Chiropractic  健康はカイロプラクティックとともに 

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▼善と悪の境界線


予防医学のカイロプラクティック

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善と悪。。。。それを隔てるもの、それを区切る線引きは???
 善と悪の線引きはどこで引いているんでしょうか?

 その線引きは平等に存在しているものなんでしょうか?

 または個人的に線引きの場所は違うものなんでしょうか?

じっくりと善や悪という言葉を考えると、一体どこからどこまでを善と言い、どこからどこまでを悪と言うのかが分かりません。 

なのに我々は平気でその言葉を利用し、生きて来ました。 

しかし言葉というものは物凄く大切なものですし、言葉一つでどれだけ多くの人々が幸福になったり不幸に成ったりするか分かりません。

みだりに言葉が変化を繰り返し、昔使っていた言葉が使われなくなって来ると、「死語」として言葉は簡単に抹殺されて行きます。 

でも言葉の使われ方も、何十年前には「否定語」で使われていた言葉が、現在では全く逆の「肯定語」に変化している言葉があります。

 「全然」、という言葉が最近では顕著な例だと思います。

この言葉は「全然駄目だ」、「全然出来てない」、というように使われて来ました。

しかしマスメディアが、特にテレビに出ている芸能人達がこの言葉を反対に使い始めてから、あっという間に、特に若い人達が平気でこの言葉を「肯定語」にしてしまいました。

私は「全然だめだ」という言葉の使い方で理解しているので、否定語で使っています。

しかし社会的に年齢を重ねた人達でさえ、今までの習慣を破り、この言葉を反対語のように使っている現実を見ると、自分もその様にしなければならないのかという思いが心をよぎります。 

しかし私の頭が固いからこの様な事を言うのではなくて、私は言葉をもっと大切にしたいから、こういう意見を言うのです。


しかし現在社会は私の気持ちとは反対の方向に進んで行っています。 

最近ではこの様な現象は、「変だ、おかしいじゃないか、間違っているじゃないか」、という言論も世間的に起こらないようですね。

「どうでも良いじゃないか」「まあ良いじゃん」「そんな事を言ったって分かれば良いではないか」、という曖昧模糊とした判断で、この様な軽い気持ちで、人々は言葉を変化させて来ているのでしょうか? 


この様な現実と事実を見るにつれ、変化が無いのは、私の方かも知れません。 

勿論私がこの事柄に対して、言葉の曖昧さを強制されるいうことでもないと思いますが、変化をするにしても、今まで当たり前に使っていた言葉の意味が全く逆転してしまうと、今まで否定語だった言葉の意味を常に肯定語に置き換えながら喋らなければならないので、本当に困った現象だと思うのです。

この様に思う、
「困った」「良くないことだ」という心の判断、考えというものは、
私の心の基準、基盤(考えるための基本的考え)に導き出されて出てきた言葉であり、その思いです。

言葉が変化して来たことを「悪いこと」だという決め付けは、今のところ私には無い様ですが、しかし心の底に、その善悪を決めようとしている判断の規準が、うごめいている事を発見しました。 

このうごめきが私の「善悪を決める基準」になっているようなのです。

何気なく使っている「あれは良い」「あれは悪い」と判断する、心と言葉。

でもその言葉を使う以上、どこかでその言葉を選んでいる基準があるはずです。

そうでないとその判断が出来ませんし、判断が出来なくてもその言葉を利用し、決め付けることなど不可能だからです。 

だからこの「線引」きが、どこで行われているのかを知る必要があると思いました。

長年生きていると
多くの体験と共に理不尽な経験もしなければなりませんが、
その様な経験も、またそこから導き出されて来る考えなども、全て正しいモノだと言う訳ではありません。 

何事にも苦労をする事は、その人の「人格成長」にとても必然的な条件(良しにつけ悪しきにつけ)になりますから、苦労から逃げないで、頑張って欲しいと思うのは私だけでしょうか?


ところで「善」「悪」を決め付ける基準、
一人一人が持っているその基準は、どこにあるんでしょう?

