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番組構成師 [ izumatsu ] の部屋
「メディアの敗北」
制作:QAB琉球朝日放送 放送:2003年5月13日
昭和47(1972)年。日本史上に残る、数々の大きな出来事がありました。
浅間山荘事件、札幌オリンピック開催、日中国交正常化・・・・。
沖縄の本土復帰もこの年です。
返還直前、大きな疑惑が浮上します。
佐藤栄作政権とアメリカ政府が結んだ沖縄返還をめぐる「密約」。その存在を、ひとりの新聞記者があばいたのです。
国民をあざむく「密約」。
しかし、国民の関心は「密約」ではなく、別の方向へと集中。
新聞記者は社会的地位を追われます。
新聞をはじめとするメディアは、「密約」を追究することも、新聞記者を守ることもできませんでした。
なぜメディアは、ひとりの記者を救えなかったのでしょうか?
◆ストーリー概要
昭和47(1972)年4月5日、新聞がひとつの事件で埋め尽くされました。
1面トップの大見出し。
「戦後初、新聞記者、逮捕」
逮捕されたのは毎日新聞の西山太吉記者。西山記者は沖縄返還に関する日米政府の「密約」を追っていました。
疑惑を追及する新聞記者の逮捕です。メディアは揺れに揺れました。
事件の始まりは国会でした。
西山記者が逮捕される9日前の3月27日、社会党の横路孝弘議員はコピーを片手に政府を追及しました。
横路議員が手にしていたのは外務省極秘電信文のコピー。この電信文こそ、「密約」の存在を決定づける証拠だったのです。
前年の昭和46年に結ばれた沖縄返還協定の中に、次のような項目があります。
・基地などを使用した土地を元に戻す費用はアメリカ政府が自発的に払う。
しかし、電信文にはまったく違うことが記されていました。
「アメリカ政府が支払うべき400万ドルは日本側が肩代わりする。
大切なのは『アピアランス』。支払ったように『みせかける』こと」
国家が国民をあざむいていたのです。
この電信文は、毎日新聞の西山記者が外務省の知人から入手したものでした。
密約の証拠を握った社会党は、国会で佐藤栄作総理に退陣を迫ったのです。
翌3月28日、午後3時半過ぎ。衆議院議員会館の一室に政府と社会党、それぞれの代表が集まりました。
政府側からは、アメリカ局長を伴った福田赳夫外務大臣。
社会党からは、楢崎弥之助衆議院議員。
ふたりは互いの電信文を同時にポケットから出し、付き合わせました。
コピーは本物でした。福田外相は絶句し、「しょうがないな」ともらします。
絶句し、苦悶の表情を浮かべる福田外相。
しかし、この瞬間、問題の本質がすり替わりました。沖縄返還の陰に隠された「密約」から、国家機密が持ち出された「漏洩事件」へと。
政府は徹底的な犯人探しに乗り出しました。
4月4日。朝日新聞の朝刊1面をスクープが飾ります。
「沖縄密約電報持ち出しは外務省の女秘書」
極秘電信文のコピーを持ち出したのは、外務審議官の女性秘書だったのです。
他の新聞には1行も出ていません。朝日新聞だけの大特ダネでした。
記事は続きます。
「コピーは報道関係者に渡り、その後何らかのルートで
横路議員の手に入ったもよう」
ここに記された報道関係者。それが毎日新聞の西山太吉記者でした。
同じ日の午後1時。西山記者は任意で警視庁に出頭。そして、午後5時。警視庁は外務省の女性事務官、そして西山記者のふたりを国家公務員法違反の疑いで逮捕したのです。
西山記者が逮捕された時、神奈川県逗子にある毎日新聞社の寮では労働組合が執行委員会を開いていました。そこへ、一本の電話が入ります。西山記者が逮捕されたという知らせでした。
急遽本社へ戻った組合委員長は、首脳陣に速急な対応を求めるため役員室に飛び込みます。
同僚が逮捕された! 同じ釜のメシを食う仲間が!
