『和』の家

『和』の家

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1、現在のドイツ国土の面積 35万7000平方km(日本は37.7平方km)
 首都    ベルリン
 政治体制 連邦共和制
 人口   8210万人
 民族   ゲルマン人93.2% トルコ人1.8% 旧ユーゴスラビア人0.7% イタリア人0・6%
宗教   キリスト教 約7割
通貨   ユーロ
気候   比較的温暖 四季がある
日本との時差  マイナス8時間
外交   21世紀を迎え、ドイツは世界各地で平和の確保と人権擁護、そしてテロを撲滅するため、積極的に行動している。ドイツは国連の場におけるグローバルな協調による安全保障体制を支えると同時に、歴史的なEU拡大に伴い、2004年には、政治経済分野で強く結びついた近隣の友邦による連合の中心に位置することになる。大西洋の対岸との関係は、今後もドイツ外交の重要な柱の一つであり続ける。NATO拡大によって安定した地域が拡がることは、特にドイツにとって大きいな恩恵となる。対ロシア政策においては、欧州統合をより強めること、そして世界の安定と平和を協調によって確保するために貢献している。また、開発援助政策は今後もドイツの対外関係の中核をなすものであり、平和とパートナーシップに基づく協力をめざす連邦政府の政策の一部である(抜粋)
開発援助  ODA(政府開発援助)に58億8000万ユーロ(2002年)
      2006年までに 国内総生産に占めるODA比率を 0.33%を目標にしている
      ちなみに2002年は0.27%。将来は0.7%を目指している。
      開発援助の主な手段としては、財政支援と技術的、人的貢献。
      『貧困削減のための2015年行動計画』→貧困削減を最重要目標
人     文化人の宝庫 ベートーベン、シューベルト、ゲーテ(ファウストなど) 、マルクス(共産党宣言) 、メンデル(の法則)、ノーベル(ダイナマイト) 、コッホ(結核菌、コレラ菌発見)、ニーチェ、フロイト(精神分析)、ディーゼル、マックス=ウェイバー、アインシュタイン、トーマス=マン(魔の山など)、ヒトラー(方向を間違った文化人)などなど

ドイツの歴史
ドイツ共和国(1918~33)
1926   ドイツ国際連盟加入
1933   ヒトラー内閣(ゲシュタポによる恐怖政治)
     ドイツの国際連盟脱退
1936   ベルリンオリンピック
1939   ポーランド侵攻(第二次世界大戦始まりのきっかけ)
1945,4 ドイツ無条件降伏
 48    ソ連ベルリン封鎖 
 49   西側 ドイツ連邦共和国  東側 ドイツ民主共和国
 53   ベルリン封鎖強化(西側ベルリン孤立→空輸によって物資輸送)
 61   東ドイツ ベルリンの壁を構築
 70   ミュンヘンオリンピック
 73   東西ドイツ国際連合加盟
 74   西ドイツにてサッカーW杯開催(西ドイツの優勝)
89   ベルリンの壁崩壊
90,3 <アメリカ・ドイツのマルタ会談>
 90、7 ドイツ統一
2006   ドイツにてサッカーW杯開催

