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今日もとってもいい時間になった「マインドフルネス講座」 おいでになった皆さん一人ひとりの心の中に、しっかりと自分の感覚に意識をあてることで、たくさんの愛に出会えたと思いました。だからこそ、子どもたちや孫たちにも「今」「感覚」を大切にしていくことを伝えていきたいと思います。もうひとつ今日は、イギリスに3週間行っていた高校生が無事帰って来ました。あちらでの毎日を一言で言うと「楽しかった~~」 「せめてもう1週間居たかったなぁ~~」 「ごはんもベジタリアンで美味しかったよ」・・・とても一言では終りません。本当によかったね ゆっくり寝てね
2018.07.19
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20180717「キリスト教的マインドフルネス瞑想への招き」夜の部が終わりました。 今日も蒸し暑い一日で疲れの溜まる夕刻からのスタート、大丈夫かなって思っていたら直前にちらちらと雨が降ってくれて、アっちっちの鉄板アスファルトがすっと落ち着きました。ありがたいことです。... 昨年もやっていたとは言うものの、「今を捉える」「今の自分の感覚を客観的に感じ取る」ということは、そんなに簡単なことではない。 でも一つ気がついたことは、自分でやっている毎日のVnの練習。あれは一つの瞑想のトレーニングだ、ということでした。 今、私の指はどんなふうに弦にタッチしているのか、弓のバランスはどこで感じているのか、どの瞬間においても、いつもそこに意識を集中させています。とてもおもしろいなって思いました。 身体はいつも私の命を支えてくれている、私がどのような意志を持っていようとも・・・ 身体はとっても健気です。 今日のお昼の部は11時30分~16時半までどなたでもお越しください(ランチをお忘れなく)
2018.07.18
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1991カナダ滞在記どうして留学することになったんだろう、ということを考えながら、決まっていくあたりの事を書いていると、実はずいぶん時間をかけて「留学」というものが、クローズアップされ、そして現実のものになっていったのだなってことが見えてきました。 本当に面白いですね、振り返る、という作業・・・
2017.08.30
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先日、久しぶりにTEDをみました。プレゼンテーションのアメリカの番組です。その回のテーマは、子どもたちがつく「うそ」について、カナダで研究している心理学者がおはなしをしていました。 一般的に「うそをつく」ことは「悪いこと」「いけないこと」というカテゴリーに入れられますが、しかし実は動物たちも補色や擬態など周りと溶け込むという「だまし」を使うことで生き延びてきた。だからたぶん人間も生き延びる一つの手段として「うそをいう」ということで助けられてきたこともあるのでしょう。(これはナビゲーターの方のお話) 子どもがうそを言い始めるのは早い子はだいたい2歳ごろからだそうです。 「うそをつく」とは、相手が自分に期待していることが読み取れ、しかも自分に有利になる結果を予測することが出来る。なおかつ、自分の「うそ」を表に出さない、見せないように表情をコントロールすることが出来る。という二つのことが出来るようになって初めて実行できるので、「うそをつく」わが子に出会ったら、そこまで社会性を発達させたんだな、て喜ぶべきですよ、だって。さらに人がうそをつくとき、かすかながら顔の細い血管の血流量が変化します。ほっぺたの血流量は減り、鼻の頭の方の血流量は増加するのです。わぁ~~ ピノキオはとても科学的根拠に基づいていたんだ~~しかも、そうした血流を外からビデオを使って分析すると、遠く離れたおじいちゃんおばあちゃんの言葉に頼らず、気分や心拍数やストレス度、痛みなどを知ることが出来るし、政治家たちのテレビ討論を分析したら、どれだけ本当に思っていることを話しているか、分かってしまうとかいやいや、現代の心理学は半端じゃないですね。
2017.08.27
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とうとう、友人の岸見一郎氏の「嫌われる勇気」来年1月からテレビドラマ化 長年 コツコツと努力を重ねてきた彼の仕事に拍手です。
2016.12.20
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先週コンサートのときにFB友人のHさんが受付に託して下さった透析患者さんの手記、やっと読ませていただきました。30年もの長い間透析をしてこられた方。 一つ一つ深い崖や険しい山をあきらめずに前を向いて歩かれた道の、なんとすばらしいことか、こんなにも強い心が持てる。こんなにも誇りをもって歩める。 生きることが大変だから・・・だからこそ生まれてきたであろう、輝くような生きることの喜び そして 感謝 勇気をいっぱい分けていただいた言葉でした。 皆で前を向いて歩きましょう
2013.10.06
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昨日のことCalgary は14℃、土曜の朝を迎えています。 長袖のパーカーを着て出かける皆さんがうらやましい。 こちらは38℃の中をToさんが今日、明日しか空いていないというから、Aを連れてジブリの「風立ちぬ」を見に行きました。きれいな色とていねいに仕上げた絵、それに取り入れてある景色というか舞台がステキ。動きも面白く、効果音の口技もなかなかの離れ業で、魅力的でした。でも私は主人公の大人の姿を見たとたん、あぁ~~Toさんにそっくり で隣に座っているAにも「ねえ 次郎 お父さんとそっくりだね」とささやけば「うんうん」と彼女も頭を縦に振る私は菜穂子にはなれないけれども、二人のあり方もとても温かだった。 欲を言えば もう少し最後をしっかりと描いてほしかったなぁ~~でした。「風立ちぬ」
2013.08.11
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2週間ぐらい前のこと、迷惑メールに「原稿依頼」というメールが届いた。 名前は書いてあるけど知らない名前だし、第一私に「原稿依頼」なんて来るはずが無い。 といぶかったけれど、やっぱりズバッと削除する気にもなれず、ほってあった。でもやっぱり気になるので朗に「こういうメールって開けて困ったりすることがある?」... 「いや、開けるだけでへんなことが起こったりはしないと思うよ 名前も書いてあるから・・・」 という言葉に促されて開けてみたら、あら~~、5年前に私の本を出版してくれた女子パウロ会からのメールだったのです。そして2400字の本物の原稿依頼で めっちゃびっくり!!ことのいきさつを編集者の方にお伝えしたら、ニコニコのメールで、 開けて下さってよかった~~ということで原稿を書くことをお引き受けしました。まぁ良くこの時期に依頼してくださったこと。もう少し早かったら、WのこととPTAのことで全く考えることすら出来なかったでしょう。でもちょうどどっちも手が開いたころに、ポロっとやってきた。ほんとうにおもしろいなぁ~~ 何度か書き直した原稿を締め切り1週間前の昨日、送りました。というのも自分であちらの意図に合ったものであるかどうかを、ぐずぐず考えるより、さっさと見てもらって、「こうして、ああして、」と指示してもらった方が良いだろう、と考えたからです。 折り返し編集者の方からメールが届きました。 「これでOK」とはおっしゃらなかったけれども「これで進行させていただきます」とのお返事。まずはほっこりしました。5年前の本えっ7人の子ども? 女子パウロ会
2013.08.09
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このコミュニティ・スクールの研究大会では「今後のわが国の教育に期待すること」という題で日本IBM、相談役の北城 恪太郎氏のお話を聴かせていただきました。 長く企業の中で、また企業を母体にアジアで、また政策の中で人を育てる、ということに関わってこられてのお話は、実に面白く的を得ていました。 日本の教育と企業が求める人材との像の差がほんとうに大き過ぎること、なぜ教育がそこまで入試にしか焦点を当てることが出来ないか、ということ、 点数によって評価することが公平である、と感じる...こと、 世界を広く見渡したとき、人はどのように評価され信頼されるか、ということ そのお話の中に日本人特有の グループ内での均一を好む、 納得できる指標がほしい(人ではなくデーターによる評価)、 将来への安心を少しでも早く手に入れたいという願望、などが私の頭の中に浮かんできました。 教育は社会人として意欲のある、社会貢献できることを目標として生きることが出来る人物、人の目の届かないところでも不正を嫌う良心を持つ人物を育てることを目標としてほしい、とおっしゃる。 それは人間としての誇りを自分の中にも他者の中にも見つけることが出来る人を育てる、ということかな、と思いました。 北城氏は「大学入試が変わらなくてはならない」とおっしゃいます。 私もよく夫に言っています。 「どうか医学部の入試を変えてください。医学部の入試が変われば、他の学部も高校も、中学校も小学校も幼稚園も、どの教育現場も変わります。塾も変わります。本当の意味で人間を育てる場になってほしい」 最も高い知力ともっともデリケートに寄り添える力と、とっさのことに判断できる力、チームを大切に出来る力、どんな命も敬愛出来る力・・・ これらをテストで測ることが出来るのでしょうか?きっと、現状が変わるのはずっとずっと先か、また将来にわたって何も変わらないかも知れない。それでも親たちは今を生きながら、子どもを未来の大人として育てなければならない。どんな国でどんな世界に生きようとも、未来の大人たちが互いの信頼と希望を失わない人に育ってもらいたい、と思う。
2013.07.30
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友人からのDVD上映会のお知らせが届きましたので、お伝えいたします。平和大使として世界40カ国以上で講演されているプレム・ラワット(Prem Rawat)氏のDVD上映会です。http://wopj.jp/premrawat/...このHPの中のシェアというところには楽器についての講演も入ってます。字幕ですが、インド人の英語のためか、とってもわかりやすい英語で語学の勉強にもなります。4月28日(日)2時から ウイングス京都視聴覚室 入場無料、申し込み不要です。 http://wopj.jp/area/kyoto/なかなかお忙しいと思いますが、ぜひ一度お聞きになってみてください。いろいろ不安に思うことも多い世の中、このごろですが、宗教を超えた「平和は自分の内面で感じとるもの、という言葉」にとても感銘を受けているこのごろです。どうぞよろしくお願いします。
2013.04.16
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今日はいっぱい泣いたけど、でも幸せな想いをたくさんいただいた。 どんな命も精一杯生きることで、家族を幸せにすることができる、と体験を通して伝えて下さったから・・・ 私もそう思う。生まれる前に亡くなったぽっぽのように、この世に生まれて一緒にすごすことができなくても、目と目を合わすことがなくても、精一杯生きた命は、必ず次の命を育んでくれる。... 伝えてくださったのはFBでお友だちになった岩崎順子さん。彼女の著書「ガンが病気じゃなくなったとき」を読ませてもらったのだ。 でもこの肝心の「精一杯生きる」てことが、なかなか許されていない今の時代があるのでは、と思う。順子さんのご主人はガンになりながらも、自分の生きる道を自分でこうしたい、と決めて過ごしていかれる、頑固なぐらいに・・・。どんな時点にいる自分であっても、自分の命のステージをいつも見つめ、今できることを知りたい、やってみたい、と強い意志で一日が貫かれている。そしてその大元には「こんな風に死にたい」がある。真正面から自分の命に意志をもって向かうこと、これが精一杯生きる、ということだ、と教えてもらった。 普通のありきたりの日常の中でも変わらず、「精一杯生きる」は強い意志の中で作られる。3人の子どもたちは間違いなく生きる意志を受け取っておられることでしょう。すばらしい!!
