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世界遺産13番目は 富士山ー信仰の対象と芸術の源泉標高3,776m 日本一の高さを誇る富士山は その壮大さ・・過去に繰り返された荒々しい噴火によって 古来より人々の畏敬を集め「信仰の対象」として時には 芸術家たちの芸術の源泉となったことが世界文化遺産として平成25年に認められました。富士山は今から12年ほど前に家族で 私は五合目まで・・主人と子ども達は六合目まで登ってきました。今回は懐かしい写真満載ですが・・・富士山は自宅からも天気の良い日は良く見えるのですが・・近くに行ってよく見えたことがあまりない・・いつも・・曇っていたり・・頂上に雲がかかっていたり・・・しいて言うなら・・この二枚ぐらいかと・・今もそうなのかはわかりませんが・・富士山五合目まではバスか専用のタクシーでしか登ることが出来ず・・・車を麓において・・専用のタクシーを往復でチャーターしなくてはなりませんでした。5人いたので・・迷わずタクシーをチャーター。大変親切な運転手さんで・・登りながらいろいろなスポットで車を停めて写真をたくさん撮っていただきました。山の天気は変わりやすいと言いますが・・麓は晴天・・五合目は小雨が降っていました。タクシーの運転手さんが傘を貸してくださり・・・五合目までも・・やはり万全の準備をしていくべきだと痛感。登山口・・吉田ルートの入り口です。五合目だけを見て帰るつもりだったので・・家族皆恐ろしいほど軽装。下山されてきた方の服装とは大違い・・・それでも・・私以外は傘を持って6合目まで登ってきました。富士山5合目にある神社 冨士山小御嶽神社五合目付近は 「天狗の庭」と呼ばれ 天狗が支配していたという言い伝えがあります。天狗様が道開きの神様として祀られています。山岳信仰の聖地である 小御岳山山頂に鎮座、創建されました。富士山から下山して訪れたのが・・青木ヶ原樹海に囲まれた 富岳風穴総延長201m 高さは8.7mになる横穴。昭和初期までは 蚕の卵の貯蔵に使われていたそうで 夏でも溶けない氷がいたるところにたくさん・・天然の冷凍庫といった感じで 夏でも寒いくらいでした。天然の氷が多数・・一年中溶けない。平均気温3℃蚕の卵の貯蔵の様子次に訪れたのが 白糸の滝こちらの写真はHPより頂きました。文化遺産の構成資産の一つとなっています。断崖から白い絹糸を垂らしたように流れ落ちる優美な様から名前が付けられたそうです。高さ20m 幅121m富士講の開祖とされる 長谷川角行が修行を行った地とされ中世期以降には 人々の巡礼・修行の場となりました。この滝の平均日量15.6万トンという膨大な湧水量を誇っており水量が多いため浸食も進み1年で2cmずつ後退しているそうです。そして・・富士山といえば やはり・・芸術への源泉力がすごいことでしょうか・・葛飾北斎の 富嶽三十六景には 様々な富士山が描かれています。絵画だけでなく 様々な歌や小説などの題材となりました。世界的にも 富士山は日本を代表する大変価値のあるものだといえます。富士山の近辺には 河口湖や山中湖などの 大変美しい湖が多く夏のレジャーには最適な遊び場となっています。冬には 近くにある時の栖というホテルやレストラン・・イルミネーションが美しい施設があり・・富士山とクリスマスイルミネーションを楽しむことが出来ます。ぜひ・・壮大な富士山を見にいかがでしょうか?10年以上も前の写真・・うーくんはこんなに小さかったのだと・・感動。
August 6, 2022
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世界遺産 12番目は 紀伊山地の霊場と参詣道今回は昨年、旅行に行った和歌山県 熊野三山について熊野三山は 熊野本宮大社 熊野速玉大社 熊野那智大社の三社那智山青岸渡寺の一寺の総称。詳しくは和歌山県のHPや世界遺産の紹介HPなどをみるといいのかと思いますが実際に行ってみてよかったところ・・などをお伝えしたと思います。今回は 一日で白浜から 本宮→速玉→那智とまわりました。レンタカーなくしては 一日で全てをまわるのは結構大変かと思いました。まずは本宮から熊野三山の中で「熊野坐神社(神のいます場所)」と号されて元神的な存在。