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テレビで鐘ヶ淵の路地の話題に触れていた。下町らしい路地の風景を眺めながら、ふと「路地裏」ってどこだろうと考えた。表通りからみたら路地そのものが裏ではないのか。いや、表通りから路地を抜けて裏へ行くことができるからそこが路地裏か。まてよ、「裏路地」という言葉もあるぞ。 その辺で諦めてネット地図で「鐘ヶ淵」がどこにあるのか調べてみた。500メートルほどに接近した隅田川と荒川がまた分かれていくあたりで、道が入り組んだ下町らしい地図が現れた。そんなことがあって、一度は歩いてみたいと思ったのは3ヶ月ほど前だった。 『ポンピドゥー・センター傑作展』を見た東京都美術館を出て、上野駅近辺のおいしそうな蕎麦屋をネットで探して昼食をとる。地下鉄銀座線で浅草まで生き、東武スカイツリーラインに乗り換え、曳舟で降りた。 曳舟から右折、左折しながら北上して鐘ヶ淵まで歩くのである。Photo A1 東武「曳舟」駅前北部。(2016/6/29 12:24)Photo A2 国道6号を越えて向こうの道へ。(2016/6/29 12:28)Photo B1(左) 第一寺島小の手前を左折した道。(2016/6/29 12:33)Photo B2(右) 「鳩の街」商店街。(2016/6/29 12:36) 曳舟駅を降り、駅の北端から北西に向かう道を歩き出す。道は微妙にうねっているのがいい。東京大空襲では深川あたりの被害が甚大だったというが、その北部のこの辺りは被害にあったのだろうか。 地図を見るかぎり、深川からスカイツリーの間は道が格子状に組まれているが、その北の地域の道は入り組んでいる。これは大空襲後の復興計画に関係した地形ではなかろうか。 国道6号を越えてそのまま進むと右手に第一寺島小学校が見えてくる。手前の十字路を小学校の反対側の道に曲がる。これが路地歩きの第一歩などと思ってみるが、普通の住宅街である。道の端を歩いていて手を伸ばせば、玄関ノブに手が届きそうなぐあいに家が建てられているのが、いかにも下町らしい雰囲気ではあるが。 道幅が微妙に狭くなったり広くなったりしている道に食堂の看板が見え出して三差路に出る。突き当たった狭い道には次々と小さな店が並ぶ「鳩の街」商店街だった。 「鳩の街」という地名は小説か映画で見聞きした記憶がある。ネット情報では、空襲で焼け出された花街「玉ノ井」の業者が移り住んで、戦後特殊飲食街(赤線)だったという。ここは空襲でも焼け残った地域ということだ。鳩の街は、吉行淳之介の小説や永井荷風の戯曲の舞台として描かれ、永井作品は映画化もされた。小説を読んだのか、映画を見たのか、もう記憶が定かではないが、荷風はかなり読んだのでその中にあったのかもしれない。Photo C 露伴児童遊園。(2016/6/29 12:40)Photo D1(左) 地蔵坂通り。(2016/6/29 12:46)Photo D2(右) 隅田川高校への道。(2016/6/29 12:46)Photo D3 蓮花寺。(2016/6/29 12:48) 鳩の街商店街を北に歩いた。店構えはどれも大きくはないが、魚屋、惣菜屋、餅屋、呉服店、お茶屋などが民家と軒を並べて連なっている。 今日は真昼に歩いているが、夕方に歩いてみたい商店街だ。下町の狭い商店街の賑わい方もだが、この街で買い物をする人たちの姿、表情も見たいと思うのだ。東京を歩きながらそんなことをしばしば思うのだが、仙台からの「通い」の街歩きではどうにもならない。私の街歩きはずっと完結されそうもないのだ。 商店街の道が墨堤通りに出る手前で右の道に入った。左手に小さな公園が現れる。「墨田区立露伴児童遊園」とある。向島に住んでいた幸田露伴のメモリアルパークである。露伴の住まいは「蝸牛庵」と呼ばれ、「蝸牛庵物語」と題して露伴と向島の因縁が掲示板に縷々記されていた。 ほかに「向島文学散歩」という12人の文人の写真入り掲示板もあり、中に佐多稲子も含まれていた。佐多稲子が隅田川の東(墨東)に住み、隅田川を越えて勤めに行くことの意味を論じた評論があった。奥井智之さんの『アジールとしての東京』 [1] である。山の手と下町を分ける隅田川に境界としてのアジールを見るという話である。 アジールは「聖域」として権力も立ち入らない場所という意味で、国境の地域など異なった集団が尊重しあう空間を指すが、奥井さんはそれを鉄道や集落を隔てる坂や橋などに拡張して論じている。 露伴児童遊園前の道をそのまま進み、地蔵坂通りの商店街に出る。地蔵坂通りをほんの10メートルほど歩き、すぐに隅田川高校へ行く道に入る。隅田川高校の道向かいにある蓮花寺を見ておこうと思ったのだ。 蓮花寺は、江戸時代には川崎大師、西新井大師とともに三大師として栄えていたと言い、門前に弘法大師ゆかりの道標二基が据えられている。一面には東の蓮花寺を指す「大しみち」、反対の面には西の西新井大師を指す「大しみち」と記されている。 Photo E1 田園調布の放射状の道。(2016/6/29 12:54)Photo E2 池の向こうにスカイツリー。(2016/6/29 13:05) 蓮花寺の西の道に入って北に歩くと大きな樹木のある公園に出る。この公園の入り口に「向島百花園」の入り口があって、入場料150円を65歳以上割引で70円を払って入場した。 向島百花園は江戸時代に梅屋敷として始まった。入り口近くの山上憶良の秋の七草の歌碑が目につくように日本古来の花々が植栽されている(花の写真は別のブログに載せた)。 花を眺めながら園内を廻っていくと、池の向こうにスカイツリーが見える。スカイツリー駅から乗って曳舟まで来たのだが、北向きに歩いてきたせいかそれと意識してスカイツリーを目にしたのはこの時が初めてだった。Photo F 明治通り。(2016/6/29 13:21)Photo G1(左) 明治通りから東に入る道。(2016/6/29 13:23)Photo G2(右) 大正通りの商店街。(2016/6/29 13:34)Photo H1 大正通りの交番前の分岐。(2016/6/27 13:37)Photo H2(左) 交番前のチョウセンアサガオと大正通り。(2016/6/29 13:37)Photo H3(右) 隅田三丁目内の道。(2016/6/29 13:44) 向島百花園から明治通りに出た。明治通りを「東向島4丁目」交差点に架かる歩道橋で渡り、東に向かう道に入って、方向としては北東を目指す。地図を見ると道はとても入り組んでいる。