カメルーンの旅 その6




―― バミレケ族の秘密結社 フンバン ――



 早朝、バフサムを出発する。
朝日がまだ昇らないうちにフンバンへ向かいスルタンの宮殿跡博物館を見学し、急ぎバフサムに戻り荷物をまとめてバンジュン村、バロンビ湖と昨日周れなかったコースと今日予定のコースを一日かけて急ぎ足で巡るそうである。
しかも今夜はドゥアラまで帰り、パリへ向けて旅立つ日だ。
 密林に覆われた辺りは重ねるように朝靄がかかり、薄闇の西の空が明るみ出す頃に今日がとても晴れた朝だということがようやくわかってきた。
 昨日ドゥアラから5時間かけて走ってきたグラスランドは高原地帯でありながらも北カメルーンとは明らかに違う植生豊かな地帯だ。
 ガソリンスタンドで給油をしていると、小型トラックが隣に滑り込んできた。
荷台にはわんさか子どもが乗っている。
「今からバナナ園でバナナの収穫をするためかき集められたのだ」とバレンタインが説明してくれた。
本当に赤々とした赤土と小さな形も様々で色とりどりのモスクが印象的な道のりだった。キャッサバ畑や松林、ナツメヤシ、パレミアヤシなど飽きることのない景色だ。
山から太陽が昇りはじめ、約1時間でフンバンに着いた。
道沿いは青と水色の制服を着た小学生が大勢登校している。
そんな朝早くに、アフリカのポレポレ精神の世界でよくぞ博物館が開いているものだと感心し、一方で学校へ通う子もいれば、バナナ園に送り込まれる子どもたちもいるのだ、という現実を考えさせられた。
 フンバンはバムン族の町である。
カメルーンのグラスランドには大小様々な規模のマンコンと呼ばれる王政社会があった。
マンコンはフォンと呼ばれる王に統治され、とりわけバムン族は部族間の統合もはたして、王政部族国家ともいうべき集権社会を形成していた。
そのかつての首都がフンバンにあり、各部族内のフォンを統治したムスリム風にスルタンと呼ばれる王が住んでいた宮殿が現在博物館として開放されている。これまで見てきたカメルーンの部族の宮殿は、王宮といえども民家と変わらぬ小屋同然であったが、ここスルタンの王宮は3階建ての大きな家だ。
13世紀から統治した王、バムン族の歴史やバムンの伝統的工芸や仮面が多くあり、バムン族ひいてはグラスランドを知る上では貴重な博物館といえる。
この王宮があったフンバンをはじめバムン族が住むのはグラスランドでも山間部に位置し、この博物館をまわっただけでも、バムン族は戦闘的な戦士という印象があるが、そのとおりドイツがグラスランド山間部に侵攻してきたき、勇敢に戦ったという伝承が残っている。
しかし、バレンタインの説明によると、1902年、ドイツがフンバンに到着したとき、当時のバムン族の王ジョヤは威厳をもって接見し、ドイツ軍と交易などについて平和的なうちに交渉したというほうが正しいらしい。
ここで一際興味を引くのは、代11の王で6キロ先のことまで聞こえたと伝えられ2m60cmあったとされる仮面を被ったスルタンのレプリカだ。
牛の顔に蜘蛛が這うスルタンの家紋、ガラスビーズで覆われた双頭の王家に代々受け継がれる仮面、呪術がばれて首を切られるひとを描いた絵画、ライオンに食われる民衆を描いた絨毯、豹の牙のネックレスなど、この博物館のなかの陳列物の数々はなかなか不気味な雰囲気を醸し出しているのである。
仮面ライダーのショッカーのアジトみたいだ。
なかでも双頭のガラスビーズの像がついた王家に伝わる椅子は、尻尾にも頭のついた双頭の蛇が椅子にデザインされている。この双頭蛇の由来は「昔、西と東から敵に攻められ危機に面したがこの村の勇者たちは勇敢にも両方ともやっつけたのだ!」という話しからきているという、そんな後ろにも目があるような兵士たちがモデルになった、顔が前後にある仮面もこの伝統的なデザインなのである。
アフリカの王政部族社会には葬式などの儀礼に登場する仮面などを管理し、また呪術集団として民衆を政教一致的要素=仮面ダンスで支配する秘密結社がある。
秘密結社というと、なんだかおどろおどろしい感じがするが、加入儀礼のある村の青年団と思ってよい。
ただし、仮面ダンスがいつ行われ、誰が踊るかは決してひとに知られてはならない。
呪術に欠かせぬ精霊が宿るのが減退もしくは消滅してしまう恐れがあるからだろう。
もちろん、秘密結社のメンバーは決して祭礼や呪術的要素が濃い儀礼である仮面ダンスにおいては決して民衆に顔をみられてはならない。ビロードをした牛の仮面にマントを被った秘密結社の衣装を着た人形が並んでいた。アフリカの仮面ダンスは衣装なども完全武装して誰が誰かはわからなくなる。
フンバンの結社のメンバーはソロ(戦士たち)と呼ばれる。
カメルーン、またバムン族に限らずアフリカでは祭典、儀式などで仮面が使用される時、仮面装着者は精霊や神々そのものとなる。仮面自体にも特別な思いを込めており、超自然的な存在とみなされている。
製作者は特定の人が行うが、専門の彫刻家ではなく、農業など仕事の手の空いたときに、特別な木の幹を用いて、村里から離れた特別な場所で制作するのだそうだ。
そして村の秘密結社のみがマスクを取扱い、装着する。つまり家人でも仮面をつけて今舞踏をしているのが息子であり夫ではないのだ。精霊なのである。
現在でも奥まった村々ではこうした伝統宗教、風習が昔と同じ形で残されているがフンバンの秘密結社のダンスは頭上に仮面をのせて仮面の首周りをラフィアなどで飾り、踊りといっても背の高い大男たちのゆったりした行進のようであったという。
ところで、そもそもカメルーンのアフリカのひとびとにとって仮面とは何であり、どんな意味をもつものなのであろうか。まずは仮面の歴史から紐解いてみよう。

