今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

今日の気持ちを短歌におよび短歌鑑賞

2013.05.24
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雑感:歌集「悲しき玩具」より(三)下書き (結社誌「賀茂短歌」5月号用)                



 前号で、啄木短歌を分ち書きで読むのと、分けないでストレートに読むのとの違い



を書きました。そして、ブログにも載せていました。そうしましたら、次のようなコメント



がありました。



『「ふるさとの訛なつかし……」を分かち書きで読んでみると、随分異なった印象に



なったので、驚いております。啄木には、「ふるさとの訛」が、とにかく懐かしかった



のです。ですから、わざわざ、その訛を聞くだけのために、今日も上野駅の雑踏



に踏み行っていくのだ、という積極的な行動を伴った印象を憶えます。



小生、今まで「ふるさとの訛なつかし停車場」まで一息に読んで、「ああ、上野駅を



暗示しているんだな」と思っていました。これですと、たまたま上野駅の雑踏でふる



さとの訛を聞いて、そこから去りがたく思った程度の、受動的というか、成り行きで



そうなったような感触になります。(後略)』



このコメントを読みまして、同感いたしました。





「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」



実際の分かち書きですと次のようになります。



ふるさとの訛なつかし



停車場の人ごみの中に



そを聴きにゆく




 まず、「ふるさとの訛なつかし」です。たとえば、文机に坐って物思いをしている風



景を浮かべます。ふるさとがなつかしい、むしょうになつかしい。いや、正確には「ふ



るさとの訛り」がむしょうになつかしく思ったのです。そして、思いついたのです、「そう



だ、上野駅へ、あの雑踏の中に行こう。なつかしいふるさとの訛りを聞くために…」ま



あ、こういったことでしょうか。



 啄木は小説家になりたかったようです。そして、小説家になれず、その望みは挫折



しました。ただ、こうやって分ち書きの短歌を読んでいますと、なにか小説の一齣を



読んでいるような気になります。



 繰返しになりますが、「ふるさと」が単になつかしい、ではなく「訛り」がなつかしいの



です。啄木は訛っていたのでしょうか、確認しておりません。啄木自身が訛っていた



か、いなかった、私には分りませんが、ふるさとの訛りがなつかしかったのでしょう。



標準語のあじけなさ、うそっぽさ、あるいは、都会の人との人間関係、もっとあるかも



しれません。そんなことまで分ち書きにしたお蔭で思いがふくらむ気がするのです。



ただ、そのように読みを拡げてゆくことがよいかどうかわたしには分りません。





 横道に逸れてしまいました。でもなにか言い尽くした感じもありまが、今ひとつ「悲し



き玩具」の中より一首選んで読んでみたいと思います。





「やや遠きものに思ひしテロリストの悲しき心も近づく日のあり」



これも実際の分ち書きは、次のようになっています。



やや遠きものに思ひし



テロリストの悲しき心も――



  近づく日のあり。




 分ち書きでなく読むと、どうしても「やや遠きものに思ひしテロリスト」と読んでしまい



ます。つまり、テロリストのことを遠く思っていた、自分には関係のない、遠い存在と



思っていたテロリスト。というふうに、わたしには読めるのです。それでは、実際はど



うでしょうか。「やや遠きものに思っていた」のは、「テロリスト」そのものではなくて、



「テロリストの悲しき心」だということです。ですから、「テロリスト」については、あるい



は、常に心の中に思っていたかもしれません。「テロリストの怒りの心」などはあるい



は同情するところもあったのかもしれません。「テロリストの悲しき心」がどういう内容



のものかははっきりわかりませんが。「テロリストには血も涙もない」もののように思



うのはその行動などによって、一般的なに感じる気持ではないかと思います。それを



啄木は、テロリストにも悲しい心があるんだと言っているようにも思えます。止むにや



めない閉塞感による行動。本当はテロなどしたくないんだ、そんな悲しい気持がテロ



リストにもあると、同情をよせているのかもしれません。



 「やや遠き」という微妙ないいまわし。ただ「思ひし」ですので、過去に思っていたの



でしょう。「テロリストの悲しき心も」の「も」。「怒りの心」「残忍な心」「冷血な心」、いろ



んな、「テロリストの心」がありえるでしょう。そのなかのひとつに「悲しき心」があるの



でしょう。「――」ダッシュは、余韻をここでもたせているのでしょう。



次の三行目「近づく日のあり。」は、二行目の余韻を十分するようにとでもいうよう



に、一字下げて始まっています。あるいは、ちょっと言いずらいことなのかもしれま



せん。ほんとの気持として少しいいよどんだ感じの、「近づく日のあり」かもしれま



せん。そして、最後に句点「。」が付いています。ここでは、余韻は不要、言いたい



ことは言い尽くした、「。」と言っているようにも思えるのです。





 「一握の砂」と「悲しき玩具」の違いは色々あろうかと思いますが、ひとつは「悲しき



玩具」のほうがより正直になった。一口にいいますとそんな印象があります。「悲しき



玩具」の中に出てくる沢山の「嘘」についての歌。自分のことを嘘つき、嘘のかたまり



というほどに正直な歌となっているのだと思います。それから、句読点、感嘆符、ダ



ッシュなどを付け、より散文化しているということでしょうか。啄木が小説家志望であ



ったことを考えるとさもありなんと思うのです。分かち書きにしろ句読点などを付ける



ことにしろ、啄木が最初に始めたということではないのですが、最後まで徹底したこ



とにわたしは注目します。啄木に影響を与えた土岐善麿は後半普通の一行書きに



なって、句読点も止めております。



 わたしは、啄木の分ち書きに注目し、「分ける」とはどういうことなんだろうか、と考



えてみました。次号でそのことを、わたしなりに考察してみたいと思うのです。



(つづく)

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最終更新日  2013.05.24 19:29:21
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