造船術を伝えられたことから船玉大明神とも称せられ 古くから船頭・水夫たちの篤い崇敬を受けていました。しかし・・初めからこの石段 158段 きつい・・・けっこう急な石段なので・・頑張りましょう。参道は右側を登り 左側を降りるのが作法だそうです。ここから先は撮影禁止なので注意しましょう。しっかりお参りしてきましょう・・。石段を下りることもできますが できれば熊野古道を感じられれるこちらの祈りの道を降りると風情があります。昔の方はこのような舗装がされていない道を 草履などで歩いていたのかと思うと頭が下がります・・。滑りやすいので気を付けましょう。そして・・本宮に行ったならぜひ行ってもらいたいのが・・こちら・・大斎原(おおゆのはら) 本殿から徒歩10分程神が舞い降りたという場所です。パワースポットとして多くの方が訪れています。実は行く予定はなかったのですが・・行ってみてほんとうに良かった。特に何があるわけではないのですが・・大きな鳥居をくぐると・・なんか空気がピンと張りつめている感じがします。明治22年の8月の水害がおきるまで こちらの場所にあったそうです。こちらは中州になっており現在の本宮の8倍もの大きさの規模があったそうです。田んぼの中を 鳥居まで一本道が続きます。中州に入るまでに 草履や着物の袂を川の水に濡らして 水で清めてから参拝するという「濡藁沓(ぬれわろうず)の入堂」と呼ばれていたそうです。八咫烏(ヤタガラス)日本神話に登場するカラスであり 導きの神とのこと。鳥居は神域と 人間が住む俗世との結界と言いますが・・・この杉の感じのためか・・空気感ががらりと変わるのがわかります。ぜひ・・本宮に行かれれる際は この大斎原を訪れていただきたい。さて次は新宮 速玉大社本宮とはがらりと変わって鮮やか・・朱色が美しいです。階段はなく参拝しやすいのもお年寄りにはありがたいですね。水の動きを神格化したとされる熊野速玉大神と熊野夫須美大神の夫婦神勝利を導く神を祀る八咫烏神社、腕力・筋力を象徴とする手力男神社などがあります。そして・・もう一つ・・新宮に訪れた際に行ってほしいのが・・神倉神社 本宮から歩いて15分くらい神々が降臨した熊野信仰発祥地とされているそうです。発祥地がいっぱいな気もしますが・・・こちらは・・はっきり言って足腰に自信がある方のみ・・参拝していただきたい。階段というよりも・・岩を登っていく感じで約538段の急な石段を登っていきます。入り口にお参りする場所もありますので・・こちらで済ますのもOK。しかし・・せっかくなので・・・登ってみることに・・・途中で後悔・・・でも・・・ここまで登ったから・・・やっと御神体のゴトビキ岩がありました。こちらの石の下から振り返ると・・・新宮市街地の素晴らしい景色がご褒美です。こんな・・岩を登るので・・ご注意ください。飲み物は登る前に必ず買いましょう・・・がんばったあとは・・腹ごしらえ・・この地方で有名な 目はり寿司高菜をまいたおにぎりです。昔はソフトボールくらいの大きさだったそうで・・目を見張って大きく口を開けて食べることからこの名前になったそうで・・・昔に比べて大きさは小さめ・・でも三個は結構お腹いっぱい・・。ゆっくりできる めはりやさん・・お勧めです。さて・・次は熊野三山といえば有名な写真が多い熊野那智大社 石段を登ったら・・また石段といった感じ・・明日は筋肉痛覚悟です。「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮」結びの宮と称され人の縁だけでなく諸々の願いなどを結ぶ宮として有名です。山の上といった感じなのに・・境内はとても広いです。新宮のように朱の色合いが美しいです。新宮の横には 樹齢850年と推定される樹高27m 幹回り8.5mのクスノキがあります。 樟霊社(しょうれいしゃ)中は空洞になっており 絵馬や護摩木などを持って通り抜けることで御利益があるそうです。神社の隣には お寺があります。青岸渡寺(せいがんとじ)なぜ神社とお寺が同じ場所にあるのかは・・ぜひ青岸渡寺のHPを見ていただけるとわかりやすいかと思います。仏神習合時代の名残を残すものです。なんとも風情のあるお寺です。中に入ることが出来るのでぜひ・・靴を脱いで中に入ってお参り頂きたい。なんとも・・・風情のある中の様子・・・写真を撮っていいのかわからず・・取り損ね。