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<力>を巡る考察

 「最終的に決定するのは、生にとっての価値である」という限り、「価値」をどう考えるかが問題となろう。ニーチェにおいて価値の問題は「価値評価」の問題であり、「価値評価」とは解釈の問題である。生がどのように解釈されるか、そして解釈するものは何か、そもそも解釈とは何か、という問題がある。ドゥルーズによれば、ニーチェは系譜学的方法によって価値の価値転換を遂行する。生の遠近法的解釈において問題なのは、価値評価しようとする「何か」を前提する思惟はその問い方自体を自己超克せねばならないということである。もはや自己超克するのは「何か」、価値評価するのは「何か」、と問うてはならない。従ってニーチェはこのようにいう、「力への意志が解釈する」(WM643,P279)。強弱を判断するのは一体誰か、という問いに対しては、「誰が解釈するのか。われわれの欲動である」(WM254,P.119)と答える。問題となるのは、真実を欲するタイプの解釈である。すなわち、支配している力の質を問題としなければならないということである。本質に対する問いが、力に対する問いに変容させられない限り、真理の本質もわからない。解釈だけが、事象を占有する力の質への問い、すなわち本質への問いを可能にする。
 ドゥルーズによれば、「力(への)意志」は力を対象として欲するのではなく、それ自身が力である創造的、贈与的意志である*37。すなわち自身のなし得ることから分離されていず、自身の能力の果てまで突き進む「能動的」な力である。それは力の増大を欲する。力を対象として欲する「力への意志」は、能動的な<力>に対する意志である以上、反動的である。<力>は、意志の究極の目的でもなく、またその本質的な動機でもない。解釈によって明らかになるのは、人々に表象の対象と解釈される<力>が、「単に奴隷が勝手に<力>だと表象しているものでしかない」*38こと、そして<力>が割り当て可能であるところの既成の諸価値の存在を前提しているということ、最後に、力への闘争が、「位階序列の原理や原動力」ではなく、「位階序列を逆転させる場合の手段」だということである。ドゥルーズにとって“位階”は、「能動的な力と反動的な力との差異、反動的な力に対する能動的な力の優位性」かつ「反動的な力の勝利、反動的な力の伝播、それから生ずる複雑な組織化」を意味する*39。「力とは意志においては発生論的で差異的な境位」であり、それは「他者を決定すると同時に自身をも決定し、他者の質を定めると同時に自分の質をも定める」可塑的な境位である*40。ドゥルーズの解釈に従えば「その都度新しいより独自の目を創造する」(Ⅴ2,169)力(への)意志は、いかようにも肯定されうる、“多によって肯定される一”である。
 「遠近法主義のおかげで、人間だけでなく、どのような力の中心も、自分自身から全世界をあまねく構成する」(WM636,P277)。シュミットによれば、力の中心は、あらゆる瞬間にパースペクティブ的な評価をもつものとして考えられなければならず、もろもろの中心は、特殊な「主体‐存在」と考えられ、それは「力意志の放出」(WM634,P276)、従って純粋な作用(WM635,P.277)である*41。そして「創造する(形成し、捏造し、仮構する)能力が、その根本能力である」(KSA,XI,503)。普通の意味で“遠近法的”に考えれば、「最終的に決定する」のが「生にとっての価値」でしかないような真理はそれ自体では何の価値も持っておらず、プラグマティッシュなものでしかないわけである。「生にとっての価値」が価値転換されねばならない。ニーチェがいうように、<価値>の価値が問題である。先行的に<生>の価値それ自体が与えられているのではなく、価値は我々によって置き入れられたものであるとすれば、“どうしても価値創造してしまう”関係性概念におけるところの「能動的な力」、すなわち「純粋な作用」が問題となる。

