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午後上映分のチケットを持って、午前の上映の時間に会場のメデイアテークに出かけた。月の最終週は金曜夜デモが一回だけ日曜昼デモに変更されるのだが、それをすっかり忘れて午後のチケットを予約してしまったのだ。回数が浅い月1の日曜昼デモはまだ習慣として私の身にはついていないのである(単に忘れっぽいということだけど)。おそるおそる申し出て、変更を認めてもらったのである。 福島県双葉町は、東京電力福島第1原子力発電所から3kmほどのところに位置し、原子炉のメルトダウン、建て屋の水素爆発事故によって全町避難を余儀なくされた町で、町民のうち1200人ほどが役場機能とともに埼玉県加須市の旧・騎西高校(廃校)に避難する。「フタバから遠く離れて」は騎西高校で避難生活を続ける人々を記録した舩橋淳監督によるドキュメンタリー映画である。 映画のどのシーンをとっても胸を締め付けられる思いがする。たとえば、90才になるおばあさんが「ここでは死にたくないね。まだもう少し生きられる気がするから。」というシーンがある。顔に微笑みを浮かべながら語るのだ。 しばしば人は「畳の上で死にたい」という。この畳は廃校の体育館に敷かれた3枚の畳のことではない。一軒家であれ集合住宅であれ、家族が暮らす家の畳である。つまり〈ホーム〉と呼びうる場所のことである。そこであれば、畳でなくても、たとえ筵の上でいいのだ。ホームはまた故郷にあって輝きを増すのである。 新しい居住先を定めて避難先をあとにする人がいる。ある家族は、「帰れないなら、どこでも暮らしは一緒だ」と、避難先に近い公団住宅を暮らしの場に定める。ある家族は、「できるだけ双葉町に近いところがいい」といわき市に引っ越す。人それぞれなのだ。 避難町民として括られてはいるが、本来はそれぞれの人生観とそれぞれの家族としての思いを持つ多様な人々なのだ。いったん、このような事態になってしまえば、どのような政治も行政もこの多様性をすくい取ることは不可能なのだ。 浜通りの人々が「ふるさとを返せ」、「絶対にふるさとに帰るぞ」というシュプレッヒコールをあげながら霞ヶ関でデモをする。デモが終ったあと、ビルの階段で休息を取りながら「もう帰れないって分かってる。それでも、帰るぞって言うしかないんだ」と語る人がいる。「自民党(の国会議員たち)は何でそんな俺たちに拍手するんだ。おかしいよ」。そうだ、明らかにおかしい。放射能によって故郷を追い出された人々、絶望を希望があるかのように語るしかない人々に、どんな神経が拍手を許すのだ。 自民党にせよ、事故時に政権を担っていた民主党にせよ、政治家が登場するシーンはどうしても私には醜悪に見えてしまう。事故後だけではなく、事故以前も含めて原発をめぐる政治家のありようが私をそのような心性に陥らせるのだ。 警戒区域である浪江で、避難を拒否して酪農を営む男性がいる。「こいつらを死なせない。これは意地だ」という。被爆をしながらの戦いは悲壮であるが、彼が近くにある避難した酪農家の牛舎に案内する。「エサも水もなく、死んで、腐ってミイラになった」、「死ぬまで一ヶ月くらいあっただろう。最悪の死に方だ」と吐き捨てるように語る。 ここは、牛たちのアウシュビッツだ、そう思った。そして、おそらくはそのことに深く絶望的に傷つけられているのは、避難した当の酪農家なのだ、と思うのだ。 「結局、原発誘致は間違っていた」と井戸川克隆双葉町長は語る。「どんなに補償してもらっても、絶対にプラスにはならない」。そうなのだ。父祖代々、あるいは同じ空気を生きる共同体の一員の家族として生き続けてきた、その〈故郷の全体〉を失ったことを補償できるものなんて存在しない。「不可能な交換」(ボードリヤール)なのだ。「一般的等価物」(ジャン=リュック・ナンシー)が存在しえないものこそ、原発が奪ったものなのだ。原発をたずさえた人類は、思想や哲学が応えることのできない領域に踏み込んだのではないか。 しおたれた気分で会場をあとにして、脱原発デモの集合場所、錦町公園に向かう。吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず 寺山修司 [1] そういえば、タバコを口にしながら望郷を語る二人のおばさんのロングショットもあった。 風があるが日射しは柔らかい。 (2013/4/28 13:49) さすがにゴールデンウィークである。いつもの昼デモでは増えるはずの子連れのファミリーが見えない。こんなことを言ったら叱られそうだが、遊びに行く当て処がない私のような人ばかりなのではないか。 若い人がスピーチで、若い参加者が少ないことを申し訳ながっていたが、若ければ若いほど遊びたいだろうし、遊ぶ意味がある。「肝心なときに出てきてくればいいよ」などと年寄りは思うのである。 脱原発犬の大あくび。 (2013/4/28 13:51) ちょっと風が強い。横断幕を二人で持ったが、風に煽られてちょっとつらい。前で持つ人は、今日が初めての参加で簡単なスピーチをした。後ろ姿に見覚えがあったので前に回って確認したら、以前はよく一緒に釣行したことのある知人だった。釣好きで、かつ反原発というのは珍しいのではないか。あまり知合いにそんな人はいない。 風が強くて四苦八苦していたら、見かねて助けてくれた人がいて、3人で横断幕を持って歩いた。 青葉づく定禅寺通のけやき並木。 (2013/3/28 14:18) 風が強くても春の暖かさである。定禅寺通のけやきの若い青葉が光っていて美しい。仙台は、たぶん、この時期がもっとも美しい季節だと思う。少なくとも私にとっては一番である。こんな季節には、自然が優しくて、強い決意や意志がなくても十分に生きられそうな気がするのだ。掌(て)にうける早春の陽ざしほどの生甲斐でもひとは生きられる 伊藤桂一「微風」部分 [2] 一番町を抜け青葉通に入って地下鉄工事の場所を過ぎると、やはりケヤキ並木の青葉が光っている。定禅寺通と青葉通のケヤキ並木は「杜の都」を自称する仙台の象徴的な緑である。 青葉通のケヤキも文字通りの〈青葉〉に。 (2013/3/28 14:43) 春の風が吹いている。それなのに「フタバから遠く離れて」を見たあとの心のささくれのような感じがなかなか消えない。ただ風ばかり吹く日の雑念 尾崎放哉 [3] [1] 『寺山修司全歌集』(講談社 2011年)p. 43。[2] 『「日本現代詩文庫6 新編・伊藤桂一詩集」 (土曜美術社出版販売 1999年)p. 24。[3] 『尾崎放哉句集(一)』(春陽堂 平成2年)p.58。
2013.04.28
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散歩がてら大梅寺に行くのは難しいが、蕃山ハイキングコース入口にあるこの寺はとても特徴的だ。句碑と、羅漢石仏であふれている。 Photo A 県道脇の大梅寺入口。 (2013/4/25 7:41) 蕃山から西風蕃山、蛇台蕃山へとハイキングに行ったついでに寺内を少し歩いてみた。国道48号線から折立で生出、川崎に向かう県道31号線に入ってすぐ右手の山裾に大梅寺がある。県道脇に数台の車が駐車できるスペースがある。 Photo B 石彫りの阿吽像。 (2013/4/25 10:58) 古い石積みの階段を登っていくと、石彫りの1対の仁王様、阿吽像がある。迫力のある石仏である。右手の阿像の後ろには「暖簾塚」があって、仙台の会社、商店の有名どころが名前を並べている。吽像の後ろには「郷土句抄」の碑があって、仙台弁で作られた俳句が掘られている。その第1句目は「見ろまづや 今朝のたろひの太いごと」、岡さんという人の句である。「たろひ」は「垂氷(たるひ)」のなまった言葉で、「つらら」などという今出来の言葉とは比較できない由緒正しい日本語である。 Photo B 参道脇には羅漢様が整列。 (2013/4/25 10:56) さらに石段をあがるのだが、その脇にはいろんな表情を見せる石仏(たぶん、羅漢像)が左右に並んでいて楽しい。