2013.03.19
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昨日は広島から帰ってきた兄敏洋さんに誘われ、W(14)のバレエ練習終了を待って、もちろんA(10)も一緒に、映画「レ・ミゼラブル」を観て来ました。 観終わったWは「本当に感動した。すごい」といい、Aは「何回も涙を流して、何回も涙をぬぐった」と言いました。... ちょっと年齢的にも分かり辛いかな?と思っていたんだけれど、そんなことは少しもなかった。 私は子どもの頃、「レ・ミゼラブル」を読んでとても大きな感動と人の生き方について考えさせられ、卒業の一言にジャン・バルジャンの最後の一言を書き綴ったのを思い出した。映画も似たような言葉で締めくくられていた。「待て、そして希望せよ」
2013.01.02
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昨日のがんばりのおかげか、今朝4時に起きて北海道に出かけた利幸さんの動きなど全く察知せず8時まで熟睡。クァルテットの時間までに家事をこなすことができず、長男の朗と四女の和香葉に頼むことにした。 「洗濯物、お願いしてもいい?ありがとう、とっても助かるわ~~」とお願いするときに、先に御礼もしておく。さて、本日のクァルテット、ラベルは初合わせだったので、ガタピシしていたけれども、ラベルらしいサウンドにはうっとりとさせられる。... ピシッと合わせられるようになりたいなぁ~~午後はIchiro Kishiさん主催の「読書会」。彼の著書「人生を生き抜く心理学」の109P~117Pまでのところに私は参加させてもらった。ここに登場した「イデア」は私の「神様像」にそっくり。人の心というものを読み解いていくと「イデア」の存在に気がつき、人間の弱さをどうやって乗り越えようか、と生まれてきた宗教と一致していくと言うことは、本当は自明の原理かもしれない。夜はオケの練習をお休みして、チャリティーの練習および準備をしました。また午前2時なってしまった。
2012.11.17
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本日は雨の中ではありましたが、休日講演会「子どもが子どもであるために・・・」に思いのほかたくさんの方々がきてくださったこと、本当に嬉しいでした。 精神科医の定本ゆきこさんのお話を聞かせていただいたのですが、一人の人間が赤ちゃんから大人になってそして死というものを迎える瞬間まで、一つながりのものとして一体化している、そしてその成長というものには限りがない、という印象を今まで以上にクリアーにしてもらったように思いました。 どこかでの躓き、どこかでの課題の取り残し、そういうものが何かの形になって現れる。時には悪い形で出てくるけれども、出来事は悪くとも、実は取りこぼしていたものがあるのです、ということを表すサインのようなもの。 その人その子どもが必要とするものを見つけていくことで、良き自分を認められるようになれるのじゃないか・・・ 自分に期待が持てるのじゃないか・・・! 人間は陥りやすい弱いもの、だけど見事に復活しそこから開花して行く力強さを持っている、と信じていきたいなどなどいろんなことを思いました。 講演後の座談会には地域の方々、教職員の方々、保護者の方々、いろんな形で子どもたちに関わってくださっている方がお集まりくださり、一人ひとりさまざまな角度から今日の講演のことやご自分のことを語ってくださった。 とても熱意にあふれていて、一生懸命に子どもたちのことを思い、毎日の中でさまざまなことを学んでおられる姿を感じることができ、一層のつながりを結ぶことができたように思えたのでした。 またこういう機会を作って生きたいなぁと思います。 感謝
2012.11.11
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小学校の学校運営協議会主催で「休日講演会」を明日開きます。休日であるがために、なかなか来れない方もいらっしゃるかもしれませんが、普段平日が多い学校のイベント。休日ならば来れるかな、という方々に来ていただきたいと企画したものです。 平日であろうと休日であろうとひょこっとした小さなチャンスがあることで、自分にとって大切なものや考え、そして人に出会えることは大いにあります。 明日の講演会もそんな小さな出会いの一つになってほしいなぁと思います。 講師は精神科医の定本ゆきこさん 少年鑑別所で子どもたちがどうして間違ってしまったか、を明らかにしていくことで、彼らのこれからの毎日をより良くしていくお手伝いをしておられます。 そんなお仕事の中、そしてご自身の子育ての中で見つけられた「子どもとは?」という鍵になるものをお話くださるようです。タイトルは「子どもが子どもであるために・・・」 衣小地域の皆様が対象になっているので、もしや急に時間ができた方はお立ち寄りくださいませ。 2時より クラブハウスにて・・・
2012.11.10
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今日はWの通う中学校で「いのちを考える教室」が開かれました。生徒たちと保護者や地域の人たちも一緒に体育館でお話を聴きました。 「いのちを考える」というテーマですが、具体的には犯罪被害者となられた方のお母さんのお話を聴く、ということを中心に、ほか臨床心理士の方や犯罪被害者支援センターの方などのお話も聞かせていただきました。 通り魔的にたった一発殴られた、というもので、見かけ上たいしたことはなかろう、と思われることであっても、被害者の方が脳を損傷していたならば、時間が経つにつれ状態は悪くなっていき、徐々にできることがなくなり、何年もの年月を経て亡くなってしまわれる。 その長い時を家族はどうやって支えあうことができるだろうか。被害とは決して殴られた本人だけではない。その出来事が発生したために、家族や多くの人々の毎日がいきなり捻じ曲げられる、それが被害者たちの現実。 長い間犯罪者は犯罪を犯していても、人として生きるための人権は守られてきた。でも被害者たちはずっと何のサポートも得られないままに、救いのない嵐の海に放り出されたかのような毎日を送らざるをえなかった。 最近になってようやくいろんな支援が生まれてきたとのこと。お母さんは自分たちの体験から、「このままじゃぁだめだ」と思ってもう一度大学に入りなおおされた。そして今、社会福祉士として犯罪被害者支援コーディネーターのお仕事をなさっている。お話の中で出てきた会話 寝たきりになってしまわれた息子さんが「死にたい・・・」とおっしゃったとき、お母さんは「このまま何とか21歳の誕生日までがんばろう。21歳になったら、私も一緒に死んであげる」と言われた。21歳の誕生日も1週間ほど過ぎたとき、「死にたい」と言われる息子さんにお母さんは言われた。「ごめん、わたし、いま・・・死にたくない・・・」 息子さんは23歳で亡くなられた。
2012.11.01
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もう一つ友人Tさんはお勧めの本を紹介してくださった。それは「長い道」と題されたもので 宮崎かづゑ著みすず書房 です。 宮崎かづゑさんという方は80歳を超えて初めてワープロを覚え、文章を書かれるようになった。1928年生まれで御年84歳、私の母の一つ下。 今まで精一杯生きてこられた。精一杯の中から生まれたエッセイ。 10歳で瀬戸内海の長島のハンセン病療養所「長島愛生園」に入所され、以来ずっとここで暮らしておられる。 早く宮崎さんの言葉に触れたいな、と思う。阿南慈子さんも良く「ハンセン病」を患った方々のことを気にかけておられた。その歴史を悲しんでおられた。 この本を読んだらきっと、どんな人の人生も光り輝いている、と分かることだろう。 ありがたいこと!!
