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「質問に答えて。どうしてあんなことをしたの?」「あなたが憎いからに決まっているじゃない!」真理亜はそう言って傍にあった花瓶を掴むと、中の水を千尋にぶちまけた。「母があの成り上がり者と結婚して、わたしのプライドはずたずたに切り裂かれたわ! 母はもっといい人と結婚してくれれば良かったものを、どうしてあんな下劣な男と!」「あなたのお母様の結婚と、わたくしは全く関係ないでしょう?」「関係あるわ! あなたはわたしが大嫌いな成り上がり者と結婚したのよ! どうしてお母様も、お姉様も成り上がり者と結婚するの? 華族様と結婚なさればよかったのに!」真理亜がここまで自分に憎しみをぶつける原因は、ひとえに母と姉が成り上がり者と結婚したことが気に入らない事からきていた。 母・綾子は没落してしまったとはいえ、父親が放蕩の限りを尽くさなかったら今でも由緒正しい華族様だった。それなのに、一代で財をなして本来華族しか入れぬ社交場に堂々と我が物顔で入って来る成り上がり者達が真理亜は憎くて憎くて、堪らなかった。そんな自分の気持ちを知っていながらも、母はあの男と離婚しないどころか、忌まわしい血を継ぐ子を産んだ。そして彼らは、皇族や華族しか入学を許されていなかった学習院に「特例」で入学した。「どうして成り上がり者が、わたし達華族の誇りを傷つけるの? 大きな顔をして、わたし達の前に現れないでよ!」真理亜はそう言うと、部屋から飛び出していった。「真理亜・・」今は彼女をそっとしておいた方がいい―千尋はそう思い、濡れたドレスをハンカチで拭った。「すいません、遅くなりました。」「どうした、ドレスが濡れてるぞ?」「ええ、お手洗いに行く時に手元が狂って濡れてしまって・・」「そうか。これなら大丈夫だな。」土方がそう言って千尋に微笑んだ時、鋭い視線を感じて振り向くと、そこには真理亜が憎しみに満ちた目で自分を睨みつけていた。 今回の事は彼女の仕業だと彼は睨んでいた。「何かしたの?」「理哉、いつからそこに・・」「さっき。話しかけようと思ったんだけど、おっかない顔してたから話しかけられなかったんだよね。」理哉はそう言うと、土方と千尋に微笑んだ。「千尋ちゃん、土方さんとは上手くいってる?」「ええ、何とか・・」「赤ちゃんが出来たら、真っ先に僕に報告してよね。」「てめぇ、ふざけた事を抜かすな。」土方はそう言うと、理哉を小突いた。「んもう、冗談だよ。」 土方と千尋が結婚して数ヶ月が経ち、彼女はいつものように斎藤が用意した朝食を食べようとした時、炊き立てのご飯の匂いを嗅いで突然激しい吐き気に襲われ、慌てて口元を覆ってトイレへと駆け込んだ。「おい、どうした?」「すいません、あの・・」「もしかして妊娠したのか?」「ええ。」千尋は土方の子を妊娠し、周囲は喜びに沸いた。 1899(明治32)年10月20日、彼女は元気な男児を出産した。「ぼく、おにいちゃんになるの?」総司はそう言うと、清潔なリネンシーツに包まれた赤ん坊を見た。「そうですよ、総司様。仲良くしてくださいね。」「うん!」総司は幼い指先で赤ん坊の頬を突くと、赤ん坊は身を捩って泣いた。(可愛いなぁ・・)こうして土方家に、新しい家族が増えた。にほんブログ村
2011年11月28日
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「ハーブティーです、奥様。」「ありがとう・・」 切り裂かれたドレスを送りつけられた千尋は、斎藤からミントティーを受け取り、それを一口飲むと気分が落ち着いた。「今夜のパーティーはいかがいたしましょう? ドレスなしでは・・」「そうね、困ったわね。」千尋が溜息を吐くと、居間に土方が入って来た。「どうした?」「旦那様、こんなものが先ほど贈られてきまして。」斎藤はそう言うと、土方にドレスの残骸を見せた。「こりゃ酷ぇな。千尋、替えのドレスはあるか?」「ええ。ですが流行遅れのものばかりで。」「俺に任せろ。」土方はそう言うと、斎藤に仕立屋を呼ぶように頼んだ。 横浜の英国領事館で行われたパーティーには、綾子とその夫・善信も出席していた。『領事夫人、お久しぶりですね。』『まぁヨシ、お会い出来て嬉しいわ。あなたもね、アヤコ。』『ええ。』綾子はそう言って領事夫人に愛想笑いを浮かべた。『これはこれは奥様、御機嫌よう。』『まぁサマーズさん、お久しぶりね。そちらにいらっしゃるお嬢様はどなた?』領事夫人はサマーズから彼の隣に立っている少女へと視線を移した。『初めまして、奥様。マリアと申します。』『まぁ、可愛らしいこと。』領事夫人はそう言って笑うと、真理亜に微笑んだ。『あら、今夜はあなたのお姉様もご招待したのだけれど、いらっしゃらないようね?』彼女が辺りを見渡した時、突然大広間に居た客達が一斉にどよめいた。『あら、何かしら?』彼らが視線の先を見ると、一組の男女が大広間へと入ってくるところだった。 土方は、隣に立っている千尋をエスコートして英国領事館の大広間へと入っていった。彼女が纏っているのは、胸元を大きく開いた直線的なデザインの古代青のドレスで、三連のダイヤモンドのネックレスがシャンデリアの光を受けて美しく輝いていた。『遅くなって申し訳ありません、領事夫人。』『まぁ、そちらにおられる方はどなた?』『紹介いたします、わたしの妻です。』『初めまして。チヒロと申します。』千尋はそう言って優雅に領事夫人に挨拶すると、彼女は目を細めた。どうやら彼女に千尋は気に入られたようだ。(どうして・・)真理亜は驚きで目を見開き、領事夫人と談笑する千尋を見ていた。その視線に気づいたのか、ゆっくりと彼女が真理亜を見た。『少し失礼致しますわ。』千尋はそう言うと、ゆっくりと真理亜の方へと向かった。「真理亜、今朝は素敵なドレスを贈ってくださってありがとう。」「何のことかしら?」「とぼけないで。院長先生からの贈り物を切り裂いたのはあなたでしょう? 少し静かな所で話しましょうか?」千尋は真理亜の腕を掴むと、大広間から出て行った。「それで? どうしてわたしがあなたにあんな贈り物を贈ったのかわかったの?」「理哉さんから聞いたのよ。あなたがわたくしの事を憎んでいるって。」「ふん・・」真理亜は部屋に入るなり、苛立ちを紛らわすかのように爪を噛んだ。写真素材 ミントBlueにほんブログ村
2011年11月27日
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横浜の外国人居留地にあるカトリック教会で式を挙げた土方と千尋は、赤坂の料亭で披露宴を行い、千尋は純白のウェディングドレスから白無垢へと着替えた。「まぁ、よぉ似合っとるねぇ。やっぱりうちの見立てが良かったんやねぇ。」「ありがとうございます、お母様。」「じゃぁうちが高砂ば歌おうかね。」なおはそう言うと、腹の底から声を出して、「高砂」を歌い始めた。「旦那様、わたくしそんなにおかしいですか?」「いや・・」隣に居る千尋の余りの美しさに、土方は一言も発せないでいた。「綺麗だぜ、千尋。」「もう、旦那様ったら。」「ふぅん、二人とも見せつけてくれるよねぇ。もしかしたら既に千尋さんのお腹には赤ちゃんが居るのかも。」「まぁ、嬉しかぁ。こんなに早く孫の顔ば見られるやなんて。」「お義母さん、まだですよ。暫く我慢してくださいね。」「だ、旦那様!」かぁっと羞恥で顔を赤くする千尋を、土方は抱き締めた。「改めて、結婚おめでとうございます、土方さん。」「てめぇから改めてそう言われると、何か企んでるんじゃねぇかと思うんだが・・」土方はそう言って溜息を吐くと、理哉は整髪料で撫でつけた髪を乱暴に梳き、アスコットタイを解いた。「あのさぁ、あの子には気をつけた方がいいよ。真理亜って子。」「真理亜って、千尋の妹だろ? 結婚式に居たが・・何を気をつけろってんだ?」「あの子、千尋ちゃんを嫌ってるみたい。彼女ね、成り上がり者が大嫌いなのさ。母親の結婚相手が成り上がり者だから、大嫌いな部類の男と結婚した姉も嫌いって訳。」「そうか。わざわざ警告ありがとうよ。俺が小娘ごときに負けるタマだと思うのか?」「別に、思ってないよ。でもあの子、土方さんが思っている小娘とは違うかもよ?」理哉はそう言うと、土方の肩を叩いた。「後で初夜の報告、聞かせてよね。」「うるせぇ。」土方は、新婚夫婦の寝室へと向かった。「旦那様・・」「千尋、愛してるぜ。」「わたくしもです。」土方の白い指が千尋の頬を這い、その指先は彼女の夜着の合わせへと入っていった。「あん・・」「もう二度と、離さねぇ。」こうして正式に夫婦となった土方と千尋だが、真理亜の暗い影が徐々に忍び寄っていることを、彼らは知らなかった。『マリア、本当に夕食はいらないのかい?』『ええ。気分が悪くて。』『そうかい・・じゃぁゆっくり休むんだよ。』サマーズが部屋の前から去った気配がして、真理亜はほっと安堵の息を吐いた。 床には、元はドレスだった布が散らばっていた。それはサマーズが千尋の結婚祝いにと贈ろうとしていたドレスだった。「どうして、あいつだけが・・」真理亜は千尋への憎しみを滾らせながら、鋏でドレスの布を切り裂いた。「奥様、こんなものが横浜から・・」「まぁ、酷い!」包装紙を包んだ箱を開けると、そこには空色の襤褸布―ドレスの残骸が入っていた。(一体誰がこんな事を・・)千尋は顔を蒼褪めると、力なく床に崩れ落ちた。「奥様、しっかりなさってください!」「斎藤さん、お茶を・・」「かしこまりました。」執事長の足音が遠ざかると、千尋は溜息を吐いた。karinko*にほんブログ村
2011年11月27日
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「やっぱり聖夜に祝言挙げるんやから、洋装かねぇ? でも白無垢は捨てがたいねぇ。」結婚式まで五日を切り、衣装合わせの時になおはそう言いながら千尋の前に何度も白無垢を翳した。「披露宴には白無垢と打ち掛けを着たらいいでしょう?」「そうかねぇ、そうしよかねぇ。」こうして千尋となおは慌ただしく結婚式への準備に追われていた。土方も、招待客名簿を作り、斎藤と招待状を送るのに忙しかった。「旦那様、斉川様はどうなさいますか?」「呼ばなくていい。」「ですが、貴族院議員の斉川様を敵に回せば、厄介な事に・・」「悪辣な噂をばら撒く娘の躾けも碌にできねぇ議員様なんざ、お呼びじゃねぇんだよ。」土方がそう吐き捨てる口調で言うと、斎藤は静かに頷いた。「今日は疲れたやろ?」「いいえ。二度目ですのに、何故かドレスを選ぶのに時間がかかってしまいました。」千尋となおはカフェーで珈琲を飲みながら、結婚式の話で盛り上がっていた。「千尋、あんたは孤児院で育てられたって聞いとったけど、本当のおかあしゃんは生きとうとね?」「さぁ・・でももう、諦めました。」昔は、いつか必ず母が自分を迎えに来てくれると信じていた千尋だったが、成長するにつれ、彼女は自分を捨てたのだと思うようになった。 今更会いたいと思っていても、母は別の男と家庭を持っているだろう。だからもう、母への想いを封じることに決めたのだ。「そうね。あんたがそう決めたんならよかよ。」なおは思うところがあったのか、千尋の言葉には異を唱えなかった。 瞬く間に五日が過ぎ、結婚式当日を迎えた。土方と千尋は、横浜にあるカトリック教会で式を挙げた。「千尋ちゃん、おめでとう。」「おめでとう、チヒロ。」結婚式には理哉やアンドリュー、近藤達が参列し、新郎新婦を祝福した。「ありがとうございます、皆さん。」「やっぱり娘の花嫁姿ば見ると、いつ死んでもよかねぇ。」「まぁお母様、そんな事おっしゃらないでください。」千尋がそう言って笑った時、また一人、参列者が加わった。『チヒロ、久しぶりだね。』「サマーズ・・先生?」礼服を纏った男は、死んだと思っていたサマーズ院長だった。『結婚おめでとう、チヒロ。彼と幸せになりなさい。』「ありがとうございます、先生。」千尋は感極まって号泣してしまい、慌てて目元をハンカチで押さえた。サマーズ院長の隣へと視線を移すと、そこには真紅の振袖を纏った少女が立っていた。「先生、そちらの方は?」『紹介するよ、チヒロ。君の異父妹(いもうと)の、マリアさんだ。』「初めまして、お姉様。」少女はそう言って優雅なしぐさで千尋に挨拶をした。自分をじっと見つめる彼女の瞳は、強い決意が宿っていた。「真理亜ちゃん、君も来たんだ。」「ええ。だって実の姉の結婚式ですもの。妹であるわたくしが欠席しないわけにはいきませんわ。」「そう。でも君には別の目的がありそうな気がするけどねぇ?」「おっしゃっておられる意味がわかりませんわ。」そう言って上品に笑う真理亜だったが、彼女の目は全く笑っていなかった。(何だか嫌な予感がするなぁ・・)初めて真理亜と会った時から、理哉は彼女が実の姉である千尋を憎んでいるように感じた。土方に今すぐにでも警告しようかと思ったが、祝いの晴れやかな場には相応しくないと思い、理哉はやめた。素材提供:空に咲く花様+にほんブログ村
2011年11月27日
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「お義母さん、折角東京に来たのですから、観光でも・・」「いいえ。観光よりも娘の祝言の準備をするのが母親としてのうちの役目ですけん、どうぞ気にせんと。」なおの言葉に、土方は笑った。「そうですか。朝早くからこんなお話しはしたくないのですが、ここにお義母さんの署名と捺印をいただけませんでしょうか?」土方はそう言うと、なおの前に婚姻届を差し出した。「よかよ。印鑑が持っとるけん、誰か硯と筆ば持って来んね。」「どうぞ。」数分後、なおは婚姻届の証人欄に署名と捺印をした。「これで役所に出せます。ありがとうございます、お義母さん。」「礼を言われるほどのことはしとらんよ。幸せになり。」 その日、土方と千尋は役所に婚姻届を提出し、二人は晴れて夫婦となった。「やっとお前ぇが正式に俺の妻になったんだな。」「ええ。」二人が仲良く役所から出て行った時、馬車が役所の前で停まり、中から洋装姿の小枝子が降りてきた。「土方様、お久しぶりですわね。」「おや小枝子様、奇遇ですね。」「あら、その方は長崎の芸者さん?」小枝子が嫉妬を隠さずに、千尋を見つめると、土方は彼女の肩を抱き寄せた。「紹介が遅れました、小枝子様。わたしの妻の、千尋です。」「初めまして、土方千尋です。」千尋がそう言って小枝子に頭を下げると、彼女は唇を震わせながら彼女を睨みつけていた。「行きましょうか、旦那様。」「ああ。」(悔しい・・どうしてあんな芸者に・・)車に乗り込んだ土方と千尋の背中を、小枝子は怒りに震えながら見送った。 ―ねぇ、聞きまして? ―あの金髪の雌狐が戻って来たのですって。 ―恥知らずもいいところだわ・・ ―本当よね。 小枝子が広めた噂話は、瞬く間に華族の令嬢と貴婦人達の間で広まり、千尋への悪意は静かに社交界へと広がっていった。「本当に、出席しても宜しいのでしょうか?」斉川子爵家のディナーパーティーに招待された千尋は、夫にそう言うと、彼は彼女ににっこりと笑った。「お前は俺の妻だ。堂々としていろ。」「はい・・」馬車から降りた千尋は、胸元が大きく開いた葡萄色のドレスの裾を摘んで、土方と共に斉川子爵邸の中へと入って行った。―来たわ・・―ごらんなさい、あのドレス。胸元を大きく開いてはしたない。―下品さは変わっていないのね。くすくすと令嬢達が悪意ある囁きを交わし、それがさざ波のように大広間に広がった。千尋は恐怖で身を固くし、逃げ出したくなったが、土方がそんな彼女の手を優しく握った。「ここは俺に任せろ。」「はい・・」土方は千尋から離れると、友人達と談笑している小枝子へと近づいた。「小枝子様、愛らしいお顔にも関わらずあなたは悪辣な事をなさいますね。」「まぁ土方様、何をおっしゃっておりますの?」「そんなにわたしに袖にされた事が腹立たしいのですか?」「そ、そんな・・」小枝子の顔が怒りと羞恥で赤く染まったのを見た土方は、冷たく彼女にこう言い放った。「あなたのような方に、子ども達の母親は務まりません。」土方に冷たく拒絶され、小枝子は声すら出せないままその場に座り込んでしまった。にほんブログ村
2011年11月27日
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「旦那様、遅いですね。」「斉川子爵家の小枝子様と百貨店へ行ったと伺ったけれど、向こうで何かあったのかしらね?」 仕事の手を止め、鷹田と総司と椿の乳母・由美はそう言いながら厨房からくすめたクッキーを食べていた。「二人とも、何をしている!」 鞭のような鋭い声がして二人が顔を上げると、そこには憤怒の形相を浮かべた執事長が立っていた。「あ、あの・・これは・・」「全く二人とも、暇があればさぼろうとする! 今度このような事があったらわたしが暇を出すぞ!」斎藤がそう彼らに怒鳴ると、彼らは慌てて自分達の持ち場へと戻った。「使用人の態度次第で土方家の評判が落ちるとは微塵も思っていないようだな、あいつらは・・」斎藤は深い溜息を吐いて居間から出て行こうとした時、外で車が停まる音がして、慌てて彼は外へと飛び出した。「お帰りなさいませ、旦那様。」車から降りて来た土方に向かって斎藤が礼をすると、彼は誰かの手をひいていた。それは、千尋だった。「お帰りなさいませ、奥様。」何かを考える前に、斎藤はそう口に出して千尋に土方と同じように礼をしていた。「ただいま、斎藤さん。」千尋はそう言うと、斎藤に微笑んだ。「お帰りなさいませ、旦那様。」「お帰りなさいませ、旦那様。」鷹田と由美が土方を出迎えると、彼は金髪を結いあげた振袖姿の少女を連れながら家の中へと入って来た。「あの、こちらは・・」「これは俺の妻、千尋だ。千尋、執事見習いの鷹田と、乳母の由美だ。」「初めまして。」千尋が二人に挨拶をすると、彼らは一瞬怪訝そうな顔をしたが、斎藤が一睨みをすると慌てて千尋に頭を下げた。「あん子達は、こん家の使用人ね?」夕食を取りながら、なおはそう土方に尋ねると、彼は苦笑した。「余り躾が出来ていない者達ですいません。主の留守をいいことに、仕事をサボろうとしているので、困っているところなのですよ。一度、お義母さんの所で徹底的に躾けてくださるとよろしいのですが。」「生憎うちは人手が足りとるけん、あんたが躾けないかんね。それよりも祝言の日取りはどうすると?」「新年を前に挙げたいのですが。そちらのご都合が良ければ・・」「じゃぁ、聖夜(クリスマス)ぐらいでいいかね?」「はい、そのように。」土方と千尋は、二週間後に祝言を挙げることになった。「一度結婚式は挙げたが、あれはちゃんとした婚姻届を出してなくてうやむやになっちまったが、今回はそうはさせねぇよ。」「本当に、わたくしでいいのですか?」土方の寝室で、千尋がそう尋ねると、彼は千尋を抱き締めた。「何言ってやがる、馬鹿野郎。総美(さとみ)はお前を俺の後妻に指名したんだぜ。」「そうでしたね・・」その夜、半年ぶりに土方と千尋は激しく愛し合った。翌朝、千尋の養母・なおがダイニングに現れると、そこには鷹田と椿を抱いた由美の姿があった。「あの・・なおさんは一体千尋さんとどういう・・」「うちは千尋の養母です。それよりもあんたが抱いとる赤さんは土方様の子ね?」「はい。」由美は気まずそうにそう言うと俯いた。そこへ、土方と千尋が入って来た。「お義母さん、おはようございます。」「おはよう。」「お前達はもう下がれ。」にほんブログ村
2011年11月27日
