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アフリカ出身のサムライ 弥介(弥助)
歴史家・作家 加来 耕三
腕力を認められ
信長に仕えて
数奇な人生をたどる
〝本能寺の変〟のおり、織田信長—信忠父子を弑逆した叛臣・明智光秀のもとに、つれてこられた一人の黒人がいた。
名を弥介(弥助とも)といい、出身はポルトガル領の東アフリカ(フランソワ・ソリエ著『日本教会史』)で、むろん、光秀も弥介をよく知っていた。
本来は信長の従者であったが、弥介は信長のお伴で本能寺に宿泊していながら、光秀が責めかかるやそのことを、信忠のもとに知らせるべく、二条御所へ駆けつけ、そのまま籠城戦に参加したのであった。
「——相当長い間戦ってゐたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差し出せと言ったのでこれを渡した」(「一五八二年の日本年報追加」・『イエズス会日本年報』所収)
弥介を捕らえた、との報告を受けた光秀は、「黒奴は動物で何も知らず、また日本寺ではない故これを殺さず、インドのバードレ(イエズス会の司祭)の聖堂に置け」(同上)と命じ、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが天正九年三月十一日(西暦一五八一年四月十四日)に本部へ送った年報に出ている。
この年の二月二十三日、イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーニ(ヴァリニャーノ)が、個の折も宿舎として本能寺に、信長を訪ねたおり、一人の黒人を連れていた。
これは信長の要望であったようだ。既に京の都では、黒人を見物するため、負傷者や死人までが出る騒ぎとなっていた。
初対面の信長は、容易に黒い肌を信じられず、帯から上の衣服を脱がせ、洗わせたという。そのことは宣教師ロレンソ・メシアが記した書簡にもあり、『信長公記」(太田牛一著)には、「歳の齢廿六、七と見えたり、惣の身(体中)の黒き事牛のごとく。彼男すくやか(健やか)に器量なり。しかも強力十の人に勝れり」とあった。
「——信長自身も観て驚き、生来の黒人で墨を塗ったものではないことを容易に信ぜず、縷々これを観、少し日本語を解したので彼と話して飽くことなく、また彼が力強く、少しの芸ができたので、信長は大いに喜んでこれを庇護し、人を附けて市内を巡らせた」(前出「一五八二年の日本年報追加」より)
信長は二月から三月にかけて行われた、武田勝頼の甲州への侵攻作戦にも、弥介を従えていた。
弥介を見た信長の盟友徳川家康の家臣・松平家忠は、「身ハすミ(墨)こコトク、タケハ六尺二分(約一メートル八十二センチ)、名ハ弥介」と日記に書き留めている。
ところがフロイスの『日本史』に、弥介のその後は語られていない。キリスト教を布教しながら、奴隷を売り買いしていたことを、フロイスは知られたくななったかもしれない。
弥介の消息はようとして知れないが、本人にとって満足のいく生涯であったことを、切に祈りたい。
※文中、引用文に現代の通念から見て差別的な表現が見られますが、時代背景を考慮し、そのままとした。
かく・こうぞう BP )、『幕末維新の師弟学』(淡交社)など。
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