ニーチェとカント

 このようなニーチェの“遠近法的”価値評価は、ニーチェのカントに対する批判的思惟から生まれている。ピヒトの解釈では真理の認識においてニーチェはカントの超越論の遺産をそっくり受け継いでおり、真理はそれそのものにおいて分裂している。真理の認識とはその分裂をそのものにおいてとらえることであった。ドゥルーズではニーチェにおける真理の認識はどう考えられているのか。
 ドゥルーズはまず、認識の能力に対するカントの批判が、それまで無視されてきた他の力、すなわち、およそ批判が批判である限り、何ものもその批判を免れない全体的・積極的・肯定的批判でなければならないという、批判の力を解放することができたことを認める。カントの理性批判は、感情や感覚などの外的な審級に頼らない「理性の自律」を目指し、理性そのものに由来する錯覚を内在的に批判する。しかしカントの超越論的諸原理においてなされるのは、もともと存在していた認識の可能性の諸条件の発見なのであって、理性の“発生論的諸前提”までは問われていない。ア・プリオリな認識のために諸々の条件を条件付けようとするような意志における力の質が問われねばならない。
 カント的超越論の理性の自己批判は、理性の自己正当化であるとドゥルーズは考える。超越論的哲学の思惟の「方法」は、「常に思惟者の善意を、「計画的な決意」を、前提している」*42。カントの超越論的哲学に欠けているのは「思惟を構成する現実的諸力」を考察することである。「理性を同時に裁判官と被告に仕立て、判事と原告、裁くものと裁かれるものとして理性を構成するのは、カントの矛盾ではなかろうか」*43。すでにカントのいう認識の“コペルニクス的転回”の中にニーチェ的遠近法の根はある。にもかかわらず、カントはもはや遠近法的にしかなり得ない認識の地平を開きながら、価値評価している諸力に対し無自覚な閉塞的独断の中にとどまっている。その独断を訂正するのがニーチェの哲学であるとドゥルーズは考えている。
 カントは「認識不可能なものの擬似的認識」に*44赴くが、それは全体的に批判的な諸力を制限するに効果的に機能する領域を、批判の領域外になおも想定してしまう。そのようなカントの超越論的方法そのものが“部分的でしかない批判”を容認してしまう。それに対して全体的批判においては、分割されない統一的な地平全体が認識の安定性を剥奪する批判の審問に開かれていて、その審問に全く無防備にさらされている。そしてその統一的地平全体が一元論的な遠近法を要請する。もはや認識の誤謬というものはなく、従来の認識そのものが誤謬であるのだが、カントにおける批判は、認識不可能であるとされることによって保護されている物自体によって、真理と道徳それ自体をいわば守っていた。「カントの批判は正当化するという以外の目的を持たず、自身が批判するその当のものを信用するところから始めてしまうのだ」*45。理性を批判するものが理性であるというのは、奴隷の論理であり、そこには理性に対する服従がある。したがってカント的批判は能動的・肯定的であることに失敗しているのだという。
 ドゥルーズは、われわれが理性や悟性といった能力に服従する限りにおいて立法者であるというカントの、部分的批判の審級を設定する力の質を、さらに問うのがニーチェ的批判であると考える。そのために登場するのが、理性の発生論的諸前提としての力(への)意志を問う全体的批判の原理としての遠近法主義であり、系譜学であると考える。真の意味での立法は、秩序の正当化ではなく、逆に新しい諸価値を創造することである。そのような立法が行われる場が、「批判を行いうる真に能動的な法廷」*46としての発生論的、系譜学的な場である。
 カントとの対比から明らかになる批判についてのニーチェの原理は、「信念や解釈の評価の意味と価値とを説明する発生論的で可塑的な原理」*47である。そしてニーチェにおいては、理性と感情との対立が問題なのではなく、自己正当化しようとするがゆえに支配をも正当化するカント的理性に反して思惟するところの思惟そのものが問題なのであり、そのような思惟が、理性から「自身の諸権利を奪回し、理性に逆らってみずからを立法者とする」*48ことができる。そしてニーチェ的系譜学者にとっても、カント的立法者同様思惟は判断、つまり評価し解釈することであり、また価値を創造することである。ピヒト同様ドゥルーズも、価値設定における“正義”すなわち“正当化”と“位階”の問題を考えている。

   生と思惟

 われわれはニーチェにおける思惟の価値設定と生との関係をいかに考えるべきであろうか。ドゥルーズによれば生は形而上学的認識によって反動〔反作用〕的になる。なぜなら認識が生を評価し判断して、生に敵対する生、反動的な生を表現するからである。ニーチェは、あるがままに発現し行動しようとする能動的な生が、認識に奉仕するその結果として反動的になってしまったと考える。本当は認識は生と共に生を高めなければならないのである。反動的になってしまった生は認識から救われねばならない。逆に、すでに反動的になってしまった生に従属させられた思惟も救われねばならないと考えている。カントにおいては思惟は認識の立法に服従する。己を限定しようとする思惟はそれ自体反動的な生の産物であるために、思惟を思惟自身のなしうることから引き離し反動化させ弱体化させる。つまり能動的な生をカント的な部分的批判の審級によって裁いてはいけないのである。思惟は、生のあるがままの能力を制限して、なし得る限りまでなそうとする能動的な生の可能性を制限してはならない。
 上の考察によりつつ生と思惟との関係について考えてみる。「生を肯定するであろう思惟」によって生は全体的な批判の審級(生の試練)にさらされる。生と思惟はそれぞれが互いになし得ることを極限まで追求する中で、互いに相手に定める諸限界をのり超えて全体的かつ能動的な生の可能性を創造する。ここにおいて思惟は生の全体的な新たな可能性の創造への思惟となる。思惟は生を揺さぶるものであり、生は思惟に揺さぶられるなかで、思惟によってそれ自体の可能性を切り開かれるもの、すなわち力の可能性の追求それ自体としてある。この意味でプラグマティズム的有用性に基づく思惟は一方的・「反動的」であり、生の可能性を狭めるものである。ピヒトの言葉を援用すれば、真理は生の可能性を突き詰める思惟の“自己企投”であるということになろう。
 ドゥルーズによれば“力(への)意志”は創造する意志となる。それはピヒト同様“未来の原理”となる。芸術がこの「力(への)意志を刺激し」、「意志をかき立てる」。動機も目的も表象も必要としない力(への)意志が刺激を必要とするのは、それが「能動的な力、能動的な生とかかわることによってのみ、肯定的なものとして措定されるからである」*49。芸術はカントにおけるような「無私無欲の」、利害に無関心な作業ではなく、能動的な生にとっての刺激となり、かつ能動的な生はそれ自身、肯定という一つの思惟の産物にとっての条件であり随伴者となる。そして芸術は虚偽の最大の<力>である。それは虚言を神聖化する。虚偽の<力>として欺き、隠蔽し、目くらまし、誘惑するところの生の能動性が実現されるためには、一層根本的な肯定との関わり合いが必要になるため、虚偽の<力>は欺かんとする意志にまで上昇せねばならない。従って芸術は虚言の“創造”となり、欺かんとする意志を虚偽の<力>の中で肯定されるなにものかに変える。もはや「真理とは仮象である」。「真理とは<力>の現実化を、最も強大な<力>への上昇を意味している」。したがって「ニーチェにおいては、<芸術家としてのわれわれ>イコール<認識や真理の探究者としてのわれわれ>イコール<生の新たな可能性の創出者としてのわれわれ>なのだ」*50。
 以上のような考察は、ピヒトの<創造>解釈における“真実の仮象の自己企投”と基本的には同一である。ニーチェにおいては、いかにして生を取り戻すかではなく、いかにして生の可能性それ自体を“創造”していくかということが考えられている、というのである。




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