2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
全28件 (28件中 1-28件目)
1
献立は、鶏肉炒り煮、フライ、磯辺和え(2)。添えの野菜はフライにレタスを。果物はメインが煮物なので付きません。◆鶏肉炒り煮。。。材料は、鶏もも肉、ごぼう、小芋、突きこんにゃく、人参、グリンピース。ごぼうは皮を剥いて酢水から茹でておく。突きこんにゃくを2センチの長さに切り揃えてざっと水洗いをして水から茹でておく。人参は皮を剥いて乱切りに。一人3切れぐらいずつ取れる様に。小芋は冷凍のを袋から出しておく。グリンピースは缶から出して、ざっと洗ったのを塩茹でしておく。熱した鍋に油を敷いて鶏肉を炒める。鶏肉に火が通ったら、突きこんにゃく、人参、ごぼうを加えて更に炒める。軽く火が通ったところでひたひたになる程度の水を加え、出し、酒、砂糖、醤油、みりんなどで味を調えて味を馴染ませる。味が馴染んだら、塩茹でしておいたグリンピースをまぶしておく。別の鍋に材料を煮た出しをとり、たっぷりの量になる様に水、調味料を加えて小芋が十分に浸るようにして味を煮含める。◆フライ。。。今日のフライは、貝柱のフライに加工された冷凍物を揚げるだけ。一人2個ずつ。別に冷凍の出し巻き卵を湯煎にして十分温めたのを8つ切りにしておく。◆磯辺和え(2)。。。材料はエノキ、きゅうり、かにかまぼこ、刻み海苔。エノキは根元を切って3センチぐらいに切り揃えたのを茹でておく。かにかまぼこは袋から取り出して、3センチぐらいに切り揃えたのを軽く茹でておく。きゅうりは薄切りスライスしたのに塩をまぶしてしんなりさせ、しんなりしたところで塩を流して水気を切っておく。砂糖、醤油、みりんなどで合わせ醤油を作った中へ、材料を合わせて、刻み海苔をたっぷりとかけておく。メインには鶏肉炒め煮を。小芋は二つずつ、人参は3切れは入る様に盛り付ける。思った程の量は無いので注意する。左側にレタスを敷いて、貝柱のフライを二個斜めに重ねて右側に出し巻き卵を。3番目には磯辺和えを。光の具合と角度で2番目に詰めた出し巻き卵とレタスの色の区別がつかなくなりましたが。。。 立春を目の前にして、ここ関西でも雪が舞うとの予想がされています。さて、皆さんのところはいかがでしょうか?格別に寒い夜、実は土曜日に受けた介護保険請求事務の2回目の講座で出された宿題が山の様にあって、なかなかPCの前には座れません。ここ暫くはこんな状態が続くかと思いますが、来てくださった皆さんには本当に申し訳ありません。今日のところはこの辺で休むとします。ごめんなさい。。。
2005.01.31
コメント(2)
『昨年秋の調査だったか、国立天文台が「夕日の沈む方角を知らない子供が3割もいる」と発表した。「西から昇ったお日さまが東に沈む…それでいいのだ…」などとふざけていた天才バカボンのパパでもあるまいし、とあきれたり、驚いたりしたものだ。 これに追い討ちをかけるように、先ごろ、田村学園女子大が「子ども体験活動調査」の結果をまとめた。「日の出や日の入りを見たことがない」という小中学生が50%を超えた。10年ほど前の調査に比べると10ポイントも増えた。 「自分より高い木に登ったことがない」41%。「チョウやトンボを捕まえたこともない」23%。各20~10ポイント増だ。湧き水を飲んだり、木の実や野草を食べたことのない子も、ぐっと増え、約半数が未経験者だという。自然が遠くなっている。 生活体験も希薄だ。「やってない」が4割を超えるのは「家族や他人の看病」「赤ちゃんを見て抱っこした」「高齢者に席を譲る」など。自分の衣服の洗濯、アイロンかけ、ボタン付けなどは7割が「そんなことしてません」 「社会力」-門脇厚司・前筑波大享受が言う新概念だ。「社会の人々と交わりながら生きる力。人間としての基礎力」と解釈する。この社会力の喪失が昨今の深刻な社会問題の背景にあるといわれる。 体験しなければ社会力のつけようがない。落ちたといわれる学力の回復も急務だし子どもたちは大変だが、社会力と学力は正比例の関係にもあるらしい。まず、朝日と夕日をみてボタン付けでも始めるといいかもしれない』 驚きました!田舎では考えられないと思っていたけれど、さて、どうなんだろう。。。? さて、テレビ大阪の番組で、日曜日の午後7時から「田舎に泊まろう」というのがあって、たまたま田圃で農作業をしていた義姉がスタッフと会話しているシーンから始まっていた。残念ながら、放映されたのは今日だったので、この場を借りて宣伝を♪というわけに行かなくなったけど、根本はるみさんが、近くの農家で泊まって淡路島の冬野菜を堪能する旅になった。 淡路島で今盛んに出荷されている野菜といえば、白菜・レタス。有名な玉葱は白菜を収穫し終えた田圃へ植えたり、既に植えられているのもあるけど、玉葱の収穫はまだまだ。我が家の田圃の一部を義姉夫妻に任せることになったのは、こちらの私には義父が亡くなってから。たまたまその田圃へレタスを植えていて、テレビ収録があったのは12日だったらしいけれど、そのときには最後のレタスを収穫して、そろそろ玉葱を植える準備を。といったところだったらしい。義姉の出演はアッという間だったけれど、義姉のお陰でこの辺の人はユニークなんだ♪という印象を与えたらしい。 田舎暮らしだと、日の出も日の入りも縁が無い。なんてことは考えられないけれど、例えば、マンションの何階かに住んでいると、土に触る機会も無いだろうし、日の入りに遭遇するなんてことも無理なのかなぁ?周りがビルの林立などということはこの辺では考えられないから、私には信じ難いことだらけ。我が家は夫が勤めなものだから、勤めに間に合いさえすれば良いと、朝は格別早いわけではないけれど、農業を専業としている義姉夫妻の朝は格別に早い。お天気さえよければ遊んでいる暇などとても無い農家。更に、今にも雨が降り出しそう。なんてことになると、慌しいなどというものではない。。。 昨日のさだまさしさんのコンサートの中で、春を思い浮かべる色。ということで色んな人に話を聞いたところ、“黒”と答えた人がいらっしゃって驚いたのだとか。北海道にお住まいのその人は、雪が解けてやっと黒い土が顔を出す。そこへ種を蒔いて行くときに春を感じると答えられたそうで、確かに、気候の温暖な淡路島では考えられないこと。北海道では雪に埋もれてしまうこの季節にも、白菜が植わっていたりするのだから、それがそのまま農家の豊かさの理由にもなるけれど、その分忙しさは否めない。お天気を相手の、何となくのんびりそうに見える仕事も、結構肉体的にはきついものがあるし、日が出て、日が沈むまでを田圃で過ごすと、自然と夜布団に入る時間も早くなる。でも、これが自然には一番優しい暮らし方なのかな? さて、その根本はるみさんは一体何時間を淡路島に滞在していたかはわからないけれど、綺麗な空気を存分に吸って、それだけでも都会の人には贅沢だったかも。。。? そうそう、今日はたまたまテレビで“だるま夕日”というのを見ましたが、こんなのも、冷え込む季節ならではの現象なんだそうで、ビデオに撮られた方は1ヶ月も待ったのだとか。朝日は無理でも夕日を見る機会ぐらいは都会の子にも。結局、外で遊ぶということをしなくなったせいもあるのかな?門限は日が暮れるまで。なんてこと無くなったのかな?
2005.01.30
コメント(0)
という催しの抽選に申し込んでおいたペアチケットが当って、夫と二人で行って来た♪ 開演時間が午後5時ということで、午前中の介護保険請求事務の講習を終えてそそくさと家へ戻ると、もう、夫は玄関でチケットを手にして待っている。仕方無しに、荷物を置いてバナナを一本かじって外に出る。バス停までは車で5分ほどなので、時間的にはかなり余裕がある筈なのに、どうして夫はそんなにもアクセクしていたんだろう。バス停についても、20分余りはバスを待つことに。それなら、カップうどんぐらいは食べられたのにな。昼間のこんな時間にバスを待つことなんて、私には初めてだったけれど、本当にのどかな陽射しで、暖かいこと。寒波の噂などまるで嘘の様な陽気。でも、バスに乗り込んでもやはり暖房がかかっている。こればかりは仕方が無いので、バスに揺られながら暫く目を閉じていることに。休日のお昼寝にはもってこいの条件♪ 場所は三ノ宮国際会館。座席は、淡路島からの申し込み者を固めていたのか、夫が仕事でお邪魔している施設の職員さん、私が所属していた特別養護老人ホームの施設長ご夫妻などが顔を揃えていた。 いよいよ5時。ブザーがなっていよいよさだまさしさんの登場!と思いきや、何か隣の席の人が、「式典が1時間あるから、遅くなるね」などと話していらっしゃるのが聞こえる。エッ、まさか?と思っていたけど、やはり、休憩を挟んで、肝心のコンサートまでには1時間余り待たされることに。それでも予定を早めてコンサートが始まって、本人のさださんも「開始時間を早めたりするのは初めてです♪」と仰っておられた。観客席を埋めたのは、仕事の関係上、はっきりいって若いという人は皆無に等しい。往年のさだまさしファンから、さらに年齢層でいうと上の層になるのかな? 私自身は、このさだまさしさんのことを意識する様になったのは、高石市で私には初めてのグレープの中野サンプラザでのさよならコンサートの二枚組みのアルバム「三年坂」を買ってから。何故、そのレコードに手を伸ばしたのか?今となっては覚えていないけれど、「精霊流し」が聴きたかった?当時の値段で、私にはそんなに安い値段ではなかったけれど、歌だけじゃなく、コンサートの雰囲気をそのままつたえている、ライブ盤ということでさださんの軽妙なトークにはまりこんでしまったのは言うまでもない。 フリーページの「私の分析」の中の「無線と私」シリーズにも出てきますが、高校を卒業して大阪市内(当時は住吉区=現在は住之江区)の郵便局への勤務が決り、じゃぁ、住むところはどうするか?ということになって、当初は枚方市にある寮へ入ることになっていたけれど、枚方市からだと、毎日の通勤にいくつかの電車を乗り継いで、ということになるのを案じた母が、南海電車一本で通勤出来る自分の妹の家なら。と思いついて、事情があって、私には「大阪にある親戚」としか知らなかった叔母の家でお世話になることに。西も東もわからない大阪。しかも親元を離れての生活。心細いこともあって、ひたすら家ではレコードを聴いて過ごすことが多くなったこと。そんな中でふと見つけたさだまさしさんのアルバム。。。擦り切れるぐらいに聴いて、その中でもトークの軽妙さには随分励まされたものだった。だからといって、アルバムの全部を手にしているわけではないけれど、このほかには、少しでもたくさんの歌を聴きたいと、10枚組みのを買ったかな?記念のゴールドのレコードが楯になったのを今でもずうっとピアノの上に飾って、楽しんでいる。 トークの中に、たまたおば様たちの間では一世を風靡した、「ヨン様」と同じホテルに泊まったエピソードがあり、ファンの年齢層が似ていたものだから、「ヨン様」目当てに待っていた妙齢のおば様たちにつかまってしまった話があったりした。そして、話は年金問題にまで及んで。。。また、2月の半ば過ぎになるけれど、平成16年新潟中越地震・豊岡災害さだまさしチャリティコンサートを神戸で!ということで、既にチケットは完売されたということも、さださんならではのことではないかな?と、嬉しくなった。 私にはどうしても、「三年坂」のアルバムで、さださんという人がバックで演奏してくださる人のことをとても大事になさっておられることが印象に残っていて、やはり今回のステージでも、真ん中に据えられたマリンバ。。。さださんの歌を支えていらっしゃるのは、この人たちなんだ!と思わずにいられない。「三年坂」のアルバムの中に、客席から「服部さん頑張って♪」の声があがり、すかさず、「それは必ずレコードになりますよ♪」と、さださんの声。さよならコンサートの編曲、指揮を担当されていた服部克久さんのことをとっても大事に思っていらっしゃるんだ!と思うのと同時に、このアルバムに収められた音に、すっかり魅了され、私の耳にはこの音しか残っていない。みたいな部分があったけど、言葉を大切にするのと同時に、こうした音にもとても神経を使っていらっしゃるさださんの思いが感じ取れた。 「関白宣言」。。。取り方は色々あるけれど、さださんを代表するこの曲で会場は更に盛り上がる。そして、同時に男性たちにはっぱをかけるというのか、女性たちにも考えさせられる一面が。。。この曲を発表したときに、これから大変なことになるぞ!と思ったら、見事にその通りになったと。仕事で夜遅くなって帰って来たその家の主(あるじ)を温かく迎えてくれるのは、愛犬だけ。。。お父さんの威厳というものが、一体いつ頃から無くなってしまったのでしょう?世のお母さんたちが子供たちに、「お父さんみたいになっちゃ駄目よ!」いつからこんなことを言う様になってしまったんだろう。。。?考えさせられました。「関白宣言」の言葉自体には抵抗もあるけれど、改めて考えてみると、当たり前のことが当たり前でなくなり始めた、そのときに出た曲だったのが、何だか今となっては男性たちの空しい願いだった。みたいな、そんな世の中になってしまったのかな?と。 お父さんの威厳というのは必要だし、年上の人を敬うことは当たり前だと思うし。。。いつからなのかな?とても大事なことが狂い始めたのは?みんな年を取って腰の曲がったお爺さん、お婆さんになるのにな。 歌に込めた思い。。。人を元気にするために歌ってるんだと仰っておられたさだまさしさん。ときにはこうしたトークの中でこういうことも訴えたいと。忙しくて話をする暇も無いなんて言ってないで、少しはこうした時間を作ることも必要なのかな? 正直、行きたいと思ってもなかなかチケットが手に入らず、私には2回目となったさだまさしさんのコンサート。「関白宣言」に込められた思い。。。大切にしたい。そのためにも朝夫を送り出すときの挨拶の声、夜迎えるときの挨拶の声、言葉遣い。。。基本中の基本だと改めて考えさせられた。
2005.01.29
コメント(2)
『正平調』というコラムに私が思っていたことがそのまま載っていましたので、引用させて頂きます。 『ずっと気になっている言い回しがある。阪神・淡路大震災から過ぎた年を数えるのに「周年」を用いることだ。 昨日から始まった通常国会での代表質問で、「震災10周年」の表現があったので、あらためて思いだした。あの忌まわしい大惨事を「周年」で言い表すのは、はたしてふさわしいことなのだろうか、と。 17日の追悼式典は、兵庫県も神戸市も「10周年」だった。他の追悼行事も「10周年」が目についた。官公庁が主催する行事に比較的多い。式典名についてどこまで論議したか知らないが、目にするとどうしても気になる。「10年」の表記でなぜいけないのか。 間違った日本語ではない。「ある時から数えて過ぎた年数」(広辞苑)だから慶事、弔事を問わないだろう。しかし「〇周年」といえば、たいがいは「創業〇周年記念」などと、めでたいときに使う。これが長い歴史を経て言葉の漂わせる雰囲気である。 17日に何人かの被害者と話したが、だれも「10周年」とは言わなかった。みんな「10年」である。作家藤本義一さんは本紙のインタビューで、式典自体への疑問をもちながらこう語っていた。「外国では自然災害に『何周年』という発想はしないですよ」 では戦禍はどうなのか。ことしで被爆60年になる広島、長崎市のホームページを見ると「被爆60周年」の記述が目立つ。やはり抵抗を覚える表記だが、これほどまでに「周年派」が多いと、こだわる方がおかしいのかと、コラム子は悩んでしまう。皆さんはどう思うだろうか。』。。。 とありましたが、私自身は『記念』ということにも抵抗があって、記念式典という際によく用いられるけれど、やはり慰霊という言葉を頭に置くならば『祈念』とする方がすっきりすると思う。言葉の持つ本来の意味とはかけ離れてしまうかも知れないけれど、やはり弔事と慶事では使い分けをした方がと思う。 また、差別を助長するような言葉には最近やっと目が向けられる様になったけれど、ここでもう一度ベートーヴェンが「第九」に込めた、“求めよ、神を! …奇しき力に結ばれて、全ての隔たりを超え、確かな力に結ばれ兄弟となる”という歌詞を入れ、人を思いやり、全ての命を平等に敬うことを忘れなければ、必ずや真に平和な世界が訪れる。。。誰もがなくてはならない人なんだ。と思うと差別なんかしている場合ではないと思うのですが、国会答弁などを聞いていると、一番弱い立場の個人がなおざりにされていると思えて仕方がありません。。。 と、ぐずぐずしていたらこんな時間。そろそろ出勤となります。書き込みしてくださった皆さん、本当にごめんなさい。。。
2005.01.28
コメント(4)
献立は牛肉柳川風、白和え、れんこん金平。添えの野菜は、メインが煮物なのでつきません。果物も無し。◆牛肉柳川風。。。材料は、牛肉薄切り、ごぼう、三度豆、人参。牛肉薄切りは一口大に切っておく。三度豆は5ミリぐらいの斜め切り。人参は皮を剥いて千切りに。牛蒡は皮を剥いて酢水に浸けておいてから、茹でて斜め薄切りにしたのを更に千切りに。熱した鍋に油を敷いて、牛肉から炒めていく。牛肉に火が通ったところへ、牛蒡、人参を加えて更に炒めて、酒、砂糖、みりん、醤油などで味を調える。牛蒡に充分火が通ったところへ三度豆をまぶす様に入れて、溶き卵をまんべんなく上から回しかけて、卵に火が通ったら出来上がり。◆白和え。。。材料は、絞り豆腐、春菊、突きこんにゃく、生椎茸、人参。突きこんにゃくを5ミリぐらいの長さに切り揃えて、軽く茹でておく。生椎茸は細切り、人参は皮を剥いて細切りにしたのを更に細かく切って、砂糖、醤油、みりんなどで味を調えただしで具になる材料に下味をつけて充分に冷ましておく。春菊は葉の部分は1センチぐらいに、茎の部分は少し短めに切り揃えて、水にさらしてから、塩茹でして、茹で上がったのを水にとって、冷めたら水気を絞っておく。炒った白ゴマと、絞り豆腐、味噌をすり鉢であたる。豆腐がほどよく馴染んだところへ、味噌を入れて更に砂糖を加えて味を調える。下味をつけた具材、茹でた春菊が充分冷めたのを確かめてから、味を調えた豆腐と合わせる。◆蓮根金平。。。蓮根は皮を剥いて酢を入れた水から茹でておく。茹で上がった蓮根を薄切りし、熱した鍋に油を敷いて充分に火が通るまで炒める。砂糖、醤油、みりんなどを予め合わせておいた合わせ醤油を加えて更に炒めて味を馴染ませて、汁気を飛ばして最後にゴマ油を数滴たらして香りをつけ、火を止める直前に炒った白ゴマをまぶしておく。メインは牛肉柳川風。三度豆のグリーンが目立つ感じに彩り良く盛り付ける。左側には白和えを。3番目に蓮根金平を。牛蒡がたっぷりなので、ボリューム満点のお弁当が出来上がりました♪さて、明日は週のうちで一番数の多い金曜日。人参と突きこんにゃくの切り込みを済ませて、明日は生椎茸を薄切りすれば白和えの具材が。一旦味付けしたのを充分に冷まさないといけないので、一番にかかりたいところ。春菊は別に茹でて冷ますだけだから、具材を冷ましている間に出来るので。問題はごぼうの切り込み。皮を剥いて酢水につけてあるので、後は茹でてからの方が切り易いので。蓮根は半分ほどスライス出来たけど。。。全ては明日に。 新潟県小千谷市で更に悲しい事故が。。。降り積もった雪の重みで旅館が押し潰されてしまったこと。地震で壁にはひびが入っていたというけれど、危険度判定ではどうだったんだろう。雪の重みで倒壊した住宅も結構な数に上ると聞く。ただ単に、一面に積もった雪は綺麗だろうな。なんて思っていたけれど、こんな事故があっては簡単に雪見というわけにはいかない。豪雪地帯に住む人たちの苦労を改めて思い知らされた気がします。 犠牲となられた方のご冥福をお祈りします。。。
2005.01.27
コメント(2)
“タグ”というのにチャレンジしているのですが、一つひとつ自分のものに出来るようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうです。今、字体の調節にチャレンジしているのですが、なかなか思う様に行きません。 何でも自分の思い通りに“タグ”を使いこなせる人はつくづく、凄いなぁ。と、お気に入りリンクさせて頂いている『きなこのママ』さんのところでいつも感心させられるばかり。まだまだ道のりは遠いけれど、ゆっくりと自分のものにして行きたいと思います。本当は、HPを開設する時点で知っていなきゃいけないことばかりで、本当にお恥ずかしいことだらけですが、何をどうして良いのかもわからないままにも来てくださる皆さんのお陰で、rakutenで開設して5ヵ月になりました。Gaiaxのシステムが余りにも便利だったので、ずっと甘えたまま自分にはこれといった知識も無いままにここまで続けてくることが出来ましたのも、本当に皆様のお陰と感謝しています。これからもどうぞ宜しくお願いします。 さて、お弁当を詰めて配達に出るのは午後4時を過ぎてから。流石に冬至から一ヶ月余りを過ぎると日が長くなったと実感させられますが、一年中でも一番寒いとき。車を降りる瞬間が一番辛いけれど、今日も無事に配達を終えることが出来ました。 昨日の新聞になりますが、自転車歩行者死者が急増というタイトルが目に入りましたので、そのまま引用させて頂きます。。。 高齢者に目立つ 無理な横断など原因として、県警の昨年まとめとしてこんな記事が載っていました。 『県内で昨年、自転車や歩行者の信号無視などが原因で発生した交通死亡事故が、急増したことが24日までに、県警交通企画課のまとめで分かった。特に高齢者が関係した死亡事故が目立つ。県警は、体験型の出前講習を実施するなどして、高齢者の事故防止を呼びかける。 同課のまとめでは、昨年の交通死者は285人で、前年よりも1人減少した。一方、自転車や歩行者の過失が原因で、車にはねられ死亡した人はそれぞれ6人、7人増え、西播地域での増加が著しいという。 特に多いのは高齢者の事故。自転車で信号無視や一時停止を怠るなどして交差点で事故に遭い死亡したのは昨年17人(前年比9人増)、車が接近しているのに、道路を歩いて横断しようとして、はねられ亡くなった高齢者は18人(同13人増)に上った。 県警は、高齢者らが反応力が衰えているのに無理な横断などをしていることが事故の一因とみて、これまでに高齢者交通安全教育隊「STUS(スタウス)を結成。擬似横断体験などをしてもらう出前スタイルの講習会を開いており、その数は千回を超えた。 同課の調査では、受講者が県内で歩行中に死亡事故に巻き込まれたケースはゼロといい、県警は今後も参加者を募り、事故防止を訴える』とありました。。。 夕暮れどきの散歩。犬の散歩などにも気をつけて欲しいと思ったことが何回も。散歩の犬が先に道路へ飛び出してヒヤリとすることが。夕暮れどきはドライバーにとっても一番見通しが悪い時間帯。お互いに交通ルールを守って、更に車は急に停まれないということも頭において運転にも歩行にも気を付けたいものだと思います。
2005.01.26
コメント(6)
献立は、刺身、揚げ出し豆腐、穴子の辛子和え。添えの野菜は、刺身のけん、オオバ。果物は温州みかん。◆刺身。。。業者さんが刺身用に捌いて届けてくださるので、大根のけん、オオバを用意するだけ。◆揚げ出し豆腐。。。豆腐は水気を切って、一丁を八つに切り分ける。水気が切れた分から、片栗粉をまぶして、熱した油で揚げていく。トッピング用に、ネギの小口切り、しょうがをすりおろしたもの。出しは昆布でとった出しに、更に、顆粒のカツオだし、醤油、みりんで味を調える。◆穴子の辛子和え。。。材料は、きゅうり、オオバ、穴子。既に蒲焼状にされた穴子を予め熱しておいた天板に並べて軽く温めておく。2センチぐらいの幅に切り揃えておく。きゅうりは薄いスライス。オオバは細く刻んでおく。気スライスしたきゅうりに塩を馴染ませてしんなりしたところで塩を抜いて、水気を切っておく。それぞれ切った材料を合わせたところへ、醤油、みりん、砂糖、辛子で味を調えた合わせ醤油を加えて材料に味を馴染ませておく。果物が温州みかんを1/4に切ったものなので、悩んだ挙句、みかんを置いて、仕切る様にオオバを。そして、大根のけんを敷き詰める様に並べた上に、マグロを5貫とイカを2貫盛り付ける。隅っこに練りわさびを。みかんなどを置かないときは、大根のけんをこんもりとおいて、オオバを置いた上にお刺身だと、感じが良いけれど、みかんに魚の匂いが移ると困るので悩みつつ。。。左側には揚げ出し豆腐を。それぞれにおろしたしょうがと、小口切りにしたネギをトッピング。豆腐の間からつゆをかけて。ただ、お皿に盛ったのを食べるのではなく、お弁当の場合は配達ということがあるので、つゆをたっぷりと。というわけにいかないのが残念。3番目に、穴子の辛子和えを。寒いときだから良いけれど、それでも炊きたてのご飯とか、揚げ出し豆腐は熱いので、お刺身を一緒に盛り付けるわけにはいかず、熱々が美味しいお弁当を盛り付けてから、少し冷まして刺身を。だから、お届けした時点でお弁当は冷たいものに。 今日の厨房は本当に寒くて、回転鍋にお湯を沸かしての暖房。更に、配達のときは私が苦手な暖房をかけてくれていたし、なものですっかり怪しい状態に。家に戻って少し横になっていましたが、もう既にこんな時間ですので、今日はこの辺で休むことにします。来てくださった方、本当にごめんなさい。。。 明日は更に寒くなるとか。皆様もどうぞお風邪などにはくれぐれもお気をつけください。。。
2005.01.25
コメント(4)
母を眼科へ連れて行く約束をしていて、早目に家を出て、本当に久々に叔父を見舞った。心なしか、少し瘠せた様な叔父は、左半身に麻痺が残っているものの、右半身の反応がだいぶ良くなったと思う。相変わらず寝たままで、食事なども流動食と聞いたけれど、これは気管切開をしているために仕方が無いのかな? 入院して3ヵ月。手術をしてからだと、間も無く3ヵ月になる叔父のリハビリはまだまだ始められそうにないけれど、耳は聞こえているのだから、何とか歩行訓練まで持ち込めればと思う。 母の歩みが益々のろくなって、少しがっかりしたけれど、食べるものは美味しいというし、自分で自分のことが出来るだけでも有難いと思う。私の目が離せない状態になどなったら、それこそ大変。前回と、前々回の通院は母が最寄りのバス停までをタクシーに頼って、自力でバスで行ったのだとか。風邪気味だった私へは電話もよこさないところはあきれてしまうけど、自分で出来ることは何でも自分でやってしまおうとするところが私には有難い。4月には85歳になるというのに。一人暮らしになって、とうに1年を越えてしまった母。それでも泣きごと一つ言わないで頑張っている。母の強さは一体どこから。。。本当に有難い。
2005.01.24
コメント(6)
間も無く出かけることになります。『淡路合唱祭』の打ち合わせと、夏に行われる『淡路音楽祭』についての話し合い。 私たちは、3月に終了式というのを予定していて、日程がぶつかれば『淡路合唱祭』には出られないけれど、今のところまだ未定。それでも、出場するならするで予定に繰り込んでおかないといけないので、取敢えず。。。 発表する曲は、『ムーンリバー』と『落葉松』どちらも強力な仲間が加わって、女声三部での演奏となります。人数の関係で今まで三部なんてとても無理だとあきらめていましたが、ここはアルトの皆さんが頑張って。。。ソプラノさんにはそのままソプラノで頑張っていただいて。ということに。 今年度こそはソプラノに挑戦!と、年度始めには思っていたけれど、三部での演奏となった今、私はメゾソプラノを担当することに。今のところは楽譜とにらめっこという状態ですが、高校時代を思い出してしまいます。 「ムーンリバー」の歌詞の中に、♪サヨナラの手紙折って流そう♪なんていうところがあります。映画のことは私にはまるでわかりませんが、失恋の歌でしたっけ?勿論英語の歌詞を訳詞で歌っているわけだから。。。? 映画音楽というのは嫌いじゃないので、聴くのはよく聴くんだけれど、さて、映画のストーリーは?というと全く知らないのが情けないなぁ。今でも思い出すのは、『卒業』の最後のシーンかな?私が観た映画というのは本当に限られていて、恥ずかしいくらい。でも、武田てつや(漢字わからないので)さんが、たまたま二本立ての映画のどちらにも出ていた、『俺たちの第九』『幸せの黄色いハンカチ』には感動しましたよ♪って随分昔の話になりますが。。。今でも存在するのかなぁ。「エゴラド合唱団」だったか、初めての『第九』に取り組む姿を描いていました。「エゴラド」って、どういう意味なのかな?と頭を悩ませていたら、「ドラゴエ」を逆さまにしただけ。と聞いて、な~んだ!という感じ。でも、本当の意味があるとしたら、ごめんなさい。私にはわかりません。『幸せの黄色いハンカチ』も、たまたまけんさんが、郵便局で葉書を買うシーンから始まるんです。『俺たちの第九』の映画にも、合唱団のメンバーとして、たまたま郵便局へお勤めの方というのが設定にあって、何か偶然私自身も郵便局へ勤めていた頃だったので、それだけでワクワクしたのを覚えています。 と、こんな時間にPCを立ち上げて、またもや言い訳になってしまいましたが、戻りましてから皆さんのところへお邪魔させて頂きますね。いつもながら、ごめんなさい。。。
2005.01.23
コメント(6)
新聞の折込みチラシで見つけた、以前医療事務の講座でもお世話になった、医療事務センターでの今日は初めての講習会。 配食サービスの仕事に就いて、丸4年は過ぎたけれど、私自身は、介護保険のことについては全く無知も良いところ。日々を、厨房で食材と格闘しているだけなので、私自身が納めている介護保険がどの様に使われているのかさえも知らない有様。 先ず私の場合は第2号被保険者ということになるので、介護サービスを利用できるのは、老化が原因とされる病気により介護が必要であると認定された場合で、例えば交通事故などが原因で介護が必要となった場合は、介護保険の対象になならないらしい。 で、病気は15の病気が指定されていて、これを特定疾病と呼ぶらしい。でも、骨折を伴う骨粗しょう症なども、その一つに数えられるみたいで、骨折の原因などは問われないのかなぁ?脳血管疾患というのは脳梗塞なども含まれるのかな?これは次週に聞いてみなきゃ。 出来れば私自身は介護保険などを利用したくはないと思う。そのためにも健康には注意しなければならないし、健康の源はやはり、食べることにあるのかな?と思う。 食べないのも良くないけど、食べ過ぎるのもよくはない。朝は食べたくなければ食べなくても良いのだとか。夜は午後8時以降は食べないのが良いとされていて、これがなかなか難しかったり。。。でも、日々の努力がそのまま健康な身体を作り出すのなら、夜の“おやつ”には手を伸ばさないでおこう。 誰も、病気になどなりたくはないと思う。介護保険など、出来れば使いたくはないと思う。一人一人が自分自身の健康のことに気をつけていれば、国だって、県だって、地方自治体だって大きな財産を生むことになると思う。。。健康でいることは、ある意味、人に迷惑をかけないということにも繋がる気がする。頑張らなきゃ。。。 ただ、要介護認定の申請をしても、該当しないとか、軽い程度の要支援だと、食事や排泄はほとんど自分でできるが、掃除などの身の回りの世話に介助が必要ということらしい。身の回りの世話というのが実はどの範囲までのことをさすのか、勘違いしている利用者も多いと聞く。ヘルパーさんをまるで家政婦さんの様にこき使う?庭の草引きなどは、介護とは言わないと思うけど、頼まれることが多いのは、利用する側にも問題がありそうな。 自分で自分の身の回りのことが何でも出来る。。。人の手を借りずに出来ることは考えたら有難いことなんだと思う。そうそう、健康の為には早寝早起きも大切なんですよね。もう、夜更かしは止めておかなきゃ。
2005.01.22
コメント(4)
スイセンの季節である。房総や越前海岸と並ぶ三大群生地、淡路島の南端から満開の便りが届く。鼻を近づけ、甘い香りを胸にみたしている人も多いことだろう。 スイセンといえば、こんなギリシャ神話がある。主人公は美青年のナルキッソス。女性が好意を寄せてもあまりにつれないので、恨みに思った一人が復讐の女神に願をかけた。彼が報いのない恋に落ちますように、と。たちまち彼は激しい恋をした。 ただし実りようがない。なぜなら相手は泉に映る自分だから。寝食を忘れて自分の顔に見とれた彼は衰弱死した。その亡骸までが、水に映る自分を抱きしめようと飛び込んで、消えた。その地に咲く花が、彼の化身としてナルキッソスと呼ばれた。これがスイセン。 自分に酔う人をナルシストと呼ぶのはこの神話が語源だ。物語に香りのくだりは見当たらないが、狂おしいまでの自己愛の世界に、スイセンの切ない甘美さはふさわしい。自分しか愛せない青年の化身というのもうなずける。 香水「シャネルの5番」のエキスはスイセン。そう思う人は少なくないが、「誤解だ」と発売元はいう。企業秘密で詳しい成分は聞けないものの、バラやジャスミンが主なエキスらしい。しかしマリリン・モンローの愛した香水とスイセンの甘さを結び付けたくなるのもまた、うなずける。 「大寒」が過ぎた。さらに冷え込むだろう部屋にスイセンを、とふと思う。凍えた部屋にほのかな甘さ。冷え切った体で帰り、ドアを開ける瞬間のこの楽しみは冬にしか味わえない。。。 そして、淡路版に目をやると、子供は明日の社会の夢「夜回り先生」水谷修さん講演 薬物の怖さなど訴えという記事が。そのまま引用させていただきます。 「夜回り先生」などの著書があり、夜の繁華街で子どもたちへの声掛け活動を続ける元高校教師、水谷修さんの講演会「生きるってすばらしい!」が洲本市物部の市立青雲中学校であった。 シンナー中毒から抜け出せず事故死した少年やHIV(エイズウイルス)に感染し亡くなった少女など、かつてかかわった生徒の話を紹介。全校生徒や保護者、地域住民ら計約700人は、歯に衣着せぬ水谷さんの「直言」に聞き入った。講演の要旨は次の通り。 『薬物は怖い。脳や神経系を破壊し、心、頭、肉体、三度の死が訪れる。統計に寄ると、4人に1人はこの先、薬物使用に誘われる。最初にノーという勇気を持てるか。そこに全てがかかっている。 22年間の教師生活で一つだけ胸を張れることがある。ただの一度も生徒をしかったことがない。子どもはみんな花の種。親や教師、地域の大人が大切に愛を注げばきれいに花を咲かせる。 今は攻撃の時代。大人は十しかって一もほめない。だから子どもを追い込む。子どもたちは明日の社会の夢。もっとほめてあげてほしい。どんな親がいい親か子どもに聞いてみるといい。余計な言葉を捨て、子どもにごめんといえる親になって。 子どもたちはふてくされるな。親がばかだからといって自分もばかになってどうする。損をするのは自分。もう一度人を信じて、自分を大切に生きてほしい』。。。 “ほめる”ということをしなくなってしまったのかなぁ?それくらい、出来て当たり前?さて、自分が子どもの頃は同だったんだろう。私には今の子どもたちこそ、随分難しいことを強いられている気がしてならないけれど。。。 少し明るい兆しが見えて来たのかな?と感じたのは、今日の社説欄に載っていた、議員年金改革の言葉。。。全体見直しの一歩にせよというタイトルで、次の様に述べられていましたので、そのまま引用します。。。 衆参両院議長の諮問機関「国会議員の互助年金等に関する調査会」は20日、大幅な負担増と給付削減を盛り込んだ新議員年金制度案をまとめ、答申した。 答申は、議員が負担する納付額を70%以上増やし、さらに給付は30%減とし、国庫負担率を現行の72.7%から50%まで引き下げる、としている。これが実施されると最低給付額は、現在の年間412万円から288万4千円に減額されることになる。 議員には厳しい内容にみえるが、中島忠能座長が「国民からの批判に応えることを中心にまとめた」というように、この程度の削減は当然である。 昨年の通常国会では、年金改革関連法が成立し、国民の年金保険料は引き上げられた。その審議の過程で、国会議員の互助年金の際立った優遇ぶりが、強い批判を浴びた。国民に“痛み”を課す法案を、特権を享受する議員が審議しているのだから、到底国民の理解を得られるものではない。議員の中からも廃止論が出ていたほどだ。 実際、答申は「国庫負担が72%を超える運用実態は『互助』にふさわしくない」「議員が重要な職責を担っていることを考慮しても、優遇されている」と、厳しく指導している。国民感覚に沿った指摘というべきだろう。 とりあえずは、この答申を尊重して、早急に議員互助年金を改正すべきである。だが、それで終わりにしてはならない。議員年金の改正は、年金制度全体の改革の一歩に過ぎないからだ。 中島座長は「答申を実施してもらうと、年金の統合、再編成の議論に参加できる」と語っているが、大切なのは改正した後、議員年金を公的年金に統合する研究をスタートさせることである。 昨年の通常国会では、議員年金の優遇ぶりだけでなく、閣僚や議員の公的年金への未加入や未納が次々と発覚し、国民の年金不信は極端に膨れ上がった。 自民、公明、民主の三党はいったん、年金制度の一元化で合意したが、民主党は与党が議論の方向性を示さないことなどを理由に離脱し、協議は宙に浮いたままになっている。議員年金が改正されても、国民の年金制度全般への不信は、解消されるわけではない。 三党合意にこだわらず、各党が党派を超えて、信頼できる公的年金のあり方について、議論を再開する必要がある。それを始めるためにも、国会議員はまず、自らのエリを正すべきである。。。 胸がすくような。とはこのことかな?なまぬるいお湯にどっぷりと浸かっている。。。そんな気がしてならない人たち。確かに、自分の私財を投げ打って。という方もいらっしゃるかも知れないけれど、何故か肩書きがつくと、投票前と、投票後には態度をガラッと変えてしまうのは一体。。。 でも、中小企業のサラリーマンらが加入する、政府管掌健康保険という言葉の解説によると、現在は国が直接運営しており、保険料率は年収の8.2%(労使折半)。加入者は約3600万人。社会保険庁が公表した2005-09年度の収支見通しでは、07年度から単年度収支が赤字に陥り、09年度には赤字を埋めるための事業運営安定資金の累積赤字が3700億円に達する。 このため、06年の通常国会に関連法案の提出を予定している医療保険制度改革では、保険料率の引き上げが議論される見通し。また、国から都道府県への運営主体の再編も検討課題となる。。。 などと書かれていましたが、やはり益々生活は苦しくなるということかな?病気になどならない身体づくりということが一番大切なんだけど。ってことは“食べる”ということにも益々気をつけなくては。。。
2005.01.21
コメント(4)
献立は、八宝菜、エビカツ、大学芋。添えの野菜は、エビカツにレタス。果物は大学芋が兼ねているということに。◆八宝菜。。。材料はうずら卵、きぬさやえんどう、筍水煮、チンゲン菜、人参、ネギ、白菜、干ししいたけ、ロールイカ、豚ロース薄切り肉。うずら卵は缶から出して水気を切っておく。きぬさやえんどうは、軽く塩茹でしておく。干ししいたけはぬるめのお湯につけて戻したのを細切りに。筍水煮は硬い部分をそぎ落として、1センチ角ぐらいの色紙切りにしたのを暫く流水にさらしておく。人参は2ミリぐらいの厚さのイチョウまたは細い部分は半月切りに。チンゲン菜、白菜は、白い部分は細く、葉の部分は2センチぐらいに切り揃えておく。ネギは5ミリぐらいの斜め切り。豚ロース薄切り肉は3センチぐらいの色紙切りに。ロールイカは2センチ幅の薄切りにしておく。材料が切れたところで、温めておいた鍋に油を敷いて豚肉から炒めて、色が変わったところでロールイカを。更に干ししいたけ、筍水煮、人参を加えて炒める。ここへ、軽く塩コショーをして、チンゲン菜、白菜などを加えてサッと炒めて、更に、中華味、薄口醤油などで味を調えて、うずら卵を加える。人参に火が通ったところで、味を見てネギ、絹さやを加えて一煮立ちしたところで、水溶き片栗粉でとろみをつける。◆エビカツ。。。市販のものを油で揚げて、斜め切りにしておく。◆大学芋。。。皮を剥いて水にさらしながら、食べ易い大きさの乱切りにしたのを、水気を切って素揚げしておく。別の鍋で砂糖、水、醤油で味を調えたタレに揚げたての芋を入れてさっくりと混ぜ合わせて、芋に味が馴染んだところで、黒ゴマを加える。メインが八宝菜なので、たっぷりと盛り付ける。うずら卵は必ず一人一個。左側にはレタスを敷いて、斜め切りにしたエビカツを、エビの姿に似せて盛り付けたところへ、市販のタルタルソースをかける。大学芋は人数分に取り分けて。 第三木曜の20日、私には今年初めてのコーラスの練習を。早くも夏に向けての練習曲の楽譜が渡されていて、驚いたけれど、さて、「もののけ姫」が完成するのは一体。。。?ソプラノさんには随分頑張ってもらわないといけないけれど、これも女声三部に編曲されているので、練習のしがいがありそうな。。。まだまだ、今年の終了式の予定はわからないけれど、日程が重ならなければ3月には「淡路合唱祭」と「終了式」の2つのステージに立つことに。さてはて、今年の「終了式」はどういうことになりますやら。こんなところにも、4町合併のしわよせが。 発表を予定しているのは、「ムーン・リバー」(日本語)と、「落葉松」。どちらも初めての三部編成で。折角の女声三部用の編曲だからと、チャレンジしてみることに。で、私の担当はメゾソプラノということに。完璧に歌いあげることが出来たら、本当に素敵な曲なんだけど。ここは益々みんなの心を一つにしなければ。。。まだまだ楽譜とにらめっこ状態で、頼りない部分もありますが、頑張らなきゃ。これぞコーラスの楽しみ♪というのを皆さんで分かち合いたいと思います。 大寒の日にまるで合わせたかの様に寒さが加わったのと、20日にこの辺一体で行われる講とが重なって、今日の練習参加者は少なかったけれど、何とか三部で頑張れそうな雰囲気は高まったみたいで、とても良かったと思う。
2005.01.20
コメント(6)
昨年、私には初めての白梅の開花を見つけたお宅へ、今日お弁当をお届けしたら、何と!たった一輪開花しているではありませんか。 季節はちゃんと巡っているのですねえ。で、地元紙の地方版には、先日私がテレビを観て感心した、灘の黒岩水仙郷のことが紹介されていました。台風にも耐えて。と題されて紹介されていた、水仙は、2月の中頃までが見頃とか。平年よりも開花は随分早いと聞いてはいましたが、こんなことも、相次いだ台風災害の原因の一つでもあるのでしょうか? さて、今日の地元紙の随想欄に目をやると、『きっぱりと』と題して、福永祥子さんが述べておられましたので、そのまま引用させて頂きます。 『十代の頃、高村光太郎の詩が好きでよく読んだ。なかでも~きっぱりと冬が来た~を何度でも諳(そら)んじた。 いつか予測のできない悲運がきても「きっぱりと引き受けよう」。稚(おさな)い感情はそのままに、この詩を読むたびに熱い決意を育んだ。 冬よ来い 僕に来い 僕に来い(中略) 刃物のような冬が来た その後30代半ば、詩集を読んで衝撃を受けたのは石原吉郎だった。彼はシベリアの強制収容所での体験をひたすら書き綴った。 ~もしあなたが人間であるなら私は人間ではない/もし私が人間であるならあなたは人間ではない~ 人が人として存在することさえも不条理であるという重たさに、自分の日々の安逸さを心から恥じた。 そして現在、きっぱりと引き受けるほどの逆境にも遭遇せずおまけに詩らしきものまで書いている。今年の冬も地球温暖化のせいかなま暖かい。 毎日を科学の進歩と文明のありがたい恩恵に甘んじて暮らす穏やかな日暮らしに、時折りため息まじりの声が届く。今失いつつあるものの大きさが視えてこないからだろうか? 懐かしい人たちの声が聞こえる。お茶の間にはちゃぶ台があって、一家団欒の夕食には一日の労働の疲れを癒す温かい湯気が立ちこめていた。暮らしの願はささやかであったはず。それがどうだろう、私たちは有り余るほどの豊かさを手に入れてしまっている。 きっぱりと耐える必要もなく、人と人の存在を結ぶ絆は蜘蛛の糸よりも細い。 「あとでケータイして」 恋の告白もメールで片づける。すれ違いのメロドラマは成立しなくなった。 身の丈ほどの暮らしぶりで十分楽しかった昭和30年代の頃のことなど、機会をみて次代へ繋げていけたらと願う。。。 ふくなが・しょうこ 詩人。1944年山口県生まれ。神戸市須磨区で戦前の家庭を再現したようなギャラリー喫茶を営みながら、詩作を続ける。「真夜中の水族館」を出版した1989年、兵庫詩人賞受賞。近作に「愛人教育」。神戸市在住~』と、紹介されていました。。。 最後に出てきた、「身の丈ほどの暮らしぶり」という言葉に、何だかハッとさせられるものがありましたので、紹介させて頂きました。そしてまた、『私のような結婚しないで』 というタイトルに驚いて、更に目をこらしてみると、結婚情報会社調査ということで、 『同居している20歳代後半から30歳代の独身の娘を持つ母親を対象にした結婚情報サービス大手のオーエムエムジーのアンケートで、回答者の55パーセントは「(娘には)自分のような結婚生活をしてほしくない」と考えていることが分かった。 昨年11月にインターネットで聞いた。回答者は340人、平均年齢は55.5歳。 「自分のような結婚生活をしてほしい」は45パーセントにとどまったが、全体の76パーセントが「娘の結婚を望んでいる」と回答。その理由(複数回答)として、「子供や家族が持てる」「精神的な安らぎの場が得られる」「愛情を感じている人と暮らせる」などが上位を占めた。 自分自身については、67パーセントは「幸せな結婚をしている」と回答。娘に自分と同じような結婚を望む母親は、今の結婚生活に満足している人の割合が高く、娘にも結婚を望んでいる割合が圧倒的に高い。 一方、望まない母親は、半数以上が結婚生活に満足していないか、キャリアを生かすなど娘が自分以上の結婚生活を送るよう望んでいることがうかがえる。 子供が「経済的に自立している」との回答は57パーセントと2年前に比べ9ポイント上がり、娘に金銭的に援助しているは7パーセントと17ポイント下がった。生活費を出している娘の割合は49パーセントと14ポイント下がった。』との報告が。経済的には自立していても、生活費までは出さないのかなぁ?自分で稼いだお金は自分のもの?ってことは親たちのスネはかじるだけかじっておいて。ということになるのかな?せめて「身の丈ほどの暮らしぶり」を実践して、卒業したなら親のスネをかじるのは。。。 また、支える伝える 私の恩返し ということで、 『神戸市で開催中の国連防災世界会議では、英語を話せる市民ボランティアら約400人が会場の案内や資料配布、空港からの送迎などに携わっている。「阪神・淡路大震災でお世話になった恩返しに」と震災被災者も多数参加。運営をサポートする一方で、悲惨な大災害を体験した視点から会議の行方を見つめている。。。 会場の案内役を務める神戸市西区の鈴木淳子さんは、長田区で被災し、自宅が全壊。着の身着のままで避難した公園に、近所から毛布や靴が届けられるなど、たくさんの温かさに触れた。今回は「当時のお返しをしたい」と志願した。 世界会議では、各国がとるべき指針の一つとして、「教育に防災カリキュラムを盛り込む」案が提示されている。 鈴木さんは地震の発生時、自分を含めた多くの住民の防災意識が低かったことを、今も残念に思う。「例えば、火災を防げる電気コンロを知っていたら火事の被害を抑えられ、死者ももっと少なかったはず」と話す。 同会議では災害のリスクを減らすため、地域を開発するとき、被害が軽減できる手法を採用することも話し合う予定だ。 会場の案内をする高谷節子さん=同市東灘区=は10年前に被災していらい、災害時に必ず募金をする。「スマトラ沖地震による津波で町はめちゃくちゃになった。建て直すときは資金を十分に投入し、災害に強い設計にしてほしい」 また、各国の住宅事情はさまざまなため、同会議では被災地の住宅再建法や耐震補強についても議論される。 抹茶をふるまう特設コーナーで作法を解説する大学職員、前森美津代さん=同市中央区=は東灘区で被災し、マンションは半壊。住宅の建て替え問題で転居を繰り返し、3年後にようやく今の家に落ち着いた。 「災害で住む場所に困る人が出ないよう、住宅の耐震をしっかりと話し合ってほしい」と、震災の教訓が会議に生かされることを期待している。』 また、アマチュア無線を通じて全国へ復興への感謝と阪神・淡路大震災のPRをつとめようと、特別局が開設され、2月28日まで運用されることになりました。。。 『ありがとう』。。。なんて素敵な言葉なんでしょう♪これに笑顔が加われば、何だか温かさが伝わってくる気がします。無線でも、最後に交わす挨拶になっているんですよね。「お相手してくださって、ありがとうございました♪」と。
2005.01.19
コメント(4)
献立は、山菜の炊き込みご飯、ハンバーグ、わさび醤油和え。添えの野菜はサニーレタス、果物代わりのオレンジ寒天。厨房の外に荷物(携帯電話も含む)を置いているもので、厨房へ携帯を持ち込んだ途端、レンズが曇って、どうも上手くは撮れませんでしたが。。。◆山菜の炊き込みご飯。。。市販の山菜煮に、竹輪の薄切りを加えて、洗った米に昆布を入れて、醤油で薄く味をつけたところへ山菜、竹輪を加えてご飯を炊く。炊き上がったところで、具材が混ざるようにかき混ぜておく。◆和風ハンバーグ。。。ハンバーグは加工品を使用。グリルで、あらかじめ温めておいた天板にクッキングシートを敷いて、並べたハンバーグを180度で20分焼き上げる。大根おろしに、醤油、みりんで軽く下味をつけておく。◆わさび醤油和え。。。材料は小松菜、かにかまぼこ。小松菜を葉の部分は2センチぐらい、茎の部分は1.5センチぐらいに切り揃えて、水にさらして、塩茹でし、茹で上がったのを、冷水にさらして水気を切っておく。かにかまぼこは袋から取り出して、2センチぐらいに切り揃えて、さっと茹でておく。水気を切った小松菜。かにかまぼこを混ぜ合わせたものに、醤油、砂糖、みりんで味を調えた合わせ醤油に、練りわさびを加えたもので、さっくりと和える。一人分をアルミカップに取り分けておく。◆オレンジ寒天。。。オレンジジュースを分量の水分の半分加えるので、水を測って寒天を煮溶かし、完全に寒天が溶けたら、砂糖を加えてよくかき混ぜて、砂糖が馴染んだところへ、オレンジジュースを加えて、一煮立ちさせたところで火を止め、粗熱を取ってから型に流し込んで冷やし固める。今日の場合は100人分として棒状の寒天が12本に対して、最初の水分が4リットル、砂糖が400グラム。オレンジジュースが5リットル弱。寒天1本に対して水分が800ミリリットルのつもりだったけど、昨日に比べて固まり難かったのは。。。?白いご飯ではないので、今日のお弁当箱は長い方の入れ物を。右側の上にサニーレタスを敷いて、ハンバーグをおき、上に大根おろしを載せる。アルミカップに入れた、わさび醤油和えをお弁当の角に合わせるように、ハンバーグに沿って三角になる様な形で置き、真ん中の上には細かくきざんだ柴漬けを。下にはオレンジ寒天。左側に、山菜の炊き込みご飯を。 小雨交じりだった昨日に比べて、朝から本当にのどかな良いお天気。配達したお宅の庭で、紅梅が咲き始めているのを発見して、思わず携帯で。余り上手に撮れていませんが、今、咲いたばかりというのと、明日には花を開かせそうな。という梅が写りましたのでUPしておきます。 大雪に頭を悩ませている地区にお住まいの人には羨ましいくらい、淡路島は暖かいんだと、改めて実感させられました。所用があっていつもとは違う道を走ったら、大きな、それはそれは見事なキンセンカを発見して、驚かされたばかり。寒い、寒いとはいっても春はもうそこまで来ているのかな?昨年初めて発見した梅は、今日のとはまた違うお宅の白梅でしたが、南の斜面に植えられた梅は海からの暖かさも加わって、一番に咲いてもおかしくないのかも。明日が楽しみです♪そうそう、私には生まれて初めての発見となったムスカリを見つけたのもそちらのお宅だったのでした。。。まだまだ土筆は早いと思いますが、皆さんは春を見つけられたでしょうか。。。?