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「お母様、お話とは?」「千尋、うちと東京ば行かんね?」「東京へ、ですか? 店はどげんするとです?」「店の留守は心配なか。一週間だけたい。」「解りました、行きます。」こうして、千尋はなおと東京へと向かった。 土方は千尋が養母とともに上京したことを知らずに、小枝子からの求婚を断っていた。「ねぇお母様、どうして土方様はわたくしと結婚したがらないのかしら? やはり亡くなられた奥様の事が・・」「そうではなくて。小枝子、諦めては駄目よ。確かに土方様は子持ちだけれども、彼のような殿方はそうそういないわ。」「ええ、わたくし諦めないわ。」小枝子の黒い瞳に、決意の光が宿った。 彼女が土方家に訪問してきたのは、土平伯爵家のパーティーから数日後のことだった。「土方様、御機嫌よう。」「あ、ああ・・」小枝子を見た土方の笑みは少し引き攣っていたが、それに彼女は全く気づかなかった。「ねぇ土方様、坊やを連れて百貨店に行きませんこと?」「百貨店に、ですか?」東京・銀座で、日本で初めて百貨店が開店し、その祝いの席で千尋はなおの長唄に乗せて優雅な舞を客達の前で披露した。「あれが、長崎の芸者さん?」「ええ。」千尋の姿を見ながら、小枝子は好奇の視線を彼女に送った。「千尋、琵琶の腕前ば披露せんね。」「はい。」千尋は撥を握り、琵琶を掻き鳴らし始めた。彼女の音色を聞くと、その場に居た者達は一斉におしゃべりをやめて千尋の演奏に聞き惚れていた。「ねぇ土方様、もう帰りましょうか?」「申し訳ありませんが小枝子様、わたしにはまだ用がありますので・・」「解りました。では御機嫌よう。」小枝子はちらりと千尋を見ると、不機嫌な顔をして百貨店から去っていった。「千尋、折角来たんやから店の中ば見ようか?」「はい、お母様。」なおとともに千尋が百貨店の中へと入ろうとした時、強い視線を感じて彼女が振り向いた先には、最愛の人が立っていた。「旦那・・様?」「千尋・・」土方は千尋の方へと駆け寄ったかと思うと、彼女を抱き締めた。「会いたかったぞ、千尋!」「旦那様・・」「千尋、どげんしたと?」なおがそう言って店の外に出た時、千尋が男と抱き合っているのを見た。彼女は直感で、その男が千尋の愛する男と解った。「あんたが、土方歳三様ね?」「お母様・・」「こげんところで話すのはなんやけん、静かな所で話しましょうか?」「はい・・」百貨店近くのカフェーで、千尋となおは土方と向かい合わせに座った。「土方様、まだ千尋の事想うとるとですか?」「はい。わたしは未だに千尋を愛しております。」土方の言葉に、なおは微笑んだ。「そうね。あんたになら、千尋ば任せられるたい。土方様、どうか千尋を貰ってくれんね。」「お母様・・」「あなた様になら、うちの娘ば任せられる。」なおの言葉に、土方は深く頷いた。「どうかこれから宜しくお願い致します、お義母様。」「こちらこそ。」にほんブログ村
2011年11月26日
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町であの若い修道女に会った後、上総が急に黙り込んでしまったので、土方は一体どうしたのかと彼を心配し始めた。「どうしたんだ? さっきから変な顔して黙り込んで・・」「ああ、ちょっとね。さっきあの坊やを連れていった若い修道女(シスター)・・死んだ異母妹(いもうと)とそっくりだったんだ。」「兄妹がいたのか、てっきり一人っ子かと思ったぜ。」「良く言われるよ。まぁ、父が外の女との間に儲けた子どもでね。その所為で両親が離婚したんだ。」 上総はそう言って寂しげな笑みを口元に浮かべた。「それで、その妹さんは今も元気なのか?」「いや、亡くなったよ。」上総と土方との間に、再び気まずい空気が流れた。「悪ぃこと聞いたな、俺・・」「別に悪気があって聞いたんじゃないから、構わないさ。生前父は、鎌倉の別荘で愛人とその娘―異母妹の華菜(かな)と正妻であるわたしの母との間を行き来する生活を送っていた。けれども華菜の母親が亡くなり、父と母は華菜を孤児院にやるかどうかで揉めに揉めて、その結果両親は離婚した。」「突然妹が出来て、驚かなかったのか?」「まぁ、はじめはびっくりしたけれど、自分を慕う華菜の事が好きだったからね。ただ、年頃になってからは、その“好き”の意味が若干違うものとなってしまったけど。トシは?」「ああ。俺ぁ10人兄弟の末っ子でさ、両親は肺病で死んぢまって、姉貴に育てられた。気が強くて口うるさい女なんだが、留学はその姉貴が勧めてくれたんだ。」「いいお姉様だね。それに比べてわたしは、妹をあんな目に遭わせてしまって、自分だけが生き残ってしまったんだ・・」「あんな目?」土方の言葉を聞いた上総の美しい顔がさっと蒼褪めたかと思うと、彼は平静さをすぐに取り戻した。「もう日が暮れるから、戻ろう。」「おう・・」上総に妹がいた事は土方にとって初耳であったが、“あんな目に遭わせてしまった”という彼の言葉が少し気にかかった。 機会をみて彼に妹と何があったのかを聞こうと思ったが、その話を持ち出そうとすると、上総はさらりとそれをかわして遠乗りに出掛けたりするので、やがて土方はその話を彼に持ち出さなくなった。 人間だれしも話したくない過去のひとつやふたつ、抱えている。それを無理に聞きだすことは、酷な事だ。「どうしたんだ、ぼうっとして?」「いや・・昔の事を思い出してよ。」はっと土方が我に返ると、上総が少し怪訝そうな顔をしながら彼を見ていた。「まぁ昔は楽しかったからね。それよりも二度と戻らない日を懐かしむより、未来に向かって歩かないとね。」「わかってるよ。お前ぇは俺と同い年の癖に、どうしてそう説教じみたことを言うのかねぇ・・」土方がそう言った時、大広間に小枝子が入って来るところを彼は見た。「まぁ土方様、こちらにいらっしゃったの?」「これはこれは小枝子様、奇遇ですね。」顰めっつらをもう少しで作りそうになっていた土方はそれを引っ込めて、愛想笑いを小枝子に浮かべた。「お久しぶりですね、小枝子様。どうして土方殿がこちらにいらっしゃるとおわかりに?」「お母様が教えてくださったのよ。さぁ土方様、踊りましょう!」「え、ええ・・」土方はちらりと上総に助けるよう目配せしたが、彼はそれを無視した。(トシにはその気がないが、小枝子様はすっかり彼と結婚したがってるな・・これは厄介な事になりそうだ。) 一方長崎の香鶴楼(こうかくろう)では、千尋が若女将としての修行に日々励んでいた。そんな中彼女は、養母・なおに呼び出された。にほんブログ村
2011年11月26日
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その後、土方と上総は気まずい空気のまま、上総の友人達と別荘へと向かった。(やっぱりあいつ、怒ってやがるのか?) 先ほど上総は笑って許してくれたが、目が全く笑っていないということは、許していないのだろうか。「あのさ、上総・・」「何だ?」そう言って振り向いた上総の眉間には、はっきりと皺が刻まれていた。「さっきの事だけど・・」「もう済んだ話だ。」ぶすっとした顔で上総はそう言うと、土方に背を向けて歩き始めた。(やっぱり怒ってやがる・・)『カズサ、こちらの方は?』上総の友人は興味津々に土方の顔を覗きこみながら言った。『こちらはトシ、わたしの友人だ。』『ふぅん、そうか。君以外にも日本人の留学生の姿は見たけれど、君の友人だとはね。』顔にそばかすがある茶髪の青年は、少し馬鹿にしたかのような口調で上総にそう言い放つと、他の友人達とともに何処かへ行ってしまった。「何だぁあいつは? 気に入らねぇな。」「気にしない方がいい。まぁ彼らにとってわたし達日本人は稀有な存在なんだそうだ。」「稀有な存在?」「わざわざ極東の島国から英国へ留学する者の気が知れない、って意味さ。留学生の中でも、華族というだけで親から留学を許され、勉学そっちのけで物見遊山に来たという輩も多いからね。さてと、予定がないなら町の散策でもしようか?」「ああ。」気まずい中、土方と上総はあのいけすかない青年の別荘を出て、町を散策した。 喧騒溢れるロンドンの街とは違い、別荘がある町は静かで穏やかな時が流れていて、町の建物は煉瓦や茅葺のものが多かった。ここでも上総と土方は、村人達の好奇の視線に晒された。 大都会ロンドンに暮らしている中で充分慣れ切ってしまったのだが、都会と田舎の違いなのだろうか、人通りの少ない通りを歩いていると二人の東洋人留学生の姿は悪目立ちしてしまっていた。二人とも長身で、端正な容貌をしているからか、農家の娘達は時折立ち止まっては彼らを見つめて何かを囁いていた。「ふん、愛想笑いでも浮かべようかねぇ?」「随分と余裕だね。まぁああいった視線にはもう慣れたからね。」上総はそう言って鬱陶しげに目にかかっていた前髪を掻き上げた時、誰かが彼の上着の裾を掴む感触がした。(何だ?) 上総が裾の方を見ると、そこには浅黒い肌をした7,8歳位の男児がじぃっと彼を見つめていた。『坊や、わたしに何か用かい?』 腰を屈め、男児と同じ目線になった上総がそう彼に話しかけると、彼は突然上総に抱きついたまま離れようとしない。『まぁヴィンス、いけませんよ!』 通りにある商店で買い物をしていた若い修道女が、そう言って彼らの方へと駆け寄るなり、男児を上総から引き離そうとした。 修道女の顔を見た上総は、亡くなった腹違いの妹に彼女が瓜二つだということに気づいた。“お兄様。” 柔らかで光沢のある絹糸にも似た金髪を靡かせ、自分に微笑む妹の残像が、目の前に居る修道女と重なった。『あの、どうかなさいましたか?』『すまない、君が知り合いに似ていて・・この子は?』『この子はヴィンセント、うちの孤児院に預けられた子です。さぁヴィンス、帰るわよ!』 嫌がる男児を無理矢理上総から引き離した修道女は、上総に向かって会釈した後、通りの向こうへと消えていった。にほんブログ村
2011年11月26日
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土方と上総が初めて出逢ったのは、留学先の英国だった。 当時、姉・信子とその夫・彦次郎に薦められ、英国へと留学した土方だったが、日本とは異なる言葉や生活習慣・文化に戸惑い、その上東洋人蔑視による差別に遭い、意気揚々と母国を離れて一旗揚げようとしていた彼の心は折れる寸前であった。そんな中、土方が公園を散歩していると、1人の青年がいかにも柄の悪そうな現地の青年数人に絡まれていた。彼らが話している言葉の意味は解らなかったが、余り好ましいものではないことが、彼らが浮かべる表情で解った。『とっとと有り金よこしな。』『国へ帰れ。』青年達がそう言って東洋人の青年を小突きまわし始めた。 土方が彼を助けようと動こうとした時、青年が持っていたステッキで次々と絡んでいた青年達に向かって強烈な突きを繰り出した。 突然の事で訳も解らず呆然としていた青年達は、どうと地面に倒れたまま動かなくなってしまった。「ふん、集団で襲って来てこの程度か。」フロックコートの裾をさっと翻し、青年が公園から出て行こうとした時、土方は彼と目が合った。「すまねぇ、助けようとしたんだがお前ぇが先に倒しちまったから、どうしようかと・・」「君、名前は? わたしは土平上総だ。」「土方歳三だ。」青年―土平上総と再会したのは、大学での講義の事だった。留学して半年が過ぎ、英語だけでなくフランス語も喋れるようになった土方だが、どうしてもラテン語だけは理解できずにいた。苦手なラテン語以外の科目は全て満点であったが、大学では全科目満点でないと進級できないカリキュラムとなっており、日に日に迫って来る試験の事を想うだけで土方は憂鬱な気持ちとなっていた。「・・畜生、んなもん習って何の得があるってんだよぉ。」講義が始まる前、土方はそう言ってラテン語の教科書を放り投げた。それが運悪く、上総の顔に当たってしまった。「人に何かを投げるのが趣味なのか、君は?」華のような顔を怒りで赤く染めながら、上総はそう言って土方に教科書を手渡した。「済まねぇな。それ見るだけで頭痛くなってよ・・」「気持ちは解るが物に当たる前に勉強しろ。」「んだよぉ、そんなことわかってるよ。どうしてもこれだけは解らねぇんだよ。」「じゃぁ、わたしが教えようか?」「へ?」土方がそう言って上総の顔を見ると、彼の顔には菩薩のような笑みが浮かんでいた。「その代わりに、経営数学をわたしに教えて欲しいんだが。」「おう、いいけどよ。」「良かった。」上総がラテン語を教えてくれたお蔭で、何とか土方は進級できた。漸く選択科目が選べるようになり、土方はまっさきにラテン語をその候補から外した。「ああ、後は論文書くだけだ。でももう疲れた・・」前期試験が終わった後、土方はそう呟いて机に突っ伏した。「余り気を抜かない方がいいぞ。」「わかってるよ。それよりも上総、夏の休暇はどっかに行くのか?」「友人達にポロに誘われているが、君も来るか?」「ああ。」 夏季休暇に入り、土方は上総とともに彼の友人一家が所有している別荘へと向かった。「俺、お前ぇの事誤解してたわ。」「何を?」別荘へと向かう途中の汽車で、土方はそう言って上総を見た。「いやぁ、お前友達いないのかと思ったんだけど・・」「いるさ。わたしが一日中図書館や下宿先に籠っているとでも思ったのか?」「いや、冗談だから気にすんなよ。」「はは、そうか。」上総はそう言って土方の言葉を受け流したが、目が全く笑っていなかった。にほんブログ村
2011年11月26日
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「久しぶりだね、土方殿。」「誰かと思ったら土平様じゃねぇか。」 師走も半ばを過ぎ、ますます慌ただしくなる頃、土平伯爵家のディナーパーティーに招かれた土方は、そう言って上総に挨拶した。「今日はあいつらと一緒じゃねぇのか?」「あの人達なら、新橋辺りでまた芸者と戯れているのだろうね。家が没落の憂き目にあっているというのに、のんきなものだよ、全く。」上総は溜息を吐くと、紫煙とともに叔父たちへの恨み事を吐いた。「まぁあいつらの代はもう終わりだし、お前ぇがこの家の主になる訳だからそう気に病むことはねぇだろう?」「それはそうかもしれないが、叔父は自分の息子に跡を継いで欲しいようだ。まぁ親戚とはいっても、所詮は養子だからね、わたしは。」「上総・・」土方は、ふと自分の前でだけ見せる土平家次期当主が抱える心の闇を垣間見たような気がした。 上総の実父・有人(ありひと)は土平伯爵家当主であったが、上総の母である女性と駆け落ちし、家から勘当された。その後有人は妻と離婚し男手ひとつで上総を育てたが、彼が7歳の時に肺病で亡くなった。土平伯爵家では有人の実弟の元には3人の息子がいたのだが、どれも後継者の器ではなく、仕方なしに上総の叔父は直系の男子である彼を養子として土平伯爵家に入れた。 だが由緒ある伯爵家で、美貌も頭脳も抜きん出た上総は、従兄達からやっかまれ、幼少時には彼らからいじめられていた。その後叔父たちと従兄達の放蕩が祟り、土平伯爵家の財政は苦しくなっていったが、虚栄心に満ちた彼らは家が没落の憂き目にあっていることを周囲に知られないように、盛大なパーティーを開いていた。「華族様ってのは大変なんだなぁ。その点、農民上がりの資産家の俺には頭痛の種がひとつもねぇな。」「言ってくれるね。ところで土方殿、長崎で君が惚れこんでいた娘さん・・千尋さんと会ったよ。」「千尋に?」「ああ。丸山遊郭の春鶴楼で働いていたが、聞けば女将の養女で、若女将として店を切り盛りしているよ。大したものだね。」「どうして長崎にいるんだ、あいつが? 父親と一緒にロシアに行ったんじゃないのか?」「それは話してくれなかったよ。まぁ、父親の正妻に無理矢理縁談を勧められて逃げ出してきたのだろうね。」「縁談ねぇ・・この間理哉の野郎がふざけた事を抜かしやがるから、締めてやろうと思ったらまんまと逃げられやがった。」土方がそう言うと、上総は笑った。「理哉君は君をからかうのが趣味のようなものだからねぇ。手のかかる弟がいると思って諦めたまえ。」土方がシャンパンを飲んで喉を潤していると、俄かに大広間の入口が騒がしくなった。土方と上総がそちらを見ると、そこには芸者数人を連れた痘痕(あばた)面の男の姿があった。「義兄上、そのような女達を家に連れ込まないでいただきたい。折角見栄を張って皆様をお招きしているというのに、台無しではありませんか。」切れ長の瞳を細め、痘痕面の男を睨みつけながら、上総はそう言って大袈裟に溜息を吐いた。「煩いぞ、上総。俺が芸者を寝所に侍らせようとお前には関係ないことだ。それよりも27にもなって身も固めぬとは・・土平伯爵家次期当主というものが、嘆かわしいわ。」「ご心配なさらなくても、あなたよりは求婚話が多いですよ。では失礼。」上総は漆黒の髪を靡かせ、痘痕面の男に背を向けた。(大したタマだなぁ、あいつは。) 英国留学時代、女と見紛うかのようなたおやかな容貌とは裏腹に、上総は嗜虐的で、他人から受けた仕打ちは必ず倍返しにする性格だということを、土方は嫌というほど知っていた。にほんブログ村
2011年11月25日
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突然の香鶴楼の主・栄祐の訃報は、瞬く間に丸山中に知れ渡り、混乱の中通夜と告別式をなおと千尋は執り行った。「これからどうなるんやろうねぇ、香鶴楼は。」「なあに、女将さんもおるし、跡取り娘の千尋ちゃんもおるけん、大丈夫たい。」「それにしても、栄祐さんが愛人と事故死やなんてぇ・・お天道様はちゃんと見とるんやねぇ。」「悪い事は出来んねぇ。」弔問の席で、栄祐の事を知っていた者達は、ひそひそとそう囁きながらなおの隣に座っている千尋を見た。 気立てが良く、芸事や立ち居振る舞いも完璧な彼女は、既に香鶴楼の若女将の器を持っていた。「お母さん、どうぞ。」「ありがとう。」初七日の法要を終え、女将の部屋で千尋が茶を立てると、なおはその茶を美味そうに飲んだ。「千尋、これからうちはあんたに香鶴楼の経営ば任せようと思うとるけど、あんたはどうね?」「経営を、ですか?」「うちももう歳たい。あん人みたいにポックリ逝くかもしれんから、その前にあんたに全てを任せようかと思うとるんよ。」「お願い致します。」こうして千尋は、なおの下で若女将として本格的に修行を行うこととなった。女郎達や女中達の教育、彼女らに払う給与の管理や贔屓客への接待など、香鶴楼の女将としての仕事は山ほどあり、千尋は今まで以上に多忙を極める日々を送ったが、彼女は全く苦にはならなかった。 なぜなら彼女は、漸くここが己の居場所だと感じ始めたからだった。ロゼ達と過ごした孤児院は炎で焼かれ、土方家を離れロシアで暮らし始めたが、ボコスロフスキー伯爵家には居場所がなく、そこから逃げ出して長崎へと辿り着き、なおの養女となって跡取り娘となった彼女にとって、春鶴楼は命そのものだった。(旦那様・・お祖母様・・)だが一人きりになると、どうしても千尋は自分を愛してくれた土方と、エカテリーナを思い出しては、彼らから贈られたナイフと指輪を眺めながら涙を流した。そんな中、一人の客が春鶴楼にやって来た。「いらっしゃいませ。」なおとともに客を出迎えた千尋が顔を上げると、その客はじっと彼女を見た。「君が、春鶴楼の若女将か?」「はい。千尋と申します。」「千尋・・良い名だね。わたしは土平上総(つちひらかずさ)、宜しく。」そう言った客―土平伯爵家次期当主・上総は、春鶴楼の若女将に向かって切れ長の瞳を細めて笑った。「土平様は、東京からおいでになられたのですか?」「ああ、仕事でね。叔父たちは由緒正しき土平家の人間が商売をするなどとんでもないと目くじら立てていたが、いくら華族様といっても財政が火の車なら働かなければならないし・・その分、土方とか言う資産家は唸る程金を持っているから、家名が没落する心配をすることはなさそうだけれど。」上総の形の良い唇から土方の名が出て、千尋は思わず酒を注ぐ手が震えた。「どうしたんだい、千尋さん?」「いえ・・昔、土方様と親しかったので。」「そうか。最近斉川子爵家の小枝子様が土方を狙っているようだけれど、彼には全くその気がないとわたしは見たよ。彼はまだ愛しい人の帰りを待っているのさ。」上総はそう言って酒を飲むと、溜息を吐いた。「君が弾いた琵琶が聞きたいな。一曲頼むよ。」「解りました。」千尋はさっと座敷の壁に立て掛けてあった琵琶を握り、撥を握った。「千尋ちゃんの琵琶は、いつ聞いてもよか音色やねぇ。」「ありがとうございます、大川様。」なおは贔屓筋の大川を接待しながら、跡取り娘の琵琶の音色に耳を澄ませた。 上総と千尋の出逢いが、彼女と土方を再び結びつける縁の糸を当人達が知らぬ間に、静かに紡ぎ始めた。にほんブログ村
2011年11月24日
