ココ の ブログ

考える葦(5)

考える葦(5)

 太古から連綿と続いて来ている地球上の生き物は、時代時代の環境に適応し棲み分けながら形態を変え機能を変え現代にまで来ている。その中でも人間は考える能力に長けていたが故に万物の霊長として君臨している訳である。考えることで敵を倒し同族が生き延びて来たのだ。相手よりも少しばかり上の知識で相手の弱点を見出し、そこを突いて配下にし或いは奴隷にし家畜にし繁栄した社会を築いて来たと言えよう。その人間の現代社会での世界人口は60億人強と言われる。それが多いか少ないかは昔との比較でしか言えないが、食糧自給率からすればトントンと言える。何故なら餓死者が出ても人口は一向に減らないからだ。

衛星写真(01)
衛星写真(01)

 文化的な生活や、より快適な生活が出来ている民族の割合からすれば、過半数は劣悪な状態だと言われる。それでも人間は死なずに生きている。過酷な生活状態でも人間は生きて居られるのだ。文化や文明の違いで単純に生活程度を比較は出来ないが、先進国と言われる地球上の10%程度の民族は他の90%の民族の犠牲の上に成り立っていると見ても間違いは無いだろう。お蔭さまで日本人は、その10%に入っている。有難いことなのか背徳的な立場に居るのか微妙な処だが、文明だけでは幸せとは言えないから一概に先進国として喜んでもいられない。

衛星写真(02)
衛星写真(02)

 ここに、グーグル・アース(NASAの人工衛星)で観た住宅地がある。ボクの住む住宅団地だ。欧米や東京・大阪のような大都市の処はもっと鮮明に写し出されるが、ここのように大阪の隣の県の住宅団地は未だこの程度の鮮明さでしかない。これとは別にストリート・ビューというのがあって、大都会だと道路から観た家の姿形が風景写真として観える。ボクは友人知人の家を時々これで観ている。自分の設計した建築作品のビルも観られるから便利である。昔なら神の目だったものが今では自宅のパソコンで観ることが出来るのだ。人間は限りなく神に近付いていると言えよう。

衛星写真(03)
衛星写真(03)

 昔は人が空を飛ぶことなぞ天使でない限り不可能と想われていた。地の果てにあるような遠くの声を聴くことが出来るのも神技だった。動く画像までもが瞬時に(場合によっては数秒遅れの状態で)観ることが出来るなぞ誰が想っただろう。今や月に行った人までが居る時代である。人間はそういう体験をして益々神に近づき傲慢になった。次は地球をコントロール出来ると信じる馬鹿な連中までが出て来た。地球温暖化を謳う連中だ。温暖化を食い止める方法なぞと狂気の沙汰を平気な顔をして世界会議まで開いて世界の人間から税金を徴収しようと言い出しているのである。詐欺師も此処まで来れば一流の政治家と言われるのだから呆れる。

衛星写真(04)
衛星写真(04)

 結局のところ「人間は、馬鹿だから考える葦になる必要があるのだ」ということであろうか。考えることで弱い葦が一般の葦とは違うのだと言ったところで究極が核爆弾を何万発も持って世界の指導者に成ろうとする程度の頭しか無いとなると、それは矢張り究極の馬鹿だ。自分で自分の首を絞める生き物なんて人間しか居ない。宇宙から自分の家を観ることが出来るようになったのは宇宙から敵の動きを監視する為に研究開発された低次元のモラルから生まれたものでしかない。高度な文明なり文化を持った生き物は仲間内で殺し合いなぞしないものだという幻想を抱くのは自由だが、そもそも生き物は海で一本の管から生まれ派生して行ったに過ぎないのに、自分のことを考える葦だと自負している。原点を忘れてはならないのだ。

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