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【続き】 何とか給水塔の全容を見たいと、西面、南面と敷地に沿って歩き、あきらめきれずに東側の路地に入ってみたが民家の屋根の上にかろうじて塔のてっ辺が見えるだけだった。道も行き止まりだったので、諦めることにした。Photo H1(左) 複雑な道の構成。(2014/9/30 11:46)Photo H2(右) 一番奥の道は公園の脇。(2014/9/30 11:47) 行き止まりの路地から戻り、給水塔施設の南面の道の続きを歩く。変則的な十字路に出るが、その向こうに丁字路が見える。緑地脇の道らしいのでそこを歩くことにする。 丁字路を左折すると左手は公園で、駒沢緑泉公園と地図にある。おばあさんとお母さんと子供二人が敷物を敷いて遊んでいる。その公園でトイレを借りた。Photo H3(左) 階段を下りた道。(2014/9/30 11:53)Photo I1(右) アトリエ館へ案内表示。(2014/9/30 11:57) そのまま道を進めると道は右に直角に曲がっているのだが、鉄製階段を1.5mほど降りると直進できるのだった。階段道を選ぶ。 道はやや広い通りと交差する十字路になるのだが、ここで地図のどのあたりを歩いているのか分からなくなっていた。方角的には駒沢中学校横の向井潤吉アトリエ館に近づいているはずだと思いながら、とるべき道を決めかねていた。 周りを眺めていたら、左手向こうに緑地歩道らしきものがある。そこを歩くことにして近づいたら、入り口にアトリエ館への案内看板があった。まだ先だとばかり思っていたので、完全に道に迷っていて偶然に助けられたらしいと、その時は思ったのだった。Photo I2(左) 優雅な散歩道。(2014/9/30 11:57)Photo I3(中) 裏道に続いて。(2014/9/30 12:00)Photo I4(右) 駒沢中の西の道へ。(2014/9/30 12:01) しかし、確かに道迷いはしたが、そんなに方向感覚も距離感も狂っていたわけではなかった。緑の歩道は単なる家の裏道のようになったり、他の道を横切ったりしながら続くのだった。途中には案内板がところどころに配されていて、長い裏道歩きなのに迷うことはない。 細道は、駒沢中学校のグランドにぶつかる。そこを左に折れれば、まもなく向井潤吉アトリエ館のはずだ。Photo J1(左) 駒沢中からの道。(2014/9/30 12:01)Photo J2(右) 右手に向井潤吉アトリエ間。(2014/9/30 12:02) 駒沢中学校の西面の緩やかな坂道を登る。学校の緑と屋敷林の緑にはさまれたよい道だ。坂を登りきろうかというあたりに向井潤吉アトリエ館がある。門のある左の横道に入る。 Photo K1(上) アトリエ館の門。(2014/9/30 12:02)Photo K2(下) アトリエ館全景。(2014/9/30 12:28) かつての向井潤吉のアトリエは、広い敷地と大きな和風建築の風格のある家だ。門から湾曲する石積みの階段を上がるアプローチも風情がある。 観覧客も私以外はご老人夫婦の二人だけで、とても静かな雰囲気の中で、向井潤吉の風景画をゆっくり楽しむことが出来た。Photo L1(左) アトリエ館から坂を下って。(2014/9/30 12:31)Photo L2(右) 弦巻通り、「親和橋商店会」。(2014/9/30 12:31) 向井潤吉アトリエ館を出て、駒沢中沿いの道を下っていき、最初の十字路を右折する。街灯に「親和橋商店会」とあるが、弦巻通りである。Photo L3 「駒沢中学校」交差点。(2014/9/30 12:33)Photo M1(左) これも「水道みち」? (2014/9/30 12:34)Photo M2(右) 公園を出て北へ。(2014/9/30 12:36) 「駒沢中学校」交差点を左折してまっすぐ進めば東急世田谷線「松陰神社前」駅だ。まっすぐ行くつもりで左折したが、すぐ右手に緑道がある。これも水道みちかも知れない。地図上では、先ほど桜新町から歩いた水道みちの延長線にぴったり合うようだ。 少し回り道だが、その緑の歩道に入った。緑道は公園を横切る。公園を出ても、その先にずっと続いているようだが、松陰神社前駅に行く道に戻るように公園脇の道を左に進む。Photo N1(左) 「弦巻小学校」交差点へ向かう。(2014/9/30 12:40)Photo N2(右) 「弦巻小学校」交差点を右折。(2014/9/30 12:43) 3ブロックほど歩くと広い道に出る。これを左折すれば「弦巻小学校」交差点に出る。さらにその交差点を右折すれば、その先は松陰神社前駅だ。Photo O1(左) 「松陰神社通り」入り口。(2014/9/30 12:48)Photo O2(右) 松陰神社通り。(2014/9/30 12:49) 右折して道なりに歩いていくと、松陰神社通りの商店街が見えてくる。商店街の入り口には「萩・世田谷 幕末維新祭り」の横断幕が掲げられていた。萩市と同時開催の祭りということだろうが、どこのどういう部分が祭りに関連しているのか、商店街を歩いただけでは分からなかった。Photo P 東急世田谷線の下り電車。(2014/9/30 13:04) 松陰神社通りのお店で「大ざる」を注文して昼食としたが、食べきれなかった。最近、大ざるではお腹がいっぱいになりすぎる感じがしていたが、とうとう食べきれなくなったようだ。40歳のとき胃の切除をしているのでもともと量は食べられなかったのだが、好物の日本蕎麦なら大盛りもなんとかなっていたのだが......。 蕎麦屋さんを出て、松陰通りを行くと世田谷線の電車が道を横ぎって行く。そこまでいけば、今日の行程は終わりである。街歩きMap。A~Pは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.09.30
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「異国の空の下で」と銘打った向井潤吉の展覧会があるというのをネットで知った。世田谷美術館には何度か行ったことはあるが、分館の向井潤吉アトリエ館は始めてである。東急田園都市線「駒澤大学」駅と東急世田谷線「松陰神社前」の中間ぐらいに位置する。 ぶらぶら街歩きをしながら行ってみようと思ったが、駅から近すぎるので、「駒澤大学」駅を乗り過ごして、「桜新町」駅から歩き出すことにした。Photo A 「桜新町」駅を上って。 (2014/9/30 11:06) 駅から地上に出ると、方向を失って地図との対応がつかない。太陽の方向で方位を確認し、地図上の位置を定めたのだが、感覚的な思い込みを訂正するのは結構難しいのだった。 桜新町と言ったら「サザエさん」である、などと知ったかぶりをしてみるが、実際には、カメラを構えるおばさんがいて、カメラの先にサザエさん一家の彫像が並んでいるのを見たり、その隣には、「サザエさん通り」が向こうにあるよ、と知らせる看板があったので初めてそうだと気づいたのだった。 せっかくなので「サザエさん通り」に行ってみる。Photo B1(左) 「サザエさん通り」。(2014/9/30 11:08)Photo B2(右) 「桜新町商店街」の別名。(2014/9/30 11:10)Photo B3 交番前のY字路。(2014/9/30 11:12) サザエさん通りは、ごみごみしていない新出来の普通の商店街らしい雰囲気だが、中にはサザエさんの原画らしきものを4,5枚並べている八百屋さんがあった。野菜や果物などと一緒に並べられているのだった。 サザエさん通りはY字路となって、Y字に挟まれて交番がある。交番の前には「長谷川町子美術館まで あと60メートル」という看板がある。案内にしたがって、桜並木の右の道に入った。Photo C1(左) 長谷川町子美術館が見え出す。(2014/9/30 11:13)Photo C2(右) 正面玄関は横道に入って。(2014/9/30 11:15) 桜並木の道は緩やかな上り坂で、左手に赤いレンガ張りの長谷川町子美術館が見え出す。道に面した壁には小さな窓が一つだけで、入り口は左の横道に入ったところにあった。Photo D1(左) 桜新町の住宅街(1)。(2014/9/30 11:17)Photo D2(右) 桜新町の住宅街(2)。(2014/9/30 11:20)Photo D3(左) 桜新町の住宅街(3)。(2014/9/30 11:22)Photo D4(右) 桜新町の住宅街(4)。(2014/9/30 11:26) 長谷川町子美術館正面玄関のある横道に入ると、小さな緑地公園があってそこにもサザエさん一家の彫像があったが、なぜかフネさんとマスオさんはいなくて5人だけが並んでいた。磯野家にとってフネさんは嫁で、マスオさんは娘婿だという旧弊な家意識のせいか、などと考えたが、「まぁ、偶然だろう」ということにしておく。 道の向こうに首都高の高架が見えるが、その手前を左折する。そろそろ桜新町駅の方に戻り、あらためて向井潤吉アトリエ館に近づくように歩きなおさなければ...... サザエさん通りから入ったこの辺は、静かな住宅街である。首都高の手前で左に曲がってから、左、右、左、左、右と曲がった。微妙に地図との関係が狂っているようだが、おおまかに桜新町駅の通りに出ればいいだろうと見当をつけて歩いた。 左手の民家の敷地の一部に小さな稲荷神社の祠と鳥居がある。そこを過ぎると桜新町駅の通りだ。駅より少し東へ出るつもりが、駅から上がって歩き出したところだった。Photo E 桜神宮。(2014/9/30 11:32) 桜新町駅の通りを東に歩き、信号(「新町2丁目」交差点)を一つ越えると左手に神社がある。「桜神宮」だ。ふつう「神宮」と言うととても大きな神社を想像してしまうが、それほどでもない。 由来書きによれば、明治15年に新しい神道の一派として「勅許」を得て出来たのだと言う。「古式神道」を受け継ぐとあったが、カテゴリーとしては新宗教だろう。勅許で出来た神社というのがいかにも明治らしいが、国家権力の許しを得る宗教というのもまさに神道の本質を語っているようで面白い。Photo F1(左) 「水道みち」入り口。(2014/9/30 11:35)Photo F2(右) 十字路と交差する「水道みち」。(2014/9/30 11:36)Photo F3(左) 給水塔。