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「おとーたま、あそんでぇ。」 翌朝、土方が新聞を片手に珈琲を飲んでいると、総司がそう言って彼の膝の上に乗ろうとしていた。「総司、今日は忙しいんだ。ごめんな。」「いや~、あそぶの~!」自分の都合通りに事が運ばぬことを知った総司は、頬を膨らませて駄々を捏ね始めた。「煩い、向こうに行ってろ!」苛々して土方がそう総司に怒鳴ると、彼は大声を上げて泣き出した。「斎藤、こいつを連れ出せ!」「総司様、さあこちらへ。」「おとーたまのいじわる!」斎藤の腰にしがみついた総司はそう叫ぶと、土方を睨んだ。(やっぱり母親がいねえと駄目なのかな・・)最近反抗期を迎え、何かと「嫌だ」と言って駄々を捏ねる総司に、土方はほとほとと手を焼いていた。赤ん坊の椿は姉・信子が紹介してくれた乳母・由美に任せきりだった。 もっと子ども達と一緒になる時間を増やしたいと思っているのだが、仕事が忙しく、帰宅はいつも深夜を回っており、その頃には子ども達は夢の中であった。「旦那様、どうかなさいましたか?」ダイニングでの泣き声を聞いたのか、由美がそう言ってダイニングに入って来た。「いや、総司の奴が駄々をまた捏ねてな。近頃あいつときたら、何かにつけて俺を困らせて気を引こうとしやがる。」「旦那様がお仕事でお忙しくて構ってくださらないから、おさびしいのですよ。もう少し子ども達と過ごされる時間を増やしては?」「そうしてぇのはやまやまなんだがなぁ・・」土方は溜息を吐くと、すっかり冷めてしまった珈琲を飲んだ。「じゃぁ、行って来る。」「行ってらっしゃいませ、旦那様。総司様、お父様がお出掛けですよ。」斎藤が玄関ホールでそう自分の背に隠れている総司に挨拶を促すと、彼はぷいと土方にそっぽを向いた。「まだご機嫌を損ねていらっしゃいますが、お気にならさず。」「行って来る。」土方が仕事へと出掛けた後、斎藤は家事を一通りこなすと、総司と遊んだ。「もっとたかいたかいしてぇ~!」「はいはい、解りましたよ。」上司が総司と戯れている姿を、鷹田はじっと見ていた。独身である斎藤は、何故か子どもの扱いが上手い。「鷹田さん、何仕事の手を止めてるの?」「あ、すいません。」メイド長の美佐子にジロリと睨まれて、鷹田は慌てて窓の拭き掃除を再開した。「全く、前に居た子は良く働いたのにねぇ。それにしても最近斎藤さんは旦那様の代わりに総司様と遊んでいらっしゃるわねぇ。こうして見るとまるで斎藤さんが父親みたいに見えるわぁ。」「でしょう? 斎藤さん独身なのに子どもの扱いが上手いですよねぇ。」「他人の詮索をしてる暇があったら、仕事する!」美佐子は鷹田の尻をばしりと叩くと、自分の持ち場へと戻った。「ってぇ・・」鷹田は尻を擦りながら、謎だらけの上司の過去をますます知りたくなった。 一方長崎では、千尋が三味線の稽古を受けていた。「千尋ちゃんは筋がよかねぇ。この前のおさらいしたとこ、すぐに弾けるけん、教えるうちも楽たい。」「ありがとうございます、お師匠さん。」千尋はそう言って三味線の師匠に礼をすると、部屋から出て行った。「お嬢様、もう終わりましたか?」「ええ。行きましょうか。」三味線の師匠の家を出た千尋は、供の女中とともに香鶴楼へと戻ると、何やら中が慌ただしかった。「あ、お嬢様!」「何かあったの?」「実は、旦那様が・・」女中から、栄祐と彼の愛人が事故死したという知らせを、千尋は聞いた。にほんブログ村
2011年11月24日
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「・・申し訳ありません、旦那様。わたくしの監督不行届きでした。」斎藤がそう言って頭を下げると、土方はくすりと笑った。「そういうお前ぇの糞真面目なところは、昔から変わってねぇなぁ。」「旦那様、風邪を召されますので、早く休まれては・・」「ああ、わかったよ。ったく、お前ぇは口煩ぇ奴だなぁ。」ぶつくさと呟きながら、土方は寝室へと入っていった。(そういうあなたの気紛れさは、昔から変わっておりませんよ、旦那様。)湯の後始末や浴室の掃除をしながら、斎藤は土方家の執事として働き始めたばかりの頃のことを思い出していた。 斎藤は伯爵家の次男坊であったが、父親の放蕩が祟り、土地や家屋敷を手放す羽目になり、彼の生家は没落し、剣術の腕が一流だった斎藤は料亭の用心棒でその日の飢えを凌いでいたが、廃刀令が発布された明治の世において、江戸の昔とは違いその仕事で飯をたらふく食える筈もなく、三日も経たずにお役御免となった。さてどうしたことかと斎藤が困っていると、料亭の主が良い仕事を知っているというので、ほいほいと彼についていくと、そこは男色相手に春を鬻(ひさ)ぐ遊郭だった。 母親譲りの色白で女顔の、少し蒼みかかった黒い瞳を持った彼を見た料亭の主の邪な企みに気づいた斎藤は、彼の股間をひざ蹴りして遊郭から逃げ出した。そこからどこをどう土方家の裏門に倒れついたのかは解らなかったが、気がつくと土方が紙煙草を吸いながら自分を見ていた。『お前、名は?』―斎藤一と申します。そう彼に自己紹介すると、彼は口端を歪めて笑った後、こう言った。『丁度いい、うちに執事が欲しかったところなんだ。』こうして土方家の執事長として斎藤が働き始めて、早6年になる。その間土方は総美と結婚し、彼女との間に二児をもうけ、廓へ売り飛ばされそうになった千尋を土方家のメイドとして雇い、彼女と昵懇の仲となった。千尋がいなくなって以来、土方の目は死んだ魚のように濁ったままだった。最愛の妻を亡くした上に彼女にまで去られた土方は、生きる支えをなくしてしまったのだと、斎藤は思った。 しかし斉川子爵家令嬢・小枝子との再婚話が持ち上がると、土方の目に生気が戻った。(新しい奥様をお迎えになれば、旦那様は大丈夫だろう。)斎藤はそう勝手に思い込んでいたが、土方は小枝子と再婚するつもりはないらしく、向こうが本気である事を知っている癖に、なかなか断ろうとはしなかった。斎藤は、彼が一体何を考えているのかが解らなかった。 そんな中、土方は近藤と久しぶりに神楽坂の料亭で食事をした。「なぁトシ、斉川子爵令嬢との再婚は考えているのか?」「ちっとも考えてねぇよ。俺がお高くとまった女が大嫌いだってことは勝っちゃんも知ってるだろう?」「ああ、知ってるさ。にしても千尋さんとはどうなってるんだ?」「さぁ・・今何処に居るのわからねぇよ。」「トシ・・」「あ、こんな所にいたんだ、お二人とも。」不意に陽気な声がして土方と近藤が同時に振り向くと、そこには頬を赤く染めた理哉が立っていた。「近藤さんも土方さんも水臭いなぁ、飲みに行くっていうなら僕も誘ってくれれば良かったのにぃ。」「いつもてめぇが悪酔いするから、誘いたくねぇんだよ!」「またぁ、意地悪な事言ってぇ。じゃぁ教えないよ、長崎で千尋ちゃんに会ったこと。」土方は咄嗟に、理哉の胸倉を掴んでいた。「その話、詳しく聞かせろ!」「はいはい、わかったよ。」大袈裟に咳き込みながら、理哉は長崎で千尋と再会したことを土方達に話した。「千尋は、独り身なのか?」「そうかもね。でも丸山遊郭の伝統ある大店の跡取り娘だから、いずれ家柄が釣り合っている男を婿に取るかもねぇ。」理哉の言葉に気分を害したのか、土方は憮然とした様子で部屋から出て行った。「理哉、またそうやってトシをからかって・・」「だってそうしないと、土方さん本気にならないでしょう?」にほんブログ村
2011年11月24日
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「斎藤さん、失礼します。」執事見習いの鷹田が浴室に入ると、そこは一面、白い湯煙が立ち上っていた。「旦那様がご入浴される。」「こんな時間に、ですか?」「旦那様は気紛れだ。旦那様のご要望を叶えるのがわたし達執事の役目。鷹田君、ここはわたし一人で充分だから、部屋で財務処理をしたまえ。」「は、はい・・」鷹田が慌てて浴室から出て行くのを見送った斎藤は、深い溜息を吐いた。 ロゼがあの忌まわしい事件で亡くなり、人手が足りなくなった土方家は急遽新聞に求人広告を出し、数人の求職者が土方邸を訪れ、斎藤と土方が彼らに面接をした結果、鷹田を採用した。元士族の三男坊で、食い扶持に困り高給につられて土方家の執事見習いとして働き始めた彼であったが、主である土方とその子ども達の食事の支度や、土方家の財務処理、彼らの身のまわりの世話に至るまで、執事の仕事は彼が思っているような単純なものではなく、数日もすると執事の仕事に嫌気がさしてきた。没落した士族の出といえども、ほんの数十年前までは大名の家臣である「若様」として周りからちやほやされていて、時代が江戸から明治に代わり、薩長が政権を握っても彼は定職に就かず、ぬるま湯の中に未だに浸かっていた。しかし、そんな彼をいつまでも両親が放っておく筈もなく、鷹田が再三一高受験に失敗し、博打に明け暮れた末に借金塗れになったことを知った彼らは、有無を言わさず彼を家から叩きだした。無一文で飲まず食わずの生活を送っていた彼がふと手にした新聞に載っていた求人広告を見て、土方家へとやって来たのだった。「次の方、どうぞ。」自分の順番が来た時、鷹田はこんな汚い格好で面接に臨むんじゃなかったと、激しく後悔したが、金がないので服を新しく誂えることもできない。「これから執事になろうってもんが、薄汚い格好だなぁ。」部屋に入り、主人の土方歳三が開口一番、そう言って鷹田を見た。「申し訳ありません、金がなくて・・」「ふん、どうせ博打で借金に塗れて家から追い出されたんだろう?」「は、はぁ・・」「ま、ここにいりゃぁ金にも食うものにも困らねぇよ。採用だ。」あっさりと土方家の執事見習いとして採用された鷹田だったが、上司である執事長の斎藤は、常に彼が仕事を怠けていないか目を光らせており、息苦しくてかなわなかった。(まぁ、道端で野垂れ死ぬよりはいいかもな。)算盤を弾きながら、鷹田はそう思い、帳簿と睨めっこしていた。「もう財務処理は終わったのかね?」「は、はい。」「見せなさい。」斎藤はそう言うなり、鷹田の手から帳簿を取りあげると、数字が間違っていないか逐一確認した。「間違いがないな。もう部屋に戻ってよろしい。」「では、失礼します。」鷹田がそそくさと自分の部屋から出て行くと、斎藤は溜息を吐きながら椅子に腰を下ろした。「ロゼの方が、少しは使い物になったが・・あいつは怠け癖があるから目が離せないな。」眉間を人差し指と中指で揉みながら、斎藤は生意気で撥ね返りな性格だった執事見習いを思い出していた。「ふぅ、良い湯だったぜ。」 一方浴室では、熱い湯に首までつかり疲れを取った土方がそう言って豪快な水音とともに湯船から上がった。主の濡れた身体を鷹田が咄嗟に拭こうとしたが、土方はそれを手で制した。「斎藤とはどうだ? 仲良くやっているか?」「仲良くは・・それよりも旦那様にお聞きしたいことがあるのですが。」「俺に聞きたい事?」「はい・・斎藤さんは、いつから土方家に?」鷹田の言葉を聞いた土方の瞳が、すっと険しい光を宿した。「それはお前ぇには話せねぇよ。聞きたかったら本人に聞くんだな。」「は、はい・・」鷹田と入れ違いに、斎藤が浴室に入って来た。「失礼致します、旦那様。」「斎藤、新人の教育はちゃんとしておけよ。後で面倒起こす前にな。」にほんブログ村
2011年11月24日
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「一体何の事だか・・」「とぼけても無駄たい。丸山近くのカフェーで、あんたが若い男と抱き合うとったのをこの目ではっきり見たんやからね。」謎の女はそう言って勝ち誇ったかのような笑みを千尋に浮かべると、彼女に近づいた。「あんた、春鶴楼の跡取り娘の自覚がないとやろ?」「そんな事はありません。」「ふん、どうだか。わざわざ女将があんたの為に特注で作った琵琶の弦を切られるっちゅう不始末を起こして・・」「どうしてそんな事、あなたが知っているんですか?」千尋の問いに、女の顔が強張った。「琵琶の弦が誰かに切られた事は、女将さんとわたくししか知らない筈です。あなた、一体・・」「黙らんね!」謎の女はそう叫ぶと、千尋の頬を張ろうと腕を振り上げた。「あんた、うちの娘に何をしようね!」部屋の襖が開かれ、なおが千尋と女の間に割って入った。「ふん、誰かと思うたら女将やないね。」謎の女はそう言ってふんと笑った。「誰かと思うたら、うちの人の金をむしり取る寄生虫か。千尋の琵琶の弦を切ったのはあんたやろう?」「な、何を・・」先ほどまで強気だった女の顔が怒りで赤くなった。「あんた、いつまでもこの女と付き合うて、身ぐるみはがされても知らんよ。」なおに睨まれた栄祐は、ひぃっと声を上げて俯いた。「それで? うちの人が言いよったことは本当ね?」「ええ。ですがあの方は桐生理哉様といって、わたくしが東京に居た頃の知人です。」「そうね。千尋ちゃん、うちに全部話してくれんね。」「はい・・」千尋はなおに、長崎に来るまでの経緯を話した。 一方赤坂にある斉川子爵邸で開かれている夜会で、夜会服に身を包んでいる土方が、退屈そうに溜息を吐きながらシャンパンを飲んでいた。「土方様、来て下さったのね!」華やかなドレスを纏った令嬢達の輪から、1人の令嬢が抜け出して土方の元へと駆けて来た。蒼い薔薇の刺繍を漆黒の布地に施したドレスを纏っている彼女は、斉川子爵家の長女・小枝子だった。年は17で、女学校を卒業したばかりの彼女が他人の子を育てる事など出来るのかと、周囲は土方と彼女との再婚を余り快く思っていなかった。「本日はお招きいただき、ありがとうございました。」「来て下さって嬉しいわ。ねぇ土方様、わたくし土方様の洋琴(ピアノ)が聞きたいわ。」もう帰ろうと思っていたのに、小枝子の突然の“お願い”で、土方は苦虫を噛み潰したかのような表情を一瞬浮かべたが、それをすぐに引っ込めて小枝子に笑顔を浮かべた。「喜んで。」土方が洋琴の前に腰を下ろすと、先ほどまで他愛のない噂話に興じていた令嬢達が一斉に彼の方へと駆け寄ってきた。「皆さん、よほど土方様の洋琴がお聞きになりたいみたいね。」「そうですね・・」愛想笑いを浮かべながら、土方は鍵盤の上に指を滑らせ、千尋との思い出の曲を弾き始めた。 彼が洋琴を弾き始めた途端、その場に居た者達が会話を止めた。「素敵でしたわ、土方様。」「ありがとうございます。もう失礼します。」土方はそう言って小枝子達に頭を下げると、斉川邸から去っていった。「お帰りなさいませ、旦那様。」斎藤が夜会から帰って来た主を玄関ホールで迎えると、彼はとても疲れた顔をしていた。「斎藤、風呂沸かせ。」「かしこまりました。」自分の脇を通り過ぎる土方の溜息を吐いた斎藤は、さっと浴室で風呂を沸かし始めた。にほんブログ村
2011年11月23日
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何者かによって千尋が使っている琵琶の弦が切れた事件が起きて一夜明け、なおは香鶴楼の全従業員を集めた。「うちはこの件については犯人探しはせんよ。正直に名乗り出ればこん事は水に流す、それだけたい。」煙管を咥えながら、なおはそう言って従業員達を見た。だが、誰も名乗り出ることはなかった。「もう仕事に戻ってもよか。」「はい・・」女達はそそくさと自分の持ち場へと戻って行った。「一体誰やろうね、千尋ちゃんに嫌がらせしたとは?」「さぁ、こん店の者ではないことは確かやね。」二階の女郎部屋で、遊女達は煙管を咥えながらそう言って今回の事件の犯人について話していた。「そういやぁ、こん店の主が女囲っとるって噂ば聞いたと。千尋ちゃんが将来女将さんの跡を継ぐけん、その妾がやったんやなかろうかね?」「あやしかぁ。」遊女達がそう言って笑った時、部屋の襖が荒々しく開いた。「あんたら、何油売っとうとね! はよ稽古ば行かんね!」なおが一喝すると、彼女達はそそくさと部屋から出て行った。「おかあさん、お出かけですか?」「ちょっと外に用事ばあると。あんたも出掛けるとね?」「はい。」千尋が卸したての振袖を纏っているのを見たなおは、彼女が男と会うことに気づいた。「遅くならんようにしなさいよ。」「行ってきます。」千尋が香鶴楼から出ると、外には雪がはらりはらりと舞っていた。番傘をさしながら彼女が丸山遊郭近くにあるカフェーへと入ると、そこには奥の席で珈琲を飲んでいる理哉の姿があった。「お待たせいたしました。」「いいよ、今来たところだし。」「今日はあのお嬢様はいらっしゃらないのですか?」「ああ、あの子なら東京に帰ったよ。一日観光できただけでも充分だって言ってね。」「変わった方ですね。」千尋がそう言って笑うと、理哉もそれにつられて笑った。「ねぇ千尋ちゃん、どうして長崎(ここ)にいるの?」「わたくしは、ロシアで意に沿わぬ結婚をさせられそうになったのです。それが嫌で逃げ出しました。ですが、長崎で全財産が入った鞄をひったくられて・・」「そうか。土方さんの事だけど・・」理哉の口から土方の名が出て、千尋の顔が強張った。「あの人、再婚話が持ち上がってるんだ。お相手は斉川子爵家の令嬢・小枝子様。何でも、馬場で土方さんの凛々しい乗馬姿を見て一目ぼれしたとか。」「そうなんですか・・」総美に先立たれ、2人の子持ちでありながらも、土方はまだ27だ。仕事も出来るし頭も切れる彼ならば、再婚話など山のようにあるだろうと千尋は思っていた。だが、理哉からその事を聞いた途端、彼女は何故か涙を流していた。「千尋ちゃん、どうしたの?」理哉がそう言って慌ててハンカチを差し出した。「いいえ、何でもありません・・」「今日だけは、僕の胸を貸すよ。」理哉は自分の胸を千尋に貸すと、彼女は押し殺した声で泣いた。「あんた、あれあの子やなかね?」愛人とともに散歩していた栄祐は、彼女の叫び声でちらりとカフェーの方を見た。「千尋、話ばあるけん、俺の部屋に来んね。」「はい、お父様。」 その夜、千尋が栄祐の部屋へと入ると、そこには険しい顔をした栄祐と、見知らぬ女が彼の隣に座っていた。「お前、白昼堂々と男と抱き合っとったやろ?」「春鶴楼の跡取り娘とあろうものが、恥ずかしくなかとね?」謎の女がそう言って、じろりと千尋を睨んだ。にほんブログ村
2011年11月23日
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「お待たせいたしました。」襖を開けた千尋が理哉達に頭を下げると、しゃなりしゃなりと部屋の中へと入った。「まぁ、金髪の芸者さんなんて初めて見ましたわ。」理哉の隣で座っていた美琶子はそう言って歓声を上げたが、理哉はじっと千尋を見ていた。(千尋ちゃん・・)突然姿をくらました千尋が、長崎で芸者として自分の前に居ることが、彼には信じられなかった。「あなたが、琵琶の上手い方ね。一曲弾いてくださいます?」「ええ。」千尋はさっと琵琶の撥を握ると、弦を爪弾き始めた。三味線の小気味良い音色や、筝の優美な音色とは違い、琵琶のそれは力強く、また哀愁漂うものであった。その音色に乗せて歌う千尋の声も美しく、思わず理哉は聞き惚れてしまった。「良かったわ。あなたはこちらの半玉さんなの?」「いいえ。わたくしは・・」「その子はうちの跡取り娘です。」女将が部屋に入って来て、誇らしげに理哉達に向かって千尋を紹介した。「そう。春鶴楼の将来は安泰ね。ねぇ、理哉様?」「う、うん・・」宴はあっという間に終わり、理哉は千尋の後を追った。「千尋ちゃん、待って。」「理哉様・・」「どうしてこんな所にいるの? ロシアに居るんじゃないの?」「わたくしは、あそこから逃げ出しました。」「逃げ出した? 一体どうして・・」理哉が千尋を問い詰めようとした時、誰かが千尋達の方へと向かってくる気配がした。「明日、会える?」「はい、何とか・・」「じゃぁ丸山近くのカフェ―で。」「解りました。」千尋はそう言って理哉に頭を下げると、部屋の中に入っていった。(理哉様、このような所でお会いするだなんて・・)突然の理哉の再会に、千尋の胸は躍った。まさか長崎で理哉に再会するとは思わなかった。(旦那様は、お元気だろうか?)あの悲しい別れから半年が過ぎ、もう二度と土方や理哉に会えないと思っていたが、長崎で理哉に再会するとは。 千尋が物思いに耽っていると、急に足元に柔らかな感触がして彼女がそこを見ると、一匹の黒猫が千尋にすり寄っていた。「餌をあげるのを忘れてた。待っていてね。」千尋がそう言って黒猫の頭を撫でると、部屋から出て行った。その後、すうっと襖が開き、誰かが部屋に入って来た。「お待たせ。ちゃんと食べてね。」部屋に戻った千尋が黒猫に餌をやろうと腰をかがめた時、少し違和感がして辺りを見渡した。「あ・・」いつも壁に掛けている琵琶の弦が、何者かに乱暴に切られていた。(酷い、一体誰が・・) 夜も更け、春鶴楼の主・栄祐はある一軒の飲み屋へと入っていった。「いらっしゃい。」「今日千尋の琵琶の弦が、何者かに切られたようたい。お前やないかね?」「まさか、うちがそんな事する訳なかろうが。」女はそう言ってキッと栄祐を睨んだ。「お前を疑っとる訳はなか。」「それよりもあの女、まだ始末できんと? こげな飲み屋で朽ち果てるのは真っ平御免たい。」「まぁそう言うな。」栄祐は女に笑うと、彼女を抱き締めた。春鶴楼を巡る策謀が、密かに動き始めていた。素材提供:涼夜様にほんブログ村
2011年11月22日