有名な熊野といえば・・・この図が有名この建物は 那智山青岸渡寺 三重塔各階には異なる仏の像が安置されているそうです。美しいですね・・まもなく日没とう時間・・せっかくなので・・・滝まで行ってみます。那智御滝 那智の奥 大雲取連山から流れている流水が大瀧となっており高さ133m 幅13m 滝つぼの深さ10m流下水量は毎秒1トンやはり・・近くに行くと ゴーゴーという滝の勢いがすごいです。神聖な滝の御利益を全身に感じます。滝を鑑賞したあとは・・・那智黒ソフトクリーム黒糖を練り込んでいるので黒いです。味は柔らかな甘さで食べやすい・・・アップダウンで疲れた身体にしみ入ります。さて・・無事に三山にお参りしたので・・白浜まで帰ります。帰り道は行の山道ではなく・・海岸線に沿って帰ります。その途中・・まるで宇宙空間のような岩・・・橋杭岩大小40余りの岩が 約850mにかけて海中に列をなしています。その規則的な並び方が 橋の杭に似ていることからこの名前が付いたようです。その昔 弘法大師と天邪鬼が一晩で橋を架ける賭をして一夜にして立てたという伝説があります。急ぎ足での熊野三山でしたが 達成感がすごい・・昔はこの三山を古道を歩いてお参りしたと思うと・・・感無量です。高野山はまた次回にしたいと思います。
July 19, 2022
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日本の世界遺産を・・・めぐってみようかと・・・昨年伺った 兵庫県 姫路市 姫路城 別名 白鷺城伺った日はあいにくの雨模様・・・姫路城は 平成5年12月 奈良の法隆寺と共に 日本で初の世界遺産に登録されました。まるで白鷺が羽を広げたような優美な姿から「白鷺城」の愛称で呼ばれています。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白城壁や 五層七階の大天守閣約400年が経過したとは思えない保存状況でした。建築は1346年初の城主は 赤松貞範鎌倉幕府が滅亡後 赤松則村が反鎌倉幕府として挙兵し姫路に砦を築いたのがはじまりと言われています。その後 四代目当主 赤松貞範が砦を築いた13年後に築城。なんと・・1580年には羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)もこの姫路城の城主となっています。その後 大阪に拠点を移し大阪城を築城。そのため姫路城は「出世城」と呼ばれるようになったとか・・・戦に備えた設備がたくさん・・・ありました。最上階には 刑部神社が祭られています。江戸時代には 姫路城には女性の妖怪が住んでいると言われ、城主に城の運命を伝えたり怪奇現象を引き起こしたり 様々な奇譚な言い伝えがあり 古い書物や怪談集に登場しているそうです。幕末の大戦では新政府軍に囲まれ 岡山藩から威嚇攻撃を受けましたが姫路城を無血開城したことから 無傷なままの城が残っているそうです。太平洋戦争中には、白壁が目立つため 黒い網を全体にかけて目立たないようにしたとか・・。着弾はあったそうですが 焼失はせずに済んだとのこと。ほぼノーダメージで現存 まるで奇跡のような話です。やはり妖怪のおかげ?一枚・・二枚・・とお皿を数える怪談で有名なのは 四谷怪談ですが、この姫路城でも お菊という女性が お皿を紛失したという無実の罪に問われ挙句に斬殺されこの井戸に投げ込んだという伝説があり・・・夜になると・・井戸から 一枚・・・二枚・・・とお皿を数える声がするとか・・・。詳しい話はぜひ・・・検索してみてください。諸説ありますが・・・この井戸は お城から城主などを逃がすための秘密の通路になっていたという話もありそのことから 人が近づかぬようにこのような怪談を流したという噂もあるようです。大改修ではしゃちほこも取り換えられているようで・・・時代と共にちょっとづつちがう・・・明治時代のが私は好みかも・・・お城を下りたころには・・・少しお天気も回復・・・姫路駅を降りるとまっすぐにこの姫路城が見え・・夜になるとライトアップされた姿はまるで街をまもる神様のように感じました。
January 27, 2022
