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【続き】Photo F2(左) 菊田公園からの坂道。(2014/10/26 6:51)Photo F3(右) まだまだ登る道。(2014/10/26 6:55) 菊田公園の入口から住宅街の中を上っていく坂(Photo F2)がある。日曜の早朝というのに、東北福祉大学の学生らしき若い女性が数人、坂道を上がっていく。三叉路を右に曲がると、左手に上る坂道があって、学生の何人かはその道を歩いていく。先にも左への分岐があって、私とイオはその道を上がって行った(Photo F3)。Photo F4(左) 崖際の道。(2014/10/26 6:56)Photo F5(右) 階段道は車道を越えて。(2014/10/26 6:58) 坂道は急に狭くなって、フェンスのある崖際の道になる(Photo F4)。左手に眺望が開けているはずだが、5軒ほど先の人家の屋根あたりから先は霧でまったく見えなくなっている。フェンス道の向こうに先ほど前を歩いていた学生たちが見える。坂道の頂上付近で道は合流していた(Photo F4)。 二つのフェンス道が合流するあたりから下り道になって、最後に階段を下ると車道に出る。学生たちは左に曲ってその車道を下って行った。私たちは、まっすぐ車道の先の階段道を上がった(Photo F5)。Photo G1(左) 階段道から尾根筋の道に出る。(2014/10/26 6:59)Photo G2(右) 坂下には福祉大キャンパス。(2014/10/26 7:04) 階段道を上がり、狭い道を抜けると、急に道は広くなって、住宅街のなかのまっすぐの道となる(Photo G1)。この道は、このあたりの高台の尾根筋のようだ。変化のない道をどんどん行くと、道はわずかに左に曲がり、その辺はまだ住宅地の開発工事中のようだった。 道は急に左に折れ、坂道の下には東北福祉大学の建物が見えている。Photo G3 西門から覗く福祉大キャンパス。(2014/10/26 7:06)Photo G4(左) 福祉大を回る道。(2014/10/26 7:07)Photo G5(右) 朝日があたる校舎。(2014/10/26 7:08)Photo G6 桜並木が植えられたキャンパス南面の道。(2014/10/26 7:09) 福祉大に近づいていくと、やはり学生が少しずつ大学キャンパスに入っていく。西門の前まで来てその理由が分かった。「国見祭 空~真っ白な空に虹を描こう~」という大きな横断幕があって、大学祭の開催中なのだった。秋は大学祭、文化祭の季節でもあるのだ。 福祉大の西門を過ぎ、キャンパス沿いの道を歩く。民家と大学の間の道は、心地よいカーブと緩やかなアップダウンになっていて、いい散歩路の雰囲気がある。何年か前にも、イオとこの道を歩いた。その時、民家に庭先で美しい花木を見た記憶があるのだが、どの家だったか、何の花だったか、思い出せないまま通り過ぎた。Photo H1(左) 福祉大から下る道。(2014/10/26 7:09)Photo H2(右) 道はバス通りへ。(2014/10/26 7:11) キャンパスの擁壁の上の桜が見え出すあたりから南に下る坂道がある。その住宅街の道に入ってみた。下り坂の始まりに「成瀬美術記念館」という建物があった。日曜日だけに開館で、宮城県の物故作家の作品や古陶器を展示しているらしい。 玄関に張り紙があったので、近寄って覗いたら「都合により本日は休館」ということだった。一瞬、ちょっと残念と思ってしまったが、何のことはない、こんな早朝では開館日であろうが無理なのである。そんなつまらないことをうだうだ考えながら、坂道を下っていくのである。Photo I1(左) 突き当たりは東北大学国際交流会館。(2014/10/26 7:13)Photo I2(右) 福祉大正門への坂道。(2014/10/26 7:15)Photo J 東北福祉大学正門。(2014/10/26 7:19) 坂道下りきったところはバスが通る道である。バス通りを歩いて行くと、正面に東北大学国際交流会館の門が見えてくる。私が現役だった頃、ここには何度か外国からのゲストの送迎で来たことがある。 一度は、激しい雨の降る夜にここまで送って来た帰りにバッテリー上がりでエンジンがかからなくなったことがある。困ったことは覚えているが、その時のゲストが誰だったかは忘れてしまった。 道は国際交流会館の前で左に曲っている。福祉大の正門前に行くその坂道を10人近い学生の集団が歩いている。正門前には歩いてくる学生ばかりでなく、学生を送ってくる自家用車も次々にやってくる。一般の客が来る前の準備が大変なのだろう。Photo K1(左) 福祉大正門からまっすぐの道。(2014/10/26 7:19)Photo K2(右) 裏道に入る。(2014/10/26 7:24)Photo L1(左) 角には紅葉する楓。(2014/10/26 7:25)Photo L2(右) 向こうの交差点が終点。(2014/10/26 7:26) 福祉大を過ぎれば、もう帰り足である。正門前からまっすぐな緩やかな下り道を行く。イオは完全にダラダラ歩きである。ときどき立ち止まって私の顔を窺っている。そんなイオと私を見て、福祉大の女子学生が笑いながら通り過ぎて行く。 そっちには行きたくない、私はこっちに行きたい、という意思表示で道路上で動かなくなることはいつものことで慣れっこになっているが、最近はただ立ち止まって右にも左にも前にも後にも行かないということが増えてきた。その時は、私の体を進む方向に向け、イオと目を合わせながら「よしっ」と声をかけると、なぜか元気よく歩き出すのである。 イオの気分次第では、「よしっ」、「よしっ」とかけ声をかけながらの散歩になる。早朝の仙台の街をそんな年寄りの一人と一匹が散歩しているのだ。まぁ、あまり人には会いたくないのである。 あまりにもまっすぐな道なので、左に折れて住宅街に入ってみた(Photo K2)。小さな十字路があって、角には濃色の楓の木がある。その角を曲れば、向こうに信号のある交差点が見え、そこのコインパーキングが散歩の終点である。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.10.26
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この辺を一言で呼ぶにはなんと言ったらいいのだろう。住所で言えば、北山、千代田町、国見であるが、東北福祉大学がある。福祉大界隈ということか。Photo A 緩やかな坂道を上がる。(2014/10/26 6:29) 木町通りから北山町通りに入り、新坂通りとの出会いも過ぎてまっすぐ行くと、左に分岐する道があるが、車線はそちらが本道のように引いてある。車線なりに行くと信号のある十字路の1角にコインパーキングがある。そこから歩き出す。Photo B1(左) 公園脇の坂道。(2014/10/26 6:31)Photo B2(中) どんどん上がる坂道。(2014/10/26 6:32)Photo B3 蔦紅葉は何の匂い? (2014/10/26 6:36) コインパーキングから上り坂の道へ歩き出す。細い道が交差する十字路の角に小さな公園があって、その脇を登って行く坂道がある。道は蛇行しながらどんどん登って行く。 今日は快晴で、道の途中で振り返ると家々の間から展望が開けていそうだ。もう少し眺めのよい場所があるだろうと期待して坂道を上がっていったのだが、蛇行する道のため、遠望はどちらかの家に隠れてしまうのだった。Photo C1 北山町通りからの道と北山霊園入口。(2014/10/26 6:38)Photo C2(左) 右手は光圓寺。(2014/10/26 6:34)Photo C3(右) 光圓寺前からは急な下り坂。(2014/10/26 6:40) 曲がりくねった坂道は、北山町通りからまっすぐの道に出る。緩やかな坂を少し行くと北山霊園の西の入口がある(Photo C1は振り返って撮した)。坂を上りきったあたりに光圓寺という寺院がある。近代的な本堂で、看板がないと見過ごしてしまいそうな佇まいである。Photo D1(左) JR仙山線踏切。(2014/10/26 6:41)Photo D2(右) 登り電車が行く。(2014/10/26 6:41)Photo D3 JR北山駅。(2014/10/26 6:42) 光圓寺の門を過ぎると、道は狭くなり急な下り坂になる。その坂道で光圓寺のお坊さんらしき人が枯れ葉の掃除をしていた。挨拶をして下って行くと、仙山線の踏切の信号が鳴り出した。 踏切の向こうには女性が一人信号待ちをしている。その女性の背後に開けているはずの眺めはすっかり濃い霧に覆われている。空は青々としているのに、せっかくの坂の町からの眺望は期待できないようだ。 登り(仙台行き)の電車が通過すると女性は北山駅に入って行った。線路を越え、線路沿いの道を西へ歩く。 Photo E1(上) 霧で霞む山手町方向。(2014/10/26 6:44)Photo E2(下) 仙山線の架道橋を潜って坂へ。(2014/10/26 6:44) 線路沿いの細道は、最後に階段になる。その階段を下りて広い道に出ると、道の向こうで小型犬を連れた女性が背広姿の男性と立ち話をしている。 その小型犬がイオを見つけて猛然と吠えだした。イオは完全無視なのだが、女性が気を遣って遠くから会釈をするので、会釈を返して、女性とは反対方向に歩き出す。Photo E3(左) 坂上も霧。(2014/10/26 6:48)Photo F1(右) 菊田公園横の道。(2014/10/26 6:48) 仙山線の架道橋を潜って長い上り坂を行く。一帯は濃い霧に包まれている。坂道が緩やかになる頃、私たちを追い越しながら挨拶をしたやや高齢の婦人が横道に入っていく。 同じ横道に入ると、先には同年配の男性がいて、婦人と挨拶しながら菊田公園への階段を下って行った。ご老人たちが公園の掃除に集まっているらしい。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。【続く】
2014.10.26
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「原子力の日」というのが定められている。1956年10月26日、茨城県東海村の日本原子力研究所の動力試験炉が日本で初めて原子力発電に成功した。その記念日なのだ。原発を推進する政府お勧めの記念日だが、皮肉なことに、いまや全国津々浦々で開かれる原発再稼働反対の統一行動日に変容してしまっている。 日曜デモだが参加者は多くない。反原発の様々なイベントがあって、みんなの体が足りないのだ。Photo A1 良覚院丁公園の集会。(2014/10/26 15:38)Photo A2(上) 良覚院丁公園(入口から)。(2014/10/26 15:02)Photo A3(下左) 良覚院丁公園(奥から)。(2014/10/26 15:05)Photo A4(下右) 公園隣の馬上蠣崎神社。(2014/10/26 15:02) 今日は大学女子駅伝が仙台市内を駆け抜ける日でもあって、集会場は初めての良覚院丁公園となり、時間も駅伝を避けて一時間遅れで始まった。 良覚院丁公園は、かつてこの地にあった良覚院という寺院の庭園跡で、良覚院という名はこの公園に残っているだけである。 公園に接して、馬上蠣崎(うばがみかきざき)神社がある。老いたために大阪出陣が叶わなかったことを悲しみ仙台城の蠣崎の崖から身を投げたという伊達政宗の愛馬「五島」を祀った社である。明治期に良覚院に移され、市民は「五島墓(ごとはか)」さんと呼んで親しんでいたと由緒書きにあった。Photo B 仙台高等裁判所前交差点。(2014/10/26 15:42) 良覚院丁公園の前は、仙台市青葉消防署片平出張所、その隣は仙台高等裁判所である。デモは、公園を出て「高裁前」交差点を越えて五橋通りを東に進む。午後3時半を過ぎた街に射す陽光は、もう夕方の色彩をビルの壁面から反射させている。Photo C1(左) 五橋通りを行く(1)。(2014/10/26 15:43)Photo C2(右) 五橋通りを行く(2)。