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水道橋で宝生会の能を鑑賞 「葵上」葵上 というのは光源氏の最初の妻詳しい話はこちらでhttps://www.10000nen.com/media/48040/牛車がどうしたこうした という面倒な話はさておき葵上は、光源氏の愛人である 六条御息所(ろくじょうみやすどころ)に妬まれ、憎まれる存在でありましたその六条御息所が、生霊、物の怪として葵の上に取り憑いたそれを強力な法師が祓う、というのが能のお話ですつまり生霊版エクソシストですね能の舞台では生霊、悪霊の六条御息所が主役となります六条御息所は、はじめ女性の面をつけてくるのですが、後半、その本性を表し、鬼女般若の面、大蛇の鱗模様の装束となりますそれに対し、行者が数珠を擦り鳴らし、悪霊退散!と言わんばかりに経を唱える抗う悪霊「いかに行者 はや帰り給え」「帰らで不覚したまうなよ」行者の唱える経には密教の呪文も含まれていたような「たといいかなる悪霊なりとも 行者の法力尽くべきかと 重ねて数珠を押しもんで」 のうまくさんまんだばさら・・・ようやく悪霊は最後は屈服して、しずしずと引き下がる行者vs鬼女 の闘いは緊張感がありましたね数百年前から繰り返されてきた光景なので重みが違いますよ目をパチクリしてみていました 👀というのも その前の演目 木賊(とくさ) というのが眠くて 眠くて おまけに 寒くて 冷房がやっとこさ目が覚めました間にあった狂言も面白かったですけどね映画「陰陽師」の野村萬斎さんが出ていましたできれば野村萬斎さんの行者が見たかったな効き目ありそう 笑狂言師と能楽師は、テリトリーがまるで違うのかなご興味のある方は40分ぐらいから悪霊祓いがはじまりますので御覧ください
2023年09月21日
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あまり人気のない明治神宮ミュージアムにて乃木希典展をやっていましたよく見るこの写真ですけど写真の両脇には東郷平八郎による「忠君義烈」渋沢栄一による「・・・・」忘れましたの書が書かれていました東郷平八郎の字は達筆でしたが、渋沢栄一のは私でも書けそうな字でした 笑この写真は最期の日に撮ったものだったかなこの日、妻とともに自刃します明治天皇の大喪の礼が行われた日の20時頃のことでした殉死したということです当時、世間は大騒ぎしたそうですが乃木はスパルタ教育で知られた玉木文之進の弟子でもあります玉木文之進は吉田松陰の師でもあるつまり乃木希末は吉田松陰の弟弟子にあたるふたりともやることが過激というか・・・乃木神社には玉木文之進と吉田松陰を祀る一画もあったように思いますこちらは乃木家の家紋ですピンときた人もいるでしょうけどいま日曜ドラマでやっているvivantで使われているものと同じです主人公の堺雅人の名前も乃木でしたそんなわけで、乃木は最後まで日本を裏切らないのではという予想テロ組織 テント の首謀者である乃木の父はどうなる?別班とテントは手を組むのではなかろうか堺雅人はそのほうが国益になるとの判断からそうするのでは明治神宮のミュージアムは素晴らしい建築でした森を愉しむだけの空間もありますメディテーションするにも良さそうなところ人もほとんど来ないですしhttps://www.kanebako-se.co.jp/works/view/488建築は立派なのですが、そこから見える森の景観はいまいちでね自然に任せた森とはいえ、いくらか格好良くしたらいいのにそれからトイレ室のデザインが素晴らしかったいまだかつて、こんなに素晴らしいトイレ空間は見たことがないです利用者が少ないので、今のうちに行ってみたらと思います この二枚はiPhone撮影色味が嘘っぽいけどまんずまんず拡大しなければ大丈夫新型iPhone15だったらもうちょっといけるでしょうね
2023年09月14日
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能の体験教室に行ってまいりました 能は古くは 申楽(猿楽)と言いい、明治以降に 能 と言わるようになった能は 式楽(儀式のための芸能)とされていて天皇 貴族 が主に雅楽を式楽とするのに対し、武家が能を式楽とした能では、リハーサルのようなことはあまりせず、即興的なものを重んじるジャズのセッションみたいなものだとか3日間の公演があったとしても、3日の間、毎日違う作品を演ずる歌舞伎のように、一ヶ月通して、同じ演目をやることはない一期一会で、その日を演じきるのだそうでさていよいよ台本の読み 謡 を、先生のあとを追ってやってみました先生の声が強烈にでかいのでびっくりした オペラ歌手かと思ったぜよ (*_*;腹の底からでかい声をだすことが大事みたいですねしばらくやったら汗をかいてしまったこの鶴亀というのを謡ったのですけど教えてくれたのは若先生だったので、もっと声に威力がありました舞の方も演りました膝をちょっと曲げてお尻を跳ね上げる胸を開いて肩は脱力して肘をややはる親指は自然に丸くなった人差し指にちょっとかかるくらい足は揃えてまっすぐ そして親指に意識をもっていく扇子をもつときには小指に意識をこれが基本の姿勢のようで 武道にも通じるとか間違ってるかもしれませんけど・・・私はなんせ初めて聞いたのでね勘違いしている可能性もあるので適当に聞き流してくださいそれから 摺足 ですこれが結構難しくてなかなか前に進まないよ方向転換もしてみたけどむずいなんて不便な歩き方だろうしかし演ってみると 演者の動きが今まで以上に分かるようになった気もする当日は、白足袋か白靴下をもってこいとのことだったので白靴下をもっていったがちょっとやっただけで、新品の靴下もそれなりにくたびれた摺足だと足で床を掃除しているようなものですからね装束と能面もみせてもらった装束と衣装の違いについて装束はすでにあるものを人に合わせていくもの衣装は人に合わせて作るものだったかなこの辺もあやふやな記憶さてその装束だけど 綺羅びやかな橙色のもの 刺繍も絢爛豪華お値段は、買った当時250万くらいで、いまはその2・5倍くらいだとか能面は江戸時代のもので、値段は付けられないとか面を持つときはCDのように端っこを持ちます 耳のあたり顔に指紋がついたりしたらよろしくないので能面はよくみるこういう顔でした 増女 江戸時代 16~17世紀 国立博物館にて撮影昔の美人というのはこういうタイプだったらしいですよこんな顔したタレント 今いますか?思いつかないのだけど目が切れ長で細めで・・・もうこの時点でなかなかいないですよねしもぶくれで鼻が大きいのか いや 口が小さいのか顎はややしゃくれぎみ似た顔の人がいたら教えてください
2023年04月23日
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を見続けておりますが序盤から中盤までは、源頼朝を演じる大泉洋があたかも主役のようで本来、主役なはずの北条義時役・小栗旬は脇に甘んじている感じにも見えた演出もコント風で、大泉洋のキャラのせいもあってか、おもしろおかしく演っていたのだがそれがよかったり、悪かったりで、少々退屈なときもありしかし、頼朝の死後演出を変えてきて、話はシリアスなものになった それすらも三谷幸喜の遊び心なのかもしれないけどhttps://www.youtube.com/watch?v=LpAjR0er4Jc&list=PLcynJ47QaWNvduEgYAo-iz8L3EyGHOE0j北条義時を演じる小栗旬も、役柄を変えてきた以前の彼は頼朝の下で、戦乱の世の過酷な運命に振り回される純情な青年であったしかし、いまや鎌倉を牽引していく剛の者厳しい場面でも、頼朝様ならこうしたはず、と非情な決断をする以前は、後に妻となる女にいちど振られて、涙を流して泣いていたこともあったそんな人のよい若者が、他人の命を容赦なく奪うときもある、辛辣で練達な政治家となっていくまるでサイコパスのように振る舞うが、この時代の長は、そうならざるをえないところもあったしかし、義時にはまだ”迷い”がある久しぶりに出会った仏師運慶が、義時に 若いときに比べて顔が悪くなった と言ったがその”迷い”がまだ救いである、とも諭していた義時はこのあと朝敵となってしまう後鳥羽上皇 朝廷側 と対立していくいわゆる 承久の乱 1221年 義時は後鳥羽上皇に「西国の武士といくさをさせ 御簾の隙間から御覧ください」と挑発その戦いに勝ち、武家政権を本当の意味で歴史に根付かせていく貴族から侍の世へと時代を変えた人ですね朝敵となった、という一事のせいか時代がくだり、身分の上下を重んじる朱子学が隆盛した江戸時代になると義時の評価は、御用学者たちにより、地に落ちた新井白石は「我国始まって以来最も徳に欠けた者」とした大日本史には「臣下のそのまた家来が天皇を押さえつけた 天地も閉ざす暴挙である」とあるしかし更に時はくだって、幕末勝海舟は「北条義時は国家の為には、不忠の名を甘んじて受けた 即ち自分の身を犠牲にして、国家のために盡くしたのだ 俺も幕府瓦解の時には、せめて義時には嗤われないようにと 幾度も心を引き締めたこともあったっけ」と述べた義時も朝敵になることをまるで気にしなかったわけではない承久の乱のさなか雷が義時の館に落ちた時があってそのときには「私の運が縮まる兆しだろうか」と不安になったようです義時は昔から気になる存在でしたこれから小栗旬演じる義時がどこまで骨太な政治家になっていくのか、見ものですね若いときの演技からの変わりよう、その落差はなかなかのものでした少々騙された感すらある 浮世ではガーシーになにかと晒されたりしている小栗旬ですがこういうダークな役所をこなしていければそんなものはたいして怖くないよさて鎌倉殿ではもうひとり触れておかずにはいられぬ役者さんがいました善児 という刺客の役演ずるのは 梶原善 という人 善と名にあるのに悪を演ずるという 笑いつも、ひそみ眉で、なんともいえぬ哀しげな顔をして、淡々と殺しの任務を遂行するこちらはまるで迷いがない まさにサイコパス系の恐ろしい役でしたしかし、前回、ついに命果てた刺客の善児にも人の心が垣間見えた瞬間があった皮肉なもので、その隙きを狙われて命を落としてしまった実に不気味な役でしたhttps://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/08/29/kiji/20220829s00041000113000c.html鶴岡八幡宮 参道鎌倉には暗い歴史がたくさんありますね