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久々の 世界遺産 今回は 2020年秋の GO TOキャンペーンで 山陰地方の鳥取・島根に行ったときに伺った 石見銀山世界遺産センターの様子などを中心に紹介してみます。石見銀山遺産とその文化的景観は 2007年に環境に配慮し、自然と共生した鉱山運営を行っていたことが特に評価されて世界遺産に登録されました。石見銀山世界遺産センターJR山陰本線 大田市駅からバスで33分石見銀山は最盛期には 世界の産銀量の三分の一を占めた日本の銀のかなりの部分を石見銀山で産出されていたと言われています。石見銀山の銀は地図のように日本海に近いため はじめは中国との貿易で流通していましたがヨーロッパ人の参入により世界的な経済・文化の交流に影響を与えたと言われています。金塊という言葉はよく聞きますが、銀塊とは初めて・・・もちろん金塊も持ったことはありませんが・・銀塊も30kgとは・・・重い。この日のレートは 91円/1g なので 2,730,000円ですね・・・いやいや・・・高額。ちなみに金だったら 本日 30kgで 2億1492万円 おお・・・・・この銀の採掘は 採掘から精錬まですべて手作業で行われていました。暗い坑道に酸素を失わない程度の火を灯しノミで採掘。今でも坑道跡には 当時の方々のノミの跡が残っているそうです。銀貨・・・東京銀座には江戸時代銀貨鋳造所で銀貨を作っていたため いまでも銀座という地名になっていますが、石見銀山で産出された銀も江戸まで運ばれていたそうです。残念ながら・・時間がなく石見銀山世界遺産センターまでしか行けませんでしたがこの先には龍源寺間歩という常時公開されている坑道もあります。坑道の長さは600m、当時のノミで掘り進めた跡がしっかりと残っているそうです。配水のために垂直に100mも掘られた竪坑も見ることができます。この龍源寺間歩は江戸時代中期ごろに開発されたもので、昭和18年に閉山され約230年もの間採掘がおこなわれていたことになります。別の採掘場所である大久保間歩は 龍源寺間歩よりも規模が大きく江戸時代の手作業の採掘跡のほかに 明治時代の機械堀りへの変移を感じることが出来る貴重な遺産となっています。この石見銀山のすばらしさは、規模529ヘクタールという(東京ディズニーランド約11個分)広さに銀の採掘、鋳造、人々のくらし、積出港、街道など全体像が自然と一体になっていることがなによりも素晴らしい点と言えます。美しい街並みの 島根県太田市大森町銀の精錬には多くの木材を火力として必要なため 山の木がなくなってしまうのが通常でしたが石見銀山では 採掘当時より山を崩したり森林伐採をせず銀鉱脈に沿って狭い坑道を掘り進め伐採した数と同じだけの植林を計画的に進めるという適切な森林管理がしっかりとできていました。今世の中で叫ばれている 環境破壊の中止 SDGs などなど・・・江戸時代の人々に私達は学ばなければならないことがたくさんあるのかもしれません。
January 20, 2022
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1993年 日本で最初の世界文化遺産に認定されたのが こちらの法隆寺。認定理由は*法隆寺地域の仏教建造物にみられる優れた設計と装飾美は人類の創造的才能を表す傑作であること。*法隆寺地域には7~19世紀までの各時代の優れた仏教建造物が現存し、当時の日本と中国、東アジアにおける建築上の文化的交流が伺われること。さて・・むずかしい内容は実際に法隆寺のHPなどを見ていただければ・・・と思いますが昨年9月に奈良を旅行した際に どうしても行きたかったのが 法隆寺でした。日本で最初の仏教寺院が現在も残されているとは・・・本当に奇跡的なことではないかと・・・聖徳太子ゆかりの寺院といわれている法隆寺は7世紀から8世紀にかけて北魏や唐の時代に中国で発展した建築様式がみられる。入り口にあたる 中門(西院伽藍)この木製の柱だがよくみると 上と下が細く 真ん中部分が太くなっていることがわかる。これは エンタシス技法といい ギリシャのパルテノン神殿などと同じ技法。安定して見えることから巨大建築物の柱に多用されている古代ギリシャの建築技法だそうです。法隆寺と言えば 五重塔こちらも8世紀以前に建築された 世界最古の木造の塔とされている。地震や戦火などに見舞われることが多かった日本にありながら 残っていてくれたことに感謝しかない。