今日も他人事

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4.荊州争奪戦


194年1月。年が明けると同時に梓潼の劉焉軍二万が漢中へと侵攻を始めます。

董卓は、張遼に騎馬隊七千、馬超に涼州騎馬隊三千を任せて先鋒とするとともに、自らは後詰として騎馬隊一万を待機させておきます。

<194年1月 漢中の戦い>
■董卓軍

指揮:董卓
兵力:二万

■劉焉軍

指揮:張任
兵力:二万

■解説

漢中は周囲を崖に囲まれ、益州からは桟道を経由しなければたどりつくことができない堅固な土地でした。

しかも、漢中には十分な兵力が配置されており、この戦いを董卓は若手の将軍達を測る目安と考えていたのです。

張遼、馬超は敵が漢中に深く入り込んで来るのを待った上で騎馬隊で先制攻撃を敢行。

張遼は善戦しますが、馬超は兵力差もあり、苦しい戦いを強いられますが、なんとか張任を撃破。

そこへ董卓の騎馬隊が増援として現れたことで戦局は董卓軍の勝利で決まりました。

この漢中での戦いが終息を迎えた頃、劉表軍の水軍一万が襄陽を進発し、袁術軍の宛に対して攻撃を仕掛けていました。

これを好機と捉えた上庸の呂布は、漢中の董卓に援兵と補給を要請する一方で、騎馬隊一万と朱シュンの攻城部隊一万をもって密かに出撃。

劉表軍が宛の沿岸都市部へと攻撃を仕掛けている隙を突いて、襄陽北部の港を陥落させ、上陸を果たします。

劉表軍のカイ越が歩兵隊三千を率いて迎撃に現れますが、これを蹴散らし、三ヵ月で兵力が手薄となっていた襄陽を奪い取るのでした。

この呂布の襄陽攻撃と前後して、袁術軍による四度目の潼関攻撃が敢行される一方、董卓軍も上庸に到着した増援部隊二万を陽動の為に宛へと侵攻させます。

<194年8月 第四次潼関の戦い>

■董卓軍

指揮:皇甫嵩
兵力:三万五千

■袁術軍

指揮:周瑜
兵力:五万

■解説

董卓軍三万五千に対し、袁術軍は五万の大軍を持って猛烈に攻め上げてきました。

カクは野戦を徹底的に避け、ひたすら防御を固めて長安からの補給を随時行わせるなど徹底した持久戦の構えを示します。

戦いは長期化し、袁術軍を追い払うことに成功したのは、年が明けた195年1月のことでした。

<194年9月 宛の戦い>

■董卓軍

指揮:董卓
兵力:二万

■袁術軍

指揮:孫堅
兵力:二万

董卓は張遼、馬超にそれぞれ一隊を率いさせ、宛の兵舎を襲撃。

この攻撃に対して、袁術軍の孫堅が二万の手勢を率いて迎撃に現れます。

董卓はここで真正面からぶつかって兵力を失うのは得策ではないと考え、後退して隘路沿いに斜行陣を敷きます。

韓玄が一度、ぶつかって撃退されますが、孫堅は董卓に戦う意思がないと考えて深追いせずに後退を開始。

董白が後退する敵を叩くように進言しますが、董卓は荊州南部の奪取を優先して上庸へと帰還。

軍備を整えた後、張遼に守備を任せ、騎馬隊一万と馬超の涼州騎馬隊三千を率いて襄陽へと入城を果たします。

12月。董卓は袁術軍と劉表軍の動きに備えて襄陽に残り、呂布、朱シュン、馬超らに二万の軍勢を預けて江陵を攻撃させます。

この時、馬超に対抗意識を燃やす董白が配下の軽騎兵三千を率いて江陵攻めへと独断で加わっていました。

江陵を守る劉表軍の内、劉キの騎馬隊三千と黄忠の弓兵隊七千が迎撃に現れますが、董卓軍の騎馬隊に蹂躙されて壊走。

江陵を攻囲中、攻城部隊を指揮する朱シュンが急逝するという事件が起きますが、副将を務めていた高順が軍権を引き継いで攻撃を継続。

3月には城を陥落させ、董卓軍は江陵を占拠し、荊州南部から劉表軍を一掃する事に成功します。

この戦いの中、攻城部隊を見事に纏め上げた高順はその手腕を買われて、一万の兵を率いる攻城部隊の総隊長に任ぜられます。

また、董白は軽騎兵部隊の隊長として、七千の兵の指揮を任されることになります。

こうして、襄陽、江陵を占拠した董卓ですが、西の益州からは亡き劉焉の長子である劉ショウが、東からは袁術、劉表が江陵目掛けて数万の軍を次々と送り込んでいました。

董卓は自ら江陵防衛の総指揮を執り、韓遂、馬超、張シュウ、董白、黄忠らを城郭周辺に展開。

同時に、自らの片腕ともいうべき呂布と重装備部隊の総隊長となった高順を漢中に派遣し、桟道沿いから益州へと侵攻する手筈を整えさせます。

時に初平六年。今、激闘の火蓋が切って落とされようとしていました。



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