トルコの旅――金の星と銀の月のしたで8



まるくん駅舎






――― 旅の街角で朝靄のなかから見えたもの ――








 早朝、送迎バスに乗って空港へ向かう。
最後の街を少しでもたくさん見渡そうと最前列の席に座る。
 街は通勤ラッシュ前の爆発的な賑わいをはらみつつ、ひとときの静寂にあった。
夜と朝の温度差があり、ましてやマルマラ海、金角湾、ボスフォラス海峡に囲まれた地形の影響もあってか、石畳の坂道の多いイスタンブールは朝靄に包まれていた。
 信号待ちのときである。
進行方向から荷車をひくロバが重そうな足取りで靄のなかから現れた。
ロバを引くのは年端もいかないあどけない少女だ。
少女は顔や体に汚れがめだち、素足だ。
信号が青になり、ちょうど通り過ぎている荷車が邪魔なのだろう、バスの運転手は容赦なくクラクションを少女とロバに浴びせた。
少女の目は凍りついたように冷たく、バスに向けて一瞥したが、視線の先には何も映っていない風で、ロバに鞭打ちながら横切って行った。
少女が運んでいた荷は街から吐き出される大量のゴミだった。
素足の少女が早朝大量のゴミを運ぶ重労働をしているということに、またたくまに彼女の取り巻く環境や状況を読み取ってしまい、悲しくもやるせなくなってしまう。
 イスタンブールの町並みは古い白壁とオレンジ色の煉瓦がつづき、坂が多く、年季のはいった石畳の
道が真に歴史の年輪を感じさせ、美しいと感じられる街である。
しかし、町じゅうのいたるところで散乱しているゴミやそれらから放たれる異臭に辟易とさせられる一面も持ち合わせていた。
当局の怠慢なのか市民の意識の低さからなのか、いずこの義務と責任の不履行かは存ぜぬが、改善は絶望的な気がする。
いずれにしても、早朝から素足でいたいけな少女が眼光も失せた様子でロバを押し引き、ゴミを回収する仕事がある、という光景を目の当たりにして、その現実にせつなく慟哭を覚える。
二日酔いの胃のただれと頭痛から重たい気分で、トルコの第一歩を踏んだアタチュルク空港からイスタンブールの街へと入場したときの心象風景が重なった―――。

 はじめてトルコを訪れた私(たち)を異国情緒たっぷりに、イスラム寺院や町歩く女性のチャドル姿や新月のような口髭を生やした男たち、そんな町の姿に想像し胸膨らませ、私は昨日のギリシアでのひどい鯨の後悔の念にかきたてられつつ車窓に釘付けだった。
 しかし、アタチュルク空港をでて、しばらく高速道路周辺は今朝方まで旅していたギリシアと何ら代わり映えのない枯れ果てた畑やごつごつした岩肌のみの山ばかりで、退屈で驚くほど単調な風景がつづいた。
ギリシアは太古の地殻変動がなければ、本来地つづきなのだからしかたがないにしても、ようやく灰色のキャンバスに彩られたのは、どこにでもありがちな都市郊外の姿だった。
それは煙突から吐き出される煙が繁栄の象徴とばかりに自然への憎悪を剥き出しにしている工場群、そして画一的で生活の匂いのしない団地群だ。
「もうすぐハドソン川を渡り、ニューヨークです」とアナウンスされても誰も疑わないような、そんな風景がつづく。
 イスタンブールへの過剰な期待の高まりは、口ずさんでいたオスマントルコ帝国の有名な軍楽隊メフテルの行進曲がいつのまにか消え去るのと同時に萎んでいった。
 市街に近づくにつれ、人工的な緑は多くなったが、街路樹の袂の大量に積まれたゴミとバラック小屋のような高層住宅が肥大化する現代都市が抱える機能の苦悩を窺い知った。
 バスは、その昔ビザンティン皇帝テオドシウスが外敵からイスタンブールを守るため築かせた城壁沿いを進み、城壁は比較的保存状態がよく、またあちこちで修復工事も行われていた。
しかし、驚いたことに、観光客がバスはニューヨークではなくイスタンブールに近づいているのだとはじめて自覚し、目にするビザンティン時代の遺産に現代のひとびとが住み着いていることに目を疑うだろう。
城壁を雨風しのぐ防塞としてそこに住みつき、あるいは掘っ立て小屋を建て、劣悪な状況のもとでジプシーとして生活する貧困層がいることに驚くことだろう。
トルコは近年、外貨不足に合わせて産業構造変革の立ち遅れで、心ならずとも貧窮に陥るひとが多いとは聞いていた。
都市郊外はスラム化し、ジプシーたちの生活の場でもあったのだ―――。

 あのときの城壁沿いのバラック小屋と、今しがた見た素足の少女の姿が重なってみえたのだ。
旅人はヒッタイト騎馬隊の疾走やセルジュークの進撃やアタチュルクの熱弁にばかり酔いしれているわけにはいかないのだ。
また、トプカプ宮殿のバグダッドキョシュキュから金角湾を望む夜景にうっとりしたり、青が美しいイズニックスタイルの皿に感心したり、アジア側ウスキュダルへ向かう定期船の汽笛を聞きながら旅のひながを過ごしてばかりはいられない。
ましてや、250キロもあるというスルタンの王座に感嘆したり、町場でハーレム気分を味わおうと若い女性のベリーダンスショーに鼻のしたを伸ばしたり、カッパドキアの白ワインに酔いしれてばかりではいられない。
避けては通れぬ、人間の業というはかなさや、あるいは力強さに目を背けてはならない。
 また、いつの日かトルコに来よう。
夢、適うなら、インシャラー(神、給うなら)―――。




――― ヤワーシェヤワーシェ(ゆっくり漕ぎ出そう) ――








 成田から羽田へ向かうリムジンバス。
外は雨だった。
降りしきる雨と闇のなかから湾岸道路の灯りが走馬灯のように現れては消え、現れては消えて、淡くか細く朧な光を放っていた。
頭の中は真っ白に近いものがあったが、その朧な意識の中核には、旅のあとに自分が変容した暗示があるかのようで、私はその答えをどこに触れればよいのか模索する古代の神官のようだった。
もちろん、朦朧とした心身を鞭打っても運命的な暗示などは見出せないでいる。
かわりに私はついさっきまでの出来事のような、それでいて遠い遠い御伽噺のようなトルコの旅を振り返って紛らわすことにした。
まばゆいばかりのまほろば、珠玉の旅を想った。
そして、旅の後、の自分を性懲りもなく見つめてみる、などという堂々巡りであった。
―つまらなく退屈で、そして厳しい川を海に向かいまた漕ぎ出さなければならない―
「真理」の旅ではなく、まごうことなき「真実」の旅がまた始まろうとしている。
時はどんどん流されていくだろう。私はたゆたうばかりだ。
暗闇の航行は何かを残していく軌跡もなく、遠い灯台に夢と希望を託すことなく、流されているという畏敬も恐怖もなく、ただただ身をまかせている。
あまつさえ、今の自分、に責任すら果たしていないのだ。
 トルコのひとびととわずかならがらも交じり合い、彼ら彼女らの生活を垣間見て教わったことに、「生きる苦悩」より「生かされる喜び」というものであった。
敬虔なイスラム教徒であろうとなかろうと、習性としてあるいは諦観として「生かされている」と人生を委ねているように感じられた。
そして、私は「明日できることは今日にするな」というトルコの古い格言を知った。
学生時代、熱狂的にイタリア熱に浮かれたひところ、私は陽光きらめくイタリアとイタリアの旅に入り浸っていた。
あの当時私は「明日は確かならざれば。楽しめや人生を――」というヴェスビオス火山の噴火により消滅したポンペイの遺跡にある酔いどれが貴族の別荘の壁画に綴った詩碑をも重ね合わして想いだした。
しかし、私の変容など、微塵のかけらもない。どこにもない。
しかし、あせりはすまい。
出会えた喜びと愛し合った美しさをなお渇望しつつ、ゆっくり船を漕ぎ出そう。
「旅の思い出」はどんどん風化し、やがて失うも多く、「美化された」ものだけが残るだろう。
しかし、「美化されたもの」は空気のように私にまとわりつき、やがて「私すら」空気になるのだ。
だから、あせらず、ゆっくり漕ぎ出そう―――。
ヤワーシェ、ヤワーシェ(ゆっくり、ゆっくり)。