五重塔の屋根の部分 九つの串刺し九輪の下に 四つの鎌が見えるだろうか?怨霊封じのためという説もあるそうですが、実際には雷除けのまじないとして設置されたという説が有力だそうです。この鎌 300年ごとに取り換えをしているとのこと・・次回はいつなんでしょうかね??9月初旬に行ったため とても暑かったのだが・・なぜか建物の日陰は驚くほど涼しい・・・風通しがよく 木造ならではの特色なのだろうか・・「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の正岡子規の詠んだ作品この時 正岡子規は病が悪化していたそうで「法隆寺の茶店に憩いて」という前書きがあるそうですが・・実際に本当に茶店いて法隆寺の鐘の音を聞いての句なのか・・病はかなり悪化していたそうなので 秋の訪れを感じた子規が法隆寺を思い 鐘の音 柿の味 を思い出し詠んだ句なのかは定かではないそうです。その後 昭和35年に35歳の短い人生を終えたそうです。実際に 法隆寺を訪れた際に鐘の音を聞いたのですがなんとも 心地よい・・高くも低くもない 軽やかで澄んだ鐘の音は素晴らしいものでした。夢殿(東院伽藍)建築の真珠といわれた金堂 八角円堂。聖徳太子の供養のために建てられたといわれています。建築物も素晴らしいものですが、金堂本尊の釈迦三尊像夢殿本尊の観音菩薩像(救済観音)玉虫厨子などなど 歴史の教科書でしかみたことのない国宝が実際に観ることができます。ぜひ 飛鳥時代にタイムスリップしてみませんか?
November 11, 2020
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岐阜県 白川郷合掌造り集落は、1995年に文化遺産として登録されました。合掌造りとよばれる切妻構造7のかやぶき屋根の家屋が特徴です。今回は 白川郷に行った時の写真ですが、富山県五箇山の集落もまた見ごたえがあるようです。写真は2018年11月に行った時のものです。まずは 出会い橋 を渡ります。白川郷の氏神様が祀られている 白川八幡神社毎年 10月には どぶろく祭りが開催されている。この「どぶろく」とは 古くから受け継がれてきた 独特の技法をもって雪に埋もれた1月下旬神社酒蔵にて造りこまれるそうです。この どぶろく は昔は自家用の酒を造って飲むという白濁酒でしたが明治32年に自家醸造酒の製造が禁止され、この白川八幡神社など 神社などの祭りごとに使用するもののみ、製造が許されているそうです。白川八幡のあとは 明善寺へこのお寺は 全国でも珍しい 茅葺寺院 本堂は総ヒノキ下の 茅葺きの鐘桜門は 戦後の 鋳金工芸作家の中村義一(高岡市)の作音調は黄鐘調であるといわれる。のどかな 田園風景・・いやされます・・中を公開してくれている 長瀬家銀杏の紅葉がきれいでしたテレビなどでよく見る風景です。白川郷集落からこの展望台までは かなりな坂道が続きます。景色を楽しみながら・・ゆっくり上りましょう。白川郷観光のメイン「荻町合掌造り集落」には、和田家、神田家、長瀬家、旧遠山家民俗館などがあり、内部を見学することができます。この合掌造りは 匂配の急な茅葺屋根が 手を合わせた形に似ていることから合掌造りと呼ばれるようになりました。白川郷は積雪が多く、雪質が重いためその 自然条件に適合するためにこのような造りになったそうです。夏は涼しく 冬は暖かく 養蚕業が村を支える産業だったことから屋根裏の大空間を使った蚕の飼育空間にこの合掌造りは最適だったようです。バスツアーで行ったため、ゆっくりと見て回るというより 大急ぎ・・・だったので次回は 白川郷内に 素敵な合掌造りの宿などもあったのでぜひ 泊まってみたいと思います。
March 9, 2020
