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今日も他人事
大帝国SS 晩年
それは分かっていた。分かっていても、目の前で伏している老女の姿を見た時、利古里の胸は詰まった。
かつて、幼くして柴神に選び出され、帝となった少女。あれから五十年以上の月日が流れ、艶のあった黒髪は真っ白に染まり、可憐だった容姿も痩せ細っていた。
肉体は衰え、今は立ち上がることもままならずに帝の寝所で寝たきりの日々を送っている。
帝の目蓋が静かにゆっくりと見開かれていく。以前のような強い輝きはそこにはなかった。
「利古里ちゃん」
そう名前を呼ばれた時、利古里はなんとか目を見開こうとした。それでも、目頭が熱くなってくるのは止めようがなかった。
「はい、ここにおります」
「私のわがままに、ずっと付き合あわせてごめんなさいね。大変だったでしょう」
「わがままなどと、そんなことは仰らないでください。帝が誰よりもこの国の事を思い続けていたことはよく存じております」
「ありがとう、利古里ちゃん。東郷も長い間、ご苦労様でした。ここまでやってこれたのは貴方がずっと支え続けてくれたからです」
「何、好きな女の為に身を粉にして働くことは、男にとっては甲斐性ですよ」
何時もと分からぬ東郷の口調に、帝はくすりと笑みを浮かべた。
「私は、幸せでした。皆の笑顔が見れて。皆の笑顔に包まれて。本当に」
そこから先はあまりに小さな囁きで利古里には聞き取ることができなかった。視界が滲んで、帝がどのような表情を浮かべているのかも、もうよく分からない。
「行こうか、利古里ちゃん」
東郷の声。老いてはいるが、はっきりと聞こえる。帝の声は、もう聞こえてこない。
肩をポンと叩かれ、利古里は無言のまま頷き返した。
御所には多くの関係者の姿があったが、不思議なほどに静まり返っていた。
帝の死。そのあまりにも大きすぎる出来事に、皆、悲痛な表情を浮かべている。
利古里は東郷と中庭を歩いていた。既に日は落ち、人工灯の淡い光が御所を照らし出している。
「本当に立派な方だったな、帝は」
利古里の呟きに、ああ、と東郷は頷いた。
「彼女はずっと人々の幸せを願い、その為に自分ができることを頑張り続けてきた。陰口を叩かれることもあったし、思うようにいかないこともあったが、帝ちゃんは誰恨むこともなく、最期の最期までどうしたら人々が幸せに暮らせるかを懸命に考えていた」
「これだけ多くの人々に愛され、慕われてきたのも頷ける。その帝が亡くなってしまった。私達は本当に大きな物を失ってしまったのだな」
「それでも、俺達は生きていかなくちゃならん。俺達が居なくなっても次の世代が、そのまた次の世代が、明日の幸せを願って頑張っていかなきゃな」
東郷が真面目な口調で語る。普段の冗談めかした感じはそこにはなかった。
誤解されがちだが、本当は真摯な男なのだ。その事を、利古里は何十年も前からよく知っている。
「もう五十年か」
「長かったか?利古里ちゃん」
「不思議とそうは思えん。東郷は?」
「俺もさ。あっという間だった気がする。お互い、忙しく駆け回っていたということかな」
「よく言う。お前はあちこちの女子に手を出していたではないか」
「はっはっは。まったく言い逃れはできんな」
「ふん。だが、まあ……満たされた日々だったのは確かだ。忙しく辛いことも多々あったが」
「以前、ロンメルと酒を飲み交わした時のことを思い出すよ。ドクツ時代は常に厳しい戦いを要求されたが決して不満を感じることはなかった。それはレーティアが自分達に誇りを取り戻させ、夢を見させてくれたからだと」
世界帝国随一の名将として活躍したロンメルは数年前に退役していた。今は自然風景を撮影するために、各地を転々としているらしい。飄々とした男だったが、レーティアを本心から敬愛しているのは、何年か一緒に働く内に利古里もはっきりと感じていた。
そのレーティアは軍を抜けて世界的なアイドルとして活躍していたが、若くに病に掛かって逝去している。葬儀は大々的に行われ、帝も出席していた。
旧ドクツの軍人で現役の将官は、潜水艦隊の総帥を務めるデーニッツしかもう残っていない。
「利古里ちゃん、近々、うちに来ないか?」
「何故だ?」
「秘蔵のワインがあってね。二十年物の。帝ちゃんの為に一献、傾けようと思うんだが」
不謹慎な。そんな思いが利古里の脳裏を僅かに過る。
しかし、帝にとってはその方が良いのかもしれない。皆が笑顔で明るく暮らせることを誰よりも喜んでいたあの少女にとっては。
それに、もしかすると、東郷は自分を元気付けるつもりで、酒を飲もうなどと言い出したのかもしれなかった。
「いざとなれば、そのまま、泊まっていけばいいさ。なんなら一緒に眠ってもいい」
「おい、私を幾つだと思っている。もう七十歳のおばあちゃんだ」
「それを言うなら俺だっておじいちゃんだぞ。それにな、男は幾つになっても良い女には惚れるものだ」
白髪混じりの東郷を、利古里は流石に呆れつつ見やった。まったく冗談を言っているようには見えない。
そういう東郷の口調はまったく昔と変わらない。思わず、自分まで若返ったような錯覚すら覚えてしまう。
昔はこの軽薄な口調を不快にしか感じられなかった。今ではこの男なりの優しさなのだとも思える。
利古里は、軽く息を吐き出した。
「帝の為に一献。それなら付き合おう。また、日を改めてな」
「分かった。気が向いたら連絡してくれ」
「東郷」
「何だ?」
「ありがとう」
東郷が笑みを浮かべる。その口元に刻まれた深いしわ模様がはっきりと老いを感じさせた。おそらく、利古里自身も同じだろう。
――終わりは来る。どんなものにも、何時かは必ず終わりが来る。
帝がそうであったように、東郷も自分もいつかは死ぬ。それは今日の事かも明日の事かもしれない。
「それでも私達は前に向かって生きていくしかない」
利古里は、そう自分に言い聞かせるように呟いた。
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