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地下鉄一番町駅を藤崎の西の北口から出て時計を見ると、午後7時にはまだ4分ほどある。金デモはまだ元鍛冶丁公園を出発していないはずだ。デモの出発が5,6分遅れるのはいつものことだから、間に合うかもしれない。少し急ぎ足である。 午後から東京、赤坂見附で会議があった。会議が終わったのは午後4時を少し回っていた。挨拶もそこそこに赤坂見附駅に急いで、地下鉄丸ノ内線に乗る。具合のいいことにホームへの階段を降り切ったところに電車が入ってきた。東京駅に着いたら、6分後に出る仙台行きの新幹線の案内があった。 あいかわらず一番町には人が多い。その人混みの向こうから脱原発コールが聞こえてこないかと耳を澄ますが、何も聞こえてこない。私は耳が悪くて、雑音のレベルが高い環境ではとても苦労をする。聞き取れないだけなのかと心配して見るが、何のことはない、デモコースを逆にたどっているので何も心配する必要はないのである。 三越の手前、元鍛冶丁通りに曲がると、突然大きなコールが聞えだし、デモがやってくる。ザックからカメラを取り出し、撮影条件をセットしているうちにデモは一番町に出てしまった。写真はそこから撮りだす。一番町(元鍛冶町通り~広瀬通り)。(2017/9/29 19:01~19:07) デモ出発前の集会でどんなスピーチがあったのか知る由もないが、少なくとも私にはブログに書き留めておきたいようなアップ・ツー・デートな原発関連の話題がない。ネットは、総選挙がらみの民進党と希望の党の動向が満載で、原発のニュースは霞んでしまった。せいぜい、東電柏崎刈羽原発の新規制基準合格の判断決定が延期されたというニュースが聞えてきた程度である。 それにしても思いもよらないことが政治には起きるものだ。野党第1党が綱領も政策も定かではないできたてほやほやの党にそっくり身を委ねてしまうというのだ。自公政権の憲法改正に反対し、戦争法案に反対していた党がそれを是とする新党にほぼ無条件で入れてもらいたいというのである。しかも現職国会議員の誰を入れるか入れないかはその新党が判断するのだという。いわゆる全面降伏の態なのである。 ただ私は、民進党はいずれ右翼とリベラルに岐れなければならないだろうと思っていた。そうでなければ、それぞれの政治意志は貫徹できないはずだと思っていた。それが、極右の政治家がヘッドである希望の党に民進党衆議院議員全員が公認を申請するというニュースに本当に驚いてしまった。民進党には矜持をもって政治的信念、政治意志を貫こうとする政治家は一人もいなかったのかと思ったのだ。 しかし、その後、希望の党には参加せず、今度の選挙を無所属で闘うと表明する国会議員がポツポツと現れ始めた。そんなごたごたする政局の中で私が喜んだニュースは、希望の党の小池百合子が「リベラルは入れない」と表明したことである。これで、少なくとも民進党の右翼(プラス政治意志のない者たち)とリベラルの分離は否応なく起きるということだろう。 リベラルと呼ばれる人たちがリベラル新党を結成することは将来的にありうるだろうが、総選挙前に結成というのは時間的に無理かもしれない。無所属で選挙に臨む事になるだろうが、これまで築いてきた立憲野党と市民団体の共闘組織に支援されれば、総選挙は十分に闘えるのではないかと思う。 仙台に住む私は、先の参議院選挙と仙台市長選挙では立憲野党と市民組織の共闘が成立して闘われた、いわば〈成功した〉選挙を見てきた。どちらも候補者は民進党員だったので、民進党員であるがゆえの原発政策への曖昧な態度にもかかわらず「よりましな選択」として投票してきた。その候補者たちが、民進党から訣別してきた「無所属」なら、「よりましな選択」から「かなりましな選択」になることは間違いない。 しかし、今度の総選挙における宮城選挙区の民進党候補者の全員が希望の党に公認申請をするというニュースが流れてきた。そうなれば、「よりましな選択」も潰えさることになる。どうやら、今度の総選挙は、リベラル票が共産党に流れて、共産党が票も当選者数も大きく伸ばすだろうという予測が真実味を帯びてきたようだ。一番町(広瀬通り~青葉通り)。(2017/9/29 19:08~19:15) ごたごたする政治状況とはまったく関係がないとは言い切れないけれども、数日前から岡林信康の歌を聴きなおしている。何年か前、日比谷野音で開かれたライブの録画を見たとき、「君に捧げるLOVE SONG」という歌を初めて聞いて、ずっと気になっていたのである。 岡林信康の歌は、学生時代の政治集会で聴いた「友よ」や「私たちの望むものは」で始まり、ラジオから流れる「今日を越えて」、「山谷ブルース」、「流れ者」を聞いた頃にレコードも買い、そこで「チューリップのアップリケ」の世界を知るという流れで経験した。そして、そこで岡林信康の世界は終わり、ラブソングは岡林信康的カテゴリーにも、その時代の私的カテゴリーにも入っていなかったのである。