じっくりと街を楽しむことより、自分の位置を確かめるのに忙しくなった。 ここまでの道で2度ほど自分の位置が分からなくなってスマホのGPSで確認せざるをえなかった。地図1枚では足りず、スマホに頼らざるを得ないのはどことなく敗北した気分になる。それでいくぶん意固地になって地図だけで歩こうとしていたのだ。 何度目かの角を曲がると商店街に出た。大正通りである。東にスカイツリーラインの鉄道高架が見える。東武伊勢崎線はいまや東部スカイツリーラインと呼ばれる。言葉は次々に資本主義、商業主義の経済思想によって左右されていくのである。遠い将来(あるいは近い将来)、言葉はことごとく経済性によって図られるということになってしまうのではないか、などと大げさなことを考えてしまう。 高架をくぐって大正通りを進むと左手に大きく鮮やかな黄色のチョウセンアサガオの花に隠れるように交番があった。交番横で分岐する道に入った。この先も複雑な道をうねうねと辿るのである。途中、地図にある寺院をめざしたが塀に囲まれた墓石が少し見えただけだった。Photo I1(左) 都道449号。(2016/6/29 13:47)Photo I2(右) この先に神社があるはず。(2016/6/29 13:50)Photo I3 隅田稲荷神社。(2016/6/29 13:53)Photo J1(左) 隅田稲荷からの細道。(2016/6/29 13:55)Photo J2(右) 荒川堤が見えてきた。(2016/6/29 13:59) 細い道を左折すると向こうに広い道が見える。そこまでと思って歩きだすと、空き地を抜けてその都道449号に出られるのだった。少し南に下り信号を渡りさらに荒川方向に向かって道を選ぶ。 次の目標は神社マークである。国道449号から入った道から右に曲がった方向にあるはずだ。その道なりにUターンするように曲がると墨田稲荷神社がある。境内に茅の輪が作られていて、脇に茅の輪のくぐり方の説明があった。 私が生まれ育った東北の小さな町には八幡神社があったが、私の記憶には茅の輪はない。東京の街歩きを始めてからたしか田町駅近くの神社で「茅の輪」というものを初めて見たのだった。 私の後から年配の男性が神社の境内に入ってきて茅の輪の手前で一礼していた。これから本殿に参拝するのだろうかと私も本殿の方に向かってから振り返ると男性の姿がない。どうしたのかと訝ってあたりを見渡すと、境内の右手に人一人がやっと通れそうな狭い通路があるのだった。その道は荒川の方に向かうので、私も利用させてもらった。 細い道を抜けると荒川の堤が見える道に出た。Photo K1 荒川堤。(2016/6/29 13:59)Photo K2(左) 堤の石仏。(2016/6/29 14:00)Photo K3(右) 鐘ヶ淵駅に向かう道。(2016/6/29 14:02) 荒川の堤防道路に上がる階段がある。そこを上がると、階段の途中に小さな石仏があって花が供えられていた。前掛けがかけられていて地蔵様かと思ったが顔立ちは観音様だった。 堤防道路から芝生とグランドの河川敷、対岸の首都高の高架道路、上流の高速道の新荒川橋、下流の国道6号の四ツ木橋などを眺めて引き返した。 階段の上から、これから歩く鐘ヶ淵駅までの道が見える。Photo L 近代的な文化住宅。(2016/6/29 14:04) 荒川から鐘ヶ淵駅に向かう道で新しい住宅がまったく同じ姿で6軒並んでいるのを思わずカメラに収めた。 今日の街歩きでは狭い路地の両側に間口の狭い二階家が並んでいるのをたくさん見かけた。一、二階までを一戸分とした賃貸住宅、たしか関西では文化住宅とか呼ばれていたような長屋建てと思ってしまうほどほとんど隙間なしに隣接して建てられている。 写真の住宅はそれの現代版らしく、まとまった土地に建て売り住宅として建設されたものと思われる。間口の狭い準三階建ての住宅が同じ姿で50cmほどの間をおいて6棟並んで建てられている。下町が下町のまま現代化しているということなのだろう。Photo M1(左) 東武電車が行く。(2016/6/29 14:07)Photo M2(右) 東武線を越えた道。(2016/6/29 14:09)Photo N1(左) 鐘ヶ淵駅近くの路地。(2016/6/29 14:10)Photo N2(右) 駅近くの商店街。(2016/6/29 14:14) 現代下町版の家並を過ぎてまっすぐ歩いて行くと、電車が道を横切っていく。もう鐘ヶ淵駅である。踏切を越えて、東武線の東側、隅田川までの間も歩いてみようと思っていたが、急に疲れを感じ始めて諦めた。 右手に路地というより抜け道のような本当に狭いビル裏の道があった。駅に向かう道に抜けようとその路地に入る。駐輪禁止の張り紙の前にたくさん自転車が駐車している道を抜けると、小さな商店街らしく開放的な八百屋があって、店の真ん中に中年の婦人が腰を下ろして店番をしていた。客は一人もおらず、道を歩いているのも私だけだった。 鐘ヶ淵駅前には「武蔵・下総を結んだ古代東海道」という案内看板があった。鐘ヶ淵駅付近を通っていた古代の官道は東海道と呼ばれ、京の都から常総へ至る幹線道だったと記されていた。 その看板の前でカメラをバッグに収めGPSのトラックデータを保存して街歩きは終わる。東武線を北千住でJRに乗り換え、東京駅まで戻って新幹線に乗るのである。街歩きMap。A~Nは写真撮影ポイント。地図のベースは、「ゼンリン いつもNAVI(PC)」。 [1] 奥井智之『アジールとしての東京――日常のなかの聖域』(弘文堂、平成8年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.06.29
