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ゆのさんのボーイズ・ラブの館
14-2・・・向暑
決して大柄な体格ではないものの、背筋をぴんと伸ばした姿勢良い立ち姿は
2学