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旧奥州街道(陸羽街道)が仙台城下を北に抜けていくあたりに北仙台がある。ただし、北仙台という地名はなくて、JR仙山線の駅名、古くは市電の北のターミナルとしてよく知られている呼称だ。 Photo A(左) 駐車場から奥州街道を北へ。 (2014/7/29 5:20)Photo B(右) JR仙山線の「陸羽街道踏切」。 (2014/7/29 5:22) 旧奥州街道は、市街中心部の国分町通、その北に続く青葉神社通から続いている。車でその道を進むと、青葉神社前で道は右に曲る。JR仙山線「陸羽街道踏切」が見え出すあたりにあるコインパーキングから今朝の散歩を始める。Photo C 堤町の坂道。左は日浄寺への参道。 (2014/7/29 5:24) 踏切を越えると短い桜並木があり、掘のような梅田川を渡って、朝日が正面から射す堤町の坂道を上がる。坂道を上りきり、地図の神社マークを頼りに左の細道に入る。住宅地の真ん中に鳥居と社殿、3台の車が駐っているだけの広場があった。堤町天神社は、あっさりと素っ気なく建っていた。Photo D 「つつみのおひなっこや」と「佐大商店」。 (2014/7/29 5:31) 堤町天神社から奥州街道に戻り、少し歩くと堤人形と松川ダルマの店「つつみのおひなっこや」がある。松川ダルマは仙台張子の一つで、前面が青色、背面が赤色の珍しい縁起物である。 その隣は、陶磁器の「佐大商店」がある。この一帯は、かつての「堤焼」陶器の産地で、佐大商店も窯元の一つだった。35年ほど前、趣味の東洋蘭栽培を始めた頃、日本春蘭用の蘭鉢を求めにこの店に数回訪れたことがある。そのとき、裏山の登り窯も見せていただいたことがあった。 佐大商店の北の空き地前の立派な看板に「御仲下改所跡(おすあいどころあと)」とあった。藩政時代、仙台城下に持ち込まれる物品の税を徴収する番所跡で、原町(東)、八幡町(西)、河原町(南)、堤町(北)の4ヶ所にあったが、番所跡が判明しているのはこの堤町だけだという。Photo E(左) 台原の道(労災病院へ)。 (2014/7/29 5:38)Photo F(右) 台原の道(続き)。 (2014/7/29 5:40) 「御仲下改所跡」で旧奥州街道から右に外れ、県道22号(旧国道4号)線を渡って台原に入る。この道の正面に東北労災病院が見える。台原はあまり馴染みがないところだが、誰の病気見舞いだったのかすっかり忘れてしまったけれど、前に1度だけ来た記憶がある。Photo G(左) 階段を降りる。 (2014/7/29 5:44)Photo H(中) 細い切り通し。 (2014/7/29 5:45)Photo I(右) 神社の守へ。 (2014/7/29 5:46) 地図上の白水稲荷神社への細道に入ろうとしたが、道先は工事中のフェンスで遮られているように見えたので、脇の道に入ってみたら、うまく迂回できて、階段道を降りると神社への道だった。Photo J 白水稲荷神社。 (2014/7/29 5:47) 急斜面の森の中は公園になっていて、斜面の上方に白水稲荷神社の小さな社殿がある。西斜面のため朝日も差し込まない薄暗い森を抜け、もう一度坂道を上り返して、台原の台地へ上がってみた。 普通の住宅地を通り抜け、国道22号から来た道をさらに東進するとみやぎ生協(COOP)の店舗がある。COOPを過ぎたところで右の細道を覗くと、道の向こうに森が見え、誘われて右折する。Photo K(左) 大きな木立へ。 (2014/7/29 5:59)Photo L(右) 台原風致地区の森の脇道。 (2014/7/29 6:01) 道は曲りながら森の脇を下って行く。道の脇に看板があって、この緑地は白水稲荷神社の森とともに「台原風致地区」に含まれているという。仙台市が定めた風致地区は、他に「北山」、「大崎八幡」、「八木山」、「霊屋」。「愛宕山」、「大年寺」、「安養寺」などがある。Photo M(左) 仙山線陸橋。 (2014/7/29 6:03)Photo N(右) 梅田川の橋。 (2014/7/29 6:05) 風致地区の森脇の道を下りきると仙山線陸橋がある。それをくぐれば梅田川にかかる小さな橋がある。Photo O 上杉山中裏の道を行く一人と一匹の影。 (2014/7/29 6:06) 梅田川を渡った道は、上杉山中学校の裏手の広い道に突き当たる。このような広い道に出ると、なんとなくイオの表情はぼんやりするようだ。立ち止まって辺りを見回しているので、私もいっしょにしゃがみ込んで一匹と一人の影を撮してみたりする。Photo P 「昭和町」交差点。 (2014/7/29 6:08)Photo Q 歩道橋の上で。 (2014/7/29 6:10) 愛宕上杉通りに出て、北仙台に戻るために「昭和町」交差点の歩道橋を渡る。不思議なことに、写真を撮ろうする私の気配に気付くとイオは必ず尻尾を下げてしまう。上の写真はこっちを見た瞬間に撮ったのだが、尻尾が下がり始めている。Photo R JR北仙台駅への通り。 (2014/7/29 6:15) 歩道橋を渡り、県道22号からJR北仙台駅へ向かう道に入る。大きなマンションの前に小さな駅舎が見え、その間を仙山線が走っているとは思えないのだった。Photo S(左) 「仙台浅草」の路地。 (2014/7/29 6:16)Photo T(右) 堤通。 (2014/7/29 6:18) 道の左手の路地があって「仙台浅草」の看板がある。スナックや居酒屋が並ぶ路地だが、「開運十二支の守護本尊堂」と「観音堂」と小さなお堂が二つもあった。さしづめ観音堂は、浅草観音・浅草寺に相当するのだろう。 仙台浅草の路地を出ると堤通で、まっすぐ北に歩けば、コインパーキングである。
2014.07.29