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街歩きのコースはGPSのトラックデータとして保存している。そのコースを東京の地図上にまとめて載せて眺めると、だいぶ痕跡が地図を埋めるようになった。当然のことだが、まだまだ地図上には空きがあるものの、なかなかここを歩きたいという決め手がない。 本郷近辺、根津から御茶ノ水、茗荷谷から向原に歩いた軌跡の間に、小石川植物園などがある区域がすっぽりと空いている。小石川という地名は聞きなれているような気もするが、実際には時代劇に出てくる「小石川養生所」くらいしか知らない。 しかし、その一帯を取り囲む本郷や大塚、千駄木や駒込あたりはあまり方形に区切られていない昔通りの道筋や坂道も多かったことが思い出され、おそらく、地下鉄の後楽園前から巣鴨まで、白山通りの南西の地域も似たような街なりになっているのではないかと期待したのである。 東京メトロ南北線「後楽園前」駅を降り、地上に上がると、まっすぐな道の歩道に出る。地図は持っていたが、右に行けばいいのか、左に行けばいいのか、すぐには判断できなかった。方角を失っているのである。 ちょうど昼時だったので、10メートルほど先の「ラーメン」の幟のある店に入って昼食ついでに地図を確認した。Photo A えんま通り商店街。(2016/6/27 12:18)Photo B1(左) えんま通りから左折した道。(2016/6/27 12:20)Photo B2(右) ムクノキの古木のある善光寺坂。(2016/6/27 12:29) ラーメン屋の前の通りは、地図によれば都道436号である。ラーメン屋を出て北へ歩き始めるとすぐ「こんにゃくえんま」の石柱のある源覚寺のお堂が左手奥に見える。 源覚寺に祀られている閻魔さまの片目は割れていて、それは願掛け満願の老婆の眼として与えたためで、眼病が治った老婆が感謝の蒟蒻断ちをしたことに由来するとネットに出ていた。 通りには「えんま通り商店街」の旗が街灯に飾られていた。これは後で見た建築現場の看板で知ったことだが、えんま通りはこの先で千川通りと呼ばれるらしい。 えんま通りの右手に「柳町仲通り」と看板をあげた横丁が見えてきたが、その反対側の道の先に坂が見えたので左折することにした。坂の途中にある善光寺(長野の善光寺の分院)に因んで善光寺坂と呼ばれる坂道を上がる。 善光寺の先の慈眼院には澤蔵司稲荷が祀られている。澤蔵司(たくぞうす)は伝通院の修行僧だったが稲荷大権現の化身だったということで、伝通院の別当寺の慈眼院に祀ったのだという。善光寺坂の上にある椋木の大樹には澤蔵司の霊が宿っていると伝えられていたため、道は椋木を避けて二股に造られたという。椋木は仙台では見ることができない南方の樹種なので、しばし木陰から老樹を見上げる格好をしながら上り坂の疲れと暑さを癒した。Photo C 伝通院の山門。(2016/6/27 12:34)Photo D1(左) 伝通院西の道(1)。(2016/6/27 12:45)Photo D2(右) 伝通院西の道(2)。(2016/6/27 12:49) 善光寺坂は椋木の老樹のある付近から緩やかになり、尾根の台地と思しきあたりに伝通院の大山門が現れる。高校生らしい集団が山門前の交差点を渡っているところだった。道の先に竹早高校があると地図に記されている。 伝通院の境内を一回りして、門前の処静(しょじょう)院跡の石柱の説明を読むと、処静院は、幕末に山岡鉄舟、清河八郎、近藤勇、土方歳三などの浪士隊が結成されて京に向けて出立した場所だという。 伝通院までは西向きに歩いてきたので、ここから伝通院西の道を北に歩くことにする。モダンな建築の宝蔵院や真珠院という寺院を眺めながら緩やかな坂を下っていく。Photo E1(左) 千川通り。(2016/6/27 12:54)Photo E2(右) 道の先に小石川植物園の緑。(2016/6/27 12:57)Photo F1(左) 小石川植物園東の御殿坂。(2016/6/27 12:58)Photo F2(右) 続く御殿坂。(2016/6/27 13:00) 伝通院からの緩やかな坂道を下り終えると千川通りに出る。今日の歩き始めのえんま通りから西に続く道である。千川通りは少しだけ歩いて、小石川植物園に近づく横道に右折する。 横道を左折すると道の向こうに植物園の緑が見えてくる。植物園は、江戸時代の御薬園と養生所跡で、現在は東京大学付属植物園である。植物園にはだいぶそそられたが、見学には時間がかかると考えてパスすることにした。 植物園手前の御殿坂を上る。御殿坂は、五代将軍綱吉が将軍になる前に坂上の白山御殿に住んでいたことに因んでいて、大阪とも富士見坂とも呼ばれたらしい。 29℃にも気温が上がった暑い日にこの御殿坂の登りはきついと汗をぬぐいながら息を切らしていると、若い婦人が自転車で追い抜いていくので少し驚いて後ろ姿を追った。黒いつば広帽子と黒の長袖で完全に日除けをした女性は、一度も降りることなく登り切って消えていった。すごい女性だと感心したが、もしかしたら電動自転車だったかもしれない。Photo F3(左) 高台の交差点。(2016/6/27 13:03)Photo F4(右) 白山通りに出る道。(2016/6/27 13:08)Photo G 白山通り。(2016/6/27 13:10) 御殿坂を登り切ると高台の住宅地で、交差点に信号機はあるが夜間専用というほどの閑静さである。道は次第に下り坂になり、左折し右折すれば白山通りが下に見えるはずだったが、大通り沿いに細い道があり、もう一度、左、右と折れなければならなかった。 白山通りの道沿いに京華学園の校舎が右に見え、もう少し歩くとまた校舎らしきものが現れ、そこは京華女子高校だった。 白山通りは緩やかに右に湾曲していて、細道に入りそこねたまま思ったより長く歩くことになったのだが、左の歩道は建物が陽光を遮ってくれるのが少しばかりラッキーだった。 白山通りに架かる歩道橋のところで左に分岐する道に入った。その辺りは仙石一丁目である。Photo H1(左) 千石の住宅地の道(1)。(2016/6/27 13:22)Photo H2(右) 千石の住宅地の道(2)。(2016/6/27 13:24)Photo H3(左) 千石の住宅地の道(3)。(2016/6/27 13:29)Photo H4(右) 千石の住宅地の道(4)。(2016/6/27 13:30) 仙石一丁目からニ丁目の住宅地は、途中でクランク上に折れた個所もあるが、ほとんど平坦でまっすぐな道だ。住宅地らしい静かな道だが、3メートルほどに大きく這い上がるように成長したルリマツリの青い花や、大きく真っ白なチョウセンアサガオ(ダチュラ)の花が印象的な道だった。どちらも仙台の街中の道ではほとんど見ることができない花だ(わが家では鉢植えのルリマツリが咲いているが)。 住宅地を抜けると不忍通りに出る。Photo I 不忍通り。(2016/6/27 13:33)Photo J1(左) 不忍通りから右折した道。(2016/6/27 13:38)Photo J2(右) 東洋女子高東の道。(2016/6/27 13:43)Photo K 文京宮下公園。(2016/6/27 13:48)Photo L1(左) 大鳥神社境内の子育稲荷。(2016/6/27 13:51)Photo L2(右) 巣鴨大鳥神社。(2016/6/27 13:51) 照りつける太陽に向かうように不忍通りを少しだけ歩いたが、急いで右折して仙石三丁目の住宅地に入る。