湯煙の向こうに――大分


font color=orange>湯煙の向こうに、まるくん、です―
at 2002 12/02 19:36 編集

JAMBO BUANA(VIVI)!
HABARI GANI MUZURI SANA
NASINDOWA NA MALI SHINAWE
KIDEGE KUKUWAZA KIDEGE
NINGEKUOA DADA

こんにちわ、みなさん。
僕は恋に陥ってしまい、大好きな人と結婚したいのに、お金がなくてどうしようもない。。。
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ジャンボ、ブアナ(ビビ)!みなさん。
今回は、アフリカはスワヒリ語のちょっぴりせつない(笑)詩を書いてみました。

 3日間、九州は別府に行っておりました。
じゃあなんで、スワヒリ語なんや!との訝るご質問には、こちらに御用意しております。
九州って、日本のアフリカ大陸みたくありませんか?形が・・佐多岬が喜望峰。阿蘇はキリマンジャロで、天草や牛深は象牙海岸。博多はカイロ、で、別府は交易の街モンバサというとこでしょうか?――モンバサといば、アタシたちが出発した日の朝刊で、モンバサにおける不幸なできごとを知りました。なんともいえない胸がつかえるような思いも片隅に秘めつつ、アタシはモンバサならぬ別府へ、その象徴的な記号を自己のものと読み取りつつ、バスで総勢40名での出発です―――。

 船で渡り着き、その夜は自由行動で、ささやかながらの、食道楽の旅です。
もちろんのこと、アタシのことですからしっかり下調べしてましたの。
でもね、
「まる~~、どこ行くん決めとるんか?ワシも連れて行ってくれよ」とN。
「宿で済まそう思うてたけど、ホンナラワシも出かけてきようかいの」とH。
ま、ここまではいいんです。結構懇意にしてくださる、ま、本音で申せばバカ話仲間ですから
譲っていいです、案内いたしましょう・・。
が、結局15名という約3分の1の集団がイモヅル式について参るはめになりましたの。
集団行動が大嫌いなのに引率しなければならないうえに人数がかさみすぎて、予定してた場所も変更せねばならないじゃないです(泣)、どういうこと、え~~?Nさん!あんたにね、緘口令引いたんやなかったっけ?どうなんです?
「賑やかでええで?」んな、問題やない!
おじやんおばやん、引き連れてだと、シッポリしたカウンターでの、〇L、女子大生観光者風情との出会いの『夢想』が湯煙に消えるやないかいな!
 結局、駅前から入った北浜の大衆居酒屋風情に落ち着いてしまいました。しかもメンバーのなかでは一番若くて、上げ膳据え膳をしてやらねばならぬ損な訳。注文ぐらい自分でとれ!トイレぐらい自分で探せ!
でも、すぐ撤回します。ここの支払いはとある団体の方々がもってくれるらしいそうです。
と、・・・いうことで、どさくさにまぎれて手が出せそうにない食材にありつけましたのよ。ありったけ注文しちゃいました。まず、なんといっても佐賀関の「関アジ」「関サバ」。食通の憧れなんですよ。豊後水道で身が締まっておりまして、脊髄を針で通して一気に〆るため血が回らず、味歯ごたえある上に嫌味のない鋭さがありますの。臼杵の「トラフグ」はテッサとテッチリ両方注文。肝を大分名産のカボスをかけたポン巣で昇天ですわっ!そしてなんといっても醍醐味は日出港で揚がる「城下カレイ」ですな!身は刺身に骨は揚げてもらいました。他にも津久見の「鱧」をしゃぶしゃぶで、「豊後牛のステーキ」。日田郷の「馬刺し」、舌までとろけそう。宮崎の「地鶏腿焼き」齧り付く醍醐味ですなぁ~。「ダンゴ汁」も試しました。
なんたら、かんたらと、独りで注文して、箸つけては、周りの方々に廻すという、喧騒と湯気の向こうで、どさくさ喰い(笑)。