2012.10.31
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先日本屋さんで手に入れた本 「なぜ」と問わない 山浦玄嗣著 TOMOセレクト 今日、読み終えることができました。 震災を外からの方の取材で語られる言葉ではなく、震災に突然遭遇し、被災し、その中で生き抜き、今も復興のために日夜努力されている方々の言葉をそれぞれに本にしたシリーズ「3・11語を生きる」の中の1冊です。 最初のページ 3月11日「そのとき」 から引き込まれる。歴史の中で何度も津波に襲われている地域。そこで暮らしてきた人々は、ご先祖様からいただいたたくさんの宝物があった。 粘り強く生きること、 津波は何があって、もとにかく一目散に逃げること。一人でも二人でも多く生き延びることができれば、それはその後の復興への力となる。 東京から来た取材の人たちが皆「なぜ、こんなことが起こったのか」と自分に問いかけてきて、そんなこと考えもしたことがないから、答えられないと思った、と山浦さんはおっしゃっている。 津波は特別なものではない。必ず起こるものだ。だからと言って、喪失感がなくなるわけではない。悲しみがなくなるわけでもない。それでも、災害の中からいつも人々は立ち上がり、新しく生きた。希望を持って生きた。人間が持つすばらしい力、神様からいただいた力を信じる。 この本に書かれている「祈り」という言葉の分析は私はとても好き。前から「祈り」が自分の願いであったら、神様は私の勝手をどう理解してくださるか、と躊躇していた。祈りは神様の声に耳を傾けること、そして神様の声は身の回りの出来事から読み取ることができる 合点だ!!撮影三女K撮影三女K
2012.10.22
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今日Wは学校をお休みしましたが、午後からだんだん良くなって、夜はバレエの練習にいけました。 明日は大丈夫、学校に行けることでしょう。ご心配くださってありがとうございました。 さて、先日Toさんと一緒に本屋さんに行ったとき、全く私は本を買うつもりはなかったのですが、書棚を目にすると、もちろんついつい本を手にとって、立ち読みしてしまうのですが、その中でどうしてもほしいなぁ、と思って購入したものがあります。 一つは「惑星の祈り」 久野わか 女子パウロ会 2006年 自然農法に憧れ、福島県川俣町に引っ越してこられた著者。自然のままに食すものも育てる。土、風、水、植物たち、虫たち・・・さまざまなものが絡み合いながら調和ある日々を作っている自然を、久野さんが本当に心から愛して慈しんでおられるということが、ページを繰るたびにあふれ出てくる本です。 原発事故に会い、汚染されたにもかかわらず、それでもなお自然はあきらめず、刻々と美しく季節をたどり、けなげな姿を見せてくれる。 大地の鼓動は『惑星(ほし)の祈り』 小さな人間である私たちが凛としてそびえ立つこの大自然にどんな風に向かうべきか、教えてくださっているような気がする。 2つ目は「3.11後を生きる 『なぜ』と問わない」 山浦玄嗣著 TOMOセレクト 山浦さんの著書の一つ『ガリラヤのイエシュー」執筆時にすこしだけToさんとお手伝いしたこともあり、この本を手に取りました。3月11日大地震が起こったとき、岩手県大船渡市の医院におられ、そのときのことを克明に書きながら何をし、何を思ったかを伝えてくださっています。まだ最初の方しか読んでいませんが、とても力強く『生きる』、ということが伝わってくるのです。 これからどんな風に展開するのか、すごく楽しみ・・・。 山浦先生にいろんなこと教えていただきたいです。
2012.10.18
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慈子さんは首から下が麻痺した状態でしたから手足を動かすことができない。ベッドに横たわったらそのまま寝返りをすることもできません。たとえ思うこと考えることを書き留めたいっと思ってもそのすべがありませんでした。なのでずっとずっと長い間、頭の中その言葉たちを収めておられました。 ある日お見舞いに訪れた友人に彼女は小さな声で言いました。(肺活量が少ないので小さな声しか出せません)『もし、時間があるようだったら、昨日私寝られなかったときに思ったこと、テーブルの上においてあるノートに書き留めるお手伝い、お願いしてもいい?」 そのノートは宮川さんが家事のお仕事の合間に慈子さんの言葉を書き留めておられるノートです。友人はそこで初めて慈子さんの心の中で長く温められてきた言葉に触れたのでした。自分に向けられた言葉ではないけれども、この慈子さんという人が毎日どうやって自分自身を見失わずに生きていくことができているのか、それがわかるような宝物の言葉が書き綴られていきました。『もしお手伝いが必要だったら、私も時間あるときにこさせてもらいますが・・・」 そんなふうに慈子さんの友人、友人の友人たちがだんだん口述筆記のお手伝いをするようになっていったのです。でも慈子さんと口述筆記のお友達との間で分かっていても、全体の動きを誰かが分かって、ケアや医療スケジュールとも重ならないように組んでいく必要が生まれてきました。そこで宮川さんがボランティアの方々のスケジュールを整理されるようになったのです。 宮川さんは医療・福祉関係のお仕事も全くなさったことはありません。資格もお持ちではありません。けれども友人ご家族のためにその必要にそって動かれ、しかもそのお仕事ぶりはこれほどにも明確に気持ちよくできるだろうか、と思うほどのものです。ご自身のお子さんも4人、おじいちゃんおばあちゃんもご一緒に生活され、決して暇な方ではありませんでした。慈子さんもすばらしい方ですが、宮川さんも本当にすばらしい方です。 宮川さんの言葉を聴きながら、私はひとしきり『これこそが命の輝き』と感じ入ったのでした。
2012.10.01
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台風のさなかではあったけれども、今日の「慈子きずなの会」には12人の方が参加してくださいました。 雨や風の中をぬってお集まりくださったこと、心から感謝いたします。もちろん集まりを延期しなくてもいいぐらいのお天気だったということもありがたい限りでした。 慈子さんは31歳で多発性硬化症を発症されて、だんだん首から下は動かすことや感じることがができなくなり、入退院を繰り返されておられたのですが、1987年ぐらいから、自宅で療養され週に一度病院の外来に行かれるようになったのでした。 まだ自宅療養のためのサービスも整っていない当時、続けていくことは本当に困難だったのだけれど、慈子さんやご家族の毎日を応援するために駆けつけ、以来ずっと阿南家の一員のごとく、支え続けてこられた宮川さんを今日はお招きして、お話していただいたのでした。長い前置きでごめんなさい。 宮川さんのお話で印象的なことはなんと言っても、必要を満たす手立てが必ず見つかっていく、ということ。しかもそれは誰かの力だけでなくて、たくさんの方々の思いつきや工夫や技術によって生み出されていったということなんです。 たとえば自分で動くことができない慈子さんのための服、動きにくくなっている腕でも着れるよう工夫されたデザインで、洋裁の上手なお友だちがオリジナルで縫って下さる。車椅子に乗れていたころは布製の柔らかい靴も何足も縫って下さった。ストレッチャーで寝たまま病院の外来に行かれるとき、人工呼吸器をベッドに取り付けられるよう改造してくださった友人。お天気が悪くても病院に行けるよう、傘の生地でストレッチャー全体を覆い隠すようにほろのようなものを考えてそれも作ってくださった。お顔が見えるように透明の部分を作ったり、息がしやすいように工夫してくださったり・・・どこにも売ってない、慈子さんに必要な、慈子さんだけのものが作られていった。それって本当にすごいこと、でもとってもステキなことですよね。どれもこれも、宮川さんがそばにおられたから実現したような気がするのです。彼女は立派なコーディネーターでした。
2012.09.30
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今日は小学校に行って運営協議会で今度講演会を計画しているので、その打合せをしてきました。 担当のN先生『ごめんなさいね。お部屋がなくて・・・。校長室もお客様が、そして会議室はPTA本部の方が使っておられるの 家庭科室でもいいですか?」『はい、もちろんいいです」心の中で思いました。あ、PTA本部のお友だちたちがんばっておられるんだ今度の行事はお仕事見本市、子供たちの希望の中から、どの子も希望外にならないように受ける講座を配分するのはとても難しい作業。今日はきっとその作業しているんだ。そう思ってちょっとだけ会議室の方を見に行きました。作業たけなわ 5分だけでもお手伝いするよ、と声をかけて、さぁ席に着こうとしたらドアが開いてN先生が『Iさん,こられましたよ」と声をかけられたので、何にもお手伝いできないままになってしまいました。さて講演会の方ですが、できるだけたくさんの方においでいただけるようにと、いくつかの地域の団体の方にもご協力をいただくことになり、主催、共催と枠ができ、お知らせのお手紙が小学校だけではなく地域の方々へと何種類かつくることになりました。もちろんポスターもです。皆さんでやっていこう、と言っていただけるのは本当にありがたいことですね。たくさんの方々にお知らせが届きますように・・・そして多くの方が精神科医の定本ゆきこさんの講演を聴いてくださいますように・・・
2012.09.14
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昨日久しぶりに阿南慈子の自費出版本「花物語」と「花かんむり」を手に取りました。それは友人に送るためだったのだけれども、まだその方とはお目にかかったこともない、というつい最近インターネットを通してお知り合いになった方です。 けれども互いに感じていること、考えていること、心に留めている方々、信仰・・・不思議と一致するものがたくさんあります。 彼女が阿南慈子さんのことを知りたいとおっしゃるので、カナダに送る荷物とともに、彼女への本も郵送させていただきました。 こうやってぽち、ぽちっと慈子さんと関われるのもいいなぁ、と思います。べったりしていたら、きっと煮詰まったり舞い上がったりして、なかなか平静な心の中に「はっ」と気付くチャンスがないような気がするのです。この「花物語」を作ったころ、慈子さんはまだまだ声も出せておしゃべりしすぎなぐらいの毎日でした。多発性硬化症(MS)という難病に罹り、首から下の神経はすべて麻痺、もちろん動かすこともまったくできず、ただただベッドに横たわっているのです・・・ でもお会いするときはたいてい心は元気、よく二人で笑いました。そんな彼女が発病して10年を迎えたころに作った本が「花物語」今日、その中の「今 私が思うこと」が目に留まりました。 信仰の深い深い慈子さんはまるで信者さんの鏡のようにこんな風にいわれるのです。「もし足が立ったら、祭壇に向かってひざまずきたいもし右手が動いたら 静かにていねいに十字の印をきりたいもし左手が動いたら 親指と人さし指でロザリオをくり お母さまマリアさまに 捧げたい ・ ・ ・」 でも慈子さんは動かぬ足の代わりに心で、いつも祭壇の前でひざまずき、ずっとずっと祈りを捧げ続けておられた。 動かぬ右手の代わりに、一心に空を見つめ(本当は何も見えないのだけれど)、キリストが担われた重たい十字架を自分の身体の上に受けておられた。 動かぬ左手の代わりに、自分の不安と痛みと悲しみという想いをロザリオの玉にして、永遠に続くであろうロザリオをいつも繰って、やさしく力強く受け止めてくださるマリアさまに伝えておられた。 どうか私の苦しみが同じ苦しみを持つ人々の勇気になりますように目の見えない人々の助けになりますようにハンセン病の方々の魂の救いにつながりますように 慈子さんは信者の鏡だからこんなふうに言えたのではない。 自分が少しでも苦しみから逃れるために、そう思っていたのでもない。 神様からいただいた慈子という命、生きているどの瞬間にあっても、あなたの命として生きることができるように、その想いが祈りの泉となっていたんだなぁ、 と今日の私は思う。
2012.06.26