編集局の若い記者たちも役員室へ詰めかけ、編集主幹や編集局長と押し問答が続きました。
同僚たちの権力への憤りは、翌日の紙面に結集します。
西山記者が逮捕された翌日、昭和47年4月5日、毎日新聞朝刊。
1面にの大見出し。
「西山本社記者を逮捕」
「沖縄密約の漏洩問題」
2面、3面には2ページにまたがって、
「民主主義保障する言論の自由に危機」
「真実を伝える戦い、機密の壁の中で」
他の新聞社の多くも足並みをそろえ、この日の紙面は『知る権利』という馴染みのない言葉であふれました。
『知る権利』。
民主主義の原点とも言えるこの権利と、新聞とは分かちがたい関係にある。それを強烈に印象づける事件が、前の年に起こっていました。
昭和46年6月。ある新聞記事がアメリカ政府を震撼させました。
ニューヨークタイムスとワシントンポストの両紙が相次いでベトナム戦争に関する秘密文書『ペンタゴンペーパー』を暴露したのです。
アメリカ司法省は国家機密の漏洩だとして記事の掲載継続を中止するように申し入れます。新聞側はそれを拒否。すると裁判所が掲載中止の命令を出したのです。裁判所による新聞の記事掲載中止は、アメリカの歴史上初めてのことでした。
国家と新聞の闘いが始まりました。
この時、新聞が拠り所としたのが『知る権利』だったのです。
裁判所の掲載中止命令に対し、『知る権利』を主張し一歩も引かない新聞。
国家とメディアが激しく火花を散らしたこの闘いは、最高裁判所までもつれます。そこで出された判決は「掲載継続認可」。
記者たちは民主主義の原点『知る権利』を守り抜いたのです。
国家機密を掲げ迫る権力に対抗し、『知る権利』を守りきった新聞。
密約をあばいた西山記者が逮捕されたその時、記者たちの脳裏には新聞が勝利したこの鮮烈な記憶がよみがったのです。
今度は我々の番だ!
その意気込みが毎日新聞の紙面にはあふれています。
4月5日、毎日新聞朝刊1面、編集局長の論文。
「国民の『知る権利』どうなる」
「本社記者の逮捕は日常の記者活動の延長と考えられる行為に対する
法の不当な適用と受け止めざるを得ない。
政治権力の容赦ない介入であり、言論の自由に対する挑戦と解する」
政府との対決姿勢を鮮明にする毎日新聞側。これに対し、佐藤栄作総理は敵意をあらわにしてこう言い放ちました。
「毎日新聞の編集局長は文章で、言論の自由に対する政府の挑戦だ、
と冒頭にはっきり言っている。そういうことで来るなら俺は闘うよ」
権力から『知る権利』を守ろうという動きは、市民の間にも広がりを見せました。「知る権利キャンペーン」を展開する毎日新聞社には、読者からの激励の電話や手紙が殺到。知る権利を守る会も結成されました。
昭和28年に本放送を開始し、事件当時はすでにひとつのメディアとして大きな力を発揮し始めていたテレビの世界でも『知る権利』への関心は高まり、『密約』と題されたドラマが制作され、大きな反響を呼びました。
実は、テレビはすでに国家権力の介入を経験していたのです。
そのひとつが昭和42年10月30日に放送された東京放送(TBS)のドキュメンタリー番組『ハノイ−田英夫の証言』です。
この番組は、ベトナム戦争下、アメリカ軍による爆撃が続く北ベトナムのハノイに田英夫キャスターが潜入し、現状をレポートしたものです。
放送直後、TBSの社長は田中角栄はじめ自民党幹部から激しい非難を浴びせられます。
「アメリカに批判的な番組をなぜ放送するのか!」
田キャスターは担当していたニュース番組からの降板を余儀なくされました。
同僚たちは喪章をつけて勤務しました。権力の介入に対する反攻の意志を示したのです。
こうした権力の介入は、佐藤政権のもとで頻発していました。佐藤総理は西山記者逮捕の直後、国会でこう発言しています。
「国家の機密はあるのであり、機密保護法制定はぜひ必要だ。
これはかねての私の持論だ」
戦前の国家機密保護法は、国家機密をあばいた人間を徹底的に処罰しています。佐藤総理は西山記者逮捕をきっかけにその復活を目論んでいました。
新聞、そしてテレビ・・・・、メディアに浸透していったように見えた「知る権利キャンペーン」。でも、決して一枚岩ではありませんでした。報道の現場にいる仲間たちの胸にくすぶり続けるものがあったのです。
そのひとつは、情報源だった外務省女性事務官が逮捕されたという現実。情報源を守る。それは記者にとって最低限守るべき義務なのです。
そして、もうひとつ、大きな疑問がありました。なぜ西山記者は新聞紙面で特ダネとしなかったのかという疑問です。
国民をあざむく「密約」が存在する証拠をつかんだのです。社をあげて堂々とやるべきじゃなかったのか?