横道に入ってすぐ左、右と折れると、道はゆったりと右に曲がっていて、日陰を辿って歩くことができる。 目標は巣鴨駅なので、適当なところで白山通りの方に戻らなければならない。地図で学校(東洋女子学園高校)のマークの手前の角を右折した。日陰のないまっすぐな道で、うなじのあたりが熱くなってきたのを機に左折して日陰の道に入った。 道の先には文京宮下公園の緑があって、少なくとも眼だけは涼しい感じになる。公園の中には大きなケージがあって、珍しい鳥でも飼っているのかと思ったが、中はテニスコートくらいの広さの地面だけだった。使用上の注意書きらしい看板が内側に掛けられていたが、外部からは読めない。何かの球技の施設と思われた。 宮下公園から元の道に戻ると赤い鳥居に赤い旗が何本も立てられた小さな祠があった。子育稲荷大明神で、江戸時代から霊験あらたかだったと伝えられていた神社を昭和56年に再建したと記されていた。 この稲荷神社が地図の神社マークに相当すると思ったのだが、すぐ横に巣鴨大鳥神社の立派な鳥居があり、ずっと奥に社殿があった。稲荷神社は大鳥神社の境内の一部に祀られていたのだった。Photo M1(左) 大鳥神社前の道。(2016/6/27 13:53)Photo M2(右) 白山通りを越えた道。(2016/6/27 13:58)Photo N1(左) 巣鴨駅に向かう道。(2016/6/27 14:00)Photo N2(右) 巣鴨駅裏。(2016/6/27 14:04) 大鳥神社前の道を少し進めばもう白山通りである。白山通りを巣鴨駅まで行くこともできたが、通りを渡って細い道を行くことにした。 その道から左折して駅までまっすぐな道を歩くもう寄り道をしないで終わりにするつもりだ。目の前を日傘をさした初老の婦人がキャリーバッグを引きながらゆったりとしたペースで歩いている。その歩く姿がどことなく優雅に見えて、後ろ姿を眺めながら同じ距離を保って婦人の後方を歩いた。 だいぶ暑さでへばっていたので、ゆったりしたペースがちょうどいいあんばいだったが、なんとなく女性の後ろをついて歩くというイメージの胡散臭さがどうにも気になって来た。真後ろではなく左の歩道に移ろうか、そっちで暑い陽射しを浴びて歩くのは嫌だな、などと考えているうちに女性は左に曲がって消えた。少しばかりほっとして、少しばかり残念な思いもある瞬間だった。 優雅な夫人の姿を見失ってすぐ巣鴨駅の裏道に出た。この道から直接駅には行けそうもなかったので、白山通りまで出て南口から巣鴨駅に入った。 善光寺坂と御殿坂の二つの坂道、それに、御殿坂を自転車で登り切る女性と日傘でキャリーバッグを引く女性の二人が印象に残った街歩きだった。二人とも後ろ姿だけで顔の印象がまったくないのは良かったのか悪かったのか……。街歩きMap。A~Nは写真撮影ポイント。地図のベースは、「ゼンリン いつもNAVI(PC)」。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.06.27
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86、7歳になったはずのハーバーマスは、イギリス国民がEU離脱を選んだことを聞いてどう思ったのだろう。イギリスの国民選挙のニュースを聞いて最初に思ったことは、そんなことだった。ニュースは離脱がもたらす経済的影響ばかりを伝える内容が延々と続いたが、私の関心はそんなところにはなかったのだった。 国民国家の完成をもって歴史の終焉を語ろうとするヘーゲル-コジェーヴ的な思惑を大きく越えて世界大戦が2度も起きたヨーロッパで、国民国家の枠組みを超えたヨーロッパ連合の構想は、大哲ユルゲン・ハーバーマスの悲願のように見えた。そのハーバーマスは、ネオリベラルの支配する未来のヨーロッパ連合を心配していた [1] が、今日の結果はその心配が実際に起きてしまったことによるのではないか。 恒久的な平和と経済的繁栄を求めようとするヨーロッパ連合は、過去から未来にかけての政治的構造を議論し、認識しうる政治的エリートたちによって牽引されてきた。理念というものは、いつでも認知能力の高い人々によってと打ち立てられてきたことは否定しがたい。 しかし、EUをリードする国々や政治エリ-トたちもアメリカを中心とする新自由主義的経済と国家運営という枠組みから自由であることは出来なかった。東欧共産圏が崩壊し、次々と東欧諸国が資本主義国家に変わろうとするとき、新自由主義的経済(つまりは政治そのもの)がおそいかかる様子はナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』 [2] に詳しい。 経済破綻したギリシャに突きつけるEUの経済政策要求は、アメリカがIMFや世界銀行を通じて世界中に押し付けた新自由主義的な施策そのものだったことは記憶に新しい。 新自由主義経済は、日本でも猛威を振るっているように一国内の経済格差を拡大するが、新しくEUに加わる小さな国々を周辺国家化する機制も併せ持つ。経済後進性の強い国の国民は、二重の格差に追い込まれ、移民という名の経済難民としてヨーロッパを流動化し、経済先進国家の人種差別的ナショナリズムを刺激する。 イギリスのEU離脱のニュースから読み取れるのは、右翼ポピュリズムとネオリベ保守との闘いという構図ばかりである。そこには国民国家を超えるヨーロッパ統合という理念も新自由主義を乗り越える経済構想も聞こえてくる余地がないかのようだ。EU離脱の動きが加盟各国に広がると心配されるのは当然と言えば当然である。 ヨーロッパ統合が失敗に終われば、歴史は一挙に100年以上も引き戻されるだろう。いや、歴史は決して戻りはしない。新しい悲惨、階梯の高い悲惨が待ち受けるのみだ。 しかし、ヨーロッパの歴史を心配している場合ではない。この参議院選挙で、自公を中心とする軍国主義的右翼政党を勝たせてしまうと、私たちもまた歴史を100年も引き戻されるよりも過酷な戦争の時代に突き落とされてしまう。まずは私たちの抵抗と戦いだ。 集会@錦町公園。(2016/6/26 14:10~26) 28℃くらいまで気温が上昇するだろうと予想されていたが、太陽が時々雲に隠れたりするので、暑いには暑いが想像していたほどではない。 主催者挨拶の後、現行憲法の大切さなどの話などがあった。そのあとに太白区長町で金曜行動をしている人たちのコントが演じられた。福島生まれのサユリさんと沖縄生まれのミドリさんの掛け合いである。 