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上京した時に鎌倉でお会いしたTさんからメールが届きました。その時にも話題になったお腹の塊についてでした。
お腹のネガティブのことなのですが、瞑想などしていても、まだそこに繋がるようなことはぜんぜん出てこないのですね。ですが、今日、学校の仕事で、あっと思うことがありまして。。。
障害を持った小学生の介助をしているのですが、今日、パニックを起こして感情のコントロールができなくなった男の子(小学5年生)が私に襲いかかってきまして、いきなり平手でほっぺたを殴られたのですね。以前、私の顔に唾をはきかけてきた子です。
この子がパニックを起こすと、そういうことをするというのは頭では十分に理解しているのですが、いざ実際に自分が殴られると、頭と心はばらばらというか、感情が理性を奪ってしまうというか。。。
今回もまた一瞬頭が真っ白になって、自分が想像していなかったほどの怒りが込み上げてきてしまったのです。
今回は、すぐに冷静さが戻ってはきましたが。。。
この子には、よくそういうことをされるのです。
私が今までの人生の中で経験したことのないような屈辱的な行為。
胸をわしづかみにされたり、人前で服を脱がされそうになったり、私の前でズボンとパンツをおろしてニヤニヤと笑っていたこともあります。
私はそのたびに怒りが込み上げ、自分の感情が一瞬コントロールできなくなってしまうほど動揺してしまうのですね。
この子に出会って、私の中にこれほどまでの怒りがあるということを始めて知りました。
落ち込んだりしたこともありましたが、ある時から、この子は私の中にある自分でも気が付いていない怒りの存在を教えてくれるために目の前に現れた子、そう思えるようにもなってきました。
そして今日、またそのようなことがあって、ふとお腹のネガティブが頭に浮かんできたのですね。
もしかしてこのお腹のネガティブは、怒り?今まで抑え込んできた怒りの塊?
そう思ったら、幼いころから今までのさまざまな出来事が走馬灯のように頭の中にぐるぐると思いだされてきました。
自分はあまり怒りを出すタイプの人間ではないと思っていたけれど、それは怒りを感じていなかったからではなく、もしかしたら人一倍怒りを感じていたかもしれないのに、それを抑えていた。
恐怖心で抑えていたこともあったし、いい子やいい人であるために抑えていたこともあった。それは、もう無意識のうちに。
抑えていることすら気が付かないほどに。
そんなことを思っていたら、自分がみじめで可愛そうでなさけなくて、涙がこぼれそうになりました。
そして「悲しかったよね。悔しかったよね。」
そんな言葉が心に自然に湧いて出て、しばらくこの気持ちといっしょにいました。。。まだ授業中でしたが。(笑)
お腹のネガティブが怒りなのかどうなのか、まだよくわかりません。
この子が私に対してやってくるような屈辱的な行為を、過去生で私は多くの人にやってきたのかな、とそんなことも思いました。
だとしたら、相手の方々はどれほど悔しい思いをし、私を怨んだことでしょう。
そんなこともひっくるめてお腹のネガティブ?
もし本当にそうだとしたら、自分では一生取れないよ、と言われたこともわかるような気がします。
すべてを包み込んで生きていく。。。このメールを書いているうちに、なんだかお腹のネガティブを抱きしめてあげたくなりました。
このメールに対して、こちらから出した返事です。
お腹のネガティブは、もしかしたら宝ものかもね。
自分のなかにあるものを教えてくれる宝ものですね。こんな宝ものを簡単に取ってもらったら、もったいないでしょう。
せっかく存在するのだから、その原因を自分で気づけるといいですね。
まだまだ気づきがいっぱい起きそうですね。
そういう気づけるスタンスが、一番重要なのですよ。
気づきそのものも大切ですが、気づけるスタンスはそれ以上のものがあります。
気づきは単発ですが、気づける状態は常時です。
生きる姿勢そのものです。
常に見守る姿勢で生きることですよ。
五年生の男の子も、お腹のネガティブの塊と同様に宝ものかもしれませんね。
自分のなかにあるものをいっぱい気づかせてくれるでしょう。
必要があって、今、目の前に存在しているのですね。
今あるものは、何でも必要があって存在するということですね。
何も問題はないのですよ。
すべて抱き参らせて生きていれば。
だんだん冷静に戻れる時間も早くなっているし、いい感じですね。今の感じでいいのではないでしょうか。
その後、またTさんからメールが来ました。
Kimiさんに「今の感じでいいのではないでしょうか。」と言っていただけると、とっても安心します。ありがとうございます。
この5年生の男の子は自閉症で、ほとんどコミュニケーションがとれない状態なのですが、学校の先生の中では私のことを一番慕ってくれています。家でも私の名前を呼ぶことがよくある、とお母さんがおっしゃっていました。
以前、瞑想をしている時に、この子が出てきたことがあります。
彼は青年で私とは幼馴染って感じで、どこかの島で5~6頭のイルカといっしょに泳いでいました。
イルカとは友達で、話もできるようでした。