「――仮面の歴史であるが、タッシリナジェールの岩壁画から、紀元前4000年には既に仮面舞踏が行われていたことがわかっている。しかし木製の仮面は厳しい自然条件の中で生き残るのは難しく、現存している最古の仮面は17~18世紀位のものである。仮面が紀元前4000年以降これまでどんな歴史的な変遷を辿ったのかそれを跡づける資料は探しようがなく、手がかりのない空白の数千年に対しては推測の域を出ないのだが、岩壁に描かれた仮面がコートジボワール周辺で使われていたものとよく似ている事もあり、仮面というものの宗教的儀礼上の役割から見て、各部族に固有の伝承や時代的な相違があるにせよ、形態としては大きな変化はなかったと思われる。紀元前4000年頃、まだサハラが
緑の平原であった頃に行われていた仮面舞踏は、紀元前3500年頃から砂漠化にともなう人々の南下のため現在のギニアあたりからカメルーン方面まで流動し、紀元前3000年頃からのバンツー族の移動と共にノック等の技術や様式がガボンやザイールへ伝わったのではないかという説がある。仮面は部族固有の神話や伝承の具現的な象徴であるため、それぞれの個性が際立っているが神像に関してはガボンやザイールではノックのスタイルとよく似ているものも存在している――。『アフリカのかたち pOWER OF ART』小川弘 里文出版 」
 世界中の歴史上のあらゆる美術(芸術)の主流はリアリズムであり、手法やデフォルメはあってもアフリカの仮面や彫像ほど奇想天外なかたちが作りだされた地域はほかにない。
 タッシリナジェール岩壁画の絵の人物や動物は見るからにプリミティブでかつリアリティな表現である。しかし仮面そのものは鼻や口や目を幾何学的に強調したりした、イメジネーション豊かな造形物である。
しかも、伝承されたか流布したという確証はく立証も不可能とはいえ、その岩壁画で描かれている仮面そっくりの仮面が現在のコートジボワールのウォベ族やゲレ族にあるというではないか。
それは脈々とサバンナや森林の生活様式で育まれてきたアニミズム信仰により、神や祖先、精霊とのコミュニケーションをとる代役としての役割や願いが込められ、それらの有形無形のイマジネーションの結晶として数多くの仮面造形をつくりあげたのではないかと考えられている。
仮面は祖霊、或いは精霊そのものであり、アフリカ的文化空間には、こうした霊が満ち満ちているというなかで、現世の願いごと=呪術的世界ではなくもっと飛翔した精神世界として、現在でもアフリカ諸国の部族の仮面の多様性と創造のパワーして捉えるべきではないか。
木彫が祈りの対象とされることが多いのに対して、祭りなどの儀式に使用される大切な道具に仮面が重要な意味をもつ。仮面も木彫りで、人間の顔だけではなく、自然界とくにワニや鳥、牛などの動物を形取ったものまであり、付け方も、顔にかぶる普通のお面から、動物などは頭に乗せるものまで多種多様だが、もちろん最も一般的なのは顔に被るためのものだ。
儀式などのために作成された伝統的な木彫や仮面には、一般に作者不明のものが多いが、最近は、儀式用ではなく芸術作品として作成されるものが増えているそうだ。
「――たった数点の岩壁画と現存する最近の数多くの奇想天外な仮面造形を比較するにおいてそのイマジネーションの源は現世の造形に由来するのではなく、彼等の精神生活における願い事であり、夢であるような気がする。この事は殆どの創作者が絶えず縛られてきた現世の常識としてのルールから解き放たれ、自由にこのイマジネーションを広げていった大きな理由と信じている。
ノックやその後のイフェ、ベニンの技術的熟練は仮面造形を作る時、大きな力になったとは推測できるが、アフリカ仮面の持つあの豊かなイメジネーションと仮面の持つ力はまさに人々のスピリチュアルな
創造によるものと信じる。そしてそれが、アフリカの仮面美術の最大の魅力と言えるだろう―――。
『アフリカのかたち pOWER OF ART』小川弘 里文出版 」

