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歌をつくりたい



 歌をつくりたいといつも思っているのだがなかなか思うように言葉を見つけることができない。こういう情景は歌にできるな、と思うことは多い。そういう情景や、あるいは、自分の思いなどを5・7・5・7・7という制約の中で詠うのは容易ではないが、ずっと思いを集中しているうちにふいに言葉がつむぎ出されることがある。

 他の人のつくった歌もたくさん読みたい。自分で少しでもつくり始めると、よくわかる。自分には到底読めないということだが…

 歌でなくても、気にかかる言葉は全部書きとめている。

I just called to say I love you.
(ただ愛してるといいたくて電話したよ)

情けないほど 恋しくて
時計ばかりを 眺めては
君の時間を 追いかける
(BEGIN)

君を思へば

わずらひも照る日にとくる
朝の露
(島崎藤村)

 1942年、加藤周一、福永武彦、中村真一郎らはマチネポエティックを結成。日本語による頭韻や脚韻を含む韻文詩の試みがなされたことがある。そういう制約の中での表現に憧れるがなかなか自分では作れないでいる。

定型、経験について
 俵万智は、五七五七七という定型について次のようにいう(『あなたと読む恋の歌百首』)。

「短歌は、五七五七七という定型を持つものだが、その中身は伸縮自在だ。日常のなかのささやかな感動から、一生に一度のような大きな感動まで、受け止めて表現できる深さが、この定型にはある」

 要は中身である。ラテン語の詩を作って生きたいといっていた研究室の先輩を知っているが、今はその気持がよくわかる。まったくの自由ではなく、制約の中で表現を試みるのがおもしろい。

 しかし、人生のいわば現場に出たことがないのに、ただ想像だけでは詩も短歌も作れないであろう。加藤周一がいうように(『読書術』岩波現代文庫)、モーツァルトを聞いたことがない人には小林秀雄の『モオツァルト』はむずかしいであろうし、恋愛経験の一度もない子どもたちにとって『曽根崎心中』はたとえ筋がわかっても肝心なところはわからずじまいということになる。

 他方、経験があれば歌を詠めるわけではない。短歌論の類を読んだことがないのだが、想像は短歌においてはどれくらい許されるのか。小説の場合、経験したことでないと書いてはいけないなどとは誰も思わないだろうし、「私」が主語になっていても作者の経験がそのまま語られていると読む人は少ないだろう。

つきつめば君が好きてふただこれを…
 俵万智の『言葉の虫めがね』(角川文庫)

「すべての相聞歌は、言ってしまえば「あなたのことが好きです」ということである」

 しかし、本当にそのことを心から伝えようとするならば、技巧ではなくて、「力強くて新鮮な材料」がいる、と俵はいっている。

 では、そのような材料は、どうしたら手に入れることができるか。

「抽象的な表現ではあるけれど、「一生懸命生きること」それしかないと思う」。

 俵が引いている歌の中で気に入った歌。

 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思いけるかな(藤原義孝)

 一分一秒でも共に生きたいという気持ちはよくわかる。



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