悲しみにうなだれる 君を前にしてそうさ何も出来ないで いるのがとても辛いせめて君の為に 歌を書きたいけどもどかしい想いは うまく歌にならない今書きとめたい歌 君に捧げるLOVE SONG 岡林信康「君に捧げるLOVE SONG」 優しくて、心に沁みるいい歌である。ラブソングだから恋人へ捧げる歌のことに違いないのだが、岡林信康は病気と闘い亡くなった友人に向けてこの曲を作ったという文章も目にした。たとえば、サルヴァトーレ・クァジーモドの詩における「あなた」は恋人、そして神という二重性を帯びているという。岡林信康のこの歌も、死にゆく友人と恋人の存在を重ねあわせて歌われたに違いない。 私は、ずっと若いころ、たくさんの詩を書いた。意識してラブソングを書いた記憶はないが、一編くらいのラブソングはあってもよかったと今になって思うのである。そうであれば、一生に一度はラブソングのあった人生と言えるではないか。 私の詩業は、詩集を出版してくれるはずの出版社が潰れ、政治の季節が激しくなったころに、おのれの才能に見切りをつけた私自身によってすっぱりと閉じられた。それは、ラブソングを書くチャンスもまた自ら放棄したということだった。22歳のときだ。それで終わり……。いや、自分の昔の詩についてはうまく語れない、というかあまり語りたくない。そうなるには、もう少し時間が必要だ(生きている間には間に合わないかもしれないが……)。 すこしばかり比喩的に記しておこう。極右政治家の下へ行こうとする政治家としての自死的行為に、いま書きかけのラブソングは破いて捨てる。そして、これから孤立を恐れず立ち上がるであろうリベラル政治家には、彼らに捧げるラブソングを準備しよう。そういうことである。青葉通り。(2017/9/29 19:16~19:27) 元鍛冶丁通りの角でデモに出合ったとき、一人は「間に合ったのですね」と話しかけてきた。東京出張の話は、先週のデモのブログの最後に書いていたのである。私のブログを最後まで読んでくれる奇特な人もいるのだ。 デモが終わった時、一人は「知らん人が写真を撮っている。誰かと思いましたよ」と話しかけてきた。仕事帰りの私は濃紺のスーツ姿である。頭にはいつものキャップの代わりにハットが乗っている。まあ、デモ人の正しい服装とは言えない。もっとも、東京では「スーツ・デモ」だったか「背広デモ」だったかが組織されたりはしているのだが……。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.09.29
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どことなく浮ついた一週間だった。9月18日の敬老の日に、郡和子仙台市長が義母のお祝いに来宅するというので、土曜、日曜は部屋の片づけをした。前の市長のとき二度お祝いしていただいたが、その時もわが家の狭い居間にテレビや新聞の取材陣を収容するために、居間にある諸々をどこかに片づけなければならなかった。 三度目(台風のため急遽中止になった年を含めれば四度目)の準備なので、まあ慣れていると言えないこともない。とくに難儀をすることもないのだが、こちらも長寿をお祝いしてもらいたいほどの年齢になって、長火鉢(飾りに置いているだけ)の移動などは、体力ぎりぎりの仕事になってしまっていた。 夕方には市長訪問を報道する各局のニュースを、チャンネルを切り替えながら録画する。DVDにコピーして離れて住む義母の肉親に送るのである(この作業は5日も過ぎたのにまだやっていない)。お祝いに贈っていただいた花束と義母と一緒に写真に撮り、市長訪問の写真も含めてお礼状と一緒に送る(これは妻にせっつかれて2日目に終えた)。片付けた居間のもろもろは必要最低限のものを復元して、あとは放ってある。重い長火鉢はもちろん手付かずである。浮ついた感じというのは、この日々を微熱のおさまらない体で送っていたせいである。 そんな5日目の早朝に開いたメールですこし慌てた。放射線に関するちょっとした勉強会の講師を引き受けていたのだが、対象者が拡がり「講演会」となっていて、演題も指定されたのである。知り合い10人程度が相手と高をくくっていた頼まれごとだったはずなのに……。 老犬の散歩が終わって、いつもの朝のように糠漬けを取り出し、新しい野菜を漬け込み、犬の食事を作って食べさせた。台所から出てきた妻が、「糠漬けの蓋が開けっぱなし、水道の水は止まっていない。何か考え事をしてたの?」と言う。たしかに勉強会から講演会に変わったしまったので、話の構成をあれこれ考えていた。なにしろ、気楽に考えてそれほど準備もしていなかったのだ。 それにしても、この注意力散漫は何たることだろう。「しっかりと老化してるね。」 朝食の席で妻が身も蓋もないことをいう。身も蓋もないので話が続かない。朝食後、講演の準備をした。以前の講演の幾つかから内容を抜粋し、新しいことをいくぶん付け加えた。資料の準備はある程度していたので、なんとか昼食前に最終稿までできた(つもりである)。 集中すればまだけっこう仕事ができるなあ、などと満足していたら、妻がいきり立っている。朝食を終えた義母を食卓からトイレへ、トイレからベッドへ移動することをすっかり忘れていたのだ。