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友人で福島で被災されたYさんがご自分のfacebookで紹介しておられた言葉を今日はこのブログで紹介したいと思います。Yさんは片柳神父さんがフィリピンに行っておられるときに、マザー・テレサの写真展の写真一式を全部管理してくださっていて、京都で写真展をしたときも大変お世話になった方なのです。実は昨年の東北大震災のとき、たまたま開催する会場の思文閣がマザーの写真を早くから預かって下さったので、マザーの写真たちは被災することなくきれいに残ったという経緯があります。また、震災当日は写真展のためのチャリティー「愛と祈りのフェスタ」を開いている最中でした。 不思議なつながりがあります。YさんがFBでシェアしていただかれたことは:長年オーストラリアで終末期ケアに携わってきた看護師のBronnie Wareさんによれば、死を覚悟した患者さんのほとんどが悔恨や反省の言葉を残すそうです。 彼女は、患者さんたちが死の間際に語る言葉を聴きとり、一冊の本『The Top Five Regrets of the Dying』にまとめました。死を間近にした人たちはいったいどんな言葉を口にするのか? トップ5を見てみると──◎ I wish I hadn't worked so hard.──「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」◎ I wish I'd had the courage to live a life true to myself, not the life others expected of me.──「自分自身に忠実に生きればよかった...」◎ I wish I'd had the courage to express my feelings.──「もっと素直に気持ちを表す勇気を持てばよかった」◎ I wish I had stayed in touch with my friends.──「友人といい関係を続けていられればよかった」◎ I wish that I had let myself be happier.──「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」1も2も3も5も隠れている意味はきっと同じ。自分らしく生きたかった。4は友人関係を大切にしたかった。これ、日本でしたら、同じかなぁ~~私だったら、どうだろうと考えてみると・・・まずは最後のときに後悔のないように今日を生きたいとは思っているけれども、もしもあるとすれば、やっぱり4番かな、と思う。友人たちともっと交流をしたい、と思っていてもなかなか時間が許さずできないままになっていることが多いから・・・
2012.06.17
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友人のMisaさんがリジューのテレジアのお写真をFace Bookで紹介してくださいましたので、こちらにもシェアさせてもらいました。「リジューのテレジアは、リジューの町にあるカルメル会修道院に安置されています。とっても美しいお顔で安らかに眠られていました。 」 このテレジアさん、亡くなったのは24歳、1897年9月30日のことだそうです。100年以上たった今もそのご遺体は美しいまま・・・最初にそのことに気づかれた方々はどれほどの驚きをもってご覧になったことでしょう。この写真を見ていると、そして特に実際にリジューのカルメル修道院に眠るテレジアのご遺体をご覧になった方々は、「神様のなさることにできないことはない」という言葉がただ単に象徴的な表現ではない、ということをしみじみと実感されたことでしょう。 テレジアは3歳、4歳の時から自分が我がままにならないように、コントロールすることを覚えていた、と書いてあります。その理由は親からのしつけではなくて、信仰に基づく自己放棄、謙遜のためであったというのです。もちろんそれを教えたのは両親であり家族であったことは間違いありませんが・・・。すでに彼女の視線の向こうには神様がいらしたのですね。
2012.06.11
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先日片柳神父さまがご紹介になっていた本『置かれた場所で咲きなさい』渡辺和子著 幻冬舎 【送料無料】置かれた場所で咲きなさい価格:1,000円(税込、送料別)が我が家に届きました。 『置かれた場所で咲きなさい』この言葉を目にして、『うんうん』と思いました。だってそれ以外に心を解放してくれるものはない、と私も思っていたからです。 でもこんなにすてきなことばは思い浮かびませんでした。さすがシスター渡辺、と思いきや、新しい本のページをめくって読み始めるとすぐにその言葉が目に留まりました。30歳間際で修道生活に入ることを決め、修道会の命令でアメリカにわたり学位をとり、35歳で日本に帰国したシスター急逝された岡山のノートルダム清心女子大の学長の後を継いで3代目学長になることを命令されます。修道会においては上の方からの命令は絶対です。それは神様からいただいた思し召し、と受け取ってやっていくのです。それで右も左も全く分からないままに学長になったシスターは本当に苦労されて、自信を失われ、修道院を出ようか、とまで本気で考えられたそうです。その時の自分の姿をシスターは「くれない病」に罹っていた私、と表現されています。つまり「あいさつしてくれない」「ねぎらってくれない」「分かってくれない」・・・そのとき一人の宣教師の方が短い英語の詩を教えてくださった。その冒頭に出てくる言葉が『置かれた場所で咲きない』だったそうです。 あぁ~ シスターの言葉でもなかったんだ。でもシスター渡辺はこの言葉を真摯に受け止め、それによって自分の毎日が変わっていくことを体験されました。そこにシスター渡辺だからこそ伝えられる「大きな力」がこの言葉の中にあるのだと思います。 私も最近、すごく気になっていることがありました。それは、「人は環境の子なり」で環境が人を作り出す、という考えが相当浸透しているということです。そのために置かれた環境が良くなければ、人は良い人生が送れない、と思いこんでいる人もたくさんいます。シスターのいう「環境の奴隷になる」という状態を本気で信じているということです。 こんなふうに書いていると、木曜に小学校の先生と個人的にお話しした時のことが思い出されます。私はちょっと疑問に思っていることを言葉にしてみたのです。「どうして同じクラスの子どもたちなのに、教える先生が変わると授業の態度がコロッと変わるのでしょう。とても不思議です。確かに子どもたちの心をひきつけるすべを身につけている先生と朴訥とした先生では授業の面白さは変わってくるでしょう・・・。でも先生は大人、というだけでも敬意を持つことができますし、勉強という未知なる世界を伝えてもらえる、ということではその場(授業)の意味は同じです。子どもたちは面白おかしく設定してもらわなければ、もはや好奇心を持って授業に臨む、ということはできないのでしょうか?」すると先生はこう言われたのです。「そう言えば、うちの子どももすぐにチャンネルをバチバチと替えていますね。自分の面白いものだけを選ぶんです。気に入らなかったらもうええわって・・・。」「あぁ、なるほど、そういうことだったのですね。テレビのチャンネルのごとくか~~ 子どもたちは本当に受け身で生活していますものね。遊ぶとなれば遊ばしてもらえるおもちゃ、ゲーム、テレビ、本・・・ 自分が世界を作るのではなく、作ってもらった中で楽しむ、夢中になる、そういう毎日を私たちが子どもに与えてしまっていたのですね。私たちは何にも子どもたちに伝えることをしていなかったんだ。演出された面白さの中で生きるのではなくて、自分が置かれたその中で、面白いものを見つけていくという視点や好奇心、積極的な姿勢があなたを育てるんだということを・・・なるほど、チャンネルのごとく・・・か~~」ずっと不思議に思っていたことがとてもきれいにすっきりしました。「置かれた場所で咲きなさい」これを最も必要としているのは、子どもたちです。だからいうまでもなく、子どもたちを支える私たちこそが・・・この言葉をかみしめていなければいけません。この本は発売後1カ月で10万部突破、嬉しいありがたいニュースです。
2012.06.01
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片柳神父さまが京都で講演をされます。6月1日(金)17~18:30 ノートルダム女子大 ユニソン会館もしお時間があるようでしたら、聴きに行ってください。マザー・テレサのところでボランティアを何年もされて、そこでの体験が現在の神父という仕事につながっておられます。人生を変えたマザーの存在、そしてそのマザーご自身も、一時期、しかもかなり長い間、心の奥底に悩みと苦しみを抱えておられた現実を知って、神父さまがそのことをどんなふうに感じられ理解されているのか、その辺はとても興味深いものがあります。 みんなからどんなに尊敬されている人であっても、ずっと平安で不安の一つもない、苦しみの一つもない、そのような人生を送られる人はどこにもいらっしゃらない、とマザーの苦しみを聴いてまず私は思いました。そのことを端的に表しているのが十字架上のキリストかな?どんなに神様から愛され、いつくしみを受け、信頼を受けていても、苦しみがやってくる。でも、きっと神様への思いがあれば、その苦しみを乗り越える力を与えてもらえるし、それが大きな喜びにもつながり、また神様の素晴らしさを示す人になれるのかな~~て・・・
2012.05.25
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「ぶつぶつ」の中にはこんなお話しもありました。有毒ガスが漂うゴミ山の一角で下痢・下血でやせ細り結核を患っている5歳の女の子に出会った。周りには大人が何人もいるのに、この小さな子どもに関心を持っている人がいない。家族にどうしてこうなったのか尋ねても納得いく言葉は出てこない。ロザリンダ(女の子)への支援をし始めて気がついたことは、お母さんの言うことがちぐはぐで、ロザリンダのために高価な栄養価の高い粉ミルクを置いていっても、翌日見に行くと益々干乾びてわずかに残された力で飢えを表わしているロザリンダが横たわっている。私たちがいるときにしか食べ物を得ることができていないようす。反対に3歳の弟はみるみる風船のように肥っていく。懸命に生きようとしているロザリンダをここにおいていてはいけない、と冨田さんは決断し、お母さんとおばあちゃんに、教会施設に行ってそこでシスターたちと相談しよう、と説得して連れて行かれました。そこでシスターは一目ロザリンダを見て、あずかることを決められる。そのシスターの姿は白いサリーにふちに三本の青い線が入っている、そう、マザーテレサが設立された神の愛の宣教者会のシスターです。週一回の面接、面接にやってくる交通費は支給する、そう言いながらシスターは決してお母さんとおばあちゃんのことを非難されたりはなさらない。ロザリンダを確実に保護することがここの役割だから…。明日にも死んでもおかしくない、そんな状態だったのに、ロザリンダは施設に引き取られ、また結核の治療のために入院もしたけれど、退院後施設で十分な愛情とケアをしてもらって、奇跡的な回復をとげ2ヶ月で歩けるようになり、笑顔を見せてくれるようになった。あまりに劇的に回復したので、元気になったロザリンデはこれ以上施設に居ることはできなくて3カ月で家に帰ってくる。その時ロザリンデはたくさんのおもちゃ、食べ物と衣類をお土産に持って帰った。お母さんはとても喜んだ。親元に帰ったロザリンデはまた少しずつ痩せ始めているけれども、冨田さんはロザリンデが持つ奇跡を引き寄せた力を信じて、親元で彼女が暮らすことを見守りたいと思っておられる。最後の締めくくりの言葉は「親元に居ることは心配でもありますが、変化も成長も互い(親も子も)にできると信じて、関わり続けようと考えています。人は人と関わり成長します。」 こうやって子どもの力と、また間違っていたことに気づいて少しずつ良いケアを取り戻していくお母さんやおばあちゃんの力を信じる、という本当に深い愛情の中で見守っておられるところが冨田さんの素晴らしいところだと私は思います。冨田さんのブログ「フィリピン、貧しい母子のためのクリニックより」支援はこちらまでクリニック支援賛助会員募集中: 年会費 5,000円 郵便振込み口座番号 00980-0-179028 振込み宛名 CFP 日本事務所 〒669-3153 兵庫県丹波市山南町前川163 0795-70-8270 冨田江里子さん、この夏にビザ更新のために一時帰国されます。6月16~7月15日まで。その間いろんなところで講演をしたいとのこと、私もカナダ行きの直前だけれど、何とか講演に来てもらえないかなぁ、と思っています。皆さん、一緒にやってみませんか?