「はぁ~~、喰った、喰った~~」
・・・・・・と、いうわけで、抜け駆けしてコンドはニョタイでも喰いに・・・・・。
ん??何Nさん。店のスリッパでなく、靴はいちゃって??
「Nさん、トイレあっちですよ?」
「あ~~なた、またトボけて、お見通しやないの?どこ行くの?ワシも連れて行って」
でも、このNさん、アタシに輪をかけて真顔で冗談ばかり言うから、使える!かもしれない。
と、いうわけで、、、アタシは今日は渋く徹してNさんをダシに、ええ想いしようかいなっ!
 駅前通りから北浜通り、八坂通り経由しながらめぼしいとこ歩くのですが、立ち番してるおばあちゃんが多いんですね。
「に~~ちゃん、ソープどぉ??」
「ん?おばぁちゃんがそのまま引っ張って行くんやないやろなぁ??」
それはそれは、魑魅朦朧とした絵空事でありますが、そこはほれ、タダで譲らぬNさん、ちゃんとおばあちゃんたちと懇意になって(笑)現地情報ひきだします。
で、めざす若い~~♪綺麗な~~♪コが一杯いるらしい「K」をめざしましたが、8時開店らしくて、向かいの「P」で時間潰し。
そこのママに「大分の人は美人になるためわざと鼻を低く整形する」だの、「別府の女は高崎山の猿染色体が突然変異で混じった」だの失礼千番、笑わしてくれるNさんとママさんのやりとりなど気はぞぞろで、ようやく「K」。
・・・・・寝ちゃいました(爆)。
でも、ヘコタレズ、我ら四国の「ジャジジュジェジョ」の語尾と大分あたりの「タチチュチェチョ」の語尾の会話をあちこちで振り撒きながら、ようやく「D」という快心の安住の地!にたどり着くことができました。
ここにたどりつくまで、ワタシら「何処からきたの?何しに来たの?」に「群馬から高崎山の猿の生態調査に来た」、で押し通してましたの
よ。素勢を『演じる』のも、旅の醍醐味ですよね?
「D」はもう選り取りミドリで、困惑するほどでしたが、アタシの狙いは背の高いボディコンシャスなパンタロンスーツのRちゃん。
21歳。不思議と化粧けなく二重で眼が大きく鼻の高い正統美人です。妻の面影なんぞは湯煙の向こうに朧がせておいて、この後!のクドキモードに入るのですが、Nさんらのグループと違い、なぜかハナシがまったくかみ合わない。
聞けば、「生まれが旅順なんです」と、中国からのベッピンさんでした。お父様は博多に出稼ぎに来ていて、お母様は旅順に残ってるそうです。
ちょっと淡い期待は脳内アドレナリンに留めておくことにしました。
「また来るね、明日」
 と、いいつつ二日目の夜はまたギラギラさせて竹瓦小路方面へ浮気しにまいりますが。

 3日間、とりとめもない雑記のような日常を移動させた祝祭日。
ハナシの落しどころがないまま、百代の過客。

 なんといっても特筆すべきは、
予報では晴れる3日間のはずが、
・・・・・・・すごい、雨・・・・・・・・。

 そうそう、お約束の「お土産」ネタもありましたのよ。
帰りの別府交通センターで、ビビビ!!♪
大分限定発売!可愛い目をした関アジの被りモノをした―――キティちゃん―――です!
カボスの帽子を被ったキティとミニィちゃんより断然こっちがいい!センスいいでしょう??
バスに持ち込むのに席ひとつ占拠しちゃいましたが・・・・。もうちょっと、ちいさいのにすればよかったかな??娘たちには、ゼッタイ渡さん!!


 ―――2日目の早朝、シーサイドの温泉宿の屋上の露天風呂で、高崎山の背にそれは美しいご来光を拝むことができました。
その日は大雨になることなど露知らず、湯船で鼻ブクブクしながら、ココロは旅順へ飛翔。

―――湯煙の向こうに、まるくん、です!―――

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UNANITWA NANI?(あなたの名前は何?)
at 2002 12/04

――湯煙の向こうに、まるくん、です!――


・・・・・で、もちろん、遊びにいってたわけじゃあありません。


「第54回全国人権・同和教育研究大会」に参加して参りました。
 別府、鶴見岳を背にした全体会場であるビーコック別府会場は約3万人の熱気に包まれていました。ビーコックとは、飛行機の羽翼の管制システムを意味しているらしいんです。
21世紀は人権の世紀、という指針にふさわしではないですか?

 さて、カフェに集うみなさん。。。。
部落差別、同和問題をご存知ですか?そしてあらゆる人権侵害に日々お気づきですか?今も!あなたは差別者ですっ!!!
 本日は、私が歩んできた、これまでの3分の1世紀の『概念』を凝縮して、このお話しにおつきあいいただきます――――。