 アタシもここ最近随分とアフリカの仮面に肩入れしているのである。
そもそもカメルーンへの旅はアフリカの仮面=マスクとの出会いと買い付けの旅だ、とは以前にも書いた通り。
しかし、今回のカメルーンでの旅では初日にドゥアラのホテルで閉店してシャッター越しに仮面の数々を見てきただけで終わってしまった。
そのかわり、ミニチュアのレプリカをあちこちで買い漁った。
フンバンの宮殿博物館の売店でもテコラッタや木製の安っぽい手のひらに収まる小さなレプリカがたくさん売られていた。アタシはそれらを10$から1$とさまざまな値で買い漁った。
北部カメルーンのキルディ族と同じようなナムジラ族の安産や健康な子を授かるお守りのための木製の母体と双子の彫像も買った。ナムジラ族はナイジェリア、カメルーン国境辺りグラスランド山間部に住む農耕部族だ。グラスランド地方のどの部族も女性の像、とくに双子をもつ女性の像は豊饒性に富み、実り豊かで再生力に溢れた大地の守護者として敬われる存在だ。シンプルな人形にビーズ、タカラ貝、コイン、金属、皮の紐類を巻きつけている。そのうちのタカラ貝は双子を表すそうである。
 タカラ貝といえば、ルムスィキのホテルで、その晩に踊られたカプシキダンスでも使われるカリシャクスとよばれる腰に巻く前隠しのようなビーズの飾りにもついていた。カリシャクスは9千CFAの買い物だった。
他に北部グラスランド地方マンビラ族の丸い、おそらく太陽と女性を表したのであろう愛嬌のある粘土製のミニチュアレプリカや、ビーズワークで有名なヨルバ族のお面のミニチュアレプリカ、ナイジェリア、イドマ族の精霊信仰の彫像のレプリカ、バムン族の王の仮面のミニチュアレプリカ、ナイジェリア・アフィクポ(イボ族)の女性の仮面ミニチュアなどである。
素焼きのミニチュア仮面は本来は土産物としてではなく他部族と出会ったときの出身部族を表す身分証明書代わりになパスポートマスクなのだそうである。
 ワザのホテルでも色鮮やかな面長の仮面のレプリカを買った。
 カメルーンから帰国して歳月はたち、すでに家には小さな冷蔵庫も入るほどのダンボールで送られてきたアフリカの仮面が家の埃とカビが充満した(笑)お宝部屋で所狭しと眠っている。
そして、今まさにこれを書いている今日も、インターネットオークションでブルキナファソ、ブワ族の丸いお面の幾何学模様を描いた可愛らしい太陽の仮面というビビビ♪ときた(笑)をゲットしたばかりなのだ(爆笑)。
オークション落札価格10,200円也―――。
明日にでも宅配便で届くだろう。家人はまたまたあきれ返るだろう(苦笑)。
しかし、この仮面、落札通知がきたそのメールから主催する会社のHPを覗いてみると、「残りあと2つ」と、はやくも商品として紹介されていた(笑)。
商品価格なんと10,290円、アタシの落札価格と誤差わずか90円、喜んでいいのか悲しむべきなのか今ひとつ計りかねていた(笑)。
コートジボワールやカメルーン、ガボンのファン族の長細い面長な男女のペア仮面は長さ80センチにもなる仮面も買った。実はこれはワザのホテルでミニチュアの土産物にビビビ♪ときて買った(5$に値下げてとお願いするアタシにテコでも動かず6$と言い張る店主に折れて6$で買ったが)、ミニチュアの仮面がファン族の色彩豊かな面長の仮面との邂逅であった。
ブルキナファソのモシ族の仮面はもっと長い。
モシ族はブルキナファソの人口3分の1を占める大きな部族だ。モロ・ナバ時代に興隆した。
ヤテンガ地方モシ族の仮面は、幾何学模様が描かれた細長い板状が仮面頭部から上へ伸びている。
長い板状はアンテロープ、ガゼル、ワニや雄鳥、牛など野生動物や家畜をモチーフにしたトーテミズムが色濃い。これらの仮面はクランと呼ばれる氏族共同体のなかで語り継がれていく。
宅配便で届いたモシ族仮面だが、とても細長い装飾物が仮面から延びており130mもあるのだ。
 ナイジェリアのイボ族は仮面の種類が1000以上ともいわれ仮面と仮面舞踏の宝庫の部族だ。
その仮面のひとつで、顔のまわりにヤシの葉がたくさん装着された、日本の神官が被るよ鳥帽子みたいな頭髪に白粉を塗った女性の仮面。
ほかにもギニアはエケ族のエイリアンのようなとても怖い顔の仮面。コートジボアール、グレボ族の仮面は両目と口がすごく突起した宇宙人的な仮面。
アタシのカビが生え埃まみれのお宝部屋はこのようにとても賑やかだ。
 さて、数々の仮面をとりあげてきたが、その仮面を秘密結社に託し、葬送儀礼を行う部族集団とは一体何であろうか。
そもそも、今回のカメルーンの旅でも数々の部族が登場したが、部族という定義は何であろうか?