石段を登り切ると八重咲きのしだれ桜が花を付けていて、その向こうに2本の太い幹を立ち上げているヒヨクヒバが威容を見せている。どちらも仙台市指定樹木らしい。 Photo D 仙台市指定樹木のヒヨクヒバの大樹。 (2013/4/25 10:54) ヒヨクヒバの前を左に行く小径があって、道脇で羅漢様が日向ぼっこをしている。中には碁を打っている羅漢様もいるが、その表情は真剣に勝負をしているようには見えないのだ。 Photo F 何体もの羅漢様が春の日射しを浴びて。(2013/4/25 10:53) その小径から階段へあがる手前の掘割りにミズバショウとリュウキンカが生えていた。蕃山からのきれいで冷たい湧き水が流れているのだろう。 Photo G リュウキンカとミズバショウ。(2013/4/25 10:52) 掘割りの小橋を渡って階段を上がり、振り返ると庭が眺められる。(Photo H)。やや広い道に出て、右手はさらに山手に登る道だが、左手に道を取った。 Photo H 大梅寺の庭。 (2013/4/25 10:51) Photo I 句碑いろいろ。 (2013/4/25 10:52~58) その道の脇にもたくさんの句碑があって楽しめる。。少し進むと蕃山ハイキングコースの道と交差する。蕃山への登り口には宮城を代表する俳人、阿倍みどり女の「蕃山へ登る口あり冬の寺」の立派な句碑がある。 その奥は墓地になっていて、その入口に「内蒙古関係者合同慰霊碑」がある。これは、昭和初期に内蒙古自治政府を樹立し、それを助けた日本政府、軍関係者が先の戦争終結に向けて敗北し、その関係者が多く戦死したことから、その犠牲者を慰霊するものであるらしい。 Photo J 太平洋戦争時の内蒙古関係者慰霊碑。 (2013/4/25 7:51) 今日は時間がなくて、寺域の半分ほどしか見ていない(と思う)が、句碑と羅漢像がたくさんある珍しい寺である。私にはたしかに好きな俳句、好きな俳人があるが、俳句一般が特に好きだいうわけでもない。しかし、この寺は俳句好きにはたまらなく楽しい場所なのではないかと思う。 大梅寺近辺Map(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。(写真の撮影時間と歩いたコース順が逆になっている。蕃山から降りてきて大梅寺の裏手から寺域に入って写真を撮ったのだが、文章は山門からまっすぐ寺に入ったような順序で記述した。)
2013.04.25
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(続き) Photo G 蕃山開山堂、倒壊した石灯籠と石碑。(2013/4/25 8:47) 展望所から「栗生経由国道48号(落合橋)」への分岐を過ぎて頂上へは3分もかからない。蕃山開山堂は、雲居禅師が開山である大梅寺の奥の院でもある。由来記によれば、雲居禅師は松島瑞巌寺の開山で、後にこの地で庵を結び、没後蕃山頂上に葬られた。墓石は建てられなかったが、伊達綱村(4代仙台藩主)によって墓の上にお堂が建てられ「常寂光塔」と名付けられたという。つまり、このお堂は、雲居禅師の墓でもあるということらしい。 お堂の前には、一対の石灯籠と寺の由来を刻んだ(らしい)古い石碑があるが、とも倒壊している。3・11大地震の爪痕がここにもある。 Photo H 蕃山頂上からの眺め、仙台市南部(太白区、若林区)の 向こうに太平洋。 (2013/4/25 8:47) 蕃山頂上は南東の1部の眺望が開けている。春霞で判然としないが、遠く太平洋まで眺められる。春はハイキングにはいい季節だが、遠望という点では秋や冬にはかなわない。低山の雑木林は冬がふさわしいかもしれない。吉野弘の詩の感じも強くするだろうし、見通しの良い林は山の地肌の直感的な把握に適している。「山は冬に歩け」とは、若いころ奥深い山里に住む人に教えられたことだ。山の地理を頭にたたき込む必要のある人の必須事項なのである。 左:センボンヤリ。右:フデリンドウ。 蕃山からその先、西風蕃山へ向かう、西風は「ならえ」という、などと偉そうなことは言えない。