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仙台も梅雨入りして雨天、曇天が続くようになった。先週の「脱原発みやぎ金曜デモ」、水曜日の「『戦争法案』ゼッタイ廃棄! 6.24緊急県民集会」、金曜日の「脱原発大崎demo金曜行動」、今日の日曜昼デモと続いたが、皮肉なことに雨に降られたのは、梅雨入り前の先週のデモだった。今日も1日中雨の天気予報だったが降られずにすんだ。 曇天の錦町公園。(2015/6/28 14:15、27) 錦町公園には小さな野外音楽堂のようなステージもあるのだが、屋根付きの休憩所が最近の集会場所になっている。雨を避けるためかも知れないが、ベンチに座って集会の参加できる人もいて都合がよい。最近の参加者数がこの場所にちょうどよく見合っているということもある。フリー・トーク。(2015/6/28 14:19~28) 主催者挨拶は、9電力すべての総会で株主提案が否決されたことから始まったが、年々賛成票が増えていることも報告された。電力自由化や発送電分離が今後の電力会社の動きに影響を与えるだろうという話になって、「NPO法人 きらきら発電・市民共同発電所」の代表の水戸部さんから活動状況の報告があった。話は太陽光発電から燕の巣の放射能汚染が福島を遠く離れた石川県でも見つかった話に及び、福島の原発事故の生態系の影響が広範囲に及んでいることの危惧を訴えられた。 東北電力の株主総会への仙台市の対応を追求している「脱原発市民会議」の活動の報告、株主総会以後の市の対応などの話もあった。定禅寺通りは欅の青葉。(2015/6/28 14:43)県庁前は杜の都らしく。(2015/6/28 14:51)欅並木は中央分離帯にも(定禅寺通り)。(2015/6/28 14:52) 錦町公園を出発したデモが定禅寺通りに出ると、欅並木の圧倒的な繁茂に驚く。月1回だけの昼デモで見る緑の変化が大きい。先月は「青葉・若葉」とつなげて言った方がよかったのに、一月後には濃緑のボリューム感にあらためて気付いたのだった。毎週の夜デモでも見ているのだが、夕闇のなかの緑とは違うのである。 若い頃は、「杜の都」という仙台市の形容をどこか小バカにしていたように思う。少し郊外に行けば森や山に出てしまう田舎の都市はみんな「杜の都」ではないか。とくに市街地の公園緑化などに力を入れているわけでもないのに、そう思っていたのである。 その若かった頃から40年も経つと、定禅寺通りや青葉通りの欅はボリュームたっぷりに成長して、「杜の都」らしい雰囲気に大いに貢献している。しかし、皮肉なことに大きくなった古木はそろそろ寿命に達し始めて、並木の何本かは若木に植え替える必要があるのだという。 一番町にも小さい緑が。 (2015/6/28 14:57、15:02)「反戦」や「反核」も加わって。 今日も元気に、賑やかに。 (2015/6/28 14:58~15:05) 鳴り物も加わったデモは、日曜日で人出の多い一番町を今日も元気に賑やかに進んで行く。 いくつかのアピール・プラカードには「反戦」や「反核」の文字が見えるようになった。自公政権が繰り出す戦争推進法案に対抗するためだ。原発が攻撃されたらひとたまりもないのは自明だ。ますます、脱原発、全原発廃炉が必要なのだ。 戦争法案と原発再稼働を同時に目論んでいる自公政権はその大きな矛盾に気付いていないかのようだ。あるいは、それに気付いていながら、日本の国土がどうなっても戦争がしたいと考えているのだろうか。安倍自公政権の「知性」を考えると、その可能性を否定できないのが日本国民として情けない。 脱原発を実現することは、とりもなおさず原発推進の自公政権の否定に繋がらざるをえない。戦争法案が憲法違反であることと同じように、そもそも原発推進、原発建設は憲法違反だったのではないか。そんなことを考えている。福井判決からそのような理路が導き出せないだろうか。 休日の一番町は賑わって。 (2015/6/28 15:05、15:06) 欅トンネルを出てまたトンネルへ(青葉通り)。(2015/6/28 15:19、15:20)最後のコール。(2015/6/28 15:22) 一番町の狭い通りに植えられた木もだいぶ生長して立派になってきた。その一番町を抜けて、青葉通りに出ると地下鉄工事のために一番町近辺の欅並木はなくなっているものの、少し歩けば欅のトンネルである。 今日は曇り空だったが、この欅のドームは、これからの真夏のデモの大いなる味方なのだ。
2015.06.28