「――アフリカにかぎらず人間は、言語、習慣、宗教、出自(起源)などを共有する何らかの集団に属している。こうした集団は、部族(英語ではトライブ)、民族集団(エスニック・グループ)、民族(ネイション)、種族といったさまざまな名称で呼ばれる。こうした集団の定義は、「共有されているもの」の中味を厳密に考え出すと、じつは容易ではない。もっとも普遍的な基準は、「われわれ意識」を共有した、つまり「私たちはA民族である」「B人である」といった共通の意識がある集団である。これも状況によって「われわれ」の範囲は伸び縮みするから、あいまいな定義である―――。
――民族に相当する用語は、部族、民族集団、種族など複数ある。
アフリカの人びとに対しては、民族ではなく部族が使用されることが多い。英語やフランス語において「部族」はヨーロッパの基準で社会的進化の段階が低いとみなされる社会に対して用いられる。
そこには、ヨーロッパ中心の観点に基づく優越感が表れているため、この語はすくなくとも社会科学の分野ではほとんど使用されなくなっている。学問的には「民族集団」(エスニック・グループ)と呼ぶのが、より正確であると思われる。しかし、煩雑さを避けるため、この小論では民族で通すことにする。
また、アフリカのある民族を、たとえば「マサイ族」ではなく「マサイ人」と呼ぶ。この「族」は民族ではなく部族の族だからである。民族をめぐる問題には、それぞれの国や地域によって特殊で個別な事情がある。しかし、「私たち」の問題は民族問題で、「彼ら」は部族問題という分け方をせず、おなじ目線で考えることは、アフリカの理解にとって有益であるばかりでなく、日本の私たち自身を相対化し、
捉えなおすきっかけにもなるのではないだろうか―――。
『旅行人2 アフリカ』―アフリカの民族と民族紛争―栗本英世―旅行人 」
 そもそも、アタシたち日本人も「単一民族」という幻想的常識がまかり通っている。
身近に言語・宗教・生活様式が異なる他者がいないため、アイデンティティを意識せずとも暮らしてゆけるからだ。しかし、日本国籍を有し、日本語を話す、「日本国民」に間違いはないのだが、「日本民族」であるというのは根拠がないのである。
それは、方言というコミュニケーションが困難な場合をとりあげてもそうだし、アタシたちは出自、起源が何よりも「共有」されていないのだから。
フンバン宮殿内の展示物の絵葉書を観光用に作成中とのことで、写真撮影は禁止とのこと。
ただし、博物館の案内人を通してバレンタインがアタシたちにこう伝える。
「絵葉書の売値と同じ、写真一枚につき500CFAで、撮影を許可するそうです」
アタシたちは苦笑いした。
アタシはアルフレッドに2000CFA、つまり写真4枚分を払い、牛の仮面の秘密結社や、双頭の仮面、王の紋章とスルタンの仮面、バウンデ族やバフム族の彫像などを次々と撮りまくった(笑)。
三角まゆげといい、一重のまぶたにつり目の強い意志をもった瞳といい、アタシそっくりのアルフレッドはアタシについてまわったが「ユー、フォー?(笑)」と笑った。
 早足で宮殿内を見学し、マーケットや木彫の博物館には寄らずホテルに直行した。
熱帯雨林の風景を眺めながら車で走るのは気持ちのよいと、あらためて思ったバフサムかたらフンバンへの小旅行だった。
―― 幻の仮面ダンス さらばさらばバロンビ湖 ――