(2014/10/26 15:43)Photo C3(左) まもなく南町通りへ左折。(2014/10/26 15:44)Photo D(右) 南町通り。(2014/10/26 15:47) 高裁前の交差点を過ぎたところに歩道橋がある。仙台の脱原発デモでは、歩道橋のあるコースは珍しい。広瀬通りから愛宕上杉通りを回って錦丁公園に戻るデモコースで、「中央二丁目」交差点の歩道橋の下を歩いたことが1度だけある。 歩道橋の上からデモの写真を撮ってみたくて、階段を駆け上がったら先客がいた。ずっとここで待機していて、ここで写真を撮ってからデモに合流するという。 Photo E1(上) 南町通りから一番町へ。(2014/10/26 15:50)Photo E2(下) 青葉通りへ向かう。(2014/10/26 15:50) 五橋通りに斜めに交差する南町通りから一番町に入る。ここからは東北大学片平キャンパス北門を出発するデモと同じコースを辿ることになる。Photo F 青葉通りを渡る。(2014/10/26 15:54)Photo G いつもの道、一番町。(2014/10/26 15:57)Photo H 広瀬通りを西へ。(2014/10/26 16:01) 一番町のアーケードを出て青葉通りを渡り、また一番町のアーケードに入り、広瀬通りでアーケードを出る。アーケードの人工色の光りから出るたびに、秋の夕焼け色がことさら印象的に映る。Photo I(左) 広瀬通りから見る西の空。(2014/10/26 16:08)Photo J(右) 晩翠通りから見る南の空。(2014/10/26 16:11) Photo K1(左) 晩翠通りから青葉通りへ。(2014/10/26 16:16)Photo K2(右) 青葉通りを駅方向へ。(2014/10/26 16:16) 天蓋のような欅並木のために、いつもは木下闇(こしたやみ)と呼びたくなるような青葉通りに入っても、低い陽光がみんなの背中に明るく映えている。 この欅並木も、地下鉄東西線の工事のために一番町の付近では切り倒されている。長い地下鉄工事にうんざりしているが、これもまもなく終るだろう。欅並木が復活するのが待ち遠しい。Photo L 最後尾で。(2014/10/26 16:20) Photo M(上) まもなく一番町。(2014/10/26 16:22)Photo N(中) 藤崎前を過ぎて。(2014/10/26 16:25)Photo O(下) 紅葉した欅のあたりが終点。(2014/10/26 16:30) 青葉通りに入れば、あとは秋の陽を背中に受けてまっすぐ東への道である。欅の紅葉はまだまだだと思っていたが、中には真っ赤に色づいている木もある。欅には紅葉するものと黄葉するものがあるが、後者が一般的だと思うがどうだろう。仙台城址付近に黄葉木と紅葉木がともに鮮明な色を見せて並んでいるところがある。散歩のたびに不思議だなぁとは思うもののそれっきりである。 今日のデモは40人ほどだった。最近ではもっとも少ない人数だろう。脱原発、反原発のイベントばかりではなく、イベント日和の季節なのでみんな忙しいのだ。 今日の集会では「鹿児島県・薩摩川内原発の再稼働に私たちは強く反対します!」というアピール文が読み上げられた。毎週のデモだが、再稼働に反対する全国統一行動に心を合わせる意思表示だ。 原子力規制委員会も自民党政府も鹿児島県知事も川内市長も責任を押し付け合いながら、川内原発の再稼働を画策している。 規制委員会は「基準をクリアしても安全とは言えない」と言い、政府は「規制委員会の審査を経ているから安全だ」と言い、知事と市長は「国が安全だと言っている」という。つまり、川内原発が安全だとは誰も言っていないのである。 それなのに、再稼働に動き出すこの支離滅裂さは、「反知性」(自民党は「知性」が嫌い)、「非知性」(自民党に「知性」は期待できない)の政治を選挙で許してしまった日本の悲劇的政治状況そのものだ。デモコースと撮影ポイント(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.10.26
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聞け、吹きつのっている風の音を、一九四五年秋の一日、東京麹町区内幸町一丁目、勧業銀行ビルの四ツ角に、いま吹きつのっている風の音をそれは、まるで世界の中心から発したもののように、激し、激して、ついに俺を涙ぐませるのだ。俺は、絶望の天に向って、ゆるやかに投身する 中桐雅夫「一九四五年秋II」部分 [1] 太平洋戦争に敗れ、その戦争を生き延びた若者が「絶望の天に向って、ゆるやかに投身する」ような痛切な思いで生きていた頃、日本の民主主義は産声をあげた。 中桐雅夫の詩からもう70年近く、いや、まだ70年も経っていなくて、日本の幼い民主主義がまだ一人歩きもできないというのに、いまや日本ではネオ・ファシズム政党、自民党政権によって「幼児虐殺のごとき」民主主義の抹殺が始まっている。このままでは、日本人はついに自らの手で民主主義を育てられないまま歴史を閉じてしまうことになる。幼い命を守り、育てなければならない。抗いが必要だ。元鍛冶丁公園の集会。 (2014/10/17 18:17)元鍛冶丁公園から出発するデモ。 (2014/10/17 18:31) 今日の金デモの集まりは45人。少ないと言えば少ないのだが、これはコアのメンバーだ。コアが45人もいれば、いつものように膨らむ余地を十分に残しているということだ。 たぶん、これまで金デモに参加してきた人は戸惑っているのではないかと思う。少なくとも、私はそうだ。特定秘密保護法の12月施行の閣議決定を初めとするファッショ的な政策攻勢が次々に繰り出され、それぞれに対応しなければと、私(たち)はとても気ぜわしい感じになっている。自民党政府のやることなすこと、一言半句まで腹が立ち、反撃をしなければと考えることが多すぎるのだ。 それぞれがどこかで行動を起こしているに違いない。金デモの人数が一時的に減るのは情況的にやむを得ない、などといかにも大げさで政治的な自己満足の言説になってしまうが、私としてはそう思いたいのである。