ずっと、「ならい」と思い込んでいたのだ。蕃山頂上から狭い尾根筋を辿っていくと小さなピークに送電鉄塔が立っていて、その近くの道標に「西風蕃山に至る 0.33K」という道標があって、そこに「ならえ」というふりがながあった。それで、今日初めて正しい呼び名を知ったのだ。 尾根筋には、カタクリ、ショウジョウバカマ、イワウチワなどが咲いていた。急斜面に咲いているショウジョウバカマとイワウチワをまとめて写したが、斜面に逆さになるような姿勢で写したせいか、まるっきりのピンぼけだった。 たった一つ見つけた小さいセンボンヤリがとても美しく思えるのも、花が少ないせいだろうか。フデリンドウも写真のものを一つ見ただけである。このフデリンドウは葉に黄色の斑が入っている。フデリンドウは2年草らしいので、斑入りの葉を持続するのは難しいだろう。多年草や宿根草のように栄養繁殖ができるのなら園芸品として珍重されるかもしれない。我が家の庭には、白覆輪の葉を持つチゴユリが生えている。30年以上も前に雑木林で見つけたものがずっと育っているのである。 Photo I 二つの電波塔の間に小さな西風蕃山頂上標。 (2013/4/25 9:16) 西風蕃山の頂上は、二つの大きな電波塔のあいだにひっそりとある。東の電波塔は建てたばかりらしく、周囲は裸地になっていて50cmくらいの苗木が1面に植えられていた。何の苗か全部見たわけではないが、少なくとも数本は桜も木のように見えた。 さて、西風蕃山から蛇台蕃山へ行きたいのだが、蛇台蕃山の名がある案内表示はない。西風蕃山の頂上にいるつもりなのだが「西風蕃山を経て栗生に至る」という表示板がある。もうひとつ「白滝不動尊に至る(戸内)」という表示があったので、その途中に蛇台蕃山があるのだろうと思って歩き出した。ところが、地図で見当を付けた蛇台蕃山の峰から逸れていく。Mapにみえるループ状の軌跡は、間違いに気付いて別の道を戻った跡である。なんとか、目で見える蛇台蕃山に向かうとおぼしき尾根道が見つかった。 尾根筋を辿っていくと道は急坂になって、そこが頂上だろうと張り切ったのだが、それは偽ピークで道はまだ続くのだった。どうも蛇台蕃山の名の由来は、西風蕃山からいくつかの小ピークをうねりながら連ねている山体にあるらしい。 頂上に着くと「蛇台山」の頂上標がある。これまでのほとんどの道標は仙台市が設置したものである。どうも、蛇台山は仙台市が考える「蕃山ハイキングコース」には含まれていないらしい。頂上には手製の矢印道標があって「黒滝不動 弥勒寺へ」とある。 Photo J 蛇台蕃山山頂。 (2012/9/7 9:31) 大梅寺口から蕃山まで1.86 km、蕃山から西風蕃山まで1.06 km、西風蕃山から蛇台蕃山までの距離表示はなかったが地図からはおおよそ400 mと推定できる。全体で3.3 km、1時間45分の行程だった。あとはひたすら引き返すのである。 Map蕃山 A~Jは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」、 歩行軌跡は、「GARMIN GPSMAP60CSx」によるGPSトラックデータ。 [1] 『吉野弘詩集 幻・方法』(飯塚書店 1959年)p. 45。[2] 『日本の古典54 芭蕉句集』(小学館 昭和59年)p. 47。
2013.04.25
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権現森から眺める蕃山の山並み。 (2012/9/7 10:36) 山歩きにはとてもいい季節になった。なんとか今日になって今年初めての山入りである。じつは、昨日は仙台市立図書館へ行って本を借り、今日はのんびりと読書の予定、山歩きは金曜のはずだった。朝の散歩の途中、スマホで天気予報を確認したら、天気の崩れが早まって金曜の昼は雨という予報に変わっていた。予定変更である。慌てて自宅に引き返し、簡単に朝食をかき込み、助手席に連れのイオを乗せて出発した。 シーズンはじめは、体力確認が第1である。