2022年08月30日
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戦国時代の最後の戦、大阪の陣天下取りに王手をかけた徳川家康その最後の障壁となった豊臣秀頼日本の頂点を決めるこの戦いは、オランダとスペインの覇権争いとも深くつながっていたスペインを後ろ盾とする宣教師たちは、勢力挽回のため豊臣家に肩入れした「秀頼様は自由な布教と教会の建設を約束してくださった 皆が秀頼様の勝利を望んでいる」宣教師たちは豊臣方につくようキリシタンの武将達にも働きかけた全国から信仰心厚いキリシタンも結集豊臣軍は総勢10万の大群に膨れ上がっていたキリシタン勢力は武器の調達においても活躍した決戦の舞台となった大阪城では、今大規模な発掘調査が続いているが地下から現れる豊臣軍の軍事基地の痕跡 そこから作りかけの鉄砲玉が発見された大阪城下では戦の最中、銃弾の製造が行われていたのだそれを可能にしたのがスペインとつながるキリシタン商人であるキリシタン商人は弾の原料となる鉛をかき集め、大阪城に運び込んでいたのだ決戦の火蓋が切られた四方から大群で攻め寄せる徳川軍しかし、豊臣軍から一斉射撃を浴びせられ、大阪城には近づくことも困難であったここで家康は起死回生の策を打ち出す大砲による大阪城の直接攻撃であるしかし、大阪城は徳川軍の陣地からは最短でも500メートルの距離、従来の大砲の有効射程を超えていたこの時、家康が頼みの綱としたのがオランダの大砲であった当時の世界最新式のキャノン砲オランダの大砲は大阪の陣の最中に家康のもとに届けられた砲弾の威力は凄まじく、天守閣と御殿を直撃 多数の死傷者を出す総大将秀頼は戦意を喪失、豊臣家がついに滅亡する150年にわたる戦国の世に終止符が打たれた大阪の陣は、オランダとスペインの覇権争いにおいても転機となったオランダ東インド会社が、待望の銀を手にする決定打にもなった「家康様に大砲と砲弾を納品した」「代金は銀貨12,000枚にのぼる」家康の信頼を勝ち得たオランダ年々取引高を伸ばし、最盛期には年間94トンもの銀が日本から運び出された小さな商業国だったオランダが、ついに大国スペインに対抗しうる力を手にしたのである勢いづいたオランダはスペインとのさらなる戦いに乗り出していく植民地争奪戦である舞台となったのは東南アジア 香辛料の特産地モルッカ諸島海上交通の要で、マラッカなど重要な貿易拠点の多くはスペインが支配していたオランダはこのスペインの植民地を奪い取る計画を立てる鍵となったのは、戦国日本から輸出された驚くべき商品であったオランダ国立公文書館には日本を出発したオランダ船の積荷リストが残されている火縄銃や槍、日本刀等、戦乱の中で性能を高めた日本製の武器はかっこうの商品であったがさらに、武器とともに数多く記されていたのが日本人の名前であるひとりひとりに細かく給料が定められていた彼らの正体は金で雇われ海外の戦場で戦う傭兵 日本の侍たちがいわば商品として輸出されていたのである背景にあったのは、日本の戦国時代が幕を閉じたことであった天下太平の江戸時代が訪れると、それまで戦をなりわいとした多くの侍が失業新たな戦いの地を求めていたのであるこの侍を植民地争奪戦に用いたのがオランダであるスペックスのもとに東南アジアの総督府から救援要請が届いた「スペインとのと戦争に導入するため、勇敢な日本人を可能な限り送ってくれ」スペックスは日本の侍を数百人規模で雇いあげようと画策その実現のため家康との直接交渉に乗り出したオランダから武器を入手し利益を得ていた家康は、スペックスの申し出を特別に許可した「家康様に日本人傭兵の出国許可を願い出た とても見事な兵士を届けることができるだろう」日本人傭兵を手にしたオランダは、スペインが支配するモルッカ諸島に狙いを定めるモルッカ諸島の特産品の香辛料の価値は、同じ重さの銀に匹敵すると言われ、莫大な利益を生み出す商品であったスペインはモルッカ諸島の各所に堅固な要塞を築き防備を硬めていたオランダは長年、その攻略を試みるが、果たせずにいたこの時突破口を切り開くために送り込まれたのが侍だったのであるオランダが建てたモルッカ攻略作戦の記録が残されていたまず軍艦が夜の闇に紛れて要塞に接近、絶え間なく攻撃を加えるスペイン軍が釘付けになっている隙に、歩兵隊が密かに上陸夜が明けるとともに敵の死角から攻めいった先陣を切ったのは侍たち 鎗や日本刀による接近戦で敵を切り崩した侍たちの決死の攻撃で要塞は陥落オランダは勝利を手にした「日本の傭兵はオランダ人以上に勇敢だった 彼らの旗が城壁に最初に掲げられた