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「長崎はやっぱり横浜とは違うねぇ。」美琶子とともに長崎の街を歩きながら、理哉はそう言って溜息を吐いた。 江戸の昔から外国との貿易が盛んだった長崎は、ひとつの町に清国人や英国人などが住んでおり、様々な言葉や文化がひしめき合っていた。「わたくし、長崎が一番好きですわ。お父様のお話を聞いて一度行ってみたいと思ったけれど、来てよかったわ。」理哉の隣で歩いている洋装姿の美琶子は、そう言って笑った。「ねぇ理哉様、今夜お座敷遊びに付き合ってくださいな。」「え?」美琶子の言葉に首を傾げた理哉が彼女を見ると、彼女はにっこりと彼に笑った。「なんでも最近、琵琶が上手い方が丸山にいらっしゃるんですって。是非お会いしてみたいわ。」「さぁ、会えるかなぁ。お座敷遊びはやったことがないけれど、一見さんお断りのところが多いからね。ああでも、土方さんの紹介だから大丈夫かな。」理哉がそう独りごとを呟いていると、美琶子が怪訝そうな顔をした。「さてと、もうお昼ね。わたくし、美味しいお店知っているのよ。行きましょう!」美琶子がそう言って理哉の手を握って歩こうとした時、向こうから人力車に乗った芸者がやって来るところだった。紋付の黒留袖を着て、潰し島田に髪を結い、顔に白粉を塗って目の際と唇にほんのりと紅をさしたその姿は、昼間でも艶やかだった。「素敵ねぇ・・」その後に、華やかな振袖を纏った半玉が人力車に乗せられ、姉芸者の後を走ってきた。桃割れの髪型に、ビラビラの華やかな簪を髪に挿したその姿は、姉芸者の艶やかさとは対照的に華やかでありながら、少し愛らしさが漂っていた。「お父様についていって祇園でお座敷遊びについていった事があるけれど、向こうの半玉さんも可愛らしかったわ。」「ふぅん、君結構色々な所に行ってるんだねぇ。」「まぁね。ほら、ここよ。」美琶子がそう言って入ったのは、落ち着いた雰囲気が漂う料亭だった。「こちらの定食、とても美味しいのよ。」「そう・・」昼食を食べた後、理哉は美琶子とともに長崎市内を観光した。 一旦ホテルに戻り一息ついていると、誰かが部屋のドアをノックする音が聞こえた。「失礼致します、お客様。お客様に電報が届いております。」「ありがとう。」ボーイから電報を受け取った理哉は、それに目を通して溜息を吐いた。(土方さん、まだ風邪治ってないんだ。) 理哉が長崎を発つ前、土方が風邪をひいてしまい、もう治っていると彼は思っていたが、どうやら長引いているらしい。(鬼の撹乱(かくらん)かなぁ・・)そう思いながら理哉が笑っていると、あっという間に丸山へと向かう時刻になった。「ここですわ、理哉様。」美琶子に連れられたのは、丸山遊郭でも伝統と格式ある遊郭・香鶴楼(しゅんかくろう)だった。「ようこそいらっしゃいませ。女将のなおです。どうぞごゆりと。」女将はそう言って理哉達に頭を下げて挨拶すると、それぞれの猪口に酒を注いだ。「ありがとう。こちらに琵琶の上手い方がいらっしゃると聞いたのだけれど・・」「ああ、お待ちください。」女将は部屋から出て行くと、千尋の部屋へと向かった。「千尋、お客様がお呼びたい。」「はい、ただいま。」 千尋は鏡の前で結いあげた髪や華やかな振袖を見て乱れがないか確認すると、部屋から出て行った。にほんブログ村
2011年11月22日
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女の後を慌てて追いかけた千尋は、丸山町へと入った。格式ある遊郭や置屋が立ち並ぶ町のあちこちで、三味の心地良い音色が聞こえた。「ここたい。早う入らんね。」「は、はい・・」女が立ち止まったのは、一軒の廓だった。(まさか、売られてしまうのでは・・)千尋の脳裡に、土方と出逢った雪の日の事が甦った。あの時は土方に助けられ、廓に売られずにすんだが、今はそうはいかない。逃げなければ―千尋がそう思った時、女がくるりと自分の方に向き直った。「あんたを売り飛ばしたりはせん。安心し。うちはここの女将たい。」「女将・・ですか?」「あんた、名前は?」「千尋・・と申します。」「よか名やねぇ。あんたこれから行くあてはあると?」「いいえ。荷物も奪われてしまって・・」千尋がそう言って項垂れると、女は彼女の肩を優しく叩いた。「あんた、ここでうちの養女にならんね?」「え?」虚を突かれ、千尋が女を見上げると、彼女は優しい笑みを口元に浮かべていた。「自己紹介がおくれたね。うちはなお、この春鶴楼を切り盛りしとる女将たい。」道端で声を掛けられ、千尋はひょんなことから春鶴楼の女将・磐田(いわた)なおと出逢った。なおは千尋を店の者に紹介し、なおの夫・栄祐に彼女を養女にすることを話した。「なお、お前何考えとうとね。身元がわからんもんを養女にするっちゅう、こげなけったいな話があるとね!?」栄祐は煙管を咥え、そう言うと千尋にその煙を吹きつけた。「身元がわからんかは、うちが決めます。千尋、あんた何ができると?」「筝(こと)や笛、ピアノとお茶とお花に・・ダンスが出来ます。」「そんなら後は踊りと長唄、三味線の稽古ばつけんとね。あんたは今日から磐田千尋たい。」「宜しくお願い致します。」「ふん、俺はもう知らんぞ。」栄祐はそう言うと、部屋から出て行った。 その後なおは千尋を磐田家の戸籍に入れ、彼女を養女とした。千尋はなおの元、踊りや鼓、長唄の稽古に励んだ。「千尋、女将さんがお呼びたい。」「はい、今行きます。」千尋がなおの部屋に行くと、彼女丁度琵琶の撥を握っているところだった。「失礼致します。」「あんた、結構筋がよかと、鳴物の先生らに聞いとうよ。うちの人は身元が解らん者だと言うてたけど、ばってんうちはそう思うとらん。」なおはそう言って千尋を見た。「あの、おかあさん、それは?」「ああ、これね? うちが芸者衆だったとき、嗜んでたもんたい。あんたにも教えてやる。」「ありがとうございます。」その日から、千尋はなおによって琵琶の手ほどきを受けるようになり、その腕はめきめきと上達していった。やがて彼女の名は、長崎中に知られることとなった。養母のなおは、千尋にやりたいことを何でもさせ、女学校の入学を許可した。「これからの女は学がないと生きていけん。芸があって学があれば鬼に金棒たい。」千尋は女学校に通い、そこで新しい友人を得た。だが心の片隅には、歳三と過ごした記憶が常にあった。「ねぇ理哉様、長崎に行きませんこと?」 美琶子との出逢いから数ヶ月が過ぎた頃、理哉は突然彼女にそう言われ、目を丸くした。にほんブログ村
2011年11月20日
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ボンネル子爵家の舞踏会に出席した千尋は、大広間に入った途端刺すような視線を感じた。(何・・)―あれが、日本娘との・・―綺麗な娘だけど、魔性な美しさね。―嗚呼嫌だ、怖い。貴婦人達が悪意の囁きを交わす中、千尋は縁談相手のアドリアンと会った。長身で癖のある金髪を靡かせ、自信に満ち溢れた琥珀色の瞳を輝かせて千尋を見た。『ふぅん、君が愛人の子ねぇ。綺麗な顔をしてるね。』アドリアンはそう言うと、全身を舐めまわすように見た。『ありがとうございます。』千尋が彼に頭を下げると、アドリアンは彼女の手を掴んで踊りの輪へと加わった。『君のお母さんは、ゲイシャだったんだってね?』『さぁ・・わたくしは母を知りません。』『ふぅん。残念だなあ。』ドミトリィとは違い、アドリアンは少し軽薄そうな気がした。彼と結婚したら不幸になる―千尋は嫌な予感がした。『良い人だったでしょう?』『わたくし、あの人とは結婚したくありません。』帰りの馬車で千尋がそう言うと、オリガは彼女の頬を張った。『厄介者の癖に親の縁談を断るんじゃないよ、この穀潰しが!』千尋は頬の痛みに泣きそうになったが、ぐっと唇を噛み締めて堪えた。『いいかい、あんたはあたしが世話してやってるんだから、あたしに逆らうんじゃないよ。返事は?』『はい・・』それから千尋の意志を無視して、アドリアンとの縁談はあっという間に進み、結婚式の日取りまで勝手に決められてしまった。『チヒロ、ここから逃げな。このままではあんたはあの女に飼い殺しにされるだけだ。』結婚式を数ヵ月後に控え、エカテリーナはそう言って千尋を抱き締めた。『これで日本へ渡れ。お前はこの家以外に生きてゆける場所がある。』『ありがとうございます、お祖母様。このご恩は一生忘れません。』『達者でね。』エカテリーナは千尋に微笑むと、自分の大切な指輪を千尋に渡した。『これはあたしからの餞別だ。』『はい・・お祖母様、どうぞお元気で。』その夜、千尋は荷物を纏め、皆が寝静まる中ボコスロフスキー伯爵邸を飛び出していった。 翌朝、彼女は上海を経由して長崎行きの船に乗り、エカテリーナから贈られた指輪を巾着袋から取り出した。今まで自分を支えてくれた彼女と別れるのは辛かったが、他人に自分の人生を干渉されずに生きてゆく道を歩むことを、千尋はこの時決意した。 2日間の船旅の後、千尋は再び祖国・日本の土を踏んだ。戦国の世から南蛮(ポルトガル・スペイン)や清(中国)との外交があった長崎には、ところどころに異国情緒が溢れていた。そんな長崎の街を歩きながら、千尋が宿を探していると、怪しい男が彼女の背後に忍び寄ったかと思うと、彼は彼女の全財産が入っている荷物をひったくろうとした。「きゃ~、助けてぇ!」千尋は悲鳴を上げながら男から荷物を守ろうとしたが、彼女は為すすべもなく男に荷物を奪われた。「うっ、うっ・・」誰も知らぬ長崎で、何もかも失ってしまった千尋は、涙を流して地面に蹲った。「あんた、どうしたね?」頭上から声が響き、千尋が俯いていた顔を上げると、そこには薄紫の小袖姿の女が立っていた。「そないな所におらんと、うちに来んね。」「あの、あなたは?」「こげな所で自己紹介する気はなか。」そう言うと女は、さっさと歩き出した。にほんブログ村
2011年11月19日
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『今日はお招きいただき、ありがとうございました。』 バレエの公演を鑑賞した後、千尋はドミトリィに連れられて彼が行きつけのレストランで食事をしていた。『いいえ。それよりもチヒロさん、恋人は居ますか?』一瞬土方の笑顔が千尋の脳裡に浮かんだが、彼女は慌ててそれを振り払った。『いいえ、おりません。ドミトリィさんは?』『恥ずかしながら・・今まで音楽一筋で生きて来ましたから、恋愛の事はさっぱりで。』『まぁ、嘘もお上手なのね。』千尋はそう言って笑いながらドミトリィを見ると、彼は照れ臭そうな顔をした。『今年の夏は、どちらへ旅行するんですか?』『何処にも行きませんわ。行くとしたら、せいぜい遠乗りぐらいです。ドミトリィさんは?』『暫く大きなコンサートは控えていないので、実家に帰ってゆっくりします。』それから千尋とドミトリィは取り留めのない話をして、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。『今夜は楽しかったです。』『さようなら。』ドミトリィと別れ際にキスをした千尋は、邸の中へと入った。『チヒロ、ドミトリィとデートをしたのかい?』『ええ奥様、バレエの後は食事をしましたわ。』エカテリーナの部屋に入り、千尋がそう言って腰を下ろすと、彼女はじっと千尋を見た。『何ですか?』『あたしの事を“奥様”と呼ぶのはやめておくれ。まがりなりにもあたしはお前の祖母なのだからね。』『では“お祖母様”とこれからはお呼びいたしますわ。』『それでいいのさ。それよりもチヒロ、今年の夏はコモ湖へと足を伸ばしてみようと思ってね。お前も来るといい。』コモ湖は、イタリア北部にある湖で、欧州の各国王室や貴族の保養地として人気の場所であることを、千尋は知っていた。『ええ、是非。でもあの人は反対なさらないかしら?』『オリガの事は放っておきな。アリョーシャは友人とハバロフスクに行くそうだ。だから心配要らないよ。』『そうですか・・』休暇先でもあの2人と顔を合わせなければならないのかと思うと千尋は憂鬱だったが、初めての海外旅行に彼女は胸を弾ませた。 数週間後、千尋は父・ミハイロフと、祖母・エカテリーナ、長兄・アンドレイとともにイタリアへと旅立った。『ロシアの外に出るのは初めてだろう?』『ええ。』イタリア・ミラノ行きの汽車に乗った千尋は、そう言いながら一等車両の窓から異国の風景を眺めていた。『ミハイロフ、あの子は色々と辛い目に遭ってきた子だ。あたし達が守らないとね。』『はい、母上。』『アンドレイ、お前も妹をしっかり守るんだよ。』『はい、お祖母様。』コモ湖のホテルへと着いた千尋は、子どものようにはしゃぎながら窓から見える雄大な湖を眺めた。『そんなに窓から身を乗り出すんじゃないよ、チヒロ。テラスがあるんだから。』『すいません。』ぺろりと舌を出した彼女は、そう言ってエカテリーナに頭を下げた。初めての家族旅行を、千尋は満喫してサンクトペテルブルクへと帰った。そんな彼女に縁談が持ち込まれたのは、数日後の事だった。『お相手はアドリアン=アダモフ海軍将校様よ。是非あなたにお会いしたいのですって。』そう言ったオリガは、心なしか厄介者をこの家から追い出すことができるという嬉しさを顔に出していた。『一度だけ、お会いいたします。』 余り乗り気でない千尋だったが、結局オリガに押し切られる形となり、ボンネル子爵家の舞踏会へ出席することになった。にほんブログ村
2011年11月18日
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千尋は、恐怖で目を見開くナターリアの頬を、ナイフの刃で撫でた。『さぁてと、そのお上品な顔にどんな模様をつけようかしら?』『やめて。』『やめて、ですって? あなた、憎い相手の前で命乞いするなんて情けない女ねぇ。』あれ程自分に陰湿かつ幼稚な嫌がらせを繰り返し、悦に浸っていた女は今や恐怖に震え、自分に対して命乞いしている。その姿が哀れで、滑稽に見えた。千尋がナターリアを押さえつけていると、彼女はぶるりと身を震わせた。その刹那、つんとした臭いが彼女から漂い、尿が大理石の床を汚してゆく。『汚い女ね。本当に、汚い女。』千尋はそう言って笑うと、ナターリアが結いあげている自慢の髪を乱暴に掴み、ぐしゃぐしゃにすると、それを時間をかけ、ナイフで切り落とした。『いやぁぁ、わたしの髪が!』『髪くらいなによ。ふん、小便漏らして恥ずかしいと思わないの?』千尋はナターリアから離れると、右手に握っていた髪の束を彼女の前に放った。『さっさと片付けなさいよね、この小便漏らし。』恐怖と屈辱で泣き叫ぶナターリアに背を向け、千尋は自室へと戻った。その後オリガとアンドレイの悲鳴が聞こえたが、彼女は夕食の時間まで部屋に籠っていた。『あら、ナターリアさんは?』夕食の席についた千尋は、ナターリアの姿がないことに気づき、アンドレイにその事を尋ねると、彼はきっと妹を睨んだ。『お前、ナターリアに何をしたんだ!』『別に。わたくしを怒らせたら怖いと、彼女に思い知らせただけよ。』千尋は淡々とした口調でアンドレイにそう言うと、ステーキを一口大に切った。『ナターリアが一体何をしたというの?』『それはあなたもご存知の筈でしょう? わたくしのドレスや靴を隠したり、汚したりなさったのはどなた? あなたとナターリアさんは仲が宜しいから。』オリガは、千尋の言葉に「うっ」と喉を詰まらせたような声を出した後、黙った。『ナターリアはチヒロをいじめた分、その報いが返ってきた、それだけの事だよ。』エカテリーナはそう言ってウォッカを美味そうに飲んだ。『お祖母様・・』『アンドレイ、妹を叱るよりも、妻を躾るんだね。まぁ、あの子の歪みきって腐り切った性根が直ることはないだろうよ。』アンドレイは祖母の言葉を聞き、俯いた。「チヒロ、済まなかった。」夕食後、アンドレイは千尋を自室に呼び出し、そう言って彼女にナターリアがした事を詫びた。「お兄様が謝ることではありません。それにわたくしは、もう彼女を何とも思っておりませんから。」「そうか・・」結局ナターリアは千尋に髪を切られた後自室に引きこもるようになり、彼女は実家に返されることとなった。『全く、乱暴な子だこと。少しいじめられたからって髪を切るだなんて。』オリガは紅茶を飲みながらそうアリョーシャに愚痴ると、彼は母の言葉に頷いた。『あいつ、お祖母様を味方につけて良い気になってるよ。自分の立場っていうものが全くわかってないようだね。少し痛い目に遭わせないと・・』アリョーシャの母譲りの翡翠の瞳が、怪しく煌めいた。 社交シーズンを迎え、パーティーやお茶会、観劇と、千尋の周囲は俄かに慌ただしくなった。それと同時に、ナターリアの事件の事もゴシップ好きの貴婦人達が広め、千尋の存在があっという間に社交界に知れ渡ってしまった。そんな中彼女は、ある有名なピアニストに招かれ、バレエ団の公演を鑑賞しに、ボリジョイ劇場へと向かった。 贅を尽くした金箔の劇場内を千尋が見ていると、誰かが彼女の髪に触れた。『失礼。あなたの髪が余りにも美しかったもので。』『まぁ、お世辞でも嬉しいわ。』 千尋がくるりと振り向くと、そこには彼女を招いたピアニスト・ドミトリィが眩しい笑顔を浮かべながら立っていた。にほんブログ村
2011年11月18日
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「全くお義母様ったら、何であんな子に気を掛けるんだか全く解らないわ。」オリガは自室でそう息子相手に愚痴った。 彼女の不満は、突然自分達の前に現れた夫と日本娘との間に生まれた隠し子・千尋に向けられていた。 これまで子ども達の教育方針や家の財産管理などで深く対立していた姑・エカテリーナが、新参者である千尋を何かと庇うことがオリガは気に入らず、その当てつけに千尋に膨大な家事や仕事を押しつけたりして憂さを晴らしていた。だがその事を当の姑に知られ、オリガは少し焦っていた。「母上、そんなに気に病むことなどありませんよ。あの娘は元々余所から来た者でしょう? ここでの生活が嫌になって出て行くに決まってますよ。」「そうね・・あなたの言うとおりよねぇ。」オリガは翠の瞳を輝かせ、陰険な考えを巡らせた。 千尋がボコスロフスキー伯爵家に来て数週間が経ったが、彼女は未だに伯爵家の厳格な家風に馴染まずにいた。正妻のオリガや長兄の妻―食事会で何かと自分に突っかかったナターリアは、彼女の一挙手一投足を見て何かと文句を言い、千尋が反論するとその言葉尻を捉え、揚げ足を取った。陰険なのは女達ばかりではなく、伯爵家の次男・アリョーシャは食事会を欠席し、ナターリアと徒党を組んで千尋の靴やドレスを隠したりと、地味な嫌がらせを繰り返していた。だが彼らの嫌がらせに屈する千尋ではなく、自分とやられた事を彼らに毎回やり返していた。しかし余りにも彼らが自分にする事が幼稚過ぎて、相手にするのも限界に来ていた。『チヒロ、入るよ。』『どうぞ。』ドアが開き、エカテリーナが部屋に入って来た。孤立無援の伯爵家の中で、彼女は千尋の唯一の味方だった。『この家には慣れたかい?』『いいえ。ナターリアとアリョーシャは、何であんなに幼稚なんでしょうね?』『彼らの事は放っておきな。あんたが相手にするから、彼らはムキになってやり返してくる。最初から相手にしなければ、やらないものさ。』エカテリーナはそう言うと、骨ばった手で千尋の肩を叩いて励まし、部屋から出て行った。その後、千尋はいつものように読書や刺繍などをしたりして過ごしていたが、家に籠りきりになるのもいけないと思い、庭へと出た。色とりどりの薔薇が咲き誇るのを眺めていると、ふと千尋は土方家の美しく整えられた庭を思い出した。 英国風の庭園の中に、一際異彩を放っていた梅の木が、千尋は密かに好きだった。だがここには梅の木はない。当然、それを植えた主も居ない。(旦那様・・)千尋が溜息を吐いて庭を後にして邸の中へと戻ろうとしていた時、誰かが自分にぶつかった。『誰かと思ったら、卑しい娘じゃないの。』 神経を逆なでするようなナターリアの声が、頭上から響いたかと思うと、ひんやりとした感触を頭から感じた。『まぁ、みずぼらしいこと。あなたには相応しいわね。』花瓶を片手に、ナターリアはそう言って千尋を嘲笑った。濡れたドレスや髪を触りながら、千尋は激しい怒りに駆られた。何故こんな仕打ちを受けなければいけないのか。『あら、いいものを持っているじゃない。』ナターリアの目が、千尋の首に提げていたナイフに留まった。『あなたにはこんなもの、勿体ないわ。』彼女がナイフに手を伸ばそうとした時、千尋は電光石火の勢いで彼女の向う脛を蹴り、唖然としている彼女の身体を床に押し倒すと、ナイフの刃を喉元にあてた。『お前、何するの!?』『顔を傷つけられたくなかったら、その煩い口を閉じなさい!』ナターリアが逃げようとしてもがいたが、千尋の強い力の前では肩すら動かせないでいた。にほんブログ村
2011年11月18日