はじめはお互いのお国自慢が続くが、話は次第に原発事故と米軍基地の話題に移っていく。米軍基地に蹂躙される沖縄と原発事故で甚大な放射能汚染に襲われた福島の二つのふるさと。最後は、「ふるさとに帰りたいよーっ」と叫んで、童謡「ふるさと」の合唱で終わった。 長町の集会ではよく演じられているらしいが、金デモでは初演である。スケジュールが重ならない月一の日曜昼デモでは再演が期待できそうだ。 仙台市が災害時に携帯電話やパソコンなどが使える程度の小型発電装置に補助金を出しているという案内もあった。総額100万円の事業なので、あっという間になくなってしまうかもしれないが、大いに利用されたいということだった。 また、熊本・大分大震災は中央構造線に沿って震源地は拡大していて、大分県のすぐ先には伊方原発がある。伊方原発は中央構造線から5km程度しか離れておらず、ほぼ直下型の地震に見舞われる可能性もあるという。その伊方原発は核燃料棒の装填を始め、すぐにも再稼動するのではないかと報告があった。 今日のデモが「伊方原発、再稼動するな」というコールに格段の力が入ったのはこの話のせいである。 暑さにもかかわらず、いつものように集まった40人は、炎天下のデモに出発した。 定禅寺通り(勾当台通りを渡る)。(2016/6/26 14:38) 一番町(定禅寺通り~広瀬通り)。(2016/6/26 14:43~48) 定禅寺通りから一番町に入ると、三越前あたりで若い人たちの路上ライブやふるさと産品の販売テントが並んでいて、急遽、サイレントデモとなって通り過ぎる。 サイレントデモとはいえ、狭い道で肩を触れ合うように過ぎていくので注目度はかなり高いようだ。今日は脱原発カーがお休みだったので、積み込んである大量のプラカードもない。2、3人の手製のプラカードだけである。間近で見てもらうチャンスだったが……。 一番町(青葉通り手前)。(2016/6/26 14:53、14:55) 青葉通り(大通りを渡ってゴールへ)。(2016/6/26 15:00~03) 少しならず寝不足である。2度の救急入院の後、義母の介護の分担が増えて、最後の仕事である痰の吸入処置を終えると夜中の12時を回ってしまう。 朝は愛犬イオの時間である。5時になれば否応なくイオにたたき起こされ、散歩、イオだけの朝食と続き、さらに私だけの散歩がある。 そして、8時半ころから義母の介護の私の分担分が始まる。このような日課が退院後、10日ほど続き、慢性的な寝不足である。本を読む時間がないのだ。 [1] ユルゲン・ハーバーマス(三島憲一、鈴木直、大貫敦子訳)『ああ、ヨーロッパ』(岩波書店、2010年)p. 100。[2] ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.06.26
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「この人がやります!」と妻が訪問看護士さんにきっぱりと宣言した。それで、義母の痰の吸引は私の仕事ということになった(らしい)。 誤嚥性肺炎で救急入院した義母が昨日の昼前に退院してきた。入院中、日に3回の痰の吸引を受けて、退院後も誤嚥性肺炎の予防には口腔ケアと痰の吸引は必要だということで、レンタルの吸引器を借りて自宅でも行うことになった。 午後から訪問看護士さんが来て吸引の仕方を実地に教えてもらったのだが、妻の一言で私が実際にやることになった。病院の時と同じように義母は強烈に嫌がったが、難なく鼻からカテーテルを通して吸引することができた。 今日の午後にも看護士さんがやって来たが、痰が絡んでいる様子がないので吸引は行わず、もっぱら吸引と口腔ケアの講義と質疑応答の時間となった。この時も、昨日の宣言に従うかのように妻はすこし私の背後から喋る感じだった(実際には私の横にいたのだが)。 看護士さんが「吸引がどんなものか、お二人で交互に練習されるといいですね」と言い残して帰られ、妻は窮地に立たされたようだ。私だけが吸引をするなら練習が必要なのは私で、妻は私の練習台として鼻からカテーテルを入れられるのを拒否できない(はずである)。楽しみができた。 妻を軽くからかって、看護士さんのすぐ後に家を出た。今日の集会場所は勾当台公園である。 集会@勾当台公園。(2016/6/17 18:10~24) 午後6時近くになっても気温が下がらず、汗をかきつつ歩いて信号待ちの交差点でデモのスタッフの一人と会った。なにかと話しながら歩くと、暑さがまぎれるようで助かった。 主催者もフリー・スピーチの一人も高浜原発の訴訟のニュースに触れられた。今日、大津地裁(山本善彦裁判長)は、高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じた仮処分決定に対して関電が行った執行停止の申し立てを却下した。先の大津地裁の運差し止め命令に関電が異議を申し立てた保全異議の審理(異議審)もまた山本裁判長が担当しているので、そこでも関電の異議が却下される見通しが高くなった。 申し立て却下のなかで裁判長が「福島第1原発事故の原因究明が完遂したと認めることはできず、新規制基準に従って許可を受けたことで安全性が確保されたとはみられない」と述べたことは、今後の多くの原発裁判にとって極めて重要な論拠となるに違いない(毎日新聞)。 もう一つのニュースは、関電が高浜原発3、4号機の核燃料を原子炉から取り出すと発表したことである(福井新聞)。大津地裁の運転差し止め仮処分の執行停止請求を却下されたことや、異議審の見通しから、当分の間再稼働できないと判断したものと思われる。燃料棒が装填されていなければ再稼働には時間がかかるので、運転停止はさらに長期化するだろう。 さらに、脱原発や安保法制反対の立場での地方議員への訴えかけの重要性の話や、福島被爆訴訟への署名を訴えるスピーチもあった。 また、6月10日に岩沼市民会館で開かれた「あれから5年 私たちの選択」という小出裕章さんの講演会の報告があった。小出さんのお話のなかでとても印象深かったのが、福島の原発事故で放出されたセシウム137の総量はペットボトル1本分くらいの量にすぎないという事実で、それだけで広範囲の汚染を引き起こす放射能物質がいかに恐ろしいかと話された。 原子量が137ということは、137グラムに含まれる原子(核)数が6の後に0が23個も続く膨大な数になるので、実感的には想像しにくいのは当然と言えば当然である。 最後に今日も司会者から指名と話題の指示があって、「管理区域」の話をした。 