スペインをアジアから駆逐するには、日本人傭兵が大きな助けとなる」侍の力を得たオランダはスペインの植民地を次々と奪取して、貿易ネットワークを大きく塗り替えた世界の海をゆくヨーロッパ船の、実に4分の3にオランダの旗が翻ることとなるオランダは戦国日本と結びつくことで、世界の覇権を手にしたのである戦国時代は、日本と世界が初めて本格的に出会った激動の時代戦国武将たちの天下をめぐる戦いの背後には、ヨーロッパの大国の秘められた思惑があった一方、戦国日本が見出した議員や侍もまた世界の歴史を大きく動かしていたのであるオランダ、アムステルダムにて今また戦国日本が世界に大きな影響与えた証が見つかっているオランダ東インド会社が製造した大砲にX線を当て金属の成分を解析したところ、極めて不純物が少ない銅であることがわかった世界各地の銅のデータと比較したところ、大砲に使われていたのは日本の銅であったことがわかっている日本の銅を使った大砲が、ヨーロッパの戦争に投入されていたのだ1618年からの30年戦争オランダはこの戦いに勝利した敗北したスペインの没落は決定的なものとなった宗教の時代から、経済の時代へ国境を越えて人やものが行き交う中で、世界史の大転換が起こったのである日本とヨーロッパがつながったことである現象が生じたそれは、新たに出現したグローバル経済を最も効率的に利用したものが勝利した、ということである戦国時代の日本はまさに世界史の最前線であった新たな時代の扉を開いた戦国日本私たちは今 ひとつにつながった激動の世界に生きている以上で、テレビでやっていた番組 戦国日本 の話を終わりますああ 疲れたたまにはおかたいお話もいいかなと思って始めたけど年内に終わってよかった次は何にするかなユング心理学の簡單なまとめをテレビでやっていたのでそれでもやるかしらん
2020年11月20日
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こちら の続きオランダ船、漂着の半年後に起きた関ヶ原の戦い総勢20万人とも言われる大群が戦った天下分け目の決戦スペインの宣教師の記録にも、その様子が記されている「徳川軍が打つ嵐のような弾丸 瞬く間に光成たちの軍は総崩れとなった オランダの武器を手にした徳川軍 その火力は圧倒的だった・・・・・・・」 しかし、家康にとって、まだ大きな障壁が残っていた父秀吉から莫大な遺産を受け継いだ豊臣秀頼である秀頼の下には豊臣家に忠誠を誓う武将たちが結集していた同じ頃、ヨーロッパでもオランダとスペインの戦いが新たな局面を迎えていた1602年 世界初の株式会社、オランダ東インド会社が設立された東インド会社の特許状が今も残っている本来、国が持つ様々な特権が、ひとつの会社に託されていたことがわかっている外国の領主と独自に条約を結ぶ権利、兵士を雇い要塞を築く権利、さらには貨幣を作る権利まで最前線に立つ商人に強力な権限を与えることで、迅速な海外進出を目指し、宿敵スペインに打ち勝とうとしていたこの世界初の株式会社は、戦国日本に正式な使節を送り込んだオランダ東インド会社商館長 ジャック・スペックス この時代ヨーロッパに君臨していたのは各国の国王、そしてキリスト教の指導者であるローマ教皇であった彼らが求めたのは領土を広げ、信者を増やすことであったところが商人たちが作った国、オランダの目的は全く違う領土や布教ではなく、純粋に利益のみを追求した東インド会社を通じて国中から資金を募り、世界各地に貿易船を送り出したそしてオランダが注目したのが戦国日本であった 当時スペインは、新大陸の植民地で多くの巨大な銀山を開発 世界の生産量の8割を占めていた銀の力によって世界経済で優位に立ち、強大な軍事力をそれによって支えていた一方、新興の商業国家オランダはスペインに対抗するため銀の独自の入手先が必要としたオランダはスペインの銀の独占を切り崩したいと考えていたそのチャンスを得られる特別な場所が日本だったのである16世紀にヨーロッパで出版されたドラードと言う日本地図には「銀山王国」と記されていた戦国時代の日本は銀の産出国として知られていたのである日本の銀を手に入れるために、オランダ東インド会社は、有能なビジネスマン ジャック・スペックス を日本に送り込んだのである今回見つかった資料から、スペックスが日本の銀について調査していたことがわかる「この国の銀山から我々が必要とする銀、全てを採掘できる可能性がある」「秘密裏に佐渡の銀山を調査せよ」 佐渡には日本最大の銀山があった当時、佐渡では激しいシルバーラッシュが生じていたこの銀山の開発を進めたのが徳川家康である家康は豊臣家に対抗する資金源として銀を重視した関ヶ原の戦いの後、いち早く佐渡を抑えていた家康が幕府を開いた時、日本で一番勢いのある銀山であった佐渡はどれほどの銀があったのか今調査が進んでいる戦国時代末期、家康が採掘を進めた坑道を調査家康は5万人の労働者を佐渡島で働かせ昼夜交代して働かせていた佐渡全体での埋蔵量は2300トンを超え、世界トップレベルの銀山だった家康は佐渡を始めとして、全国各地で次々と鉱山開発を行っていった日本の銀の生産量は急速に拡大し、年間100トンを超える世界の生産量のおよそ3分の1を占めるようにもなった調査の結果、佐渡の銀は、スペインの銀以上に純度が高いことも判明した日本の銀を狙うオランダのスペックスしかし当時、良質な銀を国外に持ち出す事は禁じられていたスペックスは家康との交渉に乗り出した「私たちの商品と引き換えに日本の銀をただきたいのです」スペックスは家康が好む商品を入念に調査して献上品として用意していた美しい毛織物 