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モロッコ紀行 【 風景 】
-風景- そのカスバは砂漠のなかから、忽然と姿を現した。まるで蜃気楼のようだった。
近づけば、近づくほど遠くへ行ってしまいそうだった。
小高い丘の上に蜂の巣のようにひしめきあっている土塁のカスバ。
丘の下にはナツメヤシの木々が寄せ合うようにして生い茂っている。
ナツメヤシの手前は河原で、小川がさらさらと流れている。
その澱みにはメダカのような小魚が何匹か、かたまって泳いでいた。
よく眼をこらさなければみのがしてしまいそうなこの小さな生命たちに、無馮と静
寂の世界に小石がコツーンと鳴ったような安堵感を覚えた。
その昔ギリシャ人が、「神々の柱」と呼んだ4000メートル級のアトラス山脈を
越え、全く異質な世界にいた。
ささやかなる想像力を超えた有無もいわさぬ砂漠の風景だった。
小川を渡り、カスバの茶褐色の重厚な門をくぐる。
消え入ることなく建っている遺跡。
本当に消えたのは人間達の方だった。このカスバは、植民地下のフランスの軍隊が
前線基地として利用し、彼らは長らくここに住み慣れた部族達を追い出した。
門から丘を右にまわるようにして道なき道を登るとカスバの入口がある。
カスバの入口には、古びた椅子に座った、歳もわからないぐらい皺を顔に刻んだ老
婆がいた。
糸車のようなものを右手に掲げて「フォト、フォト」と呻くように口を開けている
彼女の眼には、たしかに私が映っている。
ただし、その眼が欲しているのは私ではなく、私のズボンのポケットに収まってい
る幾らかの小銭だろう。
顔をそむけたくなるような、哀れな老婆であったが、ここへの入場料と割り切り、
カメラを向けた。シャッターは切らなかった。
2ディラハム払い、これでうしろめたい思いをせずにカスバを見物できると思っ
た。老婆はここに住んでいるのだろうか?
住んでいても、住んでいなくとも、ここはお化け屋敷のようなものだった。
ベルベル人もフランスの軍隊も、もうここにはいない。あらゆる歴史は、遺産はお
化け屋敷のカラクリのようなものだった。いったい遺産が何を語りかけてくると言うのか?
丘の頂上をめざして歩く。息がきれそうなくらい急斜だ。
ミネラルウオ ーターの瓶が山をなすように捨てられてあった。
人が造った物も、人が捨てていった物も、やがては砂に埋もれて消えていく運命に
ある。
頭上高くなった太陽は、これまでの太陽とは別もののように、その日差しは鼻の毛
穴を突き刺すよに、痛かった。
汗は瞬間に固形化するようで、腕から塩が吹いた。
喉がとても痛い。
頂上には風があった。四方、見渡すかぎり土砂漠である。語り尽くせるものと、語
り尽くせぬものが、この世の中にはあるが、この風景がまさにそうだった。
見下ろすと、か細い小川とナツメヤシの緑が、この世界のわずかなアクセントとな
っているのみだった。
何枚のシャッターを切ったが、どのネガもこの世界を正確に写し撮っていはいない
だろう。
「この世界」に面と向かって対峙することから逃れるためにファインダーを媒介に
したに過ぎないのだから・・。
思うに、砂漠で生きていく人とそうでない人は、何かが決定的に違う。
砂漠を少しでも「知った」人間はどうなのだろう?