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古川のデモに参加してきた。疲労のことも考えて新幹線にしたが、仙台、古川間の所要時間は12分しかない。車でばかり動いていたので、「12分の遠さ」にちょっと驚いた。 今から40年以上も前、院生だったころ古川市内の私立高校で数学の非常勤講師として1年間通ったことがあった。その2年後、市内の病院で父親が息をひきとった。 そういえば、亡くなる前の長兄も次兄も古川の病院に入院していたことがあった。車が普及しだした頃から、古川市(現大崎市古川)は私の生まれ故郷、栗原郡瀬峰町(現栗原市瀬峰)からとても近くなったのである。 昨年の秋、山形市の「幸せの脱原発ウォーキング」に参加する機会に恵まれてから、近くでやっている脱原発行動に参加してみたいとずっと考えていた。それなのに、東京での集会や抗議行動に何度か参加したものの、近隣のデモには一度も参加できずにいた。 とくに古川のデモは、フェイスブックに投稿された雪の中のデモ写真がとても印象が強くて、紹介されていた「脱原発大崎demo原発はいらない」というブログを読んで、何とか一度だけでもと考えていたのだった。 仙台の「脱原発みやぎ金曜デモ」は、月の最終日曜日に昼デモをする替わりに直前の金曜のデモは休みとなる。月1回だけの出かけるチャンスをうまく掴むことができずにいたのだが、やっと出かけることができた。 Photo A1 古川あさひ中央公園。 (2015/6/26 17:30) 集合場所の「古川あさひ中央公園」を調べることから始めたのだが、私の地図ソフトにはこの公園名は乗っていない。ネットで3年前のデモ告知のtwitterを見つけて何とか確認した。古川駅から1kmほどの距離である。 古川地域の天気予報では夜中までは降り出さないはずだが、今にも降り出しそうな厚い雲が垂れ込めている。駅からの途中でパトカーに追い越され、デモの先導をするらしいそのパトカーが曲った道に入れば、そこがあさひ中央公園である。 公園の南端近くに、4、5人が幟を持って立っている。参加の挨拶をして撮影の許可も頂いた。Photo A2 集会風景。(2015/6/26 17:30)主催者挨拶とフリースピーカー。(2015/6/26 17:31、35) ほぼ定刻に集会が始まった。主催者挨拶は、全国で一斉に行われた電力会社の株主総会のことが話題だった。原発依存の発電を止めるよう求めた株主提案はことごとく拒否されたのである。 仙台の金曜デモ集会でも何度か話題になったが、大株主である自治体への働きかけも今のところ成功していない(大阪市のような例外もあるが)。東北電力の大株主の仙台市も否定的な態度を崩していない。 しかし、電力自由化、発送電分離が実現すればある程度事態が流動化するのではないかという期待もある。まず第1に、競争が激化する電力会社の株主総会がバラバラの日程で行われる可能性があることや、電力会社の経営戦略に変化が起きることなどが、株主提案実現のきっかけになりうるのではないかと思う。 フリースピーチでは、フクシマの現状を見てきた女性が、あらためて原発反対の覚悟し直したと発言され、デモへの決意を表明された。 私も指名されたので、東京や山形でのデモ参加を通じて感じていたことを話した。全国至るところで脱原発、反原発のデモや集会が行われていることを知るだけでも励みになるという話だ。 東京での何千人も集まっている抗議デモに参加している人が、福島事故から5年目で少しずつ減ってきたデモ参加者の数にいくぶん心細い感じがしているとき、仙台や山形でデモがあることを知ると心強いと話されていたのが印象的だったことなどを話した。 仙台も古川もけっして大人数のデモではないが、そのデモが自分たちばかりではなく、全国でデモをしている人の応援にもなっている(はずだ)と私は考えているのである。Photo B アピール行進へ出発。(2015/6/26 17:43) 雨が降りそうなので早めに出発しましょうという声が上がって、アピール行進に移った。公園の南の道路に出て東に進み、左折を4回繰り返して公園に戻ってくるというコースである。Photo C 沿道では手を振って応援する人が。(2015/6/26 17:46) 最初の左折をする交差点の手前では、カフェらしい店構えの前で手を振って応援している人がいる。私の横で声を上げていた人が、あの方は毎回出てきて応援してくれるのだと教えてくれた。ほかに、マンションの6階か7階から応援してくれる人、家族全員が応援に出て来る食堂もあって、その人たちもデモのある日は応援をかかさないのだという。3本の幟旗。(2015/6/26 17:44、45) Photo D1~3 少人数でも大声でアピール。(2015/6/26 17:51) あさひ中央公園の北の道に入り、合同庁舎を過ぎ、イオンの横を行く。イオンの道向かいにマンションがあって、たしかに高い部屋のベランダから手を振って応援している人がいた。