 バフサムのホテルを慌しく発ち、南下してバンジュン村へ向かう。
バンジュン村はバフサム同様バミレケ族の村である。
栗本英世の小論文―アフリカの民族と民族紛争(旅行人)―にあるとおり本来なら、部族という文化差別的言葉ではなく、世界に共通した言葉としての民族集団をさし示すので、~人(バミレケ人)であるが、これまで使ってきた―族―を使わせてもらう。
 バフサムを発ち、フンバンへの通り以上に風景は豊かになる。
通りはマーケットで賑わいひとびと行き交う。そして赤茶色の大地の丘に建つ家々、空は雲が多くなってきたが、それでも青い。
ひとびとの表情も温和で明るいバフサムの郊外になると、路上にバナナなどの果物、水、日常品などを売るキオスクがあり、ビデオを撮っていたので気づいたのか「これを買え」と叱られた。
ハリネズミや鹿(アンテロープ?)の肉を干して売っていたりもした。
道沿いで売られているものはほかにヤギやブタだ。てっきり放牧かと思いきや、どうも食用で生きたまま売り買いされるらしい。
肉といえば、カメルーンは旧ザイールなど他の中央アフリカと同じく猿の開きの燻製が食用として重宝されているはずなのだが、近年ヨーロッパの動物保護団体などがうるさいらしく、政府が何を勘違いしているのか公共の市場からは姿を消しつつあるのだという。
バムンの村からバミレケの住む村に変わってきたとうことは、車窓の自然からは伺えないが、人工的なもので理解できる。
村があるごとにトタンで銀色に輝くとんがり帽子のような三角屋根の家がある。
これはバミレケ族のうち王族や貴族が住む家だそうである。
 バンジュン村のバミレケ族の王宮に着いた。
シェフリーと呼ばれる王はバミレケ族一の権力者だ。カメルーン政府は彼ら王族の協力なしには200を超える部族が住む国家を安定的に統治することはできない。
バンジュンの王宮はバンプーという木(竹)で造られ藁葺き屋根の非常に立派な家だ。王宮から広場に向かう両サイドには王宮より小ぶりなバンプーの家が連なり、28人の妻が暮らしてるという。
広場ではなんと本殿が解体されていた。
本日は、ここでツォ(TSO)と呼ばれるバミレケ族の仮面ダンスのなかでも最も華やかなダンスを見学する予定だったのだが。
バンジュンを案内する男は通訳をしてくれたコーディネイター・バレンタインを通して驚くべき発言。
「5年に一度、王宮は解体されあらたに建設される。それが習わしだ。建設工事は3週間前から始まっている。王宮建設期間中は仮面の踊りが披露されることはない」
なんともあっさり言うではないか。
バレンタインは焦ってしまうが、バナ村にある彼らカムツアー(CAM TOUR)のボス、マイケル・ニジェンクの家でアレンジされているそうだ。
しかし、王宮で踊られる仮面ダンスと民家でかき集められたひとたちで踊られる仮面ダンスではかなりの隔たりがあるのではと一抹の不安を覚えずにはいられなかった。
しかし、それは取り越し苦労で(?)アタシたちは比較する術すら与えられなかったのである――。
土地の仮面ダンスの見学というコーディネートがこの旅最大のエンターティメントにして最大の楽しみであったのに、なんと呪われた旅だこと・・・・・・。
そうとも知らず、アタシたちは元王宮があった広場横のバミレケ族の博物館を見学する。
博物館はフンバンの王宮以上に小さな小屋に所狭しと並べられていた。
王の象徴である像の仮面、水牛仮面、鳥の形をした頭上面、マングローブの木琴、ジャンベのような太鼓、かばの剥製、タカラ貝でできた椅子、ビーズで色どられた王の椅子、ビーズの人形、豹やライオンの毛皮、ダチョウの羽根でできた帽子、象牙などである。
 博物館は仮面舞踏に使われるものが多くあった。
幻となったバンジュン村の仮面ダンス――。
「―― ベミレケ族のツォと呼ばれる仮面ダンスは数ある仮面ダンスの中でも最も華やかに人目を引く大スペクタクルで王の威信と活力を示す。この仮面ダンスはお祝いの儀式の時だけでなく、葬式でも登場する。仮面ダンスを行う秘密結社のメンバー達は、赤い縁取りのある藍絞りの衣装に鳥の羽でできたヘッドドレスを付けて練り歩く。王は、王権の象徴である“ゾウ”を象ったビーズ刺繍の仮面を被る。
ビーズ刺繍は“富”の象徴でもあるが、ゾウの仮面には丸い大きな耳と長い鼻を思わせる前垂れがあり、
ユーモラスである。王はこのゾウ仮面を被り、手には大きな蝿追い、背には豹の毛皮を背負って登場する――。 『アフリカのかたち』 小川弘 里文社 」
それらをわずか1時間で見学し、バンジュン村をあとにした。
とにかく、今日中にドゥアラに着き、パリ行きの飛行機に乗らなくてはならないのだ。
これまで散々予定が狂わされてきたカメルーン滞在もさすがにそこまではいかないだろう。
しかし、アタシは密かにパリ行きの飛行機が翌日に延びないかと願っていた。もう2度と来られないかもしれないカメルーン滞在が少々延びるほうが、帰ってからの心配よりも重要だ。
旅のおかげで感覚が麻痺しているせいか、足の調子は一体全体回復に向かっているのか悪化しているのか皆目わからなくなっていた(笑)。
会長宅は赤茶色のデコボコ道を行き、バニ村の人里離れた別荘のような趣の豪奢な家だ。
立派な門には旅人の木が迎え、色とりどりの花が軒を添える。庭にはプールまである。
庭の東屋にはテーブルが置かれ、そこにご馳走が用意されていた。