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「今日はいかないんでしょうね。」 「いや、行く。憂さを晴らしに行ってくる。」 妻と話して、家を出る。憂鬱を追い払えるのではないかと期待して、デモに行くのだ。 昨夜、疲れ切って大阪から最終便で戻ってから、酔いたい気分に負けてつい飲み過ぎてしまった。朝からずっと体がぼんやりしていて、元鍛冶丁公園に向かう足はとても重い。「7月27日脱原発みやぎ日曜デモ」集会風景@元鍛冶丁公園ステージ。 (2014/7/27 14:16) 大阪も35℃とか36℃でとても暑かったが、仙台も珍しく早朝から27℃もあって、太陽とともに気温が上がってきた。この暑さのせいだろうが、参加者が少ない。35人ほどの参加者は、日射しを避けて、ステージの下に集まり、集会が始まる。フリートーク中。どちらも音楽家。 (2014/7/27 14:27&14:29) 原子力規制委員会が川内原発1、2号機を新規制基準に適合するという審査書案を提示したことを巡って、このごろ、科学者の〈学〉とか〈知〉、つまりは全人格的な科学者の〈思想〉というものを考えていた。専門的知見を有するとされて選任された委員は、いちおう世間的には科学者として認知されている。 その科学者たちが、自分たちで作った規制基準に適合したとしながら、「安全だともゼロリスクだとも言えない」という、混乱ぶりである。論理的に完全に破綻している。規制委員会は科学者で構成されているということが信じられないのである。 炎天下、元鍛冶丁公園から一番町へ。 (2014/7/27 14:37&14:39) だいぶ前に読んだ本で、科学哲学者ジェームズ・R・ブラウンが次のような一文を記していた。 物理学者は、量子力学は基本的には間違っているかもしれないということを認める。物理学者なら誰でも、まったく予想もしなかったような実験結果が出たり、新しくて深い理論的洞察が得られたりすれば、量子力学が明日にもひっくりかえる可能性があると思っているのだ。もちろん、その新しい証拠をきちんと調べるためには時間がかかるだろうし、これほどみごとな理論をあっさり捨てるのは軽率というものだろう。しかし原理的には、量子力学もまた、天文学における天動説(地球中心説)のような道のりをたどる可能性はあるということだ。 それとは対照的に、キリスト教徒のなかに、キリストの神性にたいする信念を捨てられる者が一人でもいるだろうか? あるいは、キリストは私たちの罪を背負って死んだという信念を捨てることができるだろうか? 神がいっさいをつくったという信念は? 物理学者と司祭との大きな違いは、あつかうテーマの違いではない。その違いは、つきつめれば次のようなことなのだ。物理学者は、現行の物理学の中核的信念をすべて捨てたうえでなお、物理学者でいることができる。司祭は、中核的信念を捨てるなら、司祭をやめるしかない。忠誠は、宗教においては徳である。しかし科学においては罪なのだ。 [1] この考えは、科学(物理学を科学一般と考えてよい)と宗教に関するきわめて常識的な考え方である。〈3・11〉後、福島の悲惨を目にして多くの人は原発の存在そのものに否定的な考えを示した。しかし、テレビで原発について語る原子力工学の専門家や政府関連の委員会の原子力専門委員のなかで、原発の存在を絶対的前提にしない考えを語る人物をついに見かけることはなかった。 彼ら、原子力工学の専門家にとっては、原発はキリスト教徒におけるキリストに等しい絶対的存在らしい。たしかに、原子力工学を学んだ学生が進むべき道は原発を作るか、原発を保守するかしか進路はない。核融合炉という道もあり得るが、いずれ原発と同じ運命をたどることは明白だ。 風が強くて、大きなプラはたいへん。 (2014/7/27 14:41&14:58) ブラウンの言葉に照らせば、原発が信仰の対象のようになっていてその対象を相対的に思考できない原子力の専門家は、科学者ではないということだ。 フクシマ以降、科学者は信用できないとか、政府御用の専門家は信用できないという言葉をいろんなところで聞いた。当然なのである。彼らは科学者ではないのだから、科学者として信用すること自体間違っていたのだ。 科学者としての〈知〉とか〈学〉とかを期待してはならないのである。ましてや、よく言われる科学者の〈良心〉などはないのだ。なにしろブラウンの定義上、彼らは科学者ではないのだから。 一番町を行く。 (2014/7/27 14:44) 科学者に期待できないなどと言いたいわけではない。科学者ならざる原発信仰者としての原子力工学者に期待できないだけである。全人格的にすぐれた科学者はたくさんいる。 残念なことに(当然でもあるが)、そのような科学者は政府委員会には不都合なので、権力機構の中に地位を占めることができないのだ。やはり、子どもが心配。 (2014/7/27 14:47&14:52) 憂鬱をはらしたいとデモを歩いていたが、それほど気分が変わるわけではなかった。ときどき強く吹く風と、青葉通りのケヤキ並木の木陰の快適さに救われるが、疲労が加速的に増えて、足は重くなるばかりだ。一番町から青葉通りへ(藤崎デパート前)。 (2014/7/27 14:55&14:56)炎天から木陰へ。 (2014/7/27 14:59) 7月24日午後8時10分、大阪の病院で姉が息をひきとった。すぐ上の姉だが、私とは9歳も離れている。年の離れた末弟としては、兄姉をすべて見送ってから死ぬのが定めだと覚悟していた。長兄と次兄は、そういう思いで送った。しかし、3人目の姉の死を前にしては、つくづくこんな役回りが恨めしくなった。死化粧をやや笑まいしか釈尼好惺 じっと姉の遺体のそばにいるだけのような2日間を過ごして、仙台に帰り着いたときは、体も心も疲れ切っていた。 久しぶりの日曜昼デモを歩いたが、体の憂さも心の憂さもそのままでデモから帰ってきた。[1] ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか ――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)p. 80-81。