 部落差別をはじめとした、あらゆる差別を克服するために、新しい概念が必要とされています。それらは『外』から、つまり与えられたものではなく、『内』なる自己のこととしての観念や、社会的歴史的構造の究明、制度を解体するための契機を自ら見出してまいらねばなりません。
 しかし、差別を観念的、構造的に究明しなければ新しい概念が生じてこないかといえば、そうでもありません。制度としてあったいつの時代にも、その不当性に抵抗し、かつそれらを超えようとする努力がはらわれたことを、私たちは歴史認識のうえで踏まえるべきです。
 差別はなぜ起こるのでしょうか?それは私はこれまで学んできた認識過程において「多機能社会の認識」と提唱いたしたい。いわゆる労働=経済機能においての分業が発生した時代に遡ります。
「ケガレ」という具体性、象徴性を包括した人の営み、関係性の構築のうえで大きなウエィトを占めた観念的操作、です。
そうした認識なくしては「あなた方の、そして私の」、排除の精神、差別の論理、あるいは関係性の論理を克服することは不可能であることを、私は「現実に学ぶ」ことにより、まず、私の(たちの)心の幸せとやすらぎを求める旅路の指標として捉えるに至りました。
 古来、アニミズムの世界より私たち人間の営みにおいて、「自然」は生命(活動)に有益であるばかりではなく、対立現象もありました。
自然現象としての災害、はもとより、女人の出産による出血、死人、畜産の死、に至るまで私たち人間は、「何かケガワラシイモノ」として忌嫌い、ケガレとして、清め、を対価させて関係性を克服しようと努めてきました。
そして、これら穢れは、規定とされ、穢れ、そのものよりも、それに触れた、つまり触穢意識が芽生えたのが、今日の、あらゆる差別の土壌であると認識しています。
 私たち、いわゆる21世紀に入り、自然と人間の(ここでは人間が自然の1つのメカニズムでしかないということは、敢えて問わないことにします。つまり差別するのは人間のみ、という意味において)共生といわれる重要な課題でもあると、私は認識しております。
 ケガレなるものを、排除するのではなく、全ての人が自己の課題とし、積極的に触れ、思想的、科学的克服の営み以外、私たちの新たなる「世紀」の再生、いかにして、すべての人びとが幸せで豊かな生活をできるかという、課題は克服できないと、信じて疑いません。
 ケガレ=カオス(「私(たち)の、認識、社会的規範を超えたもの」)を排除、差別の対象とするのではなく、ひとり一人の人間としての「属性」として、またケガレと認識することを「自己責任」と捉えることにより、私(たち)の真の「個」の自立が成り立ち、個の自立を通した、水平線(別に地平線と表現してもかまわないわけです)の視点で、私(たち)は、ないがしろにできない、自己実現、が図られ、幸せの旅路が、真に実現できるのだと思います。


 ネットにお集いのみなさん。
飛び入りも大歓迎です。
ぜひ、異論、反論、意見、あれば申し出てくださいね。

「概念は、与えられるものではなく、創設するもので、しかも形成されるものではなく、自身において定位するもの。つまり、自己定位である」と問うたのはJ・ドゥルーズとF・ガタリでしたっけ・・?

 今回は生半可な「あなたの思い込み」の意見などでは、私は承知いたしかねますけど、ここは、私自分自身が提唱する「愛」と「勇気」と「礼節」でもって応対いたしましょう。

 前回の日記の締めくくり―――。

――湯煙の向こうに、まるくん、です!――

ちゃんと、意味がありました。
私は、今日こうして朧な存在ではありません。
そして、私が、うたかたの刹那で、このカフェにとどまっていることでは決しなきことを、貴方自身で解明いたしましょう・・・・。
 今日、みなさんに『自身の思い』の全容を解明しようと提唱しました。
共に、学びあいませんか?
これからも、よろしくです!





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SAFARI NJEMA ――よい、旅を!――
――湯煙の向こうにまるくん、です!――

ちゃんと意味がありました。
アタシはこうして朧ながらも、今、こうしてみなさんと正対して語りかけています。
あなたの、そしてアタシのココロの旅路の全容を解明してまいりましょう。
共に、学びあいませんか?!


・・・・・・な~~んて、申しながら、最終日
アタシは分科会抜け出して、別府駅にいます。
購入した切符は、日豊線で下ること約1時間の臼杵駅まで、です。
アタシは、かれこれ、ちょうど10年前の「忘れ物」を拾いに行く気分でありました。

 臼杵には、有名な石仏群があります。
平安時代から鎌倉時代にかけて造られたものです。奈良時代に豊後国の国府が置かれ、大友氏の本拠地として繁栄した地であります。
 で、アタシが「拾いに」行く目的地は、そうなんですが、その理由はまた別のお話です。
 たびたび、思い出話で恐縮ですが、トキを10年前の1993年に戻しましょう―――。