色とりどりのガラス 最高級の鏡・・・しかし家康は「オランダは戦が得意であったな 兵器こそ持って来い」家康がより強く求めたのは兵器であったスペックスはすぐさま準備にとりかかったオランダ東インド会社の貿易ネットワークを駆使し、兵器をかき集めたオランダの動きに合わせたのがスペインである負けじと家康のもとに使者を送り込む ロドリゴ・デ・ビベロビベロは家康との交渉に有効なカードを持っていた鉱山技師である最先端の技術を持つスペインの技師がいれば日本の銀の生産量をさらに増やすことが可能であったところが「鉱山技師を発見するには条件がございます 新たに採掘した銀の半分はスペインのものとすること」「キリスト教の教会を建て、宣教師を置くこと」スペインはただの商人ではない 聖職者もついてくる彼らにとって、キリスト教の布教と貿易は表裏一体であった彼らは、キリスト教の布教も許せ、との一点張りであったそこには隠された狙いがあったビベロが密かに国王に送っていた文書が残っている「日本には数多くの銀の鉱脈があります この地に侵入するのは極めて有益であります しかし、軍事力に秀でた日本を征服するのは容易ではありません キリスト教の布教を進めるべきです キリシタンの数が増えれば、家康の死後、陛下を新たな王と仰ぐことでしょう」 スペインの野心を察知したオランダは家康に訴える「スペインはキリスト教を広め、キリシタンの反乱によって国を崩し征服しようとしている フィリピンもメキシコもこの方法で支配下に置おき、植民地にしてきたのです」 この言葉でスペインへの不信感を募らせた家康は交渉を打ち切ったさらにキリスト教の全面的な禁止に踏み切った各地で厳しい弾圧の嵐が吹き荒れた布教の道を絶たれたスペインは新たな策を講じる宣教師たちが目をつけたのは大阪の豊臣家家康と敵対する豊臣秀頼に接近したのであるそれぞれの思惑が絡み合う中、戦国最後の合戦が始まろうとしていた日本の銀をめぐってしのぎを削ったオランダとスペインなぜそこまでして銀を求めたのだろうかその理由は経済の仕組みの劇的な変化、現代まで続くグローバル経済の誕生である大航海時代、アメリカ大陸で大規模な銀山が見つかると銀貨が大量に作られたこれこそ世界中で使われるはずの国際通貨であった銀貨によってヨーロッパの商人たちは、東南アジアの香辛料や、中国の陶磁器など、世界各地の商品を購入できるようになりヨーロッパ、アジア、アメリカが銀によって結ばれ、国際貿易が活性化 地球規模のまったく新しい経済が誕生したのである銀をめぐって争ったオランダとスペインその行く末を決める舞台となったのが大阪の陣であった続く・・・同じクリスチャンでも、プロテスタント系のオランダはスペインとは違って、貿易とキリスト教とを分けて考えていたようですねそれゆえ、日本が鎖国されてからも、オランダとは交易が続いたのでしょう次回で最後になると思います
2020年10月12日
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こちらの続き世界帝国スペインを後ろ盾とする宣教師たちはアジア征服計画を続行する最大の目標は中国当時、高価な陶磁器や絹織物、金や銀などの貴金属に溢れ、世界一豊かな国とされていた日本の軍事力を利用した中国の制服計画を建てる彼らは、秀吉に働きかけた「秀吉殿下は日本を平定した後は、どのように?」・・・宣教師 ガスパル・コエリヨ「明国への出兵」・・・秀吉天下統一を目前にした秀吉、次なる目標と語ったのは、奇しくも宣教師の狙いと同じ、明国への遠征であった宣教師はこの機会を見逃さなかった「我らの軍戦をお貸ししましょうか? キリシタンも意のままに動きましょう」・・・宣教師 1592年 中国制服の足がかりにしようと始まったのは朝鮮出兵キリシタン大名を先陣とする大部隊が海を渡った日本軍の猛攻撃を受けた朝鮮軍は劣勢を強いられるこれに対し、中国の明が朝鮮に大規模な援軍を派遣する戦いは激化し、推定で74万人が動員される大戦争となった最前線で戦うキリシタン大名の犠牲が急増しかし、これは秀吉にとって戦略の一環だったと考えられている朝鮮出兵で中国の制服を目指した秀吉は、実はもう一つの思惑を秘めていたキリシタン大名を最前線で戦わせることで消耗させ、軍事力を弱体化させようとしていた拡大したキリシタン勢力を脅威と捉え、その力を削減しようとしていたのだこれに先立ち、日本ではバテレン追放令が出され、キリスト教の布教も禁じられていたさらに宣教師たちにとって想定外の事態が生じた秀吉の野心が、当時スペインの植民地であったフィリピンにも向けられたことを知ったのである「日本の密偵が放たれている」「秀吉の狙いはフィリピンからスペイン大に送る大量の金である」「秀吉は高慢と野心の塊で、世界を簡単に支配できると考えている」とバチカンの文書にはある秀吉の狙いはスペインの富であった制服王フェリペ2世の植民地を奪うことで、朝鮮出兵の戦費をまかなおうとしていたのだフィリピンの状態を知ったヨーロッパの超大国スペインは、一触即発に備えて警戒を強めた有史以来人類が体験したことがない未曾有の事態だったアジアを発火点に、最初の世界戦争が起きようとしていたのだしかし1598年、緊迫した情勢は一変するスペインのフェリペ2世が急死するその5日後、日本の豊臣秀吉が死去日本軍は朝鮮半島からの撤退を決定する宣教師達が抱いた中国征服計画もこれで幕を閉じたのだった・・・この後、戦国時代の日本は、新たなプレイヤーを迎えることになるヨーロッパの新興国オランダ そして家康超大国スペインはフェリペ2世の亡き後、世界各地で行っていた征服戦争が裏目に出て、国力が衰退それとともに、オランダ、イギリスが新興国として台頭したのだオランダは家康と手を結んだスペイン帝国の宣教師達は豊臣家とつながるオランダとスペイン 両国の狙いとは? それは日本の銀であった ジャパンシルバー当時日本は世界の3分の1の銀を生み出す銀山王国であった覇権争いの鍵となる銀を求めて、激しい攻防が繰り広げられていたさらにオランダとスペインはアジアの植民地をめぐって激突この時、最前線で戦っていたのは、進化した武器を携えた日本人傭兵、日本の侍であった戦国日本は世界の歴史を動かす大きな力となっていたのである日本はまさに世界史の最前線だったのだオランダはもともと商人たちが作った小さな国であったそれがまたたくまに世界の覇権を握っていくようになるそこには戦国日本で繰り広げられていた徳川家と豊臣家の戦いが深く関わっていた日本に滞在したオランダ商人が書き残した資料があった平戸オランダ商館文書である戦国武将の懐に入り、利益を得ようとするオランダ商人たちの姿が記されていた「徳川家と豊臣家の間に戦争が起こるという確かな情報を入手した」 「必ずや家康鮫に大砲と鉛を売り込んでみせる」オランダ商人たちは戦国時代の日本にビジネスチャンスを見出していたのであるオランダと戦国日本の運命の出会いそれは偶然から始まった1600年4月19日嵐に襲われて難破した貿易船が命からがら日本にたどり着いたのである船には銃が5百丁、弾が5千発、火薬300キロが積まれていたこのオランダ船に目をつけた人物が徳川家康である家康は自ら生き残った船員たちを尋問したウィリアム・アダムス、ヤン・ヨーステンこのときの詳細なやりとりが記録に残されている。「日本に来た狙いは?」「貿易です。我々の武器を買えばあなたはより強くなるはずです。」豊臣家に対抗するため軍事力を強化していた家康オランダの提案はまさに渡りに船であった「面白い。その方ら、このわしに仕えんか?」家康は船員たちを家臣として召し抱えることに決めた船に積まれていた大量の武器弾薬は家康の手に収まることとなったオランダが日本に来た背景には、ヨーロッパ情勢の劇的な変化があった大国スペインの支配下にあったオランダが、圧政を逃れるべく、独立を宣言。激しい戦争を始めるしかし、スペインの力は強大であった世界中の植民地から莫大な富を吸い上げ、無敵艦隊を始めた世界有数の軍事力を有していた独立間もないオランダは、劣勢に立たされるこの時オランダが打ち出したのが貿易による富国強兵策であった海外で商品を売って資金を稼ぎスペインに対抗できる軍事力を持とうとしたのであるオランダと日本の出会いは、歴史を大きく動かしていく続く・・・オランダの3色の国旗はこのスペインからの独立戦争のときに作られたデザインですその後、それを真似して多くの国が三色の国旗を作ったとかチコちゃんでやってましたねそれにしても「我らの軍戦をお貸ししましょうか? キリシタンも意のままに動きましょう」これって神父の吐くセリフとは思えないですよね(笑)家康の家臣となったオランダのウィリアム・アダムス彼はクリスチャンだったのですが、プロテスタントだったのですね・・・スペインのカトリック宣教師達の悪口を相当家康に吹き込んだと思われますさて、今後どうなっていくのでしょう秋も深まりゆくこの頃やはりクラシックがいいですねもの悲しきメロディー・・・この曲を紹介するつもりだったのですがいったい どうしたんでしょう この動画なんだかこの曲のイメージがすっかり変わってしまいましたまあ 綺麗だからいいですけどね(笑)シンデレラ姫かしらん (??д?)ちょっと魔法じみた感じ🎃
2020年09月26日