低い山、短い歩きから始めなければならない。年々、初めて歩く山の標高は低くなっていく。そうした準備のため、昨年は意識的に里山を歩いて、いくつかの候補を探してもいたのである。 加えて、相棒のイオは12才となって立派な老犬である。どれほど歩けるのか、こちらも慎重に調べて無理をさせないようにしなければならない。老老の連れの山歩きはなかなかに手続きが難しい。 さて、今年の初めての山は、近くの蕃山である。自宅から青葉山トンネルをくぐれば、すぐそこに蕃山がある。ずいぶん昔に1度歩いたことがあるが、ほとんど記憶がない。たぶん、シュンラン探しで歩いて何の収穫もなかったのだと思う。それに、以前は里山をわざわざ山歩きの対象と考えることはほとんどなかったということもある。 広瀬通からまっすぐ西へ、2階構造の仲の瀬橋の下の橋から青葉山トンネルをくぐって高速入口を過ぎ、すぐに「生出、川崎」方向に折れれば大梅寺である。大梅寺参道の途中から蕃山に入るコースである。 Photo A 「蕃山へ登る口」。 (2013/4/25 7:49) 古い石積みの階段を上がっていくと、「山道を登りながら、こう考えた」と始まる漱石の「草枕」の有名な冒頭の1節を刻んだ石碑が現われる。続いて「山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉」の石碑である。あまりにもふさわしすぎて、気恥ずかしいくらいである。 右手に「蕃山ハイキングコース入口 仙台市」の石標があらわれ、大梅寺の参道と分かれる(登山コースではなくてハイキングコースというのが今日の私たちには大切である)。杉林を少し登ると小さな十字路になっていて、右に大梅寺、左に墓地への道と交わっている。何となく、ここまでは寺域で、ここから本当のハイキングコースが始まるという雰囲気である。「蕃山へ登る口あり冬の寺」というぴったりの阿倍みどり女の句碑が建っている。 Photo B(左) 急な階段道。 (2013/4/25 7:49) Photo C(右) 明るい雑木林。 (2013/4/25 8:06) 道の真ん中に太いロープの手摺のある立派な階段道(Photo B)を登るのだが、イオが右に左に行くたびにザックに繋いであるリードを外さなければならないという面倒な道でもある。 急な階段を登りきれば、あとはゆったりした起伏の尾根道(Photo C)である。地図で見ても東西に長い山稜の東端から西端へ歩くようなコースになっている。 左:マキノスミレ。右:ナガハシスミレ。 山道を歩きながら春の花を探すのだが、思っていたよりはるかに少ない。ポツポツと小さなスミレがある。最初に見つけたのはマキノスミレ、つぎにナガハシスミレが現われた。じつのところ、スミレの種類はなかなか同定しにくい。写真に撮って、家に帰って図鑑を見て、それでも決められないこともある。まぁ、たぶん「マキノスミレ」と「ナガハシスミレ」だろう、という程度である。 ハイキングコースの石仏(地蔵菩薩)。 ハイキングコースには、所々に地蔵菩薩が安置されている。この道は蕃山頂上にある大梅寺の奥の院、開山堂への参道でもあるということだろう。なかには頭部のかけたものもあったが、5体の石仏を見かけた。これですべてかどうか分からないが、Mapにその位置を示してある。冬枯れのこずえに うっすらと緑が走り樹木がそのすべてを少しのためらいもなく春にゆだねようとしているのを見るとそのすばらしさに胸をうたれるそして気付く。ぼくらの季節があまりにも樹木の季節と違うことに。 吉野弘「名付けようのない季節」部分 [1] 葉がまだ萌えだしていない雑木林を透かしてみると、遠くに青葉山丘陵が見え、その尾根筋に宮城教育大学や東北大学の建物群が霞んでいる。このあたりになると、足下にカタクリの花が点在しはじめる。この時期の低山歩きでは、カタクリの群生を見るのは珍しくないので、なんとなくこの山の花の少なさが気になる。 Photo D(左) 岩の道。 (2013/4/25 8:26) Photo E(右) 電波反射板。 (2013/4/25 8:34) 道が少し急になると、岩の道である。