今日も他人事

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217年 前門の虎、後門の狼



新年を迎えて間もなく、劉備軍は関羽を中心に徐州方面の総力を結集して孫権軍に奪われた小ハイを奪還します。

一方その頃、主だった将は許都に集まり、大規模な軍議を開いていました。

議題は、河北一帯を中心に勢力を盛り返している曹操軍と揚州、荊州を領有し劉備軍との同盟を破棄した孫権軍への対処についてでした。

諸葛亮を中心にホウ統や徐庶、ジュンユウらが話し合い、劉備軍を戦線を北と南に分割、それに合わせて第一軍から第六軍まで再編成し直します。



第一軍は劉備を中心とする本隊であり、許昌を拠点に曹操軍、孫権軍どちらにも対応できる構えを取ります。

この第一軍には張飛、馬超、董白の騎馬部隊三万騎や法正の重装備部隊、ホウ統の計略部隊も加わり、必要に応じて戦線に投入できるようになっていました。

また、関興(関羽の息子)、張苞(張飛の息子)、楽チン(楽進の息子)、張虎(張遼の息子)らにそれぞれ五千の兵を与え、若手将校の育成にも努めます。



第二軍は曹操軍の侵攻を水際で食い止めるため、関羽を総大将に華姫、関平らを率いて黄河沿いに水軍と重装備部隊による防衛戦を展開。



第三軍は趙雲を総大将として、まず前線基地となる寿春、柴桑の占拠、続いて揚州本土の攻略を目的に進軍を開始。

第四軍は長く荊州を守ってきたカク峻を総大将に、孫権軍から荊州南部を奪還するべく第三軍と連携。

残る第五軍は黄権を総大将に益州を、第六軍は馬騰を総大将に涼州をそれぞれ任せ、各戦線への物資輸送を命じます。

数ヶ月を掛けて全土で劉備軍の再編が進む中、劉備は妻である孫尚香を揚州に返すことを発表します。



表向きは里帰りと言われていましたが、本質的には劉備軍からの追放を意味していました。

一方的な宣言に孫尚香は強く反対しますが、結局、劉備は意思を曲げず、孫尚香を劉家から遠ざけるのでした。

孫尚香の追放は気の暗くなる事でしたが、そんな劉備にホウ統が一人の人物を推挙します。



名はトウガイ、字は士載。義陽郡棘陽県の生まれであり、貧しい庶民の出身でしたが、ホウ統自身がその才気を見抜いた若者でした。

吃音でしたが、劉備は一目見てその人物を気に入り、五千の兵を与えて自らの指揮下に置きます。

こうして軍勢の再編を完了した劉備軍は、まず勢いのある孫権軍を揚州に押し込むべく、作戦を展開。



カク峻の率いる第四軍が荊州南部の孫権軍を釘付けにする一方、徐庶が郭ワイ、厳顔らと共に三万の軍勢で新野から江夏へと侵攻。

同時に第一軍と第三軍が連合して許都、汝南、下ヒから総勢十二万の大軍を寿春へと進撃させます。

対する孫権軍も陸遜を総大将として重要拠点である寿春には堅固な守りを築き、九万の軍勢を展開。

劉備軍は先鋒である張飛、馬超、董白の騎馬部隊三万騎を南下させ柴桑を牽制させる一方、残る九万の軍勢で寿春の孫権軍と交戦に入ります。

激しい押し合いが続く中、南下した三万騎が取って返して北上し、孫権軍の側面に突っ込みます。



三万騎の突撃の威力は凄まじく、馬超が朱然を戦死させ、張飛が陸遜を捕らえてこれを処断します。

総大将を失った孫権軍は劣勢に追い込まれ、第一軍と第三軍の総攻撃を受けて寿春も陥落。

劉備と若手将校らは許都に帰還しましたが、代わりに寿春に訪れた諸葛亮が中心となって民政の整備を開始します。

一方その頃、第二軍は押し寄せる曹操の大軍と激しい戦いを繰り広げていました。

関羽は曹操軍が陸戦に強く、水戦に疎いのを見抜くと、水軍に通じた武将を集めて黄河での防衛戦を展開。

対する曹操軍も一万以上の大軍を次々と送り込み、上陸を果たさんと官渡港へと殺到します。

曹操軍の物量作戦に一度は港を奪われますが、乱戦の中で関羽が曹彰を一合の元に討ち取り、華姫が関銀ペイ、馬忠とともに港を奪還するのでした……。


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