放射性物質を扱う事業所や職業人を対象とした法律である「放射線障害予防法」に年5mSvを超える被爆のおそれがある施設を管理区域にし、管理区域境界では年1mSv以下としなければならないと定められている。 管理区域には一定の放射線作業についての教育・訓練を受けた人間のみが立ち入りを許され(未成年は不可)、区域内での飲食は厳禁される(法は内部被ばくの恐ろしさを知っているのだ)。放射線作業従事者の被ばく線量限度は1年で50mSvを越えず5年平均で20mSv以下としなければならない。実際には、成年男子や妊娠の可能性のある女性、身体の部位などに応じて細かな限度が設けられている。この線量限度は、そこまで浴びても大丈夫という指針では決してない。職業上の利益と交換しうるぎりぎりのリスクという意味である。 私が関係した大学の管理区域での被ばくはフィルムバッジ(とガラスバッジ)で管理されていたが未検出がほとんどであって、たまにわずかでも検出されるとすぐに対策がとられて、法で定める線量限度まで被曝することはまったくなかった。これはほとんどの事業所でも同様で、福島事故以前は少なくとも管理者も作業従事者も法的な線量限度に関係なく「できるだけ放射線は浴びない」という「常識」で行動していたのである。福島の原発事故はそのような健全な常識をも打ち壊したかのようである。 勾当台公園から表小路、定禅寺通りへ。(2016/6/17 18:39~48) 45人になったデモの列は勾当台公園を出発するが、公園口から大通りへ出るまでのイチョウ並木の下は、いつものデモの時はとても暗くて、見られるほどの写真にはならなかったが、今年は6月に入っても6時半からデモ開始という冬時間のタイムスケジュールなので、今日は楽に写真が撮れる。 写真を眺め返すと、一番町以外のデモコースはじつに緑が多い。「杜の都・仙台」などという自慢気な呼称をちょっとばかり嗤っていたが、あながち当たっていないとは言えないようだ。 一番町(定禅寺通り~広瀬通り)。(2016/6/17 18:50~52) 最近、静止画ばかりでなく動画も時々映すようになった。しかし、時間をかけて丁寧に写したつもりが、でき上がりを見ると画面が斜めになっていてがっかりすることがよくある。 静止画はRAWファイルで傾きを容易に修正できるが、動画にはそれができない。まあ、しばらくはいたずら程度の遊びということにしておこう。 一番町(広瀬通り~青葉通り)。(2016/6/10 18:57~19:03) もう少しで青葉通りというところでカメラのシャッターボタンが下りなくなった。電池切れである。あわててバッグを探ったが予備の電池を入れているポーチがない。充電しっぱなしで忘れてきたようだ。 青葉通りでは、すっかりとデモの列の真ん中に入って大きな声を出すことに専念した。 さて、デモが終わり、痰の吸引の練習をしようと意気込んで家に帰ったが、妻は練習台に応ずる気がさらさらないのだった。長い時間、訪問看護士さんと話し込んで、微妙な操作法も含めて吸引の理論はよく分かったので私としては実践したくてたまらないのである。理論を実験的に証明するというのは、長い間実験物理学を生業とした私の習い性でもあるのだが、実験対象に拒否されては私の楽しみはかなわないのだ。昔の仕事では対象試料に実験そのものを拒否されることなんてありえなかったのだが……。 夕食後、妻が歯ブラシで義母の口内をブラッシングして嗽をさせたあと、吸引器で口腔内をきれいにすることだけが私の仕事だった。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.06.17
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真夏のような暑さだ。昼前に、川向いの病院まで往復して大汗をかいた。今からこんなに暑くてはこの夏をどう過ごそうかと思うほど体にこたえた。体はまだ春先のまま取り残されているようだ。 5月23日に義母が救急入院したものの何ごともなく4日後の27日に退院してきた。一安心というところだったが、それから11日後の火曜日(7日)の夜、また救急車のお世話になって入院した。誤嚥性肺炎である。それなりに対策をとっていたつもりだったが、112歳という年齢には私たちの思惑も工夫も追いつかないのだ。 義母の付き添いのため病院で寝泊まりしている妻の三食を毎日届ける日が続いている。病院は近いのだが、ザックを背負った背中は汗でびっしょりとなる。それでも朝晩は涼しくなるので、夕方の金デモに何を着ていくか、微妙に悩んで、結局は何もせず、日中の服装のまま出かける。 集会@錦町公園。(2016/6/10 18:16~31) 錦町公園は久しぶりだ。金デモの集会場所の中では、わが家から一番遠い公園(それでも徒歩で25分くらい)である。一番町の一部を抜けて錦町公園まで行き、デモで一番町を歩き返し、デモ終了後にはまた一番町を抜けて自宅に帰ることになる。私には、一番町はショッピングの街ではなく、もうデモの街である。 主催者挨拶の後、6月5日に開催された「さようなら原発 in いしのまき」の報告があった。鎌仲ひとみ監督の映画『小さき声のカノン』の上映と鎌仲さんの話から、あたかも原発事故は収束したかのように見せかけるため避難補償を打ち切って高線量汚染地に住民を帰還せざるを得ないような施策を講じるなど、福島の被爆被害者に対して政府はいかに冷酷かという話に及んだ。 また、東北電力の株主総会が近いこともあって、脱原発市民会議が大株主である仙台市にたいして脱原発株主の会の要求に沿う行動をとるよう要望したという報告もあった。かつてはまったく無関心であった仙台市の担当者も最近は脱原発側の情報を関心をもって見ているようだという。 続いて、当の東北電力本社前でスタンディング抗議を続けている人の挨拶があった。月の第二週の金曜日、19:30~20:00に東北電力ビル前の歩道で反原発の意思表示をしている。金デモ終了後に続いてスタンディングに加わることができる時間だ。 スタンディングにも参加したいと思うものの、デモが終われば急いで帰って、いつもは夕食の準備と義母の食事介護の手伝いがあり、義母入院中の今は自分たちの食事の準備と翌日の妻の食事の用意をしなければならないのである。遅い夕食をさらに1時間ほど遅れさせれば参加できるとはいうものの……。 最後に司会者から指名があって、ストロンチウムの話をしてくれという。福島事故の後はもっぱらセシウムばかりが話題になっているが、ビキニ環礁の水爆実験による第5福竜丸の被爆ではストロンチウムが話題になった。