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「また、真理亜の事か?」小田家当主・善信はそう言って妻・綾子を見た。 彼女が小田家に嫁いできて15年経ったが、善信は彼女が何を考えているのか未だに解らなかった。「ええ。どうしてあの子はあなたや美琶子さん達と仲良くなれないのかしら?」綾子の娘・真理亜は善信や彼と前妻との間に出来た子ども、美琶子と綾人を毛嫌いし、彼らと顔を合わせれば喧嘩ばかりしていた。 というのも、元華族である誇りを持っている綾子の母・礼子から「うちが潰れなければあんな家にお前の母を嫁にやらなかったものを」と毎日真理亜に愚痴をこぼし、芸妓として身を窶(やつ)した末に成り上がり者の妻となった綾子の事が気に入らないようで、善信やその一族の悪口を平然と真理亜の前で言っていた。そんな祖母の影響を受けた真理亜は、いつしか善信達を嫌うようになり、家を飛び出して横浜の知人宅へと行ってしまった。「真理亜ちゃんはまだ臍を曲げているのかい?」「ええ。もう二度とここには戻らないと言って。誰に似たのやら。」「まあ焦ることはないだろう。あの子は複雑な年頃なのだから。」「そうですわね。」空に浮かぶ月を夫と眺めながら、綾子はもう一人の娘―千尋に想いを馳せていた。(あの子は、元気にしているのかしら?)孤児院の戸口に泣く泣く捨てるしかなかった小さな命の事を、綾子は忘れていない。いつか自分の命が尽きるその前に、彼女に会いたいと綾子は思うようになっていた。 その頃千尋は、父の正妻やその一族から冷遇されながら、彼らへの仕打ちに耐える日々を送っていた。自分が歓迎されないことが解っていた筈なのに、目の前に居るのにその存在を無視されることほど、辛いものはなかった。『チヒロ、いるかい?』『はい。』ドアを開けると、老女―父方の祖母・エカテリーナが部屋に入って来た。もうすぐ卒寿になろうとしている彼女だが、杖も持たずに背筋を伸ばしてしっかりとした足取りで千尋の前にある椅子に腰を下ろした。『ここにはもう慣れたかい?』『はい・・』『嘘を言うでないよ。オリガ達に色々と無理難題を言われたんだろう?』『ええ・・』千尋は忙しく針と糸を動かしながら、エカテリーナの言葉に頷いた。『全く、いけすかない女達だ。陰険な女達の事は放っておきな。』エカテリーナは寝台に積まれているコサージュの山を両手に抱えると、それらに針と糸で真珠を縫いつけ始めた。 一見厳格そうで近寄りがたい印象をエカテリーナに持った千尋だったが、彼女は気さくでかくしゃくとした老婆だった。一族の女達を束ね、歴史ある伯爵家の女主人として采配を振るうエカテリーナは、何かと千尋の事を気遣ってくれ、千尋は強力な味方を得た。『そのナイフは?』エカテリーナはそう言うと、千尋が胸に提げているナイフを見た。『これは大切な方から贈られたものなんです。』『そうかい。ここに来るまで色々とあったんだろう。』エカテリーナは何も千尋に聞かず、黙々と手を動かしていた。『まぁお義母様、こちらにいらしていたのですか?』自分が言いつけた仕事を千尋がサボっていないのかを確かめに来たオリガは、姑が彼女と作業をしているのを見て驚いた。『オリガ、少しは人の優しさというものを身に付けたのかと思ったら、大間違いだったようだ。』『そんな・・この子が悪いのですわ!』『お黙り。継子を苛める嫁など、見苦しいことこの上ないよ。用がないのならさっさと出ておゆき。』姑にそう言われ、オリガは何も言い返せずに千尋の部屋から出て行った。『どうされたのですか、母上?』彼女が廊下を歩いていると、次男・アリョーシャが声を掛けてきた。にほんブログ村
2011年11月17日
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「姉さん、来るなら来るって言ってよ。」 理哉はそう言って姉を見ると、千華子は大袈裟な咳払いをして、一枚の釣書を弟の前に置いた。「この方とは会うだけでいいから。」「やだよぉ、僕まだ結婚したくないってば~」理哉は思い切り顔を顰めると、釣書を姉に戻した。「そんな事ばかり言ってるから、わたし達が心配するんじゃないの! 大体あなたは大学を出てから働きもせずに剣術や乗馬に明け暮れて、一体何をしているのよ!」「別にぃ、毎日を楽しんでいるよ? それよりも姉さん、今日は旦那さんに子ども任せてわざわざ僕にお説教言いに来た訳? ご苦労様~」理哉は欠伸をしながらそう言って姉を見ると、彼女は弟の手を再び扇子で叩いた。「全くあんたって子は! 今日という今日は、わたしに付き合って貰いますからね!」千華子が耳元でぎゃんぎゃん喚く声を、理哉は溜息を吐きながらうんざりとした顔をして珈琲を飲んでいた。「姉さん、付き合って貰いたいところって、舞踏会なの?」「そうよ。」千華子はそう言って理哉を逃がさぬよう、彼の腕に己のそれを絡ませた。煌めくシャンデリアの下では、盛装した男女の笑い声が響いていた。「義兄さんにエスコートして貰えばいいじゃないか。」「いいのよ。あの人、最近色々と忙しそうだからねぇ。」ほほほと、お淑やかに笑う千華子の目が笑っていないことに気づき、また下らない事で義兄と喧嘩したのだろうなと理哉は思った。「ふぅん・・」「さ、行くわよ!」「痛いって、姉さん!」ぐいぐいと腕を引っ張られ、抵抗できずに理哉は千華子と踊る羽目になってしまった。「なかなかさまになってるじゃない。まぁわたしがみっちり仕込んだからねぇ。」「仕込んだって・・嫌らしく聞こえるよ、その言い方。」理哉は千華子と踊った後、風に当たろうとホテルのバルコニーへと向かった。(あ~、疲れた。姉さんは相変わらず、お節介が過ぎるったら・・)既婚者である姉二人は、結婚適齢期を過ぎようとしている理哉に対して何かを縁談を持ちかけてきては、本人の気持ちなど知らずに「この娘は気が強そうだ」とか、「あくが強過ぎる」とか、釣書の写真を見ながら姦しく話している。 彼女らには夫や子どもがいるというのに、それを放ったらかして弟に結婚を勧めていいのか。当分独身貴族として自由を満喫したい理哉にとって、姉達の行動はお節介以外の何物でもないのだが。「もし、そこの方。」「え、僕?」突然背後から声を掛けられ、理哉が振り向くと、そこには薄紫のドレスを纏った令嬢が立っていた。「そう、あなたよ。あなた、もしや桐生理哉様?」「そうだけど、君は?」「小田美琶子(おだみわこ)と申します。お会い出来て嬉しいわ。」令嬢―小田美琶子はそう言うと、理哉に微笑んだ。「小田っていうと、あの資産家の?」「ええ。成り上がり者の娘ですわ。」「理哉、こんなところにいたの!」ドレスの裾を摘みながら千華子が弟の方へと駆け寄ると、彼は小田家の令嬢と何かを話していた。「姉さん、どうしたの?」「あらぁ、いい相手を見つけたみたいねぇ。」「そんなんじゃないよ。ねぇ?」「ふふ、どうかしら。」美琶子はそう言うと、意味深長な笑みを口元に浮かべた。(なんか調子狂うなぁ、この子。) 一方小田邸では、綾子が憂えた表情を浮かべながら窓の外を眺めていた。「どうしたんだ、綾子?」「あなた・・」にほんブログ村
2011年11月17日
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昨日から月に一度はあるものが来まして、今日はその所為で下腹が痛いです。まぁ、去年の冬にカイロ腰に張り忘れて酷い頭痛に襲われたことに比べればましですけどね。あの時は食べた物を吐くくらい、痛かったので。今日は痛み止めのんで早めに寝ようかな。
2011年11月17日
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『最初・・孤児院を設立した時、わたしは本当に純粋な思いで子ども達の為に働いておりました。』スティーブ=サマーズはそう言うと、両手で顔を覆った。『けれども、あなたの善意を利用する輩がいた。それは誰ですか?』『それは、申し上げられません。』スティーブは手を顔から離し、ティーカップを持とうとしたが、それは小刻みに揺れた。『そうですか。サマーズさん、あの子は誰ですか?』理哉とアンドリューは、そう言ってスティーブの背後に立っている黒髪の少女―真理亜を見た。『彼女は真理亜、わたしの友人です。』『友人、ねぇ・・親子ほどの年齢差があるあなた方を見ると、友人同士には思えないのですが?』アンドリューがそうスティーブに鋭い指摘をすると、真理亜がスティーブの方へと駆け寄った。「スティーブさんはわたくしのお父様代わりです! 決してよこしまな関係ではありません!」「ふぅん、そうなの。真理亜ちゃん、って言ったよね? 君はこの人の話、どこまで信じているわけ?」「え・・」「彼と一緒に暮らしているんなら、ここに来るまでの経緯を聞いているよねぇ。」理哉は鋭い眼差しで真理亜を見ると、彼女はスティーブを見た。『真理亜は、あの子の・・チヒロの妹です。』スティーブの言葉に、理哉とアンドリューは思わず息を呑んだ。『それは、本当なのですか?』『ええ。チヒロと真理亜の母親は、滝川伯爵家の令嬢・アヤコです。外交官の娘として裕福な生活を送っておりましたが、父親が興した事業が失敗し、ゲイシャとしてその身を売りました。』由緒ある滝川伯爵家の当主が気まぐれで興した事業が大損害を出し、先祖代々受け継いだ土地や家屋敷を失い、没落の一途を辿ったことは新聞に大きく取りあげられたので、理哉にはその名には記憶があった。『アヤコの客は外国人が多く、黒髪で美しく教養高い彼女はチヒロの父親の目に留まり、彼との間にチヒロを授かりましたが、アヤコは彼と一緒になることを父親から許されず、父親が勧める相手と結婚させられたのです。』「その結果、生まれたのが君なんだね?」「はい。」「君のお母様、綾子様は今どちらに?」「東京の邸におります。ですがわたくしはあの方を母とは思っておりません。」真理亜はそう言うと気まずそうに理哉にそっぽを向くと、紅茶を淹れ直してくると居間から出て行ってしまった。どうやら彼女と母親との関係は、余り良くないようだ。『真理亜が失礼な態度を取ってしまって申し訳ない。彼女は今、ある問題を抱えているんです。』『ある問題、ですか?』『ええ、実は・・』綾子は千尋の父親・ミハイロフと別れた後、資産家として名を馳せている小田家へと嫁いだが、実の父親とその一族との関係が上手くいってなく、スティーブの家で居候しているのだという。「真理亜ちゃんも千尋ちゃんも、複雑な事情をそれぞれ抱えているんだね。」「ええ。かといって、わたし達がそれに介入する事はできませんね。」「家族の問題に他人が首を突っ込むと、余計ややこしくなるからね。」スティーブの家から出た理哉とアンドリューが東京の桐生邸へと戻ると、冷静沈着な諒が慌てふためいた様子で彼らの方へと駆けてきた。「坊ちゃま、大変です!」「何が大変なの? 詳しく言ってくれないと分からないなぁ。」理哉がそう言って肩を竦めると、衣擦れの音を立てながら1人の女性が彼の前に現れた。「姉さん・・」「久しぶりね、理哉。」そう言った女性―理哉の姉・千華子は弟の顔を見るなり、彼の手を持っていた扇子でばしっと叩いた。「あんたって子は、いつまで経っても結婚しないで、それでも桐生家の跡継ぎですか、情けない!」凛とした顔立ちに似つかわしくない千華子の怒鳴り声が、桐生子爵邸に響いた。にほんブログ村
2011年11月16日
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「こんなのを、何処で?」「うちの執事は優秀でね、探偵まがいの事は朝飯前なんだ。それよりも院長の現住所、良く見てごらん。」理哉がそう言って人差し指で指した住所は、横浜の外国人居住区となっていた。「目と鼻の先の横浜に、どうして院長が?」「おかしいよねぇ。孤児院が放火されたのが1年前。強盗に遭って負傷した院長が行方をくらましたのも同じ時期。何だか偶然過ぎない?」「確かに・・」アンドリューは千尋が居た孤児院の資料に一通り目を通した。するとそこには、不明な点がひとつあった。 孤児院に居た子ども達―放火事件で死んだ子ども達を含め、全員が外国人との混血児だったのだ。「院長が英国人でも、混血児の孤児を育てながら孤児院を運営するなんて、怪しいでしょう?」「うん。何か裏があるような気がする。」「じゃぁ、行こうか?」「何処へ行くんです?」「決まってるじゃない、そんな事。」 アンドリューと理哉が横浜の外国人居住地へと足を踏み入れると、街にはフランス語やドイツ語、英語などが飛び交い、同じ二本国内であるというのにまるで別世界に居るかのようだった。「住所は確か、あの角を曲がってすぐの家だよね?」理哉がそう言って角を曲がると、突然数人の男達が彼らの前に現れた。「君達、誰? 身なりが良いから、そこらへんの博徒じゃないよねぇ?」理哉の翡翠の双眸が、狼藉者達を睨みつけた。「出しゃばると、酷い目に遭うぞ。」「それは警告なの? ふぅん、面白そう。」理哉は舌なめずりすると、握っていたステッキに仕込んでいた白刃を彼らに向けた。「サトヤ・・」「大丈夫だよ、ここで警察沙汰になったら後々厄介になるからね。少し痛め付けるだけさ。」その言葉から充分に殺意が感じられ、アンドリューは目の前に立つ青年が恐ろしく感じた。「やっちまえ!」「相手は2人だけだ!」男達は理哉の殺気に気づいていないのか、闇雲に彼らに突進していった。「馬鹿な奴らだね、僕の見た目にころっと騙されるなんて。」地面に倒れたまま動かない男達を見ながら、理哉はさっさとそこから立ち去った。「待って下さい、サトヤさん!」アンドリューが慌てて理哉の後を追うと、彼は院長の家のノッカーを叩いているところだった。「はい、どちら様でしょうか?」ドアが開き、家の中から出てきたのは、藤色の着物を着た黒髪の少女だった。彼女は理哉達を見ると、愛らしい顔を恐怖で引き攣らせた。「こちらにスティーブさん居る? 彼に会いたいんだけど。」「しょ、少々お待ち下さい。」「人を玄関先で待たせるの、この家の使用人は?」翡翠の瞳で理哉が少女を睨むと、彼女はアンドリュー達を居間に通した。「君、彼とどういう関係なの? 名前は?」「わ、わたしは・・」少女が言葉を発しようと口を開こうとした時、ドアが開いて1人の男が居間に入って来た。『真理亜、今帰ったぞ・・』千尋が居た孤児院「サマーズ・ハウス」元院長・スティーブ=サマーズは、ソファに座っている客人2人を見て蒼褪めた。『こんな所にあなたが暮らしているだなんて思いもしませんでしたよ。』理哉はそう言って笑みを浮かべたが、目は全く笑っていなかった。『ここに何故あなたが居るのか、全て教えてくださいませんか?』『・・わかりました。』スティーブは観念したかのように、ソファに腰を下ろした。にほんブログ村
2011年11月16日
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『チヒロ、と言ったね?』『は、はい・・』老女に睨みつけられ、千尋は緊張で唾を呑みこみそうになったが、ぐっと堪えた。『お前、ピアノやダンスは出来るのかしら?』『はい・・』 土方家に居た頃、自分の代役として何処に出しても恥ずかしくないようにと、生前総美(さとみ)は千尋にピアノやダンス、筝や茶道や華道などを習わせていた。その甲斐あってか、貴婦人の嗜みであるダンスやピアノ、刺繍などは完璧だった。『そう。じゃぁ夕食後にその腕前を見せてくれるかしら?』『母上、チヒロは長旅で疲れております。どうか今日は・・』横からミハイロフが助け船を出したが、老婆はキッと彼を睨みつけた。『お黙りなさい、ミハイロフ。』『まぁ、どんな曲を弾いてくれるのかしら、楽しみだわぁ。』老女に一喝された女性が悪意に満ちた視線を送りながらそう言うと、千尋を見た。 激しい吐き気が込み上げて来て、千尋は慌ててグラスに入っている水を一気に飲み干した。『チヒロ、大丈夫?』激しく咳き込む千尋の背を、アンドレイが慌てて擦った。『はい・・』『アンドレイ、その子に触るんじゃありません。』オリガが眉を顰めながら息子に向かってそう叫ぶと、千尋を睨んだ。『チヒロさん、と言ったわね? さっさとピアノの前に座りなさい。』『はい、奥様。』千尋はのろのろとテーブルから離れ、黒檀のピアノの前に腰を下ろした。鍵盤を開き、彼女はゆっくりとその上に指を滑らせ、ショパンのエチュードを奏で始めた。千尋がピアノを奏で始めた時、彼女に悪意をぶつけていた女性が悔しそうな顔をして部屋から出て行った。『ふん、なかなかやるわね。』『ショパンのエチュードが弾けたからって、あの子が庶子なのは変わらないわ。』オリガはそう言うと、夫が日本娘に産ませた子を睨みつけた。千尋がピアノを弾き終わると、老女がゆっくりと椅子から立ち上がり、彼女の方へと近づいた。『いい演奏だったわ。貴婦人としての嗜みは一応身に付けているようね。』『ありがとうございます、奥様。』『今日は長旅で疲れたことでしょうから、部屋で休みなさい。』老女は執事に目配せすると、部屋から出て行った。『どうぞ、こちらです。』 執事に案内され、千尋が入ったのは天蓋付きの寝台がある豪華な部屋だった。執事が扉を閉め、千尋は漸く寝台に寝転がって溜息を吐いた。これからあの老女や、オリガと付き合えばいいのか、彼女は解らずにいた。敵は彼女達だけではなく、ボコスロフスキー伯爵家の一族が、千尋を歓迎していない。ここには心を許す者が、誰も居ない。信じられるのは、自分だけだ。千尋は溜息を吐きながら目を閉じようとした時、執事が部屋に入って来た。『失礼致しますお嬢様、お召し替えの時間でございます。』『はい・・』執事によって千尋はドレスから夜着へと着替え、寝台へと横たわり、彼女は目を閉じた。 短い夏を迎えたロシアで過ごす初めての夜は、肌寒かった。 一方桐生子爵家では、アンドリューと理哉が向かい合わせに座りながら珈琲を飲んでいた。「そうか、千尋君はロシアに・・」「向こうには父親の親族がいるみたいだけど、歓迎されないね、きっと。」理哉はそう言って諒から一枚の封筒を受け取ると、テーブルの上に書類を広げた。「これは?」「これは千尋ちゃんが居た孤児院の記録。そしてこれは、失踪中の院長の、現住所さ。」理哉の翡翠の瞳が、怪しく煌めくのをアンドリューは見た。にほんブログ村
2011年11月15日
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『もうすぐ着くよ。』兄・アンドレイにそう言われ、千尋は俯いていた顔を漸く上げた。船で日本から離れ、20日間の船旅の末、彼女は初めてロシアの土を踏んだ。これから、父とその家族―彼の正妻とその子ども達と会うのかと思うと、千尋の胸は不安で張り裂けそうだった。(旦那様・・) 千尋は目を閉じ、歳三の笑顔を思い出しながら、彼が贈ってくれたナイフをそっとドレスの上から撫でた。 土方家を出る際、ナイフを歳三に返そうと思っていたが、彼からの贈り物を蔑ろにしたくはなかったので、常に身に付けていた。『大丈夫だ、チヒロ。わたし達がついてる。』『お父様・・』そっと肩を叩いてくれたミハイロフの笑顔に千尋は励まされた。やがて3人を乗せた馬車は、サンクトペテルブルク市内の目抜き通り・ネフスキー大通りを走り、ロイヤルブルーの外壁に彩られた貴族の邸内路へと入っていった。『お帰りなさい、あなた。アンドレイ、長旅ご苦労様だったわね。』『ただいま戻りました、母上。』3人が馬車から降りると、ミハイロフとアンドレイに1人の女性がそう声を掛け、彼らに交互に抱きついた。『オリガ、帰ったよ。』ミハイロフはそう言って妻・オリガを抱き締めた。オリガは夫と息子に微笑んだ後、彼らの背後に立っている金髪の少女に向けて険しい視線を送った。『あなた、あの子は?』『オリガ、紹介しよう。チヒロだ。チヒロ、この人はわたしの妻、オリガだ。』千尋は刺すような視線を送る亜麻色の髪の女性に向かって、頭を下げた。『初めまして・・奥様・・』『ふん、礼儀は弁えているようね。あなた、長旅でお疲れでしょう? あなた達の為に早めに夕食にいたしましょう。』『ああ、それがいいな。』ミハイロフとアンドレイ、オリガは和気藹藹とした様子で邸の中へと入ってゆき、千尋は彼らの後に続いた。 父の正妻であるオリガが、愛人の子である自分を歓迎する筈がないことくらい、解っていた。今すぐにでも日本に帰りたい―千尋はそう思い始めたが、歳三への想いを無理矢理断ちきった。(わたくしはここで生きてゆかねば。どんなに辛くても。) 千尋がダイニングに入ると、そこには長方形のテーブルに、ボコスロフスキー伯爵家の者達がそれぞれの席に着き、じっと千尋を見つめていた。『あなたはあちらよ。』オリガが繊細なレースで作られた扇で指したのは、ミハイロフとアンドレイからは遠い席だった。『はい・・』千尋は椅子に腰を下ろすと、オリガの近くに座っている老女がジロリと緑の瞳で彼女を睨んだ。『その子が日本娘との間に出来た子かい?』『はい、お義母様。』『ふん、器量よしで良かったね。ミハイロフに似ていたら、見るに堪えない醜女だろうと思っていたがね。』老女の言葉に、千尋はこの家から歓迎されていないことが解り、急に息苦しさを感じた。 神への祈りを捧げた後、伯爵家のメイド達が料理を運び、後ろに控えていた男達が一族の者達に給仕し始めた。彼らの前に置かれたのは牛の血肉が滴る熱々のステーキや、季節の食材を使った贅を尽くした料理であった。 千尋は冷ややかな空気の中、ナイフとフォークを使いながらステーキを食べ始めた。『まぁ、乱暴な食べ方をするのかと思ったら、ちゃんと食べられるのねぇ。』 千尋の向かいに座っていた女性が、蔑むような視線を千尋に送りながら、馬鹿にしたように言うと、スープを一口啜った。『おやめ。お前がスープを煩く啜る音は聞くに堪えないよ。』老女が女性を一喝すると、彼女は怒りで顔を赤くして俯いた。にほんブログ村
2011年11月15日
