
狢とは狸(たぬき)の事,アナグマとしている。
同じ穴の狢という言葉は良く使われているが,諺で言われているのは,何か問題があって人を揶揄しても,自分以外の人を敵視しても,批判しても,結局は同じもの同士ではないか。
ドングリの背比べではないか,という感じの考え方でしょうか。
もっと他に意味の取り方があるかも知れません。
正しい表現は他にあると思います。
私はこの狢の諺を,結局は同じ仲間なのに,なぜその様に争うのか?という意味で捉えています。
2003年三月十八日現在,
アメリカとイラクとの間で,戦争が起こる状態に私たちは直面しています。
軍事力という武器を両方とも持っています。その大きさの比較は,当然アメリカが世界一持っていますから,イラクは負けるのは当然かも知れません。
しかし勝つとか,負けるとかという問題が重要な結論ではありません。
勝っても負けても,そこに一体何が残るものでしょうか?そしてそこから一体何が生まれてくるのでしょうか?
戦争は改革でもあり破壊でもあります。
物事には,争う事や融和する事や,協調する事や,離反する事や,様々な人間が行う行為があります。
勿論人間だけではなく,自然界には当然の如く破壊は存在します。それは新陳代謝において仕方がない形態です。
川が氾濫するのも、自然の作用ですし、台風も自然の作用です。
その中で破壊が起こるのは、それは人間の勝手な理解でしかありません。
自然の作用は自然が行った結果でしかないからです。それを見て破壊だと言うことは出来ません。
自然はただ自然として生きているだけなのです。
私たちは安定を望みます。
安心を望みます。
それは生き続けたいから,生きている喜びを実感し続けたいから,出来るならば永遠にその状態を保ちたいから,私たちは生きたいと願うのではないでしょうか?
しかし現実的に,自然界は全ての要素を,その固体のもつ全ての要素を「循環」するという行為の基において実践しています。
それは
「 固体が永遠に固体で居続けられない
」
という意味を,この肉体五官で確認が出来る事実です。
「固体が個体で居続けられない」
というのは,命というエネルギーは,
いつかはその個体を維持する事が出来なくなるようになると云う事です。
人間であれば,不慮の事故や病気に掛からなければ
(国や文明によって変化しますが)
おおよそ八十年前後という地球時間で,固体生命の維持が出来なくなってしまうようになります。
この生命維持が出来ないことは,固体生命の終焉であり,それは肉体生命の活動を止めるという事に他なりません。
どんなに科学が発達しても,どんなに医学が発達しても,これから免れる事は誰一人出来ない事実として,認識しなければならない厳格な現実です。
それ故に何らかの原因があって,この生命維持が出来なくなってしまう現実は,誰もが経験しなければならない現象です。その原因が問題になります。
経済力を始め,文化的,医学的,あらゆる文明的な資質において,世界をリードしている国であることは間違いはありません。
イラクはどうでしょう?長い経済封鎖によって,あらゆる面で打撃を被っているように見えます。
そして,今回,サダム・フセインという大統領によって,国民は戦争の方向に向かわされてしまっています。
そしてアメリカは,ブッシュという二世大統領のもとで,イラクや世界各国に戦いをいぞもうとしています。
この二人の指導者の喧嘩によって,どれだけの人々が喜び,苦しむ事になるのでしょうか?
喜ぶ人間はどれだけ居るのでしょうか?
イラクにその様な人はいるのでしょうか?
アメリカにその様な人はいるのでしょうか?
仮に喜ぶ人とはどの様な人を差すのでしょうか?
1. 世界の軍事産業界
2. 勝った方の石油業界
3. 勝った方の大統領
4. 勝った方の国民であり、戦かわなかった国民
5. 勝った方の国民であり、戦った人が居ても怪我や死亡をしなかった人の家族
6. 勝った方の国民であり、自分の国は強いんだと自慢する人
7. 負けた方の国民であり、圧制を受けていた人々
8. 負けた方の国民であり、自由になったと思う人々
9. 勝った方の経済界、これで金儲けが出来る
10. 負けた方の経済界、これで潤う
このほか一杯あるでしょう。
戦争が引き起こす問題は,悲劇,悲しみが必ず襲ってくると云う事です。
それは皆さんが理解している通り,戦争が原因で起こり、争い事が原因で起こる、不慮の死です。そして不慮の怪我です。
しかし不慮という以上、思いもかけなかった事として理解する事が出来ます。
でも本当にどの争いも、
「思いもかけなかった」という判断が出来るものでしょうか?