人の営みの原動力の一つである好奇心ではすまされない決定的な何かが私の一生に
つきまとうことになるだろう。
頂上を後にし、逆の道を降りていくと土壁の影に佇む少女がいた。
少女はロウ人形のように動かず、立っていた。
壁には人が入れるくらいの空間があり、たぶんそこが家の入口なのだろう。
少女の足元には赤いペンキで2デッラハムと矢印が書かれたプレートが置いてあっ
た。
またしても2ディラハムか、それよりもここに、まだ人が住んでいることに驚く。
真っ暗な家の中へはいって入った。家はどこもかしこも土壁がせまるだけだった
が、幾つかの敷居を行くと光が差し込む空間につきあたった。中庭のようだった。
にわとりやロバがいた。
そして、ギクリとしたのは、暗闇のなかで目が慣れてくると、艶やかなピンクの衣
装を纏った黒人の女がいたのだ。
まばたきもせず、ずっと私をながめている。
その視線には何も読み取ることができず、少し混乱した。
手をあげ、微笑みにならないような微笑みをつくりシャッターを切った。
この写真は、今回の旅情を最もかき立ててくれる一枚となった。
家を出て、少し歩くと小さな広場になり、何人かの女が井戸端会議をしていた。
黒人、アラブ人、ベルベル人と皆、違う顔つきをしていた。
後で知ったとだが、このカスバには政府の立ち退き勧告にもかかわらず、4家族が
今でも暮らしているということだった。
一緒に何枚か写真を撮らせてもらった。
気がつくと、 集団から少し離れてさっきのピンク服の女がいた。
相変わらず空虚な目つきで、こちらをじっと見ていた。
家から飛びだしてきた、色気がつきはじめる少し前くらいの少女が二人、目の前を
通り過ぎ、駈けるように丘を下っていった。
ほっとするように風が一陣吹き抜けていったような気がした。
頃合いとばかりに、私もこのカスバを後にすることにした。
坂を下っていくと二人の少女の後ろ姿があった。
たぶん、小川へ水汲みにいくのであろろうか、一人の手には水瓶があった。
かわいらしい二人の少女は、私の視線に気付いたのか、ときどき恥ずかしそうに振
り返っては、二人見合わせて歌うようにして笑った。
とてものどかな晴れた日のピクニックのような気分になっていた。
やがて小川に出た。
水遊びをしてじゃれている少女たちを横目にしながら歩き、ふと、何気なくカスバ
の方へ振り返った。
丘の中腹から、ピンク服の女がこちらをじっと眺めていた。
-ワルザザードのMレストラン-
「Bホテル」はカスバ風の造りで、正面ロビーを抜けると吹き抜けの中庭になっ
ており、プールのあるこの中庭を四方囲むように4階層の茶色の客室のある建物が
とり囲んでいる。
プールの周りは、ブーゲンビリヤや、しゃくなげの花が咲きほころんでいる。
サハラ・オアシスの最西端に位置するワルザザードの町には日没近くに着いた。
車窓からは、砂ぼこりの街という印象を受けたが、ホテルはオアシスのなかのオア
シスという感が強い。町の喧騒もここには届いてこない。
プールで泳ぐ人はフランスからの観光客がほとんどであったが、アラブ人も何人か
みかけた。
皆、思い思いにバカンスを楽しんでいるようだ。
プールサイドには藁造りの吾妻屋のようなバーがあり、南洋のリゾートをおもわせ
た。
アッツイーのほか、アルコール類も置いてある。
モロッコはアルコールに関して、ソフトムスリムの国である。
ビールを2本注文した。小瓶のハイネケンだった。
太陽は大分傾きかけていたが、みるみる肌を焦がせていく、勢いのある日差しだっ
た。
うららかな午後の日のビール-常に私がこれのみを求めている幸せなひととき-だ
ったはずが、三口もすると胸が苦しくなってきた。
砂漠の日差しは確実に私の体力を奪い取っていたのだ。
-何ものにも代えがたい至福-をあきらめ、ミントティーを飲むことにした。
ご当地で言うところの、モロッコニアン・ウィスキーである。
太陽がホテルの建物の影に落ちかかると、とたんに肌寒くなりシャツをはおった。
プールも賑わっていたのが静かになり、じっくりホテルの中庭を見渡した。
そして、先程売店で買い求めたミシュランの地図を眺めながらミントティーの悦に
浸っていると、Nさんが声をかけてきた。
Nさんとは、カサブランカのレストランで席を一緒にし、女性ながらワインをよく
飲む人で、ともに話がはずみマラケシュ広場の夜を約束していたが、その約束はか
なわなかった。
Nさんはそのことを口にはせず、また再会を伝えるでもなく、こう切りだした。
「変わったシャツを着ているんですね。この前(カサブランカ)もそうだった・・・」
なにげなくいったつもりの言葉は、ときどき人の心を激しくゆるがす時がある。
Nさんの、その一言がそうだった。
「これ、サハラっぽいでしょ」とはおっている赤いシャツを指さす。
「そういえば、カサブランカでも淡い黄色か何か、南国をイメージしたようなシャ
ツでしたよね」
「旅先の町をイメージしての服選びが、密やかな楽しみなんですよ。でも、そうい
う風に言ってくれた人は初めてだから、少しドキッとしました」
「なんか、気つかってるなーって」
「そんなことよく気ずいたねー」ふたりして笑った。
Nさんは二つ年下で、カサブランカでは、その華奢な体のどこに一人旅を続けるパ
ワーがあるのか感心していたが、今度は再会して、その精細な気配りに感心させら
れた。
テーブルに置かれたNさんの手元には絵ハガキがあり、恋人にでもあてたものだろ
うか、まだ切手は貼られてなく真新しいものだった。
私の視線を感じたのか、「あ、これ私あてに書いたものなんですよ」と照れるよう
にして笑った。
いろんな笑顔のつくれる人だった。
Nさんとは三たび今度はフェズの町で再会し、夜の迷路のようなメディナを共にし
た。
スペインからの帰りの飛行機でも一緒で、不思議なご縁を確認しあった。
その後東京で2度会った。
最後の夜に、目黒駅前の歩道橋で、あんなに笑顔のすてきな人を私は泣かしてしま
った。
自分がひどい男だと後悔したのは二度と会わなくなった、ずっと後のことだった-。
Nさんは夕闇が迫る頃、ホテルのレストランで食事をとると言って、席をはずし
た。
空の紫色を帯びた雲から、呼応するかのように月がでていた。
満月だった。
日本でみるより、かなり遠くに感じた。
3杯目のお茶を飲むころには、プールサイドではベルベル民族のきらびやかな衣装
を纏った男女の楽団が地方の民謡らしき歌を奏で始めた。
男達が太鼓を叩き、女がメロディをとった。
昨日のことなのにシェ・アリの一夜が遠くなつかしく蘇ってきた。
何処かで聞いたような旋律は、何処かへ魂をいざなう。
もう少しここにいたかったが、この曲が終わると席を立つことにしよう。
めざすは、Mレストランである。
すっかり夜道となってしまった。
Mレストランは、地図ではハッサン5世通りにあったが、なかなかみつからない。
人口1万5千人の、「なにも聞こえない」を意味するこのワルザザードの町は、も
のの10分も歩けば、うら寂しい街灯がポツポツ灯っているだけの通りになってし
まうが、その街灯だけの通りになってしまった。
引き返して今度は、一件、一件看板に目を凝らしながら歩いた。
歩きやすさという点で、この町はとても快適な町だ。
あの、なめまわすようなアラブ人の視線も、空虚を突くような視線も届いてこない。
私を私として放っておいてくれる。
ようやくみつかったMレストランには通りから奥まった古びたビルにローマ字で綴
った店名の看板と、おざなりな電球がちらほら飾ってあった。
店の外はオープンテラスになっており、15ほどのテ-ブルのうち、3つ4つしか
まだ埋まっていなかった。
通りに面した一番前のテーブルに着くと、すぐ隣に老人がアラビアンナイトの世界
にでもでてきそうな真鍮の大きなポットから少しずつ茶を注いでいた。
老人は茶を注ぎ終えると、仙人のように目を閉じて、何か思索するかのようにもの
静かに耽っていた。
老人は私がこの席を立つまでその動作を何度か繰り返していた。
小太りの愛くるしい顔をしたウエ イターが注文をとりにきた。
「カルテを」と言うと、心得たとばかりに「ウイ」とうなずき店へ消えて入った。
すぐに、うやうやしく厚紙に手書きで書かれたメニュウを持ってきてくれた。
フランス語で書かれたメニュウにほっとした。そして、心にきめていたケフタ・タ
ジンを、それだけではと小心な私は、ポテト入りオムレツとサラダとコーラを注文
した。
やがて、真摯なウェイターはオムレツ、サラダ、タジンの順で運んできてくれた。
オムレツをそこそこにし、タジンの熱い蓋をとった。
タジンとは「鍋」のことで、この 鍋を使って調理される煮込み料理の総称でもあ
る。
隣にいる老人は相変わらずじっとしている。その姿がだんだん寂しそうにみえてく
るのは、私のいつもの悪い癖だと思うように努めた。
蓋のなかは、まだぐつぐつ煮立っている羊の肉団子とほどよく煮られた卵が食欲を
そそった。
湯気といっしょに香辛料の良い香りが鼻に運ばれてくる。
夢にまでみたはじめてのタジンを一口入れる。
なんだ、このおいしさは!
あつあつの肉団子は弾力があり、肉汁が口中に広がり、二度噛めば今度はミントの
香りが鼻をやさしく包み、飲み込んだあとコリアンダーなどの複雑な味がくすぶ
る。
私は一人ニタニタと顔を崩しながら、相変わらずじっとしている老人に気付かれは
しまいかと、必死に声をかみ殺して笑った。
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