今日も他人事

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211年 ~臥竜、点睛を欠く~



年明けと共に、朝廷から五官中郎将の位を与えられた劉備は手を休めることなく、益州侵攻の軍を進めます。

張飛、董白の騎兵部隊を先鋒に、永安に続いて江州、そして劉ショウの居城であった成都を占領。

この直前、劉備軍の勢い盛んなことを知った劉ショウの幕僚・王累が劉備軍の陣営を訪れ、停戦を申し込みますが、降伏ならば受け入れるとしてこれを拒絶。

劉ショウと主だった幕僚は南方へと亡命したので、劉備は成都を拠点として部隊の再編と物資の補給を整えます。

一方、中原では曹操が勢力を盛り返し、寿春を奪還。

拠点を失った孫権軍は、宛へと陳武、徐盛、甘寧らを向かわせます。



新野を任せられていた関羽は孫権の宛出兵に呼応して、関平、ホウ統と共に一万五千の兵を率いて進軍。

関羽は宛城の占拠を果たしたいと考え、激しく宛を攻め立てましたが、孫権軍が先に守将のカクを破り陥落させてしまったので、果たすことができませんでした。



この時、曹操軍の騎兵部隊を指揮していた張繍を関平と劉封が二人掛りで討ち取っています。

宛を占拠した孫権軍は続いて荊州南郡にも手を伸ばし、独立を保っていた趙範を滅亡させるなどその勢力を拡大していきます。

こうした他勢力の動きを警戒しつつも、劉備軍は益州制圧を優先。

この間、張松の手引きで劉ショウ軍の孟達が劉備の下へと寝返り、厳顔や呉イなどの捕虜となった劉ショウ軍の将が登用されるなど、特に人材面の充実を図ります。

準備を整えた劉備軍は、劉備自身が指揮する二万の軍勢を北上させ、劉ショウ軍の残党一万が立て篭る梓潼を攻撃させると共に、諸葛亮に三万の軍勢を預け南下させます。

南中には劉ショウの亡命先であった建寧、その先には南蛮と呼ばれる異民族が暮らす雲南がありました。

諸葛亮は南中攻略における要害は、成都からの距離であると考え、大量の兵糧を用意させると共に、南下させる兵力を必要最低限に留めました。

度重なる連戦の中で、劉ショウ軍の実力は既に見切っており、また主だった将の大半を捕虜としているので、恐れる必要はないと考えたためでした。

しかし、連戦連勝による慢心が最後の詰めを誤らせることになります。

建寧に向かう途中、狭路に差し迫った所で、劉ショウ軍の張任の強襲を受けます。

張任は八千の歩兵を率いて狭路に陣取ると、密集して進軍していた劉備軍へと一斉に矢を射掛けます。

慌てた劉備軍は突破を試みますが、狭い地形であることが災いし、思うように大軍の利を活かせません。

一ヶ月後、張仁を撃破することに成功したものの、諸葛亮は愕然とします。

まだ建寧に到着していないにもかかわらず、既に南中侵攻軍は一万もの兵士を失っていたのでした……。


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