2014.07.27
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仙台で寺町といえば、北山町通りと新坂通りに囲まれた一帯と新寺小路である。元寺小路という地名もあるが、市街中心部に近いためかもしれないが、明治期にはほとんど寺はなくなっていたようだ。 助手席はイオ専用。 (2014/7/21 5:16) 今朝は、新寺小路を歩く。仙台駅南の陸橋をくぐって、新寺小路(今は「新寺通」と呼ばれる)を東に進み、新寺四丁目のコインパーキングに車を停めて、長泉寺横丁を南に歩き始める。Photo A 長泉寺横丁。 (2014/7/21 5:34) 明治44年製作の仙台市全図を現在の地図と対照させて再刊した『仙台地図さんぽ』という本を見ていると、100年前と同じ場所を通っている道がある。長泉寺横丁もその一つである。 歩き始めたあたりは拡幅工事して上下一車線の道である。寺町らしく、歩き始めると、右手のコンビニの後に大林寺本堂の大屋根が見える。その北側には大小のマンションが並んでいる。 曇りの天気予報だったが快晴である。雨で日曜の予定を一日延ばした甲斐があったというものだ。Photo B 参道の向こう、松音寺の山門。 (2014/7/21 5:39) 長泉寺横丁の名の由来の長泉寺という寺はない。伊達政宗の仙台開府以前からの古刹で、仙台築城の際に青葉城からこの地に移ったものの明治初期に廃寺になって、その跡地に松音寺が移ったという。 道から覗く松音寺の参道は、とても雰囲気がよくて、山門前まで入ってみた。いろんな種類の平石を敷いた道も、不規則に按配された植栽もとても自然で、しっとりとしている。何度かここに来ているが、いつも同じ感想を持ってしまう。Photo C 仙台一高前の連坊小路。 (2014/7/21 5:43) 右の松音寺、左の智遠寺、法運寺を過ぎると、長泉寺横丁の道幅は半分ほどになり、連坊小路に出る。連坊小路は、仙台一高付近から極端に狭くなる道だと思っていたのだが、大規模な拡幅工事中だった。現在建設中の地下鉄東西線の駅の工事も合せてやっているらしい。 連坊小路は、かつてこの道の東の先にある国分寺の僧坊が連なっていたことが由来らしいのだが、古地図にはカッコ書で恋慕小路とあって、舟丁あたりの遊郭への通い道だったからという説もあるという。Photo D(左) 連坊小路から長町通りに入る。 (2014/7/21 5:46)Photo E(右) 住宅地の細道(長町通り)。 (2014/7/21 5:50) 同じ古地図によれば、仙台一高の東面の道は「長町通り」となっている。長町からずっと離れた地だが、市街中心部から長町に行く際の近道として使われたのがその由来だという。この道も明治期と全く同じ場所、おなじカーブで残されている。 長町通りを新寺小路に向かって北上する。道は車1台がやっとで、逆方向に一方通行に規制されている。住宅地の道である。長町通りから左の道に入って、大徳寺の山門を見てから新寺小路を渡った。Photo F(左) 新寺小路緑地の東端。 (2014/7/21 6:00)Photo G(右) 長泉寺横丁の向こうに続く新寺小路緑地。 (2014/7/21 6:02) 新寺小路(新寺通り)を渡って、道仁寺と正雲寺の間の道を入る。右手に小さな「新寺五丁目公園」があって、その真向かいは「新寺小路緑地」の東の終端になっている。 新寺小路緑地を長泉寺横丁まで出ると、緑道は大きなマンションの前をずっと西に向かっている。Photo H 栄明寺、金勝寺、仙台サンプラザと並ぶ。 (2014/7/21 6:03) 長泉寺横丁を北に上がると、栄明寺と金勝寺が並び、そのむこうに仙台サンプラザの大きなビルが見える。仙台サンプラザには金属材料関係の研究会と懇親会(こっちが主だった)に招かれて一度だけ来たことがある。 金勝寺と仙台サンプラザの間の道に入って政岡の墓所に向かう。Photo I (左上)三沢初子(政岡)墓所の門前。(左下)右手に並ぶ墓三基。(右)三沢初子の墓。 (2014/7/21 6:08) NHK大河ドラマで有名になった山本周五郎の歴史小説『樅ノ木は残った』で描かれた平幹二郎演じる原田甲斐は忠臣であったが、歌舞伎『仙台萩』では甲斐は悪役である。『仙台萩』で幼君亀千代(四代綱村)を守り通した政岡のモデルは、三代綱宗の側室、四代綱村の生母三沢初子である。 この墓所には他に、二代忠宗の正室、徳川振姫(二代将軍秀忠の養女、姫路城主池田輝政の娘)、四代綱村の正室、稲葉氏仙姫(小田原城主稲葉正則の娘)の墓がある。Photo I(左下)の左手の木々の間に、手前から「徳川氏振子之墓」、「稲葉氏仙子之墓」、「三澤氏初子之墓」という墓碑銘の墓が並んでいる。 墓所には入れなかったが、隣接する「榴岡五丁目公園」から柵越しに墓を眺めることができた。Photo J 孝勝寺前の大通り。 (2014/7/21 6:14) 榴岡五丁目公園を出て、南北に走る大通り(全く新しい道で、南ではまだ工事が続いている。道路名はまだどこにも記されていない)に出る。道路の向こうには、五重の塔のある孝勝寺が現われる。Photo K 墓地と新寺小路緑地。 (2014/7/21 6:18) 大通りを南に進み、ふたたび新寺小路緑地に入る。林香院の裏手で、緑地を挟んで林香院の墓地がある。この緑道がどんな風にしてできたのか分からないが、どうも新寺小路にずらっと並ぶ寺院の裏手に連なっていた墓地を貫くように作られたようだ。Photo L 新寺通り。 (2014/7/21 6:21) 緑地を少し歩き、洞林寺と林松院の間を新寺通りに出る。東に進み、歩道橋の向こうの交差点を渡れば、コインパーキングである。 朝日が眩しい。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.07.21
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2014年7月16日、原子力規制委員会は九州電力川内原子力発電所1、2号機が新規制基準に適合する審査書案を提示した。しかし、田中俊一委員長は、記者会見で「安全だということは、私は申し上げません」だとか、「ゼロリスクだとは申し上げられない」と発言した。 このニュースを聞いて、思わず「それはないよ!」と叫んでしまった。政府のアリバイ機関でしかない規制委員会に期待してはいなかったのが、こんな身も蓋もない自己矛盾の(というより自己否定的な)発言があろうか。「7月18日脱原発みやぎ金曜デモ」集会風景@勾当台公園。 (2014/7/18 18:49)フリートーク中。 (2014/7/18 18:59) 原子力規制委員会設置法第3条(任務)はこう定めている。「原子力規制委員会は、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資するため、原子力利用における安全の確保を図ること(…中略…)を任務とする。」 新規制基準に適合する審査結果が原発の安全を担保しない、という田中委員長の発言は、規制委員会の「任務」を果たしていないことを意味する。「原子力利用における安全の確保を図る」ことのできない審査書案は、原子力規制委員会設置法に則っていない。法的に無効である。宮城県庁前から仙台市役所前へ。 (2014/7/18 19:11) 田中委員長は「新規制基準に適合しているかどうかを審査するだけ」だというが、安全を確保できない「新規制基準」なるものを作ったのはいったい誰だというのか。規制委員会そのものではないか。 地震時の最大の揺れを540ガルから620ガルに引き上げたので良しとするなどという些末なことをどうのこうの言うつもりは毛頭ない。関電大飯原発についての福井地裁判決がどの程度の規模の揺れを判断基準にしていたかを考えれば、笑うべきごまかしだ。 規制委員会は正しい目的に適した規制基準を作ることに失敗していたということではないか。だとすれば、早急にやるべきことは、原発の安全を担保する新「新規制基準」を早急に作ることしかないはずだ。一番町広瀬通り交差点で信号待ち。 (2014/7/18 19:24) 一番町広瀬通りを渡ってくるデモの列。 (2014/7/18 19:27) さらに田中委員長は、「再稼働は事業者、地元住民、政府の合意でなされる」と述べたという。これは一見もっともらしく聞こえるが、安倍首相が日頃から、安全が確認された原発から再稼働すると言明していることを知らないはずがない。 ましてや、安倍政権はエネルギー基本計画の閣議決定に「規制委が基準に適合すると認めた原発は再稼働を進める」と明文化している。案の定、管官房長官は「原発の安全性は規制委に委ねている」と発言している。 設置法第1条(目的)に、「その委員長及び委員が専門的知見に基づき中立公正な立場で独立して行使する原子力規制委員会を設置し、もって国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的とする」とある。 法的にも常識的にも、規制委は国内唯一の「専門的知見」によって原発の安全を確保すべく期待された組織である。にもかかわらず、再稼働の判断の基となる安全についての判断を放棄しながら、新基準をクリアしたとする審査書案を提出するのは、いかなる《知》の崩壊なのか。 ソーカル-ブリクモン流に言えば、「《知》の欺瞞」、「《知》のペテン」がここにはある。ソーカルとブリクモンは、ポストモダンの思想家たちの自然科学的知識の濫用、誤用を厳しく批判したものだが、規制委に見られるのは自然科学者の自己崩壊的な「《知》のペテン」だけである。 専門的知見を有するとされる規制委の決定には、人類が歴史的に求め続けてきた「知」の力というものがない。日本の国民が一定の敬意を払ってきた「学者」の矜恃というものがない。権力機構に組み込まれた知識人、学識経験者と呼ばれる者の卑怯、未練しかない。青葉通りの手前。 (2014/7/18 19:32) 田中委員長や1年後輩の私が学んだ東北大学工学部原子核工学科は、「知」と「学」の府ではなかったのか。そこで学んだ者のあらゆる思考が、原発の存在を前提とすることから逃れられないなら、それは大学で学んだ者の「知」とは呼べない。たかだか原子力技術についての職業訓練校で獲得した知識程度のことに過ぎない。 東北大学は、そんなにも「知」から遠かった大学だったのだろうか。私は大学院修士課程修了をもって原子力工学から離れ、固体物理学に転じ、同じ東北大学の理学部物理学科教授として職を終えた。いま、大学をこのような形で振り返るというのは、じつに不快なことだ。 大学の「知」が脆弱化していることはつとに指摘されていて、私もそれを認めてはいる。だが、日本国民の未来の生命の明白な危険を前に、法的な立場にもかかわらず、「知」の判断から逃亡するほどに劣化しているとまでは思いもしなかった。大通り(国道4号)の信号待ち。 (2014/7/18 19:40)ご苦労様でした。解散です。 (2014/7/18 19:44) いや、すべての前提を無視すれば、「安全だということは、私は申し上げません」という田中委員長の言葉を是とすることができないわけではない。いかなる厳しい審査基準、世界で一番厳しい審査基準(嘘だが)を満たそうとも原発は安全ではない、安全な原発は存在し得ないという田中委員長の学者としての認識が、「安全だということは、私は申し上げません」という言葉の背後にあるのではないか。 そうであれば、それは間違いなく科学的に正しい認識である。まだ遅くはない。そのような正しい「専門的知見・認識」によって規制委を運営する機会は厳然と残されている。2014年7月16日を日本の原子力工学の汚辱の記念日にしないためにも、将来の国民の「安全の確保を図る」ためにも、規制委にできることはたくさんある。《川内原発再稼働を容認してはならない!》
2014.07.18
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先週の続きのような散歩だ。先日は、向山の通りから南の丘、大年寺山を歩いた。道の反対側は愛宕神社のある愛宕山だ。先週使った地図がそのまま使えるので、今日は向山から愛宕山までを散歩エリアとした。Photo A こっちへ行くの? (2014/7/13 5:30) コインパーキングに駐車して向山の通りを歩き出す。すぐに左手に長徳寺の墓地が見え出す。この墓地の向こうは広瀬川の断崖になっているはずだ。 その長徳寺の山門は、八木山から下ってくる道がぶつかる丁字路、「向山二丁目」交差点の前にある。Photo B 下っていく向山の通り。(2014/7/13 5:36) 丁字路の交差点を越えると、下り坂である。こちら側にも長徳寺の墓地があって、そこを過ぎるあたりから道は自然の地形を反映したように微妙にくねった坂道になる。 左の細道に入って大満寺に向かう。Photo C 大満寺。(2014/7/13 5:39) すぐに大満寺の山門前に出るが、そこから斜面に沿って右に展開する寺域はとても広く、建物が連なっている。犬連れでは境内に入るのは憚られて、前の広い駐車場を歩く。 山門前にあった「大満寺全景図」によれば、駐車場の東端から山頂の虚空蔵堂へは階段で上がることができる。Photo D(左) 愛宕神社車道分岐。(2014/7/13 5:43)Photo E(右) 虚空蔵堂への石段。(2014/7/13 5:44) 虚空蔵堂への道は、愛宕神社への車道と虚空蔵堂への石段道に分かれる。虚空蔵堂への石段が今日の最大の難所らしい。歩き始めだから,イオはまだまだ元気なので、イオを気遣うことなく上り始めたのだが、先に私に息が上がり始めた。 階段の途中、一息入れたいと思ったあたりに「ペット浄苑」があった(Photo Eの石段の上、左に青い看板が見える)。フェンスに囲まれた4メートル四方の中に納骨する墓のようなものがある。 ペットの遺骨をここに納めるということなのだが、イオの先代犬・ホシの遺骨は半分はイオが暮らした庭に散骨し、残りは小鹿田焼の蓋付き壺に収めて写真といっしょに棚に並べている。Photo F 虚空蔵堂。(2014/7/13 5:48) この虚空蔵堂と別当寺である大満寺は、もともと青葉山にあったのだが、伊達政宗によって経ヶ峯に移され、二代藩主の霊廟を経ヶ峯に造営する際にこの地に移されたという由緒書があった。仙台では珍しく政宗以前からの古い寺だ。Photo G 鐘楼堂からの仙台市街展望。(2014/7/13 5:50) 虚空蔵堂の左手奥に千躰堂がある。右前、広瀬川の方には鐘楼があって、つり下げられている梵鐘は明治時代に大年寺からここに移され、それ以来、朝夕の時を知らせる鐘として仙台市民に親しまれてきたという。 市民に時を知らせる鐘としては、最良の場所に設置されている。鐘楼堂の裏から仙台市街が眺望できる。ここは広瀬川の右岸、高い崖の上という場所である。Photo H 石鳥居から見る愛宕神社。(2014/7/13 5:55) 虚空蔵堂の裏、崖近くの道を愛宕神社へ向かう。神社横から本殿前を通り、参道に向かう。その途中で振り返ったのがPhoto Hである。参道をどんどん下って行くと、国道4号にまっすぐ下る急な石段となる。Photo I(左) 愛宕神社参道1。(2014/7/13 5:58)Photo J(中) 愛宕神社参道2。(2014/7/13 5:59)Photo K(右) 愛宕神社参道3。(2014/7/13 6:00) 急な石段を下るのは止めて、戻ることにする。つまり、途中からだが、あたかも参道を愛宕神社に向かうように歩くのである(写真をそんなふうに並べてみた)。 参道の途中には、右手に一輪、左手に二輪、ヤマユリが咲いていた。(話の筋が違うが、私はユリの中でヤマユリが一番好きだ。)Photo L 愛宕神社駐車場からの大年寺山、向山の展望。(2014/7/13 6:03) 参道の最後の石段の手前に、神社の駐車場へ降りる道がある。この駐車場からは、先日歩いた大年寺山の眺望が開けている。 左の森の中を上がって、テレビ塔の下を左に向かい、あの住宅地の中を下って来たのだ。「そうだよな、イオ」と話しかけたい気分で振り返ったら、彼女は薮の中の匂い探索に熱中しているのだった。Photo M(左) 斜面をトラバースする道。(2014/7/13 6:07)Photo N(右) 廃屋になった屋敷の門。(2014/7/13 6:09) 神社の駐車場のすぐ脇に、手作りの階段があって人家の裏と崖の間の細道があった。地図に載っている道なのだが、人家の庭に出そうな不安のまま降りていった。よくも地図に載せたなぁ、という道は無事神社下の斜面を横切っていく道に出た。 神社下の丘の斜面を東に歩き出す。かつての住居跡が空き地になっている場所がかなりある。大震災の被害によるものか、石積の土留めが膨れて今にも崩れそうな空き地もあった(Photo M左手のブルーシート)。 このあたりはだいぶ古くから人が住んでいたらしく、門から狭い階段で急斜面を上がる家が多いし、駐車場を作れる家はそんなに多くない。つまり、家庭に車がないことが普通だった時代からの住宅地だ。 Photo Nもそんな一軒で、門から木々に覆われた石段を上がって行くアプローチは、かつての優雅な住居のたたずまいの面影を残している。Photo O (上)国道4号・愛宕大橋から仙台中心部へ。(下)大年寺山裾の「越路」交差点。(2014/7/13 6:12) 道は国道4号の崖上に出て、左は国道へ出る車道、右は「越路」交差点方向に下る階段道と分かれている。階段を下り、向山から下りてくる道と平行な裏道に入る。その道沿いは、斜面が緩やかになっているため、マンションやアパートも建つ普通の住宅地である。 中には、斜面に広い石組みの日本庭園を有する瓦屋根の木造建築の二階家もあった。少なくとも私が子どもの頃まではよく見られた裕福な家庭の日本家屋の風情がする家だ。Photo P(左) 向山から越路への道へ出た。(2014/7/13 6:19)Photo Q(右) その道を上り返す。(2014/7/13 6:22) 裏道を抜けて向山からの通りに出る。朝一番に下って来た道の坂下だ。この道を少し上り返す。先週の散歩で歩いた野草園へ上る二つの入口や、そのとき停めたコインパーキングを過ぎると、サンマリというスーパーが見えてくる。 サンマリの手前を斜面の住宅地に入ってみる。こちらは新しい住宅地で、どこの家にも駐車場があり、家もなんとなく新しい。それでもポツポツと空き地がある。 しゃれた洋風の住宅が二軒並んでいたが、どちらも空き家で、閉じられた門扉や駐車場を葛の蔦が這い回っていた。家を建てた世代が不在になったと考えると、この住宅地は30~40年前くらいにできたということだろう。Photo R 八木山から下る道から見る「向山二丁目」交差点。(2014/7/13 6:30) 道を右に折れると、八木山から下ってくる道に出る。向山は、仙台市街から広瀬川の向こうに見える山という地名だが、さらにその奥にもう少し高い八木山がある。こちらはほとんど戦後15年くらいからの比較的古い開発住宅地である。 この坂の下は長徳寺山門前の「向山二丁目」交差点で、そこを左に曲って駐車場まで戻れば、今朝の散歩は終了である。 撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.07.13
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台風8号は、宮城県沖を遠く離れて過ぎて行き、仙台は晴天になったが、台風名残の高温多湿のじっとりとした一日になった。何もしなくても汗がじわじわと吹き出し、何度も石鹸で顔を洗うのだが、すぐにべっとりしたいやな感じになる。 宮城県は、微妙な日本列島の湾曲のために台風の直撃は少ない。直撃の場合は、列島の陸地部分を通って来るため勢力が弱まっていることが多い。宮城県の台風被害が比較的少ないということは、列島南西部の被害が大きいことと裏腹な関係にあって、手放しでは喜べないのだが。 暑いといっても、仙台では夕方になれば夏の日中の暑さも治まる。盛夏でも朝晩は過ごしやすいのだ。集会風景(野音ステージから)。 (2014/7/11 18:58) 勾当台公園では、ベルギービールフェスティバルとかいうもので大変な賑わいだ。これじゃ脱原発集会は無理ではないかと思いながら、人混みをかき分けて野外音楽堂のたどり着くといつものように集まっている。 フリートークの途中からフェスティバルの音楽も鳴り出し、なかなかに賑やかでいいのだが、スピーチが聞き取りにくいのは困った。私の耳は雑音に極端に弱いのだ。それで、聴くことの専念から離れて、もっぱら写真を撮ろうと思った。 野音のステージの上から集会の全体風景を撮りたいとずっと思っていて、今日初めて実行したのだが、想像していたほどの写真ではなかった。想像と現実の解離は想像力の貧困による、などと自分に毒づいてみる。 一番町・仙台三越前。(2014/7/11 19:18) デモはいつものコースを行く。勾当台公園を出て、仙台市役所と市民広場の間を通り、一番町に入っていくのである。6月に入って、デモは夏時間で30分遅く始まるようになったが、毎週、同じコースを歩くと、季節のわずかな変化に気付く。今日は、ほんのわずかだが、陽が落ちるのが早くなったことを実感できた。まったりとデモを行くチョモさん。(2014/7/11 19:18) 夏の夕暮れ、暑い一日だった日の夕暮れの和らいだ雰囲気の街を、デモは通り抜ける。バーニーズ・マウンテン・ドッグのチョモさんも専用キャリーカーに乗せられて、すっかりと和らいでいる。 スーパーマーケットOK前。(2014/7/11 19:18) 三越前、OKスーパーを過ぎて広瀬通りに近づいていくにつれて人通りが多くなる。このごろ、手を振ったり、拍手をしたり、コールのリズムを合わせたり、いっしょにコールに応えたりする人が増えてきたような気がする。 デモは「過激」な行いだと考える人がいる、ということを聞いたのはごく最近のことで、そのときはとても驚いたが、ここ数年の全国津々浦々で繰り広げられている脱原発デモは、そうした誤解を取り除くという効果もあっただろうと思う。仙台のデモ列の中のNNF(No Nukes Fragile)Tag。 例えば、毎週金曜日の首相官邸前の抗議行動に参加しているグループが始めた「NNML(No Nukes More Lave) TAG Project」は、「壊れもの(FRAGILE)」の荷札のワイングラスを原子炉の格納容器に置き換えたデザインのちょっとおしゃれな反原発タグを作っていて、「NN FRAGILEのタグをつけて、NO NUKESマインドをゆる〜く日常的に広げていこうという活動」をしている。 こういう活動もまた、脱原発の声を上げることの抵抗感を和らげているだろうと思う。嫌なことを普通に「いやだ」と意思表示できるというのは大切なことだが、日本の歴史風土は、政治的発言をしないこと、声なき大衆でいることを国民に強いるように作用してきたので、一挙に国民の政治意識が変化することは難しいけれども、運動を続けているかぎり必ず変化する。少しずつといえども、それは力だ。歩道と車道、同じ道。(2014/7/11 19:35)大通り(国道4号)を渡る。 (2014/7/11 19:39) 一番町を出て青葉通りに出ると、急に暗さが増すが、それはそれで夏の宵のなにかしっとりした情景の街を歩くことになるようだ(ということを、あらためて写真を見ながら感じた。夜の薄暗さがしっとりとしているのだ)。 この微妙さをうまく説明するのはとても難しいが、暑かった一日の宵闇はいつもより濃いようになんとなく感じるのだ。そのように受け止める人間の側の変化のせいだとも思えない。私の身になにか起きるということはないし、起きそうな予感すらない。デモからの帰り道、振り返った空。 (2014/7/11 20:05) 先週より20人も多いデモは、無事に終った。広瀬通りに出て、西に向かい、西公園を過ぎたあたりで振り返ると、雲の切れ間から月が覗こうとしている。ちぎり絵のちぎられた紙片のような雲が均等に広がって、雲間の月の光の反射にリズムを与えている。 いい夜だ。
2014.07.11
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下りの東北新幹線が仙台駅に近づく頃、西から市街にせり出している丘陵が見える。山頂に数本のテレビ塔が聳えるその小高い丘が「大年寺山」である。山頂は大年寺山公園となっているが、仙台市野草園である。 野草園の周りを周回する道があるので、昨日の日曜日早朝に出かけたが、近くに一ヶ所しかないこのコインパーキングは満車だった。10台ほどの小さな駐車場だが、今朝は一台だけしか駐車していない。Photo A 車を降りて。 (2014/7/7 5:30) 朝5時頃、私の服装を見て、車で出かけると判断したイオは大騒ぎで、私の後をつきまとい、トイレに入ればドアの前でキュンキュン鳴いている。助手席ではおとなしいのだが、車から降りると、やる気満々になる。 カメラやGPSトラックデータ用のガーミンの調整をする私が待ち遠しい。リードが延びきるまで歩き出したところを引き戻されて不満そう。Photo B 信号の向こうの坂道へ。(2014/7/7 5:31) 向山から愛宕大橋南の国道4号へ抜ける道を少し下ったあたりに、10メートルほどの間隔で右手に入る道が二本ある。大年寺山の周回コースの出口と入口である。坂下の方の細道は一方通行だが、散歩者にはどちらが入口か出口かは任意だ。Photo C 急坂を上りはじめる。(2014/7/7 5:34) Photo D 妙護寺前は杉林が。(2014/7/7 5:40) いきなりの急坂である。体が慣れていないので、息が上がる。張り切っているイオは、どんどん先を行く(いつまで続くことか)。この坂道の通りには、立派な土留めや階段が残されている屋敷跡の空き地がいくつかあった。 道が狭いうえ、急坂で住むには不便ということだろうか。あるいは、急坂なので建築規制がきびしいせいなのかもしれない。 坂道の途中に妙護寺がある。「本門佛立宗 妙護寺」という大きな看板がある。本門佛立宗という仏教宗派の名前は初めて聞いた(自宅へ帰ってからWikipediaで調べると、「本門佛立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)は、長松清風によって〔江戸末期に〕開かれた、日蓮を宗祖と仰ぐ、法華系の一派である。宗派としての独立より日が浅く、新宗教に分類されることもある」とあった)。 妙護寺のあたりから両脇は林となって、舗装路だが山道の雰囲気になる。イオは興奮が少し冷めて、私を引っ張って歩く感じがなくなった。Photo E 紫陽花の道。(2014/7/7 5:46) 急坂が終りかかったあたりに、左手にずっと奥まで紫陽花が植えられた道がある。土の道にそそられたが、今日のコースにどれだけのアップダウンがあるのか分からないので、予定以外のコースを増やすのは諦めた。Photo F 東日本放送のテレビ塔が木々の間に。(2014/7/7 5:48)Photo G 仙台放送のテレビ塔脇は工大への道。(2014/7/7 5:56) 紫陽花の道からすぐ道は右へカーブして、先にテレビ塔が見えてくる。ほとんど平地に近いほど坂道は緩やかになった。テレビ塔は東日本放送の建屋に隣接して立てられていた。左への道の先には、たぶん野草園への入場者のためと思われる広い駐車場があった。Photo H 仙台市野草園入口。(2014/7/7 5:49) テレビ塔の道向かいは仙台市野草園の入口である。野草園には若い頃一度だけ来たことがある。デートで来たのか、幼い子どもたちを連れて遊びに来たのか、まったく覚えていないが、来たことがあるということだけは確かだ。Photo I 原阿佐緒の歌碑。(2014/7/7 5:53) 野草園入口を過ぎると、道はまた上り出す。その坂の途中、左の木立の前に歌碑がある。表の歌は流麗すぎて殆ど読めないが、裏に原阿佐緒の歌碑である旨が記されていた。家ごとにすもも花咲くみちのくの春べをこもり病みて久しも 原阿佐緒歌碑建設委員会が建てたとあるが、中心になったのはアララギ派の歌人、扇畑利枝さんである。扇畑利枝さんの夫は、歌人で東北大学文学部教授だった扇畑忠雄さんである。 お二人はすでに物故されたが、父親似の子息とは高校、大学といっしょだった。高校ではクラスも同じで、二人の歌人に育てられたにしてはやんちゃだなぁと思いながらつき合っていた。 大スキャンダルとなった原阿佐緒の恋の相手は、そのことで職を辞した東北帝大の物理学教授の石原純である。石原先生は理論物理学で、私は実験物理学と分野は違うが、私の職場の大先輩である。 原阿佐緒の歌碑を過ぎて少し上ると、またテレビ塔がある。仙台放送の塔だ。その脇の道は東北工業大学キャンパスへの道である(Photo G)。Photo J 上り坂の最後は林の中。(2014/7/7 5:58)Photo K 下り坂になると展望が。(2014/7/7 5:59)Photo L 西の展望。(2014/7/7 5:59) 仙台放送テレビ塔から緑陰の坂道を数分上れば、今日のコースの一番の標高地点になって、道は下りはじめる。左手に景色がぱっと広がる。八木山の南斜面の住宅地だ。あの住宅地の向こうに奥羽山脈の大東岳などが見える方向だが、梅雨空でそんな遠くは見えない。 坂道を上がってきた散歩のご婦人が、「曇っててダメだねぇ」と話しかけてくる。毎朝の散歩コースでいつもここからの展望を楽しんでいるらしい口ぶりだ。 Photo M 丁字路からの坂道。(2014/7/7 6:02)Photo N 坂道を上る老婦人。(2014/7/7 6:04) 下って行くと、まっすぐ住宅地へ入る道と谷へ下る道の丁字路になっている。野草園下の谷沿いの急坂の道をとる。下って行き、道なりに左へ曲っていくと下から老婦人が上がってくる。ベストを着て、つば広帽子を被り、背には小型の登山用ザック、両手にストックと完全な登山スタイルである。 私ももう少し老いたら、朝の散歩でもあのスタイルを取り入れよう。安全で楽なのが一番である。そういう私の今日の足元だけは、メレルの登山靴(カメレオンのローカットバージョン)なのだ。長時間の街歩きはもっぱらこの靴だ。今日は朝の短い散歩だが、どれほどの斜度か不明だったので、この靴にしたのだ。Photo O テレビ塔が山上に見える道。(2014/7/7 6:06)Photo P 道はまっすぐ終点へ。(2014/7/7 6:14) 道が右へ急角度で曲ると、先ほど通ったテレビ塔が丘の上にみえる。その丘と道の間は一段と深く、文字通りの谷である。おそらく、この谷を境に、テレビ塔の丘が大年寺山で、左手の丘が向山なのだろう。 そんなことを考えながら歩いていると、私の推測を裏付けるように、左手に「向山コミュニティセンター」の建物が現われた。次いで、愛宕中学校の看板が現われる。今日の歩き始めの通りの反対斜面には愛宕神社があり、さらに東の広瀬川には愛宕大橋がある。この辺は「愛宕」という地名でもあるのだろう。そういえば、大年寺山の山頂付近は「茂ヶ崎」という地番であった。大年寺山の名前の由来になった大年寺は、東南斜面の麓、門前町にある。 門前町にある寺は大年寺で、大年寺山は茂ヶ崎にある山で、向山にある中学校は愛宕中である。もう考えないことにしよう。 地名のことをごたごたと思いあぐねていたら、曲がりくねった道はまっすぐな道となり、すぐ駐車場のある道に出た。いつもより短かい散歩だが、けっこうな坂道だったのでこれで良しとする。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.07.07
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朝方は小雨だったが、9時前にあがった。午後になってまた降り出したが、とても空が明るい。安心して出かける準備をしていたが、降り続いている。 先月28日の明治公園での「さようなら原発 首都大行進」も雨降りで、持参したレインウェアは着ないで、傘で通した。レインウェアだとカメラが雨ざらしになる。傘を差してカメラを抱えている方が濡らさずにすむことに気付いたのだ。 レインウェアの方が歩きは楽だが、それで今日も傘を差して出かける。今日は雨です。 (2014/7/4 18:46) さすがにいつものような出足ではないが、勾当台公園の野外音楽堂前には傘が並んでいる。ときどき雨足が強くなる中でフリートークは終り、いつもよりは早めにデモは出発する。傘の列が出発。(2014/7/4 19:01) 参加者は50人ほどだが、ほとんどの人が傘を差して歩くので、デモのボリュームはいつもとさほど変わらない。どちらかといえば、コアの人が多いせいか、コールの音量もいつもと変わらない。一番町を行く総勢50人の大デモ。(2014/7/4 19:11) 一番町も晩翠通りから広瀬通りまでは道の中央部分のアーケードがない。中央部分を進むデモは傘の列のままだ。両脇のアーケードの傘なしの通行人といい対照になっている。かえって目立って効果的かもしれない。親子3人で。(2014/7/4 19:24) コールといえば、以前の私はほとんど大きな声でコールに応えることができなかった。子どもの頃から、そういうことがとても苦手だった。ところが、今はけっこうな大声をあげていることに、デモを歩きながら気付いた。 だんだん慣れてきたということもあるが、ときどき東京のデモに参加した経験も大きいようだ。とくに官邸前とか国会議事堂前では、コーラーもコールに応える人も揃って迫力があるのだ。なにしろ人数が多いので、そういうことに才能のある人がその辺に集中しているのだろう。その中に混じっていると、やはり、自然に声が大きくなるのだった。 5月28日に首相官邸前の抗議行動に加わったのだが、終ったときには喉が痛くなっていた。大声を出して喉を痛めるなどというのは、大昔のこと、学生時代以来だ。喉を痛めず、喉を鍛える。当分続きそうなデモなので、真剣に考えなければ......雨天デモの最強アイテム。(2014/7/4 19:13;19:28) 広瀬通りから青葉通りまではアーケードの屋根があって、デモの列の傘も閉じられたが、傘そのものをデモアイテムとしている人は傘を閉じない。 これは後で思ったことだが、この傘は閉じるときはどうするのだろう。全部はずさないと閉じられそうにないのだが、なにか工夫があるのだろうか。Shouting in the rain! (2014/6/20 19:16) 青葉通りに出れば、また雨の中である。写真を見直すと、なにかとてもいい雰囲気がする。濡れた路面の光の反射や滲む車のヘッドライト。流行歌の文句の世界みたいな感じだ。「Singing in the Rain」ならぬ「Shouting in the Rain」である。
2014.07.04
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