2012.04.20
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さて、冨田江里子さんのお仕事の中心はもちろん、お母さんの出産と生まれてきた子どもの幸せのために働くことです。 1997年からフィリピンに住み、そしてマタニティークリニックをつくって以来2152人の子どもたちをとり上げたそうです。(3月現在) このクリニックは無償で出産をサポートしています。貧しい母が安全に子どもを産もうと思ったらここに来るしかない、という場所です。「ぶつぶつ」にはこんな母子のお話しが書かれていました。 12月、上に4人の子どもを抱えたお母さんが出産にきました。妊娠中に夫が逃げてしまって途方に暮れる母子。母は近所の方の好意で冷蔵庫を貸してもらい、氷キャンディを作ってそれを売って生計を立てていましたが、5人目の出産に伴って、しばらくの間働けなくなる。それでは上の子どもたちが飢えてしまうのです。だからお母さんは決心していました。5人目のこの子を産んだら、この子は売る、そのお金でしばらくみんなで生き延び、そしてまた私が働こう。 無事に赤ちゃんが生まれて嬉しいはずの産後も、すっかり暗い空気が漂っています。「この子は売らなければならない。生きるために・・・、生きるためなのだから・・・」 冨田さんはこういう母子のために産後緊急支援というものを作って、出産を終えたお母さんが帰宅するとき、食材袋を差し上げているそうです。少しは食べられるだろうけれど、あの赤ちゃんは売られてしまっただろう、それでもおかあさんのその後をチェックするために、数日後におうちを訪ねました。すると、お母さんのそばに小さな赤ちゃんが寝ているではありませんか!!「お米も支援してもらったし、食べられるなら頑張れるかも、て考え直したの」とお母さんは言いました。彼女は貧血で白い顔をしています。それに近所の人が逃げた夫を探してくれて、話し合いをし、夫が上の子どもたち3人を引き取ったそうです。3歳の女の子と赤ちゃんがお母さんの元に残りました。もちろん5人の子どもたちが一緒に大きくなることができる、が理想かもしれないけれど、時には生きていくために少しでも実現可能な形にする、という決断が必要なのですね。冨田さんはこのお話しの最後をこんな言葉で結んでおられます。「廃材やゴミに出されている布、シートなどで1畳ぐらいのスペースの家を作り、何とか子どもを育てようと頑張っている母親がいます。赤ちゃんをやはり売れば良かったと後悔しないように、産後3カ月の今も時々様子を伺いに出かけています」 日本のように恵まれた地域であっても、自分の子どもをとり上げてくださった方が、その後は大丈夫かな?と何カ月もたっているのに様子を見てくださる、そんなことはほとんどありません。そして何より冨田さんはお母さんの思いや考えを尊重し大切にしておられる。 そんな、売ったらあかんで・・・、とか安易な声かけはぐっとこらえて、どうやったらお母さんが子どもと一緒に生きる勇気を持つことができるか、そういうことを日々実行しておられるのです。 日本でもできないほどの手厚いサポートを一人で実現しておられます。本当に頭が下がるだけでなく、その愛情の深さに感動します。思いだけでなく、実行できる意志の強さにも・・・
2012.04.19
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この日本内科学会の市民公開講座には日野原先生以外にも3人の演者がいらして、特に友人は永井良三さん (東大名誉教授) 「運命の女神と医学」と題したお話しがとても面白かったそうです。運命(幸福)の女神とされるフォルトゥナ(Fortuna, フォーチュナ)のことを語られたそうです。科学的根拠を基盤としている医学と繋がるというのはちょっと???と思うけれども、人間がまだ知り尽くしていない、あるいはタッチ出来ない偶然の中にこそ、フォルトゥナが働くのでは・・・?「人知を尽くして天命を待つ」と最後は身を委ねることなのだ、というようなことが印象に残ったそうです。面白いですね。うちのToさんも医学が進めば進むほど、自然の力や人間が持ち備えているものの素晴らしさに気がついていくだろう。その世界の中で、偶然というものがどれほどのものを作り出したのか、実はこの世界そのものも偶然から生まれているのではないのか?と思うと益々科学したくなるそうです。つまりフォルトゥナを科学したいのでしょうね。私たちが自分をフォルトゥナに委ねるとき、私たちは新しい価値を見出すのかもしれないです。 それまでには想像することができなかった幸福がそこにあるのだと・・・友人のTMさん、お知らせくださってありがとうございました。<m(__)m>
2012.04.17
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昨日友人がメールで教えてくださいました。 内科学会の市民公開講座で 「健康で賢い日本人~京都からの発信~」というテーマで4人の先生方がお話し下さったそうです。その中に100歳と6カ月になられた日野原重明先生の講演もあったそうなんです。「どうよく生きるか、~百歳の長寿の経験から~」このタイトルを見ただけでも、まぁ並大抵の人がお話しできることではない、と思います。けれども時々テレビなどでお話しをお伺いすることがあるのですが、その時の日野原先生はご自分がいま何歳であるか、なんてことはご自身の日常においては少しも気になさっておられないようにお見受けします。さぁ、これからこんなことも勉強したい、こんなこともやってみたい来年は生きているかどうかわからないから・・・、なってことは心のどこにもないみたい。まるで子供のようにいつも未来に向かって歩いていく、そういう自分のことを信じておられるんです。全く持って真似はできません。友人が最も印象的に思われたのか、それともこの言葉こそさっちゃんに伝えたい、と思われたのでしょうか、こんな日野原先生の言葉をメールで送ってきてくださいました。「50歳はまだ子ども時代 60歳から人生が新しく始まる」
2012.04.16
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先ほど片柳神父さん(イエズス会)のfacebookに遊びに行ったら、以前このブログでも紹介した本「ガリラヤのイエシュ」の著者山浦玄嗣さんの放送番組(キリスト教放送局日本FEBC)が紹介されていましたので、ここでもご紹介しておきます。お時間ある方はどうぞお聞きください。50分ほどだそうです。 「ガリラヤのイエシュに魅せられて」山浦玄嗣
2012.03.02
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そんなおばあちゃんシスターがアメリカに帰られてから、ときどきメールを送ってくださる。「さちこ、元気?私も少しずつ文を書いています」「もう、間もなく 書き上げられるかなぁと思っているのだけれども、本にしてくれる出版社がないのよね・・・。でもいつか必ず神様が本にしてくださると思う。」そしてしばらく沈黙がつづいた後に、頻繁にメールが来るようになった。「本の最後にglossary(用語辞典)をつけたいのだけれど、以下の言葉の意味があっているかどうか、チェックしてくれる・・・?」以下の言葉とは日本語で、ご自身が日本で使っておられたものだけれども、本当にこの意味でいいのかなぁ~~、という感じでメールで訊いてこられたのです。時にはくすっと思えるようなかわいい訳もあったけれども、私がどうのこうの言うほどのものもなく、またそれを私が英語で伝えられるかと言ったら、???なので、「私はこう思うけれども、必ずほかの方の意見も参考にしてください。」とメールの最後には一言付け加えておくのでした。あれから1年は経ったと思う。突然、Sr Victorine から本が送られてきた。とうとう力になってくださる出版社が見つかったんだ!! 副題には「True Stories for an Armchair Traveler」と書かれている。 自宅のゆったりしたソファに腰をおろしながら、一緒に日本を旅しませんか?ということらしい。では、ぜひ私もゆったりしたソファはないけれど、こたつに入りながらシスターが過ごされた日本での28年間?の思い出を一緒に旅したいなぁと思います。 そうそう、この本には値段がついていません。けれども中にカードが入っていて「がん患者の心のケアを学ぶ人たちへの奨学金への寄付」をお願いしたい、と書いてありました。(マネー)チェックでどうぞ、とのことだけれども、日本からも送れるのかしら・・・?