(2014/9/30 11:39)Photo F4(右) 看板の給水塔写真。(2014/9/30 11:36) 地図を見ると、桜神宮の少し先にほぼ矩形状の道を斜めに走る道がある。その道の入り口に看板があって、「水道みち」(水道道ではなくちゃんと「水道みち」と書いてあるのだ)だという。太い水道管の上を歩行者専用道路にしていて、車は入れないし、駐車も禁止だという。この「水道みち」の先に「不思議な形をした」二本の給水塔があると書いてあったので、まっすぐ行くことにする。 一般道は東西南北に矩形状に走っているが、そこに「水道道」が斜めに交差すると、変形の六差路となる。クロスと丁字が路上に並んでいる。 水道みちの突き当たりに給水塔の上部が見える。木々に隠れて全容はよく分からない。水道みちの途中の看板に、この給水塔は外観に装飾電球があって、その様子の写真が掲示されていた。実物は部分だけしか写せず、看板写真の写真がPhoto F4だ。Photo G1(左) 給水塔施設の西の道。(2014/9/30 11:40)Photo G2(右) 給水塔施設の南の道。(2014/9/30 11:41)Photo G3(左) 給水塔施設の「土木遺産」の碑。(2014/9/30 11:41) 突き当たりの道を右に曲がって、給水塔施設の敷地を迂回するように歩く。敷地は石垣擁壁で囲まれていて、中の様子を窺えない。敷地の南西の角に「土木学会選奨土木遺産」の金属製の碑がある。表面仕上げの見事な金属板で、期せずして自分の写真を撮るはめになった。 街歩きMap。A~Pは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2014.09.30
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Photo G1 交番前の坂下通り(右の道)。(2014/9/29 13:45)Photo G2(左) 坂下通り、向原方向。(2014/9/29 13:47)Photo H1(右) 坂下通りの東の路地(1)。(2014/9/29 13:49)Photo H2(左) 坂下通りの東の路地(2)。(2014/9/29 13:53)Photo H3(中) 坂下通りの東の路地(3)。(2014/9/29 13:54)Photo H4(右) 坂下通りの東の路地(4)。(2014/9/29 13:55) 細道を辿って交番脇で坂下通りに戻り、ふたたび坂下通りを歩き出したのだが、そろそろ大塚駅に近づいていってもいい時間になった。もともと茗荷谷駅から大塚駅まで歩く計画だった。さっき歩いたような路地を抜けて、春日通りへ出て、さらに大塚駅からの道まで出ようと、細い横道に入った。 道はすぐに坂下通りに平行になる。春日通に抜ける路地はないかと、2度ほど右手の路地に入ってみたが行き止まりだった。そのうちの1本は、地図では抜けられそうに描いてあったが、1番奥に小さな鉄製の階段の端が見えたが、あまりにも小さくて、個人住宅用にしか見えなかったので、無理をしなかったのだ。 道は急に狭くなったりするが、何とか坂を上っていく細道を見つけた(Photo H4)。Photo I1(左) 春日通り、茗荷谷方向。(2014/9/29 13:56)Photo I2(右) 春日通りから大塚駅前通りへ抜ける道。(2014/9/29 13:58) 春日通に出るとすぐそこに信号があって、そこから少しばかり茗荷谷方向へ戻り、すぐ横道に左折する。道は湾曲しながら緩やかに下っていく。Photo J1(左) 大塚駅方向。(2014/9/29 14:01)Photo J2(右) 桜並木の道。(2014/9/29 14:02) 大塚駅前からまっすぐ南に延び、春日通りに合流する道に出ると、まもなく今日の街歩きはおしまいということだ。そんなことを考えながら広い通りを歩き出してすぐ、左手に桜並木のある坂道が現れて、引き込まれるように坂道を上がった。Photo J3 西巣鴨中学校も桜に囲まれて。(2014/9/29 14:04) 桜並木のある坂道は、花の春にはどんなにか美しいことだろう。けれども、桜の季節には全国至るところが桜の名所になって、私もきっとこの坂道を忘れているに違いない、などと思いながら坂を上りきると、十字路の向こうは西巣鴨中学校で、お決まりのようにソメイヨシノに囲まれている。Photo K1(上) 都電荒川線の踏み切り。(2014/9/29 14:07)Photo K2(下) 荒川線の電車「早稲田行き」。(2014/9/29 14:09) 西巣鴨中から桜並木道は下りになり、都電荒川線の線路に出る(Photo K1)。荒川線沿いの道を右折すればJR大塚駅に出るのだが、せっかくなので一駅間でも都電に乗ってみようと、反対方向へ歩き出した。 線路沿いの道を春日通まで歩くと、「向原」停留所である。停留所の交差点で信号待ちをしていると、早稲田行きの電車がやってきた。これが、写真の撮り納めだ。街歩きMap。A~Kは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.09.29
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東京メトロ丸の内線、茗荷谷駅は地下ではなく、谷底にある。一月ほど前、ちょっとした会議までの時間つぶしに茗荷谷駅で降りて駅前だけを眺めたことがあった。それが、茗荷谷駅から歩き始めるたった一つの理由だ。Photo A1 筑波大学の門と教育の森公園。 (2014/9/29 13:08) 茗荷谷駅前の春日通りを渡って、教育の森公園への道に入る。筑波大学の門があって、ここが東京教育大学の跡地だということが分かる。もともとは、徳川光圀の弟、徳川頼元(守山藩主)の屋敷跡で、明治期に東京高等師範学校がここに移り、教育大、筑波大となったという。Photo A2(左) 教育の森公園脇の坂道。(2014/9/29 13:12)Photo A3(右) 教育の森公園から出た道。(2014/9/29 13:15) 教育の森公園に沿って緑の歩道がある。一般道との境の並木は桜である。公園の大きな広場、児童遊具の広場を右に眺めながら歩いていくと、道は下り坂でまもなく公園は終わる。この坂道を小学2,3年くらいの子供が一気に駆け上がってくる。 突き当たって左に折れるとすぐ、春日通りから分岐してくる広い道に出る。右手の信号を渡り、そのまま横道に入って春日通に向かう。Photo B1(上) 春日通り、御茶ノ水大学前の交差点。(2014/9/29 13:18)Photo B2(下) 春日通り、大塚駅方向。(2014/9/29 13:20) 春日通りに出ると、お茶の水女子大学の前の交差点だ。キャンパス内を歩いてみたいと思ったが、敷地内には付属の幼稚園から高校まである。人相、風体とも卑しからざるとはとても言えない私には、やはり憚られるのだった。 お茶大出身の博士さんが、一時期、私の研究室で助手として働いていたことがあった。私としては大いに助けられたのだが、今は、キャリアと趣味を生かしてSF(サイエンス・フィクション)本の編集者として活躍している。 信号を大学側に渡ってから、道を北にとる。Photo C1(左) お茶大北側の細道。(2014/9/29 13:21)Photo C2(中) 突き当たりは小児科医院。(2014/9/29 13:25)Photo C3(右) 小児科医院脇の細道。(2014/9/29 13:25) お茶大の敷地北端沿いの細道があったので入ってみる。緩やかな坂道で、「通り抜けられません」という表示の前を右に折れ、二つ目の角を左に曲がると、突き当たりは小児科医院だった。医院からご婦人が出てきてすれ違ったが、カメラをぶら下げてぶらぶらと歩く人間はやはり気がかりのようだった。わたしとしては、会釈して通り過ぎるしかない。 小児科医院前で右折し、すぐ左折して医院横の道に入ると、緑が目に入る。医院の手入れされた植栽や、前の家の大きな木々がいい雰囲気をつくている。自転車のご老人が私を追い越していく。Photo D1 不忍通り、護国寺方向。(2014/9/29 13:27)Photo D2 「坂下通り入口」交差点から見る坂下通り。(2014/9/29 13:30) 細道を抜けると、不忍通りの坂道だ。左の方へ下っていき、「坂下通り入口」交差点を渡って坂下通りに入る。地図で発見して歩いてみようとおもったみちだ。広くもなく狭くもなく、緩やかに湾曲し、脇にたくさんの細道がある、地図的には魅力的な道なのだ。 茗荷谷駅周辺で昼食にしようと日本蕎麦屋を探したが見つからず、おいしいとは言えないラーメンで済ませてきたのに、坂下通りに入ると、3軒ほどおいて蕎麦屋さんが並んでいる。茗荷谷駅周辺には牛丼の店が3軒もならんでいたり、その向かいはマクドナルドで、なんとなく若者向けの街の印象だった。Photo E 吹上稲荷神社。(2014/9/29 13:35) 坂下通りから吹上稲荷神社への細道に入る。通り沿いと神社前の二つの鳥居をくぐっていく。境内の南と東側には「吹上稲荷神社」の旗がびっしりと並べられている。祭礼のときには町内を飾るのかもしれない。本殿の背後の高台の木々は、豊島岡墓地との間の森の一部と思われる。Photo F1(左) 坂下通り東の路地(1)。(2014/9/29 13:37)Photo F2(右) 坂下通り東の路地(2)。(2014/9/29 13:39)Photo F3(左) 坂下通り東の路地(3)。(2014/9/29 13:42)Photo F4(右) 坂下通り東の路地(4)。(2014/9/29 13:42) 神社から坂下通りに戻り、すぐ近くの信号を越えて、通りの東の路地に入る。私の前を、買い物帰りのご婦人が一人歩いているだけでまったく人通りがない。ご婦人は堂々と歩いておられたが、私は写真をとりながらぐずぐずと距離を置くように歩く。 ちょうどいい具合に素敵な被写体が現れる(Photo F2)。懐かしい木造建築の家で、道から1mほどのコンクリート擁壁の上に建っている。道からは鉄製階段で上がるようになっていて、小さな階段三つ並んでいる。家へのアプローチが絶たれて急ごしらえの階段ですませているように見えたのだが、家の脇には普通に上がる階段道があったので、便利だからこうしているということらしい。 まもなく、一つは坂を上がり、もう一つは坂を下る分岐道に出る(Photo F4)。さらに細くなる左の道に入る。道はうねっていて見通しが利かない。写真に収める構図を狙いながらカメラを覗き込んだまま歩いていたら、玄関前を掃除している若い女性が目の前に現れた。挨拶して通り抜けようと思ったのだが、熱心に箒を使っていて、まったく顔を上げることはなかった。 細道は、交番横で坂下通りに戻る。街歩きMap。A~Kは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2014.09.29