それが記者仲間共通の思いだったのです。
実は、西山記者は記事にしています。
事件の前年、昭和46年6月18日。西山記者は入手した電信文の内容を元に、解説記事を署名入りで書きました。
しかし、それは「密約」の内容を明白にあばく内容ではありませんでした。
佐藤総理はそこを突きます。
「書かないならやめておけばいい。それがどうして社会党へ行くのか」
昭和47年4月15日。西山記者と女性事務官に対する起訴状が各新聞の夕刊に掲載されました。それは誰もが驚くような内容でした。
西山は女性事務官と密かに情を通じ、これを利用して女性事務官をして
審議官に回付される外交関係秘密文書ないしその写しを持ち出させて
記事の取材をしようと企て・・・・・・
昭和四六年五月二二日ごろ、ホテルに誘って情を通じたあげく、
「取材に困っている。助けると思って書類を見せてくれ」などと
執拗に申し迫ったうえ・・・・
「情を通じ」という言葉が二度も登場する前代未聞の起訴状。この衝撃は「知る権利キャンペーン」を押し進めようとする新聞側にとってはかりしれないものでした。
当時の毎日新聞労組のひとりは、こう述懐します。
「新聞の知る権利キャンペーンをつぶしていくためにはこの手しかないし、
この手は相当使えるぞと、いう事を十分にわきまえた上で起訴状の中に
入れなければいけないフレーズ、言葉としてね」
「情を通じ」。
この言葉に人々の関心は引きつけられました。焦点はもう「密約」ではありません。
「男と女のスキャンダル」、それだけでした。
『知る権利』の陰に男と女。
週刊誌、特に女性誌が一斉に飛びつき、女性事務官は時の人となりました。
当時、ある週刊誌の編集に携わった人たちはこう証言します。
「(読者は)知る権利、うんぬんというよりもあの夫婦、あの女性、
どういう人で何を考えていて、だんなさんとの関係はどうなっているのか。
そういうことに非常に興味がある、と私は思ったんですよ」
「編集長の要求は『私はなぜ情を通じたか』と、これでいきたいんだと。
扇情的にいきたいんだと、この事務官の取材する過程での編集部の要求は
下世話に尽きるんですよ」
この週刊誌はこの年、発行部数100万部を突破しています。
読者は『知る権利』という難しい概念よりも、人間同士のドロドロとしたプライバシーを好んだのです。
起訴状の内容に人々の興味を見いだした週刊誌。しかし、週刊誌以上に敏感だったのは、実は毎日新聞社でした。
4月15日の夕刊一面。起訴状と同じ紙面に掲載された『本社見解とおわび』。
「このたびの本社西山記者の取材に当たっては、
道義的に遺憾な点があったことは認めざるを得ません。
われわれは西山記者の私行についておわびするとともに・・・・・・」
毎日新聞社は、西山記者の行動を私行、個人のものとしながら、会社として謝罪しています。起訴状の内容が事実かどうかにかかわらず、西山記者の私的な行動を社会的なモラルの点から一方的にわびているのです。
『本社見解とおわび』はさらに混乱して行きます。
「結果的にニュースソースを明らかにした点は、
新聞記者のモラルから逸脱したものといわざるをえません。
このことは西山記者の個人的行為であったとはいえ、
毎日新聞社は、(女性事務官に)多大なご迷惑をおかけしたことを
深くおわびし・・・・・・」
ここでは、取材源を守れなかったこと、第三者である社会党に電信文のコピーが渡ったことを「西山記者の個人的な行為」だと突き放しています。
同じ紙面には西山記者弁護団の「起訴状は法とモラルを混同している」という主張が掲載されています。
混同しているのは、『見解とおわび』で示された毎日新聞社の姿勢も同じだったのです。
実は、毎日新聞社の編集首脳部と現場記者との間には大きな亀裂が生じていました。それは西山記者と女性事務官が逮捕された4月4日当日からでした。
編集局長名で政府との対決姿勢を鮮明にした「国民の『知る権利』どうなる」。
4月5日の朝刊に掲載されたこの文章の内容は、4日の夜に大きく変わっていたのです。当初、原稿は次のような文章で締めくくられていました。
「西山記者事件は、本社にとって貴重なというにはあまりにも痛切な
訓を残した。しかし、毎日新聞は政治権力を含むあらゆる外部勢力の
圧迫に対し、敢然として戦い続けるであろう」
これが最終的にはこう変わっていたのです。
「新聞記者が入手した情報が、報道というルートを離れた事実が
あるとすれば、記者のモラルに反するものと言わざるをえない」
「闘い続ける」と言い切った会社の強い姿勢。それがわずか数時間後には「記者のモラルに反する」とその矛先は記者へと向かっています。
どういうことなんだ!