切れ目のない大岩を剔って進む道である(Photo D)。岩道を過ぎて5分ほどのところに地蔵尊があって、その背後に、白い長方形の板状の建造物が見える。「建設省東北地方建設局」設置の「反射板」という説明があった(Photo E)。電波の反射板である。電波を反射させて通信用に使うというのは、電波の中継基地などと比べればなんとなく原始的な手法にも思えるが、途中で中継増幅されずに小さな反射板から反射された(つまり、極端に減衰した)電波を受信するのはそれなりに難しいことだろう、などと余計なことを考えながら、折立団地へ下る分岐を過ぎると南が開けた狭い展望所が現われる。 Photo F 展望所から南、太白山が見える。(2013/4/25 8:44) 展望所からは太白山とその山に広がる団地(人来田、ひより台、山田自由が丘など)が見える。太白山はどこから見ても三角形でよく目立つ印象的な山である。太白山以外の遠くの景色は春霞でぼんやりとしている。「すみれ草」の句も悪くはないが、こんな日は次のような句が似合っている。春なれや名もなき山の薄霞(うすがすみ) 松尾芭蕉 [2] (以下、続く)
2013.04.25
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花冷えである。数日前には25℃を超える日もあったのでことさら寒く感じる。それでも通りかかった西公園には大勢の花見客がいる。 そういえば、現職だったころ、研究室にたまたま九州出身の院生が三人いて、そのうちの二人がダウンコートを着て研究室の花見に現われたことがあった。そんなに寒くはないだろう、などとからかっていたのだが、いまや私もダウンジャケットを引っ張り出したいくらいだ。南国生れの若かった彼らと、北国生れだが老いた私との耐寒力が今やほとんど同じになったということらしい。 その二人も、一人は九州へ帰って役所勤め、一人はフランス系企業に勤めて今はアメリカ暮らしである。送られてくる家族写真を見ると、子どもがおどろくほど父親そっくりなのについ笑ってしまう。 すこしずつ 幻のように狂ってきた(桜に雪降り)(木蓮に 辛夷に雪降り)どこからか不気味な物音がするただ簡明率直を心がける二分三分 花 ひらきはじめ好天二日 小雨降りはじめる 渋沢孝輔「依るに因無し」部分 [1] 雪が降るほどではないが、天候の変化、不順が体にこたえるようになった。風邪を引く回数が増えたような気がする。しかし、今日はたぶん防寒は大丈夫。西公園の花見の賑わいを横目に勾当台公園へ。 冷え込んでいるが、もうあれだけの人が。 (2013/4/19 18:11) 定刻の6時に10分ほどの遅れで野外音楽堂の前に着いた。毎週決まった時間に、決まった場所で比べていると、日が長くなっているのがよく分かる。規則正しい生活を送れば、特別なことなしに季節感を十分に味わうことができる。そんな当たり前のことを考えながら、スピーチをぼんやりと聞いていた。 「今日初めて参加された方は?」という問いかけに応える人はいなかった。何回も見かけた顔が多いのは確かだが、見知らぬ人もいるように思ったのだが、そうではないらしい。さすがにこれだけ回数を重ねると初めての人がいなくなるのは当然なのかもしれない。 困った司会者が「これまで1度もスピーチをしなかった人は?」と振ったが、これにも誰も応えなかった。スピーチをしていない人はたくさんいるだろうが、これに手を挙げるのはどうしたって難しい。少なくとも私は手を挙げられない。 市役所前の広場から一番丁へ、左折。 (2013/3/22 18:39) 6時半、定刻にデモは出発した。これまでは、電飾で明るい一番町に入るまでは暗くて写真が撮れなかったのだが、今日は何とか写っているようだ。左手に横断幕(縦に持って歩いたが)、右手にタブロイドPC、それでも写真が撮れるのは、小さなデジカメの功である。 告知の一つは、「二年後の福島--母親と医師が語る現実と希望」と題した東北大学学生自治会主催の新入生歓迎講演会 [3] 、もう一つは「大間原発反対! 