幸か不幸か、私にはあまり行動力がないので、金デモに参加し続けるしかないのだが。 東北一の歓楽街、国分町を横断する。 (2014/10/17 18:32) 稲荷小路も夜の街。 (2014/10/17 18:33) 元鍛冶丁公園が集合場所の時は、一番町まで出る道で国分町と稲荷小路を横切る。国分町は東北一の歓楽街と言われている(らしい)が、私がまだ若くて飲み歩いていた頃の国分町には店が少なくて、街全体が薄暗い感じがして、私はあまり近寄らなかった。その頃の盛り場は、国分町の隣の稲荷小路だった。 そのような飲み屋街をデモが通過していくというのは場違いな感じがして、私には面白い。しかし、お子さん連れのお母さんたちには不評で、元鍛冶丁公園のときは参加しづらいという声があるのはもっともなことだ。面白がっている私でさせ、客引き規制がなかったころはあまり通り抜けたくない道だったのだから。一番町広瀬通り角は若者たちの待ち合わせ場所。 (2014/10/17 18:40)年寄りには未知の店が並ぶ一番町。 (2014/10/17 18:42)明るい中央通り入口前を通過。 (2014/10/17 18:46) 一番町は昔からの繁華街だが、ずっと続いている店は少なくなった。ほとんどが中央資本だという。私にはなんの店か分からない店舗も増えた。囓りかけの林檎マークくらいは分かるが、店名に逆さ文字の入るその隣は見当もつかない。 私(たち)のような年寄りだって若者に負けず、ポストモダン社会(バウマン流に言えば、リキッド・モダニティ)の消費文化にどっぷり浸かってきたのだが、資本の側は若者の方ばかりを向いているので、店も商品も年寄りにはチンプンカンプンなのだ。 若者ばかりではなく、私たち全体が消費文化に染まりきっているということは、私たちの行動様式では商品選択だけが意志決定の手段になっているということだ。品揃えの範囲内での思考と行動なのである。品揃えが少なければ貧しいと感じるのではなく、商品選択に偏りが生じて簡単に◯◯ブームになってしまうのである。みんなで一つの商品に群がるのだ。だから、敵は戦略的に品数を減らしたりするのだ。 政治においても同じだ。想田和弘さんが書いていたが、並べられた商品としての政治選択をするだけなのだ [4] 。商品が並べられていなければアウトである。ネットショッピングで「民主主義」を購入しようとしたのに売っていないと嘆くのである。しょうがないので、次善の商品として「決められる政治」などというコマーシャルを流している小泉自民党や橋下維新の会という政治商品に雪崩を打ったのは記憶に新しい。 コマーシャルというのはムード、気分が大事なのだ。だから「美しい日本」だとか「日本を取りもどす」などという実体の伴わない美辞麗句が飛び交うのである。これは阿倍晋三が悪いと言うより、日本人の消費者マインドを掴んだ自民党マーケティングの当然の帰結と言えば言えるのだ(情けないが)。 結論として言えば、日本人の政治意識は三、四歳児が地べたに寝っ転がって「あれ買ってぇ~」と駄駄を捏ねているレベルにしか見えない。目の前に並んでいる物しか見えないし、それを選ぶしか能がないのである。消費欲、物欲が勝って不買運動など思いもよらない。 しかし、これは深刻なことだ。政治選択の商品を店先に並べるという点において政治権力を握った者は格段に有利である。選択肢を狭める(商品数を減らす)ことが恣意的にできるからである。労働者から消費者へとその存在を変質させてきた大衆は、消費者マインドが嵩じるのに応じて、ますます権力が用意した商品を選ぶだけなのだ。だから、世界中で右傾化が進んでいるのだと私は考えている。決して偶発的にいろんな国で右傾化が進んでいるわけではないのだ。 とはいえ、消費者マインドを拒否しているマイノリティはどの国でもどの社会でも確実に存在している。今はマイノリティであっても、その核(コア)が中心となる運動に期待をかけるしかない。コアが大事なのだ。たった45人の金デモだが、そのコアの45人に意味があるのだ。青葉通りを行く。 (2014/10/17 18:55)大通り(国道4号)を渡っていくデモ。 (2014/10/17 18:57) 今日のデモは冷え込みがきつかった。挨拶はことごとく「今日は寒いですね」だった。たくさん着込んできた人もいたが、私はいつも通りの服装で出てきてしまった。カメラアングルにいい場所を探す振りをして、寒さしのぎに駆け足をしてみたりした。暖まるか、疲れ切るか、年甲斐もないことを今日もしているのだ。 政治的なニュースは不愉快なことが多いが、その中で安倍晋三が女性活用だと称して選んだ女性閣僚が不祥事でもう辞めそうだとか、辞めざるをえないだろうというニュースに喜んでいる自分に気づいてうんざりしてしまう。 松島みどりや小渕優子が大臣を辞職するのは大歓迎だが、自分の国の大臣が違法行為で辞任するのを喜ぶなんて、なんて不幸な国で生きているのだろうと思うのだ。秋風に吾を誑かすもののあれや 三橋鷹女 [2]ただまっすぐに街のとおりがつっぱしっているのもかなしいがふとしたまがりかどへきたときそこになにかしらひとだまのようにぬらりとさびしいものがふらついているのをかんずることがある 八木重吉「無題」全文 [3] 風の中に潜んで私を「誑かすもの」、曲がり角の向こうで私を待っている「ぬらりとしたもの」は、私の人生を豊かにするような気がするが、テレビニュースの中、新聞記事の中から現われる「誑かすもの」、「ぬらりとしたもの」はきちんと確実に拒絶して生きたい。そう願っている。 [1] 『現代詩文庫38 中桐雅夫詩集』(思潮社、 1971年)p.72。[2] 『現代日本文學大系95 現代句集』(筑摩書房 昭和48年)p. 216。[3] 『定本 八木重吉詩集』(彌生書房 昭和33年)p.127。[3] 想田和弘『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波書店、2013年)。
2014.10.17