これまでカメルーンを旅してきて食べた食事のオンパレードといった感じだ。
鶏の炭火焼、ソーセージ、ハム類、ステーキ、羊肉煮込み、魚のフライ、魚の燻製、ゆで卵、タロイモ、
ヤムイモの茹でもの、バナナのチップス、モロヘイヤの煮込み、野菜の煮込み、インゲン、フライドポテト、マンゴー、パパイヤ、スイカ、パン類、ジャム各種―――。
これらがテーブル所狭しとばかりに、大皿にテンコ盛りでアタシたちを歓迎してくれていたのだ。
カメルーンの庶民の日常食からはずいぶんかけ離れたご馳走である。
 カメルーンでの食事を書き記しておこう。
アフリカン・フードの主食は何といってもアフリカ共通の穀物の粉を練ったものである。
ナイジャリアやカメルーンなどコンゴ(旧ザイール)以西ではではフーフーと呼ぶ。ちなみに日本人に最もポピュラーなのはケニア、タンザニアなどのウガリである。南アフリカではパップ、ジンバブエではサザ、ザンビアではシマと呼び名や作り方なども多少各地域さまざまだが、主にトウモロコシの粉を根気強く練ったものである。日本の蕎麦がきと同じような食感だ。トウモロコシに限らず、ヤムイモ、キャッサバなどもフーフーの主要な原料だ。ちょっと発酵臭があり酸っぱいキャッサバのフーフーはガリと呼ばれる。
キャッサバを乾燥して粉にしたものを練ったある程度日持ちする黄色い餅のようなエバ。旧ザイールではクワンガと呼ばれ中央アフリカではポピュラーなフーフーだ。
ドゥアラからバフサムに向かう道中、お腹がすいてたまらなくなり深夜の路上キオスクでこれを買った。棒状にして笹のようなものにくるんで売っていた。お腹がすいていたこともあったが美味しかった。
ういろうにそっくりの食感と味である。3つで100CFA。
ちなみに、おやつがわりにこえまた路上キオスクで買った木にさしたトウモロコシ炭火焼一本も100CFAだった。
キャッサバ、トウモロコシと同じくヤムイモも主要食材だ。ヤムイモを茹でて、餅状にしたふんわりした食感のパウンデッド・ヤム。
ヤムイモを乾燥して粉にしたものを練った茶色い餅のようなアマラ。
米や小麦粉で作ったフーフーはセモビタと呼び、日本人にも食べやすい餅そのものだ。
これら、総称してフーフーを肉の切れ端などが浮かんだスープと一緒に手で巧みにまるめて口に運ぶのが正しい現地の食べ方だ。
おかずが一品あればまだましなほうで、家庭ではフーフーだけの食事というのが一般的だ。ソジャというきなこ、醤油、そして砂糖などをつけたり、カランガというピーナッツのペーストをつけて食べたりする。
ほかに主食では甘くない食用バナナをスライスしてヤシ油で揚げたプランテン。
 これらの主食におかずを一品つけるのが家庭料理でも食堂でも定番だ。国民の20%いるムスリム以外は肉に関してタブーはない。
食堂だと、鶏、羊、牛、腸などのモツ、魚など材料を選び、基本的な味つけを選ぶ。
オクラやモロヘイヤなどを細かく刻んだネバネバ系のスープ、オクロ。
そして、苦味のある青菜と一緒に煮込んだカボチャの種をすり潰したおからのようなスープ。
トマトベースのシチュウは食べやすく最も安心する味だ。
そしてカメルーンは、西アフリカと同じく米もかなり栽培されており、ごはんも一般的だ。
ごはんに辛い肉汁などをかけたリ・ソース(ぶっかけごはん)はドゥアラの屋台や安食堂などで最もポピュラーな食べ物だ。
西アフリカ、セネガル経由で入ってきたパエリア風のたきこみごはんもある。
豆をすり潰して天ぷらのように揚げたものはエジプトのターメイヤと似ており、アカラという。
ナイジェリア国境辺りのグラスランドではこれにペペというとても辛いペーストをつけて食べるのが定番だ。
 屋台で売られる食べ物はポフポフという丸い小さなドーナツがある。北部モラのドライブインでドライバーのサーディが「サンフランという」と教えてくれたものも同じで小麦粉を揚げたものだ。
ドゥアラなど都会では、ポフポフにもバナナ味とプレーン味がありどちらもおいしい。
肉やレバーにスパイスをまぶし串にさして焼いたものはソヤといわれ美味い。
魚は燻製にして売られていることが多い。燻製を煮込んだり、焼いたり、揚げたりして調理する。
マルアで食べたナマズのフライはチャド湖から届く燻製ものだった。
西アフリカに多く移住しているレバノン人のシャワルマ(シシケガブ)が影響しているのだ。
野菜は種類が乏しく、ホテルなどでも牛、豚、うさぎ、鶏、ホロホロ鳥と続いた肉の付け合せには、ジャガイモを揚げたり茹でたり、そしてインゲン豆の茹でたものがほとんどであった。
生野菜のサラダでは、マルアのホテルで食べたニンジンのみのマユネーズ和えが美味しかった。
 アフリカ諸国は食事をはじめとした文化は旧植民地国の影響が色濃い。
カメルーンでも英語圏は食パン、フランス語圏はフランスパンと、朝食が違うのがおもしろかった。
フランス植民地だったドゥアラにはベトナム料理、中国料理の店が何軒かある。
残念ながら(別になくてもいいんだけど)カメルーン一の都会ドゥアラにも首都ヤウンデにも日本食のレストランがあるという情報は得ていない。
そして忘れてならないのは、ポテトフライとフライドチキンはあらゆる国・地域のローカルフード化しているということだ。
カメルーンの現地食に合わないひとが腹がすいでも、朝屋台で売られる焼きたてのフランスパンと揚げたてのポテトフライがあれば旅行を押し通すことも、生きていくことも可能なのだ―――。