妻が何度も声をかけたらしいが、パソコンから見向きもしなかったと言って怒っている。糠漬けの始末と同じことが起きていた。集中力と注意力はまったく共存できないのである。 そんな一日の締めくくりは、金デモである。肴町公園から一番町へ。(2017/9/22 18:2~18:59) 晴天になり、放射冷却で朝晩の冷え込みがきつくなるという天気予報を信じて、先週の服装に薄いジャケットを加えた。そこそこ快適と思っていたが、デモの写真を撮りながら、急ぎ足になったり、ときには小走りになったりすれば、さすがに汗ばんでしまう。 脱原発カーはお休みのようで、デモ用のアイテムは誰かがマイカーで運んでくれたようだ。35人のデモが錦町公園を出発してすぐに気づいたのは、脱原発カーは被写体としてけっこう大切だということだった。 毎週のデモは、出発する公園を変えるにせよ、結局は同じコースの繰り返しになる。写真の構図も被写体もやはり繰り返しになる。先頭に脱原発カーが走っていれば、脱原発カーが入る先頭部分の構図と横断幕を掲げる人たちが前面に出る構図を選べる自由度が生まれる。 毎回同じような写真になるのはしょうがないことだ、そう思いながらもなんとか変化のある写真が撮りたいという願いから見れば、脱原発カーもまた重要なアイテムだったのである。一番町。(2017/9/22 19:01~19:10) 一番町は、今日も通行人が多い。広瀬通り交差点のあたりがもっとも人が多いが、いつものような待ち合わせの大集団という印象はほとんどない。広瀬通り交差点から離れても人が多いのである。こういう現象はマーケティングのいい対象なのだろうが、私には想像の埒外である。 35人という少人数のデモは、意外に通行人との親和性が高い。デモを眺める通行人の表情が柔らかだ。大集団のデモのような威圧感がないせいかもしれない。コールの声も穏やかだということもあるだろう。 ただ、ときどき、コールとは別に声を上げるデモ人もいて、驚いて振り返る人もいる。街中でたった一人の大声を聞いたら誰でも驚くだろうし、奇異の感じを抱くのは不思議ではない。脱原発に対する熱情が大声をあげさせるのだろうが、熱心さや真面目さがディスコミュニケーションの種になることもあるだろう。私も、知らず知らずにディスコミュニケーションの芽をまき散らしているだろう、などと考えた。私はそれほど熱情的でも真面目でもないけれども……。定禅寺通り。(2017/9/15 19:16~19:21) 定禅寺通りの欅並木は4列である。上下の車道を分ける中央の2列の間は彫刻などがある遊歩道になっている。 デモまでは遠くなるが、その遊歩道に入ってデモの列をとることにした。このアングルで撮影したのは初めてで新鮮と言えなくもないが、距離を調整できないので何枚撮っても似たような構図になってしまう。ちょっとした思い付きは、ちょっとした結果にしかならないのである。晩翠通り。(2017/9/22 19:24~19:31) 来週の金デモはどうなるのだろう。東京で会議が入っている。金デモに間に合うかどうかは、会議の進み具合による。予定通りであれば、仙台に帰り着くのは金デモ開始1時間後くらいになる。 お役人が企画して、全国から集まる会議なので、間違いなく金曜日に設定される。これまでも出張帰りの金デモ参加は何回かあったが、ひどい遅刻の記憶はない。きっといつものように会議が早く終わるだろうと、気楽に考えることにする。 デモの帰り道、来週のデモのことを考えていたのである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.09.22
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朝っぱらからJアラートが鳴って、不愉快な一日が始まる。ミサイルはすでに太平洋遠くに落下したというのにテレビでは延々とその話題が続き、なかにはヘルメットを被ってどこやらから中継している間抜けなリポーターも登場している。 戦争を煽る論調、特定の国を敵視する論調、それらは人種差別を基調にしながらテレビなどのマスコミを通じて毒ガスのように蔓延している。新聞の見出し白地に赤い丸「日本」という言葉のもとに死者達は売店のそばに立ちそして大きな眼で新聞の見出しを見つめる白くそして赤く印刷された憎悪を「日本」という言葉のもとに死者達は恐れるこれは死者達が恐れている国である これは、「灰色の時代」と題されたヒルデ・ドミーンの詩 [1] の言葉を私が勝手に一部置き換えてみたものだ。元の詩は、「白地に赤い丸」は「赤と黒」、「白くそして赤く」は「黒くそして赤く」、「日本」は「ドイツ」という語句である。 ドミーン(ドミン、ドーミンと表記されることもある)は、1912年ドイツのケルンで生まれたユダヤ系の詩人である。彼女はナチス政権から逃れて、イギリスやドミニカで長い亡命生活を送った。彼女を生まれ育った国から追い出したのは、人種差別から人種殲滅へと向かうナチス思想だった。 ナチズムは、ナチス政権の思想であり、それを支えたドイツ大衆の思想でもあった。