 2月のことです――。
アタシ、当時ダイスキだった人にフラレましたの。。。「まるくんは、一人でなんでもできるし、一人で生きていけるタイプ。アタシ、怖いんです。。」―――。
・・・・・こんな、お別れの言葉でした。
1992年、9月に彼女には、ギリシア土産の名前入りのカメオ(よく使った手/爆)を渡したけど、深夜の埠頭で、返品されました。。。
それっきり、でした。ストーカーまがいの電話もしました、正直申しまして。。。。
それぐらい入れ込んでいた自負もあったし、相性も抜群だった(はず)し、おまけに、体の相性がこのうえなくよかったんです。。。
9月に振られて、翌年2月まで余韻に浸りきるなんて後にも先にも経験ないんです・・。
 悶々とした日常を分断しようと、センチメンタルなジャーニーにでかけることにしました。
行き先は鹿児島に定めました。
陽光きらめくダイスキなナポリの景色にそっくりだと前々から憧れていたのです。
八幡浜から船で臼杵に渡り、第一日は延岡に宿を取りました。そして翌日、日向の美しい海岸沿いの車窓に見とれつつ、浮世のうさばらしをしながら、アタシは生きる活力を再び、見出しつつありました。欲もでました。霧島で途中下車し、霧島神宮や高原へも足を伸ばしました。
 そして霧島からは鈍行で湾曲する海を朧に眺めながらうたた寝し、夕刻、薄い黒煙をあげる桜島を背にした港で、ベスビィオ火山の噴火による街の惨劇に想いを馳せる、ついでにJ・バーグマンの映画「イタリア旅行」をも思いを馳せて、アタシのココロの噴火活動は、げに賑やかなものよと、自分で感心しつつ、天文館で祝杯をあげて、鹿児島郊外のTホテルの地下のバーで、いかした女性バーテンダーに熱をあげておりました。
 翌日は一路再び延岡へ。
そして、高千穂鉄道で高千穂へ足を伸ばすという、思いもかけない小旅行もしました。
山を山岳鉄道のような汽車で五ケ瀬川の渓谷を行くのですが、神話の世界をなぞるように「日之影」「影町」「深角」「天岩戸」と駅名がとても素敵なんです。
 で、失われたときを求めるにあまりあるときをすごして、臼杵駅前のロータリー、乗船港へ向う真際、滑りこんできた路線バス。
そこに一人の観光客風情の女子大生風が乗り込み、しばらく停車してました。
乗客は彼女のみでした。
アタシは息を飲み込みました。なんて可憐な人でしょう・・・アタシのセンチはその『瞬間』
吹っ飛んで、遥か彼方のカニ座星雲にでも消えていってしまったのです。バスは臼杵石仏行きと表示されていました。乗るか、乗らなまいか悩みながら、帰りの乗船券とにらめっこしていたら、バスは行ってしまいました―――。

 ―――あの日、あの時も、臼杵は雨でした。
当時、アタシは傘など持っていませんでした。
まだ、堂ケ迫の大日如来の頭は侵食により分離されたままでした。それらの未修復の石仏群をアタシはあの彼女の傘に入れてもらい、アタシの旅を成就させるべきだったと、何度も悔やみながら、一つの旅を終えた後に、再び魂は彷徨っていたのです。

―――そして、雨煙る、この日、アタシは当時の落とし前をつけるため、大日如来の鎮座する小高い丘に立ちました。
麓のホキの石仏群あたりから団体用のスピーカーを通した声が耳障りでもありました。

仏の顔も様々でした。
しかし、アタシはそのとき、そう思った瞬間に
開眼したことがありました。
――みんな、違う。
でも、ことさら違いを『強調』する必要なんてあるのだろうか?アタシ(たち)は雨にうたれるクラゲのようなものだ。浮遊を続ける。
しかし、やがて、人間としての生命を真っ当するときは誰にでも訪れる。
そうすれば、アタシ(たち)はどうなるか?
焼かれて、現体重の12%ほどの炭素になる。
その『炭素』は等しく重力は『同じ』だ。
そして空気とまざり、二酸化炭素となり大気圏内を『等し』く漂い、やがて別の生命のなにがしかの息吹となる―――奇跡的に―――。

つらい人、迷う人、死を恐れる人、哀しい人すべてが同じ炭素からはじまる・・・・・。

 臼杵から往復の別府へ帰るつもりが、大分で下車した。
駅前のアーケード商店街があります。
その入り口に大きなCDショップがあります。
その店の奥のJポップスのコーナーに、カウンターがあります。
そこにいる女性を知ってますか?
この世の方とまがうことなき、それはそれは美しい女性でした―――。
 アタシは思い出、を決して美化しません。
あるのは、どう導いても、美しい過去ばかりです。アタシは恐れない。
炭素になり、あなたがたと交わる日を、実は恐れながらも、今、をまっとうしたい。

 臼杵、鹿児島、大分、別府に、そして別れた埠頭を紡ぐ二つの旅となった――――。







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