「・・・・夜、月よし、お願い、夜を眠らないで・・・・・・・・・」
 羽田空港の滑走路に挟んで建つ、まわりには他に何もなく世界から異化されたような趣のホテルの一室で、プッチーニのオペラの一節を口ずさんでいた。
今日中に成田から羽田に向かうのは予定どおりであったが、今晩、羽田に泊まるのは予定外であった。
アテネからバンコク経由で成田空港へ、そして空港バスに乗りその日のうちに羽田から伊丹に飛ぶ予定であった。
しかし、台風シーズンの7月、私たちを乗せたオリンピック航空機はおもうように気流に乗れなかったのかようで、正確な原因は伝えられないまま定刻より4時間遅れで成田空港の滑走路に滑り込んだのだ。
すでに羽田発伊丹行きの最終便は飛び立っていた。
東京ー大阪間の券を事前に購入していた私たち数名はオリンピック航空の経費で羽田までのリムジンバス、羽田での宿泊と、サーロインステーキという手厚い夕食が用意されていた。
窓の外は激しい雨だった。ニュース速報で台風が日本海域に近づいていることを繰り返し警戒していた。
部屋から空港の滑走路の灯りもみえず、激しく雨に打たれる屋外プールと棕櫚の木が強い風に蹂躙されるかのごとく激しく揺れる姿だけがあった。
 ここで、プッチーニの曲を口ずさむにはわけがあった―――。

 部屋に備え付けの冷蔵庫を開け缶ビールを取り出し一人旅の成就の祝杯を挙げた。
腕の汗が塩吹くぐらいに乾燥したアナトリアの地では生ぬるいビールを飲んでいたというに、湿気の多い日本で冷えたビールを飲むという落差がおかしかった。
最後の一滴を飲み干そうとしたとき、電話のベルが鳴った。
「ねぇ、何してた?ここのラウンジバー行かない?パンフで見たの。トルコの旅はまだ終わらないんじゃなくて?」
○○○号室からだ。
彼女は私の出国前はあれだけギリシアについて熱く語っていたのに、留守の間勉強したのかすっかりトルコ贔屓に変質したようだ
私は承諾し、苦笑いして受話器を置いた。
―――偶然の産物とはいえ、私の部屋○○○号室はちょうど2年前宿泊した部屋と同じだった。

 2年前、私はこの狭いベッドに、一時期熱く語り合っていた間柄の人と、冷えた関係でいた。
二人はイタリアが取り持つご縁で知り合った。
新たに開設されたイタリア語講座に、イタリア旅行熱が冷め遣らぬ二人が出会った。
それは、二人を引き寄せる女神がいたかのような予定調和のごとく、かつ奇跡的に楽しい日々だった。
いつの日だったかプッチーニのオペラ「アイーダ」を観た後、―永遠―という言葉をお互いは信じて疑わず交わした。
しかし、若き日の―永遠―ははかなく泡のようにはじけ、おそらく最後の逢瀬となる場所として予感めいたものがありつつ私が選んだのがこのホテルだった。
 最上階のバーの名は「スカンジナビアバー」だったと記憶している。
あれから2年たった。
「旅の矛先」ばかりではなく「旅を語る」相手まで移ろいでいた。
私は受話器を置き、もう3日も着つづけている汚れて汗臭いポロシャツのまま部屋をでた。
部屋の扉のノブに手をかけたとき、遠くどこかでプッチーニが流れ出した―――。




様々な出会えた喜びと愛し合った美しさを渇望しつつゆっくり舟を漕ぎ出そう。

風化し、やがて失い、美化されたものだけが残るのかもしれない。

として残されるものばかりが邂逅ではない。

美化されたものは空気としてまとわりつく。

、ゆっくり漕ぎ出そう。

(ゆっくり、ゆっくり)










おわり



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