仙台集会」 [4] の案内であった。大間原発といえば、三週間ほど「あさこはうす」 へハガキを出し忘れていた。「あさこはうす」へ通じる道を閉鎖する動きがあって、郵便配達を含めた生活道路であることを形に顕わしていかなければならないということで、「大間原発建設地にある「あさこはうす」に手紙を送ろう!」という呼びかけがされている。明日にでも一枚送ることにする。 一番丁アーケード街、まもなく青葉通り。 (2013/3/22 18:58) 一番町では、シュプレッヒコールに唱和する若い人をよく見かける。合わせやすいリズムに乗っかっているだけかも知れないが、うれしいことではある。 デモが終れば、また花見で賑わう西公園を通って帰るのである。たぶん、今年も我が家では花見はしない。車椅子の義母を押して、仙台城址界隈で毎年花見に出かけていたが、最近はそれも難しくなった。義母はこの3月で109歳になり、長時間の車椅子を嫌がるようになった。それで、最近は車で走りながらの花見だけである。さいわい、自宅の近所にたくさんの花見スポットがあるので、それなりに義母は喜んでいるようだ。なければないで、さくら咲きさくら散る 種田山頭火 [2] [1] 『渋沢孝輔全詩集』(思潮社 2006年)p. 512。[2] 『定本 種田山頭火句集』(彌生書房 昭和46年)p.165。[3] 新入生歓迎講演会「二年後の福島--母親と医師が語る現実と希望」 4月26日(金)17時から、東北大学川内北キャンパスC304教室。 講演者:佐藤幸子さん(子どもたちを放射能から守る福島ネットワーク 代表)、布施幸彦さん(ふくしま共同診療所医師)。 東北大学学生自治会主催 (問い合わせ:090-7015-9622、tohoku_USC@hotmail.com)[4]「大間原発反対! 仙台集会」 5月11日(土)14時30分から、仙台市民会館2階第4会議室、 参加費500円。 講師:中道雅史さん(大間原発反対現地集会実行委員会事務局長)。 「とめよう戦争への道!百万人署名運動宮城県連絡会」主催 (問い合わせ:Tel:022-261-4067)。
2013.04.19
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主催者の挨拶。 (2013/4/5 18:04) 前回の月一回の昼デモは、風邪の熱でお休みだった。今日の昼は、ずっと暖かくなっていたのだが、野外音楽堂のベンチに座っているとじわっと冷えてくる。 いつものように主催者挨拶で始まり、いつも動くプラカードで参加している女性のスピーチに続く。大きなプラカードには反原発を宣言した自治体名がびっしり書き込まれているらしく、司会者がそれを読み上げる。 脱原発宣言をした自治体を書き連ねたプラカードを読み上げる。(2013/3/22 18:08) 続いて、日本山妙法寺のお坊さんたちのスピーチがあった。「〔人類絶滅の恐怖〕の象徴である日本全国に広がる全原発の廃炉解体」を祈る「命の行進」の途中ということだった。 3月1日の浜岡原発から始めて、東海原発、福島第1原発を経て仙台に到着。そのご、女川原発、六ヶ所村、東通原発、大間原発建設地、泊原発、柏崎刈羽原発、志賀原発、敦賀原発、もんじゅ、美浜原発、大飯原発、島根原発、限界原発、長崎爆心地、川内原発、伊方原発、上関原発建設地を回り、8月6日の広島平和公園で終るという壮大な《祈りの行進》だという。 「命の行進」のお坊さんのスピーチ。 (2013/3/22 18:19) その後、石巻での反原発集会の告知があり、4月28日の映画「フタバから遠く離れて」の上映会の告知もあった。 18時30分、定刻通りデモは勾当台公園を出発する。デモの最後尾を《祈りの行進》のお坊さんたちが歩くのである。少し、敬虔な気分のデモであった。 最後尾の《祈りの行進》のお坊さんたち。(2013/4/5 18:46)
2013.04.05
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