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午後6時の肴町公園はすっかり宵闇の中である。朝晩の冷え込みがきつくなって急速に季節が進んでしまったという実感に、先週の金デモを休んだことが重なって、ほんとうに久しぶりの金デモ、そんな気分だ。 先週の月曜日、東京駅の階段ですっころんで、右足にけっこう深い傷を負った。木曜日までの4日間の東京遊びを中止したくなくて、自己治療と痛み止めの薬で4日を乗り切ったのだったが、足が腫れ上がってしまった。 仙台に帰ってきて、腫れた足を見て驚いた妻が、時間外なのに無理やり外科医に頼みこんで、診療、治療をしてもらった。血糊で塞がれた傷の深いところの消毒が不十分で菌が繁殖したのだった。ものすごく苦い抗生物質の錠剤を飲み続けることで何とか治まった。 医者に行った時も歩くのはまったく平気だったので、ほんとうは金デモにも参加できたのである。しかし、医者と妻にしこたま怒られて、数日は真面目に正しく怪我人らしく過ごさなければならなかったのだ。肴町公園での集会風景。 (2014/10/10 18:26) 集合時間の午後6時をだいぶ過ぎてから集会が始まった。家を出るとき、午後6時頃にノーベル平和賞の受賞者の発表があるとテレビで放送していたので、スマホ片手にニュースを気にしていた。やっと、スマホにそのニュースが届いたとき、フリースピーチの若い人がさっそく「残念ながら......」と報告していた。 ノーベル平和賞は、最有力候補とニュースで流れた「日本国憲法九条を守ってきた日本国民」ではなく、パキスタンのマララ・ユスフザイさんとインドのカイラシュ・サティヤルティさんに決まった。 肴町公園を出発するデモの列。 (2014/10/10 18:38)明るい一番町が見えてきた。 (2014/10/10 18:41) 地球上の子どもたちのために、マララさんとサティヤルティさんが平和賞にふさわしいことは言うまでもない。マララさんの受賞については、おそらくイスラム原理主義者たちがノーベル賞委員会の政治的な判断に怒り狂っているのはまちがいない。しかし、平和は闘い取るしかないことを思えば、ノーベル平和賞が政治的意味を強く帯びることは当然である。 日本の安倍首相と石破なんとか(覚えられん)大臣が、「平和賞の選考は「政治的」との認識で一致した」というニュースがあったが、何をか言わんやである。政治的に頑張らなければ平和はありえない。ノーベル賞委員会だって十分に承知の筈である。政治的判断が入るので時には間違いが生じる。佐藤栄作とバラク・オバマにノーベル平和賞を与えたのは明確に歴史的な誤りである。そう判断するのは私の「政治的立場」のゆえである。 憲法九条がノーベル平和賞の有力候補だというニュースにうろたえて、今さららしく「政治的だ」などと語るこの国の首相と大臣は、マララさんを殺害しようとしているイスラム原理主義者と同じ立ち位置で発言しているのである(自覚していないだろうが)。 一番町を行くデモの列。 (2014/10/10 18:43) ノーベル平和賞が「憲法九条を守ってきた日本国民」に与えられなかったことに、少しは落胆したが、当然と納得することはできる。私たちはほんとうに憲法九条を守ってきたのか、と問い直せば答えは歴然である。 これからである。憲法九条は平和賞候補になった。しかも、一時はある機関の最大有力候補だという予想が世界的なニュースで流れた。少なくとも、これまでの一連の経過は、世界の人びとが日本国憲法に注目する大きな契機を生み出したことは間違いない。平和賞受賞の可能性があることもはっきりと世界中が認識した。 しかも、現在の日本は、安倍自民党一派の集団的自衛権容認、武器輸出三原則の放棄など解釈改憲の動きが急である。時は今である。文字通り「憲法を守る」大きなチャンスが目の前にある。マララさんのように生死の境から立ち上がって世界に訴えたことと匹敵するような「憲法九条を守る運動」ができる機会を阿倍晋三が私たちの前に差し出したと考えるべきだ。 私たち日本国民が「憲法九条を守ってきた日本国民」になるのはこれからである。そうすることで、真にその名に値するノーベル平和賞受賞が実現するのではないか、と私は強く信じることにする。一番町から広瀬通りに出る。 (2014/10/10 18:48) 東北一と言われる夜の街、国分町を横目に。 (2014/10/10 18:50)広瀬通り(まもなく晩翠通り)。 (2014/10/10 18:54) デモは肴町公園からまっすぐ一番町に出て広瀬通りに曲るので、一番町の区間はとても短い。あっという間に広瀬通りに出る。広瀬通りの車道を歩くデモの人たちの足元には、潰れたギンナンが散らばっている。素敵(?)なギンナンの匂いが秋まっ盛りのデモを演出するのである。 そろそろ酔客で賑わい始めた歓楽街、国分町入口の前で、デモの人びとは脇目もふらず(もちろん、誘惑にも負けず)コールに応えるのだ。広瀬通りから晩翠通りに左折するデモの人びと。 (2014/10/10 18:56) 朝晩の冷え込みが厳しくなったが、今日の昼は気温が上がった。その名残でデモの間の冷え込みはたいしたことはない。歩き慣れたコースを今日もデモは進んで行くのだ。
2014.10.10
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【続き】Photo F 堤通りの交差点とカトリック北仙台教会(2014/10/8 6:24) 農学部から堤通りへの道を北に進むと、木町通りと愛宕杉山通りを結ぶ広い路に出る。左手にカトリック北仙台教会が見える交差点を渡って堤通りに入る。Photo G1(左) 堤通りからコンビニ脇の小径へ。(2014/10/8 6:26)Photo G2(右) 小径はここで少し広くなる。(2014/10/8 6:28) 堤通りを100mも進まないうちに目当ての小径の入口だ。コンビニ脇の細道で、ゴミ置場が道の半分ほどを占めてしまうほど狭い道だ。Photo G3(左) イオと私の影が重なる小径。(2014/10/8 6:29)Photo G4(右) 道を越え、続く小径。(2014/10/8 6:30) このような街の区画と無関係なように曲がりくねる道は、ずっと昔から公共用地だったにちがいない。もっとも可能性が高いのは小川とか堀である。