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若い人に何を教えるか



 田中美知太郎は学生の頃教わったギリシア語の先生を回想して、

「先生は授業が終わって帰るわたしをつかまえて、うまいコーヒーをのませるから、おれの家へ来いよと誘ったりした」(『時代と私』)

といっている。

 上野千鶴子がある私学で昼の一部の最後のコマと夜の二部の最初のコマとをつなげてリピートで講義をした時、二部の方が力(りき)が入っていると両方を聞いた一部の学生が二部の常連になったという話を書いている(『サヨナラ学校化社会』)。

 若い学生をだめだというつもりはさらさらないが、講義でも講演でも(医療系の学校だと)臨床経験のある学生の真剣度はそうでない学生よりも強いし、育児の真っ只中という母親は食い入るように話を聞いている。僕の書いた必ずしもわかりやすいとはいえない個所もある本をすぐに読み通すのもそういう母親であることが多い。

 上野は、授業の後、二部の学生たちと駅のそばの飲み屋で飲んで、わずかな非常勤給(これは本当にわずかだと僕も強調したい)をパーにした、といっている。学生の一人が「授業でいちばん楽しんでんの、先生や」といってくれたことをうれしいといっているがよくわかる。自分でおもしろい話しかしないというのは僕も同じである。この間ある学生が「みんな先生の講義かっなり楽しみにしている」といってくれてうれしかった。

 若い人にはどんな講義をすればいいのか。これはいつもむずかしい問題である。以前、神戸のある大学で哲学史の講義をしたことがあるが、この時は百人上の登録があったにもかかわらずレギュラーは十数人で、がっかりした。しかしそのわずかな学生は休むこともなく熱心にノートを取り、試験は文句なしの優だった。

 僕が講義していたのは哲学史なので、タレスは万物の根源(アルケー)を水だと考えたというような話をするしかないし、それに学問とは必ずしもおもしろいものでなければならないとは考えてはいなかった。すぐには日常の関心とは結びつかなくていいし、実用的なものでなければならないとは考えていなかった。

 しかしそれではだめなのだ、と思ったのは三十代になって心理学を学ぶようになってからのことである。もとより学生に迎合するつもりはないのだが、学生の関心を離れた講義を(哲学であれ心理学であれ)しても意味がない、と思い始めたのである。

 そもそも哲学も心理学も人が生きることを離れてはありえない。学ぶことで何らかの意味でその人の生きかたに影響を及ぼすのでなければ学ぶ意味はないといっていい。そんな講義をするためにどんな工夫をすればいいか、考えた。

 まず難解な言葉を使わない。これは意外にむずかしいことである。しかしどんなに難解な思想もきちんと理解していれば必ず平易な言葉で表現できるはずである。

 藤澤令夫が「卒業論文の季節」というエッセイの中で、古代ではアリストテレスを扱った論文の方がプラトンのそれより晦渋であり、全般的にはドイツ観念論関係のものが総じて難解である、として、例えば、

「経験は総合判断であり、直感が悟性概念の下に、判断力により包摂されねばならぬ。この包摂を媒介するものは超越論的時間限定、即ち、図式である。この限定は…」

といった文章については、

「それは一体どういうことかを、カントの用語をはなれて自分の言葉でもう一度説明してみよ、と(卒論の口頭試問で)問うことにしている」

といっている(藤澤令夫著作集VII、岩波書店)。

 上野千鶴子は、社会学学概論という「だれも関心をもたない科目」を短大で担当したが、

「社会学者の固有名詞を一言も言わずに社会学概論をやろうと決めました」

といっている(『サヨナラ学校化社会』太郎次郎社)。既存の社科学を押しつけようとしたらたちまちだ学級崩壊が起きる。だから、たとえば学生の日常経験の中にあるアイデンティティとか親子関係という主題を選んで「現実がこんな道具で切れるよ」「あなたの抱えている問題はこうやって解釈すればこういうふうにとけるよ」という話をしたという。

「発見や知的生産とは、集めてきた断片的な情報のなかからジグソーパズルの絵柄がだんだん見えてきて、あるときその最後のピースがスパッとはまって「そうだったのか!」というような、すごい快感をもたらすものです」(前掲書)

「理論とはおもしろいものです。机上の空論などと言いますが、あるカテゴリーを立てたときに世界がまったく相貌を変えて見えてくるのは、ハマる価値のある快感です」(前掲書)

 こんな喜びに自力で到達するように(必要があれば)援助することが教育である、と考えている。このような話なら学生も興味をもって聴いてくれるであろうし、話す側も楽しめる。先に見たように上野は自分がおもしろいと思うことだけを話そうと決めたのである。



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