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9月27日午前11時53分に長野、岐阜県境の御嶽山が突然噴火した。今月に入って火山性地震が頻発していたが、これまでの御嶽山の火山性地震が必ずしも噴火に結びつくわけではなかったことや、山腹膨張などそれ以外の予兆がまったくなかったこともあって、噴火の予知は不可能だったという。そのため入山禁止などの措置がとれなかったので、多くの登山者が被害に遭い、28日現在、27人負傷、うち10人意識不明(朝日新聞)とか、7人が意識不明、42人が重軽傷(NHK)、あるいは山頂付近で31人の心肺停止が確認(毎日新聞ニュースメール)と報道されている。火山噴火を予知できないことで、大きな人的被害が出ているのだ。 肴町公園の集会風景。 (2014/9/28 14:15、14:27) 御嶽山噴火は、川内原発が新規制基準に適合していると判断した原子力規制委員会の結論がきわめて危ういことをあらためて示した。 九州電力は、川内原発の半径160キロ圏内に位置する複数のカルデラが、破局的な噴火を起こす可能性は十分に低いうえ、監視体制を強化すれば、前兆を捉えることができるとの見解で、それを規制委員会は容認した。 しかし、「東大地震研究所の中田節也教授は、カルデラ噴火の前兆は確実に捉えることができるとの見方を否定する。中田教授はロイターの取材に対し「とんでもない変動が一気に来た後に噴火するのか、すでに(十分なマグマが)溜まっていて小さな変動で大きな噴火になるのか、そのへんすら実はわかっていない」と話した」(REUTERS)と報じられているように、火山噴火の専門家は「前兆を捉えられる」とする「素人」の九州電力、原子力規制委員会の判断を否定している。火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長が、原子力規制委員会に予知する術はないと強く批判したのはまったく当然のことなのだ。 火山噴火の一点を見ても、原子力規制委員は各分野の専門家と称しながら、専門家の学術的な意見に耳を傾けないのである。彼らの判断基準が、もはや学問的、専門的な知見に基づいているとは言い難いということだ。自分の専門分野以外のプロフェッショナルに敬意を払えない科学者というのは、科学者としてのアイデンティティを自ら否定しているに等しい。 他人の専門性を尊重せずに、自分の専門性は尊重してほしいなどとは、合理的な理性の持主なら口が裂けても言えないはずだ、ガキじゃあるまいし。 私たちは、原子力規制委員会の川内原発に関する判断を否定し、安倍政権の原発再稼働の政治的策動に抗い、鹿児島県知事の再稼働推進を拒否するために、今日もデモに出かける。国分町通り(旧奥羽街道)を渡る。 (2014/9/28 14:40) 先週は山形市での一カ月に一度の日曜昼デモに加えさせてもらい、今日は地元の一カ月一度の日曜昼デモである。おりしも、今日は鹿児島県では「川内原発再稼働反対全国集会」が開催されている。現地に行けない私たちは、せめて心を合わせてデモをするのだ。 集会では、当然のように御嶽山噴火の話から川内原発の問題へと繫がるスピーチがあった。それに、最大救助訓練を名目にした米軍オスプレイ機が仙台にやってきそうだという話もあった。 肴町公園に集まった今日のデモのコースは変則的で、一番丁を少しだけ歩いて広瀬通りを西進し、晩翠衣通りを経て青葉通りを仙都会館までという経路をとるという。 肴町公園を出たデモは、すぐに奥羽街道だった国分町通りを横切る。夜の賑やかな飲食店街は、広瀬通りより北の国分町通りで、デモが渡っていくこのあたりは日本銀行仙台支店や地方銀行が並ぶビジネス街である。 一番町に入り、広瀬通りに向かう。 (2014/9/28 14:43、14:44) 一番町に入るとすぐ、クラシックの路上コンサートが行なわれていて、デモの列はコールなしで静かに通り過ぎる。そろそろコールの声をあげようかという頃にはもう広瀬通りである。 一番町から銀杏並木の広瀬通りに、晩翠通りに向かう。(2014/9/28 14:47、14:51) デモは一番町から広瀬通りに左折するのだが、広瀬通りをデモが歩くのは珍しい。この通りの並木は銀杏で、秋の早朝にはギンナン拾いのおじさんたちがけっこう出現する。 晩翠通りを行く。(2014/9/28 14:57) そういえば、広瀬通りから左折した晩翠通りの並木も銀杏だ。所々に粒の大きな実を成らせる木があって、ギンナン拾いはそのような木だけを狙うので、小さな実しかならない木の周囲は、車に挽きつぶされたギンナンが散乱することになる。小さな実も丁寧に拾えば、立派な社会奉仕なのだが……。 とはいうものの、早朝散歩で出会うおじさんの中には、取り置いていたギンナンを「ほいっ」と言って手渡してくれる顔見知りもいて、私は私で恩恵を被ってはいるのだ。 青葉通りの欅並木の下を。 (2014/9/28 15:02) 今日は日射しが強く、青葉通りに入ることにはすっかり汗をかいてしまった。こんな日に限って、夕方の冷え込みで風邪を引いてしまうのだ。一番町を過ぎる。 (2014/9/28 15:07)東二番丁通り(国道4号)を越えていく。 (2014/9/28 15:15) もう一つ、残念なニュースがあった。9月18日、経済学者の宇沢弘文さんが亡くなった。享年、86歳。合掌…… 1964年に36歳でシカゴ大学教授となった宇沢さんは、「新自由主義」経済を推進して世界に悪名を馳せたシカゴ学派の総帥、ミルトン・フリードマンとシカゴ大学で一緒だった。 私の以前のブログで紹介しているように、「新自由主義」は、アメリカ合州国の世界戦略としての経済的、軍事的侵略を支える経済思想として、世界中に貧困を撒き散らしてきた。その経緯は、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』 [1] に詳しい。 日本もまたアメリカ新自由主義に席巻されるのだが、典型的なフリードマン新自由主義の盲信者の一人が竹中平蔵で、小泉政権下で国民の経済格差が急激に拡大した最大の責任者(功労者? その功労で現安倍政権にも重用されている)である。 フリードマンの新自由主義の批判者であった宇沢さんは、当然のことながら、竹中平蔵を経済学者とは認めず、蛇蝎の如く嫌っていたといわれる。新自由主義が主張するのは、「資本の自由」だけであって、その典型は、「小さな政府」とか「民有化」という言葉に表われている。社会資本として蓄積されたインフラを含むシステムを民間資本に移して自由な経済的競争を促すというのだ。それは結局、国がシステマティックに国民に再分配していた富を一民間資本に独占させることであり、そのため国による富の再分配は消失して国民の経済格差が拡大する。多くの貧困層が出現するのだが、民間資本が豊かになることをもって経済発展と称するのである。 新自由主義こそ、福祉国家(ジグムント・バウマンの社会国家)を終焉に導いた経済思想なのだ。尊敬すべき経済学者、宇沢弘文さんのお弟子さんは多くおられるし、その遺志を継いで発言されることだろうと信じているし、そう強く期待もしている。 [1] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)。
2014.09.28
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秋らしく天の高い上天気である。こういう日を「百舌日和」と言うそうだが、山形市のまん中では百舌の声を聞くことはできないだろう。百舌日和ではなく、今日は「デモ日和」ということだ。 第二公園は大通りに面していないので、入る横道を見落とすのではないかと不安だったが、それを心配してくれる人が大通りまで出ていて案内してくれた。Photo J1 山形第二公園入口。 (2014/9/21 13:25) 公園入口には横断幕を纏った車が待機していて、取り付け作業をしている人に挨拶したら、みごとな山形訛りが返ってきた。三兄が西置賜の小国町に職を得て義姉はその地の人である。学生のころ、小国の町から雪道を2時間ほど歩いて行く義姉の母と祖母だけが住む実家で一週間ほど世話になったとき、おばあさんにしこたま聞かされた訛りの匂いがして懐かしい。 仙山線で来たことを話すと、ローカル線として仙山線がどれほど素晴らしいかという談義になった。 Photo J2(上) 主催者挨拶風景(1)。(2014/9/21 13:34)Photo J3(下) 主催者挨拶風景(2)。(2014/9/21 13:34) 公園にはほとんど集まっていて、遅刻もしていないのに私がほとんど最後の到着のようだ。時間通りに、主催者挨拶から集会が始まった。山形市の「幸せの脱原発ウォーキング」は、毎週金曜の夕方に行なわれていて、月一回だけ第三日曜日に昼デモを行なっている。今日が95回目のデモで、100回記念イベントを計画中ということだ。Photo J4 盛岡、仙台からの参加者も代表挨拶。(2014/9/21 13:35~45) 東北の脱原発グループは持ち回りで交流会を開いていて、今日のデモは山形での交流会でもある。盛岡、仙台のグループの参加者代表からの挨拶(地元の報告)の後に、山形県内各地から参加した人たちの挨拶が続く。Photo J5 1歳半の最年少参加者はママの陰。(2014/9/21 13:45) 一般参加者からのスピーチも次々続いて、皆さん強く訴えたいことを抱えていることがよく分るのだった。参加者の最年少は1歳半の坊やで、司会者に請われて、最年少参加者のスピーチ代わりにママが話された。これはお父さんの話だが、1歳半にもなるといろいろ手がかかって、最近は金デモに参加できないことがあるという。若くて頼もしい山形デモの貴重な戦力だが、子育て奮戦中でもあって大変なのだ。 