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ル・コルビュジエが設計した国内唯一の建造物西洋美術館が 2016年世界文化遺産に登録されました。2016年に行ってきた写真になります・・・なんと無料開放の日でした。世界遺産に登録された理由としてはル・コルビュジエの建築作品-近代建築運動への顕著な貢献- ル・コルビュジエの作品は、人類の創造的才能を表す傑作であることル・コルビュジエは、新しい建築の概念を広め、20世紀における世界中の建築に大きな影響を与えたこと構成遺産としては 7か国に現存する17作品があるそうです。フランス 10、スイス 2、ドイツ 1、アルゼンチン 1、インド 1、日本 1以上のように世界各国にあるようです。ピロティー、スロープ、自然光を利用した照明などの特徴があります。また 完成形ではなく無限に成長する美術館をコンセプトに外側へ増築可能な建築様式がなんとも先見の目があったと感じます。この西洋美術館に収められている美術品は当時株式会社川崎造船所の社長であった故・松方幸次郎氏がヨーロッパ各地で集めた絵画、彫刻(松方コレクション)を基に、1959年(昭和34年)に設立された美術館。松方コレクションは戦後、サンフランシスコ平和条約によりフランス政府の所有に帰していたが、その後、日仏文化協定の調印(1953年)を経てフランス政府の好意によりその一部が日本に返還されることになった。返還に際しては、フランス政府からそれを受け入れるフランス美術館の創設が不可欠であるとの条件が提示され、ル・コルビュジエの設計で建設された。とHPには記載されていました。室内は撮影ができなかったので 外の美術品を紹介。ロダン カレーの市民有名な ロダンの考える人そして 地獄の門お祝いムード満点でした。ぜひ無料観覧日もあるので、行ってみてください。モネの睡蓮は 圧巻でした。
June 4, 2019
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久々の 世界遺産 今回は昨年8月に訪れた明治日本の産業革命遺産 のなかの 静岡県にある韮山反射炉について書きたいと思います。この明治日本の産業革命遺産とは 九州・山口を中心に進められた日本の近代化は、西洋の先進諸国からの積極的な技術の導入が大きく、鎖国状態にあった日本が、約50年という短期間で飛躍的な経済的発展に至ったという経緯があり産業遺産群は科学技術の集合体として 世界文化遺産として 2015年に登録された。岩手県から鹿児島にまたがり 8つのエリアから23遺産が登録される。萩:萩反射炉・美須ケ鼻造船所・大板山たたら製鉄遺跡・萩城下町・松下村塾鹿児島:旧集成館・寺山炭窯跡・関吉の疎水溝韮山:韮山反射炉釜石:橋野鉄鋼山佐賀:三重津海軍所跡長崎:小菅修船場跡・三菱長崎造船所含む4か所・高島炭鉱・端島炭鉱・旧グラバー住宅三池:三池炭鉱・三角西港八幡:官営八幡製鉄所・遠賀川水源地ポンプ室今回は 静岡県にある韮山反射炉に行ってきました。資料館に入るには入場料(大人500円)が必要ですが、もちろん外からでも撮影は可能です。そもそも 反射炉とは金属を溶かして大砲などを鋳造するための溶解炉。韮山反射炉は実際に稼働した反射炉として唯一現存するものです。幕末期の代官 江川英龍 が手掛け、息子の 英敏が完成させました。上の写真は 反射炉とよばれる炉の部分この炉に銑鉄を溶かすための千数百度の高温を実現するために炎や熱をドーム形の天井部分に反射させて熱を集中させることができたそうです。熱された鉄は 下の穴の部分より型の中に流れ近くを流れる川の水で冷やされ 大砲などに形作られました。解説者の方が本当にわかりやすく話してくださるので、ぜひ入場料を払って中に入ってほしいと思います。この立像が 江川英龍 だそうです。しかしながら、自然豊かですぐ上には茶畑が連なるこの土地で大砲を作るとは不思議な感じがします・・・なぜ、この土地でなくてはならなかったのか??この謎はぜひ韮山反射鏡のサイトで確認してください。下の写真はその茶畑下は 東京にあるお台場公園内の 大砲があった跡こちらに設置してあった大砲も 韮山反射炉で製造されたものだったそうです。しかしながら、このお台場にある大砲は、ペリーの再来時にかなりの抑止力となり 引き返して行ったとのことでした。今は若者のデートスポットとなっているお台場も 江戸時代には幕府を守る最後の砦となったということですね。その後 日本は開国しこのお台場の大砲は必要なくなり今も島のみが残っている状態だそうです。ぜひ、このほかの 明治日本の産業革命遺産 にも訪れてみたいものです。
May 19, 2019