現場記者の怒りと憤りを背に、労働組合委員長は役員室へどなり込みました。
しかし、そこで知ったのは、西山記者が、女性事務官を通じて電信文のコピーを入手したことを取り調べで話したという事実でした。
取材源の女性事務官を守れなかった、守るどころか、逮捕という現実。
後悔の念が強かった西山記者は、逮捕されたその日にすべてを自白していたのです。
「(首脳陣は)戦意喪失しちゃってるわけですよ。
そう見えましたね。わたしには。
わたしも正直言ってね、愕然としましたね」
なにがあっても記者を守る。
「知る権利キャンペーン」は、その強い信念からスタートしたものではなかったのです。
起訴状が出てからというもの、毎日新聞社には読者からの抗議が殺到しました。
「女の情けを逆手にとって強奪した特ダネが
果たして『知る権利』といえるのでしょうか」
「私はもう何も知りたくはありません」
特に女性読者からの抗議は厳しいものでした。
当時、毎日新聞社は経営不振に陥っていました。そこに殺到する読者からの抗議。
一企業として、もう耐えることはできませんでした。
起訴状と同じ紙面に掲載された『見解とおわび』。これは事実上の敗北宣言でした。
起訴状が出た翌日の昭和47年4月16__B川端康成が自殺します。
人々の興味がノーベル文学賞を受賞した大作家へと移る、その隙をぬうかのように「知る権利キャンペーン」は紙面から姿を消します。
沖縄返還の陰に隠された「密約」は、「男女のスキャンダル」へすり替えられたまま、もう顧みられることはありませんでした。
起訴状からちょうど一ヶ月後の5月15日。密約も、事件も、何事も起こらなかったかのように、沖縄は日本に復帰しました。
「沖縄は本日、祖国に復帰いたしました」
式典会場には佐藤総理の誇らしげな言葉とバンザイの声が響きました。
「知る権利キャンペーン」以降、「密約」は葬り去られたまま。しかし、メディアにスキを突かれそうになった権力側の動きは着実です。
西山記者と女性事務官が逮捕されたあと、佐藤栄作総理が国会答弁で口にした「国家機密保護法」。それは今、有事法案や個人情報保護案に姿を変えて現実化が図られています。
一方、メディアはこの31年間、権力側の動きを見つめ続けてきたでしょうか?
メディアは人々が求めるものをひたすら提供してきました。
知らせなければならない大切なことをなおざりにしても、読者が、視聴者が、興味を持つこと、喜ぶことを追い続けてきました。
その姿勢は31年間、大半の読者に、視聴者に、受け入れられてきています。
個人のプライバシーにメディアが殺到し、たとえそれが非難されることがあったとしても、人々の好奇心が満たされれば、それはそれでいいのです。
平成12年5月29日。沖縄返還の陰に隠された「密約」、西山記者がかつて暴露したあの「密約」が再び新聞紙面に姿を現しました。
当時の外務省アメリカ局長のサインが入った文書がアメリカ政府の公文書から発見されたのです。
しかし・・・・・・、
「密約は存在しない」
政府の見解は当時となにも変わりません。
2年後、またもアメリカ政府の公文書が公開されました。その公文書には次のようにはっきりと記されています。
「『毎日新聞』が暴露した日米間の密約の存在を追求されれば
認めざるをえない」
西山記者があばいた「密約」、それはまぎれもない事実だとするアメリカ政府の公文書。
しかし、福田康夫官房長官は記者団の前で明言しました。
「現状回復の費用を日本側が負担するという密約は一切、ない、
こういうことを申し上げている所でございます。ないんです、密約は」
公文書という確実な証拠。それが次々と発見されたにもかかわらず、「密約」を追究しようとするメディアはありませんでした。
「悪夢でしょうね。よもや新聞記者が取材での上のことで逮捕される。
結果として跳ね返せなかったという。
はねかえさなかったし、そのまま30年間結局、
そのまんまに放置されて忘れられてきているという悪夢」
12日間の短い「知る権利キャンペーン」を闘った、元新聞記者の思いです。
平成14年12月21日。
事件から31年。様々な思いと記憶をいだいて、西山さんは毎日新聞社へと足を踏み入れました。この日、西山さんは毎日新聞社労働組合主催の「個人情報を考えるシンポジウム」にパネリストとして出席したのです。
「人権を守らなきゃいけないけれど、当然だけれども
人権を意識するあまり報道する価値を全部捨ててしまうという事に
私は異論がある」
31年目にして西山さんが口を開きます。