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2029年6月吉日。この日、千歳と総介の結婚式が、都内某所の結婚式場で行われた。「なぁ、何で俺がこんな格好しなきゃなんねぇんだ? 俺は千歳の父親としてヴァージンロード歩くんだろう?」何故か新婦の父親である歳三は、新郎と同じ純白のタキシードに身を包んでいた。「そんな事言わないで、父さん。総介さんや姉さんが2人の為に考えた事なんだから。」「結婚式なんざ今更しなくてもいいだろうに・・」 歳三と千尋は、何度か結婚式を挙げようと思っていたが、“いつかやろう”と思ってずるずると引き延ばしにした結果、やらずじまいに終わってしまった。 その事を知った千歳達が、“父さん達も一緒に結婚式を”と総介に話し、拓や双方の両親と共に結婚式前日まで彼らに内緒にしていた。「良く似合ってるよ。そろそろ時間だよ。」「解ってるよ。」前髪を鬱陶しげに掻き上げ、妻と娘が待つチャペルへと向かった。 スタッフが扉を開け、聖歌隊の讃美歌とともに純白のドレスを纏った千尋と千歳が入って来た。「いいか、千歳を泣かせやがったら俺がゆるさねぇぞ。」「解りましたよ、お義父さん。」「“お義父さん”じゃねぇ、“お義父様”と呼びやがれ。」歳三が総介と言い合っている間に、2人が彼らの前にやって来た。「あなた、どうかしら?」「・・良く似合ってるぞ。何だか照れ臭ぇなぁ。」「ふふ。」神の前で永遠の誓いを交わした2組のカップルは、招待客の祝福を受けながらキスをした。「おめでとう~」「お幸せにね~」チャペルから出た彼らを、招待客がライスシャワーを浴びせた。 式の後は千歳達の披露宴で、穏やかな中新郎新婦共通の友人達による余興や歌などがあり、歳三達は幸せそうな2人に思わず頬が弛んだ。「では最後に、新郎新婦から新婦のご両親へのサプライズです!」 披露宴の最後、司会者の合図で会場の照明が突然消え、スクリーンに歳三と千尋が今まで歩んできた夫婦の歴史映像が流れた。「お父さん、お母さん、今までわたしを育ててくれてありがとう。これからも2人のような夫婦を目指して、総介さんと幸せな家庭を築いていきます。」「馬鹿野郎、泣かせやがって・・」歳三はそう言って慌てて目元を涙で拭った。その時、千尋が彼の肘を突いた。「千尋、どうした?」「あれ・・」 千尋が指す方を見ると、会場の入り口近くで白く淡い光が眩い程に輝いており、招待客達は何事かとそれを見ていた。 歳三が目を凝らしてその光を見てみると、そこには総司と近藤達が自分達に笑顔を浮かべていた。―トシ、幸せになれよ。―土方さん、もう大丈夫ですね。―土方さん、千尋と幸せにな!(近藤さん・・みんな・・) 笑顔で自分達を祝福してくれるかつての仲間達の姿を見て、歳三は漸く彼らを死なせてしまったという重い十字架を下ろす事が出来た。「あなた、良かったですね。」「ああ・・もう俺は大丈夫だ。」 光はやがて小さくなり、消えていった。まるで千尋達の幸せを見届けたかのように。 その日は歳三達にとっても、千歳達にとっても特別な日になった。―FIN―写真素材 ミントBlue様にほんブログ村
2011年11月11日
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「父さん、紹介するね。こちらがお付き合いしている総介さん。同じ大学の先輩。」「初めまして。」「お、おう・・」「父さん、娘に彼氏が出来て悔しいんだ。」「ばか、違ぇよ。」歳三は顔を赤く染めながら、そう言って娘の恋人を見た。彼は笑い方も、声も、容姿も何から何まで総司にそっくりだ。「あのねお父さん、お母さん、落ち着いて聞いてね。実はあたし達、結婚する事になったの?」「へ? け、けけ結婚だぁ~!」歳三は驚きの余りビールを持っていたグラスを落としてしまった。「あ~あ、こうなると思ってたよ。姉さん、まだ結婚は早いんじゃないの?もしかして出来婚?」拓は雑巾を持って畳についた染みを拭きながら、そう言って千歳を見た。「違うけど・・総介が今すぐに結婚したいって言って聞かないのよね。」「お前ぇ、まだ19だろうが。それに学生の分際で結婚なんざ、俺ぁ認めねぇよ。」「父さん、娘の彼氏に嫉妬すんなよ、見苦しい。総介さんすみませんねぇ、こんな親父で。同居はお勧めしませんよ。」「う、うるせぇ!」隣で真っ赤になって怒鳴る夫を、千尋は微笑んで見ていた。「もう向こうのご両親とはお会いしたの?」「うん。あちらのご両親は結婚に賛成してくれたよ。」「へぇ、そうか。千歳、本当にお前ぇ、妊娠してねぇんだよな? 妊娠と結婚の順序は間違えるなよ!」「んもぉ~、妊娠してないってば!」千歳はそう言って歳三の肩を叩いた。「ったく、何だってんだ千歳の野郎。大学行く為に家出たと思ったら、彼氏連れて来て結婚だと? ふざけやがって・・」「そんなにやきもち焼かなくても宜しいじゃありませんか。総介君も良い人そうですし。」「千尋、お前ぇも千歳の結婚に賛成なのか?」「総介君、沖田先生に似てましたね。」千尋がそう言って歳三の肩を揉むと、彼は静かに頷いた。「ああ。話し方や声、顔・・総司そっくりだ。もしかしたらあいつは、総司の生まれ変わりかもしれねぇな。」「そうだといいですね。そうお思いになられるのでしたら、義理の息子と仲良くなってくださいね。」「畜生・・」 それから千歳と総介との結婚に何かと散々理由をつけては反対していた歳三だったが、千尋の言葉もあってか結局は2人の熱意に折れる形で彼らの結婚を許した。「ったく、俺はまだ許した訳じゃねぇからな。」「おいおい父さん、もう諦めろよ。姉ちゃん、まだ言ってるよぉ。」「放っておきなさい。」両家の食事会である料亭で、歳三達は総介と彼の両親を待っていた。「すいません、お待たせしました。」「いいえ、今来たところですから、どうぞお気になさらず。」千尋はそう言って足を崩そうとしていた歳三の肘を突いた。「お父様、うちの息子を宜しくお願い致しますね。」「はい。そちらこそ、うちの我がままでおてんばな娘をどうぞ宜しくお願い致します。こいつはぁお淑やかな振りしてキレると俺に似て口が悪く・・」「あなた、黙って。」千尋はそう言って歳三をキッと睨み付け、総介達に笑顔を向けた。「早過ぎる結婚だとわたくし達も反対しておりましたけれど、千歳さんは良いお嬢さんのようで安心いたしましたわ。やっぱりご両親のご教育の賜物ですのねぇ。」「はは、そんな事はありませんよ。」「ったく、調子良いんだから・・」先ほどまで不機嫌だった歳三が饒舌になり、それを傍で見ていた拓がボソリとそう呟いた。にほんブログ村
2011年11月11日
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祭囃子の音が、小学校の校庭に心地よく響いた。「ねぇ、次何処行く?」「ん~、どうしようかなぁ。」浴衣の袖を揺らしながら、千歳と亜美、望美は綿あめ片手に夜店を歩き回った。「ねぇ、あれやろう!」そう言って千歳が指したのは、射的の屋台だった。「あたし、あれ当てる。」千歳は熊のぬいぐるみを指した。「え~、あれ当たらないと思うよぉ。」「そうだよ。」「やってみないと分からないじゃん!」千歳は屋台のおじさんに代金を払うと、射的用の銃を構えた。熊のぬいぐるみに向かって的を絞って2回ほど引き金を引いたが、2回とも外れた。「あ~あ。」千歳が溜息を吐いた時、歳三が千尋と共に屋台にやって来た。「どうしたんだ?」「父さん、熊のぬいぐるみが当たらないの。」「しょうがねぇなぁ、俺が撃ってやるよ。貸せ。」歳三はそう言って娘から銃を受け取ると、熊のぬいぐるみに向かって的を絞り、引き金を引いた。すると彼が放った弾は、熊のぬいぐるみに当たって倒れた。「父さん、ありがとう!」「大事にするんだぞ。」「うん!」娘の喜ぶ顔を、千尋達は笑顔で見ていた。 楽しい夏はあっという間に過ぎ、店はクリスマスシーズンを迎え忙しくなった。「あ~、疲れた。」「お疲れ様です。」仕事が終わり、二階のソファで横たわる歳三に、千尋は労いの言葉を掛けた。「クリスマスが過ぎれば、この忙しさもなくなるかなぁ。」「そうでしょうね、きっと。それまで頑張りましょう。」クリスマスには家族4人でディズニーランドへ行き、豪華なディナーとパレードやショーを楽しんだ。「父さん、お年玉は?」「気が早ぇな。まだ正月迎えてねぇぞ。」歳三はそう言って苦笑すると、千歳の頭を撫でた。「明日やるから待ってろ。」「わかった。」 新しい年が明け、千歳達はいつものように家族で楽しい時を過ごした。家族や友人に囲まれて楽しい日々を送っていた千歳は、いつしか友哉の事を徐々に忘れていった。 瞬く間に10年の歳月が経ち、19歳の千歳は帰省の為に実家へと里帰りしていた。「ただいまぁ。」「お帰り、千歳。」厨房から歳三が出て来て、千歳を抱き締めた。「姉ちゃん、お帰り。」「拓、あんた大きくなったね。」10年前自分の後をついて回っていた泣き虫だった弟は、今や自分の背を越し、立派な青年へと成長していた。「母さんは?」「ああ、母さんなら病院。また体調が悪くなったからって。」「そう。父さん、今日は紹介したい人が居るんだけど・・」千歳がそう言った時、ドアベルが鳴り1人の青年が店に入って来た。(総司?)華奢な身体に、艶やかな黒髪、白皙の美貌を持った青年の姿に、歳三は一瞬亡き恋人の姿を重ねた。“きっと、会えますから。” 何処かで、総司の声が聞こえたような気がした。にほんブログ村
2011年11月11日
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「奥様はご自分がお金持ちのお家にお生まれになり、常にお子様の頃から周りの大人達がご自分の言う事を聞いていらっしゃったので、いつの間にかご自分は偉いと誤解されてしまわれたのでしょうね。」佐伯の言葉に、望美は目を丸くした。「じゃぁママは、あまり偉くはないの?」「ええ。人に上下などございません。お嬢様のおっしゃられているように、奥様は間違っておられますねぇ。」佐伯はそう言って笑うと、望美のグラスにオレンジジュースを注いだ。「あのね、今度ちーちゃんがここに遊びに来るの。でもママ、昨夜はちーちゃんのパパと喧嘩してたから・・」「千歳さまのお父様とですか?」「うん。ママがちーちゃんのお父さんに変な事を吹き込むのはやめろって言ってて・・ママって、いつも人の所為にするのよね。何でだろう?」「それは解りかねますねぇ。ですが、お嬢様は千歳さまのご両親がお好きなのでしょう?」「うん、大好きよ。お前と同じくらい好き。」「そうですか、それは嬉しゅうございます。」老執事は、そう言って幼い主に微笑んだ。「おはよう。」「ちーちゃん、望美ちゃんお休みだって。」「そうなんだ。昨夜は元気そうだったのに。」千歳がそう言って溜息を吐くと、いつの間にか自分の隣に友哉が立っていることに気づいた。「何、何か用?」「お前、あのお嬢様と知り合いなわけ?」「そうだけど。それがどうしたの?」「別に。」「何であんな嫌な奴と付き合ってるんだ? 友達はちゃんと選んだ方がいいぞ。」「あんたに言われたくないね。っていうか、人の事をいうよりも、もっと自分のその性格、直した方がいいんじゃない?」千歳がくるりと背を向けた時、友哉が彼女の髪を引っ張り、頬を叩いた。「何すんのよ!」かっとなった千歳は、そう叫ぶと友哉に飛び掛かっていった。「おい、誰か先生呼べ!」「やめろよ、土方!」突然始まった喧嘩に、教室中は大騒ぎになった。「どうして喧嘩なんかしたの?」職員室の片隅にある応接室に連行された千歳と友哉は、ぶすっとした顔で黙り込んだまま金田を睨みつけていた。「黙ってないで何とか言いなさい!」金田の苛立ちがピークに達した時、歳三達が応接室に入って来た。「千歳、どうしたんだ?」「父さん。」千歳は父の顔を見るなりほっとして泣きだしてしまった。「友哉君!」施設の職員と思しき男性が、そう言って友哉の方へと駆け寄った。「どうして女の子を殴ったりしたんだ、理由を言いなさい。」「ムカつくからに決まってんじゃん。あいつ、いつもあのお嬢様と徒党を組んで馬鹿にして・・」「はぁ? 先に望美ちゃんの悪口言ったのはあんたでしょう? 先に手を出してきたのもあんただし!」「千歳、やめろ。」「でも、父さん・・」「本当に申し訳ありません。お宅のお嬢さんをうちの子が傷つけてしまって・・友哉、お前も謝りなさい。」男性にそう言われた友哉だったが、ぶすっとしたまま千歳を睨み付け、応接室から出て行った。 千歳と友哉が喧嘩騒ぎを起こした数週間後、友哉は突然京都に居る祖母の元へと預けられ、転校していった。「ちーちゃん、あたしのためにごめんね。」「大丈夫だよ、望美ちゃん。気にしないで。」望美は自分の為に千歳が友哉と喧嘩してくれたことが嬉しかったが、その反面彼女が怪我をした事を心配していた。 季節は瞬く間に過ぎ、待ちに待った夏休みが来た。にほんブログ村
2011年11月11日
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「望美・・」「ママなんて大嫌い!」望美はそう言ってつかつかと早苗へと近づくと、彼女にコーヒーを掛けた。 冷え切ったものであったので火傷はしなかったものの、彼女のお気に入りのドレスに黒褐色の染みが広がるのを見て、娘に対して激しい怒りを彼女は抱いた。「何てことするの、謝りなさい!」早苗はそう叫ぶと、娘の頬を張っていた。「先に謝るのはママの方でしょ? ちーちゃんのパパに変な言いかがりをつけて、服まで汚して。それにわたし知ってるんだからね、ママがちーちゃんの家の事を色々と言ってるの。」望美は頬を打たれた痛みよりも、母が自分を棚に上げて暴力を振った事が悲しかった。「何を知ってるっていうの? 出鱈目な事言わないで!」「ママ、いつもちーちゃんのママが浮気してるとか、うちよりも稼ぎが少ないのに自治会長の前田さんと仲が良いから嫌だとか、そればっかり言って。大人の癖に恥ずかしくないの!?」早苗は娘に思わぬ指摘を受け、黙り込むしかなかった。「ママ、わたし私立は受験しないから。ちーちゃんと同じ中学行くからね!」「あなたの為を思って受験を勧めたんじゃない。どうして今更やめるなんて言うのよ!?」「ママはいつもわたしの為とか言うけど、本当はおばあちゃんにわたしの事を自慢して、自分が褒められたいだけじゃない! ママみたいに将来、お金持ちだからって人の事を見下したりする人間にはなりたくないわ!」望美は言いたいことを言うと、くるりと背を向けて部屋へと戻って行ってしまった。「あなたの所為よ、土方さん。あなたの所為で望美は反抗的に・・」「それは違いますよ、伊東さん。あんたは娘を自分の附属物・アクセサリーだと思っているようだけど、望美ちゃんには望美ちゃんの考えがあるんですよ。自分の思い通りにいかないからって、誰かが入れ知恵したとかいう下衆の勘ぐりはしねぇで、一遍望美ちゃんと話し合ったらどうですか?」「まぁ、生意気な! あなたに仕事をやると言っているのに、その態度はなんなの!」「俺ぁこの方誰からも仕事を与えられたことなんざありませんよ。ってわけで、二号店のお話はなかったことに。クリーニング代はちゃんと請求しておきますので、ご心配なく。」ソファからさっと立ち上がり、歳三は一度も早苗の方を振り返らずに伊東家から出て行った。「お帰りなさい。どうなさったんですか、その格好?」「ああ・・あの奥様にコーヒーぶっかけられてさ。自分の事を棚に上げて娘をひっぱたくんだから、大した女だよ。」歳三はそう言って溜息を吐くと、千尋は顔を曇らせて彼を見た。「そんな辛気臭い顔すんな。風呂に入って来る。」「はい・・」望美の家で何かあったのかは解らないが、早苗が歳三にコーヒーを掛けるほど、自分達は憎まれているのだろうかと、千尋は少し不安になった。 翌朝、学校へ行く時間だというのに、望美はまだベッドの中にいた。今はもう、誰とも会いたくなかった。「お嬢様、学校に行くお時間でございますよ。」「行きたくないの。ママ達は?」「奥様はもうお出掛けになられてますよ。学校に行かれなくても、朝食だけはちゃんと召し上がりませんと、元気が出ませんよ。」まるで駄々をこねた己の孫を諭すような穏やかな口調で老執事は望美に話しかけた。 仕事に忙しい父と、社交の集まりに忙しい母は、一度も自分に対して優しい言葉を掛けてはくれなかった。「解ったわ。」この老執事だけが、望美の事を一番気に掛けてくれる。「昨夜、何か奥様とおありになられましたか?」「ねぇ、どうしてママはいつも自分が金持ちであることを自慢して、ちーちゃんのパパやママを見下すのかしら? わたしはちーちゃん達が好きなのに。佐伯は、わたしにこうやって命令されるのは嫌?」「そうでございますねぇ・・」望美の言葉を受けた老執事・佐伯は、低く唸った後、次の言葉を継いで口を開いた。にほんブログ村
2011年11月11日
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「今日は本当にありがとうございました。」「いつでも遊びに来いよ。」歳三がそう言って助手席に座っている亜美を見ると、彼女は照れ臭さを隠す為に俯いた。「ここでいいです。」歳三が高台へと車を走らせ、門の前に車を停めると、そう言って亜美は彼を見た。「そうか?」「門の向こうは安全ですから。」「じゃぁ、またな。」亜美が車を降りようとした時、後ろから激しいクラクションが鳴らされた。歳三が振り向くと、そこには派手な紫のスポーツカーに乗っている青年が苛立った様子で彼らを見ていた。「早く行ってくんないかなぁ?」「すいません、今出しますね。」歳三は慌てて車を移動させると、青年は猛スピードでスポーツカーを走らせ、門の向こうへと消えていった。仕方ないので、亜美は歳三とともに門をくぐった。「あれがわたしの家です。」亜美がそう言って指したのは、王宮かと見紛うかのような白亜の邸宅だった。「じゃぁな。」「ちーちゃんに宜しく。」亜美は車から降りて歳三に背を向けて家の中に入ろうとしていた時、黒塗りのリムジンが歳三の車の行く手を塞いだ。「あら、ごめんなさい。亜美、土方さんに送っていただいたの?」リムジンから早苗が降りて来て、歳三を見た。パーティーからの帰りなのか、今夜はシャネルのスーツではなく、マーメイドスタイルの蒼いドレスを着ていた。「うん。」「土方さん、ちょっと話せるかしら?」「ええ・・」本当はさっさと帰りたかったが、早苗に言われて亜美と共に歳三は邸の中へと入った。「お帰りなさいませ、奥様、お嬢様。」「コーヒーを2つお願いね。亜美、あなたはお部屋に行ってなさい。」「はい、ママ。」亜美はそう言うと、階段を上がって部屋へと向かった。「それで、お話というのは?」伊東家の居間に置かれてあるチンツ張りの深紅のソファーにぎこちなく腰を下ろしながら、歳三はそう言って早苗を見た。「今度うちの主人が六本木でレストランを開くこととなってね。レストランの隣にベーカリーを併設することになったのよ。それでね、そのベーカリーをあなた方にお任せしようかと思って。」早苗の夫・弘太郎がやり手の実業家で、レストラン経営にも長けていることは知っていた。「本当に俺達なんかがいいんですかね? 俺ぁ自分の店の切り盛りで精一杯でねぇ、そんなご大層なものいきなり任せると言ってもねぇ。」歳三がそう言って溜息を吐くと、早苗は笑った。「言い方を間違えたわ。そのベーカリーは、あなた方のお店になるってお伝えしたかっただけなのよ。」つまり、六本木に二号店を出してやると、彼女が言っていることに歳三は気づいた。「条件はなんですか? 一等地に二号店を出してやる代わりに、俺達に何かして貰いたい事があるんでしょう?」「そうきたわね。土方さんは策士なのねぇ。」早苗はそう言って笑うと、コーヒーを一口飲んで次の言葉を継いだ。「うちの望美に変な事を吹き込まないでくださる?」「は?」「あの子、この前わたしに、“こんなうちに生まれるよりも、ちーちゃん家の子になりたかった”って初めてわたしに刃向かったのよ。」「それがどうして、俺達や千歳が吹き込んだと? 娘さんは何か不満を抱えていて、それを口にしただけでは?」早苗は歳三の言葉に顔を怒りで赤く染めると、コーヒーを彼に向かって掛けた。「ちーちゃんのお父さんに何してるのよ、ママ!」「望美・・」 パタパタと足音が聞こえたかと思うと、望美が憤怒の形相を浮かべながら早苗を睨みつけていた。にほんブログ村
2011年11月11日