そのストロンチウムである。 ウラニウム235の核分裂では核分裂生成物として様々な放射性核種が生まれるが、その分布は原子量90と140付近にピークがあって、そのなかで半減期28年のストロンチウム90(Sr-90)と半減期30年のセシウム137(Cs-137)による被爆の影響が大きい(初期被爆では甲状腺がんの原因となる短半減期のヨウ素が問題になる)。 ベータ線とガンマ線を出すCs-137と違って、Sr-90は純ベータ崩壊のためガンマ線を出さない。そのため、電子であるベータ線の測定が難しいこともあって、Cs-137のようにあまり測定されることがない。測定されてもデータにばらつきが多く精度に劣る例が多い。 問題は、測定されていないということでSr-90の汚染をないことにしようとする原発推進勢力の思惑が強いことである。しかし、核分裂ではCs-137の量に匹敵するSr-90が生まれているうえ、セシウムはナトリウムやカリウムと同じアルカリ金属、ストロンチウムはマグネシウムやカルシウムと同じアルカリ土類金属で、化学的性質が比較的似ているため、原爆から放出された後の挙動に極端な差があるとは考えにくい。測定していないことをいいことに、Sr-90の汚染はCs-137の1000分の1だとか2000分の1だとする言説があるが、まったく根拠がない。食品の政府規制値がkgあたりCs-137、100ベクレルだとすれば、それにともなってかなりの量のSr-90が含まれていることになる。 おおむね、そのようなことを話した。Cs-137は1個のベータ線を出して崩壊するが、Sr-90は1個のベータ線を出してY-90(イットリウム90)に崩壊し、さらにY-90はもう1個のベータ線を出して安定なジルコニウム90に崩壊する。つまり、Sr-90は内部被爆においてCs-137の2倍の破壊力を持っている、ということまでは話しそびれた。 錦町公園から定禅寺通りへ。(2016/6/10 18:35~45) 錦町公園は、先週までの肴町公園と比べるとだいぶ広いので、集会に集まってきた人は少ないように見えたが、いつもの40人には達していた。 公園を定禅寺通りに出て、勾当台公園を過ぎて大通り(東二番町丁通り、国道4号)を越えて一番町に入る。杜の都の青葉の道である。 一番町(定禅寺通り~広瀬通り)。(2016/6/10 18:43~54) デモの先頭から写真を撮りながら後方に行くと、見慣れない顔がある。ネパールからの留学生だという二人が一緒にデモを歩いている。 インドの原発問題は、いまやインドと日本に共通する政治課題になっているが、ネパールに一番近いインドのナノーラ原発が事故を起こせばネパールまで影響が及ぶだろう。ネパールもまた地震が多い国で、隣国に20基が稼働中、6基が建設中、34基が建設予定という原発大国インドがあるのは不安には違いない。 一番町(広瀬通り~青葉通り)。(2016/6/10 18:57~19:02) 青葉通り。(2016/6/10 19:04~09) 一番町を通り抜けて青葉通りに出ても、今日はまだまだ明るい。とはいえ、街は少しずつ夕暮れの色に染まっていく。美しい夕焼けが見えるわけではないが、夕暮れの街にはそれらしい空気の色合いが広がっていくようだ。 こういう雰囲気(アトモスフィアとでも言えばよいか)を写真に写しとる技術があればとしみじみ思うが、ないものねだりである。しかし、美しいデモ人が私の写真技術の拙さを補ってくれている(と信じている)。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.06.10
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好天が続いているが、ここ数日、朝晩の冷え込みはきつい。冬型の気圧配置に似ているらしい。 持病のように風邪をひく私としてはとても難しい気温の変化だが、不思議なことに、この頃は風邪をひいていない。義母の入院やなんやらで風邪をひく暇がなかったのだ。「小人閑居して不善をなす」ならぬ「老人閑居して風邪をひく」ということだったらしい。 肴町公園。(2016/6/3 18:17、22) 肴町公園は、まだ十分に昼間である。公園でいい季節を味わうためかのように、三々五々参加者が集まってくる。 集会が始まって、司会者がスピーチの呼びかけに苦労しているように見えたが、何のことはない、いつもより多くの人がフリー・スピーチに加わった。 フリー・スピーチ。(2016/6/3 18:13~30) 主催者挨拶は、原発施設として免震棟を建設することを前提にして新規制基準をクリアしたとして再稼働した川内原発が免震棟の建設を止めて耐震棟に変更すると言い出して規制委員会がそれを容認したということから話が始まり、これから再稼働を企図する全国の原発もそれに倣って免震棟を建設しない流れになっていることに触れた。地元の女川原発もまた免震棟なしの再稼働を計画している。 東京電力の福島第一原発事故は、免震棟があったから「あの程度」で済んだのであって、免震棟なしではすべての作業員が避難せざるをえず、いかなる事故対応も取れなかったのではないかと言われている。何よりも、ぐずぐずと後退する一方の安全基準は、規制委員会が原発再稼働へ向けた形式的手続きのためだけに存在するお飾りの機関でしかないことを示している。 続いて、この29日に国際センター大ホールで開催された「事故が起きたら逃げられるのか? 市民による女川原発の安全性を問うシンポジウム part2」の報告があった。第1回目は600人の参加、今回はさらに増えて630人が参加して、講演や報告、パネル討議を真剣に聞いていたと報告された。 私もシンポジウムに参加したが、原発の事故時に安全に避難することはほとんど不可能に近いので避難計画を作成せざるを得ない自治体は白紙の避難計画を政府に叩きつけるべきだという主張や、避難訓練は無駄ではないかという意見に対して、再稼働していなくても核燃料が原発にある以上危険なのだからたとえ矛盾に思えても避難訓練はやらざるを得ないのではないかといういわば苦渋の選択をせざるを得ないという意見などが印象的だった。 南進する勾当台公園、元鍛冶丁公園、錦丁公園からのデモとちがって肴町公園からのデモコースは一番町を北進する。肴町公園からのデモが続いてから街で「デモコースが変わったね」などといくどか声をかけられて、みんなデモをよく見ているという感想を述べられたリ、熊本・大分大震災の翌日に現地にボランティアで入られた人の報告もあった。 また、6月5日の「さようなら原発 in いしのまき」の案内もあった。