「密約」の証拠を見せ付けられてもあの時同様、ウソを突き通す政府。そして、そのウソを追求しないメディア。その苛立ちが、沈黙を破る決心をさせたのでした。
シンポジウムの参加者の中にはかつての同僚達の姿もありました。
押さえられない感情が西山さんの胸を突き上げます。
「たまらないよ。まぁ、それをあんまり聞きなさんな」
力の存在を見せ付けた権力。
個人のプライバシーばかりに興味をあらわにした大衆。
そのふたつの大きな力に、葬られたひとりの記者。
40歳だった彼は、71歳になった今、自らの口で伝えるべきことを伝えようと動き始めたのです。
[プライバシー保護と長文になることを考え、インタビューの大半は割愛しました]
◆制作の思い出
『外務省機密漏洩事件』というのがこの事件の一般的な呼び名ですが、ぼくはその内容をほとんど知りませんでした。
まず、どんな事件だったのか、どのような出来事がどういう流れで起こったのかを知らなければ話になりません。
毎日のように図書館に通い、当時の新聞記事をチェックし、資料図書をあさりました。コピーした資料は3000ページくらいになるでしょうか。これはぼくが今まで携わった番組でも1、2位を争う多さです。
おかげでそれまで知識ゼロだった『知る権利』や『ペンタゴンペーパー』などについても勉強することができました。
視聴者も番組を見てこの事件を知る人が多いだろう。そう思い、できる限り分かりやすくすることを心がけました。
もっとふくらませたいという部分もあったのですが、編集の最終段階になって正味時間が3分削られ、落とさざるを得ませんでした。これが心残りです。
ディレクターのTさんは、インタビューをとるために当時を知る人にアタック。しかし、この事件がトラウマとなっている人が多いのか、「話はしてもいいけ ど、カメラ取材は拒否」の連続。結局60人前後にアプローチをし、ようやく番組を作ることができる量のインタビューが集まりました。
『ペンタゴンペーパー』事件の時に闘った記者たちの取材の時も、3泊5日程度で沖縄とアメリカを往復。Tさんの根性と粘りには、ほとほと感心しました(上記ストーリー概略ではアメリカでのインタビュー等は省略しています)。
Tさんの仕事は取材だけにとどまりません。当時の映像を探し、その使用許可をとったり、お金の交渉をしたり、新聞記事のことで新聞社とかけあったり。連 日、帰宅は深夜か早朝。「もう、ダメ〜」と編集室で眠りこけていたことを覚えています。食事も体が受け付けず、ほとんどダウン寸前でした。
編集が佳境に入っても、Tさんは資料映像や記事関係の権利をクリアするために奔走。編集に専念することは不可能で、ぼくが替わりに立ち会いました。
でも、これがローカル局の実態。少ないスタッフで、最善を尽くす。それしかないのです。
この少ない人数でよくここまでやれた、というのが正直な感想です。
この番組をめぐってはいろんなご意見・ご批評をいただきました。それに対するぼくの考えは他のところに書きますが、この番組第一のテーマは、冒頭に書いている如く「なぜ、メディアはひとりの記者を守れなかったのか?」ということです。
なぜ、メディアは、密約の存在を明らかにした記者を逮捕するという国家権力に屈したか、ということを知りたい、知らせたいと思いました。ですから、番組のスポットは逮捕された新聞記者ではなく、メディアの動きにあてています。
集めた資料を読み、インタビューを聞き、構成し、編集しつつ分かったのは、「人々の興味は、おもしろいものへとすぐなびく」ということ、「おもしろいこと の前には、知らねばならないこともかすんでしまう」ということ、そして、ぼくら国民のそうした性質を国家権力が実にうまく利用しているということです。
この事件は「情に通じ」のひと言で流れが一変しました。「情を通じ」という言葉が想起させる隠微な「男と女の関係」。それだけにぼくら国民の関心は集中しました。
国家権力の用意したシナリオに通りに動いたぼくら国民。まさに"思うつぼ"にはまってしまったのです。
この事実は、ぼくにあれこれいろんなことを考えさせてくれました。
今の政治が弱者を救うものではないのはなぜなのか?
今の政治が戦争への道へと踏み出そうとしているのはなぜなのか?
テレビが「つまらない」と言われながら一向に変わる気配がないのはなぜなのか?
・・・・・・・・etc.・・・・etc.・・・・
それは、ぼくたち国民ひとりひとりの責任なのだ。今、そう感じています。
(2003年10月記)
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