―― きっと なにかに 呪われていた 旅の空のした ――



さて、マイケル・ニジェンク邸での豪華なランチである。
マイケルの息子にワインを勧められる。フランス産のロゼワインを頼む。赤、白ワインもある。
他にもギネスビール、プリスム、アムステルなどビールも各種。
ビールを飲み、鶏にかぶりつき、フーフーにカランガをつけほうばり、フレンチフライをつまんでロゼワインを流し込む。
そんな至福の昼下がり、脳内アドレナリンも胃袋も満足感で満たされるころ、マイケルは胃袋のものすべてを逆流しそうなくらい驚くべき発言をして、昼下がり暗雲を垂れこめてくれるのだ。
「今日、ダンスの人は集められない」
「ええええーーーーーっ!!そもそもバンジュンの仮面ダンスこそが一番楽しみだったのに!」
「今日は市がたつ日だ。市がたつ日は踊ってはいけない」
「ええええっーー?アタシたち友好的な外国人相手でもですか?」
「そういう習慣がある。習慣は習慣・・・・・・」
バンジュン村は3週間前から王宮立替で、バニ村はマーケットの日、だから仮面ダンスは無理。
つまり、最初から仮面ダンスなど幻であったのだ。
アタシたちはアフリカの黒魔術にかけられたかのような、かくも呪われた行程なのであった――――。

○ドゥアラ空港を発ちマルアには11時に到着予定の飛行機を正午過ぎまでドゥアラで待つ。
○そのおかげで、モコロの水曜市は見られずじまい。
○ジュリアンは一言も言わなかったが、雨期のため道が悪路になっているからか?族長の宮殿のあるマバス村へは行っていない。
○中央アフリカ最大のワザ国立公園での2日間、ゾウ、キリン、ライオン、カバ、ヒョウなどがいるサファリコースで鹿と鳥しか見ていない。
○マルアで前日リコンファームの機械が故障とやらで前日乗れなかった30人のみ乗せて飛行機は飛び立って行った。
○おかげで丸一日を潰してしまい、ジダの故郷ミンディフの歯という岩山とファンタジアで有名なミンディフへ行くも岩山はただの岩山で、急に訪れてファンタジアなど見れるわけもなく。
○その翌日マルアに帰る便すらも大幅におくれて夜ドゥアラに着くしまつ。
○つまりもうひとつのカメルーン、楽しみなジャングル地帯はほぼ移動に費やすだけ。
○そして、火山のカルデラ湖、バロンビ湖畔のホテルに泊らずじまい。
○とどめは、仮面ダンスは観られずじまい―――。

 しかし、そもそもルムシキィのカプシキダンスといい、ジュリアンに撮ってもらったビデオで観たウジラのキルディダンスといい、ダンスというよりただの行列だった。
期待するほうが、そもそも間違いのはじまり-だったのかもしれない。
マイケル邸でワインを結局2本空け、旅の疲れも重なりかなり酔いが回った状態でドゥアラへ向けて出発した。
 途中、盛りのなかのバフォンの滝とバロンビ湖畔に寄った。どこにでもあるような滝とどこにでもあるような湖というより池でがっかりした気分にまたダメージを与えた。
アタシのカメルーンの旅は靭帯損傷にはじまり、最後までトホホな旅の空だった。
 空はいつしか月夜にかわり、パルミアヤシの林を抜けるなか眠りについたようだ。
そのときの様子をメモ帳には――心臓が胃に落ちるような眠気――と書いてあった。
アタシはアタシの体と心から呪いを解き放った――――。

きっとアタシのカメルーンの旅は何かに、何かに呪われていたのだ―――。
ルムシキィの老人呪術師はダムハーが、占いのため用いるのが白魔術という呪術なら、ひとに災いの呪いをかける黒魔術もアフリカでは日常的に健在だ。
こんな新聞記事をご存知だろうか?