第二次世界大戦が終わった中でドイツは西と東に分断された。西はアメリカ、フランス、イギリスが治め、民主主義の国として設立。東は旧ソ連が治め、共産主義の国として分断された。東西ドイツはアメリカと旧ソ連の冷戦構造を絵に写したようであった。
ここで、当時のドイツの東西の実情を見てみる。
東ドイツ
一院制の人民議会となっていた。“マルクス=レーニン主義の党の指導による社会主義実現”を目標にしているので,事実上は社会主義統一党が実権を握っていた。元首は国家評議会議長があたった。国家は15地区で構成されている連邦であったが,西ドイツに比して,地方地区の権限は弱く,中央集権的色彩が濃かった
統制経済、秘密警察、社会主義統一党の一党独裁、厳しい検閲などに対して、市民の大部分は権力機構と折り合いをつけていた。国家による価格決定や助成政策のため、個人にとっての生活必需品は安かった。体制には柔軟な部分もあり、それぞれの生活領域では、多様な生活を営むことが可能だった。また、国際スポーツ大会での優秀な成績、そしてソ連への巨額の賠償にもかかわらず、まもなく国民1人当たりの総生産や生活水準が東側ブロック内で第1位となったという事実は、勤労者に満足感をもたらした。
 しかしやがて、西側を経済的に凌駕するという当初の目標が絵空事に終わりそうだという見方が、政府のプロパガンダにも関わらず国民の間に徐々に拡がるようになる。中央集権制と計画経済は、資源の枯渇や生産性の減退を招き、SED政権は公約の先延ばしや、西側からの巨額な借款を行わざるを得なくなった。消費財については、状況に応じ工夫して必要なものを得るという原則が支配していた。特に若い世代は、東ドイツは密告と絶え間ないプロパガンダの国と感じ、信頼できなくなっていった。国民の間では、自己決定権、共同決定権、とりわけ個人の自由と消費財の量と質の向上を要求する動きが高まった。
1980年代半ばからから、西ドイツへの出国を求めて、東ベルリンの西ドイツ常駐代表部やプラハ、ワルシャワの西ドイツ大使館を訪れる人の数は増える一方であった。ソ連で新たに権力の座についた、緊張緩和、信頼、透明性を象徴するミハイル・ゴルバチョフは、1985年から自由のため尽力した。しかしSED指導部は、ゴルバチョフの「ペレストロイカ」(改革)と「グラスノスチ」(情報公開)の勢いに染まることを望まなかった。
東西陣営の間における軍縮交渉で進展がみられ、東ドイツで改革と自由の拡大への要求がいっそう強まる契機となった。1988年初め、東ベルリンのデモで「底辺からの教会」の平和運動家120人が逮捕された。逮捕者のためにゲッセマネ教会で代願礼拝が行われ、2000人を上回る人がこれに参加し、2週間後にはその数は4000人に膨れ上がった。ドレスデンでは警察が人権や表現・報道の自由を求めるデモ隊を追い散らした。
1989年夏から東ドイツの国家体制は、目まぐるしさを増していく混乱の渦に巻き込まれていった。ハンガリーは出国を希望する東ドイツ国民に国境を開き、数千人がオーストリア経由で西側への脱出を遂げた。こうしてワルシャワ条約機構の原則が破られたことは、東ドイツの多くの人々を勇気付け、抗議行動に向かわせることになった。

