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美術のクイズが多く出題されるようになった今日この頃、みた事あるけど答えられないさてさて【ヒント】踊り子の画家と言われました第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=現在、どこの美術館にありますか?第四問=この画家は、何派の画家ですか?第五問=画家は、どこで描きましたか?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ドガ第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ダンスのレッスン第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】パリ・オルセー美術館第四問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派第五問=画家は、どこで描きましたか?【解答】パリ・オペラ座の稽古場Classe de danse『ダンスのレッスン』1874年油彩 カンヴァス 73.0cmx92.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。(同じ構図の連作がニューヨーク・メトロポリタン美術館にもあります)他の印象派の画家と違いシャルル・グレーの画塾に通わなかったドガが、のちの「印象派」の画家たちと知り合ったのは、おそらく、パリの「カフェ・ゲルボワ」においてだった。同時代の都市を描くという点で、ドガは他の若い画家たちと関心を共有した。第一問=この絵は、誰が描きましたか?ドガ・・・とは?エドガー・ドガEdgar Degasイレール・ジェルマン・エドガー(エドガール)・ド・ガHilaine Germain Edgar de Gas1834年7月19日-1917年9月27日(83歳没)油彩のみならず、パステル、版画、彫刻、写真と幅広くチャレンジした。【プロフィール】ドガの性格=「この人の趣味は人と口論することだ」 と画商:デュラン=リュエルに言われました。家族構成=生涯独身。よく使うモティーフ=都市の人びとを描くのが得意。 特にバレエが好きで「踊り子の画家」とも呼ばれた。よく行く場所=パリのカフェ、劇場やその舞台裏、 競馬場を多く描きました。交流のあった文化人=詩人:シャルル・ボードレール 詩人:ステファヌ・マラルメ 作家:エミール・ゾラ尊敬する芸術家=アングルが好きでした。 イタリアの巨匠たち ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、 ミケランジェロ、ティツィアーノ、 フラ・アンジェリコ、ボッテチェリ。【ドガの年譜】1834年7月19日(0歳)銀行家の長男として、 パリに生まれる。1856年(22歳)3年間イタリアに滞在し、 ルネサンスの巨匠たちの作品を学ぶ。1862年(28歳)マネと知り合う。1868年(34歳)カフェ・ゲルボワに通う。1870年(36歳)普仏戦争勃発。志願兵として入隊、 銃撃の訓練で右目の視力がほとんどないことを知る。1874年(40歳)父が急死し、多額の債務を抱えるようになる。1888年(54歳)写真家:マイブリッジから写真を学ぶ。1892年(58歳)デュラン=リュエル画廊で初めての個展開催。1917年9月27日(83歳)パリにて脳出血のため死去。【代表作】エトワール「踊り子の画家」として知られるようになるドガは、バレエを主題にとりいれた最初の作品『バレエ「泉」のなかのフィオークル嬢』1866年制作。その後、バレエそのものに焦点をあてるようになり、描かれる踊り子たちは、劇場でスポットライトを浴びているだけではなく、稽古場での日常を見せるようになる。踊り子たちが、練習や授業を受ける様子は、一瞬にして過ぎ去る日常風景を描くドガにとって、重要な画題であった。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.29
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この画家は、グループにとって重要な人物でありますが、早くに亡くなりました【ヒント】グループの集まりみたですね。第一問=この絵は、誰が描いたか?第二問=この絵は、誰のアトリエを描いたか?第三問=この画家は、何派の画家ですか?第四問=この絵の中に描かれたと思われる人物とは?第五問=このアトリエに飾ってある絵画とは?第六問=この画家は、28歳で亡くなります。 その原因とは?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】バジール第二問=この絵は、誰のアトリエを描いたか?【解答】ラ・コンダミーヌ通りのバジールのアトリエ第三問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派第四問=この絵の中に描かれたと思われる人物とは?【解答】バジール、マネ、アストリック、など第五問=このアトリエに飾ってある絵画とは?【解答】バジルの絵画(ルノワール、モネの絵画)第六問=この画家は、28歳で亡くなります。 その原因とは?【解答】戦死「バジール」についてもっと詳しく・・・ジャン・フレデリック・バジールJean Frédéric Bazille1841年12月6日〜1870年11月28日(28歳)フランスの「印象派」の画家。【プロフィール】性格=男同士の友情に厚いところがありました。家族関係=28歳で死んでしまいましたので、 結婚はしませんでした。子どももおりません。よく使うモティーフ=若い頃は風景を多く描く。 しだいに人物を描くようになりました。よく行く場所=フォンテーヌブローの森。 パリ市内や故郷の南フランスも好きでした。交流のあった文化人=親友は音楽家:エドモンド=メール 作家:エミール・ゾラは、好意的な批評を書きました。尊敬する芸術家=エドゥアール・マネ【ざっくり年譜】1841年12月6日(0歳)モンペリエの裕福な ぶどう栽培業者の家に生まれる。1854年(13歳)モンペリエで医学を学ぶ。1862年(21歳)医学の勉強をするためにパリへ出るが グレールの画塾に通う。1863年(22歳)モネとともにフォンテーヌブローの森へ行き 風景画を描く。1864年(23歳)仲間とともに、グレールの画塾を退学。1865年(24歳)アトリエをモネと共有する。1866年(25歳)アトリエをルノワールと共有する。1870年(28歳)志願兵として普仏戦争に従事、 11月28日、オルレアン近郊で戦死。L'ATELIER de Bazille(1870)『ラ・コンダミーヌ通りのバジールのアトリエ』1870年(明治3年)油彩 カンヴァス 98.0cmx128.5cmパリ「オルセー美術館」所蔵。医学を学ぶためにパリに出てきたものの、バジールは、画家になる夢を捨てることができなかった。そのため、両親の期待に背いてスイス人画家、シャルル・グレールの画塾(アトリエ)に入門、画家の道を目指した。この画塾でのモネや、ルノワール、シスレーとの出会いは、彼の運命を変えた。バジールは、同世代の友人たちとともに、フォンテーヌブローの森や、セーヌ河畔、オンフルールや、サン・シメオンに行き、戸外で光を描きとめる試みを行った。両親からの仕送りが、途切れることのなかったバジールは、貧困に苦しむ友人たちのために救いの手をさしのべた。作品を購入するという経済的な支援に加えて、モネやルノワールとアトリエ(画室)を共有している。パリ「オルセー美術館」この絵の解説L'ATELIER de Bazille(1870)1868年からパリで、ルノワールが同居し、バジールが借りていた4番目のアトリエを描いた。左端に座っているのが→ルノワール、またはシスレー階段途中に立つ→モネ、またはゾラ中央で立つ3人の男は、左→批評家:アストリック中央の帽子の→マネ背が高い→本人:バジール右端ピアノ前に座る→音楽家:メートルバジールが持っている絵は『村の眺め』批評家:アストリックと尊敬する:マネに作品を見てもらっている。飾ってある絵は・・・バジールの作品左上→『投網を打つ漁師』ソファーの後ろ(制作中)→『身繕い』右上→『メリックのテラス』他、ルノワールやモネの作品もかかっている。「印象派」好きには、興味深い作品である。1867年のサロンでは、自分の作品も含め、仲間達の作品多数が落選の憂き目にあった。バジールは・・・「落選者展」の開催を要求すると同時に、翌年にグループ展の開催を検討した。この構想は、資金難のために実現することはなかったが、のちに「印象派展」として結実することになる。1868年頃から、バジールの作風は変わりはじめる。風景画よりも複数の人物を組み合わせた寓話的・物語的な作品を多く手がけるようになる。サロンのために大作を製作していたものの、1870年8月、父親の反対を振り切り、「普仏戦争」に志願兵として従事する。その4ヶ月後、フランス中部のオルレアン近郊で戦死した。享年28歳。バジールが戦死していなければ、印象派の歴史も大きく異なっていたかもしれない。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見かたより)(写真撮影:出題/ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.10.28
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少し難しいでしょうか?いやいや〜ぜひ覚えて欲しい大好きな画家なのです【ヒント】このグループのお父さん的な画家です。第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=現在、どこの美術館にありますか?第四問=この画家が好んだモティーフとは?第五問=この画家が最初に影響を受けた画家とは?第六問=この画家は、何派の画家ですか?第七問=そのグループ展は、何と呼ばれましたか?第八問=この画家は、新しい手法にも挑戦します。 それは、どんな技法ですか?第九問=この画家は、戸外での制作を医者に禁じられます。 その病とは?その対策とは?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ピサロ第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ポントワーズのコート・サン・ドニ (赤い屋根)第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】オルセー美術館第四問=この画家が好んだモティーフとは?【解答】風景画(田園風景・そこで働く農民)第五問=この画家が最初に影響を受けた画家とは?【解答】バルビゾン派の画家(コローやドービニー)第六問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派(一時、新印象派)第七問=そのグループ展は、何と呼ばれましたか?【解答】印象派展第八問=この画家は、新しい手法にも挑戦します。 それは、どんな技法ですか?【解答】点描画法第九問=この画家は、戸外での制作を医者に禁じられます。 その病とは?その対策とは?【解答】目の病気(屋内で描く)ピサロについて、もっと詳しく語りたい第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】カミーユ・ピサロ Camille Pissarro1830年7月10日〜1903年11月13日(73歳没)19世紀フランスの印象派・新印象派の画家。【プロフィール】1830年(0歳)雑貨商を営んでいたスペイン系ユダヤ人の父のもと、西インド諸島のサント・トーマス島で生まれる。1855年(25歳)画家になるためにパリに出る。1859年(29歳)アカデミー・シュイスで、モネ、ギヨマン、セザンヌと知り合う。1866年(36歳)ポントワーズを初めて訪れる。1872年(42歳)画商:デュラン=リュエルと知り合う。1877年(47歳)ポントワーズのコート・サン・ドニを描く。1884年(54歳)エラニー・シュル・エプトに引っ越す。 以後、エラニーはツイの棲家となる。1891年(61歳)眼病に苦しめられる。 7月、手術を行うが、しばらく戸外での制作が禁じられる。1903年(73歳)9月、パリの自宅の階段で転倒、 病床についたのち、11月13日に死去。【おすすめの作品】『白い霜』1873年農村のとても寒い早朝ですね〜ピサロの性格=おだやかなまとめ役で、 10歳ほど年下の仲間たちから慕われました。ピサロの家族=ブドウ農家の娘で ピサロ家の使用人ジュリーを妻にしましたが、 結婚したのは、彼女が3人目の子どもを身籠った時でした。 最終的には、五男三女に恵まれました。『ポントワーズのコート・サン・ドニ(赤い屋根)』1877年(明治10年)油彩 カンヴァス 54.5cmx65.5cmパリ「オルセー美術館」所蔵。第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ポントワーズのコート・サン・ドニ 赤い屋根ポントワーズという地名は・・・「オワーズ川にかかる橋」という意味。オワーズ川とセーヌ川が合流する地点よりわずかにオワーズ川上流に位置する農村で、昔からの交易地だった。19世紀になって鉄道が敷設されたことで、オワーズ川沿いに工場がいくつかできたが、行楽地として賑わうこともなく、田園風景が広がっていた。1860年代初めまでピサロは・・・ポントワーズの「エルミタージュ」と呼ばれる丘の裏側の集落に住み、農村風景を描いた。この作品に描かれているのは・・・春も近づいた冬の1日。青空が広がっている。景色を遮るように前景に樹木を配する手法は、この頃のピサロが得意とした構図である。柔らかな光に包まれた景色を、細かなタッチであらわしている。木立の間に見える赤い屋根の家は、18世紀に建てられたもの、この赤色は作品全体にも繰り返され、明るい画面を構成している。人びとの暮らしと自然が切り離されることなく、一体化している。第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】パリ・オルセー美術館Mussé d' Orsayフランス・パリにある19世紀美術専門の美術館である。「印象派」の画家の作品が多く収蔵されている。第四問=この画家が好んだモティーフとは?【解答】風景画 田園風景・そこで働く農民モネやルノワールなど、若い友人たちがパリ近郊でのブルジョワの生活を好んだ一方、ポントワーズに移り住んだピサロの関心は、田園風景やそこで働く農民へと向かった。その理由は、第五問=この画家が最初に影響を受けた画家とは?【解答】バルビゾン派の画家 コローやドービニーピサロは、1855年にパリで開かれた万国博覧会で、当時の代表的な画家たちの作品を目にした。そのときもっとも興味を持ったのは、おだやかな田園風景を描いたコローの作品だった。コローやドービニーなど、「バルビゾン派」の風景画に影響されたピサロは、パリ近郊で制作することを好んだ。第六問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派一時、新印象派「印象派」・・・とは?Impressionists「印象派」は・・・1860年代半ばにフランスで始まった芸術運動。描くものの輪郭や色彩ではなく、描く対象の周りの光や空気感をとらえようとした手法。風景や当時の生活を描くために戸外に出て制作活動をした。「新印象派」・・・とは?neo-impressionnismジョルジュ・スーラが確立した芸術様式。直感的だった印象派の色彩理論を化学的に推進し「点描画法」による鮮明な色彩表現や、印象派が失敗したフォルム画面の造形的秩序の回復を目指した1880年代から20世紀初頭にかけての絵画の位置傾向。第七問=そのグループ展は、何と呼ばれましたか?【解答】印象派展人望のあるピサロは、若い画家たちのまとめ役になり、ポントワーズのパン屋組合の規約を手本として、民主的な組織をつくった。その組織が開催した展覧会が、「印象派展」と呼ばれるグループ展である。第八問=この画家は、新しい手法にも挑戦します。 それは、どんな技法ですか?【解答】点描画法ピサロは・・・モネのような大胆な試みをおこなっておらず、手法を柔軟に受け入れていた。それは、より若い世代の画家に関しても同じだった。スーラや、シニャックを印象派展に参加させ、彼らの用いる「点描画法」を自らの作品に取り入れ、農村風景を描いた。彼の描き方はおだやかであるものの、一方で、労働者を中心に広まった無政府主義に共鳴し、「ルーヴル美術館は燃えてしまったほうがよい」と主張する反体制的な立場をとった。第九問=この画家は、戸外での制作を医者に禁じられます。 その病とは?その対策とは?【解答】目の病気 戸外ではなくホテル内などから描くピサロは、あまりにも時間がかかる「点描画法」を捨てます。(評判がイマイチで売れなかった)自然から受けた感覚を自由に記録することができないからと、細かずぎる作業で目を痛めたからだとも思われる。1890年代から、ピサロの関心は都市へと向かう!目を患っていたため、紫外線の強い戸外での制作を控える必要があったためである。そこで彼は、部屋の窓からの眺めをカンヴァスに描くようになった。また、同じ景色を異なる光のもとで描くというモネのような「連作」の考えを取り入れた。(参考文献:東京美術/印象派絵画の見方より)(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.27
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これはただの風景画ではありませんよ〜私が大好きな画家なのですがご存じですか【ヒント】風景画一筋の尊敬する画家です。第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=この絵は現在、どこの美術館にありますか?第四問=この風景画は、何を描いていますか?第五問=この画家は、何派の画家ですか?第六問=この絵の素晴らしさは、どこにありますか?第七問=この画家が最初に描くのは、どの部分ですか?第八問=同じテーマで何枚描きましたか?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】シスレー第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ポール=マルリの洪水と小舟第三問=この絵は現在、どこの美術館にありますか?【解答】オルセー美術館第四問=この風景画は、何を描いていますか?【解答】洪水第五問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派第六問=この絵の素晴らしさは、どこにありますか?【解答】空と水の光の描写。第七問=この画家が最初に描くのは、どの部分ですか?【解答】空第八問=同じテーマで何枚描きましたか?【解答】6枚もっと詳しく・・・Barque pendant inondation á Port-Marly『ポール=マルリの洪水と小舟』1876年油彩 カンヴァス 50.0cmx61cmパリ「オルセー美術館」所蔵。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】アルフレッド・シスレーAlfred Sisley(左)ルノワールが描いたシスレー1839年10月30日〜1899年1月29日(60歳没)パリ生まれパリ育ちのイギリス人画家。最初から最後まで「印象派」である。いつもニコニコ穏やかな性格。ひたすら風景画を追求する。けっこうな女好き。印象派の成功を見ずに癌で亡くなる。ルノワールと特に仲良し。【プロフィール】1839年10月30日、パリに生まれる。実業家の父と上流階級出身の母の間に生まれる。1857年(18歳)約3年間ロンドンで商業の勉強。1860年(21歳)グレール画塾に入塾。 モネ、ルノワール、バジールと出会う。1865年(26歳)フォンテーヌブローでルノワールらと戸外制作。1866年(27歳)サロンに2点入選。 花屋の店員マリー・ルイーズと恋に落ちる。1867年(28歳)マリー・ルイーズとの間に長男ピエール誕生。 父親からの仕送りが止められる。1869年(30歳)長女ジャンヌ誕生。1870年(31歳)シスレーの父、普仏戦争で財産を全て失う。1874年(35歳)第一回「印象派展」参加。1881年(42歳)「ラ・ヴィ・モデルヌ」で個展開催。1883年(44歳)デュラン=リュエル画廊で個展開催。1888年(49歳)フランス国家、シスレーの絵を一点買い上げる。1889年(50歳)デュラン=リュエル、ニューヨークでシスレー展を行う。1890年(51歳)国民美術協会のメンバーに選ばれる。1897年(58歳)大回顧展、マリー・ルイーズと結婚。1898年(59歳)妻マリー・ルイーズ死去。1899年(60歳)妻を献身的に看取ってから3ヶ月後、 長年患ってきた咽頭癌のため死去。【代表作】『ポール・マルリの洪水の中の小舟』1876年『ハンプトンコートの橋』『サン・マルタン川』『ルヴシェンヌの雪』第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】ポール=マルリの洪水と小舟1876年にフランスに大雨が降り、セーヌ川の中流で氾濫し、町が浸水する災害が起こりました。シスレーは、丁度そのころ、ポール=マルリーの町に住んでいたのでその災害の様子を何枚も油彩で描きました。建物の壁には、「ア・サン・ニコラ」とあり、これはカーニュ・ル・フランの所有する葡萄酒商の店。シスレーは、この建物を異なった時間に異なった角度から描いている。第三問=この絵は現在、どこの美術館にありますか?【解答】パリ・オルセー美術館Mussé d' Orsayフランス・パリにある19世紀美術専門の美術館である。「印象派」の画家の作品が多く収蔵されている。第四問=この風景画は、何を描いていますか?【解答】洪水自然災害を風景として描きました。春の雪解けで増水した上流の水が、セーヌ川に一気に流れ込み、洪水を引き起こしたが、すでに洪水は終わり、さざ波の立つ川は落ち着きを取り戻している。第五問=この画家は、何派の画家ですか?【解答】印象派Impressionists「印象派」は・・・1860年代半ばにフランスで始まった芸術運動。描くものの輪郭や色彩ではなく、描く対象の周りの光や空気感をとらえようとした手法である。印象派の活動は最初、4人の画家(モネ、ルノワール、シスレー、バジール)が、同じアカデミーで出会ったことで始まる。当時の古典主義の絵画よりも、風景や当時の生活を描くために戸外に出て制作活動をした。第六問=この絵の素晴らしさは、どこにありますか?【解答】空と水の光の描写。この絵の素晴らしさは、大半を占める「まだ晴れやらぬ」空と、町中を覆った水の描写です。単なる空と水でなく、その複雑な光を見事に表出しています。あたり一面の洪水。ひいてゆく水面、舟をこぎ出す人、生じる波紋など、さまざまな水の表現が詰まっています。第七問=この画家が最初に描くのは、どの部分ですか?【解答】空シスレーは、彼自身、いつでも「空」から描き出すと言っている程、空を愛した画家でした。この絵でも美しい色使いで空を描いています。第八問=同じテーマで何枚描きましたか?【解答】6枚ポール・マルリーは、パリ近郊を流れるセーヌ川の左岸に位置する。洪水の情景は、すでに1871年から1872年にかけて4点ほど製作されている。1876年3月の洪水は・・・6点の作品に描かれており、この作品は、最初の1点で、もっとも大きなものである。セーヌ川を小舟で移動する人の姿が見える。自然の脅威に襲われながらも、人びとの淡々とした日常が営まれている。おそらくシスレー自身も、この絵を描くために舟に乗るか、足を水に浸したのだろう。第2回「印象派展」に出品されたこの作品は、生前180フランという安値で売られた。(写真撮影/出題:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.10.26
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10月23日に環境団体に襲撃された絵画の連作の最初の作品です〜絵画の襲撃に怒りながらのクイズ【ヒント】刈り入れが済んだあとの風景第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=この画家は、何派に属しますか?第四問=この画家は、この作品をどこで描きましたか?第五問=この画家は、このテーマで何点描きましたか?第六問=どうして同じテーマで、たくさん描いたのですか?第七問=この絵は、XX派の特徴をよく示しています。 XX派の特徴とは?答え合わせ・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】モネ第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】積みわら(夏の終わり、朝の光)第三問=この画家は、何派に属しますか?【解答】印象派第四問=この画家は、この作品をどこで描きましたか?【解答】ジヴェルニー第五問=この画家は、同じテーマで何点描きましたか?【解答】25点第六問=どうして同じテーマで、たくさん描いたのですか?【解答】異なる時間・季節・天候の元での光を描いた。第七問=この絵は、XX派の特徴をよく示しています。 XX派の特徴とは?【解答】自然を見える通りに描いた。MeulesWheatststacks End Summer『積みわら、夏の終わり、朝の光』1891年カンヴァス 油彩 60.5cmx100.8cmパリ「オルセー美術館」所蔵。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】クロード・モネクロード・モネ Claude Monet1840年11月14日-1926年12月5日(86歳没)フランスの印象派の画家。第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】積みわら、夏の終わり、朝の光『積みわら』Meulesは・・・収穫後の畑に積まれた干草の山を描いたの絵画。積みわらは、モネの作品の中でも最も重要な絵画。積みわらは、モネの最初の連作である。第三問=この画家は、何派に属しますか?【解答】印象派印象主義=19世紀後半のフランスに発した絵画を中心とした芸術運動である。パリ郊外・ジヴェルニー「モネの家」第四問=この画家は、この作品をどこで描きましたか?【解答】ジヴェルニーフランス・ジヴェルニー「モネの自宅」のすぐ近く。モネは、ここにカンヴァスを並べて描きました第五問=この画家は、同じテーマで何点描きましたか?【解答】25点1890年の夏から、翌年の春にかけて描かれた25点の絵画群を指す。1890年『積みわら、夏のおわり、朝の効果』オルセー美術館1891年〜1891年『積みわら、午後』オーストラリア国立美術館1891年『積みわら、朝の雪の効果』ボストン美術館1891年『つみわら、雪と光の効果』ニューヨーク・メトロポリタン美術館1891年『つみわら、雪の効果、午前中』ポール・ゲティ美術館1891年『つみわら、雪の効果』スコットランド国立美術館第六問=どうして同じテーマで、たくさん描いたのですか?【解答】異なる時間・季節・天候の元での光を描いた。自然は、時々刻々と変化します。厳密に言うと、30分経てば自然の印象は変わります。影の方向や長さが変わり、空気の感触さえ違ってきます。だから、モネは、30分ごとにカンヴァスを取り替えて描いたとも言われます。同じ場所でも時間によって、見え方が違うからです。連作が生まれるのは、この辺りにも理由があるようです。第七問=この絵は、XX派の特徴をよく示しています。 XX派の特徴とは?【解答】自然を見える通りに描いた。『印象派』・・・特徴とは? Inpressionists印象派は・・・1860年半ばにフランスで始まった芸術運動。描くものの輪郭や色ではなく、描く対象の周りの光や空気感を捉えようとした手法。印象主義とも呼ばれる。印象派の活動は4人の画家クロード・モネピエール=オーギュスト・ルノワールアルフレッド・シスレーフレデリック・バジールが同じアカデミーで出会ったことで始まりました。サロンの黒い絵に反発し、もっと明るくて、影の中にも色があると考えた印象派の画家たちは、自然に見える通りに描きました。「印象派」と言う呼び名は・・・港の早朝を描いたモネの作品『印象・日の出』がもとになっています。当時は、サロンや批評家の間では酷評されますが、一般の人々からは好印象を得て、次第に銀行家や医師などを中心に人気となります。見える通りに描くということは、自然を瞬間的に捉える必要があります。それには、戸外の現場で制作するのが一番!その手助けとなったのが、「チューブ絵具」が発明されたこと。画家は、戸外で描くことが容易になったのです。しかし、現場で描いてみると・・・自然というモデルは止まってくれません!ですから、素早く描かねばならないのでそこで、「タッチで描く」という技法が現れます。それまでの絵画と比べて印象派の絵は、素早く描くという必要から生まれたものです。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影/出題/解説:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.25