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群馬県富岡市の富岡製糸場と絹産業遺産群が 2014年に世界遺産として認定されました。日本の 養蚕業・製糸業を官営模範工場として大きな影響を残しました。2016年の春に訪れました。フランス式とよばれるうつくしいレンガの積み方で建築されました。高品質な絹織物は 養蚕の技術からはじまる清らかな水があることが 何よりも上質な絹の生産に適していた。下は鉄水溜沢山の女工さんたちが、蚕から絹糸を紡いでいた。いまでも残る 女工さんの宿泊所糸をつむぐ実体験もできます。富岡市のマスコット おとみちゃんと記念撮影もできました。
October 29, 2018
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奥州藤原氏のゆかりの寺として 平安時代の美術、工芸、建築を集めた金色堂をはじめ平泉 仏国土(浄土)を表す建築、庭園及び考古学的遺跡群 が2011年 世界遺産に登録されました。今回は、2015年に訪れた写真です。この道の奥に 金色堂があります。(写真撮影は禁止)1124年 奥州藤原氏初代清衛公によって上棟。極楽浄土の有様を具体的に表現しようと作られたものです。中尊寺は標高130mほどの長い丘陵にあり 本堂や金色堂に行くにはこの月見坂を上っていく表参道として利用されてきました。樹齢300年をこえる老杉がなんともすばらしい趣を感じさせます。月見坂を登っていくと 弁慶堂がありました。御堂の中には「弁慶の立ち往生」 「その時義経少しも騒がず」 のことわざ通りの二人の姿があります。こちらが 中尊寺本堂金色堂がすっかり有名になってしまっていますが、本堂たしかにきらびやかさはありませんがなんとも風情のある作りです。靴を脱いで 本堂の中に入ることができます。阿弥陀如来像を近くでみることができます。この像は檜を彫刻し漆を塗り、表面に金箔を貼ったものだそうです。この本堂では、みなさん畳の上に座り、くつろいでいらっしゃいました。なんだか、厳格でありながらも、人々をなごませ安らぎをあたえる如来像にお寺の本当の意味みたいなものを感じました。こちらが駅前です。駅前にはわんこ蕎麦やさんなどがたくさんあります。こちらは 毛越寺12世紀中ごろには 堂塔40僧坊500を数え中尊寺をしのぐほどの規模だったそうですがその後の災禍により消失浄土庭園や遺構のみが残されています。芭蕉の像「五月雨の 降り残してや 光堂」なんとも ほんわかしてくる仏像です中尊寺にはめずらしい 目 の峯薬師堂があります。目のお守りをいただくことができます。この絵馬がなんとも人気だそうです。確かに め の文字がこれだけならぶと圧巻ですね。今回は 東北の世界遺産 平泉でした。もう少し北に行くと 青森県の白神山地があります。残念ながら 行くことが出来ませんでした。これからの季節紅葉がきれいでしょうね。
October 28, 2018
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世界遺産3編目は 広島 安芸の宮島 厳島神社です。2012年冬に訪れました。世界遺産に登録されたのは 1996年です。日本三景の一つと呼ばれている 安芸の宮島その島で 朱色に輝く神社が厳島神社です。平家の平清盛により、海上に立つ社殿が整えられ本殿、拝殿、回廊など六棟が国宝に 14棟が重要文化遺産として指定されている。中でも有名なのが 海に建つ 大鳥居潮が引いているときは 大鳥居に近づくことができます。美しい五重塔遠くに 大鳥居が見えます。災害により行くたびも被害にあってきた厳島神社ですが、このすばらしいうつくしさは これからもずっと続いてほしいと思います。
October 20, 2018
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世界遺産の2番目は 2012年に訪れた 広島 原爆ドームです。1996年12月 メキシコで開催された世界遺産委員会において 世界遺産に登録されました。訪れたときは、修復工事中でした。皆さんはこの原爆ドームと呼ばれている建物が、原爆投下前になんの建物だったか知っていますか?もとの建物は チェコ人のヤン・レツルの設計で大正4年に 広島県物産陳列館として施行されました。館内では 県内の物産の陳列や収集、他県からの参考品の陳列や調査、物産奨励の取引の場として多くの人々が訪れ 博物館や美術館の役割もされていたそうです。