西ドイツ【国土】面積は約249,000平方kmで,東ドイツ内にあるベルリンの,いわゆる西ベルリン部分を含む。人口は1983年で6,156万人
【政治と経済】西ベルリンを含めれば11州からなる。州(ラント)はそれぞれの法・議会・政府をもち,地方分権的色彩が強い。州の集合としての連邦(ブント)は外交・軍事・通貨権をもち,元首には大統領がいるが,実際の権限は強くない。議会は連邦議会(ブンデスターク)と連邦参議院(ブンデスラート)の二院制で,前者が国民から選ばれるのに対し,後者は各州代表からなっていた。外交の基本は西側自由主義諸国との協力にある。それがアデナウアー首相時代には,東ドイツの存在を認めず,東西問題を対立の状態に追い込む原因にもなった。しかし,ブラント首相以来,東ドイツを,事実上認め,オーデル=ナイセ線を東ドイツとポーランドの国境として認知した。元来,旧ドイツの工業地帯を含んで成立した西ドイツは,〈マルクの奇蹟〉と呼ばれる復興・成長をなしとげた。ルール工業地帯・ライン工業地帯を中心に,労働人口の半数が工業に従事し,石炭・鉄鋼・船舶・自動車・電子・化学など,量的にも質的にも,世界の先端をいく生産と技術を誇り,ヨーロッパ諸国を主要対象国とする貿易も盛んであった。【社会と文化】経済的な繁栄とドイツ人の秩序を重んじる性格もあって,世界でも最も安定した社会をもっている。失業率も低いが,第二次世界大戦後の特色として,イタリアなどの西ヨーロッパ諸国のみならず,ユーゴスラヴィア・アルバニアなどの東ヨーロッパやアフリカ・トルコからの労働者が多くなり,それが社会問題になっている。また,女子の職場進出なども顕著であった。
 文化水準もきわめて高く,総合大学や単科大学の内容は充実しているし,各種の研究所も成果をあげている。ミュンヘンや西ベルリンを代表的なものとする博物館や劇場・オペラハウスなどの活動も活発であった。北大西洋条約機構に属し,E. C. の中にあった
 1 1945年以前 ~ 戦前のドイツ代表 ~ ドイツ代表が初めて代表レベルでの国際試合を行ったのは、1908年のことであった。スイスのベルンで行われた文字通りの「フレンドリーマッチ」。まだ代表監督はおらず、選手は協会が招待した選抜選手たちであった。
 その後、ドイツ代表はストックホルムやアムステルダムで開催されたオリンピックに参加。初めてワールドカップに参加したのは、1934年のイタリア大会で、この時3位の成績。続くフランス大会では、再試合の末、スイス代表に敗れ初戦で敗退している。このころのドイツ代表は、ナチス政権のもとで占領地で国際試合を行ったり、オーストリアの選手を代表に選出するなど、ナチスのプロパガンダとして利用されていた側面もあった。そして1942年を最後に、戦況の悪化の中、代表による試合は行われなくなる。
   2 1950年代 ~ 戦後復興期の希望の光 ~ 敗戦国ドイツは東西に分割され、そのうち西ドイツ代表による国際試合が再び行われたのは、1950年のことである。その西ドイツ代表は、国際復帰してからわずかに4年後の1954年、W杯スイス大会にて奇跡の優勝を遂げる。戦後復興期において、この西ドイツ代表の活躍は、疲弊した西ドイツ国民に希望の光を与えるものであった。
   3 1960年代 ~ 疑惑のウェンブリーゴール ~ 西ドイツ代表が再びワールドカップで優勝のチャンスを得たのは、1966年のイングランド大会だった。しかしサッカーの母国といわれるイングランドで、西ドイツは疑惑のゴールにより失点し、決勝で敗れるという屈辱を味わう。サッカーにはつきもののホーム有利の判定に泣かされた西ドイツ代表と、判定に助けられての優勝で満足するイングランド。以後続くことになる両者のライバル関係は、この時確立された。
   41970年代 ~ 皇帝と自国開催W杯 ~ 続く70年のW杯メキシコ大会では、準々決勝でイングランドにリベンジを果たすも、20世紀の中でベストゲームの一つとして語りぐさになっている準決勝のイタリア戦にて死闘を繰り広げたドイツは、その結果3-4でイタリアに敗れるも、3位決定戦で勝利し、かろうじて3位の成績を残した。
 そして1974年の自国開催のW杯。皇帝ベッケンバウアー率いる西ドイツ代表は、すでに72年に欧州選手権を制しており有力な優勝候補の一つとしてこの舞台に立ち、とうとうホームスタジアムにて2度目のW杯制覇を果たす。決勝ではクライフ率いるオランダ代表と対戦。これも今世紀を代表するベストゲームの一つである。
   5 1980年代 ~ 自国開催の欧州選手権 ~
 確立された強い西ドイツ代表は、80年代もその力を維持し続けた。80年欧州選手権の優勝、82年及び86年W杯での準優勝は、その成果である。そして、むかえた自国開催の欧州選手権。準決勝まで進出した西ドイツ代表は、ライバルである隣国オランダ代表と対戦。最強オレンジ軍団の前に1-2で敗れ、つねにその強さを国際舞台で発揮するも、80年の欧州選手権以降、無冠のまま90年をむかえることになった。
   6 1990年代 ~ 優勝そして凋落 ~ 現役引退後、84年から代表監督となった皇帝ベッケンバウアーは、強い西ドイツ代表を維持するも、タイトルには恵まれていなかった。その彼が監督としてW杯をかかげることになったのが、90年W杯イタリア大会だった。
 1990年東西ドイツの統一とともに、ドイツ代表にもザマーらの東ドイツ出身選手が加わった。しかし、ベッケンバウアー勇退後の90年に代表監督に就任したフォクツのもとでは、世代交代が進まずチームの高齢化が進退する中、それでもフィジカルとゲルマン魂で何とかしようとするドイツが批判の対象となった。さらに、96年に欧州選手権を制したことが、こうした問題から批判の目を遠ざけてしまった。
 そして98年W杯にて新興クロアチア代表に準々決勝で敗れると、フォクツは辞任、後任にはリベックが就任するも、チームが再生することはなかった。 
7 2000年代 ~ 強いドイツへの回帰 ~ リベック率いるドイツ代表は、2000年欧州選手権を迎えたが、大会前から既にチームは分解しており、1分2敗の最下位で1次リーグを敗退するという最悪の結果を残す。
 もはや完全に崩壊したドイツ代表だが、リベックに代わって国民的な人気があるルディ・フェラーが後任の監督に就任。フェラーは、欧州選手権での選手の選出に基本的な問題はない、これに戦術理解を加えれば必ず元の強いドイツに蘇ると主張。彼らの潜在的な力が決して弱くないことを訴えた。その一方で、ダイスラー、バラック、ケールなどの若手を積極的に召集し、世代交代を効果的に進めていった。その結果、プレーオフとはいえ02年W杯本大会への切符を確保。今、ドイツ代表は、その再生に着手したばかりだ。
 本大会の会場となるのはドイツ国内12都市の12スタジアム。メイン会場と言うべき都市は、開幕戦が行われ国際放送センターも設置されるミュンヘンと、決勝が行われるベルリンとなる。
 ドイツでもサッカーが盛んなノルトライン・ヴェストファーレン州では、ドルトムント、ゲルゼンキルヒェン、ケルンといった伝統的にサッカーが盛んな都市が会場となる。また北ではハンブルクが、そして南西部ではカイザースラウテルンも開催地である。空の玄関口であり金融の中心地であるフランクフルトも開催地の一つ。また南の主要都市であるシュツットガルト、ドイツの真ん中にありシュレーダー首相のお膝元であるハノーファー、観光地としても名高いニュルンベルクも開催地となる。さらに、旧東独地区からは唯一ライプツィヒが開催地に選ばれた。ライプツィヒは、ドイツサッカー協会誕生の地であり、東西ドイツ統一後の協会再統一もこの地が舞台となったというドイツサッカーの記念碑的都市である。