―――アフリカ・ネーションズ杯の準決勝、カメルーン―マリ戦の試合前になんと「黒魔術騒動」が起きた。カメルーン代表のヌコノGKコーチが対戦相手のマリに呪いをかけようとして、試合前のグラウンドで警察官に緊急逮捕されてしまったのだ。ヌコノ・コーチは釈放されたが、前代未聞の大事件に、当地は大騒ぎとなった。90分前の大捕物だった。カメルーン代表が芝の感触を確かめるためにグラウンドに入ってきた瞬間、10人の警察官がピッチに乱入。カメルーン代表のヌコノGKコーチを押し倒しピッチの外に引きずり出し、逮捕してしまった。「いったい何が起こったんだ」大観衆はあっけに取られ、カメルーン代表のシェーファー監督も唖然としていた。そして1人の警官がピッチに置かれた“ある物体”を拾ってピッチから姿を消した時、だれもが事の顛末を理解できた。
関係者の話を総合するとヌコノ・コーチが対戦相手のマリに呪いをかけるために“ある物体”を置いたのだという。それを目撃した警官が一斉にピッチに飛び出していった。
ブラック・アフリカの世界ではいまも日常的に呪いが行われる。「ムーティー」と呼ばれる黒魔術で、クラブ・レベルの試合では呪術師を雇い、勝利のためには選手がボールに小便をかけたり、動物を生贄にしてロッカールームに飾るなどした。アフリカ・ネーションズ杯では2000年の準決勝ナイジェリア―セネガル戦で同じような騒動が起きている。
ヌコノ・コーチはその後、釈放され泣きながらロッカールームに引きこもってしまったが、カメルーン代表は無実を主張。チームと帯同しているマプカット・スポーツ大臣はこの逮捕劇を「一部の警官の行き過ぎた行為と受け止めたい。そうでなければ、それなりの対応を考える」とスポーツを超えた争いになると警告した。
呪いがあったのか、なかったのか。アフリカに長く続く勝利の儀式は、W杯でも不気味な影を落すことになりそうだ。呪術はアフリカでは生活に深く浸透しており、サッカーとのかかわりも当然のように大きい。チームの勝利を願って、動物の血を体に塗ったり、相手シュートが外れるように祈りをささげる。また呪術師がチームドクターとして帯同し、選手が負傷すると祈りで治療を行うこともある。1990年のW杯イタリア大会ではカメルーンが開幕戦で前回優勝のアルゼンチンを破る大波乱を演じたときも選手が「祈りが通じた」と一部で呪い効果がささやかれた。
 しかしこのネガティブなイメージをぬぐい去るため、アフリカ連盟(CAF)は今大会での、呪術を禁止した―――。
相手を不幸に追いやるため、相手からの呪術から身を守るため、いたちごっこの呪術合戦に歯止めをかけた。そもそも人間の勝手のために生贄になる小動物の命も救われた。黒魔術とは、他人を傷つけたりするなど攻撃的な呪文を中心とした呪術だ。悪魔を召喚して契約を行い、願いをかなえる代わりに悪魔に代償を払う。悪魔と契約することから、魔術をかけた本人も生命にかかわる危険を伴うといわれる。

 フランスとの親善試合を終え、パリから帰国するカメルーンチームと同じ飛行機だったこともあり、またアタシが滞在中ザンビアとのW杯予選大会をヤウンデで戦うこともあり、すっかりカメルーンびいきとなった。
しかし、アタシはフランスの、シャンパンのようにはじけるファンタスティックなサッカーが世界一好きだ(笑)。
おしむらくば、もっともっと体力と規律とを持ち合わせて、本来持つイマジネーションある芸術的をさらに高度なものにしたサッカーでアタシ(たち)を魅了して欲しいと願う。
そのフランスは前回のフランス大会に次いで2連覇がかかっていたが、日本韓国W杯本大会では、ものの見事に予選落ち、おまけに不屈のライオン、カメルーンも予選落ちという、ファンタジアであった(涙)。
なにかに、なにかに呪われていたのだ。

それが一体誰なのか?


アタシは、マルアからルムシキィに向かう途中下車し、夕焼けに映えた平原のなかで悠々と一本のバオバブの幹の裏にまわりを散策していた―――。
バオバブは太古から神が宿る木として崇められてきたそうだ―――。
アタシはその幹元に放水(尿)したことをフィードバックしていた―――――。

(カメルーンの旅紀行終わり


© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: