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【続き】Photo D 八幡宮裏の変則5差路。(2014/8/27 6:11) 大崎八幡宮の北参道を抜けて出たところに5差路がある。信号のある一番広い道は、作並街道(国道48号)から北に登ってきて、子平町、国見に向かう道である(Photo Dの左の道)。 右の細い道に入る。Photo E1(左) 龍寳寺墓地が見え出す道。(2014/8/27 6:14)Photo E2(右) 龍寳寺墓地が終るあたりの道。(2014/8/27 6:17) 住宅地の緩やかな坂を少し上ると、右手に墓地が現われる。道脇に龍寳寺の墓地の看板が建てられている。地図で見ると、龍寳寺と墓地の間に第一中学校があって、寺とはだいぶ離れている。 墓地からは緩やかな下り坂になる。Photo E3(左) この先の住宅地に蟹子沢跡が。(2014/8/27 6:20)Photo F1(右) 蟹子沢跡の歩道入口。(2014/8/27 6:22) 龍寳寺の墓地から200mも行かないところで左折する。細い道だが商店が数軒ある。この道の先で、蟹子沢跡の道が交差しているはずだ。前を小さな愛玩犬を連れた散歩人がいて、そのチワワがイオをとても気にして怖がる様子なので、あまり近づかないようにゆっくりと歩く。 チワワに気をとられて、蟹小沢跡の歩道の入口を危うく通りすぎるところだった。それほどあっさりした専用歩道である。 東京の街歩きでよく見かける埋め立て地の緑地歩道には、どうだとばかりにたくさんの木や花が植えられ、歩道には煉瓦が敷き詰められていたりするが、この道は普通のアスファルトが敷かれ、10mに1本くらいの割合で左右交互に小さな木が植えられているだけである。「田舎の都会」らしい素朴な道だ。Photo F2(左) 蟹子沢跡の歩道(1)。(2014/8/27 6:23)Photo F3(右) 蟹子沢跡の歩道(2)。(2014/8/27 6:24) 歩道はずっと下り坂で、左右の住宅は1~2m位の土留めの上に建てられていて、この道が沢の跡を埋めたということがよく分る。緩やかな坂道を、右左にわずかに曲りながら歩くのはとても快適な散歩だ。Photo F4(左) 蟹子沢跡の歩道(3)。(2014/8/27 6:25)Photo F5(右) 蟹子沢跡だが一般道。(2014/8/27 6:26) 沢跡歩道に入って5、6分程度で一般道を横切る。その一般道を越えた先はもう専用歩道ではない。この道は見覚えがある。横切った一般道から折れて春日神社に行ったことがあるのだ。つまり、Photo F5の道の先、左手が春日神社なのである。Photo G1(左) 春日神社の社。(2014/8/27 6:27)Photo G2(右) 春日神社の参道と鳥居。(2014/8/27 6:30) 春日神社があるこのあたりはかつて覚性院丁と呼ばれていた。境内にその由来が書いてある。伊達藩二代の頃、廃れていた古くからの寺、覚性院(かくしょういん)を小田原に再建したが、後にこの地に移された。春日神社も境内に移されたが、明治の廃仏毀釈で神社だけが残ったという。 春日神社正面の石段前を細い道が横切っている。この道は、藩政時代の「四ツ谷用水」跡の道である。つまり、春日神社の横で、蟹子沢と四ツ谷用水は立体交差しているのである。当然ながら、四ツ谷用水が上を通っている。古地図にはそんな風に描かれている。Photo H 石切橋。(2014/8/27 6:31) 春日神社の参道から出ると、その道はいわゆる「覚性院丁」通りである。その道を西に少し行くと石切橋がある。この橋は何度も散歩で渡っているが、蟹子沢に架かっていた橋だということを今日初めて知ったのだ。 石切橋を越えたあたりは石切丁と呼ばれていて、仙台城建設時の石工が住んでいた。橋を越えて八幡町通りへ出る道は「石切丁」通りである。Photo I1(左) 石切橋から再び蟹子沢跡の道。(2014/8/27 6:32)Photo I2(右) ここも蟹子沢跡の一般道。(2014/8/27 6:33) 石切橋に接して数段の階段(覚性院丁)を越える道がある。この道も蟹子沢跡の道で、大正元年の地図ではここから下流は崖(渓谷)として描かれている。しかし、八幡町通りの北側の蟹子沢跡は、現在ではほぼ完全な平地である。 一方、八幡町通りの南には渓谷地形が残されている。八幡町通りから広瀬川の澱橋へ下る道は盛り土道で渓谷を越えるが、その左右の谷底にはマンションや住宅が並んでいる。尚絅学院はその谷と広瀬川に挟まれた半島(岬)のような地形の上に立っている。 Photo I3(左) この道も蟹子沢跡。(2014/8/27 6:36)Photo I4(右) アパートの通路を抜ける。(2014/8/27 6:36) 道は急に直角に折れ、八幡町通りに平行する道になる。まっすぐな道は人工的な感じがするが、もともと蟹子沢の谷がこのあたりではまっすぐだったのだ。 そろそろ散歩の切り上げ時だと、イオの足取りが教えてくれる。まっすぐな道を進むと八幡町通りをかなり戻ることになる。地図では八幡町通りに出る道はずっと先にしかないのだが、アパート(マンション?)の通路の向こうに大通りが見える。そこを通り抜けさせてもらった。Photo J 弥勒院。道向かいにその墓地。(2014/8/27 6:37) 八幡町通りをパーキングに戻る途中に墓地がある。道向かいにある弥勒院の墓地だ。弥勒院の塀には如来、観音の小さな仏像が飾られていて、この道の散歩の時にはいろんな仏様の顔を見ながら歩くのである。 大崎八幡宮の境内では駆け出すほどに元気だったイオは、パーキングに着く直前には二度ほど立ち止まって私の顔を見上げている。疲れたのだ。パーキングに着いたら、わらわらと助手席に這い上がった。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.08.27
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イオとのドライブ散歩の場所探しで仙台市の地図を眺めていたら、気になる道を見つけた。大崎八幡宮の裏手に奇妙なくねり方をする細道がある。大正元年発行の地図にある蟹子沢の流れに完全に重なる道である。 蟹子沢は、かつて澱橋の下流で左岸から広瀬川に流れ込んでいた沢で、広瀬川の近くでは深い渓谷になっている。尚絅学院の北側付近にその渓谷はそのままの地形で残っているが、沢そのものは暗渠になっていて、マンションや民家が谷底に建ち並んでいる。暗渠は太いコンクリート管として広瀬川の岸に現われる。昨年までであれば、大崎八幡宮の一帯は普通の朝の散歩の範囲内だったのだが、今年になったらやや無理めな距離になってしまった。あまりに近くて、車で出かけるのは気が引けるほどだが、やむを得ない。Photo A1 パーキングの向かいは宮城生協八幡町店。(2014/8/27 5:43) イオのドライブ気分が高揚するように、わざわざ遠回りをしてから八幡町通り(国道48号、作並街道とも呼ぶ)沿いのコインパーキングに車を入れる。ここは七十七銀行八幡町支店の駐車場も兼ねている。 駐車場の道向かいは宮城生協のCOOP八幡町店だ。銀行にもよく来るし、COOPも週に一度は利用している。イオにしてみれば、散歩、買い物でよく見慣れた場所のはずだが、車に揺られて十分なアドレナリンが発生したようで、だいぶ張り切っている。Photo A2 八幡町通り(作並街道)。(2014/8/27 5:44) 八幡町のこの道を向こうへ行ったり、こっちへ来たり、裏手の道もだいぶ歩いたが、蟹子沢跡の道と意識して歩いたことはなかった。というより、蟹子沢やその跡というのを初めて知ったのだ。 Photo A2 の右に見える日本家屋の商家は、仙台味噌と醤油の醸造元である庄子屋で、亀甲(六角形)の中に「政岡」という文字が入った紋のある木製の立派な看板が掲げられている。紋印の由来はまったく分からないのだが、伊達騒動の歌舞伎『仙台萩』に出てくる「政岡」(三沢初子がモデル)と関係があるのだろうか。「政岡の墓」にはドライブ散歩で行ったことがある。Photo A3(左) ビル裏の藤森神社。(2014/8/27 5:50)Photo A4(右) 細い坂道へ。(2014/8/27 5:51) 地図を眺めていて、蟹子沢の他にもう一つ気付いたことがあった。八幡町通りに「藤森神社」があるというのだが、いままで一度も見たことがなかった。藤森神社を見ることも、今日の散歩の目的に入れたのだが、見つからない。 地図に記されているあたりを行きつ戻りつして探したら、建物と建物の隙間から鳥居らしき赤いものが見える。道はない。結局、マンションの駐車場敷地を抜けた裏にPhoto A3に写る小さな社を発見した。鳥居の前に階段があるので、マンションの敷地が参道と考えるしかないのだった。 藤森神社を発見して少し歩いたところから横道に入り、坂を上って行く。Photo B1(左) 坂道の三叉路。(2014/8/27 5:52)Photo B2(右) 家並みの向こうに龍寳寺の大屋根。(2014/8/27 5:55) 坂道はすぐ三叉路に出るが、右に人がかろうじて歩ける草の道があって、これも含めれば四差路なのだった。草の道は藤森神社のすぐ裏を通るが、間にフェンスがあって神社にはアプローチできそうにない。 三叉路を直進して坂を上る。坂上で左折すると、道の突き当たりの向こうに龍寳寺の本堂の大屋根が見える。Photo B3(左) 住宅地を抜けて。(2014/8/27 5:55)Photo B4(右) 大崎八幡宮の森が。(2014/8/27 5:56) 住宅地を抜け、大崎八幡宮の森が正面に見える道に入る。この道は、フェンスで遮られているが、龍寳寺の裏を通る道だ。Photo C1(上) 表参道(大鳥居の方向)。(2014/8/27 6:00)Photo C2(下) 表参道(社殿方向)。(2014/8/27 6:00) 大崎八幡宮の境内には、参道の途中から入ることになる。八幡町通りの大鳥居を入り、石段を上がってPhoto C1の参道からPhoto C2の参道へと進むのが参詣の道である。 「平安の昔、東夷征伐に際して坂上田村麻呂は、武運長久を祈念すべく武門の守護神である宇佐八幡宮を現在の岩手県奥州市(水沢)に勧請、鎮守府八幡宮を創祀しました。その後、室町時代に奥州管領大崎氏はこれを自領内の現遠田郡田尻町に遷祀し守護神として篤く崇敬した為、世に大崎八幡宮と呼ばれました。大崎氏の滅亡後は伊達政宗公が居城の玉造郡岩出山城内の小祠に御神体を遷し、仙台開府後仙台城の乾(北西)の方角にあたる現在の地に祀られました。」 これは、長床横から北参道へ入るところにある大看板に書いてあった由緒書きから抜き出した。Photo C3(上) 「長床」前で待つ参詣人(午前6時開門)。(2014/8/27 6:00)Photo C4(下) 前の「長床」(重要文化財)と後の「御社殿」(国宝)。(2014/8/27 6:03) 社殿の前方にある「長床」は、「御社殿」への門に相当する。つまり、寺の山門のような建物であるらしい。数人の人が開門を待っている。私たちがちょうど長床前の石段を登ろうとしたとき、太鼓が鳴って、長床の柵が片付けられて、参詣人が入っていった。 イオを少し離れたところに繋いで、私も後をついて入ることにした。Photo C5(上) 国宝の「御社殿」。(2014/8/27 6:04)Photo C6(下) 北参道。(2014/8/27 6:07) 「大崎八幡宮……の御社殿の様式は入母屋造りの本殿と拝殿とを相の間で繋いだ石の間造りであり、後に権現造りと言われる建築様式」らしい。これはホームページからの抜き書きである。 1月14日に催される松焚祭(どんとさい)は、正月の松飾りを燃やす行事で、大勢の人で賑わう。地域のテレビ局は毎年、裸参りの行列の様子をこぞって放送する。最近は、近所まで観光バスでやって来てからの裸参りという団体が多いようだが。 私が努めていた大学でも、毎年若い人が中心になって裸参りが行なわれていた。その時期になると、院生が寄付を集めに来る。裸参りのあとに冷えた身体を温めるのに大量の酒が必要なのだ。Photo C7 待機中。(2014/8/27 6:05) 北参道から八幡宮の裏に抜ける前に、待たせておいたイオを迎えに行く。この犬は、小さい頃からこんなふうに待たされるのは平気で、吠えもせずじっと待っている。 大崎八幡宮を出たら、目的の蟹子沢跡の道に向かう。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。【続く】
2014.08.27
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朝からカンカン照りだった。それでも、勾当台野外音楽堂は木立に囲まれていて、木陰のなかで、ときどき吹き抜ける涼しい風を楽しむことができる。 炎天下のデモになるのかと心配していたが、勾当台公園を出発することにはすっかり曇っていた。勾当台公園を出発。 (2014/8/24 15:13)勾当台公園から東2番丁通り(国道4号)を渡る。(2014/8/24 15:16)まだまだ続く(後は宮城県庁と県議会)。(2014/8/24 15:17) いつもより人数が多いので、出発準備にやや時間を要したが、わずかな遅れでデモは出発した。 最近のデモでは、私はもっぱら写真を撮るのに専念していて、デモ列から抜け出し、写真を撮ってはもとのデモ列に戻り、コールに合せるという繰り返しで歩いていた。 今日もそのつもりでいたが、先頭から順々に最後まで写していくと、もとのデモ列に戻るのは大変なのだった。近くの列に加わって少しだけコールに合せ、すぐに抜け出して写したい場所へ移動するのだが、最後列から先頭まで追い抜いて移動するのはけっこうきつい。それでも、デモの写真はたいてい列の先頭部分が写され、取り上げられることが多いので、できれば、最後の1人まできちんと写したいという気持ちになる。 だから、ときどきは駆け足である。デモはささやかな運動不足解消だと思ってはいたが、今日くらいの規模だと私の年齢には最適な運動かもしれない。 勾当台公園から国道4号(勾当台通り)を渡る列を先頭から写すために広い交差点を走って先回りする。ここからは最後列にくっついて一番町に入る直前まで一休みである。一番町に入るアピール行進。 (2014/8/24 15:25)一番町は歩行者だけなので少しゆったりと。(2014/8/24 15:29) 一般道では3列の行進だが、一番町は歩行者専用なのですこし列が広がり、ゆったりと歩くことができる。そのうえ、通行人が多いので、1人1人が少しずつ張り切って、全体のトーンが上がるようだ。 広角レンズに替えて先頭から写すと、デモの列の長さがよく分るが、被写界深度が浅いせいかボケが目立つ。一番町。空模様が怪しくなってきた (2014/8/24 15:33)降り出したが、今はアーケードの下。 (2014/8/24 15:38) 定禅寺通りから広瀬通りまでは、道の真ん中にはアーケードの屋根がない。まもなく広瀬通りというあたりでパラパラと降ってきた。すぐ傘を出す人もいたが、広瀬通り交差点を渡れば、そこから青葉通りまでは屋根付きの一番町歩きである。 最近、カメラが面白くなってきた。風景を写すのも、花の細部を写すのも、デモの人びとを写すのも、とても面白い。まるっきりの素人なので、やるべきこと、知るべきことがたくさんあるのが面白い。 そう思ってデモの写真を撮っているのだが、一番丁をゆったりと歩きながらコールに大きな声で合わせながら歩くというのもとてもいい。1人で歩くときとは、歩くペースが違う。ペースが違えば、おのずと考えるリズムも違ってくる。歩きながらいろいろ考える。いつもと違うことをとりとめもなく考える。しかも大声をだしなら。そっちがいいな、と思ってしまう。カメラを触っていたいという気持ちとそんな気持ちでぐらぐらする。気が多いのだ。 いずれにせよ、大声をだしながらゆったりと逍遙するデモ歩きは身体と心にとてもよい(逍遙の使い方がまちがってる?)。青葉通りでは雨足も強まって。国道4号を渡る。(2014/8/24 15:53) 一番町から青葉通りに出た頃にはかなり雨足が強くなった。スマホに届く天気情報では仙台市青葉区では午後4時頃が最も強く降るらしい。というのに、デモが東二番丁通り(国道4号)を渡る頃にはすでに午後4時10分前になっている。 分断されて信号待ちの後続が心配になるが、そういう私はカメラに雨が当たらないように傘を抱えてじっと待ち構えているのだ。カメラは雨に弱い。 なんとか、デモは土砂降りの前に流れ解散の仙都会館前に辿り着いた。傘を持たない人もいて、ビルにへばりついて雨宿りだ。流れ解散の本領はさっさと捌けることだ。近くの顔見知りに挨拶してバス停に走った。 天候は局所的で、雨の強さは狭い地域で異なるようだ。午後4時25分頃、私が自宅に着いた直後に、我が家の周囲は土砂降りになった。本日のNo Nukes Fragile Tag。 さて、準備したNo Nukes Fragile Tagはすべて配り終えた(というより、配ってもらったということだが)。予約申し込みの分は後で作ることにした。 写真を撮っておこうとタグを付けた人を探す。すぐに見つけることができるのだが、デモの列の中でタグを写すのはけっこう難しい。デモの列というマクロと、タグというミクロを上手に切り替えて写すにはもうちょっと技術が必要らしい。