2012.02.11
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留守にしている間に、アメリカから小包が届いていたらしい。子どもが手渡してくれた包みは日本でいうゆうパックのようなもので、届いているのだけれども、かなりしわしわになっています。『すみません。かなりひどい状態で届いたので、こちらでも何とか包みを補修したのですがそれでもこんな状態で・・・」と配達員さんの言葉だそうです。 確かにびりびりに破れているところを太い透明テープで繕ってくださっていました。中に入っていたのがタイトルの「unveiling Japan」という本です。 著者はSister M .Victorine Buser。私のVnの生徒さんで最高齢の方、当時70代後半でいらしたと思います。 7年前に修道会の本部のあるアメリカのカンサス州ウィチタに戻られました。つまり修道会のお仕事から引退された、というわけです。 お帰りになる直前にお会いした時、「いつか、日本でのことを本にしたいと思っているんです。1冊だけで良い。私が日本に暮らして見つけたこと、学んだこと、いろんなことを書きたい」とおっしゃった。実は私もその時、外に向けてのものではなかったけれど、家族のために本を書こうと思いひそかに、せっせと書いていた。「まぁ~ シスター 一緒ですね。頑張りましょう」とはいうものの、シスターはその時87歳を超えておられたので、そのお歳になっても自分のやるべきことをきちんと見つけて、目を輝かして話してくださることこそ、素晴らしいと、私は心に刻んでいたんです。
2012.02.10
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自分の手を動かして、いろいろ試して考えたり工夫することが、私たちの記憶力を実は支えているんだなぁ、とえらく感心しました。 そのほかに前頭葉にとっても良いことは何か?と訊かれて、出てきた答えの一つは「コミュニケーションをすること」ですって!!お話しのやり取りをするとき、実際に口を動かして言葉にするまでに、頭の中ではかなり活発に活動をしています。どんなお話しを、どんなふうに、伝えようかそしてまとめてから言葉にします。聞く方も相手のお話しを聞きながら、同時に関連した自分の経験を思い出したり、感じたり、考えをめぐらしたり、そしてまとめてから、今度は自分が相手にお話しをします。それだけじゃなくてお話ししているときは私たちは相当量の情報を表情やしぐさや声のトーンから受け取ったりしていますよね。視覚や聴覚をすごく使っていることでしょう。こんなふうに「コミュニケーション」をするとき、同時にものすごくたくさんの脳の活動をしているのです。これも人間にとってはごくごくあたり前の活動だけれども、それが私の記憶容量を支えてくれている。 人間て本当に素晴らしい仕組みの上で生きているんだなぁと思います。 このことを踏まえた毎日を考えたら「五感に響いてくるさまざまなものと、人との交わりの中でこそ私が生き続けられているんだ」ということが明確になりますね。 すごいです
2012.02.09
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いつだったか、ちょっとした事を忘れやすくなってきた。これは年のせいだろう、と思っていたら、どっこい、年のせいではないんだ、というお話をテレビでやっていた。 つまり頭の前頭葉というところに覚えておくべきことをストックする「ワーキングメモリ」というものがあるのだけれど、そのメモリの容量が少なくなって、記憶しにくくなるらしい。どうして容量が少なくなるかと言うと前頭葉の血流が少なくなるような生活をしているからだそうだ。じゃぁどうしたら血流が多くなるかって? TVでは実験をしていました。皮むき器でジャガイモの皮をむくのと、包丁でむくのと。 もちろん包丁でむく方が血流が多くなります。どうしてかと言うと、包丁でむくときは無意識で、自分の手の動き包丁の動きをしっかり認識して、けがのないように工夫しているからだそうです。同じように、サラダのドレッシングを自分で作ってもらったら、本当に良く血は巡っている。決められたようにするのではなく、これぐらいでどうかしら、と味見をして、より自分の想像しているものに近いものに近づける工夫をするからだそうです。 感じたり想像したり、分析したり、立体的に同時にいつくもの脳の活動をさせている、それが前頭葉にはとってもいいそうです。 納得 納得
2012.02.08
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この本は山浦玄嗣さんが9年の歳月をかけた渾身の一作で、今年3月に出版する予定で進められてきたものでした。けれども3月の東日本大震災で出版元のイーピックスも大損害を受け、印刷待ちだった「ガリラヤのイェシュー」の原稿も瓦礫とともに消えてしまいました。かろうじて山浦さんの自宅に原稿の元になっていたデータが残っていることが分かり、そこからもう一度原稿を作りなおして、この11月の出版となったのです。遅くなりました、との言葉でしたが、いえいえ、このような出来事の中で、あきらめずもう一度取り組みおおよそ半年間で出版を迎えられたことは、何においても出版をしようという強い意志と情熱を感じずにはおれません。ご苦労様、ありがとうございました。のお返事をお伝えしたいし、またゆっくりとこの本を味わいたいと思います。さて、この本に関して驚いたことがあります。それは本にも卸し、というお仕事があって定価の40パーセントを彼らが持っていくということです。そして私の知る限りでは本屋さんは20パーセント、つまり本の定価の60パーセントは流通のためのお金です。残りの40パーセントの中に、紙代、印刷代、編集代、デザイン代・・・ 元を作る著者にはいったいどれぐらいの原稿料が入るのでしょうか!!原稿がなければ何も始まらないというのに…、とっても不思議なお金の使い方に思います。そんなわけで、この「ガリラヤのイェシュー」は価格を低く設定するために、出版社直販となっています。 皆さまもどうぞ楽しい臨場感たっぷりの聖書を味わってみてください 本のご注文はイーピックスまで
2011.11.05
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先日Toさんのところに一冊の本が届きました。これはカトリック医師会の大先輩である山浦玄嗣さんの最新刊「ガリラヤのイェシュー」です。 実はこの本、一部Toさんと私がお手伝いした文章が載っています。聖書をもっと分かりやすくすることはできないのか、そのことにずっと努力を続けてこられた山浦さん。 ギリシア語を独学して、今までにご自身の故郷の言葉ケセン語に聖書を翻訳され、それがとてもわかりやすいと多くの方々の心に響き話題になりました。 けれどもそれはどう考えてもケセン語を日常に使っている人々のための聖書です。それで新しい試みとして、聖書の描いている時代に最も似通っていると考えられる日本の時代、幕末から明治維新のころに舞台を置き換えて、それぞれの身分の人の言葉を使い分けして訳されたものです。たとえばガリラヤ出身のイエスとその仲間たちは東北地方の農民の言葉イエスは仲間たちと話すときと公に皆さんにお話しするときと言葉を変えています。ファリサイ派の人々の言葉は武家用語領主ヘロデは大名言葉イェルサレムの人々は京ことば商人たちは大阪弁・・・・こんなふうにとても臨場感のある訳になっています。だからきっと本当に分かりやすいのではないかと思います。私は例のごとくこの本についてはまだほとんど読んでないのだけれども、よくわかるという前にお芝居を見ているようで、とっても楽しい。聖書に登場する人々の顔がやっぱり日本人になるから時代は遡るにしても、ここいらであったことのようにそのまま思える。それは実にすばらしいことだと思う。
2011.11.04
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何週間か前にアニカ・トールの「ステフィーとネッリの物語」を読み終えてしまうと、本と向き合う時間が無くなりちょっと寂しくなります。それで本棚で待っていてくれている一冊を取り出し扉を開けてみました。その本は「こころ咲かせて」佐藤初女著サンマーク出版です。 初女さんのことはガイヤ地球交響曲や友人たちの言葉から漏れ聞いてなんとなく慣れ親しんだお名前でした。でもなかなか直に向き合うチャンスがなく、この本も実は教会の本の大がかりな整理の時、もう廃棄処分にしよう、という本の山の中から私が救い出したものでした。救ってはみたものの、ずっと順番待ちの月日を重ねた「こころ咲かせて」でした。でも読み始めてびっくりしました。えっ、この言葉も、あの言葉も、私がいいたいことばかり・・・だけどその中、もちろん私の知らない言葉もある。その一つはこんなものでした。お料理を心をこめてされる初女さん湯がいているお野菜が畑にいるときよりもきれいな色になって、一瞬透明な色になる。そのとき一番の食べごろ、その時にちょっと味付けをすれば、すっと調味料の味を吸い込んでくれて、良い味付けになる。畑にいるときよりもきれいな色。畑で育っているときの色をご存知なんですね。一瞬だけ透明になる、そんな瞬間を見逃さないでずっと湯がいているおなべのそばでお野菜を見守っておられるんだ。お野菜も調理するという時間も、大切にする、ということを教えてもらいました。これができる、ということはいかに初女さんが人を大切になさっているかということです。素敵な心に触れることができて、とっても嬉しい私です。
2011.06.08
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久しぶりに「スティフィとネッリの物語り」アニカ・トール著に話題を戻しましょう。オケの本番を持ち、PTAの活動をしている間も少しずつ読み進めていました。2巻「睡蓮の池」3巻「海の深み」を読み終え、昨日4巻「大海の光」の残り80%を読み切る決心をしてVnの練習を省きました。そしてちょうど24時を迎えるころ、最後の訳者後記までを読み切りました。 コルチャック賞をいただいた作品ということで本屋で手に取ったシリーズですが、読み進めていくうちそれは、素晴らしい作品だ、と言葉にするほどのものではないかもしれない、と思ったときもありました。 けれども読み終えてみると、フィクションであるけれども数多くの史実、そして同じ境遇にある多くの人々の体験に基づいている、というリアリティが息づき、アニカ・トールがこの小説を通して伝えたいことがしっかり湧きあがってくる作品だということが分かりました。思いがけない子どもの心にも出会いました。 ネッリ(12)は終戦を迎える時まで6年間を共に過ごした養父母のことをすごくしたっていました。それは来た当初その家族に入りきることができるかどうか、という難しさに我慢からトライしなければならなかった姉のスティフィとは違って、本当に喜ばしいことだったけれども、そうであるがゆえに終戦を迎えたとき、ネッリは自分の行く場所が無くなる、もうここに居れない、孤児院に行かなければならないのではないか、と大きな不安を抱えるのです。 終戦を迎えて世の中のみんなが生き生きとした喜びに沸きはしゃいでいるときに、ひそかにそのような深く大きな暗闇に落とされる幼い心。子どもを支えることに対して、国家や制度がいかに微力であるかを良く表しています。子どもにとって必要なことは確かな誰か、安心できる誰かと共にいる、ただそれだけのことなのですね。 アニカ・トールは日本語訳出版に際し、冒頭にこんな言葉を添えています。この本が、日本で出版されることをとても嬉しく思います。戦争と人種差別は人間を、とりわけ幼い子供たちを襲い、傷つける、邪悪で恐ろしいものです。人には皆、平和に生きる権利があり、そして人はだれも、人間として同じ価値を持っている、と私は信じています。 アニカ・トール この言葉に文句をつける人は誰もいないと思います。けれどもこの言葉を本当に理解し自分の毎日で実践することは想像をはるかに超えて、ものすごく難しいことだと実感しました。
2011.05.22
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電車の中やバスの中で読んでいるうちに第2巻「睡蓮の池」も最後まで読むことができました。やっぱり児童文学、読むのがスムーズです。 イェーテボリの女子中学校に進学できたステフィ。それを実現するのにとても尽力してくださったご一家のおうちの一室に下宿させていただいて、中学生活と町の生活を始めました。高級住宅街にあるそのおうちは昔ウィーンにいた頃のステフィ一家の生活を彷彿とさせるものでしたが、必ずしもステフィのことを本当に理解して下さっていたわけではなかったのです。 まぁ簡単に言えば、とても哀れな子供だから、助けてあげるはね!ということでお部屋は貸すけれども、家族というよりは女中と同等の扱いで、食事はキッチンでお客様をお呼びする時はお給仕を頼まれました。それでもステフィは喜んで手伝います。だってあきらめていた中学校に通えるのですから。そのことをウィーンにいるご両親もとても喜んでくださっているのですから・・・。その中学校でも奨学金をいただくために優秀な生徒でいなければならない。だから勉強も良く頑張るのです。でも意外な人たちから無理解やいじめの標的にされます。それはドイツ語の先生と同じユダヤ人の同級生です。スウェーデン人の子どもたちとは違ってドイツ語を母国語とするステフィにとってドイツ語こそ良い成績がもらえる、と楽勝気分だったのに、のっけから『まぁ、あなたのそのものいいはどこのことば?ウィーン?ちゃんとした標準語のドイツ語を使いなさい。なってないはねぇ~」と、どの教科よりも悪い成績をつけられてしまいます。ステフィは唯一の同じユダヤの血を引く子どもからの意地悪にも全く理解できませんでした。どうして・・・「私の家は立派な仕事を持つ父、それに素敵な母、皆が羨むお屋敷に住んでいる誇り高きユダヤ人なのよ。なのにあなたたち(ユダヤ人避難民の子ども)が来て以来どうなの?ユダヤ人のイメージはぼろぼろになったわ。ほんとに嫌になっちゃう。迷惑な話よ!!」というのです。ステフィはその言葉に愕然とします。同じ民族の人にさえも私たちは理解されないのだ。誰ひとりとして私たちのことを理解しようとはしてくれない・・・そんな現実に13歳の女の子は直面するのです。
2011.05.11
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1940年代のスウェーデンでは小学校は義務教育。中学からは成績優秀で授業料を出せるご家庭の子どもたちが進学します。ステフィの住んでいる島の子どもたちも、ほとんどの子どもが小学校を卒業したら仕事の見習いをしながら家計を助け、徐々に本格的な仕事をさせてもらえるようになっていくのでした。つまり13歳から仕事です。ステフィには父と同じように医師になりたいという強い目標がありました。離れているからこそ、その思いは大きくなったのではないかと思います。彼女は1年ですっかりスウェーデン語を同年代の子供たちのレベルまで身につけ、さらにほかの勉強も優秀な成績を収めるようになっていました。だから本人も中学進学を希望し、またその話を聞いた先生も、それはあなたにふさわしい道、とずいぶん応援して下さるのです。 でも養父母のメリタとエヴェルトは、大きい街に下宿までさせて中学に通わすことは経済が成り立たない、と結論しました。ステフィはとてもがっかりしますが、それも仕方のないことでした。こういうふうに里親になっているからと言ってどこからか支援のお金がやってくるわけでもないのですね。本当に預かる人たちの善意によるものなのです。メリタとエヴェルは何にも裕福じゃないのに、オーストリアからの避難民の子どもを預かる決心をしました。それは何かこの子どもたちの力になりたい、という奉仕的精神と使命感が強かったのだなぁと思います。子どもを亡くした、ということもその心を強く後押ししたのではないでしょうか。後に読み進めていくと第2巻になって新しく友人になった子の家にステフィが遊びに行きます。そこには7人の子どもたちと両親が小さなアパートで暮らしていました。そこのお母さんが言います。「いまどき政府が避難民をもう受け入れられないなんて、どこもかしこもいっぱいになったと言わんばかりだけれど、私たちがここで9人で暮らせているということは、まだまだたくさんの人々を受け入れられるはずよね?!」そう、ステフィの前で言いました。本当にそうなんですね。より豊かにもっている人ほど少しの不便によって作りだされる窮屈さや不快感が、より敏感に感じられてしまうものなのでしょう。ステフィはあきらめていたのですが、特別なことが起こって、中学進学が実現するのです。まったく誰もが予想できないことでした。強い希望は捨てちゃダメ、今は駄目でも・・・捨てちゃダメ・・・
2011.05.07
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ステフィ(12)が、女王のようにふるまっている同級生とその仲間たちに、戦争難民のユダヤ人の子ども、と暴力を受けた時、彼女には冷たいと感じられていた養母のメルタが、毅然とした態度で相手の家に乗り込んでいき、ステフィの正当性を説き彼女を守ってくれたのです。 このメルタは自分の娘をちょうど12歳のときに病気で失っていたのでした。辛い思いを抱え、それを見せまいとするがゆえにステフィには冷たくしているように感じられたのかもしれません。でもいざ、というときにこそ人の真の姿が現れるのですね。ステフィはメルタを通してとても大切なことを学びました。見せかけの優しさと本当の優しさの違いです。 ホイホイと子どもの生きやすいようにすることが決して本当の優しさ(愛)ではないんですね。子ども(命)の本当の価値を知り、生き方を示すことが本当の優しさ(愛)です。
2011.05.06
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妹ネッリのいるアルマはとても親しみやすく子どもたちにはせっせと手作りおやつを作り、時間を作っては遊び、話し相手になってくれます。だからネッリはどんどんスウェーデン語が上手になりました。 姉のステフィの養母のメルタは無駄にお話することなど決してなく、冷たい雰囲気を醸し出し、子どもらしさよりもきちんと家の中のルールを守ること、正しいことをすることを要求する人でした。 最初の予定とは違っていつまで経ってもお父さんお母さんのアメリカ行きのビザは降りそうにありません。ある時お父さんからお手紙がきました。オーストリアではユダヤ人の私たちが国外に出ていくことに力を貸してくれる人はもう見当たりません。こんなことを父が12歳のステフィにお願いするのはおかしいけれども、どうかそちらで僕たちのために力になってくれそうな関係機関に連絡を取り、こちらでどんなことが起こっているのか、ステフィから伝え働きかけてほしいのです。 読んだステフィはアルマさんにお願いしよう、と思いましたが、実際に動いてくれたのは養母のメルタさんでした。夫で漁師のエヴェルトさんも国会議員に働きかけてくれました。でもなにもすることはできませんでした。スウェーデン政府は500人のユダヤ人の子どもたちを疎開させることはしましたが、彼らの両親が入国することは許しませんでした。その結果3/4の子どもたちは親を失い、戦後里親の養子などになってスウェーデンに残った子どもたちは2/3、1/5はアメリカにそして1/10はイスラエルに、残りの子どもたちはカナダなどに移住して行ったそうです。 そしてステフィたちが保護されるためにやってきた国でまず出会ったことは、「いじめ」や「蔑視」でした。誰かのために力になりたい、と思いながら、一方では人間は「見知らぬ者」「普通じゃない者」への差別や否定的な感情を抱くのです。きっと心の赴くままに放っておいたらその力が露出してしまうのでしょう。それも自分を守るための一つの反応なのだと私は思っています。だからその反応をどこかでコントロールしなければならない。この二人の経験を読むと、今日本や世界で起こっていることとどれだけ多くのことがかぶっているのか…、と感じます。
2011.05.05
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ステフィもネッリもドイツ語だけでスウェーデン語は全く知りません。それでもドイツ語と似た言葉を聴き分けたり、何度も繰り返される単語を聞き覚え、だんだんスウェーデン語が分かるようになっていきます。 二人一緒に預かってもらえるはずでした。でも行ってみたらそうではなかった。妹のネッリは同じぐらいの子供二人がいるアルマのおうちへ、そしてお姉さんのステフィはその島の集落で一番外れのところにあるメルタのところへ連れて行かれた。メルタはものすごく厳格な人で家の中は必要不可欠なもの以外は全くおかない。そしてある物はすべてのものがピカピカになっています。およそ子どもが滞在できるような雰囲気はない。この空気はスティフィに語っています。 本当はあなたなんか預かる気なんてなかったんだからね。それでもユダヤ人と言うだけで差別を受け命さえもどうなるか分らない、って聞いて哀れに思ったし、まあせいぜいうちの手伝いをさせて食事の分以上に得になることもあるさ、と思ってのことなんだよ。私はウィーンからの子どもが来たからと言って私の生活を変える気は全くないのだから、私の言うとおりにすることね。面倒はゆるさないよ。ステフィはすぐさまその空気を読みとって こんなところで私は暮らしていけるのかしら・・・もっと正直に言えば すぐさまお父さんお母さんのところに帰りたいと思ったのでした。ウィーンでの生活は華やかで楽しいことがいっぱいありました。お父さんはお医者さん、お母さんはオペラの歌手でした。広いマンションに住み執事や女中が家のことをやってくれ、家族でピクニックに行ったり友人たちを招いてのパーティーも良くしていました。あまりにも違う。だけど、私本当のことはお母さんたちには言わない。心配させるわけにはいかないもの。だからウィーンへのお手紙にはいつも万事うまくいっている、とだけ報告するステフィなのです。
2011.05.04