戦争が、思いもかけず行われると言う事はありません。
この戦おうとしているアメリカとイラクの間にも、戦争回避に向けて努力はしていません。
既に戦う敵意で満ちています。
それは互いが互いの利益を考えているからに他なりません。既に情報は行き届き、どうなるかは理解できる範囲だからです。
何事にも「原因」と「結果」は両輪の如く付きまとっています。
「結果」は「原因」になり,またそこから現れた「結果」は「何かの原因」と成って両輪のように一緒に動くものです。
ですから,いつも「結果」は止まる事はないという事になります。
すなわち,原因も結果も常に「変化している」という事になって来ます。
この事実を踏まえて、我々が理解している考え方の中に
(我々が気付かずに、考え方の判断として利用している思考の中に)
自然と凝り固まった理解力、思考力、記憶、等々が私達を動かしている事に気付かれる事だと思います。
私たちは教育を受けて、自分達が今住んでいる地球上の歴史を学びます。
その国の歴史や世界史を、教育によって勉強し、世界の状況を把握するための材料として(判断する材料として)勉強からもたらせられる知識を受け留めています。
これらの知識は、その国によって歪められ、誇張されるケースもあります。
学ぶ人達をどの様な人間にする事が出来るのかは(その国の指導者によって,その国のイデオロギーによって)
様々に変化して行くものです。
その為に、多くの理解力を受け取るための行動を、
だれ一人、間違わずに行う事が求められているのです。
しかし、これにはとても不可能に近いくらいの困難が横たわっています。
どうしても人は、それぞれの国に住まなければならないからです。
その国の状態、国の考え方、国の意識というべきものが、その国に生まれた人の意識を、「国の考え」に染めさせてしまうものです。
これは仕方がない現実です。
全ての人々は、両親によって、肉体を与えられています。
これは現実的には、 「自分が望んでその両親の下で生まれている」
という、未だ理解されていない事実の範疇で、判断が出来るものです。
自分の意志で、この世に生まれさせてもらい、自分の意志で生きようとしている、 という事実を話ししています。
いまそれを理解する必要はありません。
理解出来なくてもいいのです。
必ず理解する時が訪れてくると思います。
ところで、どうしても誰もがそれぞれの国に住まなければならない現実は、否定する事は出来ません。
そしてその環境から受ける影響は、知らず知らずの内に染み込んで来ます。
それは、真っ白な状態で生まれて来た私たちの心に、ゆっくりと時間を掛けて、その国の習慣思想や歴史から流れてくるその国の思念のエネルギーを、私たちは受け止めて来ています。
それ故に、その国の国民として考える人間が出来上がって来るのです。
その国の言葉が、大きな影響を「私」という存在に与えます。「言葉」が人を最初に、認識させる道具になります。
「言葉」によって、人は考える行為を身に付け、行動を起す思念の「表現道具」にさせます。「言葉」が、人を幸福にさせたり不幸にさせたり、いろいろな道具に変化します。
そして人は、言葉だけではなく、肉体が持っている「五官」の作用によって、認知力を高めていきます。
それは認識となり、またその学習意識の中で、その人の行動を規制するかも知れない知識や記憶に、「自分」という認識を確立していきます。
そうして人はその国民となり、その言語を操り、自分を世界の中のその国の人間として認識して行きます。
既に、その影響から、人は他人と自分を形成してしまいました。国同士だけではなく、自分以外を他人として認識してしまいました。
この認識が、私たちの人間関係においての大きな障害、障壁として、目の前に立ちふさがってしまいました。
この延長線上で、私たちは、自分を考えの中心に置いて思い、人との対比をする人生を形成してしまいました。
現実的に、人間だけではなく、全ての生命意識が転生輪廻している事が理解できるのならば、人はこの様な争いごとをする事は出来ません。
なぜならば、人は、国など持たない流浪の旅人だからです。
国がなくとも、人は生きて行けるのです。
しかし人はその可能性を否定しているだけなのです。
長く続く人間の歴史が、自分勝手な判断で作られている歴史が、さも事実のようにエネルギーを持って人の意識を支配しています。
その事実を理解せず、それをそのまま鵜呑みにして、その知識を正しいものとして、変更する事もなくそのまま事実として認識させています。
人の歴史は、過去の歴史事実を変更させる事は決して出来ません。
しかし、過去の歴史を「学びの道具」として認知しているのなら、その歴史を通じて、同じ誤ちを繰り返さないとする思いを持つ事は出来ます。
その思いを、実行する事も可能です。
歴史を、その流れを変えさせることが出来る。
これは、人間が持っている、大きな力なのです。
過去を反省し、その学びから現在を改め、そして未来を過去の影響から現実化されるのを防ぐ事が出来るのです。
これが出来るのは、この地球上では人間だけです。
そして人間として生きている貴方は、その中の一人です。
もうこれ以上、人が多くの過ちを犯さないように、
この過去の歴史から何を学ぶのかを貴方は考える事が必要でしょう。
そんな事なんかどうでも良い。自分が今幸せだったら、世界がどう変わろうと関係ない。
それも貴方が持つ意見です。それはそれで正しいのだと思います。
しかし人間として生まれて来た以上、そこには未だ貴方の認識力では理解できない隠された意識が存在している事を、今の貴方では認知が出来ないだけのことです。
仮に一生を勉強しつづけても、記憶や知識が全ての現実を理解していたとしても、それをどの様に活用するのかがとても大切な行為になると思います。
自分の為だけに活用するのか、人のためだけに活用するのか、両方に活用するのか、それは思考力を持っている人が、自分の意志で決定しなければならないのです。
同じ穴の狢。
私も貴方も何ら変わる事のない人です。
長所短所も持ち合わせている人です。
所詮私達ができる事は大きなことは出来ません。
しかし自分が出来る範囲でいいのですが、何かをしたい、何か世の役に立つ事をしたい、その様な思いを持つことは、本当に尊い志だと思います。
尊い志を持つことも、自慢するんではなくて、自分でそれを意識しないで生きて行ければ、人としての幸せを感じるかもしれません。
いつかはこの肉体は動かなくなります。
今生きている間に、多くの人々が悲しむであろう事が目の前に起こりかけているのなら、そしてそれを防ぐ事が可能なら、それを防ぐ人に成ろうではありませんか?
戦争を肯定する人は一人も居ません。止むを得ず行うのだというのは詭弁にしか過ぎません。
その詭弁を自分の正しい意見だと思っているのは、欺瞞という心が支配しています。
自分の心を偽らずに、それを生き通して行くことで、人として生きている実感が湧くのかも知れません。
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