2005.01.18
コメント(6)
今日付けの地元紙の第一面には、こんなタイトルで、メッセージが紹介されていました。。。『お母さんへ お母さん、元気ですか。 10年たって、お母さんがいなくなったのがやっと分かりました。今まで何時も夢にでてきては、やっぱりどこかで生きているんだと思っていたから、震災後、お母さんが無くなったと人に話すのがとても嫌でした。 私は結婚して、ひまりが生まれてから、とても幸せに暮らしています。 心温かいパパと今月1歳になったひまりは、私に家族の大切さ、生きていることの素晴らしさを教えてくれます。 10年前、私のせいで、お母さんは死んだと思い込み、自分も生きていることがつらくなった時もあったけれど、もし自分より子どもの方が先に死んでしまうことの方がどれだけ悲しいことなのか、ひまりが生まれて教えられました。 お母さんの代わりのように1月に生まれたひまりの姿を見て、今日はきっとお母さんも天国で喜んでくれていることでしょう。 今、生きていて本当に良かった。お母さんは、私が生まれてからの16年間、一生懸命、私を育ててくれていたのですね。 これからは、私もお母さんのように、愛情いっぱいにひまりを育て、家族3人で力を合わせて頑張ります。いつまでも見守っていてください。 幸代』 阪神・淡路大震災は17日、発生から丸10年を迎える。16日、被災地では6433人の犠牲者への祈りをささげる集いが各地で開かれた。10年間を振り返り、語り、互いの絆を確かめ合う人々の姿もあった。「生きていてよかった」。母親を失い、今は自身が母となった女性が言った。「今度は私が人の役に立ちたい」。父を失い、成長した高校生が遺族代表の大役を果たした。亡き人の思いを受け継ぎ、懸命に歩んだ10年。鎮魂の祈りはどこまでも深く、希望という光が未来への一歩を支える。。。 震災遺児らの心のケア拠点「あしなが育英会レインボーハウス」(神戸市東灘区)で開かれた「今は亡き愛する人を偲び話しあう会」。遺児3人が父や母にあてた作文を読み、約160人が遺影に白い菊を手向けた。 神戸市内では母=当時(52)=と2人で暮らしていた岡田幸代さんは、震災があった1995年1月、高校1年生だった。自宅が全壊し、母だけが亡くなった。 兵庫県外の親類宅に身を寄せ、高校を卒業。「介護福祉士になる」という母との約束を果たすため、県内の福祉専門学校へ。その後、老人ホームに就職した。 「私のせいで、お母さんは死んだ」と自分を責めた時期もあった。「生きていることがつらくなった時も」。この日、涙ながらにそう語った。 腕の中には、昨年1月に生まれた長女ひまりちゃんの姿。わが子をあやしながら声を詰まらせた。「生きていて本当によかった」。 今、夫と子どもの存在が家族の大切さ、命の重みを教えてくれるという。「お母さんのように愛情いっぱいにひまりを育て、家族3人で力を合わせて頑張ります」。作文をそう締めくくった。。。 震災の真っ只中で、こんなことがあったと、改めて思わされる出来事を正平調というコラムでも紹介されていました。 その年配の夫婦が帰ったあと、不意にこみ上げてくるものがあった。部屋で一人になると、こらえきれずに涙が流れた。 阪神。淡路大震災から10年目に入った昨春、神戸新聞の発言欄に載った佐野武さん=神戸市東灘区=の投稿である。なにがこみ上げてきたのだろう。ずっと気になっていたので、あらためて話をうかがった。 自宅が無事だった佐野さんは近隣の人に電話を自由に使ってもらったという。玄関を開け放ち、ガラス片でけがをしないよう板を敷いた。多くの人が、その電話で肉親らと連絡をとった。ようやく相手とつながった途端、その場で泣き崩れた女性もいた。 昨年3月、突然の来訪者があった。それが冒頭の夫婦である。「あのとき電話をお借りして」と二人は礼を述べ、実家に住む佐野さんの父が震災で亡くなったことを慎んだ。そして、長らく見を寄せた岡山県からやっと神戸へ戻ってくることになったと告げた。 夫婦を送り出すと感慨が胸に満ちた。自宅が全壊し、言い知れぬ苦労を重ねただろう二人が願いをかなえた。それを素直に喜びたい気持ちに、震災への恨みが交じった。わが身にも降りかかったリストラ。あの夫婦のように、不慣れな地での生活を強いられた人も多い。「うれしくて悲しくて、涙が」。佐野さんはそう話した。 被災地はきょう、震災10年となる。といっても、なにかが変わるわけではない。佐野さんのように心の振り子は揺れ続ける。ただしこう祈りたい。うれしさの方へ少しずつ大きく揺れていきますように。。。 土曜日は、母が老人会ということで、では、月曜日に。と勘違いしていた眼科医院への通院は来週ということに。で、結局叔父のお見舞いにも行きそびれての今日、気にはかかりながらも、私自身に風邪が残っていてもし叔父に影響を与えてしまったら。ということもあって、お見舞いは来週の月曜日に母を眼科へ連れて行く途中で寄ろうということに。 皆さんにもすっかりご心配をおかけしてしまいましたが、週も改まり、今日は病み上がりのうちの仕事となって、職場の皆さんにご迷惑をおかけしたお詫びから始まって、いよいよ、新市社会福祉協議会発足2週目ということもあり、諸手続きに忙しい始まりに。考えたら年金手帳を預けてしまったら、何の控えも手元に無いけれど、ここは信頼するしか無いかな? 震災から10年ということで、ここ数日はそれにちなんだドキュメントが多くテレビで放映されていた。改めてあの歩くことさえ出来ない瓦礫の山や、見る見る火の手が上がる神戸の様子、阪神高速道路の倒壊。などを見せ付けられると、目を覆いたくなるばかり。将に生死を分けた何日間だったと思う。 新潟で中越地震が起きたときも、初動がいかに大切か。ということで、神戸市からいち早く救助に向かった人たちが居たと、改めて知らされた。奇跡的に瓦礫の中から救い出された男の子の救出シーンは、全国の人が釘付けにされたと思う。 生きてさえいれば何だって出来る。。。確かに、冒頭で述べた様に、生きていることが辛くなることは誰にだってあると思う。でも、生きているからこそ、素晴らしいことにだってめぐり合える。 先日も、あれは4日ぶりだったか、スマトラ島沖地震で両親とはぐれてしまった男の子が父親にやっと会うことが出来たと報じられていて、一人で浜辺を彷徨い歩いて、すっかり痩せ細り、栄養失調状態だった男の子の姿に父親が思わず抱きしめる姿には涙をそそられてしまった。どんなにか不安な毎日を一人で過ごしたか、と思うとそのことで胸がいっぱいになるけれど、何とか元気を取り戻して欲しい。 亡くなってしまった人の分までも、私たちは生き抜いて行かなければと、改めて思う。私たちが元気でいることが、亡くなってしまった人の何よりの供養になる気がする。
2005.01.17
コメント(6)
社説に、大震災10年の地からの2回目として、「弱者」への視線 生きる権利の確立が悲劇を防ぐと題して、取り上げられていましたので。。。 震災は、お年寄りや子ども、障害者らを直撃する。阪神・淡路大震災から10年を経て、但馬や新潟でくり返された。背景には、社会の中で弱い立場の人が取り残されている現状がある。「災害弱者」を生まない仕組みが必要だ。 震災10年を前に、市民主権の防災国際フォーラムが神戸で開かれた。 10年前と今を比較しながら、さまざまな課題が話し合われた中で、とくに強調されたことがある。昨年秋の台風禍や新潟県中越地震は、阪神・淡路とは違って、介護保険制度の下で起きた点だ。 発生直後、担当する要介護者の安否確認に走ったケアマネージャーがいた。素早い避難に繋がったケースも少なくない。緊急時に制度が思わぬ機能を発揮した形だ。 だが、その数は、それほど多くはない。家族が助けを求めに出ている間に、寝たきりの高齢者が床上まできた水で死亡する痛ましい事例も報告された。 新潟でも、ケアマネージャーらによる自主的な働きは見られたが、パネリストの一人は「せいぜい二割程度。あとはほとんど動けていなかった」と実情を話した。 ケアマネージャーは日ごろから要介護者のケアプランを担当しており、災害時の対応は本来の業務には含まれていない。「介護保険制度に緊急時の対応が盛り込まれていたら…」。今回の被災経験から、そんな声が相次いだ。 災害は、その国の最も弱い部分をあらわにする。被害が高齢者に集中するのは阪神・淡路の教訓だったが、事態はより深刻になっている。 「過疎、高齢化が猛烈なスピードで進む日本の社会を、災害が襲った。災害弱者を中心に据えた防災体制の確立を急ぐべきだ。それが全体の底上げにつながる」 本紙主催のシンポジウムで作家の柳田邦男さんも、ほとんど無防備な現状への懸念と、新たな手立ての必要性を訴えた。 介護保険制度を緊急時にもっと生かせる内容にできないか。災害を体験した人たちの切実な指摘は、今のお粗末な弱者対策の実態を裏付けている。 立ち遅れる社会福祉 弱者が置かれた立場を探っていくと、日本の福祉の歴史に行きつく。 社会福祉を、弱者の当然の権利として早くから確立していた欧米と違い、日本が制度を整え始めたのは半世紀も後の戦後占領下である。それも、福祉政策を単独で進めるのではなく、経済成長を優先させることで、国民の生活も福祉も向上していくという考え方だった。 「あくまでも社会保障は慈善的、恩恵的なもので権利ではない」という戦前の古い「救済」思想の延長上にあった。 日本の社会保障は、おしなべてこの考え方をベースにしてきた。現在進んでいる社会保障の見直しの中でようやく変わりつつあるが、欧米よりはるかに遅れている。 例えば、高齢者対策では認知症(痴呆)が50年、虐待が30年、児童虐待対策は20年以上とされる。障害者は、欧米では早くからあらゆる人と同等の権利が保障されているが、日本には差別禁止法もなく、福祉のあり方を検討している段階だ。 同じ社会で暮らしながら、弱い立場の人たちの権利がないがしろにされる、施策はできても「してあげる」という色合いが消えない。半世紀以上たって、古い福祉の意識が完全に抜け切れたとは、とても言うことができない。 こうした根の深い福祉の立ち遅れが、社会の中に弱い立場の層を生んでしまう。それが、災害などの緊急時に、悲しいかたちとなって現れてくる。 見守り制度の拡充を 「災害弱者を救え」という市民のアピールは、災害時の支援に限らない。いびつな日本社会を変革したい、という訴えが込められていると受け止めるべきだろう。 あと10年もすると、4人に1人が高齢者になる、ひとり暮らしのお年寄りや障害者も急増している。その現実を見ると、立ち止まっている余裕はない。 災害弱者への視点で防災体制を確立しなければならない。それができてこそ、一人ひとりの命を守ることが可能になる。コミュニティーはもちろん、国や自治体の役割を含めた、総合的な取り組みにしたい。 今年見直される介護保険制度の中に、緊急時の支援の仕組みを、どう盛り込むか。兵庫県や神戸市が行う高齢者の見守りを、障害者らも含めて広げていけないか。検討課題は山ほどある。 前提になるのは、高齢者や障害者ら弱者の権利を保障する仕組みを、社会の中で確立することだ。それが、「防災」そのものにつながる。。。 そんな中、ふっと目をやると、ニートという言葉の解説が。。。 仕事に就かず、意欲も十分でない若者の呼称。更生労働省が2004年度版労働経済白書で初めて公表した対象人数の推計によると、03年度は前年度から4万人増え、52万人に上った。 04年12月に決定した今後5年間で進める少子化対策「子ども・子育て応援プラン」でも、将来親となるべき若者の「自立」は重点課題の一つ。就労支援策の充実などで、政府は年々増加傾向をたどっているフリーター(現在焼く200万人)とニートを含む若年無業者(同約100万人)を、減少に転じさせることを目指している。。。 とありますが、若者たちが働く意欲を無くしてしまう原因がそもそも一体どこにあるのか、簡単に減少に転じさせるとはいいつつも、肝心なことが抜きにされてしまっている気がしてならない。。。 何故結婚しないのか。結婚出来ないのか。。。こうなって来ると、少子化対策というのは、何やらプライバシーの問題にまで及んでくる気がする。何年か前までは人間として生まれたら、ある程度の年齢になると誰もが結婚するものと思っていたし、それが当たり前だった。戦時中などは「生めよ、増やせよ」みたいに、子沢山が奨励された。子どもを生むことが名誉とされた時代があった。ところが今は、子どもを生んでもその子たちの未来に全く明るい展望が見られない。勿論、人間として生まれたからには、ある程度の年齢に達したとき、働いて、税金を納めて。というのは当たり前のことだし、国民の義務でもあるえ筈なのに、それすらも出来かねる人が多いのは一体。。。?簡単に減少に転じる数字とも思えないけれど、自分だけがよければ。みたいな想いがどこかにあるとすれば、それも問題だけど、どうしてそんな考え方しか出来ないのか?何がそうさせてしまったのか、少なくとも、働くことに何か生きがいみたいなものを感じて欲しいし、誰もがなくてならない人なんだから。という想いを強くして欲しい。 そのうち、子どもさえ産めなかった人は罪だ!なんていう時代が来るのかなぁ? 単純に考えても、将来にわたって働き手が少なくなるというのは生産性と言う点においても、数値が低くなるのは目に見えているけれど、それならそれで、少ないながらも頑張れる方法。。。なんて無理なのかなぁ?自分が食べるお米ぐらいは自分で造りなさい!なんて時代が来るかも。。。?