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バレエのレッスンの後、ToさんやAと待ち合わせて、本屋さんに行きました。子どもの本の棚で目に付いたものは「海の島」新宿書房など4冊のシリーズになっている本です。スウェーデンの作家アニカ・トールさんの作品。その理由は「コルチャック賞受賞」という帯の文字が目に飛び込んできたからです。「ヤヌシュ・コルチャック」私はこの人のことを全く知らなかったのだけれど、去年私のエッセーが女子パウロ会の「あけぼの12月号」に載った時、同じ号にコルチャックさんのお話が語られていたことから知ったのです。子どもの生きる権利や尊重について考え、生涯を通して実行し子どもたちを守ろうとしたコルチャック先生。その人の賞をいただいた作品というだけで、その本から目を離すことができなくなってしまいました。4冊一緒に買ったら高すぎる。そう思っていたら、Toさんが「どうせ、4冊買うことになるんだから、今買ってもいいのじゃない?」ありがとう!!第一巻「海の島」ウィーンからナチの支配をのがれてスウェーデンに疎開してきた500人の子どもたち、その中のスティフィとネッリ姉妹の物語です。「3カ月、長くても半年よ。それまでにはアメリカに行く準備が整うはずだから、そしたら落ち合って家族みんなでアメリカに行きましょう。それまでの間、離ればなれになるけれど頑張っててね、大丈夫よ。もう12歳だもんね。」そう両親に言われてやってきた。でも養父母の家に案内されたスティフィはそこを見て「世界の果てに来てしまった!」と思ったのです。・・・
2011.05.03
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写真展が終わって一週間が経とうとしています。それでもまだこの催しの余韻は残ってます。 思文閣の方では販売した本のことや片柳神父さまにお借りしたマザーの遺品などを返却したり、まだまだお仕事をして下さっています。「マザー・テレサは生きている」片柳弘史著を読んでいると、遺品の話が出てきました。 彼がイエズス会に入会して、神父になるまで11年間の修業を行っている時、マザー亡きあと、片柳神父さまのことをずっと心にかけてくださっていたシスターマーガレット・メリーが、励ましのお手紙のたびに、マザーの遺品を一緒に送って下さっていた、と記されていました。そのシスターマーガレット・メリーももうお亡くなりになっています。 マザーの遺品である毛髪やサリーは、全世界に散らばる神の愛の宣教者会(MC)の修道院に届けるために小さく刻まれました。その一つが片柳神父さまのところにも届けられていたのです。それほど片柳神父さまはMCのシスター方にとっても大切な存在になっておられたのですね。 自分の息子のようであり、またマザーによって育てられた片柳神父さんの信仰や人生における目覚めをシスター方はまざまざと見ることができたのですから、「マザーの遺された子(神父)」のような存在なのでしょう。 マザーの遺品そのものよりも、どうしてそこにあるのか、ということに意味があるのですね。そのことを皆さんに知ってもらいたかった私です。 ボランティアの最中、あの遺品のケースのそばにいて、お客さまの様子を見てこちらから声をかけてお伝えしようかな?と思いましたが、あまりうるさくするのも良くないので、ぼちぼちにしました。 そうでした。先日写真展でのチャリティ-募金箱に入っていたものを計算して下さったのです。640,533円あったそうです。これが多いのか少ないのか、それは私には分りません。そして金額そのものは対して大きな意味はないでしょう。でもこの写真展で集められたお金はとても素直で純粋な「人を思う心から生まれた」、ということだけは自信を持って言うことができます。 みなさまに感謝、そしてこの美しい心が広がっていきますように・・・
2011.04.14
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あっという間だった。前日の準備日を含めれば13日間。あの会場は特別の空気を生み出す場になってくれていました。 ありがとう、感謝です、素晴らしい、心が洗われました、感動しました、そんな言葉があふれていました。 誰がこの場を作り出したのか、私たちには分らない力が働いていました。ええ、きっと天上でマザーと慈子さんがご相談なさったのでしょうね。 あぁ、今日で終わりなのですか?いいえ、また6月17日から1週間、ノートルダム女子大学のユニソン会館でいたします。あちらでは、ここにはなかったシスター白井詔子さんの写真も展示されます。是非、またマザーにお会いになってくださいね。そうお伝えすることができて、とても嬉しい。小さなお客さまもご両親に連れられて来られました。「ねえ、この本読もうか」と一緒にマザーの絵本を読みました。閉館時間の5時になっても、5時10分になっても、まだ数人のお客様がおいででした。でも誰も「閉館です」と声をかける人はいません。時は静かに流れています。本日の入場者数205人、12日間で1595人の方がマザーを訪ねてくださいました。初めて本など物品の「会計の閉め」をしました。「あれ、きっちり5000円足りません!!」「えっ、 あぁ5000円札が箱の下にありました。良かった、ピッたしです!!」マザーの写真額はきれいに乾拭きされてから、一つ一つ金具から取り外されました。キャプション(写真の題)もあの小さい虫ピンを外して、写真に寄り添いました。この二つはいつも一緒。一緒に段ボールの写真ケースに収められます。 5つ集めてさらに大きな段ボールの箱へ・・・ ずいぶんこの箱は傷んでいます。何回開けたり閉めたりされたのでしょう。何回トラックに乗ったのでしょう。あと数回お仕事は残っていますね。無事にお勤めして下さいね・・・祈りを込めて封をしました。外の大きな看板も、会場までを誘った階段に貼られたポスターたちも、自動ドアに貼ったマザーのお顔も丁寧に外しました。ちょっとだけお茶の時間をもって解散しました。「また落ち着いたら、打ち上げしようね。いやいや、旗揚げよね!!」 そう、「閉め」は「旗揚げ」への準備開始宣言です。 さ~~て、一体何が始まるのかな? だ~れも知りません!!でもとっても楽しみ・・・ 全てのことに感謝して、今日を閉じます。ありがとう!!
2011.04.10
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朝、6時にWに起こされました。「お母さん、起きて、お弁当づくりやで!!」「おやおや、こんなに早く起きているのなら、君が作ればいいのでは?余裕でたっぷり時間あるよ・・・」「いやいや、お弁当はお母さんのでなければ、喜びが・・・」う~~~ん、とまだまだ寝ていたい私でしたが、おきあがってお弁当を作りました。Wは友人たちを誘って学校に行く、(つまり自主集団登校ですね)をするということで7:45には出かけて行きました。 お陰で朝のお仕事もスムーズにはかどり、お隣のおばちゃまとお話もしてから、ちらほらと雨粒が落ちてきているころ、マザー・テレサの写真展に着きました。 今日は特にイベントもない、雨ふりという一日でしたが、それでも最終的には70~80人の方がマザーに会いに来てくださいました。でも私は思うんです。会場で一枚一枚のお写真と向き合うのも一つの触れ合いだと思いますが、そこに何時間もいるだけで、何かマザーの空気が心の中に流れ込んでくるような気がします。写真展(7)のコメントにTetsuoさんが「震災の義援金を〇〇だからとカテゴリーに分けて単純にお渡ししても皆さんはそんなに喜ばれないでしょう・・・」という内容のことを書いてくださったのを見て思いました。そうだ、マザーもハンセン病の人や貧しい人たちに、世界中から集まってきた寄付金をお金の形で分け与える、なんてこと決してなさらなかった。カルカッタのスラムでもお金があれば何か買ったりできるでしょう。でもマザーはそんなことなさらなかった。どうしてかしら・・・お金は何にでも使える便利なもの。だけど本当にその人を理解した人が、その人の必要を見いだしてそれを与えようとすることは、もっとその人にとって大切なものを与えることができる、とマザーは知っておられたからではないでしょうか。 お金はお金だけが独り歩きすることが多い。震災の義援金もたくさん集まっているけれど、それがどこから来たものか良く分らなくなってしまっているから、いただく人も、そこにある真心に触れることは難しいでしょう。でも被災された皆さんのところに行って、手を触れながら、声をかけながら、笑顔で皆さんのために活動することができれば、たくさんの良きものに出会え、被災された方の心にもまた救援活動をなさる方の心にも、潤いと安らぎ、喜びを生み出すことでしょう。 どれだけ多くことをなしたかではなく、どれだけ心をこめたか、が大切!!マザーの声が聞こえてきそうです。 今日ボランティアに駆けつけてくださった友人のIさんは震災の時東京にいらしてて、マザーの修道会の方にお手伝いに行かれたところ、シスターたちは、翌日の12日にすぐに仙台の方に手伝いに行かれたそうです。誰からの援助もなくすぐに行動に移せるこの機動力、日頃から清貧と従順の中で暮らしておられる方々だからこそではないでしょうか・・・!!
2011.04.08
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久しぶりにバレエの時間にAと手をつないで出かけました。このところ私が忙しいのでお終わるころにお迎えにいければ良いところ、という状態だったので・・・。 すると電車の中で「さっちゃん」と声がかかり振り向くと長男が幼稚園だった頃からの友人Oさんがおいでになっていました。彼女のお仕事が退ける時間とバレエの時間が同じぐらいなので、たまに電車の中で一緒になることがあります。「震災の時ね、茨城の方にいたの、偶然ね。それでも少し離れているからそんなに大変ではなくて、水も二日目に復旧したのよ。みんなで力合わせよう、って頑張っていたんだけれども、こっちに帰ってきたら、何もしてあげることができないでしょう?すると本当にやる気がなくなって。ごめんね、マザーの写真展も行けてないの。どんなお約束もする気になれないような感じで・・・」「うん。マザーの写真を撮られた片柳弘史神父さんの本(「マザーは生きている」)にも書いてあったんだけれど、修道会のシスターたち、本当に大変なお仕事をしておられるでしょう。来る日も来る日も、大変な場面に出会っておられる。どんなに強い信仰心をお持ちでも、調子を崩されることが多くなったことが、昔あったらしいの。それでマザーは考えて、夕飯の後に必ずみんなでお御堂に集まって1時間ほど黙想したり祈ったり心も体も静かにする時間を毎日作られるようになった。するとシスターたちの健康がかなり保てるようになったんだって。今、きっとそういう時間が必要なのよ。とてもよく頑張ったんだから・・・」「そうか、あぁ 良かった、電車に乗って!!」うん、神さまは写真展に行けない人にも、ちゃんとマザーのことを伝えるチャンスを作っておられる。私も少し、そのお手伝いができたかも・・・ 9日の土曜日にはマザー・テレサの歌を作られた『こいずみゆり』さんが3時から思文閣の写真展会場でチャリティーコンサートをして下さるんだけれど、片柳神父さまが再び来館して、コンサートの後に「ミニ講座」をして下さるそうです。今日飛び込んできた最新情報です。後5日間、あっという間に開期が終わってしまいます・・・
2011.04.05
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