2014.08.24
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午後1時からのイベントと集会だが、15分ほど前に勾当台公園野外音楽堂に着いた。先週のデモは発熱で不参加、先々週は仙台七夕と重なるのでデモ自体がお休みで、三週間ぶりのデモということになる。待ち遠しくていそいそとやって来たというわけではないが、いつものように遅刻しなかった理由は自分でもよく分らない。ブーステントが並ぶ。その向こうが野外音楽堂。 (2014/8/24 12:47) 幾張りかのテントでは、準備に余念がない。本部、カフェ、それに工作のブースのスタッフに2~30枚くらいのNo Nukes Fragile Tagをお願いする。私は、15枚ほどを背中のザックに吊した。 野音のベンチはガラガラだったが、第1部のライブ出演者の音あわせが始まると、急に人が集まってきた。第1部のライブの司会は岸さんと山田さん。(2014/8/24 12:59)上:手作り楽器を演奏する荒利美さん。 (2014/8/24 13:05)下左:津軽三味線の岡崎秀昭さん。(2014/8/24 13:22)下右:おなじみの苫米地サトロさん。(2014/8/24 13:59) イベントの第1部はライブで、岸さんと山田さんの司会で始まった。荒さんの手作り楽器のそれぞれの名前はまったく知らないが、演奏は太い竹製の笛と呼ぶべきかラッパと呼ぶべきか、低音でとても大きな音が出る。それでいながら、静寂を感じさせつつ他の楽器に演奏は移っていくのだった。 岡崎さんの三味線演奏は、フクシマに想いを寄せて浜通りの民謡、辺野古で問題を抱える沖縄民謡、そして津軽はじょんがら節の旧節、新節と続く。 苫米地さんの幾つかの歌では、ビキニ環礁で被爆した第5福竜丸を詠ったラッキー・ドラゴンの歌をしばらくぶりで聴いたが、やはりこころ打たれる。上:野音ステージ。(2014/8/24 13:02)中:トークに聴き入る。(2014/8/24 14:40)下:ライブ風景。(2014/8/24 13:55)第2部トークの司会は葛西さんと砂子さん。(2014/8/24 14:49)上左:みやぎ金曜デモの会代表の西新太郎さん。 (2014/8/24 14:13)上右:船形山のブナを守る会の小関俊夫さん。 (2014/8/24 14:21)右上:女川町議会議員の高野博さん。(2014/8/24 14:28)右下:希望の牧場・ふくしまの吉沢正己さん。 (2014/8/24 14:38) イベントの第2部は、ゲストのトークである。司会は、金曜デモの司会を続けている葛西さんに砂子さんが手伝う。金曜デモ代表の西さんの挨拶から始まる。 一人目の「船形山のブナを守る会」の小関俊夫さんは、宮城県北部3市町を放射能で汚染された指定廃棄物の最終処分場候補地とする政府、県への反対する考えを強く訴えた。 女川町議会議員の高野博さんは、文字通り「みやぎ金曜デモ」のもっとも身近な目標である女川原発の再稼働反対を訴えた。先日の「おながわから未来を考えるつどい」の「加藤登紀子ライブwith小出裕章in女川」には多くの女川町民も参加していて、原発の地元でも反対の人が増えつつあると語った。 最後に、東電福島第1原発から14キロしか離れていない浪江町で、政府の屠殺命令に反して牛の命を守るために闘っている「希望の牧場・ふくしま」の吉沢正己さんがその厳しい闘いについて話された。牛の命を支える牧草が枯渇しそうな危機にあるという訴えが切実だった。上:カフェのブース。(2014/8/24 13:56)下:シャボン玉コーナー。(2014/8/24 13:07)上:本部テント。 (2014/8/24 13:11)下:「楽器(カリンバ)をつくろう」のブース。 (2014/8/24 13:57) 会場にはいくつかテントが張られ、ブースが設けられた。カフェでは石臼で挽き立てのコーヒーが100円で提供され、私もいただいた。そのとき、石臼でコーヒー豆を挽かせてもらったのだが、もっとゆっくり静かに挽かないとおいしいコーヒーにはならないと教えられた。つまり、私のコーヒー豆挽き技術は未熟だというご託宣だったのだ。 一番の人だかりは、シャボン玉コーナーで子どもも多かったが、どうも賑わいのもとは夢中になっている大人たちのせいらしかった。 「楽器(カリンバ)をつくろう」のブースは、あまり動きがない。多少時間がかかる楽器製作にみんな集中していて、とても静かだ。 1分間リレートークのみなさん。(2014/8/24 14:47~15:00) イベント・集会の最後は、1分間リレートークで8人の方がそれぞれの活動、取り組みについて話された。どなたも宮城の人だったが、最後に話された人は、名取市から福島県浪江町に通って牛の世話をされているという。それも、初めは被爆地に残された犬たちが心配で検問をくぐり抜けて世話に通っていたのだが、ある時、たまたま牛舎に放置されたまま死んでゆく牛たちを見て、今の活動を決意したのだという。決意に満ちた意志的な活動のベースには、いつも命を何よりも大切に思う優しく強い心がある。アピール行進の準備。希望の牧場・ふくしまの車の横には吉沢さんが。(2014/8/24 15:11) 1分間リレートークが終って、いよいよデモ(アピール行進)の準備だ。250人以上のアピール行進が始まる。
2014.08.24
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【続き】Photo H1(左) 陸奥国分寺前から南へ向かう道。(2014/8/22 6:26)Photo H2(右) 椌木(ごうらぎ)通り。(2014/8/22 6:27) 陸奥国分寺参道前の交差点から南へ進む道をとる。向こうに斜めに横切る貨物線の架道橋が見える。架道橋のすぐ手前で右折すると、地図で見て、その珍しい名前に惹かれた椌木(ごうらぎ)通りである。あまり広くないまっすぐな住宅地の道である。 町内会掲示板に「かつてガホラ(空洞)のある大木があったといわれる通り」と書いてある。確かに、木の空洞を「椌」と表記するのはもっともらしい。 しかし、漢和辞典に拠れば、「椌」は「こう」と読み、中が空洞で左右に振ると内部の槌が内壁面を叩いて音を出す一種の打楽器のことだという。「ガホラ木」に「椌」を当て、それが「ゴウラギ」に変化したのだろう。いずれにせよ、かなりの難読地名だ。 さて、地図では、椌木通りの中頃から南に進み、保春院前丁を東に戻るような遠回りで保春院に行くしかないようだった。貨物線を越える(潜る)道が少ないように見えたためだ。 ところが椌木通りに入ってすぐ「保春院駐車場」の矢印看板が見えた。駐車場から寺へは近いだろうと、その案内にしたがって進むことにした。Photo H3(上左) 椌木通りから左折。(2014/8/22 6:28)Photo H4(下) 貨物線を潜って。(2014/8/22 6:30)Photo H5(上右) 保春院駐車場への道。(2014/8/22 6:33) 椌木通りに入ってすぐに左に折れ、貨物線をくぐり抜けて、線路に平行に進む。3、4分で右折の案内があり、貨物線の手前に駐車場があった。地図では分からなかった貨物線をくぐれる道なりに進むと、保春院から離れていくので、周囲を探してみたら、保春院の塀に小さな出入り口があって、高架下のスペース(道ではない)から行けるのだった。