最高齢の参加者は81歳の人で、挨拶を頼まれたがデモをちゃんと歩くために集会中はベンチで体力温存したいから断ったのだという。「1歳半の最年少が挨拶したのだから、最高齢も負けずに挨拶すべきでしたね。残念」などといって周りを笑わせていた。 私が81歳になる頃には、全原発の廃炉が決まって、デモをしなくてもいいようになっていてほしいのだが。Photo J6 デモに出発! ほんとにいい天気。(2014/9/21 14:21) Photo K1(上) 駅前大通を渡る(1)。(2014/9/21 14:26)Photo K2(下) 駅前大通を渡る(2)。(2014/9/21 14:26) 14:20、予定通りにデモは出発する。デモのコースは、公園を出てすぐ国道112号(羽州街道)に入り、その道をまっすぐ北上して山形市役所まで歩く。 このコースは、最上のデモコースのようだ。山形市の中心の通りだし、北上する一方通行で、デモはほとんど交通に影響を与えない。パトカーの先導はあるが、お巡りさんはデモについて歩かない。信号のある交差点に立っていて、デモがやってくると信号盤を操作してデモがするっと通り抜けるようにしてくれる。仙台のようにデモの列が分断されることはないのだ。デモのために信号時間を操作するのは東京でもやっていたが、大デモのためにやむを得ないのだと思っていた。 Photo L1(上) 白壁蔵造りの山形まるごと館「紅の蔵」前。(2014/9/21 14:28)Photo L2(下) 白壁蔵造りの「近江屋」前。(2014/9/21 14:31) 山形市は太平洋戦争では空襲がなかったので、古くて雰囲気のよい街並みが残っていると聞いた。たしかに、デモをしていると、白壁、瓦屋根の蔵造りの(昔の)商家が所々に残されている。仙台から初めて参加した私は、デモ半分、観光半分の気分である。旗、旗、そして旗。 Photo M1(上) 「アズ七日町」前(1)。(2014/9/21 14:40)Photo M2(中) 「アズ七日町」前(2)。(2014/9/21 14:41)Photo M3(下) 「アズ七日町」前(3)。(2014/9/21 14:42) 市役所に近づいていくと、通りはどんどん中心街の趣きが強くなる。ベンチに腰掛けて熱心に手を振ってくれるお年寄りがいる。ありがたいことに、いつでも、こういう人の応援のおかげで心が強くなる。 Photo N1(上) 「セブンプラザ」前付近。(2014/9/21 14:44)Photo N2(下) 文翔館が見えてきた。(2014/9/21 14:48) スムーズにデモの列は進み、道がやや広くなり、向こうに古めかしい建物が見え出す頃、最終地点に近づく。真っ正面に見える印象的な建物は、国指定重要文化財の旧山形県庁・県議会議事堂で、今は山形県郷土館「文翔館」となって一般に公開されているという。Photo O 山形市役所前到着。(2014/9/21 14:50) 山形市役所前に着いて、流れ解散でデモは終る。 この後は、各地から参加した人の交流会が「山形まなび館」の一室で開かれる。この「山形まなび館」も山形市で一番古い第一小学校の旧校舎だという。山形市は旧い建造物がたくさん残っているらしい。 次回の「街歩き・山形」を計画しなければならない。街歩きMap。A~Oは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.09.21
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山形県には数えきれないほど足を踏み入れたが、山形市は通り抜けるか、掠るかだけだった。なにしろ、山登りと鮎釣りが目的なので、県都・山形市で足を止めることはなかったのである。 事のはじめは、「脱原発みやぎ金曜デモ」からの案内で、山形市の脱原発デモに併せて東北の脱原発グループの交流会が開催されるというのだ。私は私で、仙台に近いところで行なわれるデモを見に行きたいと考えはじめていたところだった。主催スタッフの交流会らしいのだが、これさいわいと参加者に加えさせてもらったのである。 せっかくなので、山形市内をブラブラ歩きもやってみたいのである。Photo A1 山形駅。 (2014/9/21 11:35) 仙台駅発10時7分の各駅停車で、山形駅には11時28分に着いた。午後1時30分に始まる集会・デモまでは、2時間の余裕がある。山形城址、霞城公園に行ってみることにする。Photo A2(左) 斜めに駅を出て分岐する道。(2014/9/21 11:37)Photo A3(右) 左の道へ。(2014/9/21 11:37) 山形駅では、駅前と呼ばれる表の東口に出る。北へ向かって、JR線を越えれば山形城址に行くはずだ。JR線に沿って北へ向かう道は2本あって、広い道の方を歩く。Photo A4 JR線陸橋から見る山形城址。(2014/9/21 11:41) 道はすぐに広い道路にぶつかって丁字路交差点となり、左折してJR線(山形新幹線・奥羽本線、仙山線、左沢線)を越える陸橋の坂を上る。登りきったあたりから霞城公園らしい森が見える。方向的には森の向こうには葉山の山稜が見えるように思うが、遠くは雲がかかっている。 Photo B1(上) 山形城址南門前。(2014/9/21 11:45)Photo B2(下) 南門西の石垣とお堀。(2014/9/21 11:46) 陸橋の坂を下りきったところの交差点を右に入れば、山形城址の南門の橋に出る。橋を渡りきったところに「二の丸南大手門跡」の木標がある。Photo C 本丸の堀沿いに並ぶ人、人。(2014/9/21 11:51) 石垣の間の道をクランク状に折れると、公園広場と駐車場に出る。体育館に沿って駐車場を抜けると、本丸を囲む道に何百人もの大勢の人が並んでいる。並ばないと入れないほどの観光スポットがあるのかと心配したが、行けるところまで行くことにした。行列と体育館、武道館の間の道を行く。Photo D1(左) 山形市郷土館(旧済生館)。(2014/9/21 11:53)Photo D2(右) 旧済生館とイチイの古木。(2014/9/21 11:54) 武道館を過ぎて、右手の道に入っていくと山形市郷土館がある。この建物は、国指定重要文化財の旧済生館本館だという説明看板があった。それによれば、済生館というのは明治11年に建てられた県立病院で、西洋医学の教育と診療を行なっていたということである。 その旧済生館の脇にイチイ(一位、櫟)の古木があった。最上義光の時代からこの地にあったと推察されるらしいが、古木の風格はあるものの大樹ではない。 Photo E1(上) 本丸一文字門の石垣と空堀(南側)。(2014/9/21 11:59)Photo E2(下) 本丸一文字門の石垣と空堀(北側)。(2014/9/21 11:59) 旧済生館からふたたび本丸跡の周りの道に戻ると、本丸跡への入り口を行列が塞がないように整理係がいて、列の間から入って大手橋を渡り一文字門を抜けて、本丸跡に行くことができた。本丸の周囲にも堀があったが、こちらは空堀だ。 本丸跡には「本丸一文字門石垣復元事業」の大きな看板が掲げられていたが、見たところ、工事であちこち掘り起こしているだけにしか見えないので、まっすぐ野球場の方に抜けて、東大手門に向かう。 東大手門と本丸跡の間の広場にたくさんのテントがあって、何かを料理するらしい烟があちこちから立ち上がっている。大行列の目当てはこれらしいのだが、さて何を食べさせているのかは見当がつかない。 Photo F1(上) 二の丸東大手門(多聞櫓)。(2014/9/21 12:07)Photo F2(中) 多聞櫓を出て。(2014/9/21 12:12)Photo F3(下) 二の丸東大手門を出る。(2014/9/21 12:13) テントの並ぶ広場とは大違いで、東大手門前の広場はとても静かである。東大手門は開放中で中を見学できるという。L字型の多聞櫓の一方から入って、ポスター展示と発掘品の瓦などの展示が見て、もう一端から出るようになっていた。 Photo G1(上) 東大手門前の堀沿いを行くJR電車。(2014/9/21 12:13)Photo G2(下) 東大手門前全景。(2014/9/21 12:14) 東大手門を出て、お堀にかかる端を渡っていると、堀沿いのJR線を二両編成の電車が北に走って行くのが見える。さて、あの電車は左沢線か、仙山線か、奥羽本線を行く電車なのか、鉄道フアン(鉄ちゃんというらしい)ならぬ私には見当が付かない。 橋を渡って振り返ると、東大手門の南北に多聞櫓のある全景が見える。橋を渡りきった場所に、この門が山形城の正門で、南北に多聞櫓のある造りは枡形門と呼ばれ、江戸城の門に匹敵するものだと書かれている。平成3年から4年近い期間をかけて復元されたものだという。Photo H1(左) 山形駅に向かう道。(2014/9/21 12:17)Photo H2(右) くぐってきた陸橋。(2014/9/21 12:24) 東大手門を出たら、後は山形駅経由で「幸せの脱原発ウォーキング」集合場所の山形第二公園へ向かうだけだ。JR線に平行な細道を行く。霞城公園からの帰りらしい家族連れとご夫婦らしい二人連れとずっと前後しながらの道行きである。 霞城公園南口に行くために通った陸橋の下をくぐると、すぐ山形駅に出る。 Photo I1(上) 山形駅前大通り(1)。(2014/9/21 12:34)Photo I2(下) 山形駅前大通り(2)。(2014/9/21 13:21) 駅前大通りをまっすぐ行って、第二公園に向かうのだが、その前に昼食である。躊躇なく、冷たい「肉そば」の看板を見つけた。私の今年のマイブームが、この山形の「肉そば」である。鶏肉とネギだけを使う冷たい汁蕎麦で、昼食によく作る。 鮎釣りで山形に通い詰めていたころ、山形の釣り師の案内でごちそうになったのが初めてだった。その時のおいしさが忘れられずにいるのだが、なかなかそれに匹敵する味に出会わない。いまでも、夏に山形県に入ったときには、「肉そば」の看板ばかりを探しているのである。 「肉そば」を食べ終えて、駅前大通りをまっすぐ東に向かう。山形交通関連のビルが多いのに感心しながら歩いて行くと、第二公園入口に仙台で見慣れた顔が立っている。私のような土地に不案内な人間を心配していてくれたのだ。おかげで、無事到着したことを確認できたのである。街歩きMap。A~Oは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2014.09.21
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9月いっぱいは夏時間のデモなので、今や集合時間の午後6時半はもう真っ暗である。10月から冬時間で30分早く始まるものの、その頃はやはりもう暗くなっているだろう。もう春までは、夕デモではなくて夜デモになる。 今日は65人が、いつもの宮城県庁前の勾当台公園に集まって、県庁前、市役所前、一番町、青葉通り、仙都会館前といつものコースのデモである。宮城県庁前の通りで信号待ち。 (2014/9/19 19:08) 集会で、いくつかイベントの告知があったが、どれも興味深いものばかりだ。それぞれのチラシ、連絡先を開催順に記しておく。問い合わせ、連絡先info(at)sendaiyunta.com、電話090-9532-3636〔(at)は@に変えて〕問い合わせ、連絡先post-2917kuma(at)dokomone.jp、電話090-2738-3820〔(at)は@に変えて〕詳細、申し込み:〔HP〕 http//57byochisendai.jp県庁前から市役所前へ国道4号を渡る。 (2014/9/19 19:11) 一番町までは暗い道で、車のヘッドライトがデモの列に具合よく当たるかどうかで写真の出来が決まってしまう。 暗いと言えば、安倍政権になってからの政治状況は暗い話題ばかりになってしまった。フランスの哲学者ベルナール・スティグレールが2002年の4月21日のフランス大統領選で極右政党国民戦線のジヤン=マリー・ルペンが票を伸ばしたことに驚いて次のように書いている。その日恐ろしいほどはっきりとわかったのは、大統領選でジャン=マリー・ルペンに投票した人たちというのは、私が共に感じることのない人たちだということである。それはあたかも、われわれがいかなる共通の感性的体験をも共有していないかのようなのだ。私にわかったのは、それらの男性たち、女性たち、若者たちは今起こっていることを感じとることができない、それゆえ自分たちが社会に属しているとはもう感じていないということである。 [1] なぜそのようなことが起こるか、ということをスティグレールは『象徴の貧困』で論じている。私たち一人ひとりの「私」は、歴史的経験、思想、芸術などが作り上げた象徴を共有し、交換することで「われわれ」としてこの社会を形成しつつ存在している。樫村愛子は、それを「象徴的なものは、芸術に代表されるように、人の生の固有性を維持するものである。スティグレールは、象徴的なものの生産に参加できなくなると「個体化」の衰退が広まると述べる」 [2] と解説している。スティグレールの「象徴」は、樫村が言う文化がもたらす社会の「恒常性」に近いものだろう。 ハイパーインダストリアル時代に私たちは消費者として画一的な価値観に晒され、「みんなが買ったから、私も買う」というような「みんな」のなかの一人としての「私」でしかなくなっている。しかし、「個体化」が衰退して象徴を交換できなくなった貧困者は「消費者社会の中心であり、彼らこそ「文明」なのだ」 [3] とスティグレールは言う。 象徴の貧困者は、2002年のフランスでは政治的にはマジョリティとは言えないが、日本では石原慎太郎が都知事に圧勝し、橋下維新の会が大阪で圧倒的な支持を受け、いまや安倍自民党政権の支持者として重大な政治結果をもたらしている。日本における彼らの性向については、想田和弘の『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』 [4] が詳しい。脱原発犬チョモランマさん専用車。 (2014/9/19 19:20)広瀬通り前で信号待ち。 (2014/9/19 19:25)藤崎デパート前。 (2014/9/19 19:31) 象徴の貧困者が、スティグレールが言うように「消費者社会の中心」なら問題はかなり深刻である。しかし、スティグレールは、次のようにも語っている。私がここで象徴の貧困と名付けたのは、まずこの極右政党に投票した人たちが苦しみ、投票という証言――その証言がどんなに醜悪なものであり、またそう見えたとしても――をしているその貧困のことである。ただし、その政党そのものと私が話し合うということは当然ながらあり得ない。しかし、国民戦線との話し合いを拒むからといって、この政党に投票した人たちと話し合わないということでは決してない。それどころか私は誰よりもその人たちに向かって話さなければと考えている。 [5] そして、「国民戦線へ投票する人たちに異議を申し立てる闘いにおいて、私が彼らに何よりも言いたいのは、私の彼らへの友情なのだ」 [6] とまで断言する。スティグレールは、「ARS INDUSTRIALIS」なる国際運動組織を立ち上げて、消費者社会が席巻する現代文化の問題に立ち向かっているというが、その詳細を私は知らない。 いま、スティグレールを含めて多くの人びとが、友情を持って「彼ら」に話しかける内容、方法を模索しているに違いない。私もまた何かを、と願ってはいるのだが。青葉通り(まもなく国道4号)。 (2014/9/19 19:40) デモは青葉通りに出る。一番町近くの青葉通りは、地下鉄東西線の工事がまだまだ続いていて、工事で変則的に狭くなっている車道を歩くデモの安全にスタッフが気を使う箇所だ。 国道4号を渡ってくる。 (2014/9/19 19:43) 今日の参加者は65人、お巡りさんがタイミングを見て上手く誘導すると、国道4号の大通りを何とか1度で渡るきることができるぎりぎりの人数のようだ。なんとなく、みんな少しばかり急ぎ足になって渡ってくる。 仙都会館前に到着。 (2014/9/19 19:46)[1] ベルナール・スティグレール(ガブルエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳)『象徴の貧困 1 ハイパーインダストリアル時代』(以下、『象徴の貧困』)(新評論、2006年) p. 24。[2] 樫村愛子『ネオリベラリズムの精神分析――なぜ伝統や文化が求められるか』(光文社、2007年) p. 95。[3] 『象徴の貧困』 p. 26。[4] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。[5] 『象徴の貧困』 p. 211-2。[6] 『象徴の貧困』 p. 218-9。
2014.09.19
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【続き】 Photo G1(上) 満願寺本堂。(2014/9/4 6:08)Photo G2(下) 満願寺山門(境内から)。(2014/9/4 6:08) 細道をクネクネとたどっていた地区は大町1丁目に含まれる。大町1丁目を抜けて、錦町公園に向かう途中に満願寺がある。裏側の細道から入ったのだが、寺の山門は愛宕上杉通りに面している。 この寺は、妻の祖父の代までの菩提寺であった。妻の親の代で一家はクリスチャンになったものの、墓は北山霊園の中の満願寺管理区域内にあって、毎年満願寺に供養料を払っている。 妻の旧姓を名乗る人間としては同居している義母だけになったので、私の姓を併せた墓に建て替えて、墓を引き継ぐことにした。半分がクリスチャン、半分が無宗教という我が家の宗教事情を承知のうえで、満願寺の住職さんは墓の建て替えを快く承諾してくれた。唯一の条件は、周囲は仏教徒なので新しい墓石はあまり周囲と異和感のないものにしてほしいということだった。 そんなことがあって、定年退職の年にいずれ私も入る墓ができて、あとは死ぬばかりになったのである。Photo H 錦町交番前の交差点。(2014/9/12 6:12) 満願寺を出て、その満願寺の裏手の道から愛宕上杉通りに出た。道の向かいは錦町公園である。錦町交番前の交差点を渡る。その交差点は変則十字路で、そのうちに1本が錦町公園脇を通る細い道である。その道に入る。Photo I1(左) 錦町公園横の「大仏前通り」。(2014/9/12 6:14)Photo I2(右) 瀧澤神社。(2014/9/12 6:15)Photo I3 錦町公園下の六差路。(2014/9/12 6:17) 錦町公園の東隣の道は、「大仏前通り」である。その昔、現在の錦町公園のあたりに大仏のある寺があったことが由来だが、今でもそう呼ぶ人がいるのかどうかは分からない。 南に向かう道が下りはじめるあたりに瀧澤神社があった。由来書きのようなものを探したが見つけられなかった。 錦町公園が終るあたりに六差路がある。六差路の写真(Photo I3)の左手、三階建の一階部分はかつてフランス料理のレストランだった。だいぶ前のことだが、妻に誘われてそのレストランで食事をしたことがあった。レストランの窓から眺める夕暮れ時の坂道というのは、とても雰囲気のいい景色なのだった。助教授昇進を妻が祝ってくれた日のことである。 そのフレンチレストランは、今は「BISTRO THAI」という看板のタイ料理のレストランに替わっていた。Photo I4(左) 六差路からの道。(2014/9/12 6:18)Photo J1(右) 「元寺小路」。(2014/9/12 6:20) Photo I3の左手、まっすぐに下る道を行く。この道が最初に交差するのが元寺小路である。元寺小路は、かつてまっすぐ東に伸びていて、現在の広瀬通りの一部、エックス橋のあたりを過ぎ仙台駅東まで続いていた道である。 元寺小路という名前だが、仙台駅から西側には寺町の面影はまったくなくて、先ほど立ち寄った満願寺だけが一番近い寺として残っている。ネーミングの契機というのは想像できないが、寺町を新、元で区分けしたと考えていたのだが、もうなくなった寺町の意で「元」と名付けたのかもしれない。Photo J2(左) 「本町家具の町」。(2014/9/12 6:21)Photo J3(右) 五差路交差点付近。(2014/9/12 6:22) Photo J4 五差路のうち、北の2本。(2014/9/12 6:22) 元寺小路を西に向かう。かつて元寺小路と呼ばれたこの道は、本町二丁目にある。私にとっては「本町家具の町」という宣伝文句の通りの、家具屋街のイメージである。結婚したときと、家を建て直したときに妻と歩いた通りである。今はだいぶ減ってしまったが、家具屋がたくさん並んでいたのである。Photo K1(左) ビルの間の裏道。(2014/9/12 6:23)Photo K2(右) 高いホテルビルの間。(2014/9/12 6:25) 元寺小路をまっすぐ西に進めば、東二番丁通り(国道4号)に出る。その手前で、ビルの間の道に入ってみた。ホテルが建ち並ぶ一角の典型的な裏道だ。広角レンズを使ってもホテルビルの最上部まで入らない。 イオもつまらないらしく、寄り道なしでさっさと歩く。そういえば、今日のイオはとても元気だ。ビルの間の道ばっかりで、きっとふてくされるに違いないと予想していたのだが、元気にどんどん歩く。たぶん、13℃という冷涼な空気のせいだ。この種の犬は、冬の生き物なのだ。Photo L1(上) 東二番丁通りから見る「広瀬通り」交差点。(2014/9/12 6:25)Photo L2(下) 再び広瀬通りへ。(2014/9/12 6:26) 東二番丁通りに出る。いつものことだが。大通りへ出ると散歩の気分は急激に萎える。一匹と一人が裏道をウロウロと徘徊するのが散歩だというイメージもかなり胡散臭いが、細道の方が歩足する人間の空間感覚にずっとマッチしているのだ。Photo L3 今日の散歩はもう終り(広瀬通りで)。(2014/9/12 6:27)撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.09.12
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1日、2日と日延べしてやっと快晴の朝ドラ散歩である。全天、雲一つなく、気温は13℃、ひんやりする散歩日和である。とはいうものの、今日は散歩にふさわしからぬビル街の予定だ。花京院、元寺小路、茂市ヶ坂、大仏前通りという地名(もう使われていない名前も含めて)に惹かれた選択である。 けっこう歩いている道だが、ビル街なのでわざわざ散歩に行くようなことはなかった地域だ。Photo A 広瀬通りを東へ。(2014/9/12 5:35) 広瀬通りのコインパーキングから歩き出す。東に歩き出すと、上りはじめた太陽がほぼ目の高さで痛いくらいの眩しさだ。 気温が低いせいか、イオはかなり元気だ。心配はビル街でのイオの排泄だ。コンクリートの上でおしっこをされれば、水で洗い流さなければならない。面倒だなと思っていたら、いきなりおしっこである。それもビルの間の50cm四方くらいの雑草のスペースを見つけて屈み込んでいる。けっこう親孝行で感心する。 Photo B1(上) 愛宕上杉通りの「中央2丁目」交差点。(2014/9/12 5:37)Photo B2(中) 歩道橋を上がる。(2014/9/12 5:38)Photo B3(下) 交差点脇に弔いの花が供えられて。(2014/9/12 5:40) 「中央2丁目」交差点で愛宕上杉通りを越える。この通りをずっと「東五番丁通り」と呼んでいた。「愛宕上杉通り」という名前は、つい最近知ったばかりだ。仙台中心部は、私が知っているかぎり、東一番丁から東九番丁まで、北一番丁から北八番丁まで割り振られていて、最大の商店街「一番町」はかつての東一番丁である。 歩道橋を渡って降りた角に2本の花立てに花束が供えられていた。おそらくは交通事故でなくなったどなたかの供養であろう。イオは花束の様子を調べ、私は黙礼して、また歩き出す。 Photo C1(上) 駅前通りの向こうはエックス橋。(2014/9/12 5:43)Photo C2(下) ペデストリアンデッキ下から見る駅前通りと横の細道。(2014/9/12 5:45) 広瀬通りをさらに進むと駅前通りに出る。広瀬通りはここまでだ。交差点の向こうはJR東北本線を越える陸橋で、その橋の正式名称は知らないが、仙台人はずっとエックス橋と呼んでいる。今も橋の周辺の道は複雑だが、端の両端で道が分岐していたのでこんな名前がついたのだろう。 駅前通りを越えて、JR線と駅前通りの間の道を歩くのが、今日の目的の一つだ。この区域はまだ歩いたことがないのである。Photo C2の真ん中の細道に入る。Photo D1(左) 緩やかな坂の細道。(2014/9/12 5:47)Photo D2(右) 東隣の道へトラバース。(2014/9/12 5:49)Photo D3 JR東北本線と東北新幹線(仙台駅方向)。(2014/9/12 5:50)Photo D4(左) JR線沿いの道を北へ。(2014/9/12 5:51)Photo D5’(中) 曲がり角で遭遇。(2014/9/12 5:53)Photo D5(右) 猫が来た道を行く。(2014/9/12 5:53) 駅前通り交差点からの細道は緩やかな坂道である。左手のホテル脇まで来ると、歩道が拡がる。坂の途中で、平行に北に上がるJR線沿いの道に移ることにして、横道に入る。JR線の前で丁字路となり、右手の仙台駅方向は東北本線と東北新幹線のすぐ脇を道が通っている(Photo D3)。歩いて行く左手の道とJR線の間にはビルや民家が並んでいる。 緩やかな坂を上がり、広い花京院通り(国道45号)の出る前に、もう1度最初の細道に戻るために左折すると、いきなり白黒斑の猫に出会った。激しく威嚇されて少しだけ呆然としていたイオも気を取り直して、わざとらしく近づく振りをしながら猫の前を通り過ぎる。Photo E1 花京院通り(国道45号、塩竃街道)。(2014/9/12 5:56) 花京院通りに出る。この道は、国道45号で塩竃街道などと呼ばれることもある。花京院通りの南側は花京院1丁目、北側は花京院2丁目と地名に残る花京院という寺は、駅前通りと花京院通りが交差する付近にあったらしいが、明治に入って廃寺となったということだ。 花京院通りを西に進むと、右のビルの前に花冠を手に持つギリシア彫刻風の大きな女神(たぶん)像がある。ビルは、第5高昇ビルと言うらしいが、詳細は分からない。道を渡って確認する労を惜しんだのである。Photo E2 駅前通り(「花京院」交差点から)。(2014/9/12 5:59) 花京院通りと駅前通りとの「花京院」交差点に出て、そこから「茂市ヶ坂」を下るのである。茂市ヶ坂とは、駅前通りから分岐して広瀬通りに下るPhoto E2の真ん中に写っている細道である。Photo F1(左) 「茂市ヶ坂」。(2014/9/12 6:00)Photo F2(右) 茂市ヶ坂の横道。(2014/9/12 6:02)Photo F3(左) 右折すると東北電力本店ビル裏へ。(2014/9/12 6:04)Photo F4(右) 東北電力本店ビル裏の道。(2014/9/12 6:05)Photo F5 東北電力本店ビル脇の道。(2014/9/12 6:06)Photo F6 満願寺裏を通って愛宕上杉通りへ。(2014/9/12 6:10) 「茂市ヶ坂」という名前は知らぬまま、この道は2、3度通ったことがある。駅に近いので、ホテルなどが並ぶ道である。 全国展開する東横インの「仙台西口広瀬通」も茂市ヶ坂にあるが、西口というネーミングはなかなかなじめない。かつて、仙台駅の西は「仙台駅前」で、東は住宅地や寺の多い駅裏であった。 ある時、古い東北大学卒業生の集まりで集合場所を「仙台駅西口」としたら、問い合わせが多かった記憶がある。古い人間には「駅前」の方が通じやすいのである。 広い道を避けて、細道を何回も曲って錦町公園の前に向かって歩く。途中の細道は、東北電力本店ビルの縁をたどるように迂回する。ビルの正面は、花京院通りの側にある。そこでは、毎週金曜の夕方には東北電力女川原発再稼働反対の意思表示のためのスタンディング抗議が行なわれている。もちろん、宮城県の女川原発だけではなく、青森県の東通原発の再稼働にも反対している。 2度ほど「脱原発みやぎ金曜デモ」の後、回ってみたことがあるのだが、本店前に着いたときにはスタンディング終了後だった。どちらの時にも、駅前の丸善で本探しをするついでに回ったので、間に合わなかったのだ。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。【続く】
2014.09.12
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東北大学片平キャンパス北門前に集合。(2014/9/12 18:30、18:31、18:34)チョモさんも元気に参加。 (2014/9/12 18:34) 今日のデモは、東北大学片平キャンパス北門前に集合で、集会なしのデモだけだ。集会がないということは、遅刻したらデモは出発してしまうということで、じっさい、以前の北門集合デモでは完全に置いていかれことがあった。 だから、少し遠回りだが、デモコースを逆にたどるように東北大学に向かう。遅刻しても、どこかで出会うという算段なのだが、こんなふうに知恵を使った日に限って遅刻はしないのである。 遅刻できないのは私ばかりではないので、たくさん集まっている。チョモ(チョモランマ)さんも参加している。しばらくぶりで会ったような気がする(少しだけ、チョモさんのお母さんと犬談義)。かつての古本屋街を行く。(2014/9/12 18:42、18:43) 主催者からデモコースの説明と注意があって、デモは出発する。東北大北門から、まっすぐに北上する道はかつて「東一番丁」と呼ばれていて、いつからか「一番町」ということになっている。 青葉山や川内に東北大学の各学部が移転する前は、五橋通りと南町通りの間には古本屋が並んでいたが、今は2軒だけになった。南町通りを過ぎたところに金港堂、丸善、高山書店と本屋が並んでいたが、こちらも金港堂だけになった。 学生、院生の6年間、片平キャンパスを出て、次々に古本屋に入り、さらに金港堂、丸善、高山書店と回るのが日課だった。問題は、金がなくて滅多に本が買えないということで、その日課はほとんど「ただの散歩」だった。一番丁の商店街に入って。(2014/9/12 18:48) その学生、院生の頃、私は原子力工学を勉強していたのだ。その後、原子力工学を捨てて物理学に移ったのだが、所属した物理の研究室は、何の因果か「放射線金属物理学講座」だった。 自慢じゃないが、「第一種放射線取扱主任者」の国家資格も持っていて、一時期は職場の放射線取扱主任者として安全管理業務に携わったこともある。放射線作業従事者の被爆防護に神経を使ったことなど、フクシマ原発事故の放射能汚染や被爆と比べれば、笑ってしまうほど瑣末なことに過ぎないものになってしまった。フクシマの現状から言えば、私たちの職場の放射線作業従事者は現在の一般人よりはるかに安全な作業をしていたことになる。 放射線作業を行なう職場においては、法によって「放射線取扱主任者」が安全管理を行なうことが義務づけられているうえ、作業従事者(教官も学生も)は放射線取り扱いについて一定の教育訓練を受けなければならない。しかも、一年を超えない期間に再教育を行なうことすら定められている。 しかるに、福島では「福島エートス」と称して、住民一人ひとりに放射線被曝を管理させようとしている。住民を避難させることなく、「住民が主体となって地域に密着した生活と環境を回復させていく実用的放射線防護文化の構築を目指す」という屁理屈で、被害者である住民の「自己責任論」的なごまかしを行なおうとしている偽善団体があるのだ。 大量殺人者がそこにいるのに、「自己責任で殺されないようにしましょう」と主張するばかりで、殺人鬼の存在は放置したままのような欺瞞なのである。アーケードに反響するコールは写真に写らない。(2014/9/12 18:58)一番丁から広瀬通りへ。(2014/9/12 19:00、19:01) 欺瞞と言えば、とうとう9月10日に原子力規制委員会は川内原発1、2号機が新規制基準を満たすと正式に決めた。もともと政府の雇われ委員会なのだから、学識者の良心など期待すべくもない。残念ながら、予想通りと言うしかない。 あるマスコミが、規制委員会の決定を発表する田中俊一委員長の表情がこわばっていたと評していたが、それは当然だろう。私よりも一年早く東北大学工学部原子核工学科で原子力工学を学び、日本原子力研究所で研究者、学者として積み上げてきたキャリアはそのままでも、学者としてのアイデンティティを断念した瞬間なのだと、私は思う。 7月に審査書案を提示した時には、で「安全だということは、私は申し上げません」とか「ゼロリスクだとは申し上げられない」と発言することで、かろうじて学者のアイデンティティを繫ぎ止めていたように思う。 どんなに腐っても、人間の工学的技術で作った「工作物」が決して壊れないなどと考える工学者はいない。壊れた原発がフクシマという悲惨を生み出した事実を知らない日本人もいない。東電福島第一原発の故吉田昌郎所長が「われわれのイメージは東日本壊滅。本当に死んだと思った」と語ったということは当然だ。壊れた原発がどのような結果をもたらすか想像できない原子力工学者はいないはずだ。 しかし、自民党政府が規制委員会の決定をもって安全だとすると主張していることは誰でも知っている。そのような情況での規制委員会の決定は、原子力工学者のアイデンティティを放棄することでしか可能ではない。自民党政府の評価は高くなるだろうが、学者、研究者としては無惨である。 将来、すべての原発事故の責任は田中委員長をはじめとする委員会の全面的責任として問われることになる。そのような簡単な政治的トリックに易々と捕捉される学者の見識は憐れと言うしかないが、同情はしない。晩翠通りからここだけ暗い青葉通りへ。(2014/9/12 19:14)さっき歩いた一番丁を越えて。(2014/9/12 19:22~23) 私たちは、憐れな学者たちのエセ政治的判断の犠牲にはならない。なりたくない。それが、私たちのデモである。仙都会館前に到着。流れ解散。(2014/9/12 19:33~34)
2014.09.12
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昼から小雨が降り続いていたが、家を出た午後6時頃には止んでいた。気温は24、5度だろうが、湿度が高く、歩き始めると汗が滲んでくる。 旧仙台プラザ前の公園西南口から錦町公園に入ると、まだ誰も集まっていないように見える。集合場所を間違えたと思って、あわてて金曜デモのブログを開いてみたが、18:30錦町公園で間違いない。今日は珍しく時間前に着いたせいだろうと思いもしたが、よく見ると西南口の正反対、北東の公園口近くのテラス前に集まっているようだ。 雨上がりの錦町公園での集会。 (2014/9/5 18:41、18:43、18:46) 直前までの雨のせいか、さほどたくさんは集まっていない。すっかり暗くなってきたなかで、集会前の事務連絡のようなことがあって、101回目の集会・デモが始まる。 新任の小渕経産相が川内原発再稼働についてその地元に「丁寧に説明していきたい」と発言したことについて、説明の前に地元や国民の声を聴くべきだというスピーチがあった。 経産相の言葉に対して私が始めに思ったのは「説明できるもんならぜひ説明してくれ」というものだ。フクシマ以降に原発を再稼働することを人倫に悖ることなく他人に説明できるのか。安全を第1とすると言うからには、原発の安全を保証することを論理実証的に(つまり科学的に)説明できるはずだ。どう考えても一人(に限らないが)の天才を必要とする「説明」なるものをぜひ聞いてみたいものだ。 政治家の「丁寧に説明する」という言葉は、「時間をかけて力で押し通す」という意味であることを百も承知なのだが、言葉を正しい意味で受け取りたいという希望はいつもあるのだ。さあ、デモに出発。 (2014/9/5 18:57)定禅寺通り。東2番丁通り(国道4号)を渡る。(2014/9/5 19:10) 新閣僚が新聞で報道された当日(9月4日)の朝日新聞に、国語学者の金田一秀穂さんがインタビューに答えて、安倍晋三の言葉について話している。「言葉で人を説得しよう、動かそういう気がない」、「言葉が軽い」、「言葉に鈍感すぎる」、「結局、あの人は言葉の力を信じていないんですね。」 そういうことなのだ。その安倍晋三が自分より優れている人物を閣僚に選ぶはずもないから、小渕経産相の言葉に真面目に反応するのはじつに無駄なことだ。しかし、その実体のない、虚妄に満ちた言葉を放っておけば、そのまま事態が進められてしまう。じつに困ったことに、私たち国民は、自民党の政治言語の前で引き裂かれた存在になってしまっている。 朝日新聞の同じ欄で小林よしのりさんが、安倍政権は「思考停止の空気を利用」していると述べている。たとえ、自民党政府の政治言語がどのような論理性もなく、どのような倫理性もないとしても、その言語的混乱(無意味性)を前にして、私たちはけっして思考停止に陥ることがあってはならない、そう強く思うのだ。 一番町に入ってくる金デモ。(2014/9/5 19:14~16)通り過ぎて、広瀬通りへ。l(2014/9/5 19:17) 8月24日に金曜デモの1040回記念イベントがあったが、実際の100回目は先週のデモだった。100回全部参加しているわけではないので、先週のデモにとくにこだわる理由はないのだが、その当日は、東京出張で参加できなかった。残念といえば残念なのである。 数えてみたら、私が参加したのは100回中84回だった。
2014.09.05
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Photo E 瑞鳳殿出口近くの裏門からの車道。(2014/9/4 6:10) 瑞鳳殿の出口から霊屋境内を出る裏門(写真右上)がある。ここを出て写真左へ下って行けば、向山一丁目町内に出る。杉木立の向こうにショートカットの階段があるのだが、車道を歩いて広角レンズで全景を写してみた。レンズ効果でイオの顔が少し歪んで見える。Photo F1(左) 向山一丁目町内。(2014/9/4 6:10)Photo F2(右) 向山一丁目公園脇に階段道。(2014/9/4 6:12) 杉木立の道を抜けると、向山一丁目の住宅地の道に出る。Photo F1の道を行くと丁字路があって、左へ行けば鹿落坂の坂上に出る。いつもはその道を行くのだが、今朝はまだ時間に余裕があるので、そのまま直進して住宅地の道を回ってみることにした。 丁字路を直進すると、向山一丁目公園にぶつかる。公園前の道は、消防車の出口なので全幅駐車禁止になっていたが、どこを見渡しても消防関連の施設は見えない。まさか公園の中を緊急自動車が通り抜けるわけでもないだろうと不思議のまま、公園入口脇の階段道を降りた。Photo F3(左) 住宅地の道(1)。(2014/9/4 6:14)Photo F4(右) 住宅地の道(2)。(2014/9/4 6:15)Photo F5(左) 高台への階段に木の門が。(2014/9/4 6:16)Photo F6(右) 門扉灯の上の門番猫。(2014/9/4 6:16)Photo F7(左) 丁字路の右手は高台。(2014/9/4 6:17)Photo F8(右) 左手は鹿落坂の坂上へ。(2014/9/4 6:17) この住宅地は向山の地区内だが、地形的には経ヶ峯と向山の間にひろがる浅い谷状の平地である。道の左手はさらに高い向山の斜面で、その斜面の階段の上に住宅があるらしく木製の門扉が階段下に見える(Photo F5)。 格子戸のあるその門を潜ってみたい誘惑を振り切って歩き出そうとしたら、私たちを見つめている視線に気が付いた。まだ灯りがついている門扉灯の上に猫が寝そべってこちらを見つめている。近寄って挨拶をして写真を撮った。イオも一緒に近寄っていったのだが、寝そべったまままったく動じない。 道は丁字路となり、右は高台の方へ、左は鹿落坂の坂上に出る道である。住宅地を抜けてしまうのは少し早すぎる気もしたが、じつのところ地図を忘れてきていたので、右へ行くとどうなるか見当が付かない。あきらめて鹿落坂へ向かう。Photo G1(左) 八光院の石仏。(2014/9/4 6:20)Photo G2(右) 竹駒稲荷神社。(2014/9/4 6:19) 地図は忘れてきたが、向山のメイン道路の脇に神社が記されていたことは覚えていたので覗いてみることにした。鹿落坂とは逆方向に少し歩くと、山手に入る道があって、奥に鳥居が見える。 道の入口には仏教の説法を書いた看板があって、道の途中には石仏を収めた小さなお堂があった。お寺があるような雰囲気だが、階段の上は普通の住宅に見えて、上がって行くのは躊躇われた。帰ってから地図で確認すると「八光院」という寺院である。 石仏の前を過ぎると、右手奥に竹駒稲荷神社の赤い鳥居が見えるが、道は鳥居の下を通らない。鳥居の前には石段があるのだが、その先はアパートが建っていて、本来の参道はもうないのだった。神社そのものもあまり手入れがされているようには見えない。その地に暮らす人々がかつて協同で建立した小さな神社の行く末にありがちなパターンではある。コミュニティが少しずつ崩れていき、神社を担う人びとが減ってしまうというのはどこでも起きていることだ。Photo I1 鹿落坂の坂上からの展望。(2014/9/4 6:24) 向山の広い道を鹿落坂の坂上に戻ると、そこから市内の展望が開ける。坂下から若い二人が談笑しながら歩いてくる。向山高校へ通う高校生らしい。こんな早朝の登校は朝練のためでもあろうか。 このまま鹿落坂を下ろうと思っていたのだが、左手に鹿落観音の看板をみつけたので寄っていくことにした。 Photo H1(上) 鹿落観音の石段(最上部近く)。(2014/9/4 6:26)Photo H2(下) 鹿落観音堂。(2014/9/4 6:27) 鹿落観音堂へは狭く急な石段を登るのだが、登り口に由来書き看板がある。それによれば、鹿落観音は仙台開府以前から経ヶ峯にあったのだが、伊達藩二代のときこの地に移されたという。本尊は聖観音である。「うどんげ観音」とも呼ばれるとも書いてあったが、なぜ「うどんげ」なのか理由は書いていない。三千年に一度だけ咲くというインド伝説の「優曇華」の花、ひいてはその時に現われるという転輪聖王のことだろうとは思うが、仮にクサカゲロウの卵のことだとしてもそれなりに優雅な感じがして、とてもいい別称だとおもう。 そろそろイオも疲れてきた頃だろうと思っていたが、鹿落観音の急な石段を張り切って登って行く。住宅地や町場の道が終って、山道に差しかかったと誤解したらしい。山好き、町嫌いのイオらしい。 石段組は少し乱れているが、それが古拙らしい雰囲気で、イオならずとも気持ちよく登っていける。石段を登り終えると、木や草花の茂みの向こうにこぢんまりとしたお堂が現われる。 狭く急な石段、あまり背の高くない木立、草の茂み、そして小さなお堂、みんな調和がとれていてバランスがとってもいい。近くを何度か歩いているのだが、鹿落観音はこれが初めてである。少し嬉しくなった気持ちで、観音堂を後に石段を下った。Photo I2 広瀬川、霊屋橋そして仙台市街。(2014/9/4 6:29)Photo I3(左) 鹿落坂(1)。(2014/9/4 6:30)Photo I4(右) 鹿落坂(2)。(2014/9/4 6:31) 鹿落坂を下り始める。崖下の広瀬川が見え出す。広瀬川の上流に霊屋橋が見える。あの橋を渡れば、今日の散歩は終る。 道の右、崖際をあるけば展望がいいのだが歩道がない。山側の歩道(車道と分離されていない)を歩くしかない。前に歩いたときもすれ違う車が恐怖だったが、早朝で車が少ないとはいえ、やはり安心できない。イオのリードを短く持って、私の側面にくっつけて歩く。イオは思いっきり不満そうな顔をするが、我慢してもらうしかない。 坂を下っていくサラリーマン風の人、風を切って駆け下っていくジョガー、やはり高校生らしい何人かが坂を上ってくる。Photo I5(左) 坂下の霊屋下の道。(2014/9/4 6:32)Photo I6(右) 再び霊屋橋へ(西詰めから)。(2014/9/4 6:37) 坂を下り終えれば、霊屋下である。左手の経ヶ峯側には幾棟かの大きなマンション、右手の広瀬川との間には一般住宅が並んでいる。 信号のある丁字路を右折すれば霊屋橋である。最後の写真は霊屋橋で、それを写してカメラを仕舞いこんだ。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.09.04
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また今日も曇っている。最近の朝ドラ散歩(朝のドライブ散歩)は曇りばっかりのような気がする。今回の予定には昨日の朝を充てていたのだが、天気予報では、昨日の朝は曇り、翌日の朝は晴れということで、1日延期したのだ。 朝ドラ散歩を取りやめた昨日の朝はのんびりと起きて、イオと普通の徒歩散歩(ドライブ散歩と区別するためだが、明らかに変な用語)に出かけたら、ずっと陽が差していた。それなのに、今朝、早々に起き出したら全天の曇りで、予報とはまったく逆なのだった。 カメラ持参で出かける私に曇り空は困るのだ。カメラの腕は陽光しだいという程度なのだから。 今日の散歩コースは「霊屋(おたまや)」である。広瀬川沿いに経ヶ峯という森に伊達藩三代の廟が建立され、一帯を霊屋と呼んでいる。その経ヶ峯を越えて、向山から鹿落坂(ししおちざか)を降って来るという周回ルートだ。Photo A1 パーキングから広瀬川の方へ。(2014/9/4 5:31)Photo A2 霊屋橋を渡る。(2014/9/4 5:33) 東北大学正門前から広瀬川に下る鍛冶屋前丁通り(旧名)の坂を下りきったあたりにたった4台だけのコインパーキングがある。そこから歩き出す。 さらに坂を下りきり、右折して霊屋橋を渡る。橋を渡ると信号のある三叉路で、左へ行けば鹿落坂を登って向山へ、右は評定河原橋を越えて花壇へ行く。右折して評定河原橋の方向へ向かう。Photo A3 霊屋下の三叉路。左:霊屋(瑞鳳殿)へ、右:評定河原橋へ。(2014/9/4 5:40)Photo B1(左) 小さな門前町。(2014/9/4 5:41)Photo B2(右) 左手は観光駐車場。(2014/9/4 5:43) 道なりに歩けばすぐに、評定河原橋にまっすぐ向かう道から瑞鳳殿へ登る道が左に分かれる。この経ヶ峯へ登る霊屋下の道は、瑞鳳殿(伊達政宗の廟)への参道で、数軒の店が並ぶとても小さな門前町である。 坂道が少し急になりかけた左手に観光駐車場があり、その前に貸し杖が置かれている。けっこうきつい坂道ということだ。Photo B3(左) 穴蔵神社への坂道。(2014/9/4 5:43)Photo B4(右) 神社手前の杉の古木。(2014/9/4 5:50)Photo B5 穴蔵神社。(2014/9/4 5:48) 坂を上り始めて間もなく右に折れて、穴蔵神社に寄ってみる。坂道は杉林に入り、神社手前にはひときわ太い杉の古木がある。神木らしく、注連縄が張られている。 穴蔵神社はお稲荷様を祀る神社で、米沢から仙台の若林に移された後、さらに広瀬川の崖の上の鈴の沢という地の洞窟に移されたのでこの名で呼ばれるようになり、また、洞窟が西を向いていたため「夕日明神」という優雅な別称もあったという。天保年間の崖崩れで流失したため、この地に再建された。Photo C1(上) 瑞鳳寺の墓地。(2014/9/4 5:55)Photo C2(下) 髄法寺の山門。(2014/9/4 5:58) 穴蔵神社から引き返し、再び坂を上る。左手に瑞鳳寺の墓地が現われる。西南戦争で虜囚となった西郷軍の1部が宮城の監獄に送られ、そこで13人が病死し、その内7人の墓がこの墓地に残されている。 この墓地からは仙台市街が望めるうえ、所々に桜の木が植えられていて、春には古い墓石と桜の花がいい雰囲気を醸している。墓地なので花見の宴というわけには行かないが、この辺の散歩の時は必ず覗いてみる場所である。 墓地から少し上れば、瑞鳳寺の山門が見える。固く扉が閉じられた山門の写真を撮ろうとしていたら、急に扉が開きはじめた。ご婦人が扉を開けてから新聞を取って行かれるのだった。ご婦人に挨拶をして、あらためて山門の写真を撮った。 瑞鳳寺は、藩祖伊達政宗の菩提寺として、二代藩主忠宗によって創建された寺である。Photo D1(左) 坂道は石段道に。(2014/9/4 5:59)Photo D2(右) 「御子様御廟」への道。(2014/9/4 6:00)Photo D3 杉林の中の「御子様御廟」。(2014/9/4 6:01) 瑞鳳寺から少し上るとさらに坂道は急になり、石段道となる。石段を登り始めると、右に「御子様御廟」への道がある。ここも、とても静かな場所で、必ず立ち寄ってみるところだ。 道の途中、左斜面へ登る経ヶ峯散策路が分岐するが、東日本大震災以降は立ち入り禁止になっている。この経ヶ峯は、「評定河原大露頭」と呼ばれる絶壁で広瀬川に落ち込んでいる。市内の広瀬川畔では多くの崖面が地震で崩れたので、ここでも安全上の措置として立ち入りが禁止されているのだろう。 「御子様御廟」は、五代藩主以降の若くして亡くなった公子公女の埋葬地で、21基の傘塔婆の墓とたくさんの石灯籠が写真の右手奥にまで連なっている。Photo D4(左) 左:瑞鳳殿へ、右:感仙殿、善応殿へ。(2014/9/4 6:03)Photo D5(右) 西南戦争戦死者の忠魂碑。(2014/9/4 6:04) 御子様御廟から引き返し、再び石段を登る。左に瑞鳳殿(藩祖伊達政宗の廟)入口へ行く道が分かれるが、この時間は閉鎖されていて行き止まりである。まっすぐの石段は、感仙殿(二代忠宗の廟)、善応殿(三代綱宗の廟)へ行く道である。 石段の途中に「西討戦死之碑」がある。西南戦争に出兵した仙台藩士族の戦死者のための弔魂碑で、明治11年に建立されたという。Photo D6 感仙殿、善応殿前の広場。(2014/9/4 6:06)Photo D7(左) 瑞鳳殿出口への道。(2014/9/4 6:07)Photo D8(右) 戊辰戦争弔魂碑。(2014/9/4 6:08) 石段を登り切ると右手奥に感仙殿、善応殿のある広場に出る。観光コースであれば、石段の途中で瑞鳳殿に入り、裏手にある瑞鳳殿出口からこの広場に入ってきて感仙殿、善応殿を観るという順序になる。 そのコースと逆に瑞鳳殿出口への道に入る。その出口の前には戊辰戦争の弔魂碑が建てられている。この碑は明治10年に鋳鉄で製作されたが腐食が進んだため、平成22、23年にかけて改修されたという。その古い鋳鉄の成分分析を東北大学金属材料研究所で行なったと記されていた。東北大金研には長いこと務めていたが、その時は移った理学部も退職した後で、このことは当然ながら初見である。Photo D9 出口付近から覗いた瑞鳳殿の門。(2014/9/4 6:08) 瑞鳳殿の出口付近から中を覗くことができる。黒漆塗りの門、朱塗りの塀が見える。この門を入り、少し上ったところに廟がある。 瑞鳳殿出口のそばに向山地区へ抜ける門がある。その門を出れば、経ヶ峯を越えたことになる。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.09.04
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