※ライプツィヒとミュンヘンの試合数・試合カードに誤りがございました。お詫びして訂正いたします(2003年12月31日訂正)。

[開催12都市リスト]
 ・6試合開催都市: ベルリン(決勝戦)、ミュンヘン(開幕戦)、ドルトムント、シュツットガルト
 ・5試合開催都市: フランクフルト、ゲルゼンキルヒェン、ハンブルク、ハノーファー
               カイザースラウテルン、ケルン、ライプツィヒ、ニュルンベルク
[決勝開催スタジアム] ベルリンにあるオリンピア・シュタディオン
● ベルリン (オリンピア・シュタディオン)
将来予定収容人数: 76000人、完成予定年: 2004年6月、改築費用: 2億4200万ユーロ(国が1億9600万ユーロ、ベルリン市が4600万ユーロ負担)※2006年7月9日の決勝開催地
● ドルトムント (ヴェストファーレン・シュタディオン)
収容人数: 60000人、改築予定時期: 2004年5月、費用 3100~3600万ユーロ
● フランクフルト (ヴァルド・シュタディオン)
収容人数: 48000人、新築予定年: 2005年夏、費用: 1億2600万ユーロ(フランクフルト市: 6400万ユーロ、ヘッセン州: 2050万ユーロ、民間投資家: 4150万ユーロ負担)
● ゲルゼンキルヒェン (アレナ・アウフシャルケ)
収容人数: 52000人、2001年8月新築完成、費用: 1億9200万ユーロ(銀行コンソーシアムを通じて1億1500万ユーロのうち約80%をノルトライン・ヴェストファーレン州が負担、残りは民間負担)
● ハンブルク (AOLアレナ)
収容人数: 50000人、既に新築完成、費用: 9700万ユーロ(ハンブルク市が1090万ユーロ、外部からの資金調達が7040万ユーロ、スタジアム管理会社自己資金から1580万ユーロ負担)
● ハノーファー (ニーダーザクセン・シュタディオン)
収容人数: 52000人、改築予定: 2005年4月、費用: 6100万ユーロ(ハノーファー市とニーダーザクセン州で2100万ユーロ、銀行コンソーシアムから2000万ユーロ、市が担保保証して復興金融公庫から2000万ユーロ)
● カイザースラウテルン (フリッツ・ヴァルター・シュタディオン)
収容人数: 48500人、改築予定: 2005年夏、費用: 4830万ユーロ(ラインラント・プファルツ州: 2180万ユーロ、カイザースラウテルン市: 760万ユーロ、1.FCカイザースラウテルン(クラブ): 1890万ユーロ)
● ケルン (ライン・エネルギエ・シュタディオン)
収容人数: 52000人、改築予定: 2004年8月、費用: 1億1000万ユーロ(2550万ユーロは公共機関が負担、残りは民間負担)
● ライプツィヒ (ツェントラールシュタディオン)
収容人数: 44000人、新築完成予定: 2003年5月、費用: 9060万ユーロ(市と国が6320万ユーロ、民間経営会社が2740万ユーロ負担)

● ミュンヘン (アリアンツ・アレナ)
収容人数: 66000人、新築完成予定: 2005年7月、費用 2億8000万ユーロ(バイエルン・ミュンヘンと1860ミュンヘンを通じて、それぞれ14000万ユーロを民間レベルで調達)※2006年6月9日の開幕戦開催地
● ニュルンベルク (フランケン・シュタディオン)
収容人数: 45500人、改築予定: 2005年7月、費用: 5600万ユーロ(ニュルンベルク市とバイエルン州が半分ずつ拠出)
● シュツットガルト (ゴットリープ・ダイムラー・シュタディオン)
収容人数: 60000人、改築予定: 2004年、費用 5600万ユーロ(シュツットガルト市とバーデン・ヴュルテンブルク州が負担)
[落選した候補地]
・ブレーメン ・デュッセルドルフ ・メンヒェングラッドバッハ
・レバークーゼン(事前に収容人数の問題で条件を満たせず落選)

<各サイト利用。>


© Rakuten Group, Inc.
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