マンションと同じ並びの店から二人の子どもが駆けだしてくる。後からご両親らしい二人が歩いて来て、4人揃って手を振っている。 一番町や青葉通りという繁華街を歩く仙台のデモでも応援してくれる人たちがいて心強いのだが、それほど通行人が多いわけでもない道筋でこれだけの人が応援してくれると、仙台のデモの時よりたくさん応援されているような気になる。じっさい、デモが出会った人の数に対する確率から言えば、はるかに多いのである。「再稼働反対」のドラムが響く。(2015/6/26 17:56)Photo E 左折、左折でデモは進む。(2015/6/26 17:59) 集会が始まる前、カメラと写真のことを話題にして立ち話をしたお巡りさんが、デモの横を全力疾走で駆け抜けていく。次の交差点まで先に行って交通整理を始めている。ほんとうに全力疾走なのだ。 デモの列がその交差点を過ぎると、また全力疾走で駐車場からの出入り口まで駆けて行って車がデモと交差しないように注意している。交差点ばかりではなく、店の駐車場の出入り口まで守備範囲に収めているので、たしかに大忙しなのである。そのおかげでデモはとてもスムーズに進むのだった。Photo F 通行人に手を振って。(2015/6/26 17:59)Photo G 最後の左折交差点。(2015/6/26 18:02)Photo H 公園に戻る。(2015/6/26 18:07) 少人数のデモでは、コールに合わせる自分の声がはっきりと自分の声として聞こえる。大勢の声に埋もれ紛れることがないのだ。自分の声は自分の声として実感できる。そのせいか、次第に大声になって喉が痛くなってきた頃にアピール行進は終わった。 雨に降られることもなく。総勢17人のデモはふたたびあさひ中央公園に戻って、そこで三々五々解散となった。 何人かの人は隣のイオンに入って行った。夕食の準備にはとてもいい時間だ。 街歩きMap。A~Hは写真撮影ポイント。地図のベースは、「プロアトラスSV7」。
2015.06.26
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ころりと横になる今日が終わっている 尾崎放哉 [1] 久しぶりに中学時代の同級生に電話をした。肝臓ガンから復帰して2年経ったので、一緒に出かけないかと誘いの電話だったのだが、昨日の検査で肺に転移していたことが分かって来週にも抗ガン剤治療を始めるのだという。 「君は元気か?」と訊かれて「年相応に元気だが、年相応に弱ってもいる」などと曖昧に返して電話は終わった。 私は元気である。とくに病んでいるところもない。だが、快調かといえば、そうともいえない。毎日が、気がつくといつのまにか「今日が終わっている」のである。 実感としていえば、達成感がないままに毎日が暮れてしまうのである。何かをやろうとしてやれなかったというわけでもないのに、達成感がない。どうも、そもそもの自分の平常というのが私には実感できていないので、根拠も理由もなく日々に不満らしいのである。壁には新しい絵を掲げ甕には新しい花を挿し窓には新しい鳥籠を吊るしたこれでいい さあこれでいいではないか〔…………〕行雲流水 い往きとどまるものはなしわがよたれぞつねならむ……それなら私はどこに行くにも及ぶまいここにかうしてゐるとしようここにかうしてゐるとしようとまれ今日一日は 三好達治「烟子霞子」部分 [2] これでいい、さあこれでいいではないか、という心の平衡点を探さなくてはならない。私の年齢のことを考えると、もしかしたら私なりの平衡点(基底状態)にあるのかもしれない。基底状態の量子揺らぎのごとく本質的に避けがたい心の揺らぎに惑わされて、無益に気落ちしているだけかもしれない。 「とまれ、今日一日は」金デモに出かけて終わらせることにしよう。体を動かし、声を出し、話を聞いて、少し考える。週に一度のそんな時間が大事に思えてくる。 錦町公園、今週も雨の中。(2015/6/19 18:41、47)フリー・トーク。(2015/6/19 18:43~58) 先週とまったく同じような雨模様である。先週と同様に、屋根の下に集まって集会が始まった。 フリー・トークも、先週の話題(市内のある町内会が女川原発再稼働を止めさせる株主提案に賛同するよう仙台市に申し入れた)を受けて始まった。その申し入れをした町内会の会長さんが参加されて経過報告、何とかして株主提案に賛成するよう仙台市を翻意させたいという気持ちと、そのために市民の意思表明が重要だと熱心に話された。 続いて、当の株主提案をしている「女川原発の再稼働を許さないみやぎアクション」の篠原さんが、電力自由化、発送電分離を控えて各電力会社の株主総会への対応の変化や、現在の状況、これからの取り組みについて話された。 