2005.01.16
コメント(2)
これは昨日付けの新聞になりますが、災害生み出す人の営みという文字が目を惹きましたので、そのまま引用させていただきます。 「日本人は、自分の住む土地のことを知らなくなった」 阪神・淡路大震災の被災地を調査した高橋学・立命館大教授(環境考古学)の実感だ。太古は海だった阪神間南部や、かつて川がながれていた軟弱な土地で特に被害が大きかった。こうした土地は、大きく揺れるだけでなく、湿気やシロアリで家が傷みやすいという。 「1960年代ごろから、昔なら住まなかった場所にも家を建てるようになった。昔は、経験あるいは口伝えで災害に弱い場所を知っていた」と高橋教授。「人は多くの災害を克服したが、自然への理解は衰えた面も多い」と警告する。 自然災害は、「天災」といいえるのだろうか。人間の無知やごう慢が潜んでいるのではないか。私たちが震災で直面した疑問だった。 34人が犠牲となった西宮・仁川の地滑りは、人が盛り土した所で起きた。16人が亡くなった阪神高速道路の倒壊は「予想を超えた揺れのため」とされた。命が奪われた多くの現場で、人間の責任はあいまいにされてきた。 「一生納得はできないだろうが、もう何をいっても愚痴になる」。阪神高速の倒壊で息子を失った遺族は言った。「10年たち、悲しみは深くなった。二度と起こらないことを祈るだけ」 昨年の台風23号、養父市内の会社宿舎で寝ていた田中光由さんは、地滑りに襲われた。 「ごう音とともに体が吹っ飛んだ。もうだめだと思った」。がけの上にある市道の建築現場から、9万トンもの土砂が崩れ落ちてきた。五匹の愛犬を失い、事務所や建築資材なども土に埋もれた。「明らかな人災です」 その台風で、豊岡市街が水没する事態を引き起こした円山川の堤防決壊。学識者らでつくる調査委員会は、40年間で決壊箇所の周辺が最大約2メートルも地盤沈下し、被害を広げたとの見解を示した。その一因は地下水のくみ上げだった。 台風の多発などの異常気象は、人が引き起こした地球温暖化が原因とみる研究者も多い。だが、温暖化を招くとされる温室効果ガスの削減をめぐっては、世界最大の排出国である米国が「経済的な打撃を招く」と非協力的な立場だ。 兵庫県内の温室効果ガス排出量を10年前と比べると、企業活動や交通の分野では横ばいだが、家庭での排出量の伸びが著しい。 結局、快適さを求めてエネルギーを食い散らし、温暖化を後押ししているのは私たち一人ひとりだといえる。 丹波市で農業を営む東間徴(あきら)さんは、「震災で、自然に対する無力さを痛感した」という。 当時住んでいた宝塚市のアパートは全壊した。都会での暮らしに疑問が膨らんだ。災害時、最低限の食糧さえ自分で賄えない。豊かに見える生活は、原発などから供給される膨大なエネルギーに支えられている。 「人は自然から奪い取るばかりで、実際には新たな危険を生み出している。人と自然の関係を根本的に見直したいと思った」 震災直後、会社を辞めた。丹波の農村に移り住み、有機農業を始めた。震災のとき、同じアパートに住んでいた川口雅子さんと子ども二人とで暮らす。 目指すは自給自足。米や野菜を自分で作るだけでなく、間伐材を使った発電所の建設も仲間と計画している。小学校教諭の川口さんが家系を支え、東間さんが家事と育児をする。 農村での暮らしは楽ではない。しかし「大量生産、大量消費の社会を作ったのは私たちの世代。自然への負荷を減らす責任がある」と東間さん。 人の営みに、自然が悲鳴を上げている。一方的な侵害が続けば、人知を超えた新たな災害がまた牙をむく。 また、随想欄には、大阪市在住の川柳作家、やすみ りえ氏が神戸で一句と題して、こんなことを書いていらっしゃいます。 川柳作家として、17音の作品を日々作りつづけている私。心にふと浮かんだ想いを言葉で紡いでいます。 「風は現在(いま)精一杯にする呼吸」 この句はふらりと立ち寄ったメリケンパークで詠んだもの。悩みごとを抱えていたり、すっきりしない気分のときには海辺で深呼吸するのが一番。 「いい午後をふんわりと焼くワッフル屋」 「チャンスならいっぱいあるさベビーシュー」 こんな甘い香りの漂う作品は旧居留地のカフェや元町の裏通りにあるパティスリー(洋菓子店)で。その時々の想いを読んだ私の背景には故郷の神戸が彩とりどりに浮かびあがります。また、 「さよならは言わないでおく花の坂」 という句に「花の坂、というのは神戸の北野坂のイメージですか?」と当てられ、びっくりしたこともあります。 川柳は、“お題”とよばれるテーマから作ることが多いのですが、私の場合は知らず知らずのうちに“神戸を詠む”ということをお題のひとつとして川柳を続けてきたような気がします。 震災当時、私はまだ川柳作家ではありませんでした。何が出来るか判らず変わり果てた街の姿をただただ辛い思いで見つめるだけでした。あれから10年が経ち、私は句を通して懐かしい神戸とこれからの神戸へ想いを馳せています。海と山の美しく広がる神戸は、まさしく“絵になる街”。そしてその景色の中に溢れるほどの思い出を持つ私にとって、神戸は大切な、“句になる街”でもあるのです。。。やすみ・りえ。。。川柳作家。1972年生まれ。神戸市出身。川柳といえば諧謔(かいぎゃく)・社会風刺のイメージが強い中、若い女性ならではの、軽やかで感覚的な作品を発表している。短歌の俵万智、俳句の黛まどかと並び称される川柳界のマドンナ。主な著書に句集「平凡な兎」など。 折角気分も良くなったところで、こんな記事が。大阪市 70億円削減へ 改革委が中間報告 労使交渉を透明化 過剰な手当て、手厚い福利厚生経費などという文字が。 大阪市職員の福利厚生事業を見直ししている市政改革委員会(委員長・大平光代助役)は13日、年金や退職金への給付金廃止などで総額的に70億円の経費を削減するとの中間報告を発表した。最終報告を3月末までに作成、市議会での審議や労使交渉を経て、2005年度予算に反映させる。 大平助役は「市民感覚から程遠い福利厚生の手厚さだった。(これまで)改革しなかったことは申し訳ない」と謝罪。今後の労使交渉を透明化する考えを明らかにした。 中間報告によると、削減・廃止の対象は(1)、冠婚葬祭で現金支給などを行う職員互助組合への交付金を削減し、市と本人の負担割合を2対1や3対1から1対1に変更(約20億円)(2)、職員OBに年金や退職金を支給する「大阪市職員互助組合連合会」への給付金(約24億円)(3)、団体生命共済の掛け金の公費負担(約7億円)(4)、係長級以下の全職員に「制服」として支給しているイージーオーダースーツの貸与(約4億円)(5)、職場単位で組織する親睦団体への助成金(約5億円)(6)、「教職員更生会」「学校職員更生会」への特別交付金(約5億円)。 健康保険組合への保健料の公費負担も大幅に削減、氏と本人の負担金割合を現行の2.05対1(交通局2.04対1)から1対1に変更する。 今後は大企業で組織改革に取り組んだ民間人ら有識者を同委メンバーに加え、大部分が非公表だった特別昇級など給与体系や、水道局が係長級以下の全職員に支給している業務手当てなどの見直しに取り組む方針。 意見言えぬ空気あった 大平助役会見 「市民に申し訳ない」-。13日に会見した大平光代助役は顔を紅潮させながら、過剰な福利厚生事業を公費で負担してきたことを謝罪した。 就任約1年の大平助役は、水面下での巨額の公費支出を見抜けなかったことについて「市役所の外部から来て、いきなり改革と大声を上げても職員は強力しないと思った」と説明。「職員がなかなか意見が言えない空気があった。この空気を変える必要がある」と述べ、長年の閉鎖体質を改善しなければ改革は実現しないとの見方を示した。。。 ここまで優遇されていたんですねえ。驚きました!
2005.01.15
コメント(4)
11日に無理をしたのが祟って、12日から3連休を取ってしまいまして、職場の皆さんには本当にご迷惑をおかけしてしまいました。画像はありませんが、献立の記録として、綴っておきます。献立は、利休揚げ、含め煮、ほうれん草フレーク和え、添えの野菜はボイルキャベツ、果物はパインアップル。◆利休揚げ。。。魚そのものは魚屋さん任せになるので、鯵だったり、サバだったりを30グラムぐらいの切り身を一人当り二切れ。ごく普通の天ぷらの衣に、白ゴマを混ぜ合わせて、揚げる。◆吹き寄せ煮。。。材料は高野豆腐、鶏もも肉、人参、絹さや。高野豆腐を予め水で戻しておいて、人参は皮を剥いて乱切りに。高野豆腐は水の中ですすぎながら水気を切って、縦半分に切ったのを更に、半分の斜め切りに。出し汁が煮立った所へ鶏もも肉を入れて、更に人参を加えて火が通ったところへ更に、砂糖、酒、醤油、みりんなどを加えて高野豆腐を加えて味をなじませる。絹さやは、予め塩茹でしておいたのを、別の鍋に取っただし汁でさっと煮ておく。◆ほうれん草フレーク和え。。。ほうれん草は予め2.5センチぐらいに切り揃えて、水にさらしてからたっぷりのお湯で塩茹でして、水にさらしてアクを抜いておく。水気を切って、砂糖、醤油などで予めお浸し状にしておいて更にフレークを混ぜ合わせる。 下痢が続いて、食欲も無く、結局2日間は布団から出ることが出来なかったけれど、そんな私に、「コレなら食べられるのでは?」と姪が一人用の鍋セットを買って来てくれた。野菜と、魚のつみれ、エビ餃子などが入っていて、最初は食べられるかどうか自信は無かったけれど、何とか平らげることが出来て、私自身も一安心。食べてはトイレへ。では食べる気がしないから、ついつい食べる気がしなくなってしまう。だから余計体力が失われてしまう?兎も角、夕食にその鍋を食べて今に至っています。お腹の具合も順調の様でホッと一安心。無理は禁物だと、自分を戒めています。 この季節、不思議なぐらい元気な年と、全く逆のケースがあって、一人暮らしの母にまで心配をかけてしまったし、眼科の診察日にも付き合うことが出来なくて、何とも情けない娘。風邪気味ということもあって、心配な叔父の見舞いも足が遠のいていますが、早く風邪の菌を追い払って、叔父の見舞いぐらいは。。。
2005.01.14
コメント(2)
やはり、地元紙の「復興」とはというコラムの11回目には心のことが書かれていました。 「『心の専門家』はいらない」 3年前、刺激的なタイトルの新書が注目を集めた。 著者は、心理治療の現場を経験し、臨床心理学を問い続ける小沢牧子さん。阪神・淡路大震災後、急速に広がった「心のケア」に疑問を投げ掛けた。 「大切なのは現実の生活に即した援助。『心のケア』という漠然とした言葉で、その事実が隠されてしまう」 小沢さんは言う。地震の後、子どもがおびえるのは当たり前のこと。親が思い切り抱き締めてやればいい。学校で子どもたちの状況を一番よくしっているのは、先生たち。“専門家”のスクールカウンセラーではないーと。 専門家への依存が、日常の人と人との関係や、そこに息づく知恵を薄れさせる。「日常の復権を」。著書でそう呼び掛ける。 阪神・淡路大震災復興基金を活用し、被災地に「こころのケアセンター」が開設されたのは、震災の5ヵ月後だった。15ヵ所の地域拠点を置き、仮設住宅の訪問や電話相談を続けた。 精神科医でさえ、PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉を知らない人がいた10年前。センターのスタッフも、ソーシャルワーカーや看護師など職業はさまざまだった。 「心のケアでおなかは膨れない」。そういう被害者も多かった。スタッフはただ相手の話に耳を傾け、ストレスを吐き出してもらうことを目指した。 精神科医として、センターの運営にかかわった加藤寛医師はいう。「心のケアは、生活支援と組み合わせるもの。単独では意味がない。被災者もきちんと現実を見ていて、心のケアに過度の期待は抱いていない」 センターの経験を受け継ぎ、昨年、PTSDの研究、治療を行う全国初の専門機関「兵庫県こころのケアセンター」(神戸市)がオープンした。 「心のケア」はやはり必要なのだろうかー。研究部長を務める加藤医師に尋ねてみた。 「数パーセントだが、災害の影響が強く残る人がいる。関心を持って継続的に見る専門家がいなければ、そういう人々が見落とされてしまう」 「過度の期待」はメディアの影響もあるのではないか、と指摘した。 深刻な喪失体験に、人はどう向き合っていくのか。 自宅と工場が全焼し、夫の盛泰さん=当時(52)=を亡くした神戸市須磨区の安藤衣子さん(60)は、「書く」という作業で対峙してきた。 ボランティア団体「阪神大震災を記録しつづける会」が毎年公募する手記に、思いをつづった。最後の発行となった今年の手記集では、こう書いた。 《主人のため、供養のためと思いながら書きましたが、10年目で、自分が癒されていたことに気付きました》 夫の死が悔しかった。一人きりで歩む人生に不安が募った。加古郡稲美町や明石市などを転々とした。自宅の再建は震災4年後。それでも喜びはなかった。気持ちは前に行ったり戻ったり。そんな日々を年1回、文章にした。 「かきながら主人と対話をした。原稿ができたら、『こんなん書けたよ』と仏前にもお供えしてきました」 7回忌あたりから、夫の夢をみることが少なくなった。今、10年間の自分の変遷を見つめられるのは、手記のおかげだという。 「心のケア」が意味するものは何なのか。小学校の復興担当教員として子どもに接し、新潟県中越地震でも現地に入った兵庫県教委の伊藤信二指導主事がいう。「10年たっても、分からないことばかり。けれど大切なことが一つ。とにかく『待つ』こと」 何十年たっても、常に扉を開いている場所があるー。体験を書き、語り合う場があるー。そんなゆったりとしたときの流れを、被災者は求めている。。。 そして、やはり正平調というコラムには、「PTSD」について語られていましたので、そのまま引用させて頂きます。 「PTSD」という言葉を、知ったのは、ちょうど10年前、阪神・淡路大震災直後のことだ。心的外傷後ストレス障害。今でこそポピュラーな医学用語だが、当時は驚きと怖さにある種の新鮮さも混じった複雑な語感を持つ新語だったことを覚えている。 「身体の安全に迫る危険を体験、直視することで、強い心理的苦痛、不安、悪夢、恐怖、無力感や戦慄に悩まされる症状」。英国の精神科医デビッド・マスのこんな解説に、うなずいたものだった。 揺れる木を見ただけで気分が悪くなる。小さな火種でも大火を連想し体がこわばる。夜中に突然、大声で叫ぶ。そんな被災者に「心のケア」が実施され、後に全国モデルになった。 「インド洋大津波」でも想像を絶するPTSD患者が発症しそうだという。黙り込んだかと思うと突然泣き出す。「波だ」「死ぬ」と叫んだり「家が流される」と恐怖を訴える。漁に出られなくなった漁師もいるらしい。 特に、子どもたちが心配だ。ユニセフが人身売買事件を警告し、遺児たちが恐怖を感じているという。PTSDの原因は複雑、多岐にわたってきた。彼らを救うのは中越地震でも、いち早く反応した「阪神の経験」だ。 子どもの心の復元力は意外に強いとデビッド・マスはいう。その力を、さらに強めるよう内外に働きかけることも、10年目の被災地の役目だ。WHO神戸センターが津波被害国でPTSDの本格研修を実施するという。ぜひ成功して津波に心をのまれた子どもたちに、早く笑顔を取り戻してやりたい。。。 さて、論考というコラムに目をやると、精神科医・帝塚山学院大教授でもある香山リカ氏がこんなことを述べていらっしゃいました。。。 “何かにおびえる社会”自由捨て何を得ると題して、 11月22日、福岡、兵庫で男女計6人。11月29日、東京・練馬と群馬で計7人。12月7日、大分で男女3人。 これは、2004年の11月下旬から12月上旬のあいだに集団自殺を遂げた若者たちの人数だ。わずか半月あまりで16人もの若者が、インターネットで知り合い、場所をきめて集合して始めてお互いの顔を知り、練炭などの準備をして、かねてからの「自殺願望」を実行に移す。▽犯人探し このいわゆる「ネット心中」が社会の関心を集めるようになったのは02年の秋以降といわれるが、自殺志願者を救うためのホームページや電話相談などが増えているにもかかわらず、“実行者”たちの数はいっこうに減らない。ついに04年には、7人もの若い男女が車内で練炭自殺を遂げる事件さえ起きた。 一方、少年や青年による凶悪犯罪も繰り返し起きている。白昼、校内で起きた小学6年生の同級生殺害事件、茨城県内で続いたひきこもり青年の両親殺害事件などは、社会にも大きな衝撃を与えた。 次の世代を担うべき子どもや若者たちに、“なにか”が起きている。おとなたちは言い知れぬ不安を感じ、「ゆとり教育の悪影響だ「女性の社会進出で家庭教育がおろそかになっている」「いや、ネットやケータイなどのITが元凶だ」などと“犯人さがし”に躍起になり、急いで教育基本法を変えて道徳教育を強化し、新憲法をつくって家庭の重要性を強化しようとしている。▽追い込む危険 しかし大切なのは、“犯人”をひとつに絞ってそれへの対策を講じさえすれば、おとなたちが不安に感じている子どもや若者の問題は、本当に解決するのか、ということだ。 時間とエネルギーとお金を使い、新しい決まりごとや施設をつくり、今の教育システムや家庭のあり方を半ば強制的に変えてみたものの、結局、「ネット心中」や少年事件は続きましたとさ…という悪夢のような事態には絶対にならない、ということをいったいだれが保障できるのだろうか。 いや、それどころか「たいへんなことが起きている」とあわてて作った新しいシステムが、子どもたちをよりいっそう、追い込む危険性さえ考えられるのだ。 実は、これは子どもや若者をめぐる問題にかぎったことではない。 地域の治安が悪化しているように感じ、あわてて自警団が作られ、監視カメラが備えられる。当然、自由は失われ、お互いがお互いを警戒し合うような息苦しい生活が始まる。しかも、思ったほどの犯罪抑止効果があったかどうかもはっきりしない。 事件が起き、犯人は精神科への通院暦を持っていたことが報じられる。あわてて、地域に作る計画だった精神障害者の社会復帰施設への反対運動が起きる。しかし、そもそも心の病と犯罪との関連性は低く、たとえ施設の計画が頓挫したところで、地域の安全には何の影響もない。あとに残されるのは、ただ「病を持った人には住みづらい」という硬直化したコミュニティーである。▽私たちの選択 監視カメラも精神障害者の排除も、ほんの一例にしかすぎない。これまでとは違う“なにか”が起き、不安にかられた人たちが「なんとか対策を講じなければ」と即刻、行動を開始する。しかし、いずれも取られる対策は私たちの暮らしをより不自由にし、心の豊かさを奪うだけで不安の原因になった問題の解決には至らない。 自由を捨てるかわりに社会の安全や安定が手に入るのだとしたら、まだ話はわかる。しかし、それすら不確かだとするならば、私たちはいったい何のために犠牲を払い、暮らし難い社会を作り続けているのだろう。今や憲法までを変えようとしている私たちの選択は、本当に理にかなったものなのだろうか。考えるべきことの多い一年が始まった。。。
2005.01.13
コメント(0)
巨額投じても残る危険というタイトル目に入った。サブタイトルに土建型と題してとても興味深いことが書かれていましたので、そのまま引用させて頂きます。 昨年の紀伊半島沖地震、相次いだ台風。芦屋浜シーサイドタウン(芦屋市)の超高層マンションは、メトロノームのように揺れた。そのたび、建物のきしむ音が響いた。 「今にも倒れるかと思うほどだった」。29階建ての23階。仲俣利晴さんは不安な表情を見せた。 超高層ビルが大きく反応する「長周期振動」は、東南海、南海地震のような海溝型地震で発生しやすい。震源地から遠くにまで伝わるため、芦屋浜の場合、九州の地震で揺れることもある。周囲の住宅がじっとしている中で、超高層だけがぐらぐらする。 阪神・淡路大震災後に完成した神戸市灘区の超高層マンションでは、3年前、ぼや騒ぎがあった。18階に住む池田弘子さんはエレベータで逃げようとした。が、上階からの乗客でいっぱいだったため、素通りされた。「災害のたびに、歩いて逃げるしかないのかねえ」 建築学の粋を集め、眺望や利便性が人気を集める超高層ビルだが、防災上の弱点はないのか。日本建築学界と土木学会は昨年、その耐震性や非難のあり方について共同研究を始めた。 「超高層は長周期振動の洗礼をまだ浴びていない。実際には、分からないことが非常に多い」。東京都立大学の西川孝夫教授(耐震工学)は言う。 東南海・南海地震の揺れを推定し、コンピューター上で超高層ビルを揺らす研究を始めた。「倒れることは考えにくいが、あくまで欠陥がなければの話。設計時の想定以上の負荷が建物にかかるのはあきらか」 エレベーターの停止時、高齢者や障害者をどう避難させるか。長時間揺れ続けると、心理的にどんな影響があるのか。未解決の課題は多い。 戦後、都市への人口集中が急速に進んだ日本。都心のビルは空へ向かって伸び続けた。流入する人間の受け皿として、広大な住宅地が造成された。巨額を投じる「土建型」のまちづくりが定着した。 阪神・淡路後の「防災」も、その延長にあった。壊滅した街で「安全」を掲げた再開発が進められ、高層ビルが林立した。三木市の三木震災記念講演など、巨大な防災拠点が郊外で整備されている。神戸空港も、防災拠点としてアピールされる。 ドイツの保険会社の試算では、世界で最も災害リスクが高い都市は東京。災害の起こりやすさに比べ、街はもろく、大きな経済的ダメージを受けやすい。京阪神地域も世界4位。ニューヨーク(5位)を上回る。 「都市の過密を解消し、地方にリスクを分散すべき」との議論もある。だが、政府は「国際競争力の向上」を目指し、そのための「都市再生」を進める。地上50階を越えるビルがそびえ立つ東京の六本木、汐留…。防災の思想は薄い。 阪神・淡路では、10兆円といわれる被害総額に対し、16兆円以上の復興事業費が投入された。道路や港湾などのインフラは急速な復旧を遂げた。神戸市内には、国債防災機関も次々に誘致された。 一方、防災白書などで示される都道府県別の指標をみると、兵庫は決して「防災先進県」ではない。 小中学校の耐震化率は、全国で26位にとどまる。地震保険の加入率も、同じ26位。防災無線整備率は42位だ。 自主防災組織の結成率は4位だが、実際には殆ど活動していないケースも多い。コミュニティーは機能を弱め、被災体験を持たない「新住民」に教訓を伝える仕組みも十分ではない。 巨額を投じ、「安全」を目指した被災地の10年。それでもなお残る危険がある。そして、復興の過程で新たに生まれた危険もある。。。 ここに来て急速に広がりを見せる高齢者施設集団胃腸炎ノロウイルスについて、やはり、正平調というコラムにも紹介されていましたので、感染予防ということも含めて、そのまま引用させて頂きます。。。 37年まえ、米国オハイオ州にあるノーウォークという町で、子どもたちの急性胃腸炎が流行した。後に電子顕微鏡がとらえた犯人は、休憩のウイルスだった。 札幌で見つかった同様のウイルスが「サポウイルス」と呼ばれるように、ウイルスは流行した地名で呼ばれることが多い。米国のこのウイルスも2年前、国際ウイルス学会で正式に「ノロウイルス」と命名された。 そのノロウイルスが原因とみられる感染症や食中毒症状が。全国各地の高齢者施設で続発している。広島県内の7人をはじめ、入所者が亡くなったとの報告が各地から相次ぐ、かつてない事態である。 ノロういるすはカキはどの二枚貝に付着することが多いという。冬に集団感染が目立つのはそのためで、始末の悪いことに人から人へも感染する。ただし通常は短期間で治るから深刻なことにはならなかった。それがなぜ、これほどのひどい状況になったのか。抵抗力ない高齢者だからか、別の要因があるのか。 山口県で高病原性鳥印ぐる円座が確認されたのは、1年前の今日である。日本で79年ぶりの発生だから驚いた。国境を越えてウイルス禍が広がっていくようで怖かった。さらに今回のノロウイルス。ナノ(10億分の1)の世界にすむ見えない敵が牙をむき始めたような不気味すら感じてしまう。 まず加熱。さらに手洗いを励行し、感染しやすい便などの処理に注意する。手ごわい敵との戦いに、奇手はない。ここはみんなで感染予防の大原則を守りたい。。。ノロウイルス。。。冬季に食中毒を起こす代表的なウイルス。生ガキなど二枚貝による食あたり症状を起こすことで一般に知られるが、保菌者が調理した食事を食べたり、患者の便を処理した際にも感染する。ほとんどが経口感染。世界中に広く分布する。感染すると24~48時間の潜伏期間を経て嘔吐や下痢、軽い発熱などの症状が出るが、通常1~2日で治る。ウイルスの中でも小さく球形のため小型球形ウイルスと呼ばれていたが、2002年、国際学会でノロウイルスと命名された。。。 徹底した手洗い消毒が感染を防ぐのであれば、素手で使用済みのおむつを処理したりすることはどう考えても信じられないこと。私たちも気をつけなければ。
2005.01.12
コメント(0)
今日からこの辺一帯が南あわじ市ということになって、社会福祉協議会も同様に南あわじ市社会福祉協議会とその名を改めたけれど、業務そのものは全く関係無しにいつも通りに始まった。 献立は、鶏肉竜田揚げ、スパゲティーケチャップ炒め、白菜と竹輪の煮物、長芋の梅肉和え。添えの野菜はレタス、果物代わりの梅肉和え?◆鶏肉竜田揚げ。。。あらかじめ、醤油、酒、みりんなどで味を調えた合わせ醤油に漬け込んでおいた鶏肉に、片栗粉をまぶして低目の油で揚げる。高温にすると中まで火が通らないうちに真っ黒になってしまうので、目が離せない。◆スパゲティーケチャップ炒め。。。たっぷりのお湯に二つ割りにしたスパゲティーを茹でてバターを絡めておく。温かいうちに手早く炒めてケチャップで味を調える。バットに広げておいたのを、アルミカップに入れておく。◆白菜と竹輪の煮物。。。白菜は食べ易い大きさに切り揃えておく。竹輪は3ミリぐらいの厚さの斜め切りに。チリメンジャコはお湯につけて軽く洗っておく。出し汁に、砂糖、酒、みりん、醤油で味を調えたところへ竹輪を入れて一煮たちさせたところちりめんじゃこを加える。更に切った白菜を加えて味を調えて白菜に味ををなじませる。◆長芋の梅肉和え。。。長芋は皮を剥いて水にさらしておいたのを、3センチぐらいに切り揃えて、更に包丁を入れて短冊切りの束になったかたちに切って水に離しておく。アクが抜けたところで水気を切って、市販の梅肉に、砂糖、薄口醤油を加えて味を調える。水気を切った長芋を小分けに盛り付けて、上から梅肉ドレッシングをかける。レタスを敷いて、先にアルミカップに入れたスパゲティーを。空いたところへ形よく鶏肉竜田揚げを。白菜と竹輪の煮物は2番目にこんもりと盛り付ける。3番目に長芋の梅肉和えを。。。外がかなり冷え込んでいるもので、携帯を持ち込んだ途端レンズが曇ってちゃんとした映像になりませんでしたが、南あわじ市になって初めての献立。白菜と竹輪の煮物は歯にも優しくて、美味しく頂けそう。 1月、3月、5月、7月と9月だったかな?奇数月の11日にはある講の集まりがあって、目下我が家では宴会の真っ最中。お茶もご飯も出したから、私の役目はほぼ終わり。でも、一体、いつになったらお開きになるのか、片付けのことだってあるし。。。と、夫が出かけるときは時間のことなど一向に気にならないのに、寒いときは気を使う。暖房して、ファンヒータをつけて、私には苦手な暖房尽くめ。あんな部屋にいたら、外へ出たらたちまち風邪を引いてしまいそうな。招く方も、招かれる方も1月は本当に大変。しかも、何故か1月にはお餅まで用意しないといけない。これは昨日の午前中に夫と義母がついておいてくれたけれど。。。お店と違って、そろそろお開きに。。。と出来ないところが実に残念。まだまだお開きにはなりそうにないしなぁ。
2005.01.11
コメント(4)
淡路島は東浦町にある、サンシャインホールで、『NHK交響楽団メンバーと日本のトップアーティストニューイヤーコンサート』というのがあって、出かけていました。 プログラムのトップは、宮城道雄の春の海。この曲の尺八の部分をフルート、琴の部分をピアノでという異色の組み合わせでの演奏となりました。 ピアノの三木香代さんは、以前、夫の同僚でもあるTさん家でのサロンコンサートにも出かけてくださった方で、現在は国立音楽大学助教授として後進のご指導にもあたられていらっしゃるとか。 伴奏の見事さには驚かされるばかり。今回、ヴァイオリン、フルートそして、テノールの伴奏を見事にこなしていらっしゃって、とても息の合った演奏にただもう、ウットリするばかり。 サンシャインホールからは案内のパンフレットが送られて来たけれど、三連休の最後のしかも午後の演奏会とあってとても悩んでいた。これが土曜日の午後なら何の迷いも無く出かけるところだけど。 T氏は淡路島の音楽界では知る人ぞ知るという人で、ある日、バスの中吊りをご覧になってこの演奏会のことを知られたとか。既に年末のことで、会場になっているホールは閉館になっているし、問い合わせは。。。と迷っていたところへ、チケットの売り捌きを頼まれたのだとか。流石Tさん!彼から夫へ話があり、早速チケットを頼むことにした。こんな素晴らしいコンサートが前売りで一枚何と1,000円なんですよ。(財)三井住友海上文化財団さんも素敵なことをなさる。こんな素晴らしいメンバーを集めておいて、たった1,000円で聴くことが出来るだなんて。 さて、プログラムによると、今日の聴きどころとして、こんなことが書かれていました。 『今日のコンサートは、初めて演奏会に足をはこんでくださった方から、音楽が好きで好きでたまらない!というほとんどクラシックオタク状態の方まで、皆さんが楽しんでいただけるような曲目を選定し、またお話を交えながら進めていく楽しい演奏会です』 これを書いた方も素晴らしい方なんだろうなぁ。と期待に胸を弾ませていざ座席へ。あまり広い会場ではないからこそアットホームなコンサートが出来るのだと思うし、ここの会場は座席の前の部分が物凄くゆとりがあって(その分、座席数は格段に少なくなりますが)本当に好きだから聴きに来た!と言う人ばかり。 最初の「春の海」は流石に1月の演奏会のスタートに相応しい演目。でも、琴の部分をピアノで。というのは私には初めての経験だった。相手がフルートだからなのか、全然そぐわない。なんてことはなくて、息もぴったりの演奏にただもう、ウットリ。。。 さて、皆さんは、フランスの作曲家(だったかな?)ダマレと言う人をご存知でしょうか?「つむじかぜのワルツ」これは、珍しいピッコロ独奏で聴かせてくれました。いじわるなつむじ風をこんな風に曲にしてしまうところが凄いですね。 さて、伴奏ばかりを担当するかたちだった、三木香代さん。休憩をはさんだ第二部の二番目に、ショパンを奏でてくれました。力強い、といった雰囲気の幻想即興曲。ピアノを弾くのが楽しくて楽しくてたまらない。といった感じに演奏されていて、T邸で聴いたのに更に磨きがかかった余裕のある演奏に、これまたウットリ。でも風貌は変わらないんですよね。この秘密は一体どこに? 三木香代さんは、生まれは兵庫県の龍野市生まれということですが、他の方同様に、現在は東京で活躍されているところをみると、その点がちょっと残念。勿論NHK交響楽団そのものも、淡路島に住んでいる私からすればまるで遠い存在の様な気はするけれど。 さて、サンシャインホールイベント案内に目をやると、昨年の12月18日には「同志社学生混声合唱団クリスマスコンサート」などと書かれています。もしかしたら、12月23日に聴いた混声合唱は、このメンバーだったのでしょうか?見事なハーモニーを聞かせてくれた。。。何だか、聴き逃してしまったのが惜しい様な。。。 で、土曜日には阪神・淡路大震災10周年記念事業ということで、東浦町復興支援ライブ戎洋子コンサート音楽の贈りものと題して、今日と同じ14時開演で行われるとか。そして、熊本裕子さんの「天使の声」とのアンサンブルがあなたを安らぎの世界へと誘います。。。と書かれています。何だか迷ってしまいます。 今日は、普段私自身が余り耳にすることの無い、ヴァイオリンのソロを堪能できたこと、フルートばかりではなく、ピッコロにもスポットが当てられたこと、何だかとってもワクワクした演奏会でした。そうそう、ドラマ「冬のソナタ」より“マイメモリー”なども解説を交えて演奏してくださいました。変ト長調だから。。。でも半音上げて、ト長調にするとまるで曲のイメージが変わってしまうんですよね。不思議な不思議な体験でした。 来週のことはわかりませんが、出かける元気があれば出かけたいと思います。会があって無理だと思っていたら、その会はどうやら23日に延期されたということなので。 皆さんには言い訳に次ぐ言い訳を重ねながら、サーバーの増強工事ということで、ネットに入り難い状況にありましたこと、合わせて、体調を崩していて全くresも付けられずにいましたこと、本当に申し訳ありません。工事は明日もあるとのことで、重ね重ね申し訳ありません。。。
2005.01.10
コメント(8)
献立は、豚肉味噌煮、ミンチオムレツ、磯辺和え。添えの野菜は、豚肉味噌煮にレタス、ミンチオムレツにサニーレタス。◆豚肉味噌煮。。。材料は豚もも肉の薄切り、大根、人参、板こんにゃく。板こんにゃくはあらかじめ下茹でしたのを32切りの三角に切り揃えておく。大根は薄目。。。1センチぐらいの厚さの銀杏切り、人参は3~4ミリの銀杏切りにして、それぞれ下茹でしておく。熱した鍋に油を引いて、食べ易い大きさに切った豚肉を一気に炒めて一旦鍋から取り出して、ゆでておいたこんにゃく、大根などを煮ていく。大根に火が通ったら人参を入れて、砂糖、みりん、酒、醤油などで味を馴染ませて、こんにゃくに味が馴染んだら、豚肉を入れて、更に味噌を加えて味を調える。味噌を入れてからは余り煮詰められないので、味をみながら加えていく。お味噌にもよるので、入れ過ぎない様に。あらかじめ甘目に仕上げておいた方が味がつき易い。◆ミンチオムレツ。。。市販の加工食品を熱した天板で焼くだけ。盛り付けるときは、半分に斜め切りにして、ケチャップを添える。◆磯辺和え。。。今日の場合は小松菜を。普段は青菜というか、色が薄い色のものが刻み海苔には映えると思うけれど、小松菜を彩り良く茹でて、水気を絞ったところへ、砂糖、醤油、みりんなどで味を調えた合わせ醤油で絡めて、刻み海苔をふんだんに和える。ちぎったレタスを敷いて、豚肉味噌煮をたっぷりと。他に何も入れないので、人参の赤などで彩り良く。左側には、サニーレタスを敷いて斜め切りにしたミンチオムレツを置いて更にケチャップを。3番目の磯辺和えに使ったのが小松菜だったために、今ひとつ刻み海苔の色が分かりませんが、海苔の香りが豊かに広がって。 さて、お弁当を詰め終って、梱包している間に栄養士さんが明日使う人参と大根の切り込みをしてくれたので、配達から戻って板こんにゃくを切り込んだだけ。そして、大掃除で仕切れなかった部分の仕上げを。土・日・月と3連休になってしまうので、この機会にと思い切って溝の隅々をデッキブラシでこすったり、お湯を流したりで仕上げたのが私にはきつかったのか、家へ着くと、へたり込んでしまって、そのまま横になって眠り込んでしまい、とても今年初めてのコーラスの練習には行く元気が無くて休んでしまった。何と情けない話。寒気は収まったけれど、今頃PCを立ち上げたのは、明日から午前10時から午後5時まで、インターネットサーバー増強工事ということで、インターネット接続サービスが停止になってしまうので、今日の日記だけはと思い、こんな時間に兎に角日記だけをUP。工事を午後からにしてくれると私には有難いけれど、こればかりはどうにもならない。立ち上げるのは、仕事から戻ってということになりますが。。。 さて、今日付けの地元紙の正平調というコラムにはこんなことが書かれていました。。。 「大震災から10年目を迎え、自然災害の恐ろしさを目の当たりにして、自然と人間の調和の大切さを再認識しました」。まちづくり活動を続ける神戸の知人から、こんな年賀状をもらった。「安全・安心、災…もう一度足元を見つめなおしたいと思います」。これも神戸市在住の人からだ。 大震災10年を前に、台風、地震が相次いだ。あらためて大自然の脅威を感じる。「但馬は、さんざんでした」「災害、合併と課題山積の年になりそうです」。但馬の被災地からだ。復興に取り組む人たちの顔が浮かんでくる。 「平成の大合併」が大詰めを迎えた。「合併が、ようやくまとまりました。新たな地域自治に取り組みます」。西播磨地域の町職員の賀状には、合併協議の苦労とこれからの決意がにじむ。 新市町が誕生する一方で、協議が難航しているところもある。「合併」についての「民意」を問う住民投票も続く。兵庫県内では、来年3月末には現在の24市56町が半減する予定だが、課題も少なくない。過疎、少子高齢化、農業や地場産業の不振、厳しい財政状況。とりわけ規模の小さな自治体の背を「合併」へと押し出すのが「三位一体改革」だ。 大きくなる新市町面積。コミュニティーが揺らぐ。これまで培ってきた「小さな自治」をどう育て、維持していくか。合併の意味が問われる年でもある。 「災い過ぎれば服来る、といいます」「皆で力を合わせ一歩一歩努力を積み重ねて今年こそ明るい、夢いっぱいの世の中に」。そう願わずにはおれない。。。 更に社説に目をやると、住宅共済制度ということについて、助け合いの意識広めようとした中で、こんなことが述べられていました。 自然災害で壊れた住宅を再建するのは、容易ではない。被災者の中には、家族を亡くしたり、仕事や収入源を失ったり、年齢などの関係でローンが組めない人も多い。10年前の阪神・淡路大震災では、自力で再建できず、住み慣れた地域を離れざるを得なかった人が多く出てしまった。 兵庫県が設置した「被災者住宅再建支援制度調査会」(座長=室崎益輝・消防研究所理事長)は、一戸あたり年間4800~6000円の掛け金で、被災後の再建に600万円を給付するという、共済制度の最終報告案をまとめた。 自助や公助に加えて「共助」の精神を盛り込んだセーフティネット(安全網)である。生活再建や地域再生の有効な手だてとして、早期に実現し、普及させたい。 加入は任意で、地震だけでなく津波や豪雨など、すべての自然災害の被害を対象にする。全壊した住宅を県内で再建・購入した場合に600万円。全壊判定でも補修で済ませた場合は200万円、同じく大規模半壊の補修で100万円。半壊の補修で50万円が、それぞれ給付される。また、再建をあきらめた場合でも、10万円が支給される。 昨年秋にまとめた骨子では、補修の場合の給付金を一律100万円にしていたが、台風被害の教訓から「大規模半壊」の区分を設け、金額にメリハリをつけた。県民の助け合いが基本なので、県外で住宅を再建する場合は、給付金を半額にするという。 昨年末に、神戸と西宮で開かれた説明会では「600万円では家は建たない」という意見があった。しかし、もともとこの共済は、被災の損失補てんではなく、住宅再建の支援策として設計されたものだ。その意味では、掛け金、給付金ともに、大方の人が納得のいく水準といえる。 本来なら、このような制度は、全国で実施するのが望ましい。しかし、自然災害のリスクや住民の防災意識に地域差があることから、他地域の理解が得られず、当面は兵庫県が独自に行うことになった。 幸いなことに、兵庫県民の関心は高い。県が昨年6月、県民5000人に意識調査を行ったところ「住宅再建に共助の仕組みが必要」と思っている人の割合は78%。この共済制度については、70%の人が加入の意志を示した。 県は近々、調査会から正式報告を受けて制度や条例をつくり、来年度から始めたいという。加入の呼びかけとともに、防災・減災の心構えや、助け合いの意識についても広めていきたい。。。 更に、局面断面というコラムでは、インド洋大津波のことが伝えられています。。。 史上最大の救援作戦が始まったスマトラ沖地震による津波被災地。ジャカルタで6日開かれる復興支援緊急首脳会議では、膨大な額の支援表明が見込まれている。国情も違い、数千キロにわたって分散する各地の被災者は見ずや医薬品に加え、正確な情報伝達システムや心のケア、被害予防のための人材育成を日本や各地に求めている。。。■襲うパニック 「食料も水も薬もみんな足りない」 最悪の犠牲者を出したインドネシア。スマトラ島北部のアチェ州では、被災者の厳しい生活が続く。北岸部の避難所には支援物資が届き初めているが、陸路が寸断され、空港も輸送機の離着陸が不能となった西岸部では物資輸送に支障が残る。 「感染症が広がっていると聞いた。町には帰らない」(州都バンダアチェからピディ県の母親の家に避難した男性)。人々は地震や津波の再発を恐れ、屋外で夜を過ごすこともある。感染症の集団発生は確認されていないが、地震や津波再発のうわさが流れ、住民の一部をパニックが襲う。正確な情報伝達の手段確保のほか、トラウマ(心的外傷)を負った人々の精神的ケアも重要だ。「われわれで対応しきれない患者を国軍病院に運んだが、優先させなければならない患者がいると受け入れを断られた」 バンダアチェの仮設診療所で活動している日本の緊急援助隊医療チームの二宮宣文医師はこう指摘した。同医師によると、津波に巻き込まれた際に外傷を負った患者が多いが、医薬品が足りずに患部が化膿したまま放置されており、抗生物質が大量に必要という。 アチェ州では長年続いた独立紛争の影響もあり、インフラ整備が十分でなかった。そのインフラが今回、大打撃を受けたことから中長期の復興計画も不可欠になる。■リーダーの意地 観光シーズンのピーク時、南部のリゾート地域が直撃されたタイ。プーケットを訪れる観光客は年間300万人以上。クラビは約100万人とされるが、プーケット県観光協会は短期的に30%以上の落ち込みを予想。南部最大の“売り物”のさんご礁にも大きな被害が出ており、観光業への影響が長期化するのは必至だ。 「金はいらない」 津波警報発令を見送った気象庁長官を更迭したタクシン・タイ首相は、4日のパウエル米国務長官との会談でも「復興資金は必要ない。技術、人的支援を頼みたい」と明言、東南アジア諸国連合(ASEAN)のリーダーとしての意地を見せた。 復興支援首脳会議では1、地震・津波に対する域内の早期警報システム構築 2、破壊されたさんご礁など自然環境の回復 3、自然災害に備えた情報収集・分析、人材育成をする域内防災センター設立~ の3点を訴える方針だ。 特に早期警報し捨てうについては、今回会着で足並みがそろわなければ、タイが各国に先駆けて取り組む方針を既に明らかにしている。■影落とす内戦 「米軍やインド軍が支援に来るのはこちらの情報収集が目的」 島の4分の3の海岸線に被害が及んだスリランカ。分離独立運動を続けていた少数派タミル人武装組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)の幹部はこう述べ、政府によるLTTE支配地域への積極的な支援表明に警戒心を隠さない。 海岸沿いの家屋が破壊され、子供の犠牲が目立ったスリランカ。地元紙によると、津波で親を失った子供をLTTEが誘拐しているとの情報もあり、長く続いた内戦が救援に影をおとしている。 東アフリカ沿岸諸国の中では、1991年以来、事実上の無政府状態が続くソマリアで被害が大きい。隣国ケニアの首都ナイロビで昨年設置されたソマリア暫定政府は、津波による死者数は200人以上、行方不明者も多数いると発表した。 しかし国連開発計画(UNDP)のソマリア担当者は「(無政府状態の)ソマリアには被害を調べる能力がない」と述べ、国連中心の支援以外に方法がないと強調した。 「ソマリア北部で4年間続く干ばつ被害と今回の津波被害賀統合して、被害を大きくしている」。世界食料計画(WFP)担当者の指摘は、国内抗争と度重なる自然災害が弱者を追い込んでいく実態を浮き彫りにした。。。 テント生活を余儀なくされている人に少しでも希望の光が見えているのか、空腹を満たすだけの食料は手に入るのかさえも分かりませんが、この時間自宅でこういうことが出来るにはまだまだ年数がかかりそうな。何とか生きる手だてだけでもと思わずにいられない。。。
2005.01.06
コメント(2)
驚くことばかり。。。事務処理のいいかげんさが露呈されてしまうばかりで、我ながら嫌気がさしてしまう。昨年は父の服喪中で年賀状は遠慮していたけれど、それでも年賀状が届いた人には寒中見舞いの葉書を書いた筈なのに、どうしてこうもまぁ、住所のチェックが出来なかったものかと、我ながらあきれてしまうばかり。郵便局の人に迷惑を掛けてしまって今更ながら申し訳なく思う。昨年年賀状を頂いて確かに返礼の葉書を出した筈なのに、どうしてチェック出来なかったのか、歯がゆい思いで一杯。。。 何と!今日になって年賀状が返されて来た。しかも、昔は私が勤めていた局の管轄内。確かに今は住之江区と住吉区は違う郵便局が出来たみたいだけど、私が勤めて居た頃はずうっと住之江郵便局一つで頑張っていた筈なのに。とても残念。田舎の場合と、都会とでは状況が違うのもわからないでもないけれど。。。何も元旦をはるかに過ぎて今頃に返されなくても、と思う。 と、自分のミスを棚に上げて不満を言っても始まらないので、改めて言い訳とともに年賀状を書き直すことにしたけれど、許してくれるかな? 合わせて、町村合併などにより宛名がまるで違うところもあって、戸惑ってしまうこともしきり。転居とはまた違う意味でチェック漏れの一因ともなっていて、元郵政省勤務だった私には許しがたいことばかり。遅くなってしまいましたが、改めて書かせて頂いた年賀状、明日にはポストへ投函しますので、お許しくださいませ。。。 それと、いつもは暑中見舞い葉書を出すのに、限られた人にしか書けなかった事情も合わさって、住所録のチェックがまるで出来ていないことに改めて驚く有様。こんなのでよくもまぁ、年賀状が届いたものだとあきれる始末。 季節柄、いつ書こうかと迷った末、購入はしたけれど書きそびれてしまった暑中見舞い。いつの間に梅雨が明けたかもわからないまま、結局は年賀状を頂いた人にだけで終ってしまって、誠に情け無い有様。言い訳に次ぐ言い訳ばかりで、ウッカリを棚に上げて何とか許して頂けたらと、ほころびかけた穴を繕う思いで書きました。本当にごめんなさい。。。 空からはいつ白いものが舞い降りてもおかしくないといった様相でしたが、お陰でお弁当の配達も無事に終えた水曜日。栄養士さんたちは沼島へ渡る日でかなり風が冷たかったと話しておられたけれど、火曜日に次いで新年二日目となった今日も、相手はお年寄りとあって、お弁当のことなどすっかり忘れていた!という方が大勢いらして、中には1万円札を出される方も。流石に300円の代金に9700円は持ち合わせていないので、丁重に次回に頂くことをお伝えして、家を後にしたけれど、考えたら曜日の感覚などは仕事をしているからこそわかることで、常日ごろ家で曜日とは何の関係も無く暮らしている人には今日は一体何曜日?なんてとっさには思いつかないのかなぁと。 来週には南あわじ市が誕生するとあって、色んないきさつがあったけれど、幸い、私が携わっている配食サービスについては、平成18年までは現状のままに。ということが承認されたということでひとまず安心。 福祉の面にはお金がいくらあっても足りないほどの高齢化社会を迎える中、介護のあり方についても問われる時期に来ているのは確かだけれど、独居を余儀なくされた人たちには、この配食サービスが唯一の安否確認の手だてであることも考慮に入れて欲しいと思う。 誰だって、決して一人では生きては行けないのだから、利用出来る制度ならどんどん利用出来る方策を考えて欲しいと思う。甘えるとかそういうことでは無しに、震災当時多かった仮設住宅での孤独死。余りにも悲しい最期だと思う。。。 今日付けの地元紙の『「復興」とは』と題したコラムに、政策のひずみ色濃くと題して、こんなことが書かれていました。 『マイホーム。家族の汗の結晶ともいえるその城を、阪神・淡路大震災はことごとく奪った。 「欠陥住宅ですよ」。神戸市東灘区の内装業鎌倉利行さんんは、解体業者に言われた一言が忘れられない。 震災の3年前に初めて建てた一軒家が全壊した。基礎と柱をつなぐ金具が一つも見当たらないといわれた。しかし、混乱の中、倒壊の原因を突き止められないまま、住宅は解体された。 多額のローンだけが残った。さらにローンを組み、もう一度家を建てたが、不景気もあって商売は思うようにいかない。体調も崩しがちになった。生活をぎりぎりまで切り詰めているが、二重ローンは払えそうにない。 「自己破産しかないか」。あきらめ顔で言った。 私たちは震災後、多くの建築関係者や学者に会った。取材を進めれば進めるほど、戦後の住宅史のいびつさを感じた。 戦災で、日本では全世帯の3分の1に当たる住宅が不足した。政府は、住宅の大量供給を進め、住宅ローン制度を整備した。不足は約20年で解消した。戦時中、1割だった神戸の持ち家率は、今や6割にまで達している。 一方で、住宅業界は建設と解体を繰り返し、利益を追い求めた。日本ほど住宅の寿命が短い国もない。国土交通省の統計によると、平均わずか30年。古くなったといっては壊し、再開発といっては壊した。 バブル期には、住宅は投機の対象にもなった。多くの人が、資産としての価値が高まることを期待した。 マンションデベロッパーの元社員は「売ることが目的だった。売り逃げといわれても仕方ない」と漏らした。欠陥を防ぐチェック機能は働いていなかった。「手抜き工事はいくらでもできる」と、ある建設業者が明かした。 住宅の安全性が置き去りにされてきたのではないか。阪神・淡路は、日本の住宅政策が抱えるひずみを一気に表面化させたのではないか。この10年、私たちが常に抱き続けた疑問だった。 震災後の街をみて、住田昌二・大阪市立大学名誉教授(住宅政策)は言う。 「戦後の大量供給時代から進化していない。次世代に残したい住宅はほとんど生まれなかった」 高層の公営住宅が立ち並び、コミュニティーは分断された。機能や効率を追求した結果、「安心」は遠ざかったようにも見える。 西宮市大井手町に住む建築家中北幸さんの自宅を訪ねた。 ツタが壁をはい、草木が屋上を彩る。大きな窓からは明るい光。雨水をため、トイレや庭の散水などに使えるようにしている。家のあらゆる場所に、「自然」の営みが息づいていた。 一人娘の百合さん=当時(14)=が全壊した自宅で亡くなった。震災後は仮設住宅で暮らした。仕事中心の生活から一転、家族で寄り添う日々だった。手狭な空間だったが、鳥の声で目覚め、土のにおいがした。住まいの原点のようなものを感じた。 「子どもを失う悲しみは、とても言葉では言い表せない」と中北さん。建築家として、丈夫な家を造ることができなかった悔いがある。「自然をおろそかにした付けが回ってきた」 震災の年、長年勤めた安藤忠雄建築研究所から独立した。自然の恵みを利用した設計を心掛けることにした。地震という自然の猛威にも耐えられる安全性にもこだわった。 都心に林立する高層マンションには、批判的な目を向ける。「大量のエネルギーを消費し、大量の熱を発する。自然を犠牲にして人間の快適さをつくり出している」と。 住宅は人の思想を映す。生き方を映し出す。震災からの学びが私たちの暮らしに根付いているか、と自戒する。。。』 そして、かのインド洋大津波では犠牲者は15万人に達すると報じられた。家を無くしてしまった人たちが、今後どの様に生き延びて行くのか。支援の手は今さしのべ始められたばかり。雨露をしのぐだけのビニールシートの下で、支援の手を待ち焦がれている人々。幼い子どもたちの感染症のことも心配は深まるばかり。何をどの様に手を付けて良いのかもわからない有様だとは思うけれど、やはりここで、ベートーヴェンが「第九」の中で謳いあげた、全ての命を平等に敬うことを忘れなければ、必ずや平和な世界が訪れると信じて、復興を願わずにはいられません。。。
2005.01.05
コメント(4)
お正月らしく、ぶりの照り焼き、長芋の煮物、三色なます。添えの野菜はサニーレタス、果物はつきません。◆ぶり照り焼き。。。予め熱しておいたオーブンの天板にクッキングシートを敷いて、ぶりを並べて170度ぐらいで20分間焼いて頃合を見て、別の鍋に砂糖、酒、醤油、みりんなどで味を調えて、水溶き片栗粉でとろみを付けたタレにくぐらせる。照り焼きとは違う方法ですが、魚を焼くのもオーブンしか無いので、仕方無く。。。◆長芋の煮物。。。長芋は皮を剥いて水にさらしながら、大きさを揃えて切っておく。桜玉、昆布巻きはそれぞれ、出し、砂糖、みりん、酒、醤油などで味を調えて煮含めておく。昆布巻きが柔かくなって味も染みたところで、取り出して、長芋を煮含める。別の鍋で煮ておいた桜玉を取り出して半分に切っておく。盛り付けるときは、長芋にもたせかける様に桜玉を。傍らに昆布巻きを。◆三色なます。。。材料は大根、人参、刻み昆布。刻み昆布は水につけて戻しておく。大根、人参などは皮を剥いて、スライサーで同じ太さの千切りにして、塩をまぶしてしんなりさせてから、塩を流してよく水気を切っておく。戻しておいた刻み昆布を長さを揃えて切って、水気を切った大根人参と合わせて、砂糖、塩、酢、みりんなどで味を調えた合わせ酢で味を馴染ませておく。ぶりの照り焼きの添えの野菜にサニーレタスを使ったので、野菜っぽくない部分もあったりして、何が何やら。という色合いになってしまったけれど、サニーレタスを敷いて、ぶりの照り焼きを。下の左隅にある身カップに入れた黒豆を。左側には長芋、桜玉、昆布巻きなどの煮物を。三番目には三色なますを。彩り的には大根の白が勝ってしまったかな?今年初めてのお弁当で、暮れには、ちゃんと「新年は4日からですから」と、お知らせの紙を入れたし、口でも言っておいたのに、何故か忘れられている人が多かった。三が日が開けて直ぐというのは、まだまだお正月気分が抜けないのかな?今年も元気に、新年の始まり♪ 正直、今日の仕事のきつかったこと。風邪の具合と、厨房の底冷えのする寒さでまた風邪がぶり返してしまいそうな。長芋は芋にもよるからこればかりは仕方が無いけれど、もう少し太目のが来てくれたら、手間も掛からずに済んだのに。長芋の煮物らしくない出来栄えになってしまった。分量的には満たしていても、大きさというのは盛り付けに影響が出てしまう。もしかして、桜玉は一人に一個だったのかな?と思いながら、結局は半分の計算で煮込んだけれど、やはり長芋の細いのが祟って、一人一個にしても良かったのかな? 月曜日、火曜日共通のお弁当ということで、今年も月曜・火曜と、水曜・木曜・金曜の二通りの献立になりますが、順次紹介して行けたらと思っています。レシピなども省いている部分が多いと思いますが、自分で反省の意味を込めて、例えば自分の家の台所に立ったときに困らない程度に書いていますが、皆さんの参考になりますかどうか。。。 食品衛生上のこともあって、配達の2時間前から過熱調理を始めることになっていて、それでも出来上がったのを一つ一つのお弁当に詰めて、配達出来る状態になるまで1時間はかかる計算。ご飯もなるべく温かいうちに。とは思うけれど、一度お訪ねしてお留守だと、結局最後になってしまって、冷めかけたのをお届けすることになってしまう。 ご家庭で一から材料を揃えるとなると、結構大変だと思う。確かに、コンビニへ行けば好きなのが手に入る時代だけれど、お元気な顔を確かめながら配達して、一言でも言葉を交し合えることが、一つの楽しみにもなっていると思う。 冬至が過ぎて10日余り。配達の時間を終えて車で事務所へ戻るときは真っ暗だったのが、もうそろそろ夕暮れという明るさに。それでも、季節は一番寒い時期。声を掛け合うことで、少しでも温かみが伝わればと思うけれど、年末に交通事故に遭った人、暫くはご長男さんの元で暮らす人などがあって、4~5個は少なくなっていた。。。 実際、夕暮れ時に黒い色の衣服で外を歩いているのはとても危険だと思う。ことに、車道と歩道の区別の無い道路などでは危険とは隣り合わせみたいな感じ。そうそう、シルバーゾーンなんていう地区もあって、お年寄りが思い思いに歩いているからこそ、車の方が気をつけなきゃいけない場合も。細い路地を分け入って歩いたり、坂道を上がったり下りたり。そんなときは自分の足で歩くしかないけれど、これが案外良い運動になっている気がする。外は寒いけれど、一生懸命歩いていたら汗ばんだりする。「寒いのに、有り難う!」この一言が私たちの励みにもなっている。。。さて、明日こそはもう少し綺麗な声で「おめでとう♪」が言えます様に。。。
2005.01.04
コメント(4)
サイトを放り出した状態でお正月を過ごしまして、何だか先が思いやられてしまいますが、午後のこの時間にサイトへ入れることの何とのびやかなこと。。。 明日から平常どおりの仕事に戻ります。平成18年までは今のままに。ということで仕事の方も一段落。勤務先が変わるわけでもなく、担当地域が変わるわけでもなく、11日からこの地区が南あわじ市に変わっても、さしたる影響は無いということでホッとしています。平成18年以降のことはこれはどう考えても私にはわかる筈もないので、行政に任せるしかありません。 さて、元旦の夜更かしは風邪をこじらせてしまいました。“寒い”と感じるのは身体にはとても無理なことみたいで、つくづく馬鹿なことをしたな。と。休みの間だから良かったけれど、明日からの仕事に差し支えない様にしなければ。 献立の一つに、ぶりの照り焼きというのがあったそうな。いかにもお正月っぽい献立ですよね。 さて、皆さんはお正月に頂く御節の中では何がお好きですか?好き嫌いに関わらず、一応一通りは召し上がりましたか?蓮根なども先を見通すなどといわれているみたいですが、私が食べたのは、黒豆、数の子、昆布巻き、紅白かまごこ。。。それぞれに意味があるんですよね。黒豆などはまめに働く?数の子などは子孫繁栄。昆布はよろこぶから来ているのでしたっけ?数の子は勿論塩を抜いて、薄い皮をはがして、みりんと醤油の出しに漬け込んでおかかをまぶして食べるだけなのに、パリッとした歯ごたえがたまらなく美味しいですよね。黒豆なども、皺を出さずに艶々と炊き上げる方法があるみたいですが、これは市販のもので。昆布巻きも色々巻いたりするみたいですが、私はシンプルに昆布だけのが好き。山海の珍味を盛り込んで、母の愛情をたっぷりと忍ばせた御節。。。今から来年が楽しみです。 母とはゆっくり話も出来ずに、何だかあっけなく実家を引きあげてしまったけれど、兎も角この風邪を何とか撃退しなければ。何やら今年はインフルエンザが猛威を振るうとかで、一回のワクチン接種では駄目なんだとか。 元気な人でも雪が降るほどの寒さだったり、まるで春先を思わせる様な暖かさだったら体調を崩してしまうかな?かなり用心していたのに、流石に元旦の夜更かしは駄目でした。大晦日には翌日の元旦が仕事だからと、かなり気をつけていたのに。考えたら寒さには慣れていると思ったのに、どうも変な暖房の暖かさが良くなかったのかなぁ。喉を乾燥から守るということもとても大事なことなんですよね。 どうぞ皆さんもお風邪など召されません様に。。。
2005.01.03
コメント(2)
2日は実家へ集まることになっていたのに、体中の節々は痛いし、熱っぽいし、頭は痛いし、喉は痛いし、鼻はズルズル。。。なもので起きたのは午前10時半。よっぽど電話をして、実家行きは断ろうと思ったけれど、夫も母に逢うのを楽しみにしているみたいなので、と頑張って起きることに。実家ではお昼につまむお寿司などの買い物を頼まれていたこともあって、お店が開くのは午前10時だからとゆっくりのつもりが、結局は起きられなかったのもあって、そそくさと着替えだけをして車に乗り込むことに。 実家がある地区にある、大型のショッピングセンターに寄って、お寿司と、お刺身だけを買って。。。と思ったら、私の目をそそる様に、なんと一六タルトが置かれているではありませんか。迷わず手を伸ばして、ついでに、甥が好きな〇クエリアスのボトルを買って、いざ出発。 実家へ着いたらまだ兄一家は着いていない。夏の終わりごろから始まった実家の前一帯の圃場整備の様子。まるで様変わりしてしまった田圃の様子などを二人で見やっていると、間も無く見慣れた、亡父が乗っていた車が坂道を登って来た。甥の運転で、兄と兄嫁さんが乗っていた車がス~ッと門へ入る。さて、ここで新年のご挨拶。 家へ入ると、待ちかねた様に母が。それでも台所で何かごぞごぞとやっている。お昼の定番はすき焼き。煮込むのは兄の担当。それぞれが席に着いて、和やかな会話と食事が始まる。普段は台所に立ちっきりの母も一緒に食卓を囲む。弾む会話に母の食欲も増したよう。姪は用事があって顔を出さなかったけれど、それでも母は満足気。 夫と兄嫁は科こそ違うけれど、同じ高校の先輩後輩になるので、私が知っている音楽の先生の話をしてみた。やはり、夫が知らないのは無理からぬこと。との兄嫁の話に納得せざるを得なかった。同じ高校でも科が違うこと、職員室が3つもあること。先生が亡くなられて催された追悼コンサートのパンフレットに、かの朝比奈隆氏から寄稿された程の人がこの淡路島に住んでいらっしゃったことが私にはとても感激だったこと、などをひとしきり話したら、兄嫁は先生にはピアノの師事を受けていたことを話してくれて、やっと先生のことを知っている人に巡り合えたという感じ。同時に、夫が知らないのは仕方が無いのかな?と。 後、叔父の話になって兄夫妻が年末に見舞いに立ち寄ったときには、部屋には誰もいなくて、鼻からの流動食が終りかけだったこと。叔母さんが居ないものだから病状を伺うことも出来なかったとのことだけど、顔色が良いこと、父などと違って肺も心臓もまだまだ元気なことが寿命を縮めずに済んでいること。でも、二本足で立って歩けるまでには相当の日数を要することなどと報告されて、私が暮れの27日に体調不良のために、母を眼科医院へ送ることが出来なかったことが残念に思われた。父などは悪いのが胸だっただけに、呼吸が出来なくなってしまったため、特別な延命措置も行わなかったけど、回復の見込みがあるのかどうか、まだまだわからないといったところ。辛抱強く待つしか無いと思うけど、実際に医療行為は何も行われていないに等しい状態だとか。 さて、私が風邪気味ということもあって、結局はお昼を食べただけでお開きになってしまったし、まるで潮が引く様にサ~ッと帰り支度を始めた私たち。母はさぞやがっかりだったかも。 家へ戻ってからは10時間スペシャルの「国盗り物語」のことが気になって、結局横になったまま眠ったり起きたりしながら、熱気がするのでお風呂はやめておいた。 来ていただいた皆さんへのresも滞りがちですが、お許しを。。。 と、新年早々こんな体調で今年一年が危ぶまれてしまいますが、喉の痛みが治まったら少しは楽になるのかな?
2005.01.02
コメント(0)
昨年は皆様には本当にお世話になりました。今年もどうぞ宜しくお願いします。。。 さて、今日は私にとっては今年の仕事始めの日。午前8時には家を出なければいけないのでと、寝たのか寝てないのか分からないありさま。案外朝になって明るくなっているのに飛び起きて、私だけの用意をして、そそくさと出かけることに。午前8時といえば、そんなに早い時間ではないけれど、神棚への祀りごとは義母に任せて職場へ。 今日は元旦ということもあって走っている車の少ないこと。というより、対向車も前を走っている車も一台も無かった様な。初詣に出かけるには少し早いからなのかな? さて、元旦のお昼には松花堂に一人づつ盛り付けることになる。器もそれなりに凝ったものを使うので、ひときわお正月らしい雰囲気をかもし出してくれる。 煮物は高野豆腐と椎茸、人参、絹さやで彩りを添えて、出し巻き卵を添えて。縁起物は数の子と黒豆。鯛の塩焼き、紅白かまぼこ。それにお刺身。これに、お雑煮とご飯。 お料理は目で楽しむとも言うけれど、こうした器に盛られると、いつもとはまるで違った雰囲気になる。確かに盛り付けには手間がかかるけれど、年に一度はこうしたお料理で舌と共に目でも楽しんで頂きたい。。。と、画像はありませんが。 元旦の楽しみはやはり年賀状。自分が年末ぎりぎりに投函したにもかかわらず、やはり元旦に届く年賀状は嬉しい。立った一枚の葉書に、それなりのお人柄が現れている気がする。中には銀婚式を迎えたご夫妻も。そして、お子さんが1歳というお友達も。一枚一枚に目を通しながら、仕事の疲れも吹っ飛んでしまいそうな。近況報告に沿えて、一番心配だった、豊岡市にお住まいの方が、被害を免れたとの一言。私にはとても嬉しかった。実は、心配だったけれど、どうすることも出来なくて、却ってこちらの方を心配して書き添えてくださって、やっと安心出来た次第。実は、この方とは台風つながりで知り合った。私が小学生のときに、台風の被害で、講堂の屋根に大きな穴が開いたということがあって、勿論低い地区では相当な浸水被害が出てしまったとき、文房具を送ってくださった学校があって、そのお礼にしたためた手紙が今の私たちの縁を結んでくれたという次第。先年、お嬢様のバレーボールの試合ですぐ近くの中学校まで出て来られたということも。豊岡市とここ淡路島の南部とではまるで、兵庫県の北と南。極端に気温も違う。兎も角もお元気でお正月を迎えられたと知って、本当に安心出来た。淡路島でもそうだけど、被害に遭った地区と、そうでない地区は、まるで馬の背を分ける様な違いだった。姪の旦那様のご実家に宛てた年賀状も、移転先に届けられたみたいで、やれやれ。 さて、明日は兄夫妻と私たちが実家で集うことに。母には少し楽をして貰うために、何か買い込んで行こうと思う。一人暮らしの母は生活共同組合で購入するのが楽しみになっていて、お餅なども既に買ったとのこと。こまめに料理を楽しむのは良いけれど、足に負担がかかっては申し訳ない。 というわけで、昨年から引き続きresが滞りがちですが、必ず目を通してからお伺いさせていただきますので、今暫くお時間を。。。と、いきなり遅延の言い訳になりましたが、皆さん、今年も昨年に増しての交流をどうぞ宜しくお願いします。
2005.01.01
コメント(6)
全28件 (28件中 1-28件目)
1