いま、日本で起きている敵国扇動や戦争への躊躇のなさが自公政権だけのものならさほど怖れるに足りないのだが、マスコミや大衆がそれに唯々諾々と乗せられている状況を見ると、ナチズムが席巻したドイツの時代とどうしても重なってしまう。 ナチスだけがユダヤ人を虐殺したのではない。ナチスに煽られ乗せられた大衆もまたユダヤ人虐殺の犯罪者なのだ。関東大震災で朝鮮人や中国人を虐殺したのは官憲だけではない。普通の日本人(と自称する)である大衆も虐殺に加わったのだ。いま、日本はその一歩手前、半歩手前まで来てしまったのではないか。ひそかにこの国を出ていく、つまりは、ひそかに亡命を始めた被差別マイノリティが生まれているのではないかという想像が働く。民族差別が民族殲滅に向かう歴史を知悉する者ほど、現代日本を畏れているに違いない。 1892年ベルリン生まれの哲学者・思想家のヴァルター・ベンヤミンは、民族殲滅に雪崩れていってしまう群衆を商品に群がる消費者に喩えて描いた。 劇場の観衆、軍隊、ある都市の住民などは、それ自体としては特定の階級に属していない群集を〈形づくる〉。自由市場はこの群集を、急速に、そして計り知れない規模で増大させる。いまやあらゆる商品が自らの顧客である群衆を自らのまわりに集めるからである。全体主義国家が模範としたのはこの群衆である。民族共同体は、顧客としての群集との完全な一体化を妨げるすべての要素を、一人一人の個人から追放しようとする。 [2] 商品に群がるようにマスコミ報道の戦争ごっこと敵国視の言説に取り込まれているのは誰だ。「顧客としての群集との完全な一体化を妨げるすべての要素」のあれこれを失い始めたことに気づかないままに騒いでいるのは誰だ。 ヴァルター・ベンヤミンもまたナチス・ドイツから亡命する。そして、1940年秋、パリを経てたどり着いたスペイン国境で服毒自死を果たす。現在でも、多くの思想家が語り継ぎ、論じ続けている優れた哲学者の48歳の死であった。 いま、私たちは無自覚のまま、どこかでマイノリティの人々を追いつめ、死に向かわせているのではないか。エスニック・マイノリティとポリティカル・マイノリティたちを……。 そんな怖れで憂鬱なままにすぎた秋の日の終わり、「顧客としての群集との完全な一体化を妨げるすべての要素」の一つ、政府への抗議としてのデモを私たち「一人一人の個人から追放」させないために、気を取り直して「金デモ」のために夜の街に出かける。元鍛冶丁公園から一番町へ。(2017/9/15 18:39~19:02) 元鍛冶丁には、私の見知らぬ人が何人かいた。見知らぬ人は、たいてい私の見知った人と立ち話をしている。私が知らないだけらしい。 今日の参加者は45人になった。先週の35人と比べれば、「見知らぬ人」効果(たぶん)は大きいのである。とはいえ、見知らぬ人が10人もいたわけではない。せいぜい数人である。 元鍛冶丁公園を出て元鍛冶丁通りを一番町に向かうデモを、国分町の通行人はほんとうに珍しそうな顔をして眺めている。私たちは、今週もほとんど同じメンバーだけれども、国分町や稲荷小路の通行人に先週の夜と同じ人はほとんどいないだろう。そんな当たり前のことを珍しい発見のように思いなしながら、夜の繁華街を通り過ぎる。一番町(広瀬通りへ)。(2017/9/15 19:03~19:05) 一番町は、なぜかいつもより人通りが多いような気がする。秋晴れの過ごしやすい一日の終わり、ということぐらいしか思い当る理由はない。この夏は雨の日が異様に多かったし、デモもかなり雨に祟られた。今日は、最近では最良の日かもしれない。 人出がその日の天候に強く左右されるのは、天候不順な季節の後には心理的にも当然なのかもしれない。日中は家でごろごろしていた私ですら、窓の外を眺めながらどこか出かける場所はないかと思案していたくらいである(思案してもむだだったが)。 大勢の通行人は、デモが近づくとかなり手前で左右に分かれていく。デモの列の中から、デモの先頭と大勢の通行人を一緒に写そうとしても、脇に避けてしまった通行人はあまり写ることはなくて、私の試みはいつものように失敗に終わるのである。一番町(広瀬通りから青葉通りへ)。(2017/9/15 19:07~19:13) デューク・エナジー・フロリダというアメリカの大手電力会社がフロリダ州の原子力発電所建設計画を中止するというニュースがあった。原発の代わりにソーラーパネルや電力網(グリッド)接続型バッテリー、電力網のスマート化、電気自動車の充電エリアなどに60億ドルを投資するという。外国からニュースとして流れてくる原発からの撤退や縮小は、原発建設はそのコストを回収できないという純粋な企業の経営判断としてなされている。 一方で、国内からの原発関連のニュースは、原発事業へ前のめりになっている自公政権がらみのものほとんどだ。たとえば、日立製作所がイギリスに建設予定の原発の建設資金への融資を日本政府が行うというニュース(日本経済新聞、2017/9/2付け)があった。三菱東京UFJ銀行やみずほ銀行が貸し倒れリスクを恐れて躊躇していた融資に対して政府が日本貿易保険(NEXI)を通じて全額補償する方針だという。