Photo I1(左) 貨物線高架脇の保春院入口。(2014/8/22 6:35)Photo I2(右) 保春院脇の白山神社。(2014/8/22 6:40) 小さな「保春院入口」を潜ると、すぐ右手に神社がある。陸奥国分寺薬師堂そばの白山神社と同じ名前の小さな神社である。 Photo I3(上) 保春院本堂。(2014/8/22 6:36)Photo I4(下) 保春院参道。(2014/8/22 6:41) 白山神社の向こうに保春院の本堂があるが、工事中で近寄れない。写真はフェンスの隙間から撮したもので、本堂前に数えきれないほどのハス(蓮)の鉢植えがあった。奥の方の鉢に白と赤の花がいくつか、それに蕾も立ち上がっていた。ハスの花はたいてい池の中で咲くので、花に顔を寄せるように眺めるというのはむずかしい。鉢植えの蓮なら近くでしみじみと見入ることができるというものだが、残念。 本堂から、参道を逆にたどって保春院前丁の通りに出る。参道入口には、「臨済禅宗妙心寺派 保春院」と「仙台藩祖公 御母堂菩提所」の石柱が左右にある。Photo J1 保春院前丁の通り。(2014/8/22 6:44)Photo J2(左) スーパー八百ふじと宮城第一信用金庫。(2014/8/22 6:45)Photo J3(右) 保春院前丁から椌木通りへ向かう道。(2014/8/22 6:46) 保春院前丁の通りは、けっこうモダンな感じの通りである。「ほしゅんいん前」という食堂があり、その向かいのスーパー八百ふじの隣には北欧風の建物があってレストランかなにかだろうと思ったが、看板は「宮城第一信用金庫」である。 とにもかくにも「保春院前丁」は見た。もう帰り足である。椌木通りへ向かう道に右折する。この道は、地図上の計画では逆方向に歩いて保春院へ行く予定の道だった。保春院から椌木通りまでは、予定コースを逆に歩くのである。Photo K1(左) ふたたび椌木通り。(2014/8/22 6:51)Photo K2(右) 白鳥神社。(2014/8/22 6:56) 広い道から椌木通りのやや狭い道に入る。いずれもこの辺の道はまっすぐで、ほとんど一般住宅である。陸奥国分寺というきわめて古い寺院がある土地の雰囲気ではない。おそらく、宮城野と呼ばれた原野に国分寺は孤立していたのではなかろうか。そういえば、国分寺の僧坊が連なっていたので「連坊小路」と呼ばれる土地は、市中心部にかなり近い。そんな時代が長く続いて(畑や田んぼの時代も含めて)、ある時いっせいに宅地開発がなされた。勝手な推測だが、そんな印象である。 椌木通りが終る少し手前、左手に「白鳥神社」があるというので、寄ってみた。あまり手入れされていない境内の奥にわりと質素な社殿がある。なにか由緒書のようなものはないかと入ってみたが、それらしいものはない。社殿の扉に「蜜柑を一箱ごと奉納される方へ、処理に困るので遠慮してほしい」という趣旨の貼り書きがあった。蜜柑一箱になにか特別な願がありそうだが、こればっかりは推測が難しい。Photo L1(左) 椌木通り西端を北へ曲る。(2014/8/22 6:58)Photo L2(右) まもなく新寺通り。(2014/8/22 7:03) 椌木通りは2軒ほどの商店が並ぶ曲がり角で終る(たぶん)。その角からはまっすぐ北に向かい、新寺通りの交差点に出れば、そこが出発点のパーキングである。 歩きながら気が付いたことだが、道沿いのアパートや店に「二軒茶屋」の地名が使われている。東京の三軒茶屋は「サンチャ」と呼ばれて有名だが、仙台の二軒茶屋は、あらためて地図で確認して気付いた。歩いている道の左手が二軒茶屋という地名の区域だった。 今日は、少し急ぎ足でいつもより長く歩いた。イオはいつだって喋らないが、なんとなく「むっつり」と形容したくなる雰囲気になっている。私の後をついて歩く様子は、「黙々と」あるいは「トボトボと」と形容したくなる。Photo M 疲れました。ぼんやりしてます。(2014/8/22 7:10)撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.08.22
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宮城県北部の農村から仙台に出てきた頃、つまりだいぶ昔のことだが、「花京院」とか「末無掃部丁」などという仙台の地名に心惹かれたのだったが、それも長い間暮らしてるあいだに場所も見慣れて、名前を聞いてもとくにときめくなどということはなくなった。 そんな地名の一つに「保春院前丁」というのがあり、少し遠くて今まで行ってみたことのない場所がある。保春院は藩祖・伊達政宗の生母で、菩提寺(牌寺)の寺名にもなっている。保春院前丁はその寺の付近の地名である。 先日、北山の覚範寺にある保春院の墓を見ていたとき、保春院前丁あたりを歩いてみようと思ったのだが、近くのパーキングを見つけられなかった。結局、新寺通りの東華中学校そばのコインパーキングから陸奥国分寺跡経由で保春院まで歩くことにした。地図を眺めていると、その途中に「椌木(ごうらぎ)通り」と言う地名があって、聞き慣れない「椌木」にも惹かれたのである。 保春院前丁は歩いたことはないが、陸奥国分寺薬師堂にはイオと行ったことがある。休日に、我が家から往復五時間ほどの遠足をしたのだ。それから10年後、老いた一匹と1人は、すぐ近くまで車でやって来たのである。Photo A 新寺通りと国分寺へ行く道の分岐。(2014/8/22 5:41) パーキングを出ると、東に延びる新寺通りには遠く貨物線を越える陸橋が坂となって見える。すぐ左に、住宅地のなかへ斜めに分岐する道があって、まっすぐ陸奥国分寺跡へ行くことができる。Photo B1(左) 木ノ下の住宅地の道(1)。(2014/8/22 5:43)Photo B2(右) 木ノ下の住宅地の道(2)。(2014/8/22 5:47) 道の向こうに国分寺跡の森が見えるが、散歩らしく少し迂回してみようと、南に向かう横道に入ってみた。その道は、現在の陸奥国分寺の裏にある墓の横を通る。 墓地に差しかかったころ、道のずっと向こうでシェットランドシープドッグらしき犬が、イオを発見して伏せの姿勢で待機している。散歩中のお母さんは困り果てて私たちを待っている。若い牡犬だったので挨拶をさせると、若い牡犬に喜んで、イオは遊びに誘う仕草をするのだったが、勘弁してもらって先を急ぐ。Photo C 陸奥国分寺前への道(「木ノ下丁」)。(2014/8/22 5:43) 墓を過ぎると広い道に出る。古い地図では「木ノ下丁」と名付けられている通りである。この道をまっすぐ進めば、陸奥国分寺跡の参道に出る。Photo D1(上) 陸奥国分寺・表。(2014/8/22 5:59)Photo D2(下) 陸奥国分寺・裏。(2014/8/22 5:52) 木ノ下丁の通りを左折する。左は住宅地、右は柵で囲われた広い草地の間の道は現在の陸奥国分寺の前に出る。こちらは現代建築風の寺である。この国分寺と陸奥国分寺跡の間に木ノ下公園があって、国分寺の前から公園に入ることができる。Photo E1 準胝観音堂。(2014/8/22 6:03) 木ノ下公園の南寄りに朱塗りの準胝(じゅんてい)観音堂がある。準胝(または准胝)観音は、真言宗系の六観音の内で唯一の女性の観音様らしい。Photo E2(左上) 準胝観音堂前の石仏。(2014/8/22 6:04)Photo E3(左下) 準胝観音堂後の石塔群。(2014/8/22 6:02)Photo E4(右) 準胝観音堂前横の芭蕉句碑。(2014/8/22 6:03) 準胝観音堂の周りには、たくさんの石仏、石塔、石碑がある。観音堂の正面右手には、三体の石仏がある。一番大きな石仏は、「一面三目十八臂」と謂れるほどには手は多くはないが、準胝観音と考えていいのではないかと思う。 観音堂の横手に芭蕉の句碑がある。「木ノ下」は歌枕の里でもあり、芭蕉も立ち寄っている。碑に彫られた句は、「あやめ草足に結ばん草鞋の緒」である。Photo E5 延命地蔵尊とまもなく14歳のイオ。(2014/8/22 6:01) 観音堂から少し離れたところに「延命地蔵尊」が小さな石の祠や石塔と並んで祀られている。