公共用地なので埋め立ててしまえば道あるいは空き地として残ってしまう。 この小径は空き地として残った風情が強くて、一貫した道としては整備されていない。舗装はされているものの、道幅はしばしば変化するし、歩道専用として車が入れない区域があるかと思えば、車が出入りできるようなっているところもある。Photo G5 小径脇フェンスのモミジバルコウソウ(花と紅葉する葉)。(2014/10/8 6:32)Photo G6 青葉神社通りの突き当たりは青葉神社。(2014/10/8 6:34) ルコウソウの花と葉の美しい赤をみつけた。そのルコウソウが絡んでいるフェンスが両側に続いている道を抜けると、ふたたび青葉神社通りに出る。目の前に青葉神社の森が迫っている。Photo G7(左) 小径は狭くなったり拡がったり。(2014/10/8 6:35)Photo H(右) 小径歩きを終えて自動車道へ。(2014/10/8 6:37) 青葉神社通りを渡って、なお小径を歩く。アパ-ト裏の隙間のような小径を抜け、草地の脇を歩いて、狭い自動車道に出た。 これくらい小径を歩けばもう十分である。自動車道を南に向かって広い通りに出る。 Photo I1(上) 北仙台から木町通りへの道。(2014/10/8 6:41)Photo I2(中) 植え込み探索。(2014/10/8 6:41)Photo I3(下) 木町通りの交差点。(2014/10/8 6:42) これくらい小径を歩けばもう十分である。自動車道を南に向かい広い通りに出る。木町通りに戻る途中、植え込みの茂みがイオを惹きつけて、なかなか前に進まない。そういえば、歩き出した時間帯には、かなりの数の散歩犬に出会った。豊穣なマーキング臭にイオはクラクラしているらしい。Photo J なぜか先を急ぐイオ。(2014/10/8 6:44) 木町通りに出たら、突然イオは急ぎ足になった。まったく理由は分からないが、とにかく急ぐのである。コインパーキングに着いたのに、無視して行き過ぎようとするほど急いでいた。どこかで花火が上がったりすると逃げ帰るように急ぐこともあるが、その時は尻尾が下がりきっている。 14年つき合っているのに、イオのことは分からないことが多い。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。
2014.10.08
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イオとの朝のドライブ散歩(朝ドラ散歩)の行く先を探して地図を眺めていたら、通町に変則的にカーブする小径を見つけた。歩いてみたことがない道だ。 その小径を通ると決めた今朝の散歩コースは、前に歩いた散歩コースに挟まれている。東に北仙台、北に北山五山、西に新坂通りの寺町があって、どれも以前の朝ドラ散歩で歩いている。Photo A 木町通りから出発。(2014/10/8 5:57)Photo B1(左) 通町小学校前の通り。(2014/10/8 6:00)Photo B2(中) 通町小に朝日が輝いて。(2014/10/8 6:01) 木町通りのコインパーキングから歩き出す。木町通りを南に少し歩いて、信号のある交差点から通町小学校のある道に入る。スーパー西友の前を過ぎると通町小の校舎が見え出す。校舎の煉瓦色の壁面に反射する朝日が美しい。Photo B3 全玖院山門。(2014/10/8 6:04)Photo C1(左) 青葉神社通り。(2014/10/8 6:07)Photo C3(右) 勾当台通りへの細道。(2014/10/8 6:10)Photo C2 玄光庵と熊野神社。(2014/10/8 6:08) この通町の道には寺が二つ並んでいる。全玖院と玄光庵だ。二つの寺の山門が並んでいるが、玄光庵の入口は、青葉神社通りの方にあるような造りだ。その青葉神社通りの寺の入口の隣に鳥居がある。熊野神社だ。そういえば、いつの祭礼か分からないが、熊野神社の祭りの旗が通りにいくつも立てられていた。 青葉神社通りをまっすぐ行けば、文字通り青葉神社にぶつかる。この青葉神社通りは、旧奥羽街道(陸羽街道)である。南に進めば、仙台一賑やかな飲食店街、国分町である。 目当ての小径の東端は堤通りにあるので、堤通りの南に位置する東北大学農学部を覗いてみることにして、青葉神社通りから勾当台通りへ細道を抜けていく。Photo D1(上) 勾当台通り(北方向)。(2014/10/8 6:13)Photo D2(下) 勾当台通り(仙台市役所方向)。(2014/10/8 6:15) 勾当台通りは広い通りである。北へ進み左に折れれば北仙台で、南に行けば仙台市役所、宮城県庁へ行く。 いったん北へ歩いて歩道橋を渡り、最初の信号まで南へ歩いて横道を農学部に向かう。後肢が弱って山登りができなくなったので、朝ドラ散歩で車に乗る気分をイオに味わってもらっているのだが、ときどきこうして歩道橋の階段を上り下りしてイオの後肢の調子を観察しているのである。今朝はとても快調で、私に先立って階段を登っていく。気温が下がるにつれてイオはどんどん元気になっていく。Photo E1(左) 東北大学農学部への道。(2014/10/8 6:15)Photo E2(右) 堤通りに続く道。(2014/10/8 6:15)Photo E3 東北大農学部。(2014/10/8 6:15) 農学部のフェンスから農場を覗くと、静かである。早朝なので無理だろうとは思ったものの、羊や山羊が草地に放牧されていることを少し期待していたのだ。2006年11月6日の農学部。遠くの羊たちを見つめるイオ。 八年前の散歩の時、イオはここで初めて羊を見たのだ。よほど珍しかったらしく、イオはいつまでも熱心に眺めていたが、羊たちはイオを完全無視で、遠くから眺めるしかできなかったのだった。撮影場所(地図のベースは、「プロアトラスSV7」)。【続く】
2014.10.08
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【続き】 大義寺の前を通っていちょうホール通りを東に進むと、JR八王子駅からの大通りの道に交差する。この大通りは、「桑並木通り」と呼ばれているらしい。養蚕が盛んだった名残である。 この桑並木通りを北へ歩いて浅川大橋を見に行く。ヤマメ釣や鮎釣りに夢中になっていた頃から川があれば見ておきたいという気持ちになる。それに、坂道、曲がり角、橋などは、街歩きの気分を盛り上げてくれる場所でもある。橋について、開高健がこんなことを書いていた。すべての橋は詩を発散する。小川の丸木橋から海峡を越える鉄橋にいたるまで、橋という橋は、すべてふしぎな魅力をもって私たちの心をひきつける。右岸から左岸へ人をわたすだけの、その機能のこの上ない明快さが私たちの複雑さに疲れた心をうつのだろうか。 [1] 川が村と村、町と町、時として国と国との境界だったりすれば、橋は別れの場所でもあるだろうし、鮎川信夫の長詩「橋上の人」に描かれるように、橋自体が時代を憂え、深く思索する場所というイメージもある。鮎川のその詩は次のようなフレーズで終る。橋上のひとよ、彼方の岸に灯がついた、幻の都市に灯がついた、運河の上にも灯がついた、おびただしい灯の窓が、高架線の上を走ってゆく。おびただしい灯の窓が、高く夜空をのぼってゆく。そのひとつひとつが瞬いて、あなたの内にも、あなたの外にも灯がともり、死と生の予感におののく魂のように、そのひとつひとつが瞬いて、そのひとつひとつが消えかかる、橋上の人よ。 鮎川信夫「橋上の人」(部分)[2]Photo H1 「浅川大橋南」交差点。(2014/10/1 14:49) 桑並木通りを北に進むと「浅川大橋南」という大きくて変則的な交差点がある。道脇には、頭部のない上半身に見えないこともない彫刻が飾られていた。 Photo H2(上) 浅川大橋。(2014/10/1 14:51)Photo H3(中) 橋上から上流を見る。(2014/10/1 14:52)Photo H4(下) 右岸堤防から下流方向。(2014/10/1 14:54) 交差点を越えて歩けば、すぐに浅川大橋が見えてくるが、一見すると広い道路がそのまま続いているようにしか見えない。開高や鮎川の記述とはうらはらに橋はあっさりと近代的で、大通りの延長なのであった。 橋の4分の1ほどのところから見ると広い河川敷の左岸寄りを浅瀬の川が流れている。傾斜は緩やかで波立ちはほとんどない。 右岸の堤防を下流へ歩いて見た。整地された広場に若者が集まっている、これから何かの遊びをするらしく、自転車で駆けつけてきた来た一人が堤防からの坂を猛スピードで下りていく。Photo I1(左) 堤防下の道。(2014/10/1 14:57)Photo I2(右) 「市立五中」交差点。(2014/10/1 15:02) 堤防から降りて住宅地の中を歩き出したのだが、ポケットに入れたはずの地図が見あたらない。スマホのマップを見る手もあるが、小さすぎて近眼の老眼には面倒だ。駅の方角は分かるので、これからは感を頼りに歩くことにする(家に帰り着いたら、地図はカメラバッグのポケットから出てきた)。 住宅地を抜けると、左手に歩道橋と信号が見える。近くまで行くと、「市立五中」交差点だった。五中の脇の道を北に入った。広い敷地にたくさんの建物があるとても大きい中学校だな、と思っていたら、南多摩高校が隣接していたのだった。Photo J1(左) 南多摩高校前の道。(2014/10/1 15:06)Photo J2(右) 甲州街道を渡る。(2014/10/1 15:07) 高校のグランド脇でなぜか道は急に広くなり、そのまま国道20号と交差している。まっすぐ国道を越える。地図には東にも放射状に延びる道があったはずで、とにかくそこまで進むことにする。Photo J3 「京王八王子駅」交差点。(2014/10/1 15:09) とても広くて変則的な交差点にでる。「京王八王子駅」交差点だ。駅から斜めに「西放射線アイロード」が交差している。ここで初めて「ユーロード」のネーミングの意図が分かったのだ。「you」と「I」なのである。「you and I、皆さんの道」というわけだ。 八王子市のどなたか分からないが、とにかく道や施設のネーミングに力を入れていることはよく分るのだった。その効果のほどを私には知る由もないが。Photo K1(左) 東放射線アイロード。(2014/10/1 15:11)Photo K2(右) アイロードから右へ。(2014/10/1 15:12) せっかくなのでアイロードも歩いてみる。ユーロードと違ってこちらは車も通る普通の都会の道だ。このまま進むと駅に着いてしまう。八王子駅からまっすぐの大通りにも少しは足を踏み入れたいので、右に折れた。この道は店がびっしり並んでいて、アイロードよりも繁華街の感じが強い。Photo L JR八王子駅前。(2014/10/1 15:15) 駅前の大通りに出た。大きなビルが建ち並ぶ道だ。あえて交差点を渡って、交差点の中頃から八王寺駅の写真を撮って、カメラを納め、急いで中央線に乗って東京駅に向かうのである。街歩きMap。A~Lは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。 [1] 開高健「ずばり東京」『開高健全ノンフィクション 路上にて」((株)文藝春秋 1977年)p.61。[2] 『鮎川信夫全詩集 1945~1965』(荒地出版社、1965年)p. 43-4。
2014.10.01