私はイルカと話をすることはできないのですが、彼に付いて海に来た時は、いつも一頭の決まったイルカが私の側にきてくれる。。。
そんな素敵な内容でした。
この男の子は、私に気づきをもたらすために目の前にいる。。。
今は強くそう感じています。とても強い魂なのだとも感じています。
まだしばらくはご縁がありそうなので、まだまだいっぱい気が付かなければいけないことが私にはあるのでしょうね。(笑)
人は、自分のなかにヘンなものがあると言われると、すぐに排出しようとします。
霊能者に取ってもらったり、手術をしたり・・・それは、癌と似ています。
いらないものは、排除しようとするのです。
いらないものは取ってしまって体外に排出すればいい。
というのが、一般的な考え方です。しかし、本当にいらないものでしょうか。
いらないものが、本当に存在するでしょうか。
癌を手術で取り去っても、また別のところにできたりします。
原因をそのままにして結果だけをいじっても、本質的な解決にはなりません。心身のネガティブな塊も同様です。
霊能者に取ってもらっても本質的な解決にはならないのです。
その原因がわからなければ、また似たようなものができてしまいます。
その原因が、怒りや恐れや憎しみであった場合・・・塊を取り去ったとしても、自分自身のパターンに変化はありません。
そのうちに、また塊ができてしまうのです。
大切なことは、塊を通して自分のパターンに気づくことです。
自分の傾向やこれまで溜め込んできたもの。自分の反応パターン。
そういうものに気づくための塊なのです。
それを人に取ってもらったら、せっかくの気づくチャンスをなくしてしまいます。
自分のなかにシコリや塊があることは、何らかの不自然なものがあるというメッセージです。せっかくのメッセージに気づくことなく排除すれば、メッセージの意味がありません。
今目の前にあるものは、すべて意味があるのです。
それを無視しないで、丁寧に感じていくことですね。
いやなことを排除しないで、いやなことこそ大切にすることです。そこに宝が眠っています。
それらは、すべて自分に気づくきっかけです。
排除しないで、すべてを気づいていこうとするスタンスがとても重要です。
個々の気づきも大切ですが、気づき自体は単発のものです。その気づきをもたらす心の状態。
それこそが何にも増して重要なのです。
それは、生きる姿勢です。
すべてを抱(いだ)き参らせて生きるスタンスです。嫌なものを排除しないのです。
すべて包み込むのです。
そこからでないと、愛や慈悲は生まれません。
自分に都合の悪いものを排除する生き方からは、我が儘や自己中心が生まれるだけです。気に入らないものはすぐに排除しようとするのは、自分本位です。
違和感を感じるものを排除しようとするのは、自分勝手です。
しかも、自分で取り除くのではなくて、人に取ってもらおうとするスタンスは極めてイージーです。
物事の本質を見ないで、表面だけで生きている証拠です。目の前の現象だけを取り繕おうとしているのです。
その原因や本質を見ようとしないのです。
ほとんどの人は、目先のことだけを見て生きています。
なぜそんなことが言えるのかというと、今の社会がそういう社会だからです。見てくれだけの農産物。
毒とわかっていながら、農薬を大量に使うのです。
長期保存や見栄えをよくするための合成保存料や合成着色料。
熱が出たら、すぐに薬で治そうとします。原因を見ないで、症状だけを治そうとするのです。
それこそが、イージーで浅はかな生き方です。
もっと一つ一つの本質を見ながら生きないと・・・
排除からは、深さは生まれません。深さが生まれるのは、見守って理解する時だけです。
その見守るスタンスが、何にも増して貴重なものなのです。
それは、自我を超えています。
個ではなくて、全体です。色ではなくて、空なのです。
自我ではなくて、愛なのです。
そういう生きるスタンスについて、延々と書いています。
個々の気づきも大切です。自分自身に気づいて成長することは、楽しみでもあります。
しかし、それはまだ自我の範囲内です。
今の精神世界の傾向は、ここまでです。
自己実現や自己成長。あくまで自己が大切なのです。
それは、まだ自我の範疇を出ません。
アセンシヨンにしても、似たようなものです。
単に一段階次元が変わるだけのことです。それ以上の意味はありません。
見守りは、それらを遥かに超えています。
自我の範疇の外にあるのです。
それこそが、絶対安心につながる道なのです。始まりも終わりもない意識の状態です。
宇宙に広がる意識です。
最も重要なのは、生きる姿勢です。
生きるスタンスなのです。見守りのなかにすべてがあります。
存在するすべてのものを抱き参らせて生きるのです。
『違和感の あるものすべて 意味がある 自分自身に 気づくきっかけ』
『目の前に 起きてくるもの 何であれ 必要あって 起きていること』
『気づきとは 日々の暮らしの なかにある 日常こそが 気づきの舞台』
『見守りは 時空を超えて 自我超えて 空の領域 愛の領域』
『見守って いろいろ気づき 理解して 抱(いだ)き参らせ 生きる人生』
これが日記を書き始めて2722日目の心境。
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