来月早々14歳という高齢犬のイオをその前に座らせて、少しはあやかろうという魂胆だったが、人の気も知らず、地蔵尊はまったく無視して一番大きな石塔の前でやっと鎮座したのだった。Photo F1(上) 陸奥国分寺薬師堂。(2014/8/22 6:07)Photo F2(下) 陸奥国分寺鐘楼とサルスベリ。(2014/8/22 6:08)Photo F3 陸奥国分寺境内。イオはポーズをとるのはいやらしい。(2014/8/22 6:12) 木ノ下公園を抜けて薬師堂横から陸奥国分寺跡に敷地に入る。「陸奥国分寺は、聖武天皇の発願によって建立された国分寺の一つで、正式には護国山医王院陸奥国分寺と言います。国分寺にもかかわらず室町時代には見る影もなくなっていたのですが、仙台藩主伊達政宗によって再興されて、いま残っている山門、薬師堂、鐘楼などの建物はそれ以降に建てられたということです。 陸奥国分寺跡は国指定の史跡で、陸奥国分寺薬師堂は国指定の重要文化財になっています。」 前のブログのコピペである。もちろん、この文は説明看板の受け売りだ。STAP細胞の小保方論文騒動や、ヒロシマ、ナガサキの原爆犠牲者の慰霊式典で安倍首相が恥ずかしげもなく官僚作成のコピペ文を朗読したことなどで、「コピペ」という言葉は、すっかり人口に膾炙したようだ。私の妻も、阿部首相のおかげで一つの言葉を覚えることができた。 Photo G1(左上) 白山神社正面。(2014/8/22 6:17)Photo G2(左下) 白山神社の脇社。(2014/8/22 6:18)Photo G3(右) 白山神社本殿。(2014/8/22 6:19) 陸奥国分寺の境内には、かつての回廊跡などの礎石群が残されている。陸奥国分寺跡を出ようと仁王門を出てから、薬師堂の近くに神社があること思い出した。白山神社である。 薬師堂脇まで細道をたどると、簡素な神社が見え、周囲にはいくつかの脇社がある。「白山神社本殿」の由来書きによれば、陸奥国分寺創建時代に建立され、現在の社殿は伊達二代藩主が再建したという。だが、少なくとも正面の社は江戸時代初期の建物には見えない。 「須賀神社」「八幡宮」「雷神社」と並ぶ脇社の前を抜けると、後に小さいがみごとな構えの本殿があった。屋根の勾配曲線が何ともいえず優雅である。 Photo F4 陸奥国分寺参道と仁王門。(2014/8/22 6:25) 白山神社から「木ノ下丁」の通りまで出て来ると、交差点から北は陸奥国分寺の参道のようにまっすぐ仁王門に向かっている。 さて、つぎは保春院へ向かうのである。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。【続く】
2014.08.22
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【続き】 Photo H1(左) 荒巻街道(1)。(2014/8/18 6:14)Photo H2(右) 荒巻街道(2)。(2014/8/18 6:19) 現在でもこの道を「荒巻街道」と呼ぶのかどうか、定かではない。少なくとも、明治期の地図には「荒巻街道」と記されているのと同じ道である。 荒巻という地名はじつに広い地域を含む。旧市街にごく近い東北大学の青葉山キャンパスの住所は「荒巻字青葉」である。思うに、藩政時代に市街を囲む西や北の山の向こうを一括りに「荒巻」と呼んだのではなかろうか。青葉山はさておき、北山の北の地域は、いまや広大な住宅地になっていて、広い道路が何本も走っている。「荒巻」の雰囲気はかけらもないのである。Photo H4 荒巻街道と架道橋。(2014/8/18 6:24) 荒巻街道を東に向かうと、仙山線を潜る道が右に分かれる。仙山線を潜って、再び北山に登り、残った二つの寺を訪ねる。線路を潜るとコンクリート壁に「仙山線 北仙台・北山間 仙台市架道橋」というプレートが貼ってある。陸橋だとかガード下だとか呼んでいたが、正式な「架道橋」という言葉は初めてだ。文字通り、「道(の上)に架ける橋」なのである。なるほど。Photo I1(左) 架道橋からの線路沿いの道。(2014/8/18 6:25)Photo I2(右) 東昌寺裏の墓地への坂道。(2014/8/18 6:26) 「架道橋」を潜り、逆方向に戻るように線路沿いの坂道を上がる。すぐに東昌寺への指示表記があって、左の急な坂を上がって行く。坂の登り口に「この先は 東昌寺 かやの木町内会です 通り抜けできません」という表示があった。「かやの木町内会」というのはドラマに出てきそうな(つまり、フィクショナルな匂いのする)良い名前だ。 道は、東昌寺の墓地を迂回するように住宅地との間を行く。青葉町に属するこの住宅地の人たちが「かやの木町内会」を作っているのだろう。「かやの木」は、東昌寺のマルミガヤに由来すると思われる。Photo J1 東昌寺のマルミガヤ(丸実榧)。(2014/8/18 6:28) 東昌寺の裏手にその「マルミガヤ」がある。文字通り、この榧の実は長円形ではなく丸い。国指定の天然記念物である。「このマルミガヤは、東昌寺が仙台城の鬼門にあることから、伊達政宗が鬼門よけとして植えたものであると伝えられています。また、別名御前ガヤとも呼ばれていますが、これは種子が代々藩主の食用に供されていたためと言われています」と看板書きがあった。樹齢は500年を越えているという。 Photo J2 (上)東昌寺山門、鐘楼。(下) 東昌寺境内、本堂。(2014/8/18 6:31) 東昌寺の表に回る。境内には大きく姿の良い松がある。その木の下から本堂を撮してみた。山門は古びているが、その近くの鐘楼は新しい木肌を見せている。Photo K1(左) 東昌寺からサルスベリの花の下を。(2014/8/18 6:32)Photo K2(右) 光明寺の墓地へ。(2014/8/18 6:34) 東昌寺前の道を少し戻ると、サルスベリの木の下に光明寺へ抜ける小道がある。その道をたどると、すぐに光明寺の墓地の入口である。墓を通り抜け、本堂横から正面に回る。Photo L1(上) 光明寺境内、本堂。(2014/8/18 6:35)Photo L2(下) 光明寺山門。(2014/8/18 6:36) 光明寺の本堂裏手には、伊達政宗による慶長遺欧使節としてヨーロッパを訪れた支倉常長の墓があるはずなのだが、すっかり失念して回らずじまいになってしまった。 じつは、4、5年前に来たときも墓を見ないで帰ってしまったのだった。寺の裏手から入ると、大事な案内を見落としてしまうことが多い。当たり前のことだが、案内はきちんと参道を経て境内、本堂へ向かう人を対象にしていて、私のように横や裏から境内に入る人間向けには作らない。Photo L3(左) 光明寺参道(山門から)。(2014/8/18 6:36)Photo L4(右) 光明寺参道(通りから)。(2014/8/18 6:38) 光明寺の参道は、湿っていて滑りやすい石の階段だ。イオの急な動きを警戒しながら、手摺を頼りに下って行く。下からジャージ姿の年配のご夫婦が上がってくる。ご主人は黙々と(たぶん、必死で)通り過ぎていったが、のんびりした感じで後を歩く奥さんはイオを見てにっこりと挨拶を返してくれた。なんとなく女性が長生きだということに得心がいく出会いだった。 参道を下れば、北山町通りからまっすぐの道である。Photo J3(左) 東昌寺の参道。(2014/8/18 6:40)Photo M(右) 南に延びる青葉神社通り。(2014/8/18 6:41) 光明寺から下った通り(旧奥羽街道)を青葉神社の方に進む。ほぼ、朝の散歩時間を歩いたし、もともと北山五山(マイナス1)巡りを予定していたので、青葉神社はパスして、今日の散歩を終える《付録》 立ち寄らなかった青葉神社を4年前に訪ねていた。そのときの写真を4枚だけ掲げておく。この写真に写っている青葉神社の鳥居は、2011年3月11日の東日本大震災で倒壊した。現在の鳥居はその後に建てられたものである。Photo N1 青葉神社の鳥居と参道。(2010/5/29 9:56)Photo N2 青葉神社境内。(2010/5/29 10:04)Photo N3 青葉神社本殿。(2010/5/29 10:03)Photo N4 池の中島に建つ脇社。(2010/5/29 10:01)撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.08.18
