「きらりの旅日記」

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

2020.03.21
XML
テーマ: ベルギー(112)
​​​​ベルギー・ブルージュを旅して『聖母教会』の内陣へ進んで見つけた霊廟に納められた2つの棺について調べて見ましょう〜2019年4月友人と2人での訪問。


​きらりのわがまま『ベルギー旅日記』ブルージュ篇(99回)​



​ブルージュ『聖母教会』ブルゴーニュ家の霊廟

​ブルゴーニュ女公マリーの棺​


​マリー・ド・ブルゴーニュ・・・とは?​
​Marie de Bourgougne​

1457年2月13日〜1482年3月27日


ヴァロワ=ブルゴーニュ家


「ブルゴーニュ公国」最後の君主。


ブルゴーニュ女公 在位:1447年〜1482年


のちに・・・


神聖ローマ皇帝ハプスブルク家マクシミリアン1世の妻


領民たちからは・・・


「美しき姫君」「我らのお姫様」と慕われた。
​ 

​父シャルルの棺​


マリー女公は・・・『ブルゴーニュ公国』シャルル突進公


2番目の妻「ブルボン公シャルル1世」の娘


イザベル・ド・ブルボンの間に生まれた。


シャルル突進公の唯一の子どもであった。


当時のブルゴーニュ公国は、


ヨーロッパ随一の経済力と


成熟した文化を誇っていた


その唯一の後継者として恵まれた少女時代を送るが


母とは、早くに死別するが、3番目の妻である


義母マーガレット・オブ・ヨークにも愛情を込めて育てられる。


1477年「ナンシーの戦い」で父が戦死。


ブルゴーニュ公国に内乱が勃発。


フランスの侵攻により


「ブルゴーニュ公国」と「ブルゴーニュ伯領」を失い


ネーデルラント・フランドルでも同時に貴族が


この機会に権利権利の拡大を画策し始めて


フランス王ルイ11世と組んだ


貴族や大商人たちが都市の自治と承認と


フランス王太子シャルル(のちのシャルル8世)との結婚を迫ったが


マリーは・・・これを拒否して孤立。


幽閉同然の暮らしに追いやられた。


1447年2月、文書に署名させられて


ブルゴーニュ領ネーデルラントに大幅な特権を与えた。


義母マグリットの助言を得たマリーは、


父の定めた婚約者マクシミリアンに結婚をお願いして


1477年8月19日、ゲントの聖バボ教会で挙式した。


マリーは、父の勧めで政略結婚をしましたが


マクシミリアンとの夫婦仲は良好で


連れ立って狩に出掛けたり幸せな生活を送るも


1482年3月、第4子を妊娠中に落馬事故で流産し


大怪我を負い、それが原因で


3月27日、3週間後に死去する。


彼女は、遺言に子どもを相続人に指定し


夫マクシミリアンを後見人として任命し


家臣に夫マクシミリアンに仕えるように言い残すが


マリーの意思は守られず『ブルゴーニュ公国』は、


再び内乱の渦に巻き込まれ、ヴァロワ=ブルゴーニュ家


「ブルゴーニュ公国」最後の君主となった。


 遺体は、ブルージュの『聖母教会』に屈葬され


のちに「マクシミリアン」が崩御した際に


その心臓もマリーのお墓に屈葬された。


ウィキペディア様に記されてありますが〜


現地には、「心臓」文言はありませんです。


それより足元の2匹の犬が気になるので


・・・つづく・・・

聖母教会にぽち にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ ​​​​ ​​












お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2020.03.21 00:10:08
コメント(0) | コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ

利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: