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『「母ちゃんと子どもが津波でいねんだ。どこを捜しても、やっぱりいねんだ」
年配の男性が堰を切ったように話しだした。東日本大震災から1週間後の宮城県石巻市。神戸市兵庫区の「被災地NGOきょう同センター」スタッフ、よしはるまさみちは、避難所で足湯を提供していた。足湯といっても、丸いおけに入れただけだ。手のひらをマッサージしながら、男性の言葉を受け止める。 ただ、そばにいて、ただ耳を傾ける
福岡県生まれ。15歳から中国武術などの武道に親しんだ。地元の大学に通いながら、整体や気功を本格的に学んだ。卒業後は福岡市内で健康教室を主宰したが、阪神・淡路大震災で一変した。神戸の親友からの連絡で、仲間10人とボランティアに駆け付けた。
「目の前で困っている人を助けたい」。余った物資を集め、不足している避難所に仲間と届けた。そのうち、冬の避難所で震える被災者を見て、学生時代の知識を生かし、足湯を始めた。
お湯で心もほぐれたのだろう、被災者から自然と言葉が出てきた。「持病の薬を持ち出せなくて」「金銭的にもう限界」。そうして集めた声を、次の支援策へとつないだ。
阪神・淡路後は、タイやカンボジアなどで貧困者の支援に携わった。2004年の新潟県中越地震から、きょう働センターのスタッフになった。08年の中国・四川大地震では、直後のがれき処理から就労支援に至るまで、今も関わる。
東日本大震災では、発生当夜に神戸を出て、宮城県に向かった。現地入りしたよしはるに思わぬ葛藤が生まれた。
ボランティアの不足だった、阪神・淡路とは異なり、ガソリンや食料が長期不足した上に、福島の原発事故で、簡単に受け入れられなかった。一方、津波で助かった人が寒い避難所で命を落とす現実に直面した。「付き添って背中をさすってあげる人が一人でもいれば助けられた」。悔しかった。
ボランティア受け入れ態勢づくりを急いだ。阪神・淡路の記憶がよみがえった。「混乱する被災地の、しかも最前線でやれることは限られる」と、あえて少し離れた山形県米沢市と岩手県遠野市に拠点を置いた。ボランティア自身が自活できないと目的を果たせないー。経験が生きた。遠野市からは、バスで若者たちを被災地へ送り込んだ。
「ボランティアはどこまでいっても、よそ者。被災地を去った後に何も残らなかったら、意味がない」
被災者同士が寄り添えるようにとの思いから、よしはるは今後も、現地の人に足湯を伝えていく。 「人に自然治癒力があるように、被災地の中にこそ、災害から立ち直る力があるはずだ」
』
更に、4面には、『交流を深め孤独感和らげ』とか『「元気ですか」のひと言が力に』などというタイトルが並ぶ。
先日、ボランティア講座で学んだ、高齢者への接し方ととても似ている気がする。また、経験したからこそわかる。ということが沢山あると思う。目の前で焼けてしまう人をどうすることもできなかったのだから。
どうか、自分の持てる力を信じて欲しい。
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