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いよいよ印象派に関するクイズを今日から何点か出題してみましょう〜まず特に印象的な作品からです【ヒント】これは不思議なピクニック風景 第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=現在、どこの美術館にありますか?第四問=この絵の大きさは、どのくらいですか?第五問=この絵は、ある展覧会に出品され落選しました。 何という展覧会ですか?第六問=この絵が落選した後、展示された展覧会は何ですか?第七問=この絵は、スキャンダルになりました。 どんな点が問題になりましたか?第八問=この絵が落選した後、数人の画家たちが集まり、 自分たちで展覧会をやろうと誘いました。 この画家は、その誘いにどう答えましたか?むむむ・・・ちょっと難しいかしら【答え】は・・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】マネ第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】草上の昼食第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】オルセー美術館第四問=この絵の大きさは、どのくらいですか?【解答】約2メートル50センチ第五問=この絵は、ある展覧会に出品され落選しました。 何という展覧会ですか?【解答】サロン第六問=この絵が落選した後、展示された展覧会は何ですか?【解答】落選展第七問=この絵は、スキャンダルになりました。 どんな点が問題になりましたか?【解答】手前の女性が裸であること。第八問=この絵が落選した後、数人の画家たちが集まり、 自分たちで展覧会をやろうと誘いました。 この画家は、その誘いにどう答えましたか?【解答】断った。さらに詳しく知りたいと思いませんかLe Déjeuner sur l'herbeThe Luncheon on the Grass『草上の昼食』1862年〜1863年頃油彩 カンヴァス 208.0cmx264.5cmパリ「オルセー美術館」所蔵。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】エドゥアール・マネエドゥアール・マネÉdouard Manet1832年1月23日〜1883年4月30日(51歳没)19世紀フランスの画家・版画家。印象派の先駆者(指導者)【代表作】『草上の昼食』『オランピア』第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】草上の昼食そうじょうのちゅうしょく1862年から、1863年にエドゥアール・マネによって描かれた絵画である。マネは・・・題名を『水浴』としたが、マネ自身によって1867年に『草上の昼食』に改題。第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】パリ・オルセー美術館Mussé d' Orsayフランス・パリにある19世紀美術専門の美術館である。「印象派」の画家の作品が多く収蔵されている。第四問=この絵の大きさは、どのくらいですか?【解答】約2メートル50センチ(208.0cmx264.5cm)印象派の作品の中では、大きめで圧倒されます。マネは、厳密には印象派に含まれていません。表現は印象派の特徴と同じで、筆のタッチが残っている描き方をしていますが、印象派展に出されていないことと、黒を使用している点が、印象派と違うと見るのです。ただしマネは、黒を明暗法として使うというより、黒そのものの魅力を表した画家です。第五問=この絵は、ある展覧会に出品され落選しました。 何という展覧会ですか?【解答】サロン(官展)サロン・ド・パリ画家は以前は、先生に付き、その先生に認められることで一人前になったのに対し、この当時はサロンに入選することで画家として認められるようになりました。そしてサロンでは、新古典主義以降の傾向として、黒を使う技法が多かったのです。当時のサロンの絵は、自然の影を描くときに黒を用いました。立体感を付けるには、黒を使うというルールがあったのです。だから、黒っぽい絵画がたくさん生まれました。それに対して、印象派の画家たちは、自然はあんなに黒くない!影の中にも色があると言い、サロンの技法の一つである黒に対して反発したのです。そして絵具を出来るだけ混ぜないで、色と色を並べて描く「筆致分割」という描き方を技法の特徴としました。第六問=この絵が落選した後、展示された展覧会は何ですか?【解答】落選展マネの『草上の昼食』は、サロンに落選しました。その後、「落選展」が行われたときに展示されましたが、大きなスキャンダルになりました。落選展でも批評家たちに批判されることになりますが、あまりに展覧会場でこの絵の周囲に人だかりができるので、奥の部屋の上の方に移しましたが、それでもその場に人がたくさん集まったそうです。それほどまでに、衝撃的な作品だったのです。第七問=この絵は、スキャンダルになりました。 どんな点が問題になりましたか?【解答】手前の女性が裸であること。マネの『草上の昼食』は、「落選展」が行われたときに展示され大変なスキャンダルになった原因は、男の人たちが、当時の服装をしっかり身につけているのに、その中でこの女性だけ裸でいるからです。女性の裸を描くことは、神話の女神なら問題はないのですが、現実の女性がこのようにしているように見えるので、とてもみだらな感じがしたのです。第八問=この絵が落選した後、数人の画家たちが集まり、 自分たちで展覧会をやろうと誘いました。 この画家は、その誘いにどう答えましたか?【解答】断った。マネのこの絵が、サロンに落とされたこともきっかけの一つとなり、サロンへ反発する仲間が集まります。そして後に、サロンに対する展覧会を開こうということになります。それが「印象派展」でした。この絵は、印象派誕生のきっかけになった絵画としても有名ですが、マネ当人は、印象派展には加わらず、落とされてもサロンに出品し続けました。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.24
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セクシーです!幻想の世界ですよ〜さて、これは何を描いているのでしょうか【ヒント】晩年、パリで国立美術学校の教授をしました。第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=現在この油彩画は、どこの美術館にありますか?第四問=この画家は、何主義の画家と呼ばれますか?第五問=この画家の得意なモティーフは、何ですか?第六問=この絵画の右に浮いている顔は、誰ですか?第七問=この絵の左側に立つ女性は、誰ですか?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】モロー第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】出現第三問=現在この油彩画は、どこの美術館にありますか?【解答】ギュスターヴ・モロー美術館第四問=この画家は、何主義の画家と呼ばれますか?【解答】象徴主義第五問=この画家の得意なモティーフは、何ですか?【解答】神話や聖書を題材とした空想世界第六問=この絵画の右に浮いている顔は、誰ですか?【解答】洗礼者ヨハネの首第七問=この絵の左側に立つ女性は、誰ですか?【解答】サロメもっと詳しく・・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ギュスターヴ・モロー Gustave Moreau Gustave Moreau1826年4月6日〜1898年4月18日(72歳没)フランス・象徴主義の代表的な画家。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られた。【プロフィール】1826年4月6日、パリで生まれる。父は、建築家。母は、音楽通というインテリの家。1846年、国立美術学校入学。1850年、画家:シャセリオーに師事する。1852年、サロン(官展)初入選。1857年、親の援助でイタリアに私費留学(2年間)1870年、普仏戦争勃発。国民軍に入隊するも 持病のリューマチが悪化して除隊。1874年頃、『出現』を描く。1888年、アカデミー会員に選ばれる。1890年、愛人:アレクサンドリーヌ死去。1892年、国立美術学校の教授となる。1898年4月18日、パリの自宅で死去(72歳)【代表作】『オルフェウス(オルフェウスの首を抱くトラキアの娘)』『オイディプスとスフィンクス』『イアソン』『出現』『ユピテルとセメレ』L'APPARITION 『出現』1874年〜76年頃油彩 カンヴァス 142.0cmx103cmパリ「ギュスターヴ・モロー美術館」所蔵。第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】出現宝石を散りばめたサロメの衣装や、背後の壁の装飾的な描写は、モローが好んだ東方趣味的な表現です。インドやペルシアの細密画などを研究して、描いたようです。モローの作品に登場する女性は、どこか両性具有的な雰囲気をたたえています。一方、男性は、美しく女性的。こんな倒錯的な表現から、モローは同性愛者ではないかとも噂されました。この作品の幻想的な雰囲気を演出しているのが、ヨハネの首から発する円光。これは、モローが浮世絵から着想を得た表現だといわれています。第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】ギュスターヴ・モロー美術館モローは、生前から自宅の美術館化を進め、死後の1903年に、国立では世界初の個人美術館となる「モロー美術館」が誕生。『出現』の周作をはじめ、1万4000点もの作品を、売らずに残していた執念に驚かされます。第四問=この画家は、何主義の画家と呼ばれますか?【解答】象徴主義 Symbolism「象徴主義」・・・とは?1880年代後半にフランスで文学運動から始まった反射実的な美術運動である。宗教・神話主題を幻想性や神秘性に溢れた線や色彩で暗示的・象徴的に表現した。クロワゾニスムに代表されるよう単純化や平面化への試みも同主義の重要な要素のひとつ。フランスにおける「象徴主義」は、総合主義、ポン・タヴェン派、ナビ派などを指していたが、現在では、それ以外の世紀末の画家も含まれることが多い。【象徴主義の画家】ゴーギャン、ボナール、モロー、ルドン、ロートレック、ミュシャ、クリムト、クノップフなど。第五問=この画家の得意なモティーフは、何ですか?【解答】神話や聖書を題材とした空想世界聖書や神話から古典的な主題を選びながらも、独自の解釈で神秘的な作品を描いたモロー、19世紀後半にヨーロッパ各地で流行した、想像力を駆使して幻想的な光景を描く「象徴主義」を代表する画家といわれますが、本人は、どのグループにも属さず、生涯、孤高を貫きました。晩年は、画壇からも遠ざかり、展覧会にも出品せず、現在は、モロー美術館として公開されている屋敷に閉じこもり、限られた顧客のためにだけに作品を描いた。このため、「パリの隠遁者」などとも呼ばれましたが、人間嫌いの偏屈だったわけではないようです。その証拠に、モローは、66歳にしてようやく初就職。国立美術学校の教授に就任し、生徒の自主性を尊重するよき指導者として、マティスやルオーを育てています。第六問=この絵画の右に浮いている顔は、誰ですか?【解答】洗礼者ヨハネの首血を流しながら宙に浮いているのは・・・イエスに洗礼を授けた「洗礼者ヨハネの首」その左のベリーダンスのような女性が、ヘデロ王の後妻:へディアの娘「サロメ」です。第七問=この絵の左側に立つ女性は、誰ですか?【解答】サロメへディアの娘「サロメ」は、見事な舞を王に披露し、褒美として「ヨハネの首」を得るという、新約聖書の物語。昔から多くの画家に描かれてきましたが、モローは、独自の想像力で、踊るサロメの前にヨハネの首の幻影が現れる前代未聞の光景を描き出し、大きな話題を呼びました。(参考文献:幻冬者/知識ゼロからの西洋絵画入門より)(写真撮影/出題:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.10.23
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美術のクイズを楽しんでおります〜今日は、とっても「サービス問題」です【ヒント】オランダの画家第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=題名は、何ですか?第三問=どこの美術館にありますか?第四問=この画家の絵は、光に特徴があります。 どんな光ですか?第五問=この絵には、活き活きさせるために ある工夫が施されています。それは何ですか?第六問=この画家の家で父親が営んでいたものは何ですか?第七問=この画家が描いたターバンを巻いた少女の絵は有名です。 題名は、何ですか?第八問=この女性の職業は、何ですか?第九問=この女性は、どうして牛乳を注いでいるのですか?第十問=この女性が着ている青い衣装の意味とは?第十一問=この画家の作品で、女性とほぼ同じ衣装で 描かれた絵があります。その絵の題名は?第十二問=この絵の背景に消された地図があったか?【ヒント】ここに展示されています。答えです〜第一問=この絵は、誰が描きましたか?【正解】フェルメール第二問=題名は、何ですか?【正解】牛乳を注ぐ女第三問=どこの美術館にありますか?【正解】アムステルダム国立美術館第四問=この画家の絵は、光に特徴があります。 どんな光ですか?【正解】薄ぼんやりとした光第五問=この絵には、活き活きさせるために ある工夫が施されています。それは何ですか?【正解】ポワンティエ小さい白い点をたくさん打っている。第六問=この画家の家で父親が営んでいたものは何ですか?【正解】旅館・居酒屋・画商第七問=この画家が描いたターバンを巻いた少女の絵は有名です。 題名は、何ですか?【正解】真珠の耳飾りの少女第八問=この女性の職業は、何ですか?【正解】メイド(お手伝いさん)第九問=この女性は、どうして牛乳を注いでいるのですか?【正解】残って硬くなったパンを柔らかくする為第十問=この女性が着ている青い衣装の意味とは?【正解】聖母マリアの色第十一問=この画家の作品で、女性とほぼ同じ衣装で 小さく描かれた絵があります。その絵の題名は?【正解】デルフトの眺望第十二問=この絵の背景に消された地図があったか?【正解】地図はあった。Het melkmeisje,c.1957『牛乳を注ぐ女』1657年〜1658年頃油彩 カンヴァス 45.5cmx41.0cmRijsmuseum/The Netherlands,Amsterdamオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。 第一問=この絵は、誰が描きましたか?【正解】フェルメールヨハネス・フェルメールJohannes Vermeer(1632-1675)1632年10月31日?〜1675年12月15日?(43歳) Jan van der Meer van Delftヤン・ファン・メール・ファン・デルフトオランダ(ネーデルラント共和国)の画家。バロック期を代表する画家のひとり。フェルメールは・・・レンブラントと並び、オランダの17世紀を代表する画家である。現存する作品は、32点〜37点とも言われ、希少価値とともに人気を集めている。第二問=題名は、何ですか?【正解】牛乳を注ぐ女(ミルクを注ぐ女)フェルメールの代表作『牛乳を注ぐ女』「アムステルダム国立美術館」にとって宝物。第三問=どこの美術館にありますか?【正解】アムステルダム国立美術館オランダの首都アムステルダム中央駅からトラムに乗って行くと到着です。近くには「ゴッホ美術館」もあるのでぜひ両方訪ねてみたいですね第四問=この画家の絵は、光に特徴があります。 どんな光ですか?【正解】薄ぼんやりとした光顔の左頬や黄色い服の左半身に、強調された暗い影が描かれているのは、フェルメール流の演出である。明るく光が当たる壁との対比によって、女性の存在を画面全体から浮き上がらせる効果を与えている。第五問=この絵には、活き活きさせるために ある工夫が施されています。それは何ですか?【正解】ポワンティエ小さい白い点をたくさん打っている。明るい壁と、女性の左半身との境目には、白く細い線がうっすらと引かれ、さらに立体感を強めている。窓からの光が、テーブルの上のパンに反射して、ゴツゴツして質感まで表現されている。光の反射は、絵を活き活きさせていますが、明るい絵具を使用して、点で描かれており、このテクニックは、「ポワンティエ技法」(点綴方)と呼ばれるフェルメール独特の表現。テーブルの上のパンも同じ技法が使われている。第六問=この画家の家で父親が営んでいたものは何ですか?【正解】旅館・居酒屋・画商1627年頃から、父はデルフトの運河沿いで、酒場兼用の宿屋「空飛ぶ狐亭」を営む。1631年、「聖ルカ組合」に属して画商を営む。1632年、フェルメールデルフトに誕生。父は、絹織物職人を務める傍ら、パブと宿屋を経営。1641年、父がデルフトのマルクト広場に面した住居兼宿屋「メーヘレン」を購入。1652年(20歳)父の死去によりファルメールは、宿屋と画商を引き継ぐ。第七問=この画家が描いたターバンを巻いた少女の絵は有名です。 題名は、何ですか?【正解】真珠の耳飾りの少女『真珠の耳飾りの少女』1665年〜1666年頃油彩 カンヴァス 44.5cmx39.0cmThe Royal Picture Galley Mauritshuis/The Netherlands,Den Haagデン・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵。 第八問=この女性の職業は、何ですか?【正解】メイド(お手伝いさん)ハウスメイド・キッチンメイド牛乳を搾るメイドさんや、台所専用のメイドさんがいましたが兼務して家事一般を行っていたりです。第九問=この女性は、どうして牛乳を注いでいるのですか?【正解】残って硬くなったパンを柔らかくする為当時のオランダでは、硬くなったパンを牛乳で煮て食べた!パンプディングや、パン粥などにリメイクしていた。口の広い土鍋にちぎったパンを入れて、牛乳を注意深く少しつづ注いでいる。鍋の左側にあるピッチャーには、その調理に使うビールが入っていたと考えられる。第十問=この女性が着ている青い衣装の意味とは?【正解】聖母マリアの色聖母マリアが着る「聖なる青」西洋絵画では・・・「青い衣装を着ている女性」は、純潔な女性を意味する!これは、マリアを連想させるため。ヨーロッパでは、色彩にはそれぞれ意味があり、現在でも、たとえば、「青=聖母」「金・銀=キリスト」を思い起こさせる。第十一問=この画家の作品で、女性とほぼ同じ衣装で 小さく描かれた絵があります。その絵の題名は?【正解】デルフトの眺望Gezicht op Delft,1660-61『デルフトの眺望』1660年〜1661年頃油彩 カンヴァス 96.5cmx115.7cmThe Royal Picture Galley Mauritshuis/The Netherlands,Den Haagデン・ハーグ「マウリッツハイス美術館」所蔵 手前の川岸に2人の女性が立っていますその左側白い帽子、黄色いブラウスに青のスカートですよね!牛乳を注ぐ女でしょうか?いやいや・・・Brieflezende vrouw in het blauw.c.1665 せいいのおんな『青衣の女』1665年頃油彩 カンヴァス 46.6cmx39.1cmRijsmuseum/The Netherlands,Amsterdamオランダ「アムステルダム国立美術館」所蔵。 第十二問=この絵の背景に消された地図があったか?【正解】地図はあった。フェルメールの絵画には、たびたび背景に地図が描かれていますよね〜『牛乳を注ぐ女』の背景の壁の部分にフェルメールは、地図を描いていたのですが、なぜか?途中で消してしまっています。牛乳を注ぐ女には、遠く離れた彼氏がいたというストーリーを加えたくなかったのでしょうか?あくまで真面目に家事をこなすマリア様的なイメージですか(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズよりごく一部)(写真撮影/解説:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.22
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これは有名な絵画ですよね!見たことあるのでは・・・ド忘れすること。あるある【ヒント】パリ「ルーヴル美術館」にはありません。第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=現在、どこの美術館にありますか?第四問=この画家が移住した村の名前をとって、 何派の画家と言われますか?第五問=パリから、この村に移住した きっかけは何ですか?第六問=この絵の主題は、何だと言われますか?第七問=この絵を描いた画家は「農民画家」とも言われますが、 普段は畑仕事をしていたというのは本当ですか?第八問=この3人の女性は、何をしているのですか?さぁ〜何問できたかな【正解】は・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【正解】ミレー第二問=この絵の題名は、何ですか?【正解】落ち穂拾い第三問=現在、どこの美術館にありますか?【正解】オルセー美術館第四問=この画家が移住した村の名前をとって、 何派の画家と言われますか?【正解】バルビゾン派第五問=パリから、この村に移住した きっかけは何ですか?【正解】コレラの流行から逃れるため第六問=この絵の主題は、何だと言われますか?【正解】働く農民の尊さ第七問=この絵を描いた画家は「農民画家」とも言われますが、 普段は畑仕事をしていたというのは本当ですか?【正解】嘘!畑仕事はしなかった。第八問=この3人の女性は、何をしているのですか?【正解】収穫した後に残った麦を拾っている。なるほど・・・さらに詳しく第一問=この絵は、誰が描きましたか?【正解】ミレージャン=フランソワ・ミレーJean-François Millet1814年10月4日〜1875年1月20日(60歳没)19世紀のフランスの画家。バルビゾン派の代表的画家のひとり。「農民画家」として知られる。出身校:エコール・デ・ボザール写実主義「バルビゾン派」【代表作】『落ち穂拾い』『種まく人』『晩鐘』第二問=この絵の題名は、何ですか?【正解】落ち穂拾いDes glaneuses おちぼひろい『落ち穂拾い』1857年カンヴァス 油彩 83.5cmx110.0cm パリ「オルセー美術館」所蔵。『落ち穂拾い』は・・・農村の貧しい人々の姿を描いただけでなく『旧約聖書』の「ルツ記」に基づいた宗教的作品。(ミレーの父は、牧師だったので)労働の重苦しさを描きながらも、明るい朝の太陽に照らされた美しい色彩が壮麗に描写されている。第三問=現在、どこの美術館にありますか?【正解】パリ・オルセー美術館(ミレーの古い作品は、ルーヴル美術館にあります)第四問=この画家が移住した村の名前をとって、 何派の画家と言われますか?【正解】バルビゾン派バルビゾン派・・・とは? École de Barbizon 1830年〜1870年頃にかけて、フランスで発生した絵画の一派である。フランスのバルビゾン村や、その周辺に画家が滞在や居住し、自然主義的な風景画や、農民画を写実的に描いた。1830年派とも呼ばれる。【主なバルビゾン派の画家】コロー、ミレー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、ディアズ、デュプレ、ドービニーの7人が中心。「バルビゾン七星」と呼ばれる。第五問=パリから、この村に移住した きっかけは何ですか?【正解】コレラの流行から逃れるため1849年1月か、2月、第3子で長男:フランソワ誕生。6月に、パリでコレラが大流行上下水道の不備や不潔な安宿のため、貧困地区を中心に2万人近くの死者が出た。パリで政治暴動が起きて武力鎮圧され、左派の議員が一掃され、ミレーは、政治的支援者を失い、当時芸術家たちの集まっていたバルビゾン村に疎開した。第六問=この絵の主題は、何だと言われますか?【正解】働く農民の尊さ『落ち穂拾い』は、フォンテーヌブローの森のはずれにある農場が描かれている。1857年、官展(サロン)に出品するが、落ち穂拾いという情景の画題は、保守的な批評家から、題材が卑しく貧困を誇張しているといった非難を浴び、「下層民の運命の三女神」と揶揄されたが、1848年、革命の影響を受けて台頭してきた革命的な批評家からは、逆に権力への闘いを深読みされて評価されてしまうが・・・素直に、豊かな収穫風景と働く農民の労働の尊さを描いている。第七問=この絵を描いた画家は「農民画家」とも言われますが、 普段は畑仕事をしていたというのは本当ですか?【正解】嘘!畑仕事はしなかった。「農民画家」として有名なミレーは、ノルマンディー地方のグリュシー地区の農家の長男として生まれるが、母は、領主の家系で、父は、神父科学者、農学者を輩出した家系であった。ミレーは、7歳になる前に学校へ、12歳頃、ラテン語を学び、18歳の頃、画塾に入る。1837年から、パリ、エコール・デ・ボザールで学ぶ。パリでコレラが流行したのでパリから南に50kmくらいのところにあるバルビゾン村に住み、働く農民や田園風景を描いたが、畑仕事はしませんでした。第八問=この3人の女性は、何をしているのですか?【正解】収穫した後に残った麦の穂を拾っている。刈り入れが終わった後の畑に残った麦の穂を拾い集めている。3人の貧しい農婦の左:2人は、正面を向いて腰をかがめ落ち穂を拾い、右:1人は、背を向けて、手には落穂を持ち、やや腰を曲げている。背景には、穀物がうず高く積まれ、豊かな地主が馬に乗って監督するもとでにぎやかな収穫風景と対比して描かれている。その際に集めきれなかった落穂が残される。これは、畑の持ち主が落穂を残さず回収することをぜず『旧約聖書』の「レピ記」の律法に従い、わざわざ残していたのです。貧しい人々の命をつなぐための権利として麦の穂拾いは、認められていました。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影/出題:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.20