さらに、日本政策投資銀行や国際協力銀行(JBIC)が投融資を行うと報じられてる。これらはすべて政府が100%出資する政府系金融機関で、世界中が将来は破綻すると判断している原発事業への政府の自己破滅的な加担は、いずれ私たち国民の負担として返ってくるに違いないのだ。 政府がそうであれば、無自覚な自治体はそれに付き従うのである。「民意は狭められ、置き去りにされた。」と断言するのは、河北新報の記事(2017/9/8付けの「〈原発と宮城知事〉30km圏の民意 蚊帳の外」)である。 玄海原発再稼働に際して、緊急防護措置区域(UPZ)の30km圏内の8市町のうち4市町の首長が反対しているにもかかわらず、佐賀県知事は県と立地自治体の玄海町の同意だけで再稼働を容認した。玄海町だけはその経済を原子力関連の交付金や税金に強く依存しているので反対できないことを見越した県知事の判断で、国の意向そのものをUPZ市町に強制したという形だ。記事はこう続く。「立地自治体と県に限る手法は、原発事故後、最初に再稼働した九電川内原発(鹿児島県)の手続きがひな型だ。再稼働を目指す知事にとって格好の前例となり、福井県や愛媛県も踏襲した。」 宮城県もまた女川原発再稼働で同じ轍を踏みそうだと記事は続いている。河北新報社が8月に行った県内世論調査で、適切な地元同意の範囲について「県と立地自治体」だけでよいとしたのはたった7.6%、「県とUPZ自治体」「県と全自治体」とする考えは85.0%に上ったのである。 そうした県民の意思にもかかわらず、宮城県知事は「地元同意の範囲は、女川町、石巻市と県で十分」と主張している。世論調査で半数以上の住民が再稼働を容認したのは女川町だけだったという点においても、佐賀県の玄海原発と事情はほとんど変わらない。「民意は狭められ、置き去りにされ」るのである。 佐賀県も宮城県も原発政策は国の思いのままである。ここには県民の安全や生命を尊重するという意思はなく、国の意向を実現することだけが県の使命であるかのように行政が進められている。自治のない自治体なのである。 こうした自治体の在り方は、まるで江戸時代の代官所ではないかと思い至った。そうか、「お代官様」か、などと妙に得心がいったのだったが、いまや代官などが出てくる時代劇はあまりにも陳腐で人気などはないだろうとも思ったのだった。 河北新報の記事は、こう締めくくられている。玄海原発から最短で約8キロに位置し、再稼働に反対する長崎県松浦市の友広郁洋市長は指摘する。「同意権は住民の安心を担保する不可欠な権限。その思いを受け止め、国に届けることが県の役割だ」 それにしても、江戸時代の代官は住民の意思を幕府に届ける役割を職掌として与えられていたのだろうか。それは、寡聞にして知らない。青葉通り。(2017/9/15 19:15~19:21) デモは終わったが、憂鬱は晴れない。顔を見合わせた人とは「おつかれさま」などと言い交わしたが、不機嫌な顔で挨拶したのではないかと心配しながら夜の街を歩き出す。 街を歩きながら、なにかいいことはないか、なにか楽しめることはないか、そんな気分だった。たとえば、次の歌のような……。 とつぷりと暮れたる路地に行き会ひて旧知のごとき犬と私 小島ゆかり [3] 人との出会いはちょっとためらう。こんな年なのに、まだ人見知りなのだ。だから、出会うならこんな人だ。 そこにありつつ見えざりし人ふと在りて秋の日微かなるわらひをぞする 葛原妙子 [4] 仙台の街の夜、「旧知のごとき犬」にも「見えざりし人」にも会えないまま、家までの道を歩きとおし、「秋の日」は終わるのだ。[1] 『ヒルデ・ドミーン詩集』(高橋勝義・高山尚久訳)(土曜美術社出版販売、1998年)p.212。[2] ヴァルター・ベンヤミン(今村仁司・三島憲一ほか訳)『パサージュ論 第2巻』(岩波現代文庫 2003年)p.434。[3] 『現代短歌全集 第十七巻』(筑摩書房、2002年)p. 356。[4] 『現代短歌全集 第七巻』(筑摩書房、1972年)p. 310。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.09.15
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今日の金デモの集会は肴町公園である。いくつかの公園が集会場所になるが、肴町公園はわが家から一番近い。というわけもあって、金デモに出かける前の時間をのんびり過ごしていた。 その私の脇で、老犬が散歩を終え、早めに用意した夕食も食べ終えて、食後のおやつにかじりついていたのだが、一瞬体を伸ばして大声を上げた。これまで数回起きた癲癇様の発作の軽いものだったらしい。前の発作のときと同じようにオシッコも漏らした。 彼女のベッド代わりの毛布が濡れてしまったが、一部は絨毯まではみ出していた。絨毯に水を含ませては拭き取り、消毒用アルコールをかけては拭き取り、最後は消臭剤で仕上げた。このための道具一式はバスケットにまとめて用意しているので、作業に取り掛かるのは容易なのだが、絨毯をきれいにするというのはけっこう時間がかかるのである。