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仙台から出てきて東京の街歩きをするときは、どこかの美術館で展覧会を見ることとセットになっている。一つを丁寧にやるわけではなく、なるべく一緒にやってしまおうという貧乏根性なのだ。 今日は、東京富士美術館の「ロイヤル・アカデミー展」を見たので、八王子駅界隈の街歩きなのである。 八王子に来たのは初めてだ。近くでは、6歳のころ別れた父に会いに昭島まで行ったことがある。19歳だった。それか5年後、ふたたび昭島に行って、病気で倒れた父を引き取りに行った。その父は元の家族に引き取られてから一年も経たないうちに亡くなった。 青梅にも一度行ったことがあった。昭島から20年後くらいに、東京出張の一日を青梅散策で費やした。これが私の西東京に関するすべてだ。Photo A 八王子駅ペデストリアンデッキから北西の眺め。 (2014/10/1 13:48)Photo B1 「ユーロード」へ。(2014/10/1 13:55) JR八王子駅を出て、ペデストリアンデッキから町を眺めて、左手(西の方)に見える繁華街から歩き始めることに決める。もっとも人通りが多い道は、「西放射線ユーロード」と言うらしい。フクシマ以降、放射線という言葉に世間は敏感になっているが、地元の人はどうなのだろうと心配になる。もちろん、radiationとかradioactive rayの意味ではなく、単に放射状に走る道という意味の造語で、「西放射線ユーロード」という固有名詞の一部に過ぎないのだが、なんとなく時節柄間が悪い印象がする。Photo B2(左) 西放射線ユーロード。(2014/10/1 13:56)Photo B3(右) ドンキホーテ前を右折。(2014/10/1 13:58) ユーロードの入口は人混みで賑わっていたが、駅からの距離に反比例して人は減ってゆく。斜めに走るユーロードが、やや広い路に交差する角にドンキホーテがあって、その辺ではまた人通りが多くなる。 そういえば、仙台にもドンキホーテがあって、しょっちゅうその前を通るものの一度も店内に足を踏み入れたことはない。Photo C1(左) 桂の並木道。(2014/10/1 13:59)Photo C2(左) 八王子温泉「やすらぎの湯」の前付近正。(2014/10/1 13:59) ドンキホーテ横の道を国道20号(甲州街道)の方向へ曲る。この道には葉が繁茂している並木がある。葉の形から桂の木と思えるのだが、桂を並木に使っている道は珍しいのではないかと思う。そんな道は記憶にない。 並木に気をとられていたが、右手に「八王子温泉」という大きな建物があった。「やすらぎの湯」だという。最近は、このような単独の温泉施設が町中にぽつぽつとできているが、こういう施設も私の経験の外にある。Photo D1(左) 甲州街道から野猿街道へ。(2014/10/1 14:04) 国道20号の広い路に出て、しばらくは甲州街道を歩いてみようと思っていたのだが、すぐに気が変わった。「野猿街道」という魅力的な名前の道路標を見つけたのだ。Photo D2(左) 野猿街道の「えくぼ通り」。(2014/10/1 14:05)Photo B4(左) ユーロードの辛夷の植木。(2014/10/1 14:08) 野猿街道に入ると、立派な街灯が並んでいて「えくぼ通り」と表示されている。これは家に帰って来てから調べたことだが、野猿街道は八王子駅から南方5kmあたりの野猿峠に由来すると言う。今は広い便利な道らしいが、このえくぼ通りでは狭くなっている。 えくぼ通りは、ユーロードとクロスするので、ふたたびユーロードを歩く。植栽されている木は何だろうと近寄ってみると、「こぶし」とある。歩行者専用道に辛夷の木というのはとてもいい感じだ。秋まっ盛りだが、早春の街並みを想像してみる。 植栽としての樹木は、簡単に植え替えるというわけにもいかないので、最初に樹種や配置を決定する人びとの才能が、いわば長い時間に亘って展示されているということになる(たぶん、誰もそんなことを考えていないだろうが)と、私は思う。Photo E1(左) 甲州街道、右手は八王子市夢美術館。(2014/10/1 14:13)Photo E2(左) 夢美術館東側の道。(2014/10/1 14:14) ユーロードは国道20号までである。その甲州街道を西に歩いて行くと八王子市夢美術館が道の右手にある。私の住んでいるところでは宮城県美術館、仙台市博物館なのだが、ここでは八王子市「夢」美術館なのである。「西放射線ユーロード」もそうだが、ネーミングに力を入れているようだ(放射線はいくぶん勇み足のような気もするが)。 夢美術館の手前の道を北に入る。Photo E3 禅東院。(2014/10/1 14:14) 道の右手に二階建ての寺院の建造物が見え出す。「禅東院」とある。二階建ての寺の本堂というのは珍しいが、この建物は本堂なのかどうかはわからない。Photo F1(左) 「いちょうホール」前の道。(2014/10/1 14:18)Photo F2(右) 甲州街道近くの道へ。(2014/10/1 14:23)Photo F3(左) 路地を抜けて。(2014/10/1 14:25)Photo F4(右) 神社への案内が。(2014/10/1 14:30) 禅東院を過ぎて右に折れると、おおきな施設が見える。「八王子市芸術文化会館 いちょうホール」の看板がある。この通りは「いちょうホール通り」と言うらしい。 いちょうホールを過ぎてすぐの道を右折して、国道20号といちょうホール通りの間を走る道に左折する。 歩きだした道は、マンション、アパート、民家が並ぶまっすぐな道である。あまり、変化がなさそうなのでふたたび路地を抜けていちょうホール通りに戻る。 電信柱に「八幡・八雲神社」の案内看板がある。それにしたがって右の道に入ってみた。Photo G1 八幡・八雲神社。(2014/10/1 14:35) 案内表示には「八王子総鎮守 八幡・八雲神社」とあり、由緒書き看板にも「八幡・八雲神社」とあるが、八幡と八雲は並列筆記で、どちらが先でも後でもないし、上でも下でもない。強いて言えば向かって右が八幡、左が八雲と記されていて「往古より両社と称し」ていたらしい。 八幡神社は「八王子創始の地主神」、八雲神社は「八王子の地名発生の神と言われ」ていて、八王子総鎮守と言うだけのことはありそうだ。Photo G2 大義寺前。(2014/10/1 14:42) 八幡・八雲神社の向かいは第一小学校で、その第一小をぐるりと迂回するようにして、ふたたび、いちょうホール通りに戻った。このあとは八王子市街の北を流れる浅川を見に行くつもりだ。街歩きMap。A~Lは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。【続く】
2014.10.01
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