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クイズのヒント「フランス」いや〜知っていますよねめっちゃ〜有名な絵画で、アニメにミュージカル・映画にもなりましたね第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=題名は、何ですか?第三問=この絵は、現在どこの美術館にありますか?第四問=この絵の大きさは、横幅何センチですか?第五問=この画家は、何主義の画家と言われますか?第六問=この主義は、その前に主流だった主義と比べて どのように違いますか?第七問=同じ主義のフランス人画家で有名な人は、 誰ですか?第八問=この絵は、実際の出来事がテーマになっています。 何ですか?第九問=この絵をテーマとしたミュージカルとは?答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ドラクロワ第二問=題名は、何ですか?【解答】民衆を導く自由の女神第三問=この絵は、現在どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館第四問=この絵の大きさは、横幅何センチですか?【解答】325cm第五問=この画家は、何主義の画家と言われますか?【解答】ロマン主義第六問=この主義は、その前に主流だった主義と比べて どのように違いますか?【解答】テーマと表現がドラマチック第七問=同じ主義のフランス人画家で有名な人は、 誰ですか?【解答】ジェリコー第八問=この絵は、実際の出来事がテーマになっています。 何ですか?【解答】7月革命第九問=この絵をテーマとしたミュージカルとは?【解答】レ・ミゼラブルふふふっ。何問できたかしら第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ドラクロワウジェーヌ・ドラクロワEugéne Delacroixフェルディナン・ヴィクロール・ウジェーヌ・ドラクロワFerdinand Victor Eugéne Delacroix1798年4月26日〜1863年8月13日(65歳没)19世紀フランスのロマン主義を代表する画家。実際の出来事のようなドラマチックな題材で描いた。【代表作】『民衆を導く自由の女神』『キオス島の虐殺』『サルダナパールの死』(ドラクロワのお宅訪問)第二問=題名は、何ですか?【解答】民衆を導く自由の女神La Libert guidanté le peuple『民衆を導く自由の女神』1830年(7月28日ー民衆を導く自由の女神)カンヴァス 油彩 259.0cmx325.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。第三問=この絵は、現在どこの美術館にありますか?【解答】パリ「ルーヴル美術館」ドゥノン=フランス絵画「ロマン主義」のコーナーにあります。パリ「ルーヴル美術館」では他に、ドラマチックなドラクロワの作品を多くみれます『サルダナパールの死』『ダンテの小舟』『キオス島の虐殺』『アルジェの女』『墓場の少女』『フレデリック・ショパンの肖像』左『十字軍のコンスタンティノーブルへの入城』第四問=この絵の大きさは、横幅何センチですか?【解答】縦:259.0cmx横:325.0cm第五問=この画家は、何主義の画家と言われますか?【解答】ロマン主義ロマン主義・・・とは?Romanticism1780年〜1830年頃、ヨーロッパに興った芸術上の思潮。古典主義に反抗し、感情・個性・自由などを尊重、自由との一体感・神秘的な体験や無限なものへの憧れを表現した。【文学】シューゲル兄弟、ホフマン、ワーズワース、 バイロン、ラマルティーヌ、ヴィクトル・ユーゴ【絵画】ジェリコー、ドラクロワ【音楽】ジューベルト、シューマン、フレデリック・ショパン第六問=この主義は、その前に主流だった主義と比べて どのように違いますか?【解答】テーマと表現がドラマチック18世紀後半に、「ロココ主義」の軽さや、過剰な装飾性を否定し、より重厚なローマやギリシヤ時代の芸術を規範として「新古典主義」が誕生した。その後、形式や主題、写実性を重んじる「新古典主義」に対して、各々の画家が描きたいものを描く、自由を求めたのが「ロマン主義」です。それぞれの画家が、自身の理想を追い求めているので、作品の傾向にそれほど共通性がないのもこの時代の作品の特徴です。第七問=同じ主義のフランス人が画家で有名な人は、 誰ですか?【解答】テオドール・ジェリコージェリコー・・・とは?同時代に起きた生々しい事件を題材にしたドラマティックな絵画を描いた。【代表作】メデュース号の筏(ルーヴル美術館にドラクロワと同じコーナーに展示)テオドール・ジェリコーThéodore Géricault1791年9月26日〜1824年1月26日(32歳没)19世紀前半に活動したフランスの画家。ジェリコーは、古典主義を基本にしたが、神話画や宗教画をこのまず、現実世界の描写に深い関心を示した。ロマン派画家の先駆者である。ジェルコーは、ドラクロワに影響を与えた第八問=この絵は、実際の出来事がテーマになっています。 何ですか?【解答】7月革命7月革命・・・とは?1830年7月27日〜29日(3日間)フランスに起こった市民革命。フランスでは「栄光の三日間」とも呼ばれる。ナポレオンが、1824年に敗れた後、1815年の王政復古で王位に就いたのは、「フランス革命」で処刑されたルイ16世の弟:ルイ18世です。ルイ18世は国王になると、革命で掲げられた「自由・平等・友愛」などを全く無視して、かつてのように貴族や聖職者を優遇する政策を実行します。ルイ18世=1824年に崩御。ルイ18世の政策は、後を継いだ「シャルル10世」に引き継がれました。シャルル10世は、ルイ16世の妻:マリー・アントワネットの遊び仲間として知られていて、その享楽的な性格と絶対君主制を支持する政治信条によって国民の反感を買った。王位に就いた後、ルイ18世以上の専制的な政治をし、かつての絶対王政復活を目指して、議会の解散や、選挙権の縮小に乗り出す。「7月革命」は・・・そんなシャルル10世に反発して、民衆が蜂起したものである。7月27日「1814年憲章」を改正し、「1830年憲章」を可決。フィリップは、歴代の王が名乗った「フランス王」ではなく、「フランス人の王」として即位。この王朝は、「7月革命」によって誕生したことから「7月王政」、もしくは「オルレアン王朝」と呼ばれた。第九問=この絵をテーマとしたミュージカルとは?【解答】レ・ミゼラブルヴィクトル・ユーゴーは・・・この絵にインスピレーションを得て、レ・ミゼラブルという小説を書きました。ミュージカル「レ・ミゼラブル」は、民衆を導く自由の女神の右側に描かれた少年:ガブロッシュをモデルにしています。アニメ・映画にもなりましたね〜私、きらり。映画もミュージカルも両方鑑賞し大好きです。「民衆の歌」いいですよね(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.19
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斬新な構図で描かれたこの美しい女性に美術館で出会った人は、みんな釘付けになりますなぜでしょう〜その不思議な魅力とは?第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=題名は、何ですか?第三問=どこの美術館にありますか?第四問=デッサンにおかしなところがあります。 一つ挙げるとすれば、どこですか?第五問=美術史的には、何主義の画家の絵ですか?第六問=この絵のように意識的に歪めたデッサンを発展させて、 約100年後に新しい芸術を創り出した画家は、誰ですか?美しいお姿を〜もう少しUPで答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ドミニク・アングル第二問=題名は、何ですか?【解答】グランド・オダリスク第三問=どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館第四問=デッサンにおかしなところがあります。 一つ挙げるとすれば、どこですか?【解答】背骨の長さ(手の長さ)第五問=美術史的には、何主義の画家の絵ですか?【解答】新古典主義第六問=この絵のように意識的に歪めたデッサンを発展させて、 約100年後に新しい芸術を創り出した画家は、誰ですか?【解答】ピカソLa Grande OdalisqueUne Odalisque(1814年)『グランド・オダリスク』1814年(横たわるオダリスク)カンヴァス 油彩 88.9cmx162.56cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ドミニク・アングルジャン・オーギュスト=ドミニク・アングルJean-Auguste-Dominique Ingres1780年8月29日〜1867年1月14日(86歳没)フランス「新古典主義」の画家。19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義に対抗し、ダヴィッドから「新古典主義」を継承した。第二問=題名は、何ですか?【解答】グランド・オダリスク『グランド・オダリスク』は、ドミニク・アングルが、1814年に完成させた油彩画である。フランス語では・・・La Grande Odalisque(ラ・グランド・オダリスク)Une Odalisque(ユヌ・オダリスク)日本語では・・・『横たわるオダリスク』とも呼ばれる。オダリスクは、多くの画家が描いている。アングルの『オダリスク』は、代表的な作品。この絵は、ナポレオン1世の妹でナポリ王妃のカロリーヌ・ボナパルトによって依頼され、1814年に完成した。アングルが、参考にしたこのポーズは・・・ジャック=ルイ・ダヴィッド作『マダム・レカミエの肖像』1800年頃アングルは・・・ダヴィッドの横たわって肩越しに振り返っている人物のポーズをもとに描いた。第三問=どこの美術館にありますか?【解答】パリ・ルーヴル美術館第四問=デッサンにおかしなところがあります。 一つ挙げるとすれば、どこですか?【解答】背骨の長さ(手の長さ)この絵をじっくりと眺めていると・・・胴体が妙に長すぎることに気づきます。アングルは・・・ゆがめられたプロポーションで、けだるいポーズの女性の姿を描いている。小さい頭部、引き伸ばされた四肢、細長〜い手、そしてクールな色彩設計、マニエリスムの影響をあらわしており、解剖学的なゆがみで有名になった。1814年のサロンに出品したとき、ある批評家は、「骨も筋肉も、血も、命も、レリーフも、 いやそれどころか模造品を構成するものは何も無い」と述べた。『グランド・オダリスク』における人物は、「推骨が、2つか3つ多すぎる」ように描かれていると考えられる。アングルは、解剖学的なリアリズムを無視しているという一般的な見解を反映していた。アングルは、代わりにボリュームをトーンダウンさせるゆたかな、一様な光のみならず、湾曲と官能性を伝えるために、長い線を偏愛した。アングルは、1820年代半ばまで、作品を批判され続けた第五問=美術史的には、何主義の画家の絵ですか?【解答】新古典主義neoclassicism・・・とは、18世紀中頃〜19世紀初頭、ヨーロッパで、建築、絵画、彫刻など、美術分野で支配的となった芸術。ギリシア・ローマの古典様式を模範とし、当時なりに解釈し、洗練された芸術様式が生まれた。形式的な美、写実性を重視しており、その成り立ちから、新古典主義、Neo-Classicismネオクラシズムと呼ばれた。新古典主義は、フランスのアカデミーの主流になっていった。第六問=この絵のように意識的に歪めたデッサンを発展させて、 約100年後に新しい芸術を創り出した画家は、誰ですか?【解答】パブロ・ピカソ約100年後のピカソの絵を見てみましょうこの絵のように、意識してどこか形が変?奇妙に見えるように描くことをデフォルメと言います。意識的に歪めたデッサンを発展させて、1つの視点では見えない部分が絵の中に描かれている。つまり、視点が2つ以上あるという見方もできます。それらのことからヒントを得たピカソは、キュビズムを始めました(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:解説/感想:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.18
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西洋絵画は、歴史的な背景を合わせて理解が必要になりますね〜さてこの儀式は?ヒント考えられない大きさの絵画で大人数が描かれました。第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=題名は、何ですか?第三問=この儀式が行われている場所は、どこですか?第四問=どこの美術館にありますか?第五問=この絵とほぼ同一の絵がもう1つあります。 それは、どこですか?第六問=2つの絵は、一部異なる部分があります。 それは、何ですか?近くに寄って見ると美しく描かれています答えは・・・これ第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ダヴィッド第二問=題名は、何ですか?【解答】ナポレオンの戴冠式第三問=この儀式が行われている場所は、どこですか?【解答】パリ・ノートルダム大聖堂第四問=どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館第五問=この絵とほぼ同一の絵がもう1つあります。 それは、どこですか?【解答】ヴェルサイユ宮殿第六問=2つの絵は、一部異なる部分があります。 それは、何ですか?【解答】画面左の5人の女性のうち、左から2人目の服の色が違う。『皇帝ナポレオン1世と皇妃ジョセフィーヌの載冠式』(ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠)1806年〜1807年頃カンヴァス 油彩621.0cmx979.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ダヴィッドジャック=ルイ・ダヴィッドJacques-Louis David1748年8月30日〜1825年2月29日(76歳没)フランスの新古典主義の画家。18世紀後半から、19世紀前半にかけて、フランス史の激動期に活躍した。新古典主義を代表する画家。ナポレオン1世の首席画家。【代表作】『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』18世紀後半、ロココの行き過ぎへの反発もあり、古代への回帰を主張した新たな美意識が登場します。それが、ダヴィッドらによる「新古典主義」である。第二問=題名は、何ですか?【解答】ナポレオンの戴冠式フランス語で正式には・・・(Sacre de I'empereur Napoléon ler et couronnement de l'empératrice Joséphine dans la cathédrale Notre-Dame de Paris,décembre 1804)『1804年12月02日、 パリのノートルダム大聖堂での 大帝ナポレオン一世の聖正式と 皇妃ジョセフィーヌの戴冠式』と長〜い題がつけられているが、略して『ナポレオンの戴冠式』として知られるこの絵を見たナポレオンは・・・30分ほど無言で見つめ続け、その後ダヴィッドに対して、最敬礼をしたそうです。第三問=この儀式が行われている場所は、どこですか?【解答】パリ・ノートルダム大聖堂ナポレオン1世の聖性式は、パリのノートルダム大聖堂で行われた。その目的は、ナポレオンが「フランス人民の皇帝」として、革命を引き継ぐものであると示唆することにあった。ナポレオンが、ローマ教皇を、ノートルダム大聖堂に招いた戴冠式の様子。冠は、ローマ教皇から頂くのが普通のことだったのですが、なんと〜ナポレオンは、教皇に背を向け、自分の頭に冠を載せたのです。その後、妻のジョセフィーヌの頭にも自ら冠を被せます。膨大な人物の中には、式にいなかったナポレオンの母親の姿もしっかりと描かれています。(ジョセフィーヌの上あたり、椅子に座っている)第五問=この絵とほぼ同一の絵がもう1つあります。 それは、どこですか?【解答】ヴェルサイユ宮殿作品公開直後の1889年ダヴィッドは、アメリカの事業家から、同サイズの複製画を描くように注文を受けた。同年、彼は記憶を頼りに二作目の制作に取り掛かり、ブリュッセルへの亡命中の1822年にこれを完成させた。最終的に二作目は、1947年にフランスに戻され、ヴェルサイユ宮殿に保管された。第四問=どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館一作目は、ルーヴル美術館です。第六問=2つの絵は、一部異なる部分があります。 それは、何ですか?【解答】画面左の5人の女性のうち、左から2人目の服の色が違う。画面左で並んで水色のドレスで着飾ったボナパルト家の女性たち。左から、ナポレオンの妹3人。カロリーヌ(次女、ミュラの妻)ポリーヌ(三女)エリザ(長女)の順。複製画では・・・ナポレオンのお気に入りの妹ポリーヌがピンクのドレスを着ている。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影/解説:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.17
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西洋美術のクイズ!とても大きな絵画です。主人公の人生がシリーズ化されて描かれています【ヒント】豊満な女性を描いた画家です。第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=題名は、何ですか?第三問=どこの美術館にありますか?第四問=中央の女性は、誰のところにお嫁に来ましたか?第五問=この女性は、誰の母になりますか?第六問=美術史的には、何時代の絵ですか?第七問=この絵の縦の長さは?第八問=この絵のある場所には、この画家によるシリーズが 何点飾ってありますか?少し難しいかしら?必ず知っている画家ですこたえは・・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ルーベンス第二問=題名は、何ですか?【解答】マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸第三問=どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館第四問=中央の女性は、誰のところにお嫁に来ましたか?【解答】アンリ4世第五問=この女性は、誰の母になりますか?【解答】ルイ13世第六問=美術史的には、何時代の絵ですか?【解答】バロック第七問=この絵の縦の長さは?【解答】約4m第八問=この絵のある場所には、この画家によるシリーズが 何点飾ってありますか?【解答】24点ピーテル・パウル・ルーベンスPeter Paul Rubens1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)バロック期 フランドルの画家 外交官 祭壇画、肖像画、風景画、神話画、寓意画、歴史画を描く王の画家であり画家の王と呼ばれた。諸外国まで名声を轟かせバロック期を代表する画家である。アニメ「フランダースの犬」で主人公ネロが見たがっていた絵画アントウェルペン大聖堂の「キリストの昇架」と「キリストの降架」の作者として有名になった画家『ルーベンス』ルーベンス【代表作】キリスト昇架ルーベンス【代表作】キリスト降架ほほほっ。これならば聞いたことがありますねルーヴル美術館この絵は・・・『マリー・ド・メディシスの生涯』というテーマで、描かれた絵の一枚です。パリ「ルーヴル美術館」には、この連作が「ルーベンスの部屋」と呼ばれる大きな部屋に集められて、展示されています。それぞれの絵が大きいので、24点もあると・・・圧倒されます。マリー・ド・メディシスは・・・イタリアのメディチ家の出身。当時のお見合い写真は絵画でした。フランス国王アンリ4世の妻になりますが、国王が、殺され彼女が、政治の実権を握りました。後継者のルイ13世が子供だったからです。その後、勝手なやり方で反感を買うようになり、ルイ13世が成長すると、最後はフランスを追い出されてしまいます。この連作には、1621年にルイ13世と一時和解するするまでの歴史が描かれています。ピーテル・パウル・ルーベンス作『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』連作『マリー・ド・メディシスの生涯』より、板 油彩 縦:394.0cmx横:295.0cm1621年頃〜1625年頃パリ「ルーヴル美術館」2e ETAGE「ルーベンスの部屋」展示。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影/解説:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.15
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有名な絵画について「クイズ」を楽しんでおりますが、これは見たことありそうですが【ヒント】オランダ第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=題名は何ですか?第三問=どこの美術館にありますか?第四問=この絵は、注文により描かれましたが、 描きあがったとき、注文主であるモデルたちから苦情が、 出たというエピソードが残っています。 なぜですか?第五問=この画家は、自画像をたくさん描いたことでも有名です。 生涯に何枚くらい描きましたか?第六問=この絵の題名は、大きな誤解から付けられました。 その誤解とは何ですか?第七問=この絵は、切り取られました。 なぜですか?第八問=この絵の中に少女は、どこにいますか? 少女の役割は何ですか?今日は、少し簡単だったかしら答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】レンブラント第二問=題名は何ですか?【解答】夜警(やけい)第三問=どこの美術館にありますか?【解答】アムステルダム国立美術館第四問=この絵は、注文により描かれましたが、 描きあがったとき、注文主であるモデルたちから苦情が、 出たというエピソードが残っています。 なぜですか?【解答】顔が半分しか描かれていなかったり、 小さすぎたりしたため。第五問=この画家は、自画像をたくさん描いたことでも有名です。 生涯に何枚くらい描きましたか?【解答】約60枚第六問=この絵の題名は、大きな誤解から付けられました。 その誤解とは何ですか?【解答】本当は、昼の情景を描いたものだった。第七問=この絵は、切り取られました。 なぜですか?【解答】新しい展示場所に入らなかったから。第八問=この絵の中に少女は、どこにいますか? 少女の役割は何ですか?【解答】左中央。マスコット。レンブラント・ハルメンスゾーン・ファン・レインRembrandt Harmens van Rijn1606年7月15日-1669年10月4日(63歳没)オランダを代表する「バロックの画家」17世紀・オランダ絵画黄金期に活躍した最大の巨匠スポットライトを当てたような強い光りによる明瞭な明暗対比や、赤褐色や緑褐色を基調とした輝くような色彩、場面状況を明確に伝える劇的な運動性登場人物に示される深い精神性を帯びた表情が大きな特徴である。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】レンブラントこの絵は「集団肖像画」として注文されました。それまでの集団肖像画は、現在の集合写真のように、誰もが等しく目立つように描かれているのが普通でした(当時の集団肖像画)第四問=この絵は、注文により描かれましたが、 描きあがったとき、注文主であるモデルたちから苦情が、 出たというエピソードが残っています。 なぜですか?【解答】顔が半分しか描かれていなかったり、 小さすぎたりしたため。レンブラントは・・・主役と脇役を設定した描き方をしたのです。だから、小さく描かれたり、影の中に入っていたり、半身しか見えなかったりする人もいます。注文主から返金を求められるほど評判が高かった。という通説があるのは、その構図の斬新さのためです。第六問=この絵の題名は、大きな誤解から付けられました。 その誤解とは何ですか?【解答】本当は、昼の情景を描いたものだった。『夜警』は・・・18世紀になってから付けられた題名です。本来描かれていたのは「昼間の情景」です。長い間、この絵画の内容によく合った題名だと考えられてきたがこれは、絵画の表面が表面のニスが茶色く変色したことによる誤解であったバニング・コック家に保管されていたこの絵画のための素描には・・・横に次のような記述があり、より適切な題名の手掛かりになっている。De jonge heer van Purmerland als Capitein geeft last aan zijnen Lienant de heer van Viaerdingenom sijn compaignie Burgers te doen marcheren訳すると隊長の若きプルメレント領主(バニング・コック)が副隊長のフラールディンゲン領主(ファン・ラウテンブルフ)に市民隊の行進を命令する。『夜警』やけい・・・とは?集団肖像画の最高傑作で・・・世界三大名画の一つ。約3.8m×4.5mという大作で・・・レンブラントの代表作。市民自警団が隊長の合図で出動する瞬間を描いた。レンブラント『夜警』1642年De Nachtwacht(1642)通称『夜警』の題名は・・・『フランス・バニング・コック隊長と ウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』De compagnie van kapitein Frans Banning Cocq en luitenant Willem van Ruytenburgh『アムステルダム国立美術館』Rijksmuseum Amsterdam2階・名誉の間の奥にある「夜警の間」夜警ギャラリーに展示レンブラント・・・および「オランダ黄金時代」の絵画の代表作を展示。この絵画は、3つの要素のために有名である。1.絵画の巨大さ(縦3.63m×4.37m)2.光と陰の効果的な使用3.軍隊や自警団の集団肖像画に動きの要素を取り入れた。通称:『夜警』は・・・オランダ黄金時代の絶頂期であった1642年に完成した。この絵は、題名となった市民隊(火縄銃手組合による市民自警団)が出動する瞬間を描いている。黒い服に隊長の印である赤い飾りの帯を斜めにかけた「フランス・バニング・コック隊長」とその右横の黄色の服を着た「ウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長」は、隊を率いて動き出そうとし・・・その周辺では、銃に火薬を詰める隊員や銃を構える隊員が銃の技量を試し鼓手がドラムを構え、後ろでは、旗手の「ヤン・フィッシェル・コーネリッセン」が隊旗を掲げている。一斉に人々が動き始めたため、その下では犬が吠え立て左には、少年が走り回っている。各隊員は、それぞれ異なった方向に体を向け多様な表情を見せており・・・隊員の動きが交錯して画面に躍動感を生み出している。いずれも体の一部しか画面に映されておらず・・・全身が描かれているのは、3人のみである。レンブラントは・・・キアロスクーロ(明暗法)を用いて群像にドラマチックな表情を与えた。強い日光が斜め上から差し込み影を作る事でレンブラントは、群衆の中から3人の重要人物・・・すなわち中央の隊長と副隊長、そして中央左奥の少女を浮かび上がらせている。レンブラントは・・・火縄銃手組合の象徴物をさりげなく画面に配している。第八問=この絵の中に少女は、どこにいますか? 少女の役割は何ですか?【解答】左中央。マスコット。黄色いドレスの少女は隊のマスコット的な存在であったが彼女の帯にぶら下がった鶏の爪は、火縄銃手(Clauweniers)の象徴である。死んだ鶏は、打ち倒された敵の象徴でもあり黄色は、勝利の色でもある。鶏の後ろの銃も火縄銃隊を象徴する。また彼女は、自警団の盃(コブレット)を持っている。彼女の前の人は、「オーク」の葉のあしらわれた兜をかぶっているがこれは、火縄銃手の伝統的なモチーフである。この絵は・・・描かれてから長い間が経ち表面のニスが変色して黒ずんだため夜の風景を描いた絵であるという誤った印象を与えるようになった。20世紀に入り、二度の洗浄作業でニスが取り除かれた際に絵は、明るみを取り戻し・・・昼を描いた絵であることが明らかになった。絵が切り取られる前のイメージ第七問=この絵は、切り取られました。 なぜですか?【解答】新しい展示場所に入らなかったから。1715年、それまで掲げられていた火縄銃手組合集合会所(クローフェニールスドゥーレン)のホールから、ダム広場の「アムステルダム市役所」に移された際『夜警』の上下左右が切り詰められてしまった。これは・・・市役所の部屋の二本柱の間に絵がきちんと収まるようにはみ出す部分を切り落とした!という説が有力である。このために、左側に描かれた二人の人物左下にあった階段のふちと手すり人物の上にあるアーチの頂上部分が失われた。特に手すりと階段は・・・群像に手前方向の動きを作り出すためにレンブラントが用いた視覚的なカギであった。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影/解説:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.14