角野さんは、仙台市議会の質疑における東北電力の株主総会へ仙台市の対応について報告された。例年のように、木で鼻を括ったような役人の答弁(市長はまったく答えず)しか得られなかったという。あたかも仙台市は、原発に対しては判断停止状態のようである。自治体住民の健康や生命、それぞれの意見を考えることのない(考える力がない?)地方政治と行政にどんな価値があるのかと思わざるを得ない。 最後のスピーカーは千葉県市原市の方で、千葉県の放射能汚染の状況のひどさやそれに対する取り組みについて話され、宮城県南部も同じような汚染状況にあるのでとくに子どもの健康を守るための取り組みが必要だと訴えられた。Lここでもまた、県や市、街の地方行政体をあてにできない実情が明らかにされ、私たちの積極的な活動や運動によってしか解決の道がみえてこないことが明らかにされている。 定禅寺通りを西へ、一番町に向かう。(2015/6/19 19:12~15) 先週と同じような雨天なのに、先週を上回る50人のデモ参加者は雨の市街に歩き出す。脱原発デモなので、シュプレッヒコールは原発のことばかりだけれども、それぞれは「戦争法案反対!」、「憲法違反を許すな!」と国会前の抗議の声に合わせてひそかに叫んでいるに違いない。素晴しき一生(ひとよ)へ向かふさみどりの扉みえつつ雨みだれ降る 水原紫苑 [3] 扉は見えているのである。扉を開けて、平和を確かなものにするしか素晴らしい「ひとよ」は得られない。どんなに雨が乱れ降ってもデモは元気に進んで行くのである。雨天、曇天、晴天、いつでもデモは元気なのだが。 「ゲンパツなくても、ええじゃないか、ええじゃないか」 (2015/6/19 19:21)今日のコーラー。 (2015/6/19 19:19、27) 「ええじゃないか」コールはいつ頃からやるようになったのだろう。そんなに前からではないように思うが、このコールをやるようになってからデモは活気づいたように思える。 いつものコール、いつものアピール文と「ええじゃないか」コールが順繰りに繰り返される。変化があっていいし、「ええじゃないか」コールには、いくぶん原初的な匂いのするリズムがある。 傘から開放されて。 (2015/6/19 19:26、27) こういう詩がある。新聞の見出し赤と黒「ドイツ」という言葉のもとに死者達は売店のそばに立ちそして大きな眼で新聞の見出しを見つめる黒くそして赤く印刷された憎悪を「ドイツ」という言葉のもとに死者達は恐れるこれは死者達が恐れている国である ヒルデ・ドミーン「灰色の時代」部分 [4] 同じように、「日本」という国を、「日の丸」国旗を、「旭日旗」を恐れているアジアの死者たちがいることを忘れてしまったかのように、いま、日本人は政治的に振る舞っている。 アジアの死者たちから見れば「日本人」として括られるだろうが、私(たち)から言わせれば、安倍自公政権、自民党、公明党とその支持者たちのことである。かつての歴史の中で死んだ死者たちが恐れる国は、70年を経てふたたびアジアを越えて世界が恐れる戦争国家になろうと画策している。 その政治的野心を潰えさせることができるか、それが今日の私(たち)の避けがたい課題であり、しいていえば私の日々の不達成感の一つの原因でもあろう。 「原発再稼働するな!」、「原発建設やめろ!」と叫びながら歩くのだが、私にとってこれらのコールは「戦争国家反対!」と等しいのである。 青葉通りを東へ。(2015/6/19 19:33、34) 大通りを渡って。(2015/6/19 19:40)ゴール前で。(2015/6/19 19:43) 「美しい国」という虚像に舞いあがっているのは、いったいどういう人たちなのだろう。日本という国のどの時代のどの場所で人は「美しい国」を実感し、納得しえたというのだろうか。 「日本を取り戻す」という政治的スローガンと一緒に語られる「美しい国」は、過去のどこか一点にあったと推測される(論理的には)が、過去のどこであるかを示す言説は、右翼政治家からは明示的には発せられない。彼らも知らないのだ。少女趣味的なあこがれが、政治的仮面を被っただけの虚言なのだろう。 しかし、いま、ここで、自公政権の戦争推進立法を認めてしまうと、太平洋敗戦後から今日までの70年の平和を「美しかった日本」といって絶望的に懐かしむ時代が待ち受けているのは確かだろう。 美しさの、裏切り、殺戮の、真実その日、地上が再び三たび四たび燃え尽きるそのたびごとの戦後の、はるかな、美しさ 佐々木洋一「そのたびごとの戦後」部分 [5] [1] 『尾崎放哉句集(一)』(春陽堂 平成2年)p.15。[2] 『定本 三好達治全詩集』(筑摩書房 昭和39年)p.154。[3] 水原紫苑『歌集 くあんおん』(河出書房新社 1999年)p. 43。[4] 『ヒルデ・ドミーン詩集』(高橋勝義・高山尚久訳)(土曜美術社出版販売、1998年)p.212。[5] 「アンソロジー佐々木洋一」(土曜美術社出版販売 2001年)p.111。
2015.06.19
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【続き】 一番丁に入る。 (2015/6/12 19:23、24) 広瀬通りまでは屋根なし一番町。 (2015/6/12 19:26、27) 一番町に入っても、広瀬通りまでは道の中央部にはアーケードの屋根がない。少ない歩行者も両脇のアーケード下を歩くので、雨さえ気にしなければ通行人を気にしないで写真を撮る立ち位置が自由に選べる。 それでも、カメラが濡れないように傘を抱えて、カメラアングルを定めるというのはけっこう面倒くさい。めったやたらとシャッターを押して、まぐれ当たりを期待するのである。 ぶらんどーむ一番町とサンモール一番町は屋根付き。 (2015/6/12 19:34、38) 先ほどの平川克美さんと同じ本に、鷲田清一さんが社会構成と社会の安定性について論評されている文章が、抗議行動や反対運動との関係でとても意味が深いのではないかと思った。 鷲田さんは、「ある社会を構成する複数文化のその《共存》のありようがきわめて重要になるのです」と言い、T・S・エリオットの言葉を引用しながら、次のように述べている。 エリオットはこの《共存》の可能性を、なにかある「信仰」やイデオロギーの共有にではなく、あくまで社会の諸構成部分のあいだの「摩擦」のなかに見ようとしました。あえて「摩擦」を維持するとは、これもまたなかなか容易いことではありませんが、エリオットはこう言っています(傍点は引用者)――〔一つの社会のなかに階層や地域などの相違が〕多ければ多いほど、あらゆる人間が何等かの点において他のあらゆる人間の同盟者となり、他の何等かの点においては敵対者となり、かくしてはじめて単に一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他のすべてを支配するという危険から脱却することが可能となるのであります。(「文化の定義のための覚書」『エリオット全集5』深瀬基寛訳、中央公論新社、290頁) 一つの社会の「重大な生命」はこの「摩擦」によって育まれるというのです。社会のそれぞれの階層やセクターはかならず「余分の附加物と補うべき欠陥」とを併せもっているのであって、それゆえに生じる恒常的な「摩擦」によって「刺戟が絶えず偏在しているということが何よりも確実な平和の保障なのであります」とまで、エリオットは言います。というのも、「互いに交錯する分割線が多ければ多いだけ、敵対心を分散させ混乱させることによって一国民の内部の平和というものに有利にはたらく結果を生ずる」からです。 [3] 戦前の日本社会もドイツのナチズムも、社会とその構成員である国民を唯一の価値に染め上げて「摩擦」を無くそうとして多くの非人道的な弑虐を行ったのは確かなことだ。共産主義の名のもとに国民意志の斉一化を図ろうとしたソ連もまたアーレントの言う全体主義国家であった。 反原発の運動は原発の廃棄をめざすことに間違いないが、そのような意思表示をすること自体がすでに多様な存在の一つ、「摩擦」の一つとなって社会の安定に寄与している(はずだ)。正しくプロテストすることこそ、「国民の内部の平和というものに有利にはたらく」ことになるのだと思う。青葉通りに出る。(2015/6/12 19:40)大通りを渡る。(2015/6/12 19:46) 雨の中を歩き抜く。(2015/6/12 19:49)到着。(2015/6/12 19:50) 雨は降り続いているが、青葉通りに出るとすっかり弱くなっていた。「みやぎ金曜デモ」は必ず晴れると豪語していたのだが、最近は雨に降られることが多いとデモの出発前に発言したのは主催者代表に西さんだった。 家を出る前、熱っぽくてグズグズしながら妻と話していたことは、「雨が降るといつもと違う写真が撮れそうな気がする」ということだった。雨を期待したわけでもないが、結果は思惑とは大違いだった。 [1] 平沢克美「戦後70年の自虐と自慢」、内田樹編著『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)pp. 166-7。[2] 同上、p. 167。[3] 鷲田清一「「摩擦」の意味――知性的であることについて」、同上、p. 128。
2015.06.12
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朝から霧雨が降ったり止んだりしていて、予報ではデモの時間帯当たりが一番強く降るという。朝からずっと熱っぽくて、行こうか行くまいか、止めようかでかけようか、などと引っくりかえったままで日中を過ごしてしまった。良くも悪くもならないので、ぐずぐずながら出かけることにした。 カメラをザックに放り込んで家を出るのだが、そのザックにはずっと「No Nukes」のタグがぶら下げられている。その脇に先月から「No War」のタグが並んでいる。闘う敵の根っこは一緒だから「No Nukes」のシングルイッシューで十分だと嘯いていたが、自公政権の戦争立法攻勢にそうばかりも言っていられなくなった。憲法審査会での3人の憲法学者が揃って戦争法案は憲法違反だと断言したことで状況はいくぶん流動的になって、政権は国会会期内の成立を断念した。「潮目が変わった」という言う向きもあるが、会期を延長して成立させようという意志はまったく衰えていないようだ。 どの閣僚も国会審議の中で話すことは支離滅裂で、最低限の立法趣旨すら説明できていないのだが、ほとんどの憲法学者が憲法違反だと主張していることも意に介する風はない。最後は多数で押し切れるという「奢り」が背広を着て歩いているようなのである。 今の状況は戦前だと多くの人が指摘している。今日の状況は、敗戦後に日本人がかつての戦争をどう捉え、どう責任を取ったかということに起因しているのだと思う。戦後をどう生き抜いたかという点に関して、必ず引き合いに出されるのがドイツである。そのことで平川克己さんが興味深い文章を書いている。 〔すべての戦争責任はナチスにあるとしたドイツの〕歴代の指導者たちは、〔……〕何度でもあの時代の光景を思い出させるような演説を繰り返した。国内に博物館をつくり、収容所を歴史の証拠として残し、学校ではワイマール憲法のもとでどのようにしてナチスが台頭してきたのかという政治プロセスを、中学校ぐらいのときに学ばせた。そして、「忌まわしき自分たちの過去を克服する」ことを国民的な課題としてきたのである。 [1] 一方の日本では、誰一人として日本人の責任を問うことはなかったし、戦勝国から戦争犯罪人と断罪された日本人を靖国神社に祀ることで、彼らの責任すら否定してしまった。つまりは、日本人はすべて戦争の被害者だという認識の欺瞞を生きてきたのである。 だからこそ、戦争遂行政府の高級官僚であった吉田茂や岸信介、帝国陸軍将校で慰安婦施設を作ったことを自慢するような中曽根康弘が戦後の首相になることができたのである。 もし、戦後民主主義というものが軽薄な理想主義に映るとすれば、それはおそらくそこに加害者としての国民という意識がほとんど無く、災害から立ち上がる被害者たちという立ち位置を多くの日本人が選択してしまったというところにあるのだろう。 [2] これは、まったく福島の原発事故後と同じことなのだ。あれほどの被害が生じた事故を起こしながら、原発を推進してきた政府・自民党も事故を起こした東京電力の誰一人として責任を取ろうとしていない。責任を問うべき立場にある法にたずさわる人間たちも口を濁したままである。「風評被害」とか「食べて応援」などという、すべからく「被害者同士助け合いましょう」的な感情・意識に席巻されてしまっている。戦争責任と同じく、誰も責任をとらないことを暗黙の内に認めて往き過ぎようとしている。 戦争責任を自らにも他者にも問うことなく戦後を生き延びた日本人は、結局ふたたび同じような過程で戦争に踏み込もうとしているというのが、今の戦争立法の歴史的意味であろう。責任もとらず反省もしなかった者は、ふたたび同じ過ちを犯すのである。 戦争と同じように、いま、真剣に原発事故の責任の所在を明らかにしなければ、またふたたび原発事故に見舞われるに違いないのである。そして、原発事故は非可逆的な事象であって、私たちの国土の上で日本人として暮らすことが不可能になる怖れがある。戦争に負けた国土は生き残った者が復興させることができるが、放射能にまみれた土地では誰も生き残れないのである。 錦町公園、雨の中の集会。(2015/6/12 18:42~51) 日本人の敗戦処理が間違っていた、日本人は誰も戦争責任をとらなかった、という話ではどうしても「日本人」として括ってしまうのだが、これは注意を要する話法だ。日本人はみんな悪いという言い方は、日本人はみんな正しいということと大差ないのである。「1億総懺悔」が「1億総無責任」と同じ意味だったことと同じである。 責任を重く受け止めた日本人はいる(いた)。責任の所在をはっきりと自覚する人はいる(いた)。しかし、それが社会に反映されなかった、マジョリティにならなかったというに過ぎない。私たちの反原発の意思表示、戦争立法への反対の行動は、一方でそのような人々の発見の過程でもあると私は考えている。今はマイノリティでも、いつかマジョリティの意志として社会を形成すると信じるしかない。 フリー・トーク。