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「金田先生、居ますかぁ~?」「どうしたの、土方さん。」「あの、伊東さんの給食袋がないんです。おうちの人も、ちゃんとランドセルに入れたって言ってました。」「まぁ、困ったわね。本当にないの、伊東さん?」「はい。体育の前にはちゃんとあったのに。」望美はそう言うと、泣き出しそうな顔をした。「大丈夫だよ、望美ちゃん。きっと見つかるって。」「そうだよ、みんなで探そうよ。」千歳達は教室に戻り、望美の給食袋をくまなく探したが、見つからなかった。「伊東の給食袋、まだ見つかんねぇの?」「そうなのよ。あんた達も探してくれない?」男子の大田達が本棚の中を探したが、そこにもなかった。「なぁ、裏にあるんじゃねぇの? 隠すには丁度いいじゃん。」彼らが本棚の裏を見ると、望美の給食袋がそこにあった。「伊東、見つけたぞ!」「良かったぁ。」中の現金は無事だった。「それにしても、一体誰が盗んだんだろうね?」「さぁ・・」「伊東があんなところに隠す訳ねぇよな。」大田と千歳達が昼休みに今朝の事を話していると、ふと友哉の視線を感じて千歳が振り返った。だが、彼の姿はそこにはなかった。「じゃぁね、望美ちゃん!」「ばいばい、ちーちゃん。」千歳と別れた望美は、重い足取りで自宅がある高台の住宅街へと向かった。そこは千歳や太田達が住んでいる商店街に面した新興住宅地と違うところは、入口に厳重な門が聳え立っていることだった。 望美が門の前に立つと、それはゆっくりと開いた。 門の中には北欧・南欧風の邸宅が建ち並んでおり、その中で一際目立っているのは、プールがある白亜の邸宅だった。「お帰りなさいませ、お嬢様。」邸宅のドアを開けた老執事が、そう言って望美に微笑んだ。「ママは?」「奥様ならご友人のパーティーに出掛けております。」「そう。ねぇ佐伯、ママには内緒にしてくれる?」望美はそう言うと、老執事の耳元で何かを囁いた。「これはお嬢様と爺との秘密ですよ。」「うん。」 その夜、両親は帰ってこなかった。「おはよう、望美ちゃん。」「おはよう・・」千歳は、望美が暗い顔をしていることに気づいた。「どうしたの?」「ねぇちーちゃん、ちーちゃんのお父さんとお母さんって、いつもちーちゃんと一緒に居てくれる?」「うん。どうかしたの、望美ちゃん? 何でそんな事急に聞くの?」「別に。うちのパパとママ、家に居ないからさ。よその家はどうなのかなぁって。」望美はそう言って笑顔を作ったが、それは少し引き攣っていた。「ねぇ望美ちゃん、今度うちに来る? 拓のパーティーがあるんだけど。」「いいよ、絶対行く!」「そう、じゃぁ約束ね!」 その日の週末、土方家で開かれた拓の誕生パーティーを、望美は楽しんでいた。「ちーちゃんのお母さんが作ったケーキ、とても美味しかったよ。」「ありがとう。」「うち手作りのケーキとかハンバーグ食べたのはじめて。ちーちゃんの家に生まれたかったなぁ・・」望美が漏らしたその言葉に、千歳は気づかずにいた。「今度うちに来てくれない?」「うん。」「じゃぁお邪魔しました。」「また来てね。」千尋は笑顔で、歳三の車に乗る望美を見送った。にほんブログ村
2011年11月10日
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「じゃぁ、行ってきま~す!」 翌朝、千歳は元気よく手を振ると、学校へと向かって歩いていった。「ちーちゃん、おはよう!」「亜美ちゃんおはよう!」いつもの通学路で、千歳は亜美に手を振った。「楽しみだねぇ、遠足!」「うん!」教室に行くと、皆それぞれ目を輝かせながら遠足の話をしていた。「おはよう、ちーちゃん、亜美!」「おはよう、望美ちゃん。」「今日晴れてて良かったねぇ。」「うん。お菓子何持って来た?」「色々持ってきたよ。後でみんなと分け合いっこしよう!」「うん!」「みんなぁ~、校門に集まって!」「はぁ~い!」千歳達は金田とともに校門へと集まった。「ねぇ、あいつどうしたんだろうね?」「さぁ・・」千歳が周囲を見渡し、友哉の姿を探したが、彼は何処にも居なかった。(あの子、来ないのかなぁ・・)「どうしたの、ちーちゃん。バスに乗り遅れるよ?」「ごめんごめん、すぐ行く!」リュックサックを揺らしながら千歳がバスに乗り込もうとした時、校門の陰から友哉がじっと自分を睨みつけていた。その視線に恐怖を感じ、千歳は慌ててバスへと乗り込んだ。「みんな、今日は楽しい一日を過ごしましょうね!」「はぁ~い!」バスに揺られながら千歳達がやって来たのは、森林公園だった。「空気が美味しいねぇ。」「うん、晴れてて良かったね。」森林浴をしながら、千歳達はおしゃべりをしながら遊歩道を歩いた。「じゃ~ん!」「うわぁ、美味しそう!」千歳がお弁当箱を開けて千尋が作ってくれたクラブハウスサンドイッチを見た亜美と望美が歓声を上げた。「望美ちゃんの卵焼きも美味しそうだね。」「そうでしょう? さ、食べよ!」「うん!」3人は弁当や菓子を分け合いながら、楽しく食事をした。「ねぇちーちゃん、夏休みのキャンプ参加するよね?」「勿論! 望美ちゃんは?」「あ~、うち塾の夏期講習あるから無理。キャンプ行きたいのに・・」望美はそう言って顔を曇らせると、溜息を吐いた。「望美ちゃん、お受験するから大変だよね。」「うち、本当はしたくないのにさぁ、ママが煩いんだもん。お兄ちゃんがあんな風になってからは、ずっと“公立よりも私立の方が良いのよ。だから頑張って私立に行きなさい。”って言うんだもん。」母親の口真似をしながら、望美は溜息を吐いた。「それにしてもあいつ、来なかったよね。」「やっぱり一人だと寂しいんじゃない?」「やめようよ、あいつの話は。楽しい遠足なのに。」「そうだね。」この日千歳は、友哉の事など忘れて亜美達と遠足を楽しんだ。 その数日後に、ある事件が起きた。「あれ、うちの給食袋がない!」体育の時間が終わった後、そう言って望美がランドセルの中をひっくり返した。「本当にないの? ちゃんと確かめた?」「確かめたよ、何度も。もしかして家に置き忘れてたりして。」「そうかもしれないじゃん。ママに電話してみたら?」望美が早苗に連絡すると、彼女はちゃんとランドセルの中に給食袋を入れたと言っていた。「先生に相談しよう!」千歳達は職員室へと向かった。にほんブログ村
2011年11月10日
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吉崎さんの元気なパワーに圧倒されながらも、千尋は歳三と共に仕事に精を出した。「じゃぁ、買い物に行ってきますね。」「おう、いつものスーパーだろ? 俺も用があるから車で送るよ。」「いいです、今日は商店街で買い物するんで。」「そっか。じゃぁ俺は先に行ってくるよ。」「行ってらっしゃい。」夫が車でスーパーに向かうのを見届けると、千尋は自転車を漕いで吉崎鮮魚店があるひまわり商店街へと向かった。「吉崎さん、こんばんは~」「あらぁ土方さん、いらっしゃい! はい、サバどうぞ!」「ありがとうございます。うわぁ、新鮮で美味しそうですね!」「でしょ! 塩焼きにすると美味しいよ。」暫く美香と立ち話をした後、千尋は商店街で買い物を済ませて帰宅した。 夕飯の支度をしながら千尋がふと壁に掛けてあるカレンダーを見ると、千歳の遠足が明日に迫っていた。「お弁当、何にしようかなぁ。」思わず独り言を言ってしまい、千尋はくすりと笑った。「ただいまぁ。」「お帰りなさい。」子ども達が学校から帰ってくると、家族4人で夕食を囲んだ。「千歳、お弁当何食べたい?」「クラブハウスサンドイッチ。お母さんが作ったサンドイッチ、美味しいから!」「そう。じゃぁ楽しみにしててね。」「お母さん、僕の遠足の時はベーグルサンドにしてね!」「はいはい、解ったわ。」千尋は夕食を美味しそうに食べる2人の子ども達を、慈愛に満ちた目で見つめていた。「まさかこんな穏やかな日が来るとは、あの頃俺は思ってもみなかったな・・」 その夜、歳三はベランダで煙草を吸いながら言った。「そうですね。あの頃はいつも死と隣り合わせでしたから。」「もし勝っちゃんや平助達がこの時代に生きてたら、あんな死に方しなかっただろうな・・」歳三の漆黒の瞳が曇った。「副長・・」近藤達と出逢い、その最期を見届けてからもう100年以上の時が経っているが、未だにその悲しみは癒えることがない。総司もこの時代に―現代に生きていれば、あの病に打ち勝っていたかもしれない。だが、そう思い始めても無駄な事だと解っている。「もう休みましょう、明日も早いですし。」「ああ、そうだな・・」歳三はベランダからリビングに戻ると、千尋と共に夫婦の寝室へと入っていった。―土方さん 突然総司に呼ばれた歳三がゆっくりと目を開けると、そこには美しい衣を着た恋人が自分に微笑んでいた。「総司、何で・・」「もう自分を責めないでください、土方さん。」総司はそう言うと、そっと歳三の唇を塞いだ。「必ず、会えますよ。その時まで、待っていてくださいね。」「ああ・・」別れ際に握った総司の手は、温かった。夢から目を覚めた時、歳三は涙を流していた。にほんブログ村
2011年11月10日
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「どうなさったの?」「いえ、何でもありません。」「そう。」 早苗は一瞬訝しげに千尋を見たが、その後同じ華道教室に通っている友人を見つけ、彼女の方へと駆け寄った。「最近不審者を見かけたという通報がありましたので、各自家の戸締りを確認してください。」自治会長・前田はそう言うと、千尋達は静かに頷いた。「今年度の夏祭りですが、毎年会場はすめらぎ園の園庭で行っておりましたが、今年度からは小学校の中庭で行うこととなりました。」この地域で毎年行われる夏祭りは、すめらぎ園の園庭で行っていたが、事件の影響もあってか、今年から小学校の校庭で行う事に決定した。 ボランティアですめらぎ園でパン教室を開いていた千尋は、子ども達が夏祭りを楽しみにしていることを知っているだけに、前田の言葉を聞いて顔を曇らせた。「土方さん、どうしましたか?」「あの、本当に今年からすめらぎ園では夏祭りはやらないのですか?」「ええ。子ども達には申し訳ないですが・・」「あらぁ土方さん、あの子達の肩を持つの? 駄目よ、あそこの子達はワケアリな子達ばかりなんだからぁ。」早苗がすかさず千尋の言葉に噛みつき、わざとらしい溜息を吐きながら彼女を見た。 娘の同級生の母親というだけで、余り彼女とは親しくない千尋だったが、彼女が偏見に満ち満ちている女性だということに薄々気づき始めていた。金満家の家で生まれ育ち、大企業の社長を夫に持つ彼女は、何かと自分の家柄や夫の地位などを鼻にかけ、友情を示すのは自分と同じクラスの者だけであり、自営業の千尋達はメイドとしか見られていなかった。「いいえ、そんなつもりで言ったんじゃありません。伊東さんのお宅でも、ワケアリなお子様はいらっしゃるのでは?」千尋の言葉に、早苗はウッと喉を詰まらせたかと思うと、怒りで顔を赤く染めた。 早苗の長男・義男が散々母親から甘やかされた挙句に問題ばかり起こし、母子ともどもこの地域の鼻つまみ者となっているのは周知の事実であった。「自治会長、すめらぎ園で夏祭りを開かないまでも、その手伝いを子ども達にさせたり、夏祭りに招待できませんか?」「それは検討してみましょう。伊東さんのようにワケアリな子達はごく一部だしね。」前田はすめらぎ園でボランティアとして毎日来ているので、千尋よりも園の子ども達には詳しかったし、早苗のような偏見に満ち満ちた人間ではなかった。「んまぁ、土方さん、あなたの所為で子ども達に何かあったらあなたが責任を負って下さるのかしら?」早苗は千尋に半ば八つ当たりのようにそう言うと、彼女を睨みつけた。「まぁ、何をおっしゃっておられるんです? いくらわたしくし達でも、子ども達の動きを全て把握する事など不可能ですし、何かあったら誰か一人が責任を負うなんて理不尽な事、出来るわけがないでしょう?」「で、でも・・言いだしっぺはあなたなんだから・・」「この地域に住まわれている以上、ここで起きた事は皆さんがその責を負うと、お決めになったでしょう?」悉く己の主張を正論で論破され、早苗は自治会が終わるまで終始不機嫌な顔をしていた。「土方さん、ちょっといいかしら?」「ええ・・」自治会館から出て千尋が自転車に乗ろうとすると、商店街で魚屋を営んでいる吉崎美香が彼女に話しかけてきた。「何でしょう?」「さっきの、格好良かったわよ。伊東さんって、いつも金持ち自慢ばかりするから、うんざりしていたところなのよ。」「そうですか・・」「望美ちゃんは良い子なんだけどねぇ。伊東さんに似なくて良かったわ~」「じゃぁ、また明日。」「うん、明日ね~!」美香は千尋に手を振りながら、彼女とは逆方向の道を自転車で走っていった。「土方さん、おはよう!」「おはようございます、吉崎さん。」「今日ね良いサバ入ったから、うちに寄ってってね!」「はい。」美香は千尋に元気よく手を振ると、ゴミ集積所から去っていった。にほんブログ村
2011年11月10日
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新学期が始まって数週間後、待ちに待った春の遠足がやって来た。 遠足では好きな者同士でグループを作ることになっており、千歳は亜美と伊東望美と同じ班になった。「楽しみだね、遠足。」「うん。」亜美と同じ班になり、千歳は遠足の日を指折り数えて待っていた。教室の片隅で、ぽつんと俯いて座る友哉の姿に気づきもせずに。(何だよみんな、浮かれて・・) 好きな者同士で作る遠足のグループが出来上がる中で、友哉だけは何処にも入れて貰えなかった。理由はただひとつ、彼が“シセツ”に居るからだ。彼が居る施設出身の少年が傷害事件を起こし、その所為で友哉や他の子ども達は近所の住民達から白眼視されていた。それは地域だけでもなく、学校でも友哉達は冷たい視線に晒された。“あの施設の子は怖い、近づかない方が良い。”ただあの施設に居るというだけで、謂れのない差別を受け、学校ではいじめられる。陰湿ないじめを受けていなかったが、友哉に誰も話しかけようともせず、目を合わせようともしない。だから彼は、どのグループにも入れて貰えなかった。 同じ人間だというのに、どうして自分だけこんな境遇に居るのだろう。両親が居ないからなのか。両親さえいれば、こんな目に遭わずに済むのか。「友哉君、どうしたの?」俯いていた顔を上げると、そこには担任教師の金田がじっと彼を見ていた。「別に・・」「グループに入れて貰えないの?」金田にそう尋ねられ、友哉は首を横に振った。認めたくはなかった、誰からも必要とされていない自分の姿を。「みんな、誰か友哉君をグループに入れてあげないかなぁ?」そんな彼の心など知らず、金田は声を張り上げて教室を見渡した。「うちもう出来たから無理~」「こっちも満員で~す。」教室のあちこちから、クラスメイトの声が聞こえた。「ねぇ、どうする? うちらの班に入れてあげようか?」亜美がそう言って千歳と望美を見ると、望美は嫌そうな顔をした。「あの子入れるのヤダァ~! 遠足が楽しくなくなっちゃう~!」わざと友哉に聞こえるように言うと、望美は千歳達を見た。「うちら3人だけでいいじゃん。」「そうだね。」「先生、こっちも駄目です~!」放課後、千歳は亜美達と帰りながら、遠足の班分けの事を未だに引き摺っていた。あの時、友哉を自分達のグループに入れれば良かっただろうか。だが望美は友哉の事を露骨に嫌っていた。それは彼が「シセツ育ち」だからだろう。「じゃぁ、またね!」「うん!」亜美達と別れた千歳は、店へと戻った。「ただいまぁ。」「お帰り、千尋。遠足楽しみだね。」「うん。亜美ちゃんと同じグループになったよ。」「そう。じゃぁお母さんこれから自治会だから、行って来るわね。」「最近多いね。」「まぁ色々と大変なのよ。ご飯はもう作ったからね。」「行ってらっしゃい!」店から出ていく千尋に、千歳は手を振った。 数分後、千尋は自治会館前に自転車を停めた。「あら土方さん、こんばんは。」「こんばんは、伊東さん。」自治会館に入ると、千尋は望美の母親・早苗に声を掛けられた。「ねぇ、聞いた? あの友哉ってこのお母さん、自殺したんですってね?」「ええ、知ってるわ。」千尋は嫌な汗が額に浮かんでいることに気づき、慌ててハンカチでその汗を拭った。にほんブログ村
2011年11月09日
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「じゃちーちゃん、またね!」「亜美ちゃん、バイバイ!」千歳はいつものように亜美と別れ、家の中へと入ろうとした時、突然誰かに肩を叩かれた。「あなた、土方千歳さん?」「はい、そうですが・・」千歳が振り向くと、そこには訪問着姿の60代後半と思しき女性が立っていた。「あの、どちら様ですか?」「わたくしね、あなたのお父様とお母様にお話があるのよ。家に案内してくださらない?」「は、はい・・」いつも両親から“目上の者には失礼のないよう、礼儀正しく”と厳しく教え込まれている彼女は、女性と共に店へと向かった。「ただいま。」「お帰り、千歳、そちらの方は?」歳三はそう言うと、女性を見た。「初めまして、わたくしこういう者です。」女性はハンドバッグの中から一枚の名刺を取り出し、歳三に渡した。その名刺には、こう書かれてあった。“鹿央流家元 鹿央幸絵(かおうゆきえ)”名刺を渡された歳三は慌てて厨房に居る千尋を呼んだ。「あなたは・・」「お久しぶりでございます、土方さん。」「二階で話しましょうか。千歳、少しの間店番頼めるか?」「う、うん・・」両親と女性が二階へと消えてゆくのを、千歳はじっと見ていた。(あのおばさん、誰だろう?)千歳は彼らの後を追って二階に行きたかったが、間が悪く客が来てしまった。「いらっしゃいませ。」両親と女性との関係が気になりながらも、千歳は店番をした。「娘の―美幸の葬儀の折は、大変お世話になりました。」女性―鹿央幸絵は、そう言って歳三達に頭を下げた。「いいえ、お礼を言われる立場ではありませんから、どうか頭を上げてください。」「娘はてっきり夫と幸せに暮らしていると、わたくしはそう思っておりましたが、まさか自殺するだなんて・・」幸絵はそう言うと、目元をハンカチで抑えた。「今日は、どのようなご用でこちらに?」「実は、あの男が―娘を殺した男が友哉を引き取りたいと申し出て来たのです。」“あの男”と口にした時の、幸絵の顔が憎悪に醜く歪んだ。「あの男は美幸に暴力を振るった癖に軽い刑で済み、のうのうと他の女と再婚して暮らしているのです。美幸がどんなに辛い思いで赤子の友哉を残して逝ったのか、知りもせずに!」「奥様、落ち着いてください。」千尋は美幸の夫への憎しみと怒りで興奮する幸絵を宥めると、彼女は荒い息を吐いた。「友哉はわたくしが引き取ります。あの男は友哉を捨てました。」「そうですか。友哉君は現在、ここに住んでいます。」歳三はそう言って、すめらぎ園の住所を書いたメモを手渡した。「ありがとうございます、すぐに参ります。」それから幸絵は何度も歳三達に礼を言うと、店の裏口から出て行った。「あの人は?」「もう帰ったよ。千歳、お前のクラスに友哉って子居るか?」「うん、居るけど・・それがあの人と何か関係があるの、お父さん?」「ああ。あの人は、友哉のお祖母様なんだ。鹿央流って聞いたことがあるか?」「確か、お花の先生?」千歳はそう言って歳三を見ると、彼は少し気難しそうな顔をしていた。「お父さん、どうしたの?」「何でもねぇよ。店番、ありがとうな。」彼は千歳の頭を優しく撫でた。にほんブログ村
2011年11月09日
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亜美とともに千歳が3年4組の教室に入ると、そこにはあの少年が居た。「うわぁ、あいつと同じクラスなわけ?」「しっ、亜美ちゃん聞こえるって!」慌てて千歳はそう言って亜美を窘めたが、少年と千歳の視線が一瞬ぶつかった。「あ、亜美ちゃんの席、あたしの隣だよ!」「ラッキー、行こっ!」千歳が亜美とともに席へと向かうと、少年は擦れ違いざまにぼそりと呟いた。「ムカつく・・」(何あいつ。)むかむかしたまま、新学期初日は終わった。「ねぇちーちゃん、あの子何処に住んでるか知ってる?」「あの子って?」「あのキモイやつだよ。」帰り道、亜美は千歳と帰りながらいつもの道を歩いていた。「あいつ、シセツの子なんだって。」亜美が何処か嘲りと蔑みを含んだ口調でそう言うと、彼女はぶるりと身を震わせた。まるで、言った事を後悔するかのように。「シセツって?」「なんかねぇ、親と暮らせない子が暮らすところなんだって。あいつ、親が居ないんだよ。」「ふ~ん。」千歳は亜美の話を聞きながら、突然背後から視線を感じた。ふと彼女が振り向くと、あの少年が通りからじっと自分を見ていた。「どうしたの?」「ううん、何でもない。」「ちーちゃん、またね!」「じゃぁね!」亜美と別れ、千歳は自宅へと向かった。「おい。」自宅からあと一歩ということで、千歳はあの少年に呼び止められた。「何、なんかあたしに話でもあんの?」「別に。」「あっそ。」千歳はそう言うと、少年に背を向けて家へと入った。「ただいまぁ。」「姉ちゃん、お帰り。」リビングに入ると弟の拓が宿題をしていた。「拓、さっき変な奴に声掛けられたよ。」「変な奴?」「うん。あたしと同じクラスなんだけどさぁ、どこか薄気味悪いんだよねぇ。」「ふぅん。姉ちゃん、そんな奴無視したらいいじゃん。」「そうだね。」拓と千歳が宿題をしていると、歳三がリビングに入って来た。「ただいま。ちゃんと留守番してたか?」「父さん、母さんは?」「ああ、母さんは自治会の会合で遅くなるってさ。夕飯作るから手伝え。」「はぁい!」拓と千歳が歳三とともに夕飯を作っていると、千尋が帰宅した。「ただいまぁ。遅くなってごめんねぇ。」「お帰り。最近よく会合が開かれるけど、何か問題でもあるのか?」「うん。後で話すね。それよりもまずはご飯!」家族4人で一緒に夕食を囲んだ後、千歳と拓は歯を磨きに洗面所へと向かった。「それで、問題って?」「最近、『すめらぎ園』っていう児童養護施設出身の子が事件起こしたでしょう? あれでご近所の皆さんがうちの地域から『すめらぎ園』から学校に通ってる子を締め出そうって話になってね。わたくしは反対したんだけど・・」「そうか。ったく、事件を起こすと漫画やアニメ、ゲームの所為だとか変にこじつけして、今度は『施設で育ったから』で事件と無関係の奴らを地域から爪弾きにするたぁ、狂ってやがるなぁ。」歳三はそう言うと、煙草を吸った。「禁煙してなかったんですか?」「ああ。やめようと思ったんだけど、やめられねぇもんだなぁ。」歳三は千尋に抱きつき苦笑すると、彼女の唇を塞いだ。「もう、あなたったら・・」千尋はそう言って、歳三にキスを返した。にほんブログ村