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レオナルド・ダ・ヴィンチとラファエロ・サンティの代表作クイズが終わっていよいよこの方です【ヒント】盛期ルネサンス三代巨匠のひとり第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=何という絵ですか?第三問=この絵があるのは、何という礼拝堂ですか?第四問=この絵には、何人の人が描かれていますか?第五問=この絵の中に画家の自画像があります。 それは、どこですか?第六問=この絵には、天国と地獄に行く様子が描かれています。 地獄に落ちる人たちが描かれているのは、 向かって右側ですか?左側ですか?第七問=この絵には、裸が多く礼拝堂にふさわしくないと、 画家の死後、腰布が描き足されました。 それを描いた画家:ダニエレ・ダ・ヴォルテッラらは、 何と呼ばれましたか?第八問=右下に描かれたヘビが胴体に巻き付いた人は、 誰ですか?第九問=その人の役割は、何ですか?第十問=この絵の青は、高価な石から作られた絵具が 使われています。何という石ですか?第十一問=最近の修復で新たな発見がありました。 わかったことは何ですか? 答えを聞きたい・・・早くちょっと難しかったかな?第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ミケランジェロ第二問=何という絵ですか?【解答】最後の審判第三問=この絵があるのは、何という礼拝堂ですか?【解答】システィーナ礼拝堂第四問=この絵には、だいたい何人の人が描かれていますか?【解答】約400人第五問=この絵の中に画家の自画像があります。 それは、どこですか?【解答】中央のキリストの、向かって右下にいる人が 手に持つ生皮がミケランジェロ。第六問=この絵には、天国と地獄に行く様子が描かれています。 地獄に落ちる人たちが描かれているのは、 向かって右側ですか?左側ですか?【解答】向かって右側第七問=この絵には、裸が多く礼拝堂にふさわしくないと、 画家の死後、腰布が描き足されました。 それを描いた画家:ダニエレ・ダ・ヴォルテッラらは、 何と呼ばれましたか?【解答】ブラゲットーネ(パンツ画家)第八問=右下に描かれたヘビが胴体に巻き付いた人は、 誰ですか?【解答】ミノス第九問=その人の役割は、何ですか?【解答】地獄の裁判官第十問=この絵の青は、高価な石から作られた絵具が 使われています。何という石ですか?【解答】ラピスラズリ第十一問=最近の修復で新たな発見がありました。 わかったことは何ですか?【解答】男だと思っていた人が女だった。ミケランジェロ・ブオナローティMichelangelo Buonarroti1475年3月6日〜1564年2月18日(88歳没)フィレンツェ共和国カプレーゼ→教皇領・ローマ没ミケランジェロ・ディ・ドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニMichelangelo de Lodovico Buonarroti Simoniイタリア盛期ルネサンス期の彫刻家・画家・建築家・詩人・社会活動家。88歳という当時ではかなり長命だった。人づきあいはほとんどなく、同性愛者だったので家族をもたず、親族・使用人たちを愛し養った。死後の評価は、賛否にわかれ、ラファエロとの対比においては「軽蔑すべき方埒(ほうらち)さ」とまで評されたが、ジェリコーやドラクロワらロマン主義者たちは高く評価した。第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ミケランジェロミケランジェロが描いた『最後の審判』ですレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』と、名前が似ているので間違えないようにしましょうミケランジェロが・・・1536年夏(61歳)から1541年(66歳)までの5年以上をかけて描きました。ミケランジェロは・・・一度は反教皇派として、共和国側に付いて闘ったものの、子供時代に一緒に住んだことのあるメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世の依頼でこの絵を描くことになりました。クレメンス7世は、その後すぐに亡くなったため、ミケランジェロは、この絵を描かなくてもよくなったと思いましたが、その後を継いだパウル3世が同じことを命じ、結局、描くことになりました。第十問=この絵の青は、高価な石から作られた絵具が 使われています。何という石ですか?【解答】ラピスラズリ青い絵具は、ウルトラマリンと言われ、ラピスラズリが原料として使われます。おもにアフガニスタンで採れます。第六問=この絵には、天国と地獄に行く様子が描かれています。 地獄に落ちる人たちが描かれているのは、 向かって右側ですか?左側ですか?【解答】向かって右側『最後の審判』・・・とは?キリスト教において、近い将来キリストが再び現れて、全ての死者を蘇らせ、生者とともに人々を裁き、神を信じていなかった人は地獄に落ちる。という思想です。この絵では、向かって右側が、地獄に落ちる人々で、左側が、天国に救われる人々です。落ちる→救われるの順に、時計回りと覚えるとよいでしょう第七問=この絵には、裸が多く礼拝堂にふさわしくないと、 画家の死後、腰布が描き足されました。 それを描いた画家:ダニエレ・ダ・ヴォルテッラらは、 何と呼ばれましたか?【解答】ブラゲットーネ(パンツ画家)1989年〜1994年の修復で、「パンツ画家」ら後世の画家により、何度か描き足された腰布が剥がされ、ほぼミケランジェロが描いた状態に戻されました。第十一問=最近の修復で新たな発見がありました。 わかったことは何ですか?【解答】男だと思っていた人が女だった。ミケランジェロの自画像の右下にいて、足を悪魔に掴まれ、絶望、罪悪感、墜落への不安を抱いている人が女性だとわかりました。腰布を剥がしたら、男性のあるべきものがなかったのです第八問=右下に描かれたヘビが胴体に巻き付いた人は、 誰ですか?【解答】ミノス絵の一番、右下でヘビに巻き付枯れている人物がミノスです。ギリシア神話の古代クレタ島の王でしたが、死後地獄の裁判官になったのは、地獄の王ヘデスの命令とも言われます。ミケランジェロが・・・この絵を描いている最中に、ときどき現れては嫌味を言っていた教皇庁儀典長がうるさかったので、ミケランジェロは、その儀典長の顔をミノスの顔に使い、その男性の急所にヘビを噛みつけさせました。儀典長は、怒って教皇に訴えましたが、地獄のことでは私にも手に負えないと言われたそうです。第五問=この絵の中に画家の自画像があります。 それは、どこですか?【解答】中央のキリストの、向かって右下にいる人が 手に持つ生皮がミケランジェロ。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)世界遺産にぽち
2022.10.13
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ルネサンス期の巨匠の作品からの問題です。たくさんの人物が描かれていますね第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=何という題名ですか?第三問=どこに描かれましたか?第四問=中央に描かれた2人は、 ギリシア時代の哲学者です。誰と誰ですか?第五問=その2人のうちの左側は、 画家が尊敬している芸術家をモデルにして いるそうです。誰ですか?第六問=この絵の中に、最初の計画では 描く予定のない人が描かれています。 誰ですか?第七問=この絵の中には、画家の恋人が描かれている とも言われます。それはどの人ですか?第八問=画面左の方に兜を被った人がいます。 この人は誰ですか?第九問=画家の自画像も描かれています。 どこにいますか?第十問=画家の自画像と恋人は、 どういう位置関係に置かれていますか?これは、少し難しいかもですが答えを見ましょう(入館チケット2枚)美術館一押しの作品です。正解は・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】ラファエロ・サンティ第二問=何という題名ですか?【解答】アテネの学堂第三問=どこに描かれましたか?【解答】ヴァティカン宮殿・署名の間第四問=中央に描かれた2人は、 ギリシア時代の哲学者です。誰と誰ですか?【解答】左=プラトン、右=アリストテレス第五問=その2人のうちの左側は、 画家が尊敬している芸術家をモデルにして いるそうです。誰ですか?【解答】レオナルド・ダ・ヴィンチ第六問=この絵の中に、最初の計画では 描く予定のない人が描かれています。 誰ですか?【解答】ヘラクレイトス。第七問=この絵の中には、画家の恋人が描かれている とも言われます。それはどの人ですか?【解答】画面左側に白い服を着て立っている人物。第八問=画面左の方に兜を被った人がいます。 この人は誰ですか?【解答】アルキビアデス(アレクサンダー大王)第九問=画家の自画像も描かれています。 どこにいますか?【解答】画面右隅で顔だけこちらを向いている人。第十問=画家の自画像と恋人は、 どういう位置関係に置かれていますか?【解答】2人は同じ高さにいる。その説明を詳しく「写真」を見ながらラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)「ヴァチカン宮殿」著名の間ラファエロの『アテネの学堂』は・・・ヴァティカン宮殿の署名の間に描かれました。署名の間のほかの作品は、『聖体の論議』『パルナックス』『三徳像(正義の壁)』『ヘリオドロスの間』もラファエロが描いています。これらの部屋を含めてこの建物の複数の部屋で、ラファエロの工房の画家たちが絵を描いています。ラファエロは・・・自分の技法を惜しみなく弟子たちに教えて、同じように描けるように指導したそうです。秘伝などという考えはなく、師匠:ペルジーノゆずりの効率のよい分業制が背景にあったようです。『火災の間』と『コンスタンティヌスの間』は、下絵の転写と彩色のほとんどを工房の弟子に任せました。第四問=中央に描かれた2人は、 ギリシア時代の哲学者です。誰と誰ですか?【解答】左=プラトン、右=アリストテレス第五問=その2人のうちの左側は、 画家が尊敬している芸術家をモデルにして いるそうです。誰ですか?【解答】レオナルド・ダ・ヴィンチラファエロは・・・ミケランジェロより、8歳年下で、レオナルドより、31歳も年下ですから、2人の先輩を尊敬していたそうです。ミケランジェロは・・・レオナルドを馬鹿にしていたようですが、ミケランジェロの作品からは、口元とは別に、レオナルドに影響を受けているということがよくわかります。ラファエロは・・・この尊敬する2人を中央のプラトンと、左手前のヘラクレイトスの顔に使いました第六問=この絵の中に、最初の計画では 描く予定のない人が描かれています。 誰ですか?【解答】ヘラクレイトス。 画面一番中央近くで、頬付をついている人、 近くのシスティーナ礼拝堂で制作中だった ミケランジェロに敬意を込めてモデルとしたと言われる。ヘラクレイトスだけ、臨場感が違うし、描き方も違うので、ミケランジェロが描きこんだという説もあります。しかし、隣の「システィーナ礼拝堂」で、天井画を描いているミケランジェロを見ていて、その技法を学んで描いたのだという方があたっているかもです。第七問=この絵の中には、画家の恋人が描かれている とも言われます。それはどの人ですか?【解答】画面左側に白い服を着て立っている人物で、 ヴァティカン発行の解説には、 ウルビーノ公フランチェスコ・マリア・デッラ・ロヴェーレ(男性) とされている。ラファエロは・・・他の女性と婚約をしていながら、本当に好きなのは、フォルナリーナ(イタリア語でパン屋の娘)だったというエピソードがあります。だから、そのフォルナリーナを絵の中に描きこんだのかもしれません。第十問=画家の自画像と恋人は、 どういう位置関係に置かれていますか?【解答】2人は同じ高さにいる。ラファエロとフォルナリーナは、同じ眼の高さで、同じものを見ているように描かれています。本当は、2人を並べて描きたかったのでしょうね第八問=画面左の方に兜を被った人がいます。 この人は誰ですか?【解答】アルキビアデス(アレクサンダー大王)第九問=画家の自画像も描かれています。 どこにいますか?【解答】画面右隅で顔だけこちらを向いている人。黒いベレー帽がラファエロ(自画像)です。下を向いてコンパスを持って講義しているユークリッド「古代ギリシアの幾何学者」階段に座る人ディオゲネス「反プラトン派哲学者」ソクラテスの孫弟子黄土色の上下の服を着て左を向いているちょいハゲソクラテス「無知の知」で有名な哲学者。大きな本を読む人は、ピタゴラス「三平方の定理」で有名な数学者。茶色い帽子に長い髭、グレーの球体を持って説明しているゾロアスター「ゾロアスター教」の教祖。主な有名人たちでした実物は、こんな顔だったのでしょうかね?(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影・解説:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.12
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ミロのヴィーナスにラオコーンと彫刻シリーズの問題です〜次は世界中からきた観光客で大人気です第一問=この像は、何と呼ばれますか?第二問=どこの美術館にありますか?第三問=何時代に作られましたか?第四問=これは、女神像ですが、何の女神ですか?第五問=どこに立っている姿で作られましたか?第六問=この像に描かれた女神の名前は、 あるスポーツ用品メーカーが使っています。 どこですか?正面から見るとちょっとイメージしにくいかしら第一問=この像は、何と呼ばれますか?【解答】サモトラケのニケ第二問=どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館第三問=何時代に作られましたか?【解答】ギリシア時代第四問=これは、女神像ですが、何の女神ですか?【解答】勝利の女神第五問=どこに立っている姿で作られましたか?【解答】船の軸先のかたちをした台座第六問=この像に描かれた女神の名前は、 あるスポーツ用品メーカーが使っています。 どこですか?【解答】ナイキギリシアのヘレニズムという時期に作られましたが、作者は・・・不明。「サモトラケ島」で発見されたので、『サモトラケのニケ』と呼ばれます発見された時には・・・バラバラに壊れていて、胴体だけで、約120の断片に分かれていたものを、ジグソーパズルのようにつなぎ合わせてみたらこのようになりました。ただ、首も腕も発見されていません。手の部分は、発見されて、象の横にガラスケースに入って置かれています。船の先端に舞い降りた女神が、強い潮風を正面に受けて薄地の衣服が体に張り付いていた様子がよく表されています。美術館の階段の踊り場にあって、ニケを見上げながら階段を登って行く人がいっぱいどうして世界中の人が、ここに集まるのか?いつも疑問でしたが・・・だんだんと魅力がわかって来ました。遠くから眺めるのが一番です〜今は、アイフォンの光で輝いて見えますね(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.11
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ミロのヴィーナスが女性代表の彫刻ならば、これは同時代の男性代表でしょうか第一問=この彫刻は、何と呼ばれていますか?第二問=何時代のものですか?第三問=この人は、ある戦争である作戦を 暴露しようとして神に殺されました。 何という戦いの、何という作戦ですか?第四問=現在は、どこの美術館にありますか?ううう〜む。もっと近くで見てくださいね答えは・・・第一問=この彫刻は、何と呼ばれていますか?【解答】ラオコーン第二問=何時代のものですか?【解答】ギリシア時代・ヘレニズム期第三問=この人は、ある戦争である作戦を 暴露しようとして神に殺されました。 何という戦いの、何という作戦ですか?【解答】トロイアの戦争・木馬の計略第四問=現在は、どこの美術館にありますか?【解答】ヴァティカン美術館(レプリカが色々な美術館にありますが・・・)『ラオコーン』は・・・トロイア戦争のときにギリシア軍による「木馬の計略」を見破って、トロイア王に知らせようとしますが、神の怒りを買って、2人の息子とともに大蛇に巻きつかれて殺されてしまいます。めっちゃ苦しそうですね〜ルーヴル美術館の『ミロのヴィーナス』や、『サモトラケのニケ』などと同じ時代に作られた作品で、ヴァティカン美術館の中庭に面した回廊に飾られています。発見されたのは、ルネサンス時代で、フォロ・ロマーノの一角から出土しました。ミケランジェロも見に行ったそうですきっとラファエロも・・・(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり) 世界遺産にぽち
2022.10.10
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この彫刻は基本中の基本ですよね〜さぁ、この有名な女性像はいったい誰なのでしようか第一問=この像は、何と呼ばれていますか?第二問=発見された場所は、どこですか?第三問=現在、どこの美術館にありますか?第四問=素材は、何んでできていますか?第五問=ギリシアの何時代のものですか?第六問=体は、何等身ですか?第七問=美しさの秘密は何ですか?ほほぅ〜意外にも難しいかしらしかし、クイズ番組には、たびたび出題されますよね答えは・・・第一問=この像は、何と呼ばれていますか?【解答】ミロのヴィーナス第二問=発見された場所は、どこですか?【解答】エーゲ海のミロス島第三問=現在、どこの美術館にありますか?【解答】ルーヴル美術館第四問=素材は、何んでできていますか?【解答】大理石第五問=ギリシアの何時代のものですか?【解答】ヘレニズム期第六問=体は、何等身ですか?【解答】八頭身第七問=美しさの秘密は何ですか?【解答】黄金分割エーゲ海のミロス島(現在はギリシア語でミロ)で発見されたので、『ミロのヴィーナス』と呼ばれています作者は・・・不明です。この島は、クレタ島の西側から真っすぐ北に行ったところにあります。畑を耕していた農民が、カチンと音がしたので、掘ったら出て来た、という面白いエピソードがありますが・・・実際は、洞窟のようなところから発見されたといいます。今は、パリ「ルーヴル美術館」にあります。ギリシア美術は、理想美の追求と言われます。その代表的な作品がこの『ミロのヴィーナス』ですへその上と下で「黄金分割」約5対8になっているとも言われます。ふふふ案外勉強になりますね(私も含め)(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.09
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ルネサンスの有名な絵画をクイズにしています〜これはかなり簡単ですよね2001年当時の古〜い絵葉書より、第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=この絵は、何という教会に描かれましたか?第四問=この絵の大きさは、横幅何メートルですか?第五問=この絵は、教会のどこに描かれましたか?第六問=この絵の中で、ユダはどこにいますか?第七問=この絵は、油彩ではありません。何と言われますか?これは、そんなに難しく無いですよねブレラ美術館のパンフレットより 答えは・・・第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】レオナルド・ダ・ヴィンチ第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】最後の晩餐第三問=この絵は、何という教会に描かれましたか?【解答】ミラノ「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会」第四問=この絵の大きさは、横幅何メートルですか?【解答】8.8m (縦:460cmx横:880cm)第五問=この絵は、教会のどこに描かれましたか?【解答】食堂第六問=この絵の中で、ユダはどこにいますか?【解答】中央のキリストから左へ3人目第七問=この絵は、油彩ではありません。何と言われますか?【解答】テンペラサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ寺院の中庭(アナログ撮影しかありません)中庭で入場の順番を待っています。内部は、確か?撮影禁止。2001年1月の訪問当時は、電話予約しか出来なくてチケット予約に苦労しましたね〜レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』は・・・イタリア・ミラノの「サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院」の食堂に描かれた絵です。レオナルドは・・・筆が遅い!(じっくり時間をかけて描くので)「フレスコ」には適していません。そのため「テンペラ」や「油彩」で描きました。この「テンペラ」は、いろいろ工夫をしたにもかかわらず、絵具が剥がれやすくなっています。その工夫は、的確だったものの、絵具の剥落の原因には、ミラノの湿気や、第二次世界大戦の爆撃で、雨ざらしになったことなども考えられます。キリストを裏切ったユダが座る位置は・・・本来、テーブルの手前に1人だけ別に描かれることがルールだったのですが、レオナルドは・・・そのルールを破って、全員をテーブルの向こう側に描きました。しかも、ユダは色黒に描かれる場合も多いのですが、右から三番目横顔この絵では、これも例外。また、この絵の中で、ユダの頭部の破傷が激しく、修復の際は別の作品をもとにしています。キリストの口が開いている理由とは?「この中に、私を裏切ろうとしている人がいる」と言った瞬間を描いたと言われています。だから、キリストの口が少し開いているのですね。遠近法の一点透視図法が使われていて、本当に奥に続いているように見えますその消失点は、キリストのこめかみの辺りです。部屋がまるでそのままずっと奥まで続いているかのように感じます。1652年、すでに絵が鑑賞に堪えられない状態になっていたとも言われます。そのためか、修道院側が絵の下に戸口を設けていたと言われます。そして、フランス革命の時代には、この食堂をナポレオン軍が馬小屋などに使用、兵隊たちが絵に石をぶつけるなど、散々な目にあわされていたそうです。また、第二次世界大戦でも爆撃を受けて屋根が落ちました。『最後の晩餐』は、もう〜駄目だと思われましたが、奇跡的に壁が残りました(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.08
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クイズも超難問の「東大生クイズ」レベルです〜ワクワクしてきましたねさぁさ、東大レベル=12問、いくつ答えられるかな第一問=この絵は、どこの美術館にありますか?第二問=この絵が、20世紀以降 その美術館から外へ出たのは何回ですか?第三問=海外正式に貸し出されたのは2回ですが、 計3カ国になります。その3カ国とは?第四問=貸出の前後に大きな事件が起こりました! どんなことですか?第五問=3回のうちの最初は泥棒が盗みました。 犯人は誰ですか?何年間隠していましたか?第六問=その泥棒がフィレンツェの古美術商に売り捌こうとした時に 鑑定を行ったのはどこですか?第七問=隠しておいたホテルは、現在はどうなっていますか?第八問=犯人は、捕まった時、何と言いましたか?第九問=その後イタリアで、犯人はどう評価されましたか?第十問=今、この絵はガラスケースに入れられていますが、 どんな目的ですか?第十一問=この絵のモデルとして、いろいろな説がありますが、 左右に180度ひっくり返すと重なりあうと言われるのは、 どの絵ですか?第十二問=レオナルドの弟子がモデルではないか? と言われることもありますが、 それは誰ですか?さぁ〜いくつ答えられましたか?私のブログを見ていただいていればかなりできるはず【正解】は、これです【答え合わせ】第一問=この絵は、どこの美術館にありますか?【正解】ルーヴル美術館第二問=この絵が、20世紀以降その美術館から外へ出たのは何回ですか?【正解】3回第三問=海外正式に貸し出されたのは2回ですが、 計3カ国になります。その3カ国とは?【正解】アメリカ、日本、ロシア第四問=貸出の前後に大きな事件が起こりました! どんなことですか?【正解】1963年アメリカに貸し出されたとき、 当時のケネディ大統領が暗殺、 日本に来た1974年には、 ポンピドゥー大統領が急死。第五問=3回のうちの最初は泥棒が盗みました。 犯人は誰ですか?何年間隠していましたか?【正解】犯人はペルージア、2年間第六問=その泥棒がフィレンツェの古美術商に売り捌こうとした時に 鑑定を行ったのはどこですか?【正解】ウフィツィ美術館第七問=隠しておいたホテルは、現在はどうなっていますか?【正解】ホテルジョコンダという名前で営業している。第八問=犯人は、捕まった時、何と言いましたか?【正解】ナポレオンが持って行ったものを取り返してきた!第九問=その後イタリアで、犯人はどう評価されましたか?【正解】英雄扱い。第十問=今、この絵はガラスケースに入れられていますが、 どんな目的ですか?【正解】温度と湿度を一定に保つため、 また防弾ガラスによって安全を確保している。 (ケーキを投げられても破損しないように)第十一問=この絵のモデルとして、いろいろな説がありますが、 左右に180度ひっくり返すと重なりあうと言われるのは、 どの絵ですか?【正解】レオナルドの自画像第十二問=レオナルドの弟子がモデルではないか? と言われることもありますが、 それは誰ですか?【正解】サライモナ・リザ盗難事件・・・とは?ルーヴル美術館のケースを製作したイタリア人の大工「ペルージア」によって盗まれ、イタリアへ運ばれました。彼は、2年間隠しておいて、フィレンツェの古美術商に売りさばこうとして捕まりました。ただその間、偽物が何点か作られて、これが本物だと言って売られた絵があるらしい?という疑惑が囁かれています。犯人:ペルージアは・・・ナポレオンが持っていった「モナ・リザ」を取り戻してきたと言ったそうです。しかし事実は・・・フランソワ1世の招きでレオナルド本人が、フランスに行った時に持っていったもので、レオナルドがフランスで亡くなり、そのまま「モナ・リザ」は、フランスに残されたのです。レオナルドが、持って行ったのはこの3点です。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519La Gioconda(La Joconde)『モナ・リザ』(ラ・ジョコンダ)1503年〜1507年(その後も手を加え続けたか?)ポプラ板に描かれた 油彩77.0cmx53.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Jean-Baptiste『洗礼者ヨハネ』1513年〜1516年頃くるみの板 油彩 69.0cmx57.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da VinciVinci,1452-Amboise,1519Saint Anne,la Vierge etI'Enfant Jouant avec un agneau,dite La Sainte Annc.Vers 1508-1519 『聖アンナと聖母子』1508年〜1510年頃ポプラの板 油彩 168.5cmx130.0cmパリ「ルーヴル美術館」所蔵。現在は・・・「モナ・リザ」だけがガラスケースに入った特別室で展示されています。温度は・・・20度、湿度は・・・50%に保たれています。ひび割れが激しいので、これ以上痛まないように管理されています。モナ・リザが動くとき世界が動くとは?第四問=貸出の前後に大きな事件が起こりました! どんなことですか?【正解】1963年アメリカに貸し出されたとき、 当時のケネディ大統領が暗殺、 日本に来た1974年には、 ポンピドゥー大統領が急死。「モナ・リザ」が、外国へ出たのは、正式には2回とのことですが・・・日本(1974年)に来た時には帰りにモスクワにも寄って、展示されています。ちなみに日本に来た時には・・・見学者が多すぎて、絵の前に立つことができたのは、ひとり平均2秒と言われ、「絵の前に立ち止まらないでください!」と、アナウンスされたそうです。また、入場制限に対する抗議として「モナ・リザ」にスプレーが、吹きつけられた騒ぎもありました。ガラスに入っていたので無事でしたが、美の象徴ですから、いろいろな意味で、危険もたくさんあるのであります。また「モナリザ」が動くとき、世界が動くと言われました。ルーヴルから貸し出されたとき、ケネディー大統領の暗殺や、ポンピドゥー大統領の急死がありました。第十二問=レオナルドの弟子がモデルではないか? と言われることもありますが、 それは誰ですか?【正解】サライ「モナ・リザ」のモデルは・・・誰?弟子のサライがモデルという説もありますがレオナルドが愛していた弟子として、「ジャン・ジャコモ・カプロッティ」という男の子が出てきますが、その子のあだ名が「サライ」で、意味は・・・小悪魔、いろいろと問題があり、その一つに盗み癖があったと言われ、盗まれたものを、レオナルドは、細かく日記にメモしています。それでも罰することなく、可愛がっていたのは、同性愛的に愛していたという説や、すばしこいので、危険を感知する能力に長けていて、いざという時に役に立つという考えもあったようです。レオナルドは・・・飽くなき探究心から、人体の解剖をしています。そして、体内をデッサンし、内部構造を掴んだうえで、人間を描くということをしました。苦労したのは・・・目の解剖だったそうです。目はナイフで切れ目を入れると、中が出てしまって構造がつかめませんでした。そのため、眼球を白身に沈めてゆでたと言われています。すると、ゆで卵のようになり、ようやく断面図を見ることができたそうです。レオナルドは・・・サウスポー?レオナルドのデッサンを見ると、左上から右下への斜線がたくさん見られます。それは「左利き」の特徴です。また、文字を右から左に逆さにして書きました。これは、鏡に映すとまともに見えます。これを「鏡面文字」と言います。この2つが左利きの証拠です!鏡面文字については・・・自分の研究を盗まれても、すぐに読めないようにしたのだと言われますが、当時、活版印刷が発明されたので、そのまま原版にできるということで、鏡像文字を書いたのかも知れません。レオナルドは・・・同性愛者?レオナルドは、同性愛を疑われて捕まったこともあります。しかし、証拠不十分ということで釈放されました。この時代、同性愛は法律で禁じられていました。特にかわいがっていたのは、サライとフランチェスコ・メルツィの2人です。メルツィは、フランスまで連れて行き、遺産として残された絵画が与えられ、サライには、遺言状で葡萄畑を残したとされています。(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.07