(2015/6/12 18:41~19:01)公園を出発。(2015/6/12 19:08)定禅寺通りを西へ下る。(2015/6/12 19:10)勾当台通りを横断中。公園を出発。(2015/6/12 19:18) 小雨だったが、集会は始まると次第に雨足が強くなってきた。参加者が多くないので、屋根の下に集まって集会が始まった。 フリー・トークは東北電力の株主総会の話題から始まった。東北電力の大株主である仙台市に対して、市内のある町内会から女川原発再稼働を止めさせる株主提案に賛同するよう申し入れたこと、脱原発市民会議も同じような要請を仙台市に行ったことが報告された。 福岡で開かれた原発再稼働に反対する「6・7 3万人大集会」と「第2回全国金曜行動交流会」に代表として参加された西さんの報告があった。これから川内原発や高浜原発の再稼働が具体的日程に上ってきて、なかには実際に再稼働されるかもしれないが、それでも全原発廃炉をめざして抗議と意志表示は続くし、続けなければならないという趣旨のことを話された。 講演会の告知、加美町の指定廃棄物最終処分場候補地を訪ねた現場報告、東北電力本社前での抗議のスタンディングの報告と参加案内などの後に、先週から車椅子で参加されている人の挨拶があった。近所のカフェなどで機会があれば脱原発の話を積極的にされているということだった。 朝からの雨のせいか、今日の参加者は40人と多くはない。錦町公園からデモに出発するときには、いくぶん雨足が弱まってきた。【続く】
2015.06.12
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フェイスブックを開くと、東京は雨で、毎週の金官デモと新たに始まった戦争法案反対行動が国会前での抗議場所の調整が済んだというニュースが流れていた。FB友の一人は、二つの抗議行動には重ならない時間があるので、雨にかかわらず両方に参加すると表明していた(自公政権は「平和安全法制」と呼びたいようだが実質は「戦争推進法制」なので、私は社民党の福島みずほさんにならって「戦争法案」と呼んでいる)。 戦争法案は時間の差し迫った問題だが、国会に参考人招致された3人の憲法学者が戦争法案は憲法違反だと口を揃えて主張した。自民党や公明党が推薦した憲法学者まで、自公政権の法案を憲法違反と断じたことで少しは風が変わらないかと少しは期待したい。 そんな期待をしながら、私は原発反対の金デモに出かけるのである。東京は雨だというので空を見たらあまりいい色の雲ではない。天気予報を調べたら、仙台の雨は遅れて明日の朝かららしいので、ひとまず安心して出かけた。肴町公園、集会の様子。(2015/6/5 18:59)新しい参加者のインタヴュー。(2015/6/5 18:54、56) 午後6時半はずいぶん明るい、そんな季節になった。集会やデモの時間帯に陽が落ちていくのはとても気持ちのいい時間の過ごし方なのだが、今日のように全天曇りでは夕景は単なる明度の問題に過ぎなくなる。 予定より少し遅れて集会が始まった。主催者代表の西さんの話は、川内原発再稼働に反対して鹿児島を出発したリレーデモが福岡の九州電力本店に到着し、再稼働反対の署名簿を提出したさい、警察が出動して話し合いが強制的に中断されたことなどについてであった。 また、関西電力が仙台新港に石炭火力発電所を2017年から稼働させる計画の話もあった。宮城県は「みやぎ環境税」を設けて、それによって二酸化炭素の削減を図れると主張しているのに、大量の二酸化炭素を排出する石炭火力発電所の稼働を認めるのは明らかに矛盾しているとして、反対する行動を立ち上げたという話があった。 特定廃棄物最終処分場に関する環境省の説明会の報告もあった。参加者の質問に対してほとんどまともに答えることのない無意味な説明会だったらしい。 今日は新しい参加者がいて、司会者のインタビューを受けていた。車椅子で参加された方は、東京で抗議行動に参加されていて、これからは仙台でも参加したいと話されたし、以前に参加したことのある若い女性は、帰郷した際に幼なじみを誘って参加したという。その友だちの女性は初参加だという。公園を出発。(2015/6/5 17:04)まもなく一番町。(2015/6/5 17:08) 今日のデモ参加者は50人ほどで、とくに多いわけではないのだが、とても元気な声を上げながらデモは出発した。肴町公園の別の出口から先回りして、デモの先頭を待っていたら、いつもは先頭を行く「女川原発を廃炉にしよう」の横断幕の前で二人の女性がコーラーをつとめている。 このお二人はしばしばコーラーを担当してくれていて、ほんとうにいつも元気なのだが、先頭に立つと一段と張り切り方が違うのかもしれない。今日は全体の活気そのものが格段に上がっているように思われた。