今日も、金デモ集会には遅刻である。肴町公園から一番町へ。(2017/9/8 18:41~18:57) 例年であれば、9月からは冬時間になって集会は午後6時からとなるのだが、今年は9月いっぱい夏時間で金デモは開催される。肴町公園は、すっかり夜の闇の中である。公園に足を踏み入れると、脱原発カーのヘッドライトや何本かの公園灯の光と木々の周辺の闇とがくっきりと切り分けられているようだ。集会に集まった人々はそれぞれの半身を闇に委ねているように思い思いの場所に立っている、そんな印象を受けた。 35人のデモの列は肴町公園を出発して、日銀裏の細道を一番町に向かう。この道はほとんど人通りはなく、肴町公園で休憩をとるタクシーが何台か通っていく。出発時にはタクシーをやり過ごしてから歩き出すが、歩き出してしまえばタクシーはデモの後をのろのろついてくるしかない。そんな道である。一番町(北上して広瀬通りへ)。(2017/9/8 18:59~19:02) デモは青葉通りと広瀬通りの間で繁華街の一番町に出る。そこを左折して広瀬通りに向かう。勾当台公園や錦丁公園、元鍛冶丁公園が集会場所のときは、デモは一番町を南下するコースを歩くのだが、肴町公園や東北大学片平キャンパスから歩き出すときは一番町を北上する。 ほとんどのデモは前者のコースを取るので、今日のコースは新鮮と言えなくもないが、244回となった金デモなので、数少ないとはいえ肴町公園出発もかなりの回数になる。けっこう新鮮なコースだ、とただただ自分を暗示にかけてシャッターを押しているだけのことである。一番町(広瀬通りから定禅寺通りへ)。(2017/9/8 19:03~19:05) このごろ、テレビや新聞でニュースを知るということはあまりなくなった。退職したら暇を持て余すに違いないと予想して始めたフェイスブックやツィッターが私にとってとても良いニュースソースになっている。SNSには私の関心のある領域のニュースが選別されて入ってくるというメリットがある。もちろん、時にはフェイクニュースも交じってくるが、今では日本の代表的なメディアでもフェイクニュースを流すことがあるので、とくにSNSニュースの欠点というわけではない(いまやマスコミ・ジャーナリズムの劣化は激しいのである)。 SNSではふだんけっして目にすることのない地方新聞のニュースに接することもできる。たとえば、九州に住むフェイスブック上の知人は、九州の電力事情を報じる佐賀新聞の記事を紹介してくれる。次のような記事が紹介されていた。 九州での太陽光の発電容量は817万kWで九州電力の受け入れ量も741万kWに達して、九州電力は太陽光発電事業者に対し発電の一時停止要請に踏み切る恐れがあると発表したという。夏の電力重要期が終われば、大幅に電力が余ってしまうということだ。記事では触れられていないが、無理して玄海原発や川内原発を稼働しなければならない理由がなくなってきている九州の電力事情を、九州電力自らが認めているということだろう。 同じ佐賀新聞は、玄海原発2~4号機の運転差し止め訴訟の口頭弁論で、一人の元小学校教諭が「屋外の大気が放射能で汚染された場合に、児童を安全に保護者に引き渡す方法などが確立されていない」として「教育委員会の報告や指示待ちということになる。現場で子どもを預かる職員にとっては不安の種ばかり」と陳述したといいニュースも報じている。 川内原発や伊方原発、玄海原発の再稼働に際して発表された事故が起きた場合の住民避難の方法がまるっきり不十分であることは、つとに指摘されている。しかし、それは個々の避難計画を手直しすればいいというような問題でないことを、別のSNSの情報が教えてくれている。 私は、もう一つのSNS、ツィッターで、ジャーナリストの烏賀陽(うがや)弘道さんという人をフォローしている。その烏賀陽さんのツィッターで紹介されていた彼の取材記事の一つに「いつの間にか国は「事故が起きたら原発周辺住民の被曝はやむなし」に政策転換 原子力規制庁に直接確認したら本当だった」という注目記事がある。 烏賀陽さんは、原子力規制庁が公表した「原子力災害対策指針」のなかで示された「地上に設置したモニタリングポスト(MP=線量計)が高い数値を示したら、避難を開始する」という方針に驚き、最大の疑問を持ったのだという。MPが高い数値を示したということは、すでに高濃度の放射性物質が飛散しているということだから、周囲の住民はすでに放射性物質を浴びて被曝しているはずではないか。そういう強い疑問をもって、烏賀陽さんは規制庁の担当者に直接インタビュー取材をしたという。そして、その「担当課長は「『周辺住民の被曝やむなし』に避難政策を転換した」とあっさり認めた」と報告している。 原発事故の際の避難計画は、たとえどんなに丁寧に緻密に考えられたにしても、もともと「地域住民の被ばくはやむをえない」という前提のもとになされているのだ。被曝しないで避難したいという住民の願いは、はなから聞き入れられる余地などなかったということだ。再稼働に際して発表された避難計画のことごとくが不十分かつ不完全な計画にならざるを得ない理由はそこにあったのである。国や県、自治体が考える避難計画の細部を取り上げて批判し、改正を要求しても、けっして住民の放射線被曝がなくなる方向には働かないということだ。 しかし、それは「『周辺住民の被曝やむなし』に避難政策を転換した」規制庁が考えを改めればどうにかなるということではなくて、原発事故が起きてしまえば地域住民の放射線被曝は避けられないという抜きがたい事実に根差しているのである。原子力規制庁や規制委員会の能力や才覚でどうにかなる問題ではない。東電1F事故で思い知らされて、規制庁は避難政策を転換せざるをえなかったのだ、そう私は考える。事故時に安全に避難できるというのは、幻想にすぎない。 どのような避難計画も原発事故から地域住民を救うことはできない。烏賀陽さんの取材記事から、私はそう考えた。これは絶望的な結論に見えるが、そこは結論ではない。原発再稼働をしない、すべての廃炉にするというのが私たちの結論になる。それこそが、地域住民が被曝事故に遭わないための唯一の正しい結論だと私は考える。定禅寺通りから晩翠通りへ。(2017/9/8 19:12~19:29) 北上しながら広瀬通りを越え、定禅寺通りまで一番町を歩いたデモは、そこで左折して定禅寺通りを西進して晩翠通りに向かう。晩翠通りを左折して南に歩き、ふたたび広瀬通りを越えて細道(日銀裏の道の肴町公園から西の部分)から肴町公園に戻る。 細く暗く人通りの少ない日銀裏の道、仙台最大の繁華街、一番町の明るく賑やかな道、4列の欅並木の大木が作る木下闇と街灯が綾なす定禅寺通り、広く暗い道のところどころに大きな量販店やガソリンスタンドが輝くように点在する晩翠通りと、デモの道は変化に富んでいる。 変化に富むことがデモコースとして必ずしも良いわけではないが、デモ写真を記録する身にはありがたい。それに、このコースの終点は(始点もだが)わが家に一番近いので、帰り足が楽だということが何よりなのである。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.09.08
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きれいに晴れ上がった一日で、秋が始まったなあという実感をずっと味わえる日だった。日曜日から4日間、熱を出して寝込んでいて、木曜日からまた朝の散歩が復活した。早朝はすっかり冷涼な秋の気配で満たされていて、散歩を終えても汗でシャツが濡れるということもなくなった。 この秋は行事の予定が重なっていて、中には体調不良を理由に休めそうにないものもいくつか含まれている。体調管理に気をつけなければと思っていた矢先、奇妙な発熱が日曜日に始まった。 朝の散歩は、普通の歩き出しだったのだが、歩くたびに足の筋肉が微妙に緊張したり緩んだりする感じがあった。ちょっと不思議な感じがしたが、痛いわけでもない。しかし、さほど歩いてもいないのに、下半身の疲労が急激に増してきた。少しばかりあわてて帰ってきた。 家に着いた頃から熱が出てきたのだが、そのころから腰も痛みだした。たまに軽いぎっくり腰になることはあるが、腰痛持ちというわけではない。下半身の重い疲労感はすぐに消えたが、発熱と腰の痛みで3日間もひっくり返っていたのである。そして、熱が治まると腰の痛みも治まったのだった。 風邪ということでもないらしい。ひっくり返って考えていたのは、こんなことだ。老いてくると一日の疲労をその日のうちに解消することができず、少しずつ疲労を積み残していく。そのささやかな疲労が小さな臨界点を越えると発熱や筋肉疲労の形で顕在化する。数日の強制的休養で積み残した疲労を解消する。そんなことが起きているのではないかと想像した。 そうした肉体の臨界点は、年齢とともにその種類が増えていくだろうし、それぞれの臨界値が低くなっていくのだろう。それが恒常的な病として顕在化することも多くなるに違いない。それが大臨界点で、乗り越えができないときには………。 こんなことをぐだぐだ考えていたら、2、3日の発熱ですむのはありがたいと思わねばならない、などと奇妙な感謝の思いに行きついてしまった。自分で自分をペテンにかけているみたいだ。熱で臥せっているときはとても暇なのである。小人閑居して考えるのは、つまりはこんな程度ということだ。元鍛冶丁通りを一番町へ。(2017/9/1 18:45~19:03) 涼しくなったらなったで、先週と同じ服ではまずいだろうと思い悩む。薄い長袖Tシャツにいつもの半袖シャツを重ね着にした。これは夏山登山のかつてのスタイルだが、あまり山に行かなくなったいまではデモの時くらいしかこんな格好はしない。 40人のデモは、元鍛冶丁公園を出て国分町通りと稲荷小路を横切って一番町に出ていく。国分町と稲荷小路は賑やかな飲食店街なので、カラフルな飲食店の装飾灯が多くてコントラストが強い道になっている。 カラフルでコントラストが強い写真をうまくとるにはどうしたらいいのだろう。この道ではいつもそんなことを考えて何回もシャッターを押すのだが、満足する写真はほとんどない。