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今年の夏休みの「高校生クイズ」の第一問は、全部「美術の問題」でしたね何問できましたか?昨日ブログの「小学5年生レベル」から、一気に「高校生クイズレベル」も・・ざっと目を通してみましょう第一問=この絵の女性は、謎の「?」で有名ですか?第二問=背景の遠近法は、何遠近法と言われますか?第三問=それは、線遠近法に何を加えたものですか?第四問=この絵の未完成部分はどこですか?第五問=この女性は、なぜ黒い服を着ているのですか?第六問=この画家の絵には筆の跡がありませんが何技法と言いますか?こっそり【解答】を見てみましょう【解答】第一問=この絵の女性は、謎の「?」で有名ですか?【解答】微笑み第二問=背景の遠近法は、何遠近法と言われますか?【解答】空気遠近法第三問=それは、線遠近法に何を加えたものですか?【解答】色の性質による遠近第四問=この絵の未完成部分はどこですか?【解答】左手第五問=この女性は、なぜ黒い服を着ているのですか?【解答】子供を亡くして喪に服していたから(諸説あり)(私ほしのきらり調べ:当時、黒い服が流行っていたから)第六問=この画家の絵には筆の跡がありませんが何技法と言いますか?【解答】スフマート技法(薄く溶いた絵具で、何度も塗り重ねている)レオナルド・ダ・ヴィンチは、謎が多い画家です。【解答】としていますが(おそらく)であり、諸説あるために正解は、謎のベールに隠れておりあしからずご容赦願いますそれでは、もっと詳しくみてみましょうモナ・リザの微笑み第一問=この絵の女性は、謎の「?」で有名ですか?【解答】モナ・リザの微笑みについて、確かに有名な「微笑み」笑っていますよね〜なぜなの?ジョルジュ・ヴァザーリ作「芸術家列伝3」P.30にはこう説明されている。彼はまたこんな工夫もした。モナ・リーザがたいへん美しかったので、彼女の肖像を描いている間、弾き、歌い、かつ絶えず道化る者をそばにおいて楽しい雰囲気をつくった。肖像画を描くとき、しばしば、憂鬱な気分を絵に与えてしまうのを避けようとするためであった。レオナルドのこの作品には、心地よい微笑があるが、そこからは人間的というより、神的なものが見てとれる。そしてこれ以上生き生きとしたものはないほどの見事なものがある。第二問=背景の遠近法は、何遠近法と言われますか?【解答】空気遠近法モナ・リザには、さまざまな技法があります。背景の風景がめっちゃ〜有名で、「空気遠近法」と言います。目で見ているような奥行きのある空間が、この方法で描けるようになりました。そして、第三問=それは、線遠近法に何を加えたものですか?【解答】色の性質による遠近「線遠近法」に加えて、「色の遠近法」を使います。また、筆の跡が残らないように、薄く溶いた絵具を何度も塗り重ねています。その技法が・・・第六問=この画家の絵には筆の跡がありませんが何技法と言いますか?【解答】スフマート技法「スフマート」は・・・イタリア語では、「ぼやけた」という意味です。グラッシ(透明な顔料)を何度も薄く塗り重ねることで、この効果が得られます第四問=この絵の未完成部分はどこですか?【解答】左手レオナルド・ダ・ヴィンチは、何らかの理由で絵の搬入がされなかったため最後までこの絵を手元に置いて手を加え、最後まで未完成の部分「手」が残ります。これは、左手の薬指ここには、結婚指輪を描こうとしたのか?それとも理想の女性として指輪のない無垢な女性として描いたのか、迷っていたのでしょうかね?やはり、レオナルドは謎の人物です。第五問=この女性は、なぜ黒い服を着ているのですか?【解答】子供を亡くして喪に服していたから(諸説あり)(私ほしのきらり調べ:当時、黒い服が流行っていたから)当時の肖像画では・・・髪飾りを付けたり、豪華な衣装を身に付けるのが普通でしたが、この「モナ・リザ」は・・・そのような装飾品が一切ありません!一説には、子どもを亡くして喪に服しているからと言われています。また、飾り立てていないのは、ジョコンダ夫人を使って、「マグダラのマリア」を表現しているからだとも言われています。いやいや〜私は、ただの流行ファッションだと!考えるのですが、何しろ謎多きレオナルドクイズの【正解】は・・・いろいろな可能性を全部答えるしかないのかも(参考文献:白水Uブックス/芸術列伝3ジョルジュ・ヴァザーリより)(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.06
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最近、クイズ番組に「西洋美術」分野からの出題が増えていますね〜まず、基本中の基本問題から試してみましょう第一問=この絵は、誰が描きましたか?第二問=この絵の題名は、何ですか?第三問=この絵のモデルは、誰だろうと言われていますか?第四問=この絵は、カンヴァスではなく何に描かれていますか?いやいや〜ど忘れってイライラしますよね〜こっそり、【解答】を明かしてしまいましょう第一問=この絵は、誰が描きましたか?【解答】レオナルド・ダ・ヴィンチ第二問=この絵の題名は、何ですか?【解答】モナ・リザ第三問=この絵のモデルは、誰だろうと言われていますか?【解答】ジョコンド夫人(リーザ・デル・ジョコンド)第四問=この絵は、カンヴァスではなく何に描かれていますか?【正解】ポプラの板全問正解でしたか?基本問題とは言え・・・100点はナカナカ難しいかも?「モナ・リザ」は・・・布のカンヴァスではなく、当時はまだ板に描いていて、モナ・リザは、ポプラの板に油彩で描かれてました。モデルの名前は・・・「モナリザ」ではなく「モナ・リザ」もしくは「モナ・リーザ」モデルになったのは・・・おそらく「ジョコンド夫人」諸説ありますが、ミケランジェロの弟子ジョルジョ・ヴァザーリが書いた「芸術家列伝」3.p28には、レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンドのために、その妻モナ・リーザの肖像を描くことになった。そして四年以上も苦心を重ねた後、未完成のまま残した。1502年に、レオナルドがリーザ・デル・ジョコンドの肖像画を描いたことはおそらく疑いがない。(参考文献:白水Uブックス/芸術家列伝3ジョルジュ・ヴァザーリより)(参考文献:美術出版社/西洋美術クイズより)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.05
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『ラファエロ・サンティの写真集』・・・いよいよ最終回やはり美しいですね〜ラファエロ・サンティRaffaello Santiオッディの祭壇画『聖母の載冠』1503年カンヴァスに油彩(板から移行)267.0cmx163.0m(若き日の作品)ヴァチカン「ヴァチカン美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ゲオルギウスとドラゴン』1503年~1505年板に油彩 29.0cmx25.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ゲオルギウスとドラゴン』1504年~1505年板に油彩 28.0cmx22.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna del cardellino『鶸の聖母』(ヒワの聖母)1505年〜1506年頃板・油彩 107.0cmx77.0cm(フィレンツェ時代)フィレンツェ「ウフィツィ美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna im Grunen『牧場の聖母』1506年頃Madonna with the Christ Child and Saint John the Baptist(聖母子と幼児の洗礼者聖ヨハネ)Madonna del Belvedere(ベルヴェデーレの聖母)板・油彩 113.0cmx88.0cm(フィレンツェ時代)ウィーン「美術史美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『一角獣の貴婦人』1505年〜1506年頃カンヴァスに油彩(板から移行)65.0cmx51.5cm(フィレンツェ時代)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。 ラファエロ・サンティRaffaello Santiバリオーニの祭壇画『キリストの遺体の運搬』(キリストの埋葬)1507年 板に油彩 184.0cmx176.0cm(フィレンツェ時代)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiLa Belle Jardiniére『聖母子と洗礼者ヨハネ』(美しき女庭師)1507年板に油彩 122.0cmx80.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Niccolini-Cowper Madonnaoil on panel,1508『カウバーの聖母』1508年板に油彩 81.0cmx57.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Alba Madonna oil on panel transferred to canvas,c.1510『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』(アルバの聖母)1511年カンヴァスに油彩(板から移行)直径95.0cm(フィレンツエ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖体の論議』1509年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン「ヴァチカン宮殿」著名の間ラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン「ヴァチカン宮殿」著名の間ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母子と洗礼者ヨハネ』(玉冠の聖母)1511年 板に油彩 68.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。「ラファエロと工房」『ボルゴの火災』1511年〜1514年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン「ヴァチカン宮殿」火災の間ラファエロ・サンティRaffaello Santi聖会話『フォリーニョの聖母』1511年〜1512年カンヴァスに油彩(板から移行)320.0cmx194.0cm(ローマ時代)「ヴァチカン美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ボルセーナのミサ』1512年フレスコ 幅660cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン「ヴァチカン宮殿」ヘリオドロスの間ラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna Sistinaマドンナ・システィーナ『システィーナの聖母』(シストの聖母)(サン・シストの聖母)1513年〜1514年頃カンヴァス 油彩265.0cmx196.0cm(ローマ時代)ドレスデン「アルテ・マイスター絵画館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ペテロの解放』1513年〜1514年(牢獄から解放される聖ペテロ)フレスコ 幅660cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン「ヴァチカン宮殿」ヘリオドスの間ラファエロ・サンティRaffaello SantiMadonna della Seggiola『小椅子の聖母』1513年〜1514年頃板に油彩 71,0cmx71,0cm(ローマ時代)フィレンツェ・ピッティ宮殿「パラティーナ美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『バッダッサーレ・カスティリオーネの肖像』1514年〜1515年カンヴァスに油彩 82.0cmx67.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ビント・アルトヴィーティの肖像』1514年〜1515年板に油彩 59.7cmx43.8cm(ローマ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『友人のいる自画像』1518年カンヴァス 油彩 99.0cmx83.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロとその工房『フランソワー世の聖家族』1518年カンヴァス 油彩(板から移行)207.0cmx140.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館}所蔵。ラファエロ、後に工房『アンティオキアの聖マルガリータ』1518年板に油彩 178.0cmx122.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティ?Raffaello Santi『ラ・フォルナリーナ』1518年〜1519年板に油彩 87.0cmx63.0cm(ローマ時代)ローマ「国立絵画館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『キリストの変容』1518年〜1520年板に油彩 405.0cmx278cm(ローマ時代:未完となった遺作)ヴァチカン「ヴァチカン美術館」所蔵。ラファエロ・・・とは?ラファエロ・サンティRaffaello Santi(黒い帽子=ラファエロ、白いベレー=ソドマ)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、女性との関係も多々あり、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。ラファエロの鑑賞は、今日で最終回です明日から西洋絵画の基本クイズを始めようかと考えています。よろしくです(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.04
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ラファエロ・・・とは?直ぐ理解!ざっくりした年表を制作ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)(中央=黒い帽子の自画像)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、女好きでモテモテ、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であり、創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家である。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロざっくり年譜(ウルビーノ時代)1483年4月6日(0歳)、ウルビーノに生まれる。父は、画家のジョヴァンニ・サンディ、母は、マジーア・ディ・パッティスタ・チャルラ。1491年(8歳)、母死去。ペルジーノに弟子入り。1494年(11歳)、父死去。母方の叔父が後見人となり、ラファエロも共同経営権を得るが、実際には、父の工房は筆頭弟子のエヴァンジェリスタ・ダ・メレートが継ぐ、この頃からペルジーノの工房で徒弟奉公を開始。(ペルージャ時代)1494年、レオナルド・ダ・ヴィンチが『最後の晩餐』を完成。フィレンツエで共和政府がスタート。1499年(16歳)、この頃、最初の単独作『三位一体の行進旗』制作。1500年(17歳)、親方として登録される。12月10日、『聖ニッコロ・ダ・トレティーノの祭壇画』受注契約(ビアン・ディ・メレートとの連名)1503年(20歳)、ペルージャの有力家系オッディ家から注文を受ける。(『オッディの祭壇画』)レオナルド・ダ・ヴィンチ『アンギアーニの戦い』に着手。のちにミケランジェロとの世紀の対決に発展。(フィレンツェ時代)1504年(21歳)、このころフィレンツェに居を移す。『マリアの結婚』を制作。ミケランジェロが『ダヴィデ』を完成。設置委員会レオナルドやボッティチェリ、ペルジーノなどが参集。1505年(22歳)、『三美神』『騎士の夢』を完成。1506年(23歳)、フィレンツェの大商人たちから評価を得る。1507年(24歳)、『バリオーニの祭壇画』での試行錯誤。『美しき女庭師』制作。(ローマ時代)1508年(25歳)、ローマに居を移す。ウルビーノ公の死を受けて、4月10日の日付のある手紙を伯父に向けて書く。ミケランジェロが、システィーナ礼拝堂壁画に着手。1509年(26歳)、ヴァチカン宮スタンツェでの大壁画第一作『聖体の論議』完成。教皇の補佐官的役職に就く。1510年(27歳)、 『アテネの学堂』完成。大銀行家キージからの制作依頼が始まる。ボッティチェリ死去。1511年(28歳)、キージ邸宅に壁画。『ガラティアの凱旋』制作。1512年(29歳)、ヴァチカン宮のステンツェの壁画制作と並行して、ローマの上流階級からの注文を精力的にこなす。大工房による分業制が顕著となる。1513年(30歳)、サン・ピエトロ大聖堂でのプランマンテの建築事業に協力。ステンツェの制作に対する支払い記録(50ドゥカーティ)。『聖チェチリアの法悦』を受注。このころ、『システィーナの聖母』を制作。1514年(31歳)、ブラマンテのあとを継いで、サンピエトロ大聖堂の造営主任となる。婚約者マリア・ピッピエーナ死去。1515年(32歳)、古代遺物監査官に任命される。ドイツの画家デューラーとの通信記録。1516年(33歳)、ヴァチカン宮システィーナ礼拝堂のためのタペストリー下絵を完成。このころ、着手したピッピエーナ枢機卿のロジェッタでグロステク様式を多用。1517年(34歳)、レオ十世ロッジャに着手。1518年(35歳)、ヴェラ・マダーマの建築に着手。このころ、『ラ・フォルナリーナ』制作。1519年(36歳)、タペストリーの最初の7点が、ブリュッセルから届きシスティーナ礼拝堂で公開される。やつれた表情の『友人のいる自画像』制作。レオナルド・ダ・ヴィンチ死去。1520年(37歳)、遺作『キリストの変容』制作。約一週間にわたる高熱の後、4月6日、死去。翌7日、本人の遺書によりパンテオンに埋葬される。【世界遺産】パンテオン(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.10.03
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ラファエロはイケメンで女好きだったそうで噂の女性は何者だったのでしょうか?ラファエロの女性関係について知りたいですね美しい肖像画が多いですが、その中に本命は誰?ラファエロは生涯独身であったが、婚約者はいました。婚約書は・・・ビッビエーナ枢機卿の姪マリア(通称:マリエッタ)で、枢機卿からのしつこい勧めに応じて、婚約関係を結んだものの、先々、自身が枢機卿の地位を得ることを見越し(聖職者は妻帯できないため)、結婚を先延ばしにしていたと言われてていたと伝えられる。結局、この婚約者はラファエロよりも先に他界してしまう。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(黒い帽子=ラファエロ、白いベレー=ソドマ)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、女性との関係も多々あり、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ヴァザーリによれば、ラファエロは・・・女好きで「愛の悦楽にこと事欠かなかった」というが、その相手は、婚約者とは別の女性だった。ヴィッラ・ファルネジーナの「アモルとプシュケのロッジャ」の装飾が行われていた頃、ラファエロは、とある女性に夢中であったため、キージは、彼を仕事に集中させようと、彼女が仕事場に居られるように配慮したという。そして、ある時、ラファエロは、度を越した情事の結果高熱を発し、それを熱病と勘違いした医者たちの不適切な処置によって命を落とすことになった。死期をさとったラファエロは、その女を家から去らせ、生活資金が渡るよう手はずを整えた、という。加えてヴァザーリは、彼が最期の時まで愛していたその女性の肖像画が、フィレンツェの商人ボッティ家に所蔵されているとも記している。ラファエロの恋人とは、どのような人物で、彼女を表した肖像画とは、どの絵画を示すのだろうか?ボッティ家が所蔵していた女性の肖像画にあたるのが、『ヴェールの女性』と通称される肖像画である。ここでは、暗褐色を背景に、ヴェールを被った女性が描かれている。女性は、四分の三面観、右手を心臓のあたりにあて、左手を下方におろしたポーズで、たっぷりとした布地の豪華な衣装をまとっている。ヴァザーリが伝記を著した16世紀中頃にボッティ家の所蔵品であった本作は、17世紀にメディチ家の所有となったことが、記録から確認され、現在では、同家のコレクションを引き継ぐフィレンツェのピッティ宮殿(パラティーナ美術館)に収められている。この髪と瞳の黒い上品な女性は、その装いから高貴な身分のように見える。彼女が、ラファエロの恋人だったのだろうかこの女性の肖像画およびラファエロの伝説上の愛人に関しては、研究史上やや複雑な経緯がある。ピッティの絵が、ヴァザーリの記述と結びつけられ、ラファエロによる肖像画と特定されたのは、19世紀の中頃であり、それまでその存在はほとんど忘れ去られていた。本作のモデルの容貌が、ラファエロによる『システィーナの聖母』の聖母の顔に似ていることが、ヨハン・ダヴィッド・パッサヴァン(1787年〜1862年)というドイツの画家・美術史家に指摘されてようやくこの絵の高い質と重要性に注目が集まるようになったのである。似たようなタイプの顔・・・卵型で頭部で、顎がやや小さく、髪の毛を額の真ん中で分けてまとめている・・・女性は、ラファエロの他の絵画にも度々登場する『小椅子の聖母』の聖母や、『聖チェチリアと聖人たち』にて、中央の楽器を持つ聖チェチリアの向かって右隣に立つ、マグダラの聖マリアなどにその面影が見出される。ラファエロの愛した女性と見なされてきた作品は、ほかにも存在する。実のところ、ピッティの『ヴェールの女性』が脚光を浴びる以前、彼の愛人の肖像画として知られていたのは・・・ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ラ・フォルナリーナ』1518年〜1519年板に油彩 87.0cmx63.0cm(ローマ時代)ローマ「国立絵画館」所蔵。『フォルナリーナ』である。この女性像像は、不思議なことに・・・『ヴェールの女性』とほぼ同様の瞳と髪型で、真珠のアクセサリーを同じ位置につけている。また、ポーズも似ているが、半裸であり、腹部に薄いヴェールをまとい、腰元は、赤い布で覆われている。そして左の上腕部にはめた腕輪には、「RAPHAEL ・VRBINAS(ウルビーノのラファエロ)」と銘が記されている。この作品こそ、ヴィッラ・ファルネジーナの装飾の際にラファエロのそばにいた女性の肖像画である。描かれた女性の腕輪に記された画家の名前は、単なる署名ではなく、この女性がラファエロのものであることを示す。と解釈されたのである。彼女が、ラファエロの愛人であり、ヴィッラ・ファルネジーナが建つトラステヴェレに住んでいた、という伝説が付与されていった。彼女はいつからかフォルナリーナ、つまり、「粉屋(パン屋)の娘」という通称で呼ばれ、ラファエロの愛した女は、トラステヴェレのパン屋の娘であった。という説が浸透していった。『ヴェールの女性』では、全体的に輪郭線が強調されず、柔らかな、光が拡散するような描写で対象が描かれている。一方で『フォルナリーナ』は、とくに顔の各部の輪郭線がより明確で、コントラストがはっきりしている。前者の視線の先は・・・やや曖昧であるが、後者では女性はこちらへしっかりと目線を向けている。一見したところ、2点が同じ作者の手によるとは思い難い様式の差である。この『フォルナリーナ』の作風は、ラファエロというよりは・・・彼の弟子:ジュリオ・ロマーノの様式に近いものと判断される。ジュリオ・ロマーノは、師の単なる模倣者にとどまる画家ではなかった。徐々に個性を発揮していく彼が好んだスタイルは、コントラストがより明確な描写であった。当時は用いることがあまり推奨されていなかった黒い色彩を多用し、明暗の差をより強く表していくようになる。その作風は、後期のラファエロに影響を及ぼしたとする意見もあるほどである。修復の過程で撮影された『フォルナリーナ』のX線写真から、表面の絵具層の下には、元々、より柔らかなタッチで女性像が描かれていたことが判明している。また、現状では背景に濃色で植物のシルエット・・・ギンバイカ、マルメロ、月桂樹の葉が、浮かび上がっているのだが、当初は、風景描写が広がっていたことも確認された。本作の現状は、こうした描写の上に加筆され出来上がったものと考えられる。すなわち、本作は・・・ラファエロがまず着手し、その後なんらかの事情で、この絵を引きとったジュリオ・ロマーノが、オリジナルの構図を維持しつつも顔を中心に加筆を施したのではないか、と。そうして、ラファエロの構図を保ちながら、彼の作品とは異なった雰囲気で仕上げられる結果となった。と思われるのである。女性がヴィーナスに基づくポーズで描かれ背後の植物:ギンバイカ・マルメロは、伝統的に女神の象徴である。このモデルをヴィーナスとして、官能的魅力を交えて描き出した作品。とみることができる。フォルナリーナ・・・とは?かまど竈やオーヴンを意味する単語「フォルノ」から派生した語で、古代の文学を参照した近世の文学では、その単語自体に「愛人・情婦」という暗喩があった。オーヴンの中は柔らかいパン生地が高熱で焼かれ硬くなる・・・つまり、「フォルノ」は、女性器を暗に意味し、「フォルナリーナ」は、男を性的に興奮させる女、単なる「愛人」の比喩であり、モデルの女性がパン屋で働いていたという根拠とはなりえない。というのである。こうした見方に基づくならば、彼女をパン屋の娘マルゲリータ・ルーティとする見解は退けられ、女性の正体は再び謎に包まれることになる。女性の視線や裸体表現から、ラファエロ周辺の貴族?あるいは、ラファエロ本人を客としていた高級娼婦?だとすると、モデルは一体・・・誰なのか?『ヴェールの女』との関係は?まだまだ不明点が多い・・・知れば知るほど納得できません(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.10.02
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ラファエロが描いた超イケメン!この人はいったい誰なのでしょうかラファエロ・サンティRaffaello Santi『ビント・アルトヴィーティの肖像』1514年〜1515年板に油彩 59.7cmx43.8cm(ローマ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(黒い帽子=ラファエロ、白いベレー=友人ソドマ)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』このイケメンは・・・誰?この美しい肖像画は、印象的ラファエロの描いた今までの構図と異なっている。モデルは・・・横向きに立ち、胸元に片手をあてながら、顔をこちらへ向けている肩越しにこちらへと視線を向けている長い金髪の男性は・・・フィレンツェ出身のローマの銀行家、ビント・アルトヴィーティ(1491年〜1557年)である。アルトヴィーティは・・・メディチ家と懇意で、ラファエロの聖母子画や、ミケランジェロの素描を所有する美術愛好家でもあった。本作について、ヴァザーリは、ラファエロが・・・「アルトヴィーティのために彼の若い頃の肖像画を描いた」と説明している。この「彼の若い頃」は、アルトヴィーティが若かった頃、という意味なのだが、ヴァザーリの伝記が各国語に訳され流布した18世紀、ファラエロが若かった頃、と誤った解説が付与された。そこから、この金髪の男性がラファエロ自身であると謝って伝わってしまった。そもそもラファエロは、黒髪なのだが・・・彼の作品の多くが単色の板絵で流布していた時代に、よく知られたウフィツィの自画像と似たようなベレー帽を被っていること、また、貴公子のような外観が、神に愛された画家たるラファエロのイメージと結びついたこともあってか、誤解は浸透していった。18世紀中頃に出版された板絵には、(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.10.01