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四つ目のカブラル の続き未曾有の戦争多発地帯となった戦国時代の日本宣教師は予想超える日本の軍事的発展を驚きを持って記していたバチカンに残る文書には「日本は絶え間なく軍事力を高めている」 とある最新の調査から、当時の日本で空前の軍事革命が起きていたことがわかってきた最大の変化はヨーロッパから伝わった鉄砲。国産化が進むなか、急速な技術革新が生じていた銃身の断面を放射線で調べてみると、鉄に含まれる不純物が、外国産のものより均等に分散していることがわかったこれは銃身の強度に安定をもたらすその秘密は鍛造と言われる技法にあった この技は日本刀の制作で磨かれたものである鉄を鍛え上げることで強度を飛躍的に高めたのだ火薬を大量に詰めても銃身が歪む事はなく、その爆発力を弾丸に伝えることができて、鋼鉄製の甲冑を容易に射抜く破壊力があった日本の鉄砲はヨーロッパと異なる独自のイノベーションを遂げていたのであるさらに、日本では鉄砲が「大量生産」されていた信長の直轄地であった大阪の境で、鉄砲を作っていた職人たちのリストが見つかったパーツごとに「分業性」がとられて大量生産が行われていたとみられている戦国日本にあった鉄砲の数は30万丁に及び、世界一の銃大国になっていた世界でも突出した軍事大国であったのだ宣教師たちは信長の天下統一は後押しする一方で、日本の軍事力を詳しく分析していた「日本は強大な軍事力を持っている。日本の力は利用する価値がある」戦国の日本をより大きな世界戦略に組み込もうとしていた安土城の瓦と同じ青い瓦を許されていたのが、安土城下に建てられた神学校である信長と宣教師たちの深い関係がうかがえるその裏で密かに征服計画を抱いていた宣教師たち彼らの計画を加速させることがヨーロッパで起きていた。スペインにて。征服王と言われたフェリペ2世がポルトガルを併合したのである。これは世界情勢を大きく塗り替える出来事であった。当時スペインは無敵艦隊と言われる約30隻の軍艦を用いて世界有数の海軍力を誇っていた。そのスペインがポルトガルの広大な植民地を飲み込み巨大帝国が誕生したのである。フェリペ2世が下した命令、アジアの制服に尽力せよ。このことが戦国の日本を大きく揺るがすのである。アジア征服計画「我々の最大の目標は中国の制服である。それはスペイン国王の権力の発展につながる」当時の中国は明と言った。アジア最大の人口を抱えていた。キリスト教がアジアを席巻するためには、この国の制服が不可欠と考えられていた。鍵は世界屈指の戦国日本の軍事力であった。「スペイン国王が行う中国征服事業のため日本は非常に有益な存在となるであろう」当時日本は中国に比べて非常に好戦的な国だと考えられていた宣教師は日本の軍事力を利用すれば中国の制服も可能だと分析したいたアジア征服のため日本の軍事力を利用しようとする宣教師たち、宣教師がもたらす軍事物資を使って天下統一を目指す信長、しかし、両者の蜜月は終わりに近づいていていくさて 出ましたここで信長の重大発言「我神にならん」天下統一を目前に自信を深めた信長キリスト教の神ではなく、自分こそこの世の支配者であると宣言した宣教師たちは、信長は意のままにはならない、と戦略の立て直しを迫られ、新たな計画に乗り出していったその舞台は中国に近くキリシタン大名の多い九州宣教師は長崎港一帯をキリシタン大名から譲り受け支配下に置くさらに最新兵器、大砲を九州に持ち込み、軍事力の強化を図ろうとしていた九州は宣教師にとって制服計画を始めるためのプラットフォームであった宣教師が蓄えた軍事力は信長にとって大きな脅威になっていくこの頃、日本のキリシタンは九州を中心に100,000人に増加信長の想像を超えた大きな勢力に成長していた宣教師の真意を問いただす信長「貴様ら、この国で何をしようとしているのか?」宣教師は答えた「われらは日本人の心を盗みに来たのです。悪魔の手から霊魂を救うため」・・・宣教師 グネッキオルガンティーノ緊張を孕んだ両者の関係は、突然の事件によって断ち切られる本能寺の変このときの様子を宣教師がつぶさに記録している「信長は襲撃を察知できていなかった。薙刀で戦った後、銃弾を受けた。」信長の死後も、宣教師の計画が止まる事はなかった山崎の戦い宣教師が勝利するとにらんだのは豊臣秀吉であった。宣教師は高山右近らキリシタン大名に対し秀吉側に加わるよう働きかけていた。右近たちが勝利すればキリスト教の勢力拡大に有利に働く。宣教師は情勢の変化に期待していた。目論見通り、秀吉が勝利した後、政権の中枢には多くのキリシタン大名が名を連ねた黒田官兵衛、高山右近、蒲生氏郷、黒田長政、小西行長秀吉の時代には日本のキリシタンは30万人を突破した新たな政権のもとで宣教師たちの計画が加速していった世界帝国スペインと宣教師たちのアジア征服計画はさらに進んでいったのだった続く・・・結局、信長は、キリスト教には染まらなかった、ということですねオルガンを聞きに神学校には足を運んでいたようですが彼にとっては多くの興味の対象の中の一つでしかなかった宣教師の神は天地創造の神 唯一神 デウス 信長の考える神は、しいていえば、神道的、多神教的な神霊 八百万の神々(複数形)ここには大きな隔たりがある宣教師たちは日本を軍事力で直接攻めるのは諦めていただろうなんせ当時の日本は世界屈指の軍事大国だったのでねこれは信長の功績だったといえるかもしれないあとになってみないとわからないことがたくさん
2020年09月11日