館の外には 和式庭園や洋式庭園もあったそうです。ネットで原爆ドームの昔の写真を検索すると、まるで中世のお城のような美しい建物が川面に映えすばらしい景観だったように見えました。しかし 昭和20年8月6日午前8時15分 人類史上初の原子爆弾が投下され広島市街地の建物のほとんどが倒壊し、この物産陳列館にいた人々は全員即死したそうです。ほぼ爆心地と呼べるこの建物が残った理由としては、真上からの爆風に対して屋根はつぶされてしまったが、厚く作られていた側面の壁はつぶれることなく建物が残ったそうです。このドーム状の屋根は鉄骨でできていたため残ることができたようです。戦後 この建物については 倒壊の危険もあり、被ばくの悲しい思い出につながるため取り壊すべきだという意見もたくさんあったようですが、この惨事を将来に語りついでいくためにも残すべきだとの考え方から今にいたるそうです。万全の保存方法により今でも 日本人ばかりでなく海外の方もおとずれる場所となりました。修復中ということで、残念だなあと思っていましたがこうしてきちんと修復をして 戦争の惨事を伝える大切な建物を残しておくことは大変感慨深いものがありました。毎年平和式典には世界各国からたくさんの方が訪れます。隣にある 広島平和記念資料館では 原爆の恐ろしさを伝える写真や物が展示されていました。一番印象に残ったのは、銀行の入口で開店を待つために座っていた方の影がそのまま石に写ったというものです。原爆の閃光により、周りの石段は白く、座っていた場所は黒く変色してしまったためにできたようです。ぜひ今の平和が続くことを願わずにはいられません。この平和記念公園の近くには 広島城がありました。毛利輝元が1592年に築いた平城です。ここでは お城の歴史は書きませんが、この広島城の展望台からの広島の景色はすばらしいものでした。戦争の原爆投下から 73年の月日が流れ 私たちの生活は豊かになり戦争の恐ろしさを伝える人も年々お亡くなりになり・・・今一度この平和をかみしめつつ・・・原爆の戦争の恐ろしさを子ども達に伝えなければならないと感じました。
October 12, 2018
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世界遺産という カテゴリーを作ったので今まで行ったことのある世界遺産を紹介しようかと思います。1番目は沖縄 2000年12月に世界文化遺産として琉球王国のグスクおよび関連遺産群 として登録。首里城跡、今帰仁城跡、座喜味城跡、中城城跡、勝連城跡の5つのグスク。斎場御獄、識名園、園比屋武御獄石門、玉陵の4つの遺跡。合計9つの文化遺産の認定となりました。首里城へは 2012年11月に行ってきました。独身時代から数えると4回目の沖縄ですが、首里城に来たのは初めてでした。やっと来れたのに あいにくの雨でした。赤というよりは 朱色という表現があてはまっていると感じました。琉球王国は1429年から1879年までの450年間存在した王制の国でした。その王国の政治・外交・文化の中心が首里城です。首里城以外にも沖縄には 城があったようですが建物として残されているのはこの首里城のみ あとは城跡として残っています。首里城城郭内に入る第一の正門 歓会門 重厚な石門です。招かれた人々を歓迎するといった意味の門だそうです。国王が座った玉座です。細かな豪華な色彩の彫刻です。日光東照宮などの日本の彫刻とはやはりちがいますね。龍も対になっています。あいにく 守礼門は改装中でした。完成したら このようになるとのこと・・・もちろん今は完成していますね。さてこの 守礼門は門といいながら・・扉はありません。それは琉歌としてカミシムヌトゥリー シキヌトゥンタタン ウサマトルミユヌ シルシサラミ「上下の鳥居 関の戸ん立たん 治まとる御世の しるしさらめ」意味としては、守礼門と中山門には人の出入りを拒む扉がない。これは世の中が平和に治まっているしるしである。世の中が平和だから人の出入りを拒む扉がないということらしいです。すばらしいことです。ぜひまた 沖縄に行く機会があれば首里城以外の世界遺産も行ってみたいです。
September 1, 2018
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