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若きラファエロ・サンティがフィレンツェ滞在中は、古代芸術を参考に描くことが流行っていましたローマ「ボルゲーゼ美術館」内展示室古代芸術を参照した作品例は、当時の芸術家にとって時流に乗ることだった。フィレンツェ時代のラファエロもまた、古代芸術との直接的な関わりを自身の作品に反映させていく。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であり、創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家である。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロ・サンティRaffaello Santiバリオーニの祭壇画『キリストの遺体の運搬』『十字架降下』『キリストの埋葬』『キリスト埋葬』1507年 板に油彩 184.0cmx176.0cm(フィレンツェ時代)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。1507年に完成した、ペルージャのバリューニ家の注文で制作された主題は、『キリストの埋葬』である。ここでは、磔刑に処され息をひきとったイエスが、男たちによって、墓へと運びこまれる様子が表されている。ラファエロは・・・構図を決める過程で、同主題の構図を何点も参照して構想を重ねていたことが、複数の素描から明らかとなっている。しかし、画面を占めているイエスと、その遺体を運ぶ人物たちのポーズは、最終的に、ローマに残されていた古代石棺の浮彫・・・「メレアグロス石棺」と呼ばれる構図を踏襲したものとなった。ユリウス二世に招聘される1508年以前にも、ラファエロはローマに何度か足を運び、市内の建築や残された遺物をスケッチし、実際の作品に反映させていたのである。「メレアグロス石棺」・・・とは?古代世界では、側面に浮彫装飾が施された石棺が多くあり、その造形はルネサンスの芸術家たちにしばしば参照された。「メレアグロス石棺」は、アルベルティ『絵画館』で言及されていたため、当時の芸術家たちのあいだで広く知られていたことは確実である。アルベルティは、ストーリー性のある主題を歴史画と定義し、その説話内容をうまく伝えるため、人物の肢体や感情を適切に表現すべきだと説き、好例としてこの石棺を引用していた。メレアグロスは、古代ギリシアに登場する英雄で、悲劇的な死を遂げる。死によって四肢が脱力したメレアグロス、それを重そうに運ぶ人物の表現が賞賛された石棺を、ラファエロは、ローマで実見し、埋葬されるイエス・キリストの表現に転用したと考えられる。制作の際に重要視されたのは、遺体やそれを運ぶ人物たちの身体表現であり、異教古代の表現をキリスト美術に転用する、宗教・主題上の違いは、大きな妨げとはならなかったのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)この作品は、1507年にペルージアのアタランタ・バリオーニの依頼で描かれた。同族間の抗争のために、ペルージアの広場で殺害された彼女の息子グリフォネットを追憶するものであった。そのために、伝統的な「十字架降下」の図像とは異なり、画家は伝統に縛られることなく、ここでは死んだキリストの遺骸を描いている。キリストの遺骸を取り巻く周囲の人々の嘆きは騒々しいものではなく、ラファエロの感性によって、ある種の悲痛に満ちたあきらめに変わっている。この作品には、ギリシア神話の英雄メレアグロスの遺体を運ぶ光景を表す古代の浮彫の影響が指摘されている。空間表現は・・・フィレンツェ時代のものよりも幾何学的ではなくなり、より自由に、そしてより自然なものになっている。いずれにしても、ミケランジェロの影響が強く、それはこの『十字架降下』のキリストの垂れ下がった腕や、地面に座っている右端の女性に認められる。この女性の姿は、ミケランジェロが1504年から1506年のあいだに描いた『ドーニ家の聖家族』の聖母像を思慮深く踏襲しており、その力強い構図や自由な空間の雰囲気がラファエロに衝撃を与えたのは確かである。(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.30
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ラファエロの『一角獣を抱く貴婦人』は、レオナルドの『モナ・リザ』のポーズとほぼ同じですよねラファエロ・サンティRaffaello Santi『一角獣の貴婦人』1505年〜1506年頃(一角獣を抱く貴婦人)(一角獣を抱く婦人)カンヴァスに油彩(板から移行)65.0cmx51.5cm(フィレンツェ時代)ローマ「ボルゲーゼ美術館」所蔵。 『一角獣の貴婦人』を描いている。この作品自体、ペルジーノに帰属されていた時期があり、さらに近年まで、アレクサンドリアの聖カタリナを描いたものだと思われていた。ところが、1935年の修復によって、聖カタリナの刑具である車輪の下から、一角獣が姿を現した。処女にしか懐かない伝説上の動物が、描かれていたことにより、描かれた人物の純潔が強調されていることがわかる。そのため、おそらくこの作品は、これからの結婚を控えた女性の見合いの写真のような機能を持っていたものと思われる。女性が座るバルコニーの両側に円柱があること、背後に風景が広がること、手を組んだ女性の上半身のみ描かれ、さらにそれが斜め前を向いていることなど、この作品は『ラ・ジョコンダ』と多くの点で一致する。こののち、ラファエッロはこの「上半身」で、「手を前で合わせる」「坐像」で、やや斜め前を向く「四分の三正面観」を肖像画の基本とする。完成作が極端に少ないレオナルドにかわって、ラファエロは、夥しい数の肖像画をこの定義に則して描き、彼自身がその後「美の規範」(美のカノン)とみなされていくのにともなってそれが西洋美術の肖像画の定型ともなっていった。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であり、創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家である。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』『一角獣を抱く婦人』頭部1930年に行われた修復で、4世紀の殉教者、アレクサンドリアの聖女カタリナの図像学的な象徴であるアトリビュート(持物)(釘の打たれた車輪)を持った聖女像の下から、純潔を象徴する一角獣を抱く世俗的な顔立ちの若い婦人が発見された。ロンギの直感的な指摘に従い、現在では、これはラファエロの自筆とされ、ちょうどフィレンツェ時代の1505年頃の制作とされている。これはまさしくこの時代に、ラファエロによって描かれた一連の肖像画に属するもので、ラファエロの芸術の進展の到達点を示すものである。レオナルドに着想を得てはいるものの、ラファエロの特色である簡潔なひろびろと広がる背景の風景から、巧みに構成された形体がくっきりと際立っている。(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)かつてこの絵画に描かれていた女性は、キリスト教世界の聖女であるアレクサンドリアの聖カタリナと解釈されていた。両肩に厚い衣をまとい、右手に殉教のシンボルであるしゅろ棕櫚の葉を持ち、左手は部分的に見える車輪、つまり聖女の殉教具に触れていたためである。しかし、19世紀前半に行われた絵画の修復の結果、これらのモティーフは、後世の加筆だということが明らかになり、除去された。そして、オリジナルの描写・・・現在のような、女性が膝の上に抱く一角獣が発見されたのである。この肖像のモデルは不明であるが、一角獣は、純潔の象徴であるため、彼女の結婚を記念して描かれたのではないかと推察される。本画面の構図は、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を下敷としていることが明らかである。そのため、ラファエロが、フィレンツェでその絵を学んだ1505年〜1506年頃に描かれたのではないか?と考えられている。女性の四分の三面観の顔貌や、こちらを見つめる眼差し、重ね合わされた両手のポーズ、そして、画面両脇に円柱が建つバルコニーのような空間は、レオナルドの作品に基づくラファエロのスケッチと非常によく似ている。女性の透けるような白い肌や、繊細な髪の毛の描写、奥に広がる青みがかった風景の表現などは、ラファエロの聖母子画に見られる特徴とも共通している。想像上の動物である一角獣をともなった本作は、どこかミステリアスな雰囲気とともに、女性の若々しく、凛とした佇まいを描き出している。その構図の明瞭さから、画面には緊張感すら漂っていると言えるだろう。本作のように、人物像の背景に戸外の風景を描く構図は、当時のフィレンツェで好まれたものである。一方、ローマに移ったラファエロは、背景に暗色やグラデーションのかかった色面を用いた肖像画も多く制作するようになる。『一角獣を抱く貴婦人』と同じようなポーズで描かれた男性の肖像画の一つにラファエロ・サンティRaffaello Santi『バッダッサーレ・カスティリオーネの肖像』がある。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.09.29
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ラファエロには、珍しい白馬に乗って甲冑を着た若者が描かれた戦争画2作品を見てみましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ゲオルギウスとドラゴン』(聖ゲオルギウスと竜)1503年~1505年板に油彩 29.0cmx25.0cm(フィレンツェ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ゲオルギウスとドラゴン』(聖ゲオルギウスと竜)1504年〜1505年板に油彩 28.0cmx22.0cm(フィレンツェ時代)ワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であり、創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家である。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』パリ「ルーヴル美術館」の『聖ゲオルギウスとドラゴン』(聖ゲオルギウスと竜)1503年~1505年ワシントン「ナショナル・ギャラリー」の『聖ゲオルギウスとドラゴン』(聖ゲオルギウスと竜)1504年〜1505年この2点の作品は、甲冑に身を固めた若者という主題だけでなく、さらに様式的な要素という点で一致する同じ系列の作品である。ラファエロが、フィレンツェ滞在中に描いたもので、トスカーナ地方のこの都市で活動していた、あるいは、フィレンツェに作品を残したすぐれた画家たちから、彼がどのような刺激を受けたかを考えることができる作品である。これらの作品を支配しているのは、レオナルド・ダ・ヴィンチの影響である。レオナルドが、1504年〜1505年にフィレンツェのパラッツォ・デッラ・シニョーリア(市庁舎)の「五百人広間」の壁に描いた『アンギアーリの戦い』の、軍旗の争奪をめぐって闘う一群の戦士たちは、戦争画の手本であった。(これはレオナルドが行った実験的な技法のために 不運にもすぐに損傷し消失した)。しかし、ルーヴル美術館所蔵の対をなす『大天使ミカエルと竜』に見られる火事の炎の照り返しや、人の形をした怪物は、フランドル地方の絵画、とくにこのようなものを得意としたフランドル地方の画家:ヒエロニムス・ボッシュ(1450年頃〜1516年)の絵に関連づけて考えられ、この事実は、私たちをウルビーノでは、北方の芸術と結びつきの伝統がまだ残っていた。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)ラファエロにぽち
2022.09.28
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ラファエロの遺作として有名な『キリストの変容』と彼の人生を振り返ってみましょう。ラファエロ・サンティRaffaello Santiラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=キリストに似た容姿/最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であり、創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家である。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』【最晩年のラファエロ】ラファエロの健康状態は、尽きることのない活動と、度を過ぎた私生活、(ヴァザーリが伝えるところによれば)によって触まれ、急速に終焉に近づいていた。『キリストの変容』1518年〜1520年板に油彩 405.0cmx278cm(ローマ時代:未完となった遺作)ヴァティカン・ヴァティカン宮殿「ヴァチカン絵画館」所蔵。そのころのラファエロは、『キリストの変容』の板絵を完成させることもままならないほどであった。この作品は1517年に、ラファエロが、ジュリオ・デ・メディチ枢機卿からフランスのナルボンヌの大聖堂のために依頼されたものである。しかし、1523年にローマのサン・ピエトロ・イン・モントリオ聖堂に置かれ、1797年パリに運ばれ、1815年から、現在のヴァティカン絵画館に所蔵されているこの作品の構想は壮大な合唱のようである。構図は・・・はっきりと二分されている。下の部分には、てんかん癲癇病の少年の治療の物語が描かれ、その背景をなす上の部分には、タボール山での『キリストの変容』が描かれている。山の頂きの上に、モーセとエリアをともなったキリストが空中に浮かび、その足元には弟子たちがいる。彼らは栄光の光に圧倒されているかのように、あるいは祈っているかのように見える。二つの部分は、奇蹟に立ち会う群衆の身振りによって結び付けられている。この目撃者たちがふり上げる腕は実際キリストの方に集中している。この「壮大な」構図においてラファエロは、けっして古代の作品を無視していないが、同時代のもっともすぐれた作品、すなわち、レオナルド(ラファエロがフィレンツェ滞在中に受けた影響の確かな記憶)のモティーフと、そして自己陶酔的な意識で、自分の絵のモティーフのすべてを要約している。したがってこの作品は、(ミケランジェロの円型画『ドニー家の聖家族』と同じく)きたるべきマニエリスム様式の先駆を成すものである。この作品の構図がどれほど熟慮され、単純化されたものであるかは、人物たちのための多くの素描(ラファエロ自身のものと弟子たちのもの)や、1977年に行われた修復によって明らかになったさまざまな最初の下絵から、推定することができる。修復はまた、この作品が、ラファエロの自筆であるかどうかという疑いを晴らし、修正や加筆も、完全な一致を見たわけではないが、すべてがラファエロの手になるものと考えることができる。創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家の最後の遺作。これは、当時の芸術を代弁するのにもっともふさわしく、数世紀にわたって称賛され研究されたモティーフの一つであった。古典的な精神が、完璧さという普遍的な価値として、そして芸術表現のもっとも高い象徴として探究されるたびごとに、ラファエロの芸術は研究され、模倣された。あらゆる「古典」への回帰は、彼をモデルとし、いつの時代の芸術家たちもラファエロにインスピレーションを求めてきた。ラファエロは、かつて何世紀にもわたって放棄さ衰退していたローマを、文化と芸術の一大中心地とすることに大きく貢献した。そして、1520年4月6日、ウルビーノで生まれたのと同月同日に、ローマでその生涯を終えた。37歳であった。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.27
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ルーヴル美術館には、ラファエロの友人でもあった彼の肖像画がありますラファエロ・サンティRaffaello Santi『バッダッサーレ・カスティリオーネの肖像』(バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像)1514年〜1515年カンヴァスに油彩 82.0cmx67.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。バルダッサーレ・カスティリオーネ・・・とは?Baldassare Castiglione1478年12月6日〜1529年2月2日イタリア・ルネサンス期の外交官、作家で「宮廷人」(廷臣論)の著書で知られる。ヨーロッパの上流階級の社交術や教養を説いて、長く教養人のにとっての模範書とされた。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』 『バッダッサーレ・カスティリオーネの肖像』16世紀初期のウルビーノの宮廷で活躍した著名な文人で、ルネサンスの趣味と文化の統合を表した「廷臣論」の著者、そしてラファエロの友人でもあった『バルダッサーレ・カステリオーネの肖像』(現在:ルーヴル美術館所蔵)は、1516年にピエトロ・ベンポが、ビッビェーナ枢機卿に宛てた手紙から、疑問は残るが、ラファエロの自筆とされている。すなわち、「M.バルダッサーレ・カスティリオーネの肖像・・・(それにグイドバルド・ディ・モンフェルトロ公の肖像)は、ラファエロの見習いのひとりの手になるように思われます」。しかし、この絵の非常に高い質と、絵画的なあらゆる要素のすぐれた表現はつねに認められてきた。実際、情愛こめて描かれたカスティリオーネの知的で穏やかな顔、服のぼかした調子、人物の高潔さを際立たせている他の作品には見られない明るい背景が注目される。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.26
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ヴァティカン絵画館に並ぶラファエロの大きな3作品のなかで一番右の作品は、若い頃の作品なのです左から『フォリーニョの聖母』『キリストの変容』『聖母の戴冠』ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であり、創造的刺激に満ち、けっして優柔不断や苛立ちを経験したことがなく、すぐれた調和と均衡を保ちながら熟考し、探究に没頭して、情熱的な短い生涯を送った芸術家である。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖母の載冠』1503年(オッディ家の祭壇画)カンヴァスに油彩(板から移行)267.0cmx163.0m(若き日の作品)「ヴァチカン絵画館」所蔵。1502年〜1503年のあいだに、ラファエロは『聖母の戴冠』を制作した。これは本来、ペルージアのサン・フランチェスコ・アル・モンテ聖堂のためにオッディ家から、ペルジーノに依頼されたものだが、ペルジーノは弟子のラファエロに制作を任せた。この作品では、15世紀の図像では通常、まったく異なる二つの場面を、一つの祭壇画のなかに描くことが課題となった。すなわち「聖母の戴冠」を祭壇画の画面上部に、「聖トマスへの帯の授与」(「聖母被昇天」の場面と伝統的に結びつけられる物語)を下部に描いている。形体はすでに円熟に達し、15世紀の慣例的な表現とは明らかに異なって聖母の墓を画面に対して斜めに置くという遠近法的な革新さえ認められるにもかかわらず、上下の二つの場面は、はっきりと分かれたままである。おそらく、それはウルビーノ地方で相変わらず顕著であった不明瞭な構図の伝統に起因するのであろう。現在残っているいくつかの素描は、ラファエロがこの祭壇画の制作をいかに熟慮していたかを証明している。実際、使徒たちの非常に表情豊かな顔や背景の清朗な風景に見られるように、細部は非常に美しい。しかし、この作品のもっとも重要な部分は、プレデッラに描かれている場面である。「受胎告知」の場面に描かれている柱廊の開かれた大きな空間。「東方三博士の礼拝」を見守るいきいきとした群衆。「神殿奉納」で描き出された、人々が自由に動き回ることのできる空間。これらは、ラファエロが将来ヴァティカン宮殿で驚くべき空間表現を描出することになる、直観をすでに予告している。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.25
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ラファエロ・サンティには婚約者がおりましたが、愛人とされる肖像画も描かれていますラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロは・・・公共のための仕事や、あるいは市民生活や教会国家において重要な地位を占める顧客ののために熱意をもってあたっていたが、しかし、その間にも一連の「聖家族」や、「聖人たち」を描くような目立たない仕事も無視してはいなかった。たとえ実際の制作が、つねにほとんど助手たちに任されていたとはいえ、構想はラファエロのものである。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ラ・フォルナリーナ』1518年〜1519年板に油彩 87.0cmx63.0cm(ローマ時代)ローマ「国立絵画館」所蔵。『ラ・フォルナリーナ』と呼ばれる若い女性の肖像でも、左肩についている細い腕輪にラテン文字で、「ウルビーノのラファエロ」と署名が書かれており、やはりこうした観点から考えるべきである。この作品は、伝統的にラファエロの愛人だった女性の容貌を表していると考えられてきた。彼女は・・・本名をマルゲリータ・ルーティといい、シエナ生まれで、ローマのサンタ・ドロテア地区にあるパン屋(イタリア語でフォルナイオ。ここから愛称がきている)の娘だった。たしかに、そのいくぶん硬い目鼻立ちと、重苦しい明暗法は、少なくとも、ラファエロの晩年の自筆の作品に見られるような、色彩と色調が「溶け合う」ものではないように見える。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.24
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ラファエロの描いた「栄光の聖母」2作品・・・とは?ラファエロ・サンティRaffaello Santi聖会話『フォリーニョの聖母』1511年〜1512年カンヴァスに油彩(板から移行)320.0cmx194.0cm(ローマ時代)「ヴァティカン絵画館」所蔵。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】署名の間『アテネの学堂』『システィーナの聖母』(サン・シストの聖母)ヴァティカン宮殿の「署名の間」、ヴィラ・ファルネージーナのフレスコ画装飾、そして、『預言者イザヤ』で、ラファエロが達成した荘厳な形体は、「栄光の聖母」を描く2点の大きな油彩画においても用いられている。その最初に作品は・・・1511年〜1512年にシジスモンド・デ・コンティのために制作したもので、『サン・シストの聖母』と呼ばれている。「ドレスデン国立絵画館」所蔵。265.0cmx196.0cmその間にも、ラファエロの造形研究は・・・『神殿から追われるヘリオドロス』や『牢獄から解放される聖ペテロ』に見られた光の効果をさらに高めていった。彫刻的な明暗効果による構成は、現在、ヴァティカン絵画館が所有する『フォリーニョの聖母』に見ることができる。天使たちに栄光を称えられ、オレンジ色の円盤を背にした聖母子が、聖人たちと注文主のグループ左から右に・・・洗礼者ヨハネ、聖フランチェスコ、寄進者シジスモンド・デ・コンティ、聖ヒエロムニスを見下ろしている。構図の中心にいる小さな天使が持つ銘板には、この絵が奉献されることとなった奇蹟的な出来事について書かれていたに違いない。それは、フォリーニョにあった寄進者の邸宅に、ある日、落雷があったか、あるいはウンブリアの町が攻略されたときに砲弾が落ちてきたかしたが、いずれにしても、邸宅は無傷であったというものである。また、左側に見えるコンティ家に落ちた雷あるいは爆発の閃光に照らし出された、嵐のような状況に描かれた風景も、この出来事を物語っている。かつて、ピアチェンツァの聖堂を飾っていたと伝えられ、現在、ドレスデン国立絵画館が所蔵する、聖母子と聖シクストゥスと聖母バルバラを描いたカンヴァス画通称『サン・シストの聖母』(システィーナの聖母)では、しかし、その空間は人物たち自体が作りだす想像上のもので、風景を暗示するようなものは何も描かれず、またどんな付随的なものも描かれていない。画面は・・・この聖なる集団を気づかせるように開かれたカーテンと雲によって縁取られている。この絵は本来、教皇ユリウス2世の墓の装飾用に制作されたと考えられている。そのことは、デッラ・ローヴェレ家の守護聖人である教皇聖シクストゥスと聖女バルバラ、そして2人の有翼の子ども・・・葬儀を象徴している・・・の存在が暗示しているように思われる。聖母は、雲に隠された球体の上を進むように描かれ、彼女のヴェールは、降り下ってゆくために風を受けふくらんでいる。そして、2人の聖人は、物思いに耽る2人の天使がよりかかっている聖人教皇の教皇冠が置いてある(画面左端)手すりのこちら側にいる信者たちを、その身ぶり(聖シクストゥス)とまなざし(聖女バルバラ)によって、さし示しているように見える。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.23
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ラファエロは、ヴァティカンの仕事と並行して多くの仕事を捌いておりましたどんな作品かしら?ラファエロ・サンティRaffaello SantiThe Alba Madonna oil on panel transferred to canvas,c.1510『聖母子と洗礼者聖ヨハネ』(アルバ公の聖母)(アルバの聖母)1511年カンヴァスに油彩(板から移行)直径95.0cmワシントン「ナショナル・ギャラリー」所蔵。ラファエロは・・・その時代の文化を定義づける重要な出来事として直ちに認められたヴァティカン宮殿の「署名の間」のフレスコ画の反響により、多くの熱心な注文者から依頼されるようになり、「署名の間」の装飾に従事していた間にも、ラファエロは他に板絵や、油彩による作品を制作した。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ローマ時代の傑作の一つは・・・現在、マドリッドの「プラド美術館」に所蔵されている『枢機卿の肖像』である。これは、かつてはラファエロの晩年の作品と考えられていたが、それよりもむしろ、四分の三正面で描かれ、構図の底辺を形づくる腕が同じポーズで描かれた『アーニョロ・ドーニの肖像』と『マッダーレナ・ドーニの肖像』の夫婦像や、同じ暗い背景の『ラ・ムータ(無口な女)』を想起させる図式から、1510年〜1511年頃に制作されたものと考えられる。『枢機卿の肖像』の暗い背景は、枢機卿の真紅のマントとベレー、そして白い袖の、簡潔な2色だけが使われている前景の色彩感を高めている。『アルバ公の聖母』(ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵)で、ラファエロは、何度も取り組んできた主題、つまり幼な子イエス・キリストと幼い洗礼者ヨハネをともなう聖母の表現に戻っている。この円形面では、構図はきわめて簡潔である。けっして消えることのないレオナルドの影響を思い出させるピラミッド型の図式が、ここでは幅が広がっている。冷たく、響くような色彩が、背景に広がる風景の微妙な緑や青とコントラストを成している。注意深く対照的に配された小さな草花が、その単色によって、地面の淡い黄土色に生気を与えてる。小さな洗礼者ヨハネが持ち、幼いキリストが支えている葦の十字架を、暗示的にじっと見つめる聖母のがっちりした造形と、衣の襞のまとまりのある表現は、ミケランジェロの絵から着想したものであるが、ヴェントゥーリの言うように、「清純な顔立ち、 開いた輝く目は、 ミケランジェロの荘厳な・・・言語を ラファエロの軽やかな言語に 置き換えている」。この作品は、一般に1511年頃の制作と考えられている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.22
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ラファエロが急死してからも協力者による大壁画制作は続きますラファエロ工房と協力者による大壁画ラファエロの間・ヘリオドロスの間『教皇大聖レオ10世とアッティラとの出会い』(アッテラと大教皇レオの会見)ヴァティカン宮殿/ヘリオドロスの間「ヘリオドロスの間」Stanza di Eliodoroスタンツァ・ディ・エリオドーロ「ヘリオドロスの間」の最後の物語(『アッティラと大教皇レオの会見』)は、「署名の間」ですでに実現されたいた左右対称の図式による構図に戻っている。ここには、ローマを攻撃するために駐留していたアッティラに率いられたフン族の軍隊を、神の加護を得て阻止する大教皇レオが描かれている。雌の白馬にまたがる大恐慌の姿は、教皇レオ10世の姿であるが、本来は教皇ユルウス2世が描かれるはずであった。しかし、教皇デッラ・ローヴェレ(ユリウス2世)は、ラファエロが壁画を製作中に没し、その姿は跡を継いだ教皇の姿にとって代わられた。場面は、明確に二つの部分に分けられている。左側では・・・整然とした堂々たる教皇側の陣容が、蛮族の軍団に向かって示されている教皇の和平のしぐさをじっと凝視している。彼らの上には、2人の聖人(聖ペテロと聖パウロ)の奇蹟的な出現にともなって一陣の突風が吹く。背景には・・・ローマの風景が見える。コロッセオ、水道橋、燃えさかるモンテ・マリオ。「ヘリオドロスの間」のほかの壁画にくらべ、いうまでもなくこの画面は一貫性を欠いており、まとまりがない。それは、物語の実際の制作が助手によって行われたためである。そのなかには、もちろんジュリオ・ロマーノの手も介在している。(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)左=白馬に乗った教皇の顔は、レオ10世がモデルとなっている。その後茶色い帽子=メディチ枢機卿(後で教皇レオ10世になった)左上=十字架を持ったパリス・デ・グラッシ左下=薄緑の服はラザロ・デ・マジストス左上=空を飛んでいる聖ペトロ左上右側=並んで空を飛んでいる聖パウロ聖ペテロと聖パウロの下にある建築「コロッセオ」中央=赤い旗を持つアッティラ(写真撮影:ほしのきらり)世界遺産にぽち
2022.09.21
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ヴァティカン宮殿の「火災の間」の大壁画と天井画までをじっくり見てみましょう〜「ラファエロ工房」火災の間『ボルゴの火災』1511年〜1514年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿/火災の間「火災の間」Stanza dell’Incendioスタンツァ・デッリンチェンディオヴァティカン宮殿の次につづく連作は・・・「ボルゴの火災の間」の装飾である。1514年から1517年まで、ラファエロの工房は、そこにレオを名乗った教皇たちの歴史物語を描いた。この部屋には、847年に教皇レオ4世によって奇跡的に消化された『ボルゴの火災』、同じ年にレオ4世の目前で起きた嵐によるサラセンの艦隊の壊滅を描く『オステリアの戦い』『オステリアの海戦』(オステリアの戦い)799年のクリスマスにレオ3世によって執り行われた『シャルルマーニュの戴冠』(説明的な主題と 記念的な主題が、 教皇ユリウス2世の名で制作された 物語におけると同様に、 その当時君臨した教皇の政治的事業を 賞賛することと組み合わされている。 ここでは、レオ10世が熱望し実現した フランスとの和平である)、火災の間『シャルルマーニュの戴冠式』そして、『レオ3世の弁明』が、フレスコ画で描かれている。最後の場面は、ラファエロが描いた数多くの教皇や司教の坐像の先駆をなすもので、16世紀後期、とくに反宗教改革の領域において説明的なモティーフとして一般的になる。さてそこで、四つの物語のうちで、もっとも複雑な『ボルゴの火災』についての分析を試みてみょう。この作品は、古典古代と、教会が成立する初期の時代の中世建築と、そして、ラファエロの同時代の芸術家たちの活動から得られたモティーフなど、それらの借用と回想とに満ちており、847年にサン・ピエトロ大聖堂の前のロマーノ地区の住宅街で起きた火災を消し止めた教皇の手腕を賞揚するものである。構図には・・・すでに複雑な構成が認められる。明らかに古典建築に着想を得ている二つの柱廊が背後に広場に向かい、「セルリアーナ様式」のバルコニー(一つのアーチ状の開口部と 両脇に四角形の入り口のある形式で、 それを広く普及させた建築家: セバスティアーノ・セルリオによって名付けられた)からは、ここでもまたレオ10世の容貌で描かれた教皇が祝福を与えルために姿を現している。背景には・・・16世紀に改築される以前のサン・ピエトロ大聖堂のモザイクで装飾されたファサードが見える。この種の構図にもっともふさわしい用語は、「背景画法」である。ラファエロが各構成部分を、非常に多彩な形について推敲を重ねたことはまちがいないが、彼がこれまで行ってきた造形的研究に見られるような均衡には達していない。さらに人物群は・・・きわめて美しい形体をしているが、人物相互の関係は調和を欠き、そのために散漫な表現になつてしまっている。たとえば、左側のグループ・・・・(老人を背負う若者と、 その横の少年は、 古代ローマの叙事詩「アエネイス」のなかの一逸話である。 父:アンキセスを背負い、 息子のアスカニオスを連れて逃げる アイネイアスの忠実な描写である)、中央の子どもを連れた女たち、そして、右側の、風に服を翻らせ、水を運ぶ女である。また、質的にすぐれたものとしては・・・壁に沿って降りる裸の男をあげるげきであろう。これはまちがいなく、ミケランジェロの英雄的な人物像を想起させる。場面は、上の部分が切られているとはいえ、すぐれた表現効果を得ている。そして、(批評家が言うように)大部分が助手の手になるとはいえ、ラファエロの叙述的能力が存分に発揮されている。火災の間『天井画』丸型のスペースに描かれた四つの画は、ピエトロ・ペルジーノ氏作である。上=三位一体と使徒。下=天使に取り囲まれた創造主。右=栄光のキリスト。左=キリストと洗礼者ヨハネ。火災の間の説明文(伊&英)火災の間『オステリアの海戦』左側の教皇レオ4世の顔は、教皇レオ10世の顔がモデルとなっている。火災の間『教皇レオ3世の誓い』教皇の顔は、教皇レオ10世の顔がモデルとなっている。祭壇の表に描かれているのは、アレクサンロリア市の聖女カタリナの殉教である。火災の間『シャルルマーニュの戴冠式』火災の間『ボルゴの火災』1511年〜1514年【右上】祝福を与える教皇レオ4世。【左側】古代聖ペトロ大聖堂の表。【左下】父:アンキゼスを背負い、 息子:アスカニオスを連れて、逃れるエネアス。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.20
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ラファエロの自筆の大壁画はこの「ペテロの解放」が最後で、その後は工房や協力者が描いていますラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖ペテロの解放』1513年〜1514年(牢獄から解放される聖ペテロ)フレスコ 幅660cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿/ヘリオドスの間ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』「ヘリオドロスの間」Stanza di Eliodoroスタンツァ・ディ・エリオドーロ『ボルセーナのミサ』につづく物語『牢獄から追放される聖ペテロ』・・・とは?ラファエロの熱心な協力者のひとりジュリオ・ロマーノ(1499年頃〜1546年)の参加が認められる。この旧約聖書の「使徒行伝」のエピソードの三つの異なる瞬間 ごくり(獄吏たちの嘆き、 牢獄にはいる光の輝く天使、 神の使いに手をとられ、 まだ出来事に驚きながら 牢獄から脱出するペテロ)は、単一の場面のなかに構想されており、『ボルセーナのミサ』の構図を繰り返していることは明らかである。『ボルセーナのミサ』1512年『牢獄から解放される聖ペテロ』1513年〜1514年牢獄は・・・(ボルセーナの聖堂内陣と同様に)、二つの階段の上につくられている。階段は左右に、側面ではなく正面から描かれている。動きのはげしい人物群が左側に描かれ、そのうちの護衛兵のひとり・・・甲冑は雲が棚引く空に浮かぶ月の光を反射している・・・は、突然目を覚まされた兵士たちに説明を求めている。一方、反対側では武装した兵士たちが眠って動かず、天使につれられて物陰から現れるペテロは予期せぬ救出にまだ放心状態のままのように見える。この場面でもっとも明白な要素は、ラファエロの明暗効果の研究である。天使が自ら発する光の効果と、屋外と屋内の表現によって、ここでラファエロははじめて、丹念に「夜」の光景を描いている。この作品をもって、ラファエロの自筆のすぐれたフレスコ画作品は終了する。これにつづく大壁画は、ローマのサンタ・マリア・デッラ・パーチェ聖堂の『巫女の天使』を除いて、大部分はその協力者たちの手になるものである。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.15
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ラファエロの作品で私の大好きな壁画「ボルセーナのミサ」を見て見ましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『ボルセーナのミサ』1512年フレスコ 幅660cmヴァチカン宮殿/ヘリオドロスの間『神殿から追われるヘリオドロス』につづくのは、もう一つの類まれな出来事である。それはカトリック教会にとっては、聖体祭の発端となったものである。1263年、ローマへ向かう途中のボヘミアのある司祭が、ボルセーナでミサをあげていると、聖杯から血が滴りおち、聖体布に染みができるのを見たという。このことは化体(かたい)(パンと葡萄酒がキリストの肉と血に変質すること)を疑う司祭に対する神の回答として解釈された。奇蹟の証であるこの聖体布は、ボルセーナの近くの町オルヴィエートに移され、その大聖堂に安置された。そのおりに、この大聖堂の形を模した遺物箱に収められ、現在もそこに保管されている。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロが描くこの『ボルセーナのミサ』では・・・出来事の主役である司祭が構図のほぼ中心に置かれ、聖体を捧げ持っている。その左側には・・・敬虔な姿の参列者がいる。2人の従者(何人かの研究者によれば、「署名の間」で、 他の画家たちとともに制作していた ロレンツォ・ロットが描いた人物から着想している)が、場面の背景を形づくる半円形の祭壇衝立から身を乗り出す瞬間がためらいのない率直な筆致で描かれ、ダイナミックな人物表現へと向かうラファエロの新しい傾向をここでも明らかにしている。右側では・・・奇蹟に対して、教会の存在をおうごし、権威を保証するためにユリウス2世が合掌しながらひざまずいている。階段の下には・・・高位聖職者たちがおり、さらにその下には護衛兵(縞模様の制服を着た)と、輿を担ぐ人たちがやはりひざまずいて描かれている。構図の非対称は、特異な出来事にはげしく動揺する左側の人物群によってふたたび強調させている。一方の教皇とその隋員たちの静止した姿は、この奇蹟が起きたときから遠く隔たった時代に、敬虔な瞑想によってこの出来事を回想しているためであるにちがいない。「ヘリオドロスの間」では・・・「署名の間」の装飾では見られなかった助手たちの参加が、大幅に認められる。これは、ローマの注文主からラファエロへの作品依頼が増加したことと、また、そのために工房を組織化する必要があったためである。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.14
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ラファエロのヴァティカン宮殿でのお仕事は、素晴らしいです〜ゆっくり見て行きましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『神殿から撃退されるヘリオドロス』(神殿から追われるヘリオドロス)ヴァティカン宮殿/ヘリオドロスの間ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年のキリスト風の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』「ヘリオドロスの間」Stanza di Eliodoroスタンツァ・ディ・エリオドーロ「署名の間」を完成してまもなく、ラファエロはそれに隣接する部屋の装飾を開始した。ここはのちに、早に描かれた壁面の一場面の主題から、「ヘリオドロスの間」と呼ばれるようになった。この部屋の装飾は、すべて1511年9月から、1514年6月にかけて行なわれた。その間に教皇ユリウス2世が没し、その跡を継いだ教皇レオ10世(ロレンツォ豪華公の子息ジョヴァンニ・デ・メディチ、 在位:1513年〜1521年)は、この部屋の装飾の最後の場面の制作に影響を与えた。その間にラファエロは・・・同じ1511年にローマに到着したセバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485年頃〜1547年)の芸術活動と接触するようになった。彼はラファエロとともに、シエナの裕福な銀行家:アゴスティーノ・キージが、所有する別荘(のちにヴィラ・ファルネジーナと呼ばれる)で再作している。このヴェネツィア出身の画家の絵に表れている強烈な色彩主義は、感受性の強いラファエロを魅了した。その影響は、「ヘリオドロスの間」で、ラファエロが用いた非常に豊かな色調に明らかである。この絵の主題は・・・『神殿から追われるヘリオドロス』以外は、教会の歴史における神の介在である。ヴェールトに描かれている物語は、イスラエルの歴史における神の加護を想起させる(「燃える柴」「ノアへの洪水のお告げ」 「ヤコブの夢」「イサクの犠牲」)。『神殿から追われるヘリオドロス』は・・・旧約聖書外典の物語(マカバイ第2書3章、24-27節)で、パレスティナを支配していたシリアのセレウコ王朝のヘリオドロスが、エルサレムの神殿の宝物を奪おうとすると、神の使いによって追われるという物語である。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『ボルセーナのミサ』1512年フレスコ 幅660cmヴァチカン宮殿/ヘリオドロスの間その他は、中世の物語(『ボルセーナのミサ』『アッティラと大教皇レオの会見』)、あるいは初期教会の歴史(『牢獄から解放される聖ペテロ』)に関するものである。『教皇大聖レオ1世とアッティラとの出会い』(アッテラと大教皇レオの会見)ヴァティカン宮殿/ヘリオドロスの間『聖ペテロの解放』1513年〜1514年(牢獄から解放される聖ペテロ)フレスコ 幅660cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿/ヘリオドスの間したがって、これらの場面は、きわめて叙述的である。ラファエロは、すでに自分のものとしていた節度と壮大さという特色を発展させ、さらにより強烈な動きと豊かな色彩の効果のために、「署名の間」で完成された左右対称と、リズムを壊す要素によって、構図を豊かなものいのにしている。『神殿から追放されるヘリオドロス』には・・・すでにこの傾向が表されている。場面の焦点は中央にはなく。劇的にも右側に移されている。そこでは、エルサレムの神殿を汚すヘリオドロスとその手下たちが、騎士と小枝の束を手にしてなだれこむ2人の若者らに打ち倒されている。中央の、光を反射するヴォールトの輝きに照らされた広い神殿空間は、『アテネの学堂』の建物の格天井の向こうにかいま見た青空よりも表現豊かなモティーフとなっている。左端で目撃者たちを差配しているのは、つづく場面と同様に、起こった奇蹟に立ち会う人物として描かれた教皇ユリウス二世である。この物語の劇的な表情は、非常に抑制された「署名の間」の後では思いもよらない、ラファエロにとって、造形上の新しい問題となっていたことを明らかにしている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.13
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ラファエロ・サンティの代表作である『アテネの学堂』をもう一度ゆっくり鑑賞してみましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァティカン宮殿「著名の間」1509年の末ごろラファエロは、「署名の間」のもう一つの壁面に取り組んだ。『聖体の論議』の向かい側にある、真理の理性的探究を造形に表現した『アテネの学堂』である。ラファエロはその図解を、14世紀や15世紀に行なわれていたように寓意的な人物に託すのではなく、壮大な建物のなかに、思想家や哲学者たちの厳粛な姿を一堂に集めて描くことで実現した。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年のキリスト風の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。代表作『アテネの学堂』格天上のある高い円屋根(クーポラ)と角柱からなる巨大な空間は、明らかに古代ローマ時代末期の建築から着想したものである。あるいはまた、多くの研究が指摘するように、ブラマンテによる、サン・ピエトロ聖堂の設計に示唆を得たものである。その聖堂は、構造に古代建築が反映されているように、古代思想とキリスト教思想の統合の実例であり、カトリック世界の革新の中心であった。構図の建築的な壮大さにもかかわらず、人物群(構図の重要な要素)は、けっしてその空間を埋め尽くしてはおらず、息をつまらせることはない。人物群は、前景の人物たちも、主役であるプラトンとアリストテレスの両側に群がる人物たちも、どちらも構図の広がりと深さを強調している。立派な白い髭をはやして描かれたプラトン(この厳格な老人にレオナルドの肖像を見ようとする人がいる)と、アリストテレスは、ともに正確な身ぶりによって、それぞれの性格が表されている。「腕を水平にのばすアリストテレスは、 その著『論理学』を介して 世界の系統化と象徴しており、 腕を上方に垂直にのばすプラトンは、 感覚的世界から その理想的観念へと高まる 宇宙的思考の運動を象徴している」 (シャステル)。この絵は、古代思想の賞揚に加えて、アポロンとミネルヴァの彫刻によって象徴されている自由学芸の表現にも捧げられている。すなわち、「文法」「算術」「音楽」(前景左側のグループ)、「幾何学」「天文学」(前景右側)、そして、「修辞学」「論理学(弁証法)」(上の立っている人物たちである。)指摘されるように、ここには古代の哲学者たちが描かれ、ラファエロはその何人かを彼の同時代の容貌で描いている。ここで、ブラマンテは、ユークリッドとして描かれている。(右側で、コンパスをもって石板の上に屈んでいる人物)。プラトンはおそらく指摘されてきたようにレオナルドであろう。手前左側には、白い服を着たフランチェスコ・マリア・デッラ・ロヴェーレがいる。そして、最後に・・・ミケランジェロは、ヘラクレイトスとして描かれている。彼は階段の上に座り、大理石の塊に肘をついて、陰気に考え込んでいる。このヘラクレイトスは、漆喰の接合からわかるように、最後にフレスコ画に描き加えられたものであり、システィーナ礼拝堂の天井画を制作していたミケランジェロへの敬意の表現として、すでに完成していた構図に1511年に描き加えられたものである。さらに、自由学芸と同じ位置に描かれている造形美術への称賛を表すように、ラファエロ(右端の黒いベレーをかぶっている)と、その右に友人のイル・ソドマも描かれている。このフレスコ画は最大級の評価と反響を引き起こした。完成されるや否や、ローマじゅうを熱狂させ、この作品を前にして、あらゆる人が立ちつくし賛同した。そして、その作品の壮大さは、システィーナ礼拝堂の同様に壮大な天井画を目の当たりにした人々が起こしたような拒否反応を引き起こすことはなかった。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.12
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ラファエロが、署名の間で最初に制作したのは「聖体の論議」であります。気の遠くなるほどの登場人物がおりますが〜何が描かれているのでしょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖体の論議』1509年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿/著名の間ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=キリストに似た最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロが最初に制作した作品は・・・『聖体の論議』と呼ばれる作品である。この名称は、伝統的なものであって、実際には「秘蹟の礼拝」である構図の中心は・・・祭壇の上に置かれた、聖餅が載る聖杯である。キリストのまわりに座る「勝利の教会」を表す人物たちと、「戦う教会」を表す人物たちが、上下に二つの半円形を形づくるように配置され、彼らは聖杯を崇拝している。天使の群れが、取り巻く天上の栄光の頂点には、祝福を与える父なる神がいる。その真下に復活したキリストが、雲の王座に座り、キリストの左には、礼拝しているヴェールをかぶった「聖母」が描かれ、キリストの右には、伝統的な図像に従って、キリストの先駆者である「洗礼者ヨハネ」が、キリストをさし示している。中央の集団のまわりには、旧約・新約聖書の預言者たちと、聖人たちが座っている。秩序正しく、整然と配置された厳粛なこれらの人々は、大まかに色分けして描かれているとはいえ、キリストの威厳と荘厳を自覚するそれぞれの個性は明確に著されている。その下には、聖体の載る祭壇が中央に置かれた広大な風景を背にして、聖人、教皇、司教、高位聖職者、信者たちが描かれている。すなわち、教会は、世界中に力を及ぼしたのであり、そして及ぼしつつあるのである。そして、「三位一体」の栄光を心の目で凝視しているのである。ラファエロは、15世紀の伝統を踏襲して、この集団のなかに、亡くなった過去の人々とともに、彼と同時代のすでに名声を得た実在の人々を描きこんでいる。左下の欄干にもたれているのは、ブラマンテで、その右側の長い髪の青年は、フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレである。そして、祭壇の近くに座る教皇グレゴリウスは、教皇ユリウス二世の容貌で描かれている。右側の群衆のなかで、月桂冠をかぶっているのは、ダンテ・アリギェーリである。珍しいのは、サヴォナローラ(ダンテの後ろの黒い頭巾の人物、1452年〜1498年)が、描かれていることである。彼は、ボルジア家の教皇アレキサンドル6世(在位:1492年〜1503年)によって処刑されたが、その教皇の反対派の教皇ユリウス二世によって復権された。ここに彼が描かれていることが、そのことを説明しているのであろう。構図の構成は・・・非常に簡潔で明快ではあるが、ラファエロは、さまざまなポーズをとる人物のために、数多くのスケッチ、習作、素描を描いて、ようやくそれを実現したのである。他の画家からの借用が認められたとしても、(たとえば、 青年フランチェスコ・マリア・デッラ・ローヴェレは、 レオナルド風の容貌をしている)。舞台構成、態度、身振りは、ラファエロ自身の研究による独創的な成果であり、驚くべきほどの均衡と荘厳な表現に達している。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)世界遺産にぽち
2022.09.11
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ラファエロ・サンティがヴァティカン宮殿の仕事を始めた頃には同時に、ミケランジェロが歩いて行けるシスティーナ礼拝堂の天井画を描いていました「署名の間」の天井画教皇の都市ローマで、ラファエロに与えられた最初の重要な仕事は、裁判のための部屋となるはずであった「著名の間」の装飾であった。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=最晩年の自画像)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家・監督者であった。代表作『アテネの学堂』「署名の間」Stanza della Segnaturaスタンツァ・デッラ・セニャトゥーラ「署名の間」制作は・・・1509年6月に始められた。それは、教皇ユリウス二世が命じたもう一つのー大壁画連作である「システィーナ礼拝堂」の天井画制作にミケランジェロが着手した1年後のことであった。この二つの装飾は、ともに明確な宗教的内容をもってはいるが、その目的は異なっている。システィーナ礼拝堂の空間は、礼拝の儀式にあてられており、その天井画を飾る人物たちは、彼らが活躍した環境や性格にとらわれす、人間の心の奥底に生じる信仰の苦悩と、その苦悩からくる複雑な表情を表している。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖体の論議』1519年フレスコ 幅約770cmヴァチカン宮殿/署名の間一方、「署名の間」は・・・教皇の俗権の行使に見合うものであり、成人や世俗の人々が調和のある構成で装飾されている。それはあたかも、すでに全世界に対する権力を与えられ、それと世俗の権威とを仲介する役にある境界を象徴しているかのようである。最初、ユリウス二世は、この部屋の装飾を、ローマで活躍していた画家たちのうちで、もっとも有名な者たちに依頼した。シエナのバルダッサーレ・ペルッツイ(1481年〜1536年)、イタリア北部の町ヴェルチェッリ出身(シエナに帰化)のジョヴァンニ・アントニオ・バッツイ(通称:イル・ソドマ)(1477年〜1549年)、ロンバルディア地方出身のブラマンティーノ(1465年頃〜1530年)、ヴェネツィア出身のロレンツォ・ロット(1480年頃〜1556年)らである。しかし、ラファエロの計画は、教皇を虜にしたそれは、ヴァザーリによれば、他の美術家によって開始されていた仕事を取り壊させ、すべての仕事をこのウルビーノの画家に委ねさせるほどのものであった。古代思想と、その人文主義的ーキリスト教的な解釈の統合という、「署名の間」の装飾計画は、もちろんラファエロが着想したものではない。しかし、図解画家としての彼の天分が、視覚化されることを待ち望まれていたとかくむずかしい教義を、完璧な表現力で、直ちに実現することができたことは明らかである。宇宙論的な(すなわち宇宙を構成するすべての要素をふくむ)環境のなかに、伝統的な神学の徳と、それを実践してきた人間の精神的活動とをたがいに近くに置きながら、「古代世界とキリスト教の精神性との一致」(シャステル)を図解するさまざまな主題を統合したものと考えることができる。たとえば、聖書の物語(「アダムとエヴァ(原罪)」「ソロモンの審判」)、古代神話(「アポロンとマルシュアス」)、人文主義のプラトニスムによってふたたび日の目をみたアリストテレスの哲学概念(天空のいちばん高い所で神によって直接着手される「最初の運行」の図)を表すエピソードは、その統合を証明するものとしてあげることができる。装飾全体の構想は・・・プラトン的ー人文主義的概念(プラトンの思想は初期ルネサンスの哲学者たちによって、 キリスト教的伝統と一致させられた)に着想を得ている。最初の研究者の解説によれば、要するに、「真理」(キリスト教によって啓示されるものと、 古代哲学の思索による理性的なもの)と、「善」(教会の善と、「徳」によって象徴される俗人の善で、 それは「法学」によって擬人化されている)と、「美」(「詩学」寓意像で表現されている)というプラトン哲学の理想が賞揚されているのである。天井と四周の壁では・・・先に述べたように、ラファエロが、すでに他の画家たちによって着手されていた装飾に従っているとしたら、彼のもっとも独創的な創造が指摘されるのは、ルネッタ(半月区画)の部分である。そこでは、ラファエロの芸術は、指定された主題と、その形による表現とを完璧に統合させている。(写真撮影:ほしのきらり)(参考文献:東京書籍・RAFFAELOラファエロ/ブルーノ・サンティ著より)ラファエロにぽち
2022.09.10
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ラファエロは作品の中にサイン代わりに「自画像」を描いていたようです〜どこでしょうところで教皇居室の壁画には、同時代の教皇庁関係者、芸術家たちの肖像画が、多数描かれてているが、そのなかにラファエロの自画像も描きこまれている。ラファエロは、自分自身の姿をどうのように表していたのだろうか数点の作品から、ラファエロ自身のイメージの返還に目を向けてみよう。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄で、甘さと簡潔性に満ちていて控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家、監督者であった。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿『著名の間』『アテネの学堂』では・・・画面中央の髭の長い哲学者プラトンは、レオナルド・ダ・ヴィンチその手前で頬杖をつくヘラクレイトスは、ミケランジェロの肖像画となっている。画面右端には、幾何学者と天文学者のグループが表され、その背後では、黒いベレー帽の男性が顔をのぞかせ、視線をこちらへと向けているこれが、ラファエロの自画像である。ルネサンス時代、画家はしばしば絵画の中に署名代わりに自画像を描いたが、その多くは、慣習的に、絵の鑑賞者へと視線を向けた姿で描かれた。この壁画でラファエロの手前に立つ白いベレー帽の人物は、『署名の間』で先に働いた画家:イル・ソドマ(1477年〜1549年)の肖像画である。ラファエロが仕事に加わったことで、彼は結果的に仕事を奪われる格好となった。だが、ラファエロは、あくまで控えめに、先輩の後ろに立った状態で自身を描写している。この自画像の、反転した構図で描かれた別の自画像が、フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている。この自画像が描かれた経緯は不明だが、『署名の間』装飾に先立つ1506年前後、おそらく、23歳頃に描かれたと考えられる。両作品の関係から、『署名の間』の自画像は、このウフィツィの自画像の下絵をもとにして描かれたとも推測されている。穏やかながら、ややもの憂げな眼差し、真っ直ぐに通った鼻筋や長い首が印象的である。その佇まいと身体的特徴について、19世紀のフランスの批評家は、「甘さと簡潔性に満ちている」と表し、ラファエロの人間性そのものを理想化しつつ称えている。この優しげなイメージは、後世の多くの人々が抱くラファエロ像の根幹の一つとなっている。ラファエロの自画像はこれだけではない数々の研究者たちが、『ヘリオドロスの追放』にも自画像が描かれていると推測してきたラファエロ・サンティRaffaello Santiヘリオドロスの間『ヘリオドロスの追放』壁画の左端では輿に座るユリウス二世の前に、二人の担ぎ手がいる。このうち、奥に描かれた口髭を生やした男性が、顔の形や髪型から、ラファエロの自画像と考えられている。男性は、『アテネの学堂』と同様、控えめに教皇の足元から顔を出し、こちらへ視線を向けている。優しげな雰囲気はとどめつつも、口元には髭を生やし、さらに彼の頭上に目を向けると、教皇の左手の人差し指が下に向けられ、この人物の存在を、それとなく示しているようにも見える。ラファエロは、大規模な壁画を実現しつつも、謙虚な、教皇の廷臣の一人として、自身の存在をさりげなくかつ印象的に粉れ込ませていると言えるだろう。一方、手前に立つ担ぎ手は、ヴァザーリの「列伝」によると、版画家:マルカントニオ・ライモンディの肖像だという。ライモンディは・・・ラファエロの作品を銅版画で複製、製作していた、ローマのラファエロのチームの一員であった。ラファエロ・サンティRaffaello Santi『友人のいる自画像』1518年カンヴァス 油彩 99.0cmx83.0cm(ローマ時代)パリ「ルーヴル美術館」所蔵。気難しい面持ちのラファエロの自画像が、パリ「ルーヴル美術館」に所蔵されている作品である。この構図は・・・二人の男性の肖像が描かれた二重肖像画となっており、二人は身体が重なり合うように斜めに配置されている。手前に立つ男性の左肩に手を置く、左側の男性がラファエロである。ラファエロは、正面を向き、わずかに眉根を寄せた表情で佇んでいるのに対し、手前の男性は、ラファエロのほうを振り返りつつ、右手を上げ、こちらを指差している。つまり、二人の動作は、静と動の対比がつけられているのである。奥の男性がラファエロ自身であることは、外観の特徴から疑いがない一方、手前の男性が誰であるかは、はっきりぜず、多数の候補者の名前が挙げられてきた。彼の左手は、胸元に差した剣の柄に添えられているため、18世紀には、「フェンシング・マスター(剣術の師)」という仮の通称が与えられたこともあった。二人の人物を改めて観察してみょう・・・ラファエロの正面観で描かれ、やや神経質な面持ちである。ラファエロの仕草・・・他者の肩に手を置く、という行為は、現在と同様、仕事を委任するという意味合いが含まれるとも解釈できるため、ラファエロが制作活動を手前の人物に託している、とも読みとれるかもしれないそのため手前の男性は、工房のなかでも、とくに評価されていた弟子:ジュリオ・ロマーノの肖像なのではないかと考察する研究者もいる。一方、この同定には、手前の男性が後世に描かれたジュリオの肖像と、あまりにも似ていない点では疑問が残るまた、多くの責任を負うラファエロが、37歳の時点で、なぜ仕事を弟子に委ねる必要があったのかという反論もある。彼の死は予期せぬものであったので、この委託の意思表明は不自然という見方である。ラファエロの顔の表現に着目するならば・・・額の真ん中で分けられた毛髪、口と顎の髭は、どことなくイエス・キリストの伝統的な顔貌表現を連想させるかもしれない。だとすると、作品のアイディアを生み出す自身を創造主にたとえ、実際の制作を担当する芸術家に仕事を任せる関係性を、暗示的に示しているのだろうかまた色彩に関してみると・・・ここで両者は、白いシャツを身に着け、背景はかすかにグラデーションのついた灰色で塗られている。画面右上から、つまり、ラファエロの頭上のあたりから差す光が二人の姿を浮かび上がらせる、きわめて要素を絞った表現となっていることが特徴的だ。おそらく、画家にとっては、二人の配置とポーズ、限定された色彩による描写は、自画像・肖像画の新たな描き方の模索の結果なのであろう。実にさまざまな推測を呼び起こす、ミステリアスな雰囲気を帯びた最後の自画像と言えるだろう。ローマでのヴァティカン宮殿の仕事を経て、ラファエロは一地方出身の画家から、名実ともに大画家となった。その変化のプロセスを、教皇居室の装飾、そして自画像の変遷から辿ることができる。控えめで柔軟な面持ちの若い画家は、多くの仕事と弟子に囲まれ、重責に誇りと苦労を秘めた、孤高の芸術家、そして監督者へと変貌をとげていくのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.09
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ラファエロが大量の注文を遅れずに完成できたのは、ラファエロ工房の弟子や経験を積んだ芸術家たちに任せながらも常に監視しまとめ上げた成果であるラファエロの大規模な装飾は、工房なくして実現しえないものだった。教皇居室の壁画を描くかたわら、大型の祭壇画や、ヴァティカン宮殿の別の装飾事業・・・回廊や浴室の装飾、システィーナ礼拝堂のタペストリー下絵制作など・・・に加え、他の貴族たちからの注文など請け負った多数の仕事を、なんとか遅れずに仕上げる必要に常に追われていたのだ。こうした状況下、ラファエロが次々と計画の実現に漕ぎ着けた背景には、若年の徒弟のみならず、すでに別の場所で修行を積んだ芸術家たちを共同製作者として迎え入れ、彼らに仕事を分配し、作業の効率化をうまく進めたことが大きな要因としてあるだろう。ラファエロ・サンティRaffaello Santi(左=36歳時)1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身で長身のイケメン、誰にも好かれた人。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』ラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿『著名の間』『アテネの学堂』には・・・原寸大下絵が残されてている。これは、ラファエロが教皇居室のために準備下絵のなかで、現存するなかでは最大規模の素描である。この下絵は、レオナルドのアヌンツィアータの下絵と、まさに同じように、陰影によって人物の表現が事細かに指定されており、自身の手で丁寧な下絵を『署名の間』装飾の下準備として用意していた事実を示す。ラファエロの手になる、居室の壁画のためのスケッチや素描は、大小さまざまに存在するが、多忙をきわめた彼は、自身の構想、素描に基づき、工房の弟子や共同製作者に絵を描かせ、たえず彼らを監視して重要な仕事の完成を見届けたという。現代の鑑賞者が、たとえば『署名の間』を訪れた後に『火災の間』壁画を見ると火災の間『オステリアの海戦』ラファエロ風〜でありながらも、やや作風の異なる描写が増えているように思われるかもしれない。それは、ラファエロ自身が絵筆をとって描いた箇所が減っているためと考えられるのである。では、彼の制作を支えた工房は、どのようなメンバーで構成されていたのだろうか?主だった人物を見てみましょう。幼い頃から、ラファエロのもとで学び、成長していった画工の一人で、名実ともにトップと言えるのが、ジュリオ・ロマーノ(1492年/99年〜1546年)である。幼少の頃の具体的な記録は乏しいが、ローマのピッピ家に生まれ、現在のヴェネツィア広場の近くの界隈で育ったと見られる(ロマーノという通称は、ローマ人の意味である)。ラファエロのもとで、早熟な才能を発揮し、『火災の間』装飾時には、準備素描やフレスコ画の制作に携わり始めたとみられる。もう一人、ラファエロの工房で、とくに素描を準備する役として活躍したのが、ジュヴァン・フランチェスコ・ペンニ(1488年/96年頃〜1528年頃)である。ペンニは、フィレンツェ出身の画家で、ローマにて、ラファエロ工房に合意したと思われる。ラファエロのアイディアを素描に起こす仕事を任されていたため、「イル・ファットーレ」(制作者の意味)と呼ばれた。ジュリオとペンニは、ラファエロ工房の双璧であり、数々の装飾プロジェクトで大きな役割を果たした。後期のラファエロ作品には、この二人の手が大きく入っているとみられるものである。ラファエロが遺言で遺産を託したのは、ジュリオとペンニの二人であり、篤い信頼を得ていたことがうかがわれる。外部ですでに修行を終えて工房に参加した芸術家もいる。北イタリアのウーディネ出身のジョヴァンニ・ダ・ウーディネ(本名:ジョヴァンニ・リカマトーレ:1478年〜1564年)は、動植物を描く専門家として、工房に加わった画家である。その点で、徒弟というよりは、共同製作者という肩書きが適切であろう。ラファエロ作品では、一枚の絵画のなかで分業化が進んでいくのだが、ジョヴァンニ・ダ・ウーディネは、動物や植物、楽器といった人物像以外の部分を担当した。ラファエロが、ボローニャのある聖堂のために描いた祭壇画『聖チェチリアと聖人たち』で、聖女の足元に置かれた楽器を手掛けたのは、ジョヴァンニ・ダ・ウーディネと言われる。「ラファエロのロッジャ」や、ヴィッラ・ファルネージーナで、瑞々しい植物や多彩な動物群を描いたのも、彼である。なお、ジュリオ・ロマーノとジョヴァンニ・ダ・ウーディネは、それぞれ長男に師と同じラファエロという名をつけたことも知られている。ラファエロは、こうした個性豊かな芸術家たちを、うまくまとめ、適材適所でつかう能力に長けていたその点では、頑固な性格で、システィーナ礼拝堂天井画装飾の際、最終的には助手たちを全員解雇し、ひとりで絵を仕上げたというエピソードで有名な個人主義を貫いたミケランジェロとは、正反対と言えるかもしれない。ローマのラファエロの大規模な装飾事業は、多数の画家たちとまとめる監督者としてのラファエロの仕事の成果であり、巧みな人海戦術の結果でもあるのだ。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.08
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ラファエロの作風は、ローマに入って12年間で変化してゆきますが、その理由を知りたいですラファエロは・・・ローマに到着してから急逝するまでの12年間、ほぼ継続的に居室の装飾に従事しており、作風は・・・時代をおって変化していった。その訳は・・・何でしょう?ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。ローマの12年間で、ラファエロの作風は変化していった!各部屋の代表的な壁画から、その変化を見てゆきましょうラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿「著名の間」見せかけのアーチ型装飾の向こうに大きな空間が広がる、署名の間『アテネの学堂』では・・・ひとつの画面に総勢60名もの人物が描きこまれている人物たちは、段差のある空間で、手前側では・・・左右のグループに分かれ、上段では・・・ほぼ横並びに配置されている。建築物内部の空間は、一点透視図法と呼ばれる遠近法をを用いて描かれている。この図法は、平面的な絵画に三次元的な奥行きを表現するために考案・理論化されたものである。中世まで、画家たちは遠近感を経験的な手法によって表していたのだが、15世紀前半、フィレンツェの芸術家たちによって試みられ、建築家・美術理論家:アルベルティが、「絵画論」で、その理論をまとめて以来、絵画の背景に用いられる建築物などの描写は、この図法に基づくのが一般的となった。つまり、画面の一点を消失点として定め、建築物などを構成する直線のうち手前から奥に向かう線は、その一点に向かって収斂することで遠近感を表現するのである。現代人にとっては、一眼レフカメラを使って撮られた、撮影者側から奥に向かって真っ直ぐに延びる道や廊下などの写真を思い浮かべれば、その原理は容易に理解できるだろう。ルネサンス時代の絵画作品では、たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』も、背景に一点透視図法が用いられていることがよく知られている。『アテネの学堂』は・・・この遠近法を用いて描かれた空間の各所に、人物がバランスよく配置され、構成の均衡が図られているため、大人数が描かれながらも、整然とした印象を生み出している。奥の空間では、プラトンとアリストテレスという二人の哲学者を中心に、左右に多数の人物たちが並んでいるが、各人の頭の高さは、ほぼ揃えられ、見事な水平線を描いている。手前の空間にいる人物たちも含め、それぞれは多彩な身振りをしているが、その動作は、穏やかであるため、全体としての調和が保たれているのである。それでは、続く居室の壁画『ヘリオドロスの間』はどうでしょうか?『ヘリオドロスの追放』では・・・この画面でも、絵画内の空間構成は、アーチ型の構成をもつ建築物が、一点透視図法で描かれるという点では、『アテネの学堂』と共通している。しかし、人物の配置やポーズ、そして色彩表現には違いが見られる。この画面で、まず目をひくのは、右手前のヘリオドロスたちの群像である。地面に倒れたヘリオドロスは、身体を大きくひねって斜め上を見上げ、彼の後ろにいる二人の人物も同様に激しい動きをしている。白馬は、両脚をあげ躍動し、騎士のマントは、勢いを感じさせるように膨らみ翻っている。騎士の左側の天使たちは、宙に浮かび、身体を大きく伸ばして威嚇のポーズをとっている。激しい動きに満ちた、勢いのある表現は、『アテネの学堂』の調和を保った人物像とは異なる特徴が認められるだろう。さらに、色彩に関しては、暗色が用いられ、明暗のコントラストの差が強められている。建築物の奥では、暗闇のなか燭台の炎が光り、天井部分では・・・金色の光が枠に反射し、神殿内の神秘的な雰囲気が増している。悪しきものの追放というテーマを表すにあたり、ラファエロは、人物のポーズや色彩に明確な変化を加え、より劇的で、インパクトのある表現を追求していると言える。こうした変化は、「火災の間」『ボルゴの火災』で、さらに進む。「ラファエロと工房作」火災の間『ボルゴの火災』1511年〜1514年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿『火災の間』背景の空間は、やはり、一点透視方に基づき構成されてはいるのだが、全体がもたらす印象は、上述の二点とは大きく異なる。画面手前のタイルや左右の建築物は、奥にある階段の上に集まる人々のなか、緑色の衣を着た跪く老人の背後に設定された消失点に向かって収斂している。しかし、手前の空間では、左側に火事で燃える建築物から脱出する人物像、右側に壺に入れた水を運ぶ人々、そして、中央に子供を連れた女性たちのグループが、それぞれに多彩な身振りを取りつつ展開しているため、内部の空間的な広がりよりも、群衆の演じる逃走劇に目がひきつけられる。左側に描かれた、老いた父を背負う若者、壁にぶらさがった男性は、いずれも筋肉質な肉体を示し、画面手前から右側の女性たちは、大きな身振りによって画面を占める。そもそも、手前の人物たちは、『署名の間』の描写と比較すると、寸法が巨大化しており、その豊満な肉体表現もあわせて、迫力ある画面が展開している。一点透視図法を活かした整然とした画面構成は、1510年代になると徐々に用いられなくなり、代わりにダイナミックな人物を画面全体に構成する。演劇的とも言うべき場面が展開していく。『火災の間』は、イタリア絵画の構図の新たな潮流の先陣を切っているのである。『署名の間』から『火災の間』まで、三つの部屋の代表的な作品を比較すると、その様式の違いは歴然としている。ラファエロは、大規模な壁画を装飾するにあたり、当初は均衡・調和のとれた構図を用いていたが、次第にそれを脱し、色彩や人物の面で、より大胆で劇的な構図を、入念に工夫しつくりあげていったのである。こうした変化には、どのような背景があったのでしょうか?ダイナミックな人物描写に関しては、やはり、ミケランジェロによる力強い人体表現からの影響が大きかったと思われる。『署名の間』と同時期に装飾が開始されていたシスティーナ礼拝堂天井画は、1512年10月に完成、披露された。ラファエロは、公開以前から礼拝堂に入り、ミケランジェロの描写に学ぶ機会を得ていたと思われる。また、色彩に関しては、ローマで他の地域出身の画家たちの作風から刺激を受けたと見られる。また、注文者である教皇たちの意向もまた、影響をおよぼしたかもしれない。ユリウス二世は、自らの戦地に赴き、イタリア中北部を教皇領に加えたほどの、好戦的な気質で知られている。その治世は、教皇庁の軍事的・政治的動向を対外的にアピールする、激しい気質に満ちていたであろう。続く、レオ十世は、代わって各国のバランスを見て、和平の状態を維持するよう努めた。メディチ家の出身のレオは、京楽的性格であり、華やかで演劇的な祝祭を好んだ。こうした歴史的背景もまた、ラファエロの様式に関わったのかもしれない。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.07
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ヴァティカン宮殿の4つのお部屋は、あと2室「火災の間」と「コンスタンティヌスの間」です「ラファエロと工房」ラファエロ「火災の間」『ボルゴの火災』1511年〜1514年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿「火災の間」ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』火災の間の説明文『火災の間』Stanza dell’Incendioスタンツァ・デッリンチェンディオStanza dell’Incendio di Borgo「火災の間」は・・・ユリウス二世の時代には、裁判の署名が行われる部屋であったが、続く、教皇レオ10世の時代には、食事室ないし簡易的な儀式を行う部屋として使用されていたようだ。壁面主題には・・・教皇と同名の中世の教皇、レオ三世とレオ四世の事績が選択されている。部屋の名称は、『ボルゴの火災』と言う壁面にちなんでいる。これは、九世紀中頃、ローマのボルゴ地区(サン・ピエトロ大聖堂とテヴェレ河のあいだの地域)で火災が発生した時、教皇レオ四世が十字を切り神に祈ったところ、奇跡的に鎮火したと言うエピソードにもとづく場面である。当世の教皇レオを中世の教皇レオになぞられ、顕彰する意図があったのであろう。四番目の部屋は、『コンスタンティヌスの間』Sala di Costantinoサーラ・ディ・コンスタンティーノ「ラファエロ工房」『コンスタンティヌスの間』では、古代ローマ時代の皇帝コンスタンティヌスの物語が表されている。コンスタンティヌス帝は・・・313年にキリスト教を公認した皇帝であり、伝統的に多神教が信仰されていたローマ帝国が、キリスト教国へと転換していく流れを決定づける、きわめて重要な役割を果たした。コンスタンティヌス帝が、キリストの加護によって敵対するマクセンティウス帝との戦闘に勝利し、洗礼を受け、教会へ土地を寄贈する、という当時のローマ・カトリック教会で正統とされていた伝承が表されている。なお、コンスタンティヌス帝が、教会へ土地の寄進を約した文書、いわゆる「寄進状」は、中世になって記された一種の捏造文書だと、明らかになっており、さらに、史実としてコンスタンティヌス帝が、洗礼を受けキリスト者となったかどうかは、定かではない。だが、16世紀当時の皇帝庁では、伝承が歴史的事実とみなされており、教皇の権威が皇帝の権威に優る一例と考えられていた。コンスタンティヌス帝は、初期教会が成立する過程で、重要な役割を果たした皇帝として、テーマに選ばれているのである。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2022.09.06
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ラファエロ主導で装飾された4つの部屋「ラファエロのスタンツェ」の用途とは・・ラファエロ・サンティRaffaello Santi『聖体の論議』1509年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァティカン宮殿『著名の間』ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』「ラファエロのスタンツェ」教皇居室とは?四つの部屋がありますが、各居室がどのように使われていののでしょうか?装飾の主題とあわせて概略を確認してみましょう。『署名の間』Stanza della Segnaturaスタンツァ・デッラ・セニャトゥーラ「署名の間」という居室の名称は・・・ヴァザーリによる記述によれば、「ラファエロ伝」のなかでこの部屋を「署名の間」と呼んでいるが、この「署名」・・・とは?裁判の判決に記す著名から派生したものである。ヴァザーリが、ローマを訪問した1540年代の一時、この部屋は通称 おんちょう「恩寵の署名(セニャトゥーラ・グラティアエ)と言われる、教皇主催の裁判が行われる場として利用されていた。ユリウス二世の時代には、法廷としての機能は、隣にある『火災の間』に置かれており、当の『署名の間』は、教皇の蔵書室として使われていた。ラファエロによる天井画と壁画の主題は、こうした蔵書室としての部屋の用途と明確に呼応している。『署名の間』の天井装飾(1508年〜1511年)つまり、書物の四つの分野神学、哲学、詩学、法学・・・と呼応する四つの主題が、天井と壁画に描かれているのである。『署名の間』でおそらく最も知られた壁画は、『アテネの学堂』であるラファエロ・サンティRaffaello Santi『アテネの学堂』1509年〜1510年フレスコ 幅約770cm(ローマ時代:連作大壁画)ヴァチカン宮殿『著名の間』アーチ型の構造をもつ建築内部に、古代の哲学者たちが一堂に会する場面が描かれているこの壁画は・・・「哲学」に対応した主題となっている。当時は、この壁画の前に書棚が置かれ、古代の哲学書が納められていたのかもしれない。『署名の間』が・・・蔵書室という比較的プライヴェートな用途で使われていた一方、続いて装飾された『ヘリオドロスの間』Stanza di Eliodoroスタンツァ・ディ・エリオドーロの隣にある『コンスタンティヌスの間』Sala di Costantinoサーラ・ディ・コンスタンティーノは、控えの間などに使用されていたと見られる。教皇が外国使節たちと面会する際に使用した『ヘリオドロスの間』は、ラファエロ『ヘリオドロスの間』『ヘリオドロスの追放』教皇庁が対外的にアピールしたい意向・・・つまり、教会の伝統的権威や神の代理人である教皇の威光の表現・・・が主題に選択されたと考えられている。『ヘリオドロスの間』の天井画天井および壁面の主題は・・・旧約・新約聖書、中世の教会史などからとされている。部屋の名称の由来となった『ヘリオドロスの追放』は、旧約聖書続編「マカバイ記二」3章に記されたエピソードを題材としている。エルサレムの教会には、寡婦や孤児のための寄付金が、潤沢に委託されていたのだが、セレウコス朝に仕える宰相ヘリオドロスは、王命でこれを没収しようと試みた。すると、神に遣わされた騎士と天使があらわれて、ヘリオドロスを罰し、追放する。壁面では・・・神殿の奥、祭壇に祈りを捧げるエルサレム神殿の司祭が描かれている。画面右手前で、地面に倒れているのが・・・ヘリオドロスで、神の騎士と二人の天使に罰せられている。画面左側では、同時代の人物たちがこの奇跡的場面の目撃者として登場している。こし輿に乗った赤い衣装を着ているのが、注文者の教皇ユリウス二世である。この壁画で表明されているのは、教会が地上で富を預かる権利をもつ、という主張だと考えられている。(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)『火災の間』につづくラファエロにぽち
2022.09.05
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ラファエロ・サンティの代表作「ラファエロのスタンツェ」と呼ばれていますが〜どうもちょっと違っていたみたいです『署名の間』の天井装飾(1508年〜1511年)四つの居室「ラファエロのスタンツェ」は、巨大な装飾事業であり、天井から、床面まで、すべてにラファエロの息がかかっているわけではないそもそも、教皇ユリウスが、教皇居室の装飾にために呼び寄せた芸術家は、ラファエロだけではだけではなかった1508年〜1509年頃、「コンスタンティヌスの間」を除く、三つのスタンツェは、同時進行で、天井から装飾が始められており、現在、「火災の間」と呼ばれている部屋の天井画制作に関わったのは、ラファエロと縁の深い「ペルジーノ」であった。その傍ら、ラファエロは、やはり別の画家たちが装飾を開始してしていた「署名の間」のチームに加わり、絵を描きはじめた。ヴァザーリが伝えるところでは・・・その仕事ぶりを気に入った教皇は、すでに着手されていた部屋を破壊し、ラファエロが一室すべてを手掛けることを望んだが、天井などの既存の装飾は、部分的に残して活用させたという。「署名の間」装飾完了後の1511年10月、ユリウスは、ラファエロに、臨時書記官という名目上の肩書きと給与を与えている。この契約から、教皇宮殿の画家として、より安定した立場で長期的に任せることが確約され、並ぶ部屋の絵画制作の総監督とも言うべき立場になった事実が裏付けられる大規模な装飾事業である部屋の天井や壁面には、ラファエロ以前にすでに描かれていた箇所が残されていたり、また、ラファエロのアイディアをもとに、別の芸術家が手掛けた箇所もあったりする。くわえて継続的におよそ12年の年月をかけて実施されたため、ラファエロのスタイルは均質ではない。さらに、ラファエロの死後、1527年5月、ローマにドイツ・スペイン連合軍が侵入し、「署名の間」が、一時的に駐屯に使用された際に破壊され、新たに加えられた装飾もある。このようにヴァティカン宮殿内部の装飾の返還は、教皇庁の長い歴史的返還と複雑にからみあっている。どの部分をラファエロが、どのように手掛けたか?あるいは監督したか?を知ることは・・・難解ながら、重要で魅力的な課題の一つである(参考文献:中公新書2614ラファエロ-ルネサンスの天才芸術家より)(写真撮影:ほしのきらり。)ラファエロを探せ・・・答え・・・右端です。黒い帽子が自画像との噂。ラファエロ・サンティRaffaello Santi1483年4月6日〜1520年4月6日(37歳没)イタリアのウルビーノ公国に生まれる。盛期ルネサンスを代表する画家・建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチと、ミケランジェロとともに盛期ルネサンス三大巨匠のひとり。八頭身の長身でイケメン、誰にも好かれた人柄であった。【代表作】『アテネの学堂』『システィーナの聖母』世界遺産にぽち
2022.09.04
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