2011年11月08日
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2018年4月。「千歳、早く行かないと学校に遅れるよ!」「はぁ~い!」もうすぐ9歳になる歳三と千尋の長女・千歳は、ランドセルを背負ったままリビングに入った。 そこには両親と、2歳下の弟・拓が既に朝食を食べ終わっていた。「千歳、パジャマのまま学校に行く気か?」「あ~!」千歳は舌打ちしながら、ランドセルを下ろして食パンを齧った。「じゃぁ、行ってきます。」拓はそう言うと、ランドセルを背負って姉より先にリビングから出て行った。「もうすぐ登校班が来ちゃうよ、千歳。」「わかってるったら!」千歳はスクランブルエッグを食べると、部屋に戻ってパジャマから洋服に着替え、リビングに戻った。「じゃぁ、行ってきます!」「行ってらっしゃい。」子ども達が居なくなったリビングでは、束の間の静寂が訪れていた。「ったく、千歳は相変わらずおっちょこちょいだなぁ。誰に似たんだか。」歳三はそう言いながら、娘がテーブルの上に置いたままの皿を片づけ始めた。「あなたに似てるんじゃないですか? 切れると口調があなたとそっくりですし。」「ふん、良く言うぜ。さてと、そろそろ店を開けるか。」「ええ。」食器を洗った歳三は、千尋とともに店がある一階へと降りていった。また今日も、「Makoto Barkery」の朝が始まった。「はぁ、間に合った!」千歳は息を切らしながら、登校班に追いついた。「ちーちゃん、遅いよぉ!」千歳の親友・矢井田亜美がそう言って唇を尖らせた。「今日からまた学校かぁ。同じクラスだといいねぇ。」「うん。」亜美とは幼稚園からの友達で、小学校でも2年間同じクラスだった。「ねぇ知ってる? 吉田が転校するって話。」「うん、知ってる。」吉田は2年の時千歳達と同じクラスだったいじめっ子で、女子の髪を引っ張ったり、教科書や体操服を隠したり、他人の給食費を盗んだりしている問題児だった。彼の仕打ちに耐えかねた数人の女子が親に吉田のいじめを相談すると、たちまち彼女達の親や吉田の親を巻きこんだ大騒動となった。その結果、吉田は父親の仕事の都合で両親とともに地方都市へと引っ越すことになったのだが、千歳も彼から散々意地悪をされてきたのでもう彼の顔を見ないで済むと思うと胸がすく思いだった。「転校してくれて良かったよねぇ。あんな奴、二度と顔も見たくないし。」「うん。」千歳達が他愛のない事をしゃべっている間、あっという間に学校に着いた。体育館前に張り出されたクラス表の前には、大勢の児童が詰めかけて混雑していた。「ねぇ、あった?」「うん、あった!」亜美と千歳はそれぞれ自分がどのクラスなのか確認し、また1年間同じクラスであることに喜んだ。「良かったぁ、クラスが違ってたらへこんでたよぉ。」「うん、良かったねぇ。」亜美とそう言い合いながら千歳が下足箱へと向かっていた時、千歳は誰かと方がぶつかった。「ちーちゃん、大丈夫?」「うん・・」千歳は自分の肩にぶつかったのは誰なのかと周囲を見渡すと、そこにはじっと自分を睨みつけている少年が立っていた。「何ジロジロ見てんのよ?」「・・別に。」「キモイんだけど! ちーちゃん、行こっ!」「う、うん。」 亜美に手を引っ張られ、千歳は慌てて彼女の後を追って校舎の中へと入った。(c)ミントBlueにほんブログ村
2011年11月08日
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(もう生きるのに疲れた・・) 家を飛び出し、九十九里の海岸まで来た美幸は、車から降りて息子を抱きながら、暫く波打ち際に佇んでいた。これから病気を抱えた友哉を独りで育てる事なんか出来ない。夫とはもう暮らせない。離婚したとしても、何の資格もない自分に仕事が見つかる訳がない。もう、死ぬしかない―美幸はそう思うと、友哉を車の中に残し、冷たい夜の海の中へと身を沈めた。ひんやりとした海水が胸にまで達した時、美幸は車に残した友哉が泣き叫ぶのを聞いた。(友哉、ごめんね・・)今すぐ岸に戻って彼を抱きしめたい衝動に駆られながらも、美幸は海へと身を沈めていった。「千歳は寝たか?」「ええ。」夜泣きが激しい娘に何度も起こされ、寝不足気味の千尋がそう言って欠伸を噛み殺していると、歳三がそっと彼女を抱き締めた。「あんまり無理するなよ。辛い時は俺が代わってやるから。」「ありがとうございます。」千尋は照れ臭そうに笑いながら、歳三にしなだれかかった。 朝の仕込みの為に店に降りた歳三は、外がやけに騒がしいことに気づいた。何処か事故か火災でもあったのだろうか、そう思いながら彼は大して気にも留めず、厨房へと入った。 二階のリビングでは、千尋が千歳をあやしながら朝食を食べ、テレビのニュースを見ていた。 そろそろテレビを消そうとした時、画面に「家庭内暴力の心労か 九十九里で女性の水死体発見」というテロップが流れ、慌てて彼女は少し音量を上げた。『昨夜22時過ぎ、九十九里近くの公園で軽の乗用車が乗り捨てられているのを付近の住民が発見し、乗用車の中には生後6ヶ月の男児が警察に保護されました。車の所有者は東京都に住む女性で、遺体で発見されました。車の中には女性が書いたものとみられる遺書があり、“夫にはもう限界。せめて息子とともに死にたかったができなかった。”と書かれており、警察は女性が夫から家庭内暴力を受けていたのではないのかと捜査を開始し・・』千尋はニュースを聞いて、夜中に店に来た女性だと勘でわかった。翌朝彼女は顔に青痣を作って店に来た。“階段で転んだんです。”そう言って笑った彼女は、誰かに助けを求めたくて、店に来たに違いなかった。それなのに、彼女が出したSOSに気づきもしなかった。「千尋、どうした?」「歳様、あの人、覚えてます? 半年前にパンを夜中に買いに来た人。」「ああ。その人がどうした?」「今朝九十九里で水死体で発見されたんですって。彼女、夫から暴力を振るわれていたみたいで・・車に息子を残して・・」千尋はそう言うと、泣き崩れた。「どうして気づいてやれなかったんだろう・・彼女は必死に助けを求めていたのに。」「自分を責めるんじゃねぇ、千尋。悪いのはあの人に暴力を振るっていた旦那の方だ。」歳三は自責の念に駆られる千尋を抱き締めた。 その後、近所の住民の証言から、美幸が毎日夫から暴力を受けていた事が解り、夫は警察に逮捕され、残された彼らの息子・友哉は養護施設へと送られた。一方土方家の長女・千歳は、両親の愛情を受け、すくすくと元気に育っていった。 そんな2人が初めて出逢ったのは、千歳が小学3年生になろうとする年の、春のことだった。にほんブログ村
2011年11月08日
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「赤ちゃんに会わせて、お願い!」「落ち着いて下さい、赤ちゃんは無事ですよ。」 ソファから起き上がり、病室から出ようとしている美幸に、医師は慌てて彼女が産んだ赤ん坊の無事を告げた。「嘘よ、赤ちゃんの顔を見るまで安心できないわ!」「車椅子の用意を。」 看護師に車椅子に乗せられ、美幸はNICU(新生児特定集中治療室)に運ばれ、そこで我が子との対面を果たした。「どうしてこの子はこんな所に居るの?」「この子には生まれつき心臓に障碍を持っています。自発呼吸は出来ますが、今日が峠でしょう。」「そんな・・」待望の子どもが今死に掛けようとしている現実に、美幸は押しつぶされそうになった。「誰かご家族の方と連絡がつきますか?」美幸は夫に連絡しようと思ったが、彼がこの子を見たら拒絶するに決まっていると思い、首を横に振った。 両親は飛行機で2時間かかるところに住んでいて、今から連絡しても孫の死に目に間に合わないかもしれない。「あの、わたしがいけないんでしょうか? わたしがこの子をおなかの中に居た時から大切にしなかったから、こんな・・」「お母さんの所為ではありません。どうかご自分を責めないで、赤ちゃんが元気になるようにおっぱいをあげてください。」「はい・・」医師の言葉に励まされ、美幸は保育器の中に入っている我が子を見つめた。(お母さんが守ってあげるからね。) 車椅子を看護師に押されながら美幸が病室へと戻ろうとした時、視線の隅にあのパン屋を営んでいる夫婦が見えた。美幸と同じ日に妻が出産したらしく、彼女は生まれたばかりの赤ん坊を抱いて授乳しており、その傍らには彼女の夫が少し照れ臭そうにちらちらとその様子を見ていた。 ごく普通の、幸せそうな家族の風景―美幸には決して手に入らなかったものが、そこにはあった。(わたしの赤ちゃんは死にかけてるのに、どうしてそんなに幸せそうなの?) 美幸の中で、夫婦に対する激しい嫉妬が渦巻いた。 美幸の息子は一命を取り留め、彼女は息子が早く元気になれるように、母乳を与えた。 その甲斐あってか息子は徐々に回復し、美幸と共に退院できたのは入院してから3ヶ月後のことだった。「さぁ友哉、お家に帰りましょうね。」病院のロビーでタクシーを待っている間、美幸はそう言って息子の小さな身体を揺らした。 彼はきゃっきゃっと甲高い声を上げながら笑った。タクシーに乗り、美幸が息子・友哉とともに帰宅すると、家の中は荒れ果てていた。「てめぇ、今まで何処行ってたんだよ?」リビングのテーブルで突っ伏していた夫は、そう言うなり美幸の頬を張った。「ごめんなさい、あなた・・今片付けますから・・」「ったく、早くしろよ!」美幸が床に散乱したごみを拾おうとした時、友哉が激しく泣き始めた。「煩せぇぞ、黙らせろ!」「ごめんなさい、ごめんなさい・・」「ったく金もねぇのに勝手にガキなんか産みやがって!」夫はそう吐き捨てると、リビングから出て行った。(どうしてわたしばっかりこんな目に遭うの?)美幸の脳裡に、あの幸せそうなパン屋の夫婦の顔が浮かんだ。夫に暴力を振るわれ、新しい家族を拒絶する彼と共に暮らしている自分が惨めだと思った。 そう思うのは、あの幸せな夫婦の所為だ―美幸は次第に己の境遇をパン屋の夫婦の所為にするようになった。 彼女は夫の暴力に怯えながらも、友哉の育児や家事をした。 だが赤ん坊の友哉は彼女の都合を考えず、本能のままに泣き、それが夫を苛立たせ、美幸の全身にはいつも青痣が出来ていた。追い詰められた彼女は息子を連れて自殺しようと、車で夜の海岸線を彷徨った。にほんブログ村
2011年11月08日
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2009年8月。「千尋、大丈夫か?」「はい。」臨月を迎えた千尋は、下腹を擦りながら作業をしていた。安定期を過ぎた頃から胎動が激しくなり、切迫早産の危機に何度も遭い、入退院を繰り返していた。「お前ぇはせっかちなんだなぁ。そんなに早く外に出たいのか?」歳三はそう言って、妻の膨らんだ下腹に話しかけた。「また動きましたよ。」千尋は胎児が蹴るのを感じて、嬉しそうに笑った。 一方、臨月となっても美幸は夫から暴力を振るわれ、顔には彼から殴られた赤紫色の痣が広がっていた。(こんな顔じゃ、外に出られない・・)今日は夫が同僚を連れて家にやって来る。“ご馳走を作らないとぶっ殺すからな。” 家を出た際に夫から囁かれた言葉に、美幸は恐怖に怯え、何とか顔の痣を化粧で隠すと、スーパーへと向かった。出来るだけ買い物を早く済ませて家に帰ろうとした彼女だったが、重たい腹を抱えながらの買い物は思いのほか時間がかかった。 彼女が帰宅すると、夫はまだ帰っていなかった。(早く、早くしないと・・)先ほどからお腹の張りが辛いが、それを我慢しながら美幸は夕飯の準備をしていた。夕飯を作り終えて食卓の上に置いた時、美幸は下腹の急激な痛みに思わず蹲った。「ううう~!」美幸はエプロンにしまってある携帯を取り出し、救急車を呼んだ。「どうしたんだ、千尋?」「お腹が、痛くて・・」歳三が風呂から出て来ると、千尋がソファで苦しそうに呻いていた。「まさか、もう産まれるのか? 予定日はまだ数週間も先だろ?」「お願いします、あなた・・病院に。」「解った。」歳三は予め用意していた入院グッズとベビー用品を詰めた鞄とスーツケースをトランクに積み、妻を病院へと運んだ。「しっかりしてください、もうすぐ病院に着きますから!」「痛い、痛い!」美幸は陣痛に襲われ、悲鳴を上げてのたうち回った。「胎児の脈拍が下がってる!」「緊急帝王切開だ!」病院に搬送された美幸は、緊急帝王切開手術を受けた。 同じ頃、千尋は分娩室に運ばれ、歳三立ち会いの下、元気な女児を出産した。「おめでとうございます、元気な女の子ですよ~!」意識が朦朧としながらも、千尋は生まれたばかりの娘に授乳した。「可愛い・・」千尋は懸命に自分の乳を吸う娘を見ながら、微笑んだ。 一方美幸は、病室の片隅でソファに寝かされたまま朝を迎えた。「あの、わたしの赤ちゃんは?」「元気な男の子ですよ。」そう言って看護師は彼女に微笑んだが、それが作り笑いだと美幸はすぐに解った。「赤ちゃんに会わせてください。」「いけません、暫く安静にしていないと・・」ソファから起き上がろうとする美幸を、看護師が必死で押さえた。「赤ちゃんに会わせて~!」にほんブログ村
2011年11月07日
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「ほら、これが赤ちゃんの頭ですよ。」「良くわからねぇなぁ。」 千尋の健診についてきた歳三は、そう言うと超音波画像のスクリーンに映る胎児の画像を見ながら首を傾げた。「まだ小さいですからね。安定期を過ぎれば性別もはっきりすると思いますよ。」「そうか、楽しみだなぁ。」歳三と千尋が健診を終えて診察室から出て行くと、一台のストレッチャーが猛スピードで廊下を駆け抜けていった。(何だ?)歳三がちらりとストレッチャーを見ると、そこには昨夜店に来た女性が乗せられていた。「あれ、昨夜の・・」「一体何があったんだ?」歳三達は少し女性の事が気になりながらも、病院を後にした。 その数時間前、総司に似た女性―木元美幸は夫からまた暴力を受けていた。「やめて、もうやめてよぉ!」「うるさい、お前が俺を怒らせるから悪いんだ、この役立たず!」怒り狂った夫は美幸の髪を掴むと手加減なしに彼女の頬を拳で殴り、壁に彼女の頭を打ち付けた。「やめて、お腹はやめて!」「煩い!」夫は美幸の腹を執拗に蹴った。彼女は両手でお腹を守ろうとしたが、無駄だった。やがて下腹に激痛が走り、彼女は気を失った。「誰か救急車を! 妻が階段から落ちたんだ!」遠のく意識の中で、夫が慌てふためきながら携帯で救急車を呼んでいる声が聞こえた。「う・・」「気が付きましたか?」美幸が目を覚ますと、彼女の顔は包帯に覆われ、病院着に着替えさせられていた。「あの・・わたし・・」「赤ちゃんは無事ですよ。」「良かった・・」 お腹の子が無事だということに気づいた美幸は安堵の笑みを浮かべたが、また夫が暴力を振るうのではないかと怯えていた。「本当にありがとうございます。」病室の外で、夫が医師や看護師に頭を下げているのがドアの隙間から見えた。いつも鬼のような形相を浮かべて自分を睨み付ける顔とは違い、彼らには笑顔を浮かべていた。(どうしてあなたは、わたしに笑顔を見せてくれないの?)自分の前では、夫はいつも怒って暴力を振るっていた。他人の前は常に笑顔を浮かべているのに。「美幸、大丈夫か?」「え、ええ・・」「これからはお前を大切にするよ。」夫は偽りの笑みを浮かべながら、美幸を抱き締めた。(また殴る癖に・・)美幸の中から急激に夫への想いが醒めていった。 数ヵ月後、彼女は夫と共に退院した。「あなた、あの・・」「何もたもたしてんだよ、美幸! さっさと飯作れよ!」「わ、解ったわよ・・」美幸は恐怖に怯えながら、キッチンに立った。「てめえ、まさか俺が改心したと思ってるんじゃねぇだろうなぁ?」「そんな事、思ってない・・」涙を浮かべながら、美幸は夕飯を作った。早くここから逃げないと。 美幸はそっと下腹を擦った。にほんブログ村
2011年11月07日
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「申し訳ございませんが、もう閉店しておりますので・・」「そうですか、すいません。」総司に良く似た女性は、そう言って項垂れると千尋に背を向けた。何だかその背中が何処か哀愁を帯びていて、千尋は彼女が放っておけなかった。「待って下さい、うちの人に相談してみます。」彼女はそう言うと階段を駆け上がり、歳三を起こした。「あなた、起きて下さい。」「ん、なんだぁ?」「先ほど、女性の方がお見えになって・・」歳三が寝ぼけまなこで店へと降りてゆくと、外には総司に似た女性が立っていた。「総司・・?」「パンが食べたいとおっしゃってるんですが、どうします?」「今日の売れ残りでも大丈夫だよな?」「はい。」数分後、千尋は売れ残りのパンを持って女性の肩を叩いた。「申し訳ありません、これしかないんです。」「そうですか。こちらこそこんな夜中に無理を言ってすいません。」「あの、このパンはレンジでも温めることが出来ますから、大丈夫ですよ。」「ありがとうございます。」女性はそう言って千尋に頭を下げると、夜の住宅街へと消えていった。(彼女は本当に、沖田先生なんだろうか?) 総司がこの世を去ってから、もう100年以上も時が経っている。総司や平助達も転生して、何処かで生きている筈だ。彼女がもし、総司が転生した姿だとしたら・・(考え過ぎですね・・)仮に転生していたとしても、前世の記憶を持っている者は多くないと聞く。総司に似た女性が現れたからといって、怯えることはない。それに自分は、歳三の子を宿しているのだ。(大丈夫・・きっと大丈夫だから・・) 千尋はそう自分に念じ、眠りに落ちた。「おい、何だこれは!?」深夜の閑静な住宅街の一角にある新築のリビングに、怒声が響き渡った。 怒鳴っているのは、30代前半と思しき眼鏡を掛けた男で、神経質そうな顔をしている。彼の前で俯いて立っているのは、総司に似た女性だった。「俺は焼き立てのパンを食いたいんだ、こんな廃棄寸前のパン食えるか!」「でも、レンジで温めれば大丈夫だってお店の方が・・」「俺に口答えする気か、誰がお前を食わせてると思ってんだ、ええ!?」 男はおもむろに女性の髪を掴むと、思い切り彼女を突き飛ばした上に、拳で彼女の顔を殴り始めた。「ごめんなさい、ごめんなさい・・」「ったく、お前はおつかいもまともに出来ないのか!」男は妻を罵倒すると、リビングから出て行った。(わたしが悪いから、あの人が怒るんだ・・) 夫に罵倒され、暴力を振るわれるのは自分の所為だと女性は自分を責め、千尋が渡してくれたパンをレンジで温め始めた。「美味しい・・」もっちりとした食パンを一斤食べると、恐怖で張り詰めていた心が少し和らいだ。 翌朝、その女性は顔に青痣を作って店に来たので、千尋と歳三はぎょっとした顔をして思わず作業の手を止めて彼女を見てしまった。「どうしたんですか、その顔?」「すいません、階段を上ってたら急にバランスを崩して落ちてしまって。バゲット、あります?」「ええ、焼き立てのものがございますよ。」千尋はそう言うと、女性に焼き立てのバゲットを渡した。「ありがとうございます。」 この時まだ、女性が自分達と大きく関わることになるなど、歳三達は知る由もなかった。にほんブログ村
2011年11月07日
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