶ月には胎児は母親のこころとつながっていることを考えれば至極当然である。さて、横軸「今の私」と「今のあなた」の方向での家族であるが、一言でいうと、血縁関係にはない家族のことである。ホームスティの受け入れや問題児の受け入れ、ある意味では「足ながおじさん」の世界も当てはまる。例えば、旅行先で出会った老夫婦にまた会いにいきたいといった「こころの家族」である。崩れかけてはいるが、大きな意味で言うと「地域コミュニティ」も大家族という視座で見ていくことも必要であろう。これからは「生活文化観光の時代」という持論もこうした視座による。ところで極めて残念なことではあるが「夜回り先生」水谷修さんが開設した掲示板「春不遠」が閉じられてしまっている。先生の名前をかたって生徒を呼び出すといった事件があり、昨年11月に閉鎖されたままである。「春不遠」はこころに傷を負った子達の一種のコミュニティ、「今の私」と「今のあなた」が掲示板を通じて会話される「こころの水谷家族」であった。こうした動きは、癒しという一種の私生活主義から、外へと一歩踏み出した小さな芽であると私は思っている。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.07
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ヒット商品応援団日記No60 2006.5.3.今から16年程前、丁度バブルがはじける直前に団塊世代とジュニアの価値観を探る調査をしたことがあった。その時の団塊ジュニアを言い当てたキーワードがこの「二十歳の老人」である。まだ団塊ジュニアは二十歳にはなっていないが、若くして、という意味合いで二十歳と名付けたものである。この調査の質問項目に、これからの人生をシュミレーションした場合どんな人生を歩みたいか、といった質問が入っていた。団塊世代の答えの多くは”小さな頃なりたかった保母さんになってみたい”あるいは”ケーキ屋さんに”といった幼い頃思い描いた夢、やり得なかったことへの取り戻しが多かった。一方、団塊ジュニアは明快な目標といった答えは少なく”自分らしく”とか”自然体で”とか、まるで大人びたというより、人生を終えた老人のような醒めた達観した答えが多く見られた。AV世代と言われたように沢山の情報体験を積み、世の中全てが分かってしまい、既に「老人の如き」意識となっていた。ジュニアにとって、情報は食事と同じようなもので、多くの情報を食べ、結果人生80年を既に生ききってしまっているとの結論であった。勿論、情報だけを生きている訳で、社会という目に見えない生き物とのリアルな格闘経験は少ないのであるが。当時、ジュニアの支持が高かったJpopに橘いづみの「失格」という曲があった。”自分のいいたいことを私はいわない。自分のやりたいことを私は何もできない。・・・・・・・何もかも嫌になるにはまだまだ若すぎる。・・・・あなたに失格とそう言われたい。生きる資格がないなんて、憧れていた生き方。・・・・・・たったこれっぽっちの生き様を一人振り返り、しのごの理屈を言っている私を愛したい”(橘いづみ「失格」より抜粋)何故、こんな曲を持ち出したかというと、前回「家族消費」という話の中で、ホリエモンの保釈に際し、彼の両親、家族との関係に触れたからである。全てホリエモン的世界を団塊ジュニアの代表・シンボルとして見ていくことではない。堀江さんについては1月のブログでその「モラル」について二宮尊徳の言葉を借りて私は断罪し、”道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である”と考えを述べてきた。しかし、再度取り上げたのは、堀江さんの行動に団塊ジュニア固有の意識が見い出せるからである。これは私の勝手な思いであるが、「失格」という曲ではないが”自分のやりたいことを私は何もできない”という気持ちがいつしか株式市場というビジネスの可能性(=情報の罠/未成熟・未整備な株式市場)にはまり込み、結果バブルな行動(社会のモラルの逸脱)をとってしまった結果と思う。裁判所からどのような裁定が下されるかわからないが、拘置所の中で過去を振り返り、堀江さんは自ら「失格」と判断したと思う。私は今年の年頭で「あらゆる価値観がぶつかり合う1年になる」と書いた。ライブドア株を所有し大きな損失を被ってもなお堀江さんに共感する若い世代は多い。この3ヶ月は検察サイドの情報だけで全てが「不確か」であり、堀江さん自身のコメントを待ちたいと思う。しかし、”少し生き急ぎすぎた”と語ったと報じられているが、このことは素直な実感であると思う。曲の台詞ではないが、”しのごの理屈を言っている私を愛したい”とは間違っても言わないと思う。堀江さんが言う通り「道徳」は時代によって常に変化してゆくものである。団塊世代も若かりし頃「同棲時代」というキーワードを産み出し、社会の規範・モラルから外れたとして指弾されもした。今や、同棲等という言葉はほとんど死語に等しくなっている。もし、今日の道徳・モラルという視座にて言うならば、まずすべきは市場に対する責務、顧客である22万人という株主に対し、その責務を全うしなければならない。これからますます世代間、地域間、持つ者と持たざる者において価値観の衝突が増えていく。そして、その衝突が単なる対立だけに終わらず、次なる第三の世界に少しでも踏み込めたらと思う。「モノの欠乏感」をベースに失ってしまったモノやコトの取り戻しを次の人生のテーマとする団塊世代。「精神の欠乏感」をベースに新たなルールや道徳を創造していくであろう団塊ジュニア。異なる価値観を持つ2つの世代ではあるが、「家族」というキーワードを介し、第三の世界へと道が開けると思う。堀江さんには、その一人として、「三十三歳の老人」には決してなって欲しくない。いつの時代においても、起業は常に「たった一人」から起こされる。(続く)追記 -1 昨年11月20日以前のブログをご覧いただく場合は下記のアドレスにアクセスください。http://remodelnet.cocolog-nifty.com/remodelnet/
2006.05.03
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