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最近、カトリックの総本山バチカンで戦国時代の日本に関する貴重な資料が公開された日本を訪れた宣教師達の記録である記録のはじまりは1549年 まさにスペインのフランシスコ・ザビエルが来日した年にあたる宣教師達は世界をキリスト教の国にする使命を担っていた日本でも極秘の諜報活動をして、各地の日本人キリシタンから政治情勢についても情報を得ていたその情報網を取り仕切っていた宣教師が、フランシスコ・カブラルザビエルから数えて四代目の宣教師の首長日本では、四つ目の伴天連、四つ目のカブラル、とも言われていた当時、メガネをかける人間が日本にはいなかったので、メガネをするカブラルが四つ目に見えたのだとかカブラルは布教の拡大を図るために、各地の戦国武将との接触も試みていたそのなかで、最も有力な候補者と考えたのが織田信長であった信長はもともと弱小国の部署であったが、鋭い判断力と慎重さを持っていた、と記録には記されている1572年、カブラルは初めて織田信長の屋敷を訪れるカブラルが「信長殿に布教活動の後押しをしていただきたい」と言うと信長は「考えておこう」と答えたその3年後に 長篠の戦い が起こった長篠の戦いは、信長の鉄砲隊と武田の騎馬隊の戦い、というふうに言われているが、武田の古文書によれば武田軍も鉄砲を使用していたらしい長篠の戦いは実際には 鉄砲vs鉄砲 の戦いでもあったのであるでは戦の勝敗を分けたのは何だったのか近年、出土した信長軍の鉄砲隊の弾は、科学的分析によりタイ国の鉛でできていたことがわかったつまりは海外産だったのだしかしタイは日本から4000キロも離れているどうやってタイの鉛を日本に持ち込んだのだろうかバチカンの宣教師の記録によると、タイの鉛はカブラルの命によって日本に運ばれていたことがわかったカブラルは布教を後押ししてもらうために、信長への多大な軍事支援を行っていたのだ宣教師たちはなぜそこまでして布教活動をしようとしたのかその背景には、世界の覇権をめぐる争いがあったヨーロッパのキリスト教勢力と、オスマン帝国に代表されるイスラム強の勢力との争いである1571年 レパントの海戦で、キリスト教勢力がイスラム教勢力に勝利したその勢いから、キリスト教勢力は全世界を支配下に置こうとしていたインド・ゴアでは武力で制圧し、国民を強制的にキリスト教に改宗させることもした改宗を徹底させるために拷問まで行われたとか抵抗するものは柱に縛りつけられ鞭で打たれ、手首を切り落とされることもあったらしい日本の宣教師達にとって最大の障壁となるのが仏教勢力であった「日本の坊主たちはキリスト教の最大の敵だ」という記録がバチカン文書に残っている特には石山本願寺がキリスト教の布教にとって大きな弊害であったと同時に、信長にとっても厄介な存在であった石山本願寺の隣にある大阪摂津の領主は、高山右近というキリシタン大名であった宣教師は高山右近に信長側に味方するように働きかけた 1578年それによって戦局は変わる右近を中心に、一万人を超えるキリシタン勢力が石山本願寺に相対することとなったこれにより信長は石山本願寺勢力を制することができた高山右近はスペインの聖イグナシオ洞窟教会の壁画に、キリスト教に身をさ捧げた人物として、フランス国王、スペイン総督の隣に描かれているカブラルは信長をキリシタンに改宗させようともしていたそうすることで日本人は素早くキリスト教に改宗できるだろうと思っていたカブラルは信長に言った「ゼウス様のみが国を支配する力がある 天下統一を望むなら、デウス様に仕えるのです」信長自身は改宗しなかったが、一族や家臣がキリシタンになることは認めた信長の真意とは?バチカン文書にはこんな記録も残っている信長と秀吉との会話秀吉いわく「宣教師たちは秘かに征服計画を進めています」これに対し信長は「案ずるな やつらの野望にはまだ時がかかるであろう」と応じた信長は宣教師の計画を察知しながらも、軍事物資を得るために手を組んでいたと考えられるキリスト教勢力の力の増すことが秩序を乱すリスクではあったが仏教勢力に対抗する駒とみてそのリスクに目をつむっていたのだ続く・・・NHKの番組より要約
2020年08月31日
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広島城後ろの建築物が興ざめですけどお城 正面から お城が神社になっている この日は1月2日 初詣客で賑わいます萩城も神社になってたけど、あそこはまるで人気がなかった近くの松陰神社にみんな行ってしまうのかなとなりの岡山県 備中高梁に飛びます山城の松山城へ歩いて登ると50分くらいのところに、ようやく城の石垣が見えてきます岩山の上に石垣をつ作った自然の要塞右下のほうが大きな岩になっているのがわかりますでしょうか階段を登りつめてようやく頂上へ小さな天守閣があります売店とかは一切ないね ここは・・・人影もまばらよくもこんな山の上にこれだけの石垣を積み重ねたなとこの城は昔、忠臣蔵の大石内蔵助が訪れて管理していたこともあります穴の空いた壁 そこから鉄砲を打つためのもの城から街を見下ろすとこんな感じちょっと見にくかった城を降りて、備中高梁で有名な神楽面最中を頂きました結構大きいお店には神楽面が並んでいた
2020年01月29日
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