射抜く人




彼の真の顔を見るのはこの時が初めてだったかもしれない。
「何故、髭を剃られたのです?」
「いや、何、気分転換ですよ。」
ぼくの不満の色に気がついた彼は、一息入れ、訂正することになった。
「例えば、私は私が死んだ後に墓に入れられるのを断固として拒むかもしれない。こんなにも酷い世界にあまりにも長く生き過ぎた。こんなことは誰にも知られたくないといった理由でね。
こんな事を盲目的に考えながらシャワーを浴びていたんです。ふと鏡に目をやると、そこには無神経で恥さらしな表情が映ってるじゃありませんか。その事実に愕然とした私は、祈るような心持で、長年の付き合いである吾が自慢の髭を綺麗さっぱりとそり落としてしまったのですよ。」
「そうなんですか!だって、ぼくの目に映る貴方というのはその髭にひどく愛着を持っておられたように感じていましたから。まるで、貴方の経験や自信や哲学が、貴方の威厳ある髭に詰まっているようにさえ感じていました。それとも、こういったことはすべてぼくの気のせいだったのかしら。」
「私が言いたいのはそこです。人間は一時の混乱や妄想で、自分のアイデンティティを簡単に放棄してしまう可能性を持っているものです。そういう事はまったく珍しいことではありませんよ。貴方もせいぜい気をつけることです。
ですが、私は自分のしたことに後悔していません。あのとき目にした感覚は妄想でもなく、まったく鮮やかに世界を射抜くものだったと確信しています。あれ以来、私は私の固定観念や、この世間の常識といったものに頓着しないようになりました。私は私が息を引き取ったあとのことを考えるのも恐れないようになりました。独自の世界というのは、現実とそう離れた所にあるのではないのです。貴方自身もいつかそれに気づくでしょう。私はもう墓石にに唾をかけたりはしません。その代わりに、この世に固執し、彷徨うこともないでしょう。私はただ、必然的に神の元にかえるはずです。」
彼は確信に満ちた表情で語った。
ぼくは彼の真の顔を初めて目の当たりにした。
それが、太陽を翳した。


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