あくまで私の主観ですが、それを決め付ける心の思いが存在していると思うのです。

その思いや思考を、何時も自分では気が付けずにいて、完全に決め付けてしまっているようなのです。

そしてそこから気が付けないで、導き出されているという恐ろしい理解力で、毎日を生き続けている事実を、私達は知らなければならないと思うのです。

どこでそのマークを付けるんでしょうか?

どこでその基準線を引くのでしょうか?

どうもそこには自分への「利益」「不利益」という感覚が介在していると感じるのです。

それはどういう意味かと言いますと、自分にとって「都合が良い」「都合が悪い」という判断が、かなり介在していると思われるのです。

もっと平たく言えば、「自分にとって都合がよい」=「善」「良い事」。

これに反して
「自分にとって都合が悪い」=「悪」「悪いこと」
と決め付けているのではないでしょうか?

ゆえにこれは「自己中心的思考」とでも言えそうです。

正しいものと善、正しくないものと悪。

これは正しい判断ではないと思います。

なぜならば
その思いや判断力を作ったその人の時代背景で、
その時は正しいと判断していても、実際にはその判断が間違っているという事は、ざらによくあることです。 

例えば裁判で審理がひっくり返ることがありますが、それがその事実を物語っていると思います。 

それ故に時代背景の中で、皆が間違っていると思っていた事が、本当は正しかったということも事実多い話しです。

だから今正しいと思っている事が良いこと、善であるという判断は危険です。

その時に考えなければならないことは、
正しいと思っている事柄が、自分にとって都合が良いようになっているから、また自分の利益を無くしたくないから、それを正しいものとして理解しておこう、
主張しておこう、という判断が心の中に存在していないかどうか、を深く厳しく探ってみなければならないと思います。

自分の心に
自分への 利益誘導 が有るか無いか、を判断すること。

この点に搾って心の中を見て行けば、かなり善と悪を搾り込めれるのではないかと思います。


人の考えには三つの「ち」があると言われています。

それは「血」「地」「知」の三つです。

「血」は親との関係や結縁関係・人間関係を表します。

「地」はその生まれた環境、土地を意味します。

「知」はその生まれた時の時代背景から生じた情報、知識を言います。

この三つの「ち」によって、考え方、思考が作られていると言われます。

全ての方が幼少の頃に心を形成してしまいます。

そしてこの三つの「ち」の影響を受け、
そこから生じた考えが、そして幼少の頃に形作った心を自分の思いとして持ち続け、
その思考を軸にして、大人になっているに過ぎないということなのです。

すなわち、 ものの考え方道理を決める基準が、幼いままの基準である ということなのです。

ただ判断する基準がその時期に形成されたものであるため、
その部分を変化させない限り、その人の 「心の変革」は起こり得ない という事になるのです。

だから多くの人々が、「人の心は変わらないモノさ」と平気で言い切ってしまうのも、仕方が無いことかも知れませんね。

この事実を知らなかったから、そう言い切ってしまうのです。

だから 「知らない」 ということも、
本当に恐ろしい心にさせてしまう、という状況が存在しているのです。

「知らないでは済まされない」、という事も言える訳です。


善と悪は、思考の産物だと思います。

本当は、存在していないモノだと思います。

しかし自分に都合が悪いことを悪にしてしまってから、人は悪の心を持ってしまったのではないかと思います。

言葉的に 「絶対的善」 というものがあります。

確か哲学的に言われて来たものだったと思っています。

この善は 「普遍的善」 とも言われていました。

それは どんなに時代が変遷しようと、
どんなに時間が通り過ぎようと、「変わらない善」「絶対的善」と言われるものです。

そして「善」は、「普遍」であると言われています。

「普遍」とは、「変わらない」ということです。

「愛」も、「普遍」なものの一つです。

「善」と「愛」、ここには共通している何かがある、存在しているという感覚は無いでしょうか?

