ココ の ブログ

小説「猫と女と」(3)

小説「猫と女と」(3)


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 「ねえ、時間ある?これから出て来ない?」会話が途切れたのを気にする様に女は言った。「これから?」「ウェスティン・ホテルのロビーで待ってるワ。一緒に食事でもしない?」「事務所の方は?」「もう一寸したら揚げる積もりヨ。所長も出掛けているし」「じゃ、一時間後に」女とは二週間ぶりだった。娘の迎えとマンションの処分手続きにニューヨークへ行った後、やつれた顔で帰国した時の顔とは打って変わった明るい顔をしていた。尤も、ニューヨークのマンションの件は飽くまでも推測に過ぎなかった。が、女が折角の海外旅行なのに少しも嬉しい顔をせず逆に暗い表情であった事やデザイン事務所の脱税容疑が修正申告で済んだと所長がわざわざ言ていった事、更にはこの一年で知り得た事務所の経営状態で推測出来るのだった。それは自社ビルのテナントが減って行ったり毎月の様に所員が慌ただしく入れ替わっているのを観ても明らかだった。


 女が事務所の事を何も言わなかったが、近々、ビルを引き払い近くの貸しビルに引っ越すという話が所員の口から出た事でそれは決定的だった。単なる引っ越しとは違う。マンション以外に自社ビルまで処分せねばならない状況にまで追い込まれていた訳だ。女の表情以外にも所長の苛立った言動からそれは感じられ、偽装離婚であるにせよ今と成っては実質的な夫婦関係を継続させる理由は経済問題でしか無いのだろう。そうなれば女の方が強かで割り切り方が早く、かつての恋慕の情なぞ消え失せた元夫との関係なぞ、娘の存在だけで繋がっている様なものだ。彼等の関係がどうであれ私には一人の女と一人の仕事関係者に過ぎず、男が私に抱く気持も大した問題に想えず、女もわざわざ元夫の前で私に親しげに話し掛ける仕草でそれを助長させる。刺激が欲しくてそうするのか、それとも仕事が欲しくて媚を売るのか知らないが大いに刺激にはなる。


 「事務所、引っ越すんだって?」レストランの席につくと躊躇わず訊いた。「ええ、そうなのヨ。あの人、言わなかった?」「何も聴いていない。所員が話していたので分かった」「近くのビルなので電話番号は変わらずそのままヨ。でも、新しい事務所には私は行かない事にしたの」「ほう、どうして?」「だって、もう会社は倒産したも同然ヨ。今だからこそ言えるけど、あなたの仕事の方は先月で終えたから良かったものの、中途半端になるのだけは嫌で、ハラハラしながら見ていたのヨ」「そうだったのか・・・。だからニューヨークのマンションも処分した訳だ」「ええ、そういう事。娘が最後に一番長く住んでくれた様なものネ」「高く売れた?」「差し押さえになっていたから・・・、税金や手続費用で全部消えてしまったワ」女は何の未練も無い様な表情で淡々と言った。既に財産分与を終えている彼女に何も手に入るものは無く、今後の新事務所に彼女は何も期待していないのだろう。


 「これから先、どうする積もりだい?」「当面は、家でブラブラするだけネ。娘は就職するでしょうけれど・・・」「英語が生かせる会社?」「そうネ。旅行会社なんかに当たっているワ」そんな会話をしながら軽い食事をとっていると、ふと中年夫婦と言うよりも愛人同士が楽しそうに食事している光景に観えるのでは無いかと想った。しかし、今時そんな風には誰も想わないだろう。世間では中年アベックが食事をしている光景なぞ有り触れ過ぎている。そう言えば、十年程前に梅田のターミナルですれ違った昔の恋人とターミナル・ビルのレストランで食事した事を想い出した。女は結婚していた。相手は医者だと言った。「子供は?」「居ないワ」「相変わらず遊び回っている様だネ?」「嫌ねえ、こう観えても専業主婦ヨ」「シャンソン、まだ歌っている?」「歌っているワ。そうだワ、チケットを買ってヨ。来週、祇園でディナー・ショウをやるの」


 チケットなぞ要らなかったが、事務所の方に送ってくれる様に言って、改めて女をシゲシゲと観察した。ステージ映えする派手な顔つきはしているが、もう往年の張りのある表情ではなかった。サングラスで隠していても小皺が分かり、頬は垂れている。それでも十年も遭わなかったのに、つい最近別れたような錯覚に陥りかけた。こんな女に熱を挙げていた頃があったのが懐かしくもおかしかった。妻の方が美人だと想った。別れるべくして別れたのが当然だと想い返し、それじゃあ何故わざわざ食事に誘ったのかと自問自答してみた。多分、別れた男と今の夫とを比較させて迷わせようという下心が在ったのかも知れない。それ程、自信があった。女の男を判断する基準は学歴や仕事の社会的地位だけでしか無かった。言わば頭の悪い女ながら男の気を惹く小悪魔的魅力を持って居た。それに振り廻される真面目な男が多く、真面目から程遠い私なぞ女は半分警戒していた筈なのに、私が現れたせいで彼女を失った男も何人か居た。


 それが一種のゲームの様な感覚で楽しかった。「そろそろ別れようか。婚約したんだ」バーの近くの蕎麦屋で女とうどんを食べている最中に私は言った。女がパラリと箸を落としたのを覚えている。その時、女がどういう返事をしたか覚えていないが、かなりの衝撃を与えた様だった。数ヶ月後、バーのクリスマス・パーティーに婚約者を連れて行った時、女も居た。既に女は立ち直っていた風に観えた。私との関係を知って居る友人達は婚約者の手前、女に気を使っていたが、婚約者にはかつての恋人だった事を事前に話してあった。女に婚約者を紹介すると「綺麗な人ネ」と女はポツリと言った。それから十年が瞬く間に過ぎた。京都を離れて大阪で新婚生活に入り、直ぐに子供が出来た。そいういう事もあって京都の夜の世界から次第に足が遠のき、祇園で遊び回っていた独身時代が嘘の様に想える様になっていた。そして更に十年が過ぎて五十近く成った今、決して若くは無いのに、デザイン事務所の女と食事をし女の表情に可愛さを感じている。(つづく)




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