今日も他人事

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大悪司SS『独り』



「……ふふふ」

 女の陰鬱な笑い声が聞こえる。

「ふふ、やだ、城太郎さんったら……ふふふ」

 まただ。
 また、看守の日陰密子が、独り言を呟いている。

「ふふふ……」

 耳障りな彼女のおかしな独り言を聞いても、眉をひそめることもなくなって久しい。
 この独房に入れられた時、初めは戸惑い、苛立ちを覚えたこともあったが、今では鳥の囀りのようなものだと思うことにしている。

 私は、ちょっと身じろぎし、独房の壁に背を預けた。

 ここに来て、何日、立ったのだろう。五十日? 六十?
 ひょっとすると、八十を超えたかもしれない。
 悪司との戦いで捕らえられ、この独房に入れられたのが、もう随分と前に感じる。

 悪司以外にも、何人か、元わかめ組の仲間がやって来て、言葉を交わすことはあった。
 どうやら、全く心を開こうとしない私を動かそうと、悪司が特別に面談の許可を出したらしい。
 かつて、あれほど悪司を憎み「殺してやる」と息巻いていた辻家が、すっかり悪司の手管に染まり、その情婦に成り下がっている姿は、呆れを通り越して滑稽ですらあった。あんたの殺意って、そんなに軽いものだったの?
 でも、そんな風に身軽に自分を変遷してしまえるのは、正直、少し羨ましい。

「………」

 任侠かぶれの森田は相変わらずで、大声で訳の分からない自分語りを散々した挙句、そのまま去っていった。
 ……そういえば、最近、全く姿を見ていない。
 確か、ビノノン王に憑りつかれたとか、お蘭姉さんが言っていた気がする。ちょっと、意味が分からない。

 お蘭姉さんは、私のことを一番、心配してくれていた。
 体は大丈夫か、地下は冷えないか、とか。そんな他愛もないことばかり。
 その方が正直、気が楽だった。
 他の連中と違い、姉さんだけは、悪司の部下になれ、とは言わない。
 ひょっとすると、姉さんは、私の気持ちに気付いている、のかもしれない。

「………」

 お父さんは来ない。
 今は悪司の部下として働いているらしいが、一度も顔を見せに来たことはなかった。
 ……まあ、当然か。あの人は、そういう人だ。
 多分、お父さんの中で、私はもう娘でもなんでもないのだろう。
 私達親子の関係は、いつの間にか、そういうものになってしまっていた。

 要するに。
 私以外のわかめ組の幹部は、皆、悪司の軍門に下った、という訳だ。

 別に怒りは感じない。裏切られたという気分も。
 ……もし。
 自分も抱かれてしまえば、悪司に肌を許していれば。
 彼女達と同じようになっていたのだろうか。
 悪司への怒りも、昔の思い出も、過去に交わした約束も、全部全部、無かったことにして。

 ……それは。
 それは、嫌だ。
 そんな風に、何もかも有耶無耶にして、風化させて、無かったことになんて。

『なあ、いつまでも意地張ってても、しょえがねえだろう』
『おめえの同僚だった森田も辻屋も、あのお蘭の奴も今じゃ、うちでよろしくやってるぜ。親父さんもだ。お前だけだぜ。ずっと、そうやって捕虜やってんのは』
『おめえもいつまでも、こんな壁の中で燻っててもしかたねえだろう。お天道様の下をよ、大手を振って歩きたくねえのか』
『何が気に入らねえんだよ、ったく…』

 いつかの、悪司のうんざりしたような言葉が蘇ってくる。

 何が?
 何が、ですって?
 決まってるじゃない。そんなの……!
 そんなの……。
 …。

「………」

 足音。
 こっちに近づいて来る。

「よお、トコ」

 ―――悪司。

「すっかり、やつれた顔してんな。折角の美人が台無しだぜ」
「……何の用?」
「今夜、俺らはエデンを攻める」

 思わず、眉をしかめる。
 エデンを? あの、ウィミィ駐留軍司令部を?

「……正気?」
「色々あってな。細けえことは伏せるが、ま、そういう話になっちまった」
「死ぬわよ」
「何、やってみなきゃ、わかんねーさ」

 不敵な眼差しを浮かべ、悪司がニヤリと笑う。

「総力戦になる。頭数は一人でも多い方がいい。どうだ、久しぶりに娑婆で暴れてみねえか? おめえが来てくれたら、俺としちゃ心強いんだがよ」

 そう言って、悪司は私に手を差し伸べす。
 かつて、私を縁日に連れて行ってくれた、あの日のように。

「こいよ、トコ。一緒に、オオサカとろうぜ」

 そう言う悪司の目は、ギラギラと輝きに満ちていた。
 野獣のように、獰猛で、凶悪な。
 でも、どこか純粋すらも感じる。

「……」

 全く。
 正気の沙汰とは思えない。
 自殺行為だ。エデンを攻めるなんて。
 でも。

 ――悪司らしい、か。

 ああ、そうだ。
 私は、こういう悪司が好きだった。
 こういう途方もなく無鉄砲で、どうしようもなく真っすぐな彼が。

「……ん」

 おずおずと。
 その差し伸べられた手を掴もうとして。

 ―――あ。

 不意に、それが目に入った。

 指輪。

 左手。薬指。悪司の。
 指輪。玩具じゃない。本物の。私のと違う。
 私じゃない誰かの。

「………」

 掴もうと伸ばしかけた手が、くず折れる。がっくりと、うな垂れて。
 長い沈黙の後、悪司の溜息が、独房に響いた。

「……そうか。あばよ、トコ。達者でな」

 別れの言葉。私は顔を上げなかった。
 足音が次第に遠ざかり、そして、聞こえなくなる。

「………」

 ポケットに忍ばせてある指輪を握り締める。
 子供の頃に貰った玩具の指輪。この独房に入れられた時、取り上げられなかった大事なもの。
 私と悪司をつなぐ、たった一つの。

 ……どこで。
 どこで、間違えたんだろ。
 ずっと、待ってた。待って、待ち続けて。
 なのに。

「……悪司」

 呟きが漏れる。
 どこかで、水滴の落ちる音が聞こえた。


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