私にはその中に、「神」の存在、その息吹を感じます。

「神の愛、善」は「普遍」である。その様に導かれます。

私も学生時代にこの宇宙を支配している意識、を感じたことがありました。

その時に,その支配している存在を「神」と呼ぶのを躊躇っていた経験があります。

その理由は、現在の人間が「神様」として取り扱っている存在として、私が感じている「神様」を理解し判断したくは無かったからです。

余りにも世間が「神」という名前を、軽々しく取り扱っていると感じたからです。

私は 「宇宙創造主」として存在している「意識」 、を感じたからです。

だから神社やお寺に祭っている形を、その造形物を、「神」として認める訳には行かなかったのです。

巷の神々に対しては、嫌悪感を感じていました。

ただ何時も「宇宙創造主様」という言葉を言うのは長ったらしいし、かなり神がかり的な雰囲気にもなってしまいますので、「自分の心の中で、巷の神々と区分けして、別の意味で神という言葉を当てはめよう」と、思ったのも事実です。

それ故に私にとっての「神様」は、「宇宙創造主であられる意識」だと、いうことになります。

こういうことで、私の心の意識の中に、「神様」を理解することが出来ました。

それから「普遍」の神様の「愛」を基準にして、物事を考えるようにして来ました。

勿論私の心が完成されることは、この生涯では起こり得ないと思います。

それは、人間という存在が、『未完の頂』として、生きているからだという事実が物語っているからです。


何時もこの様な善と悪の間の中で、幾度と無く転生輪廻を繰り返し「神の意識」を心として生きて行ける人生を、生きて行きたいと切に願っています。


「善」と「悪」があるから、人は成長して行けるのかも知れません。

「善だけの世界」が存在している所が、「天上界」「天国」「パラダイス」その他色々だと思っています。

そこは人を人として慈しみ、愛し協調し協力し、神様を中心に、心一つになって存在している、次元の違った世界だということが言えると思います。

「悪」の心が支配しているのが「地獄」だ、という事が言えます。

そこは「善」とは全く逆の世界です。『真逆』の世界です。

その世界は、人間がこの地球に降り立った時以降から始まり、この地球上で神の心を心として生きれなかった、「カルマ・業・原罪」を背負って生きる「魂」として、我々が創造してしまった、「神の意識と懸け離れた意識」の世界だと限定できる世界です。


それ故に
「地獄」は暗いものに成ってしまうのは、仕方の無い事実です。

神の意識を遮っていますから、その光を自ら発光する力が無いからでもあります。

その光を自らの意識が、閉ざしているのです。

それ故に人間の持つ愚かしい意識が、その様にさせている事実を理解していない魂達が集まっている磁場であり、エネルギーの集積場であると言えます。

意識が作り出す環境が天国であり地獄でもあるということになろうかと思います。

それ故に我々が今住んでいる地上界を、天国にするのも地獄にするのも、貴方や私の『意識』がそうさせるという事になります。

それだけに人はとても大きな意識のエネルギーを出すことができる存在だと思います。

人間は、神様が大宇宙だとすると、小宇宙だと言われています。

それは小宇宙と言われる我々の体の細胞や内臓の存在が、この宇宙の構造と同じだと言われているからです。

太陽系に存在しているこの体の構造は、太陽系の組織と同じものだという事を言うのです。

それが発見できれば面白いかも知れませんね。

それだけに人間の意識はとてつもなく大きなエネルギーを、発散することが出来ると言われています。


人は皆さんが考えているほど、卑小な存在ではありません。

この人生を清く、強く逞しく、清楚に生きれれば本望ではないでしょうか。

その為に長い転生輪廻を繰り返して来ているそれぞれの魂が、この三次元のこの社会で起こる様々な現象を通じ、自分を知り、自分の心の成長を促し、困難にぶつかって行く中で、心を神様の心と一体化出来るように生きるのが、本来の魂の生き方だということが言えます。


こんな事を私が言っても、信じることが出来ないかも知れませんが、でも誰もがその世界からやって来たんですから・・・。

それが理解できる時が「死の時」であるならそれはそれで仕方がありませんが、やはり今生きているこの時に、しっかりと理解して、自分の心の変革を目指し、生きて行く事が本当に大切なことだと思います。


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