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仙台の旧市街は、南は大年寺山、愛宕山、向山と連なる丘陵、西は青葉山の丘陵、北は国見から北山、台原と連なる丘陵で半円状に囲まれた中にあり、東は太平洋まで平地が広がっている。 北山とその南山麓のあたりには藩政時代から多くの寺が集まっている。そのなかで、北山丘陵の寺が「北山五山」と呼ばれているということをつい最近知った。地図を見れば、確かに五つの寺がある。そのどれも、一応はぽつぽつと無計画な散歩で訪ねたことがあったが、今日は意識して「北山五山」を歩くことにする。ただし、朝の散歩の時間内でを一回りするコースに五山すべてを入れることは難しいので、墓参でよく行く輪王寺は省略することにした。Photo A 青葉神社通り。青葉神社と交番。(2014/8/18 5:31) 旧奥羽街道(陸羽街道)は、市中心部は現在の国分町通りで、その道を北に進むと青葉神社通りと名前を変える。青葉神社通りは、文字通り北山の丘陵にある青葉神社で終る。奥羽街道は青葉神社の鳥居の前で直角に東に折れ旧国道四号に向かう。 青葉神社通りの駐車場に車を入れ、歩き出す。このあたりは通町である。じつは、この通りは通町通りと呼ぶのだとずっと思っていて、「青葉神社通り」という呼び方もごく最近知ったのだった。Photo B1(左) 北山町通り(1)。(2014/8/18 5:32)Photo B2(右) 北山町通り(2)。(2014/8/18 5:36) 通町公園の角にある交番の前を左折して、北山の南麓の道である北山町通りに入る。北山五山のそれぞれの寺の参道は、この道から右に入る。Photo C1(左) 覚範寺への石段参道。(2014/8/18 5:39)Photo C2(右) 覚範寺の山門。(2014/8/18 5:42 最初は、五山の真ん中に位置する覚範寺である。今日のイオは、なかなか元気で私を引っ張るように石段を駆け上がっていく。そして、ときどき振り返って、おやつを催促する。 いつ頃から始まったのか忘れてしまうほどずっと前から、このような階段道(歩道橋でも)を歩くとき、イオは必ず私の前を歩き、二、三段上のところでおやつを要求するのである。飼い主-飼い犬の関係が立ち位置の高低関係で微妙に変化して、おやつを要求する権利が発生すると思い込んでいるらしい。階段を下るときには、まったくこんなことは起こらない。 ほかにも、私が写真を撮ったりしてイオを待たせることがあると、歩き出す直前におやつを要求する。長く待たせたときにお詫び代わりにおやつをやったことを、いつのまにか、イオはルール化された権利と解釈しているのである。Photo C3 覚範寺の境内。(2014/8/18 5:44)Photo C4 覚範寺にある保春院の墓。(2014/8/18 5:51) 覚範寺には仙台藩祖、伊達政宗の生母・保春院の墓がある(という看板があった)。寺の裏に広がる墓地脇の道を進むと、一般の墓地の反対側にその墓はあった。写真の奥に大小二基の墓の小さい方が保春院の墓で、大きい方は伊達政宗の三男、宗清の供養塔(墓は大和町吉岡天皇寺)である。 保春院の墓はこの地にあるが、政宗は南小泉に「保春院」を建立し、母の牌寺としている。若林区の陸奥国分寺薬師堂に近いそのあたりには「保春院前丁」ばかりではなく「椌木(ごうらぎ)通り」など興味を惹く地名があって、ぜひ歩いて見たい一帯である。ただし、まだ駐車場が見つからない。Photo D1(左) 資福寺の参道(下方)。(2014/8/18 5:57)Photo D2(右) 資福寺の参道(上方)。(2014/8/18 5:57) 保春院の墓から引き返し、覚範寺の表の墓地脇を資福寺に向かう。道は資福寺参道の中腹に出る。資福寺の参道には紫陽花がびっしりと植えられている。花の季節ならば、さしづめ仙台のあじさい寺という趣きだ。Photo D3 資福寺境内、本堂。(2014/8/18 5:59) 山門を潜って境内を本堂に向かう道脇は竹林である。紫陽花といい、竹といい、道の真ん中の石灯籠といい、植栽とその配置に良いこだわりがあるようだ。大ぶりの本堂も迫力がある。Photo D4(左) 資福寺の裏門。(2014/8/18 6:00)Photo D5(右) 資福寺の墓地脇の道。(2014/8/18 6:02) 本堂脇を裏に向かう道にも紫陽花である。小さな裏門に向かう道も細道で、境内の道を細く造るだけでとてもいい雰囲気になるというのは、私にはちょっとした発見だ。 小さな裏門を潜って駐車場を抜け、墓地脇の坂道を北山尾根に向かう。この道は、保春院の墓までの覚範寺裏の道の延長と並んでいる。二つの道の狭い境界にも紫陽花が植えられていて、隣の道に移る時には紫陽花を傷めないようという注意書きがあった。 注意書きにしたがって、紫陽花に気をつけながら、途中で覚範寺側の舗装路に移った。Photo E1(左) 北山尾根から北へ下る道。(2014/8/18 6:05)Photo E2(右) 坂道の途中にホオズキ(鬼灯)が。(2014/8/18 6:06) 覚範寺からの坂道を登り終えると、そこが北山の尾根である。まっすぐの道は住宅地の中の階段道だ。坂道を下っていくと、ホオズキの鮮明な朱色(橙色?)が目に飛び込んでくる。 かつて、このホオズキの色に憧れて、庭に植えたことがあったが、なぜか根付かなかった。Photo F JR仙山線と踏切。(2014/8/18 6:08) 道はJR仙山線の線路に突き当たる。地図を見ながら歩く経路を考えていたときに、仙山線を越えるのがどうにも難しく思えた。地図には踏切が極端に少ないのである。 なんのことはない。線路沿いの道を歩きだしてすぐ、目の前に小さな踏切がある。これで「荒巻街道」に出ることができる。Photo G1(左) 踏切から荒巻街道までの道(荒巻新明町内)。(2014/8/18 6:10)Photo G2(右) 踏切から荒巻街道までの道(続き)。(2014/8/18 6:11)Photo G3(左) 荒巻新明町内のキョウチクトウ(夾竹桃)。(2014/8/18 6:12)Photo H3(右) 荒巻街道沿いのアサガオ(朝顔)。(2014/8/18 6:22) 仙山線の踏切を越え、住宅地の中の道をさらに北に向かう。左手に別れる道の先に夾竹桃の赤い花が見える。夾竹桃はけっして珍しい花木ではないが、仙台では意外に少ない。ゆったりと伸びた先に花をつける樹形が日本の庭に合わないのかもしれない。剪定、剪定でちまちま作るより、のびのびとしている方が似合う花木だ。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。 【続く】
2014.08.18
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Photo A 田町通りから猿曳丁通りを下る。(2014/8/9 5:21) 田町通りのコインパーキングが今日の散歩の出発点だ。とても涼しくて雨が降り出しそうな暗い朝だが、濡れても風邪を引くほどではあるまいと、高を括って歩き出す。 猿曳丁通りを下り始めると、右手の奥に大日堂があって、その境内の入口に小さな祠が祀られている。祠の赤い柱に「その道のプロの方へ 賽銭箱の中身は毎日取り出しておりますので悪しからず」と掲げられていた。「悪しからず」とシニカルに謝られても諦めないのが「その道のプロ」だろうな、とその道のシロウトは考えたのだった。Photo B(左) 土樋(つちとい)の通りを西へ。(2014/8/9 5:27)Photo C(右) 松源寺の看板で左折。(2014/8/9 5:32) 猿曳丁通りの坂を下り終えて右折し、土樋通りを行く。右手にずっと東北学院大学のキャンパスが続く。電柱の「松源寺」の矢印看板にしたがって左の道をとる。Photo D 松源寺の山門、本堂。墓地への道にはサルスベリ。(2014/8/9 5:36)Photo E(左) 米ヶ袋鹿子清水通りを下る。(2014/8/9 5:38) Photo F(右) 鹿子清水通りを振り返る。(2014/8/9 5:40) 道は松源寺の前で右に曲る。静かな住宅地が続いて、道は片平丁通りから降って来る米ヶ袋鹿子清水通りに突き当たる。鹿子清水通りの坂を下って行くと左に「東北大学本多会館」があったが、現在は使われていないようだ。 私が長年勤めた東北大学金属材料研究所(旧鉄鋼研究所)の初代所長で東北帝国大総長も務めた本多光太郎の旧宅で、金属材料研究所が客員の宿泊所として利用していた。客員の送迎で何度か来たことはあるが、私は屋内に入ったことはない。Photo G(左) 鹿子清水通りの端は縛(しばり)地蔵の境内。(2014/8/9 5:42)Photo H(右) 縛地蔵。(2014/8/9 5:44) 鹿子清水通りは縛地蔵の前で右に曲る。由来書によれば、縛地蔵は、歌舞伎や小説「樅の木は残った」で知られる伊達騒動の渦中、奸物伊達兵部との争いで非業の死を遂げた伊東七十郎の供養のために建立されたという。Photo I 縛地蔵から見る広瀬川、愛宕山、愛宕大橋。(2014/8/9 5:44) 縛り地蔵の前に広瀬川の河川敷公園があり、流れの向こうには愛宕神社や大満寺のある愛宕山、下流には愛宕大橋が望める。Photo J 縛地蔵からの道。(2014/8/9 5:46)Photo K(左上) 阿部次郎記念館。(2014/8/9 5:47)Photo L(右) 県工高前を右折。(2014/8/9 5:49)Photo M(左下) 垣根のカボチャ。(2014/8/9 5:50) 縛り地蔵から宮城県立工業高校(県工)へ向かう。住宅地の中に「阿部次郎記念館」がある。『三太郎の日記』で有名な哲学者、作家である阿部次郎は、東北帝国大教授でもあって、川内キャンパスには「三太郎の小径」と名付けられた散歩路もある。 県工に突き当たって右に折れると、垣根の上にカボチャの蔓が整然と伸びて、立派なカボチャが実っている。蔓を上手に這わせるのは難しそうだが、とても面白い栽培法だ。Photo N(左) 米ヶ袋中坂通り。(2014/8/9 5:53)Photo O(右) 中坂通りから米ヶ袋十二軒通りへ左折。(2014/8/9 5:54) 県工を迂回するように左に折れて、その敷地が終るあたりで米ヶ袋中坂通りに入る。中坂通りは少しだけ歩いて、すぐに十二軒通りに左折する。こうした通りの名は、旧地図に拠っているので、現在も地元の人が使っているかどうは分からない。少なくとも「米ヶ袋十二軒通り」は「歴史的町名活用路線」という立て碑があったので、建て前はどうであれ、いったんは使われなくなった名称だろう。Photo P 十二軒通りのどん詰まりからみる(上)霊屋(おたまや)橋、(下)経ヶ峯と鹿落(ししおち)坂。(2014/8/9 5:56) 十二軒通りは広瀬河畔に突き当たる。そこは河川敷公園への降り口で、上流には霊屋橋、川向かいには瑞鳳殿など伊達三代の墓所のある経ヶ峯の森が広がる。経ヶ峯の前を向山に向かう鹿落坂が走る。Photo Q 右は鍛冶屋前丁通りを片平丁通りへ、左は霊屋橋へ。(2014/8/9 5:59) 広瀬河畔から三叉路に出る。この道は、市中心部から向山、八木山へ向かう重要なバス路線になっている。この三叉路から片平丁通りへ上る坂道を「鍛冶屋前丁通り」と呼んでいたらしいことも初めて知った。Photo R1 東北大学正門。(2014/8/9 6:03)Photo R2~R5 東北大学片平キャンパス内。正門から(R2)。本部事務局棟、北門方向(R3)。南面方向(R4)。中央の庭(R5)。(2014/8/9 6:04~09) 片平丁通りから東北大学片平キャンパスに入る。正門を車は通れず、ほとんど北門と南門が人の出入り口になる。Photo S 東通用門から引き返す。(2014/8/9 6:12) 東北大学を卒業して、そのまま職を得て定年まで終えた身には見慣れたキャンパスなので、東の通用門からさっさと抜け出そうと思ったのだが、これが失敗だった。鍵がかかっていた。めったに通らない門だったが、ここを抜けて昼食を食べに行った記憶がある。夜間、早朝は閉じきりなのかもしれない。 同じ道を戻ることにイオはとても不満らしい。歩かないのだ。行くつもりになった気持ちをすぐに切り替えられないらしいのである。いつもの散歩路が工事中で通り抜けられないときの抵抗は激しい。潜るか跳ぶか、なんとかすると頑張るのだ。Photo T 五橋(いつつばし)通りと田町通りの交差点。(2014/8/9 6:19)Photo U(左) 田町通り。(2014/8/9 6:20)Photo V(右) 田町通りを振り返る。(2014/8/9 6:23) イオをずるずると引きずりながら南門からキャンパスを出る。五橋方向へ向かい、田町通りに入る。かつては商店街だったらしいのだが、今はマンションが建ち並ぶ道である。中には、木造土壁の昔の商家が数軒残っていたが、あまり手入れはされていないようだ。 コインパーキングは田町通りの南端に近いので、通りをほぼ歩き抜いて散歩は終る。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.08.09
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花のもとでひと休み。(左)マツバギクの前で。(2014/8/4 5:38)(右)ノウゼンカズラの下で。(2014/8/4 5:51) 広瀬川の河岸段丘の崖の上に宮城県知事公館がある。崖の下から知事公館を回るような坂道が「新坂(にいざか)」である。新坂からまっすぐ北に向かい、北山五山と呼ばれる寺の一つ、輪王寺門前に達する道が新坂通りである。 北山五山ばかりではなく、新坂通り周辺にはたくさんの寺院があり、仙台市北部の寺町の様相を呈している。かつては大切な道だったらしいが、現在は東北大学医学部のキャンパスで道は分断されている。Photo A 拡幅された木町通りを北へ。(2014/8/4 5:12) 新坂通りに平行に走る木町通り沿いのパーキングから歩き出す。木町通りは拡幅されたうえ、数年前に完成した北山トンネルでまっすぐ市郊外へ抜けられるようになった。トンネルを抜けてまっすぐ行けば宮城県立図書館があって、車でよく利用する道になっている。Photo B(左) 木町通りから左へ。(2014/8/4 5:15)Photo C(右) 支倉通り。右に恩慶寺の山門。(2014/8/4 5:19) Photo D(左) 支倉通りから新坂通りへ。突き当たりは和敬保育園。(2014/8/4 5:20)Photo E(右) 新坂通り。(2014/8/4 5:24) 木町通りから左折して支倉通りに入る。この支倉通りも分断している東北大学病院の敷地の向こうに続く通りである。 支倉通りを北に歩くと、まっすぐ向こうに北山の輪王寺の小高い森を見ることができる。道は途中で狭まるが、その手前に恩慶寺の山門がある。 山門の前を新坂通りに向かって曲る。道の脇、空き地の塀沿いに草付きがあって、イオがそこの匂いに執着して長々と調べるので、なかなか前に進まない。最近のイオは、どうもこうやって疲れるのを防いでいるらしい。 道の突き当たりの新坂通りには和敬保育園がある。この保育園の敷地は、隣の荘厳寺に抱え込まれているようだ。Photo F1(上左) 荘厳寺と和敬保育園。(2014/8/4 5:23)Photo F2(上右) 昌繁寺。(2014/8/4 5:25)Photo F3(下左) 充國寺。(2014/8/4 5:26)Photo F4(下右) 永昌寺。(2014/8/4 5:27) 新坂通りを北上すると、昌繁寺、充國寺、永昌寺と、寺の山門が次々と現われる。新坂通りは、我が家の墓がある北山霊園への墓参のためによく使う道で、一度はイオを連れた墓参で、北山までこの道を歩いて往復したこともある。イオも私ももうちょっと若かった頃のことだ。Photo G(左) 永昌寺裏の小道。(2014/8/4 5:29)Photo H(右) 小道の終り。(2014/8/4 5:29) 永昌寺を過ぎると小道が新坂通りを横切っている。右は階段のある小道で魅力的だったが、木町通りに戻ってしまうので、左折して永昌寺裏の曲がりくねった道を行く。 小道が終る手前で永昌寺の墓地が現われ、墓地に隣接してアパートがある。その向かいは小さな林になっていて、木立のなかに隠れるように小さなアパートと民家らしい建物があった。整地されていない木々の間にぽつぽつと車が停まっている。とても風情のある一画だった。Photo I 東北福祉大学へ向かう道。(2014/8/4 5:34) 小道の出口に大法寺の参道があって、奥に山門が見える。十字路を直進すると道は次第に左に曲り、向こうに東北福祉大学の建物が見えてくる。Photo J1(上左) 大法寺。(2014/8/4 5:32)Photo J2(上右) 大源寺。(2014/8/4 5:44)Photo J3(下左) 正圓寺。(2014/8/4 5:47)Photo J4(下右) 稱覚寺。(2014/8/4 5:49)Photo K(左) 三条中学校前。(2014/8/4 5:38)Photo L(右) 大源寺から南への道。(2014/8/4 5:45) 信号のある交差点を左折して三条中学校の前の道を歩く。中学校の向こう並びに墓地が見える。地図では、稱念寺の裏手の墓地らしい。 墓地を過ぎ、緩やかな坂を道なりに下っていくと三叉路があって、右奥に黒塗り金箔の大源寺山門が見える。山門脇の看板によれば、旧万寿院殿霊屋門だという。もともと仙台藩四代藩主伊達綱村婦人の仙姫(万寿院)の墓所の門だったものを明治初めにこの地に移築したらしい。昔の黒塗りは、本漆だったという。 大源寺前から南に向かう細道に入ると、正圓寺、稱覚寺の山門が道の右手に現われる。Photo M(左) 北八番丁通り。(2014/8/4 5:52)Photo N(右) 雲の中に太陽が。(2014/8/4 5:54) 稱覚寺を過ぎて少し行くと、道は北八番丁通りに突き当たる。この道もイオと何度も歩いている。散歩にはあまり向かないまっすぐな道だ。東に向かって歩き出すと、6時前なのにけっこう高く上がっている太陽が薄い雲を通して見える。Photo O1(左) 八雲神社。(2014/8/4 5:52)Photo O1(右) 満勝禅寺。(2014/8/4 5:53) 北八番町通りに入ってすぐ八雲神社の鳥居と満勝禅寺の参道が並んでいる。八雲神社は鳥居と本殿と小さな社務所だけがあって、境内は駐車場というじつに素っ気ない佇まいである。 満勝禅寺の参道の奥の松の木の曲がり具合、うねり具合が魅力的だったが、遠くから眺めるだけにした(以前の散歩で何回か中まで行ったことがあった)。Photo P(左) 再び新坂通り。(2014/8/4 5:59)Photo Q(右) 小道の抜け道。(2014/8/4 6:01) 北八番町通りは新坂通りと交差する。そこを左折して行くと、住宅の前を通る抜け道のような道がある。通り抜けられるか心許なかったが、向こうを小さな犬を連れたおじいさんが散歩している。後を追うように細道に入ってみると、すぐに支倉通りに出た。Photo R 再び支倉通り。右は県営支倉住宅。(2014/8/4 6:03) 支倉通りに出たところに県営支倉住宅の大きな建物が2棟建っている。支倉住宅を迂回して、さっきの歩き始めの道に戻って、今日の散歩は終る。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.08.04
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昨日と全く同じように、午前の早い時間から真夏日となり、真昼時に激しい雷雨だった。雨上がりの街を歩くと、湿度が異様に高く、汗が止まらない。 ブログで知り合った人で、俳句も短歌も創っている人がいる。その人が、「文月と葉月を取り違えてしまった」というブログを書いていた。取り違えたにしろ、「文月」や「葉月」を想い起こす暮らしの時間を持っているのだと感心した。 私といえば、原子力規制委員会の川内原発の審査書案や委員長発言に怒り狂ったり、姉の死を前にあたふたと仙台、大阪の往復を繰り返したり、いわば「剥き出しの生」のような余裕のない時間ばかりだった。「剥き出しの生」という言葉を思い出しても、それが、ミシェル・フーコーの著作による言葉だったか、ジョルジュ・アガンベンによるものだったか、判然としない。思想の書からも遠く離れてしまったような気分だ。そんなふうに継続的にへこんでいるのである。激しい雷雨跡で集会準備@錦町公園。 (2014/8/1 18:39) 原発に関して言えば、検察審査会が東京電力の旧幹部3人は起訴相当という結論を出したというそれなりに良いニュースもあった。 だが、今日の金曜デモのブログは写真だけにする。そして、デモを歩いた夏の宵にふさわしい詩の言葉を集めて、気分を変えることに専念することにした。いわば、即興のアンソロジー「夏の宵」である。へこみ続けている気分を思いっきり感傷にまみれさせるのだ。 初めは、一番好きな詩人の詩から。どこかで 母のよびごゑがする原っぱにくつといっしょに かうもりと 夕やみと駄菓子のように甘ずっぱい 淡い孤独が落ちかかる 吉原幸子「幼年連禱三 IVおとぎ話」から [1] 夏の夕方、原っぱで遊ぶ子どもたちを呼びに来る母親たちという風景は、今でもあるのか。私の母が亡くなったとき、そんな風景の思い出も消えたような気がして、私の幼年の記憶も消えたのだと思い込んでしまった。原発はゼロ、被爆もゼロ。 (2014/8/1 18:54)夕空はしろく映えをり不帰の客としらず発ちゆく人もあるべし 春日井建 [2]たつぷりと皆遠く在り夏の暮 永田耕衣 [3]別るるや夢一筋の天の川 夏目漱石 [4] 父、母、二人の兄、姉はもうずっと遠くにいって、私は彼らの誰もが住んだことない仙台の街で、夏の暮れを歩いている。錦町公園を出発。 (2014/8/1 19:04) 定禅寺通りで勾当台通り(国道4号)を渡る。 (2014/8/1 19:19) つい気分が死の影のほうへ傾いてしまうが、たとえば青春の夏だってあったのだ。青春はいずれ終る闘いの時でもあったのだが、それぞれの終りをそれぞれが生きる、つまり、当たり前のように別れは誰にでもやって来た。表紙にはタゴールの詩を掲げゐつかつてわれらはわれらの夏に 大口玲子 [5]君は君のわれはわれなるたましいの翼たたまむ夏草の中 道浦母都子 [6]これからは群れなすことも会うこともなかりき君よ 口紅をぬれ 福島泰樹 [7] デモは、一番町の風景になったかな? (2014/8/1 19:23)走り去った風風のうしろ姿街に 居場所はもはやない季節に名まへはもはやないわたしは笑ひだすわたしを眺める 吉原幸子「晩夏 7 又 別れ」から [8]今日のNo Nukes Fragile Tag。 (2014/8/1 19:30)一番町から青葉通りへ曲る。 (2014/8/1 19:37)カナかなが啼いている。隣りの子どもの声がする。ぼくはさっき街から帰ったばかりだ。街に何があるかわからない。ただ満ち足りた空洞のような場所からばくは毎日帰るだけだ。 菅原克己「ぼくの中にいつも 3 昼と夜の空のつぎ目」から [9] 青葉通りで東二番丁通り(国道4号)を渡る(BGはエルガーの「威風堂々」か)。 (2014/8/1 19:46) どれもこれも、脱原発にはふさわしくないような詩句ばかりだ。老いた身にも、それなりの闘いは残されてあるというのに。かなかなの空の祖国のため死にし友継ぐべしやわれらの明日は 寺山修司 [10] [1] 『現代詩文庫56 吉原幸子詩集』(思潮社 1973年)p.36。[2] 春日井建『歌集 水の蔵』(短歌新聞社 平成12年)p. 24。[3] 『永田耕衣五百句』(永田耕衣の会 平成11年)p.157。[4] 『わが愛する俳人 第四集』(有斐閣 1979年)p.149。[5] 『海量(ハイリャン)/東北(とうほく) 大口玲子歌集)』(雁書館 2003年)p. 20。[6] 『道浦母都子全歌集』(河出書房新社 2005年)p. 144。[7] 福島泰樹「歌集 転調哀傷歌」『福島泰樹全歌集 第1巻』(河出書房新社 1999年)p. 159。[8] 吉原幸子「詩集 夏の墓」『吉原幸子全詩 I』(思潮社 1981年)p.204。[9] 『菅原克己全詩集』(西田書店 2003年)p.242。[10] 『寺山修司全歌集』(講談社、2011年)p. 111。
2014.08.01
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