完全なマニュアル操作で最適な条件を探せばいいのだが、デモの周りを歩きながらそんな余裕はないし、かといって、デモのない日にやってきて条件探しをするほどカメラに夢中ではない。 めったやたらにシャッターを押して、我慢できる程度の写真を選ぶといういつものやり方で写すしかない。となれば、我慢できる範囲を広げるという心理的なことだけが問題になる。さしあたって私が我慢できればどんな写真でもいいということだ(なんという結論!)。一番町(広瀬通りへ)。(2017/9/1 19:04~19:03) 茨城県知事の3択選挙が脱原発の点では最悪の結果に終わったというニュースのほかには、このごろ原発関連の目だったニュースはあまり見当たらない。ローカルなニュースで大きかったのは。河北新報の女川原発に関するアンケート調査の記事だった(8月31日付け電子版)。 女川原発2号機の再稼働には宮城県民の68%が反対で、とくに立地自治体の石巻市では反対が80%近くだったが女川町では賛成が60%近くになるという真逆の結果に女川町経済の強い原発依存性が顕われている。 再稼働の同意には「県と県内自治すべての自治体」で必要が55.5%で「県と立地自治体のみ」はわずか7.6%だった。 また、原発の安全性に87%「不安」で、再稼働賛成が過半を超えた女川町でも80%近くが「不安」だとした。女川町の経済(暮らし)が原発に依存しないですむなら、多くの人が再稼働に反対することになるだろうという結果である。 今年10月の県知事選挙で原発再稼働を選挙の「判断材料にする」と答えた人は49.1%で「しない」の45.6%を超えた。原発のシングル・イッシューだけで県知事選挙の勝敗が決するとは思わないが、少なくとも「再稼働反対」を主張することは選挙戦に有利に働くことは明らかだ。 茨城県知事選挙も現職知事がとつぜん東海原発再稼働反対を言い出したのも、同じような状況があったためだろう。再稼働反対の候補者が2名、賛成が1名という不幸な状況になってしまったとはいえ、「脱原発」はいまやマジョリティであり、選挙ではトレンドですらある。こうした状況をしっかりと捉えた政治意志を持つ県知事候補の登場を期待している。一番町(青葉通りへ)。(2017/9/1 19:11~19:17) 加計疑惑や北朝鮮ミサイルのニュースに紛れるように、原子力損害賠償・廃炉等支援機構が、東電福島第1原発1~3号機では気中工法で燃料デブリを取り出すという方針を発表するニュースもあった。 1号機と2号機ではデブリの行方がまるでわかっていない。冷却水も漏出してしまっていて、メルトダウンを越えてメルトアウトしている可能性も指摘されている。格納容器ばかりではなく原子炉建屋の底がどれほど壊れているかもわからない状態で、漏水を防ぐ工事などはほぼ不可能である。格納容器内に水を満たすことなど最初から期待できないので、気中でデブリを取り出すという答えしかなかったという結論で、たいしたニュースとは言えないのである。 ニュースとして面白かったのは、原子力規制委員会の田中俊一委員長は「今の段階で溶融燃料が取れるか、言える段階ではない。(取り出しは)容易ではない」と発言したのに対して、原賠機構の山名元理事長は「取り出しは物理的に可能。技術的な判断を的確にしながらやっていく」と述べていることである。つまり、まだその程度の話なのである。デブリ取り出しが可能かどうかまったくわからない段階のただのお喋りにすぎない、そんなニュースなのだ。 もともと、デブリ取り出しを水中工法で行うか気中工法で行うかというのは、地獄に落ちた後で火炎地獄の道を採るか針山地獄の道を選ぶかというような話にすぎない。地獄の亡者たちの選択に付き合う気などさらさらないと言いたいところだが、彼らは福島の人々(ばかりではないが)を道ずれにしているので、そう突き放せないのが辛い。いずれにせよ(それ以外の道であっても)選択しなければならないだろうが、このような議論は、地獄に落ちないための思考と決断と実行が並行して進められないかぎり、現在の地獄から新しい地獄へと経巡るだけで、本質的な意味は少ない。 もう一つ付け加えておくと、田中委員長も山名理事長も東北大学原子核工学科の卒業生である。田中さんは私の先輩、山名さんは後輩である。その二人が同じニュースで反対の発言をしているのである。二人が揃って登場するこんなニュースに接すると、「東電1F事故を結果した日本の原子力政策(とその展開)における東北大学原子核工学科の功罪」などという文言を思い浮かべてしまう。そんな大仰な論評をすることはとうてい私には無理だけれども、同じ時代に同じ学科を卒業した一人としての責任は少しばかり分かる。その一部が、私の「脱原発デモ」である。 読書や絵画鑑賞のブログかわたれどきの頁繰り(小野寺秀也)日々のささやかなことのブログヌードルランチ、ときどき花と犬(小野寺秀也) 小野寺秀也のホームページブリコラージュ@川内川前叢茅辺
2017.09.01
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