石巻中央公民館大ホールで、10時からはライブや出店、午後1時からは映画『小さき声のカノン』と鎌仲監督のスピーチ、午後4時15分からアピール行進が予定されている。 細道を一番町へ。(2016/6/3 18:35、38) 広瀬通り交差点まで。(2016/6/3 18:40~43) 東日本大震災と福島原発のメルトダウン事故は2011年に起きたが、その年は「アラブの春」と呼ばれた民主化運動が起きたことでも重要な年だった。それから3年、「アラブの春」を取材し続けた中日新聞社の田原牧さんが、再びアラブ世界を訪れ、次のように書いている。 二〇一一年、そのアラブで騒乱が起きた。いくつかの独裁政権が倒された。同じころ、日本では東日本大震災が発生し、それに伴う福島原発事故を目の当たりにした人びとはデモに繰り出した。それから三年以上が経ち、アラブでも日本でも熱狂の舞台はすっかり暗転し、反動の嵐が吹きすさんでいる。 [1] エジプトの民主主義を求めた革命は成功したかに見えたが、ムスリム同胞団は革命の成果を盗んで政権に就いた。しかし、革命時に約束したリベラルな公約をことごとく反故にして強硬なイスラム化政策をとったため、リベラルな市民たちの支持を失った同胞団政府は、アッという間に軍事政権に覆されてしまった。革命は二重に盗まれてしまった。 日本の脱原発運動もまた、事故後の脱原発への全体的な機運を民主党野田政権が再稼働を容認することで挫き、続く安倍自公政権は再び積極的な原子力推進の舵を切り戻す事態の中で進められてきた。 国会前の10万人を越える反原発の運動は、5年後の今はたしかにその参加人数を大きく減らしてはいるが、国民の過半を越える脱原発への意思を背景に粘り強く続けられている。今や、国会前は反原発と反戦争法制の二元的共闘の場に化しつつある。 そういう点において、「アラブの春」と福島事故のその後の経過は必ずしも同じではないが、三年後のアラブ世界を旅した田原さんの次のような言葉は、この日本で反原発と反戦争法制の意思表示を続けている私(たち)にとって、とても強く響いてくる。 革命の理念が成就すること、あるいは自由を保障するシステムが確立されるに越したことはない。それに挑むことも尊い。しかし、完璧なシステムはいまだなく、おそらくこれからもないだろう。そうした諦観が私にはある。実際、革命権力は必ず腐敗してきた。 革命が理想郷を保証できないのであれば、人びとにとって最も大切なものは権力の獲得やシステムづくりよりも、ある体制がいつどのように堕落しようと、その事態に警鐘を鳴らし、いつでもそれを覆せるという自負を持続することではないのか。個々人がそうした精神を備えていることこそ、社会の生命線になるのではないか。 革命観を変えるべきだ、と旅の最中に思い至った。不条理をまかり通らせない社会の底力。それを保つには、不服従を貫ける自立した人間があらゆるところに潜んでいなければならない。権力の移行としての革命よりも、民衆の間で醸成される永久の不服従という精神の蓄積こそが最も価値のあるものと感じていた。 [2] そうなのだ。民主主義というのは、安倍晋三や橋下徹が単純に考えるような多数決で決めるなどという制度のことを指すのではない。民主主義とは、腐敗し、堕落する権力への不服従を不断に維持しつつ、民主主義的な未来へ永続的に主張し行動し続けることまで包含する永続的な革命全体のことを指すのだ。 権力に不服従な個人、これが民主主義にとって必須な要素だ。反語的に言えば、権力に不服従な個人に居場所が認められた世界こそ民主主義的な世界だともいえる。そして、今ここにある個人として私の精神、私のありようこそが問われているのである。私は、「不服従という精神」を蓄積しつつ、デモに向かわなければならない。 田原さんの言葉で深く考えさせられたが、それは辺見庸さんの言葉が私の心の奥底でずっと響いていたためでもあった。 きょうお集まりのたくさんの皆さん、「ひとり」でいましょう。みんなといても「ひとり」を意識しましょう。「ひとり」でやれることをやる。じっとイヤな奴を睨む。おかしな指示には従わない。結局それしかないのです。われわれはひとりひとり例外になる。孤立する。例外でありつづけ、悩み、敗北を覚悟して戦いつづけること。これが、じつは深い自由だと私は思わざるをえません。 [3] 多くの人々と一緒にデモを歩きながら、「ひとり」として意思表示しているという実感は、私にはとても重要だ。官邸前の抗議行動に加わると、とくにそのような実感を強くする。あの無数の人々が手作りのプラカードを掲げ、声をあげている様子は、あきらかに「ひとり」、そして「ひとり」、また「ひとり」と集まった人々なのだ。 やはり、市民の抗議行動、不服従の行動は、国会前での原発再稼働への抗議行動から大きく変わったと思う。ことさら「団結」や「連帯」を叫ばずに大勢の人が集まってくるのだ。五野井郁夫さんが言うように、それは「非暴力」の抗議行動であるとともに「祝祭」 [4] でもあるのだ。 一番町(広瀬通りから定禅寺通りへ)。(2016/6/3 18:45~50) 定禅寺通りはケヤキ並木。(2016/6/3 18:56~59) 先週よりまた少し日暮れが遅くなった。空をさえぎる定禅寺通りのケヤキの葉の茂りもデモ人の美しい背景になっている。写真を撮りながら、「ああ、あの人たちはあんなに美しい夕暮れの道を歩いている」などと思ってから、あわてて後を追いかけ、列に加わる。 晩翠通りはイチョウ並木。(2016/6/3 19:07~11) 肴町公園の路地。(2016/6/3 19:16) 定禅寺通りから晩翠通りに曲がると、並木はケヤキからイチョウに代わる。イチョウは空を覆うように横に広がらないので、この通りでは夕空の雰囲気に浸れる。とはいうものの、デモ人はコールに夢中で、空を眺めているだろうか。 晩翠通りから肴町公園への路地に入ると、ようやく仙台は夜の時間にはいるのだった。[1] 田原牧『ジャスミンの残り香――「アラブの春」が残したもの』(集英社、2014年)p. 8。[2] 同上、p.237。[3] 辺見庸『いま語りえぬことのために――死刑と新しいファシズム』(毎日新聞社、2013年)p. 120。[4] 五野井郁夫『「デモ」とは何か』(NHK出版、2012年)p. 8。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2016.06.03
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