一番丁を北へ。(2015/6/5 17:09)元気で賑やかに。(2015/6/5 17:09、11) 広瀬通り、国分町を横目に。(2015/6/5 17:14) 二人の女性コーラーの元気さに引かれるようにデモは進む。「女性」といえば、今日の寝起き、私のかわたれどきの読書タイムに、高橋源一郎さんが書いていた女性の話 [1] をたまたま読んでいた。 2001年の〈9・11〉の同時多発テロが起きた二日後に、スーザン・ソンタグが「これは『文明』や『自由』や『人類』や『自由世界』に対する『臆病な』攻撃ではなく、世界の超大国を自称するアメリカがとってきた、もろもろの具体的な同盟関係や行動に起因する攻撃に他ならない」と発言したことを紹介したうえで、高橋さんは次のように書いていた。 テロの後、すぐに「復讐」や「報復」が唱えられだしたとき、ソンタグの脳裏に浮かんだのは(たぶん)、その「復讐」や「報復」の結果、夥しい砲弾や爆撃を受けることになる人たちのことだった。なぜ、ソンタグがそんなことを考えたんだろう、と思うかっていうと、ソンタグは女性で、女性はずっと「生活」を担当させられていて、男性たちは勝手に「正義」とか「報復」とか「戦争」とかいって怒鳴っていればいいけれど、そんなときでも、女性は家にいて、夕飯を作ったり、子どもの世話をしなければならないわけだからだ。「爆弾を落とされる側」のことがすぐに脳裏に浮かぶのは女性で、そして、実際に爆弾が落ちてくると、「ほんとうに迷惑だな」と思うんだよ。 [2] 高橋源一郎さんは、さらに『ゲド戦記』の作者、アーシュラ・クローバー・ル=グインの『左ききのための卒業式祝辞』という文章の中から「男たちは、ずっと「上」を見ていました。けれど、わたしたち「女」のルーツは、「闇」に、「大地」にあるのです」という趣旨の言葉を取り上げた上で、次のように記していた。 この「下」へ向う視線こそが、ソンタグやル=グィンを特徴づけていて、それは、なぜだか「上」へ向かいっ放しの多数派の考え方とは正反対を向いている。そして、彼女たちは、自分の考え方が、世間の多数派のそれとは逆のベクトルを持っていることに十分に自覚的だったんだ。そして、それが可能だったのは、彼女たちが、「女性」であったから(もちろん、女性なら誰でも彼女たちのように考えられるわけじゃない。男性のように考え、男性社会に無意識に受け入れられることを望んでいる女性だって多い)で、この、男性中心社会の中で、どうしようもなく「少数派」(「左きき」はそのシンボルだね)であることを運命づけられていたからなんじゃないだろうか。 だから、ぼくには、もしかしたら、いまや「知性的」なものとは、「女性的」であることをどうしても必要としているのかもしれないとさえ思えるんだ(ここに、ハンナ・アーレントの名前を付け加えると、ソンタグとアーレントはユダヤ系という、もう一つの「少数派」の条件が加わるね)。 [3] 「下」へ向う視線が女性特有であるかどうかは私には断定できないが、そのような優れた感性と思想を備えた尊敬に値する女性がいることはまったく同意できる。アメリカ空軍の無人爆撃機に取り付けられたビデオ映像に興奮する男の感性には敵を殲滅する英雄的な戦闘機乗りのイメージが重なり、同じ影像から爆弾の目標になっている母と子どもの姿を思い浮かべる女の感性を「下」へ向う視線と喩えたら、その違いがよく分るだろう。 高橋源一郎さんが描いて見せた女性たちが、戦争法案を強引に通そうとする自公政権の男たち(と男になりたい女たち)に正しく反対できるのは間違いないだろうが、男たちだってやれるはずだ。少数派といえども、そういう男性がたくさんいることも知っている。晩翠通りへ曲る。(2015/6/5 17:18) 晩翠通りを行く。(2015/6/5 17:20、21) 一番丁から広瀬通りに出て、さらに広瀬通りから晩翠通りに出ると、その都度、暗さが増す。全天の曇り空が、街の光をぼんやりと映し返しているのだが、街の光が減れば反射も減って、いっそう暗さが増すようだ。 「下」へ向かう視線を共有する二人の女性のコールは暗い曇天を突き抜けて行くような明るさで、その声に元気に答えるデモの列は晩翠通りを右に曲り、コースの中で一番暗い晩翠草堂前の青葉通りを仙台駅に向かっていくのである。 [1] 高橋源一郎「「反知性主義」について書くことが、なんだか、「反知性主義」っぽくてイヤだな、と思ったので、じゃあなにについて書けばいいのだろう、と思って書いたこと」、内田樹編著『日本の反知性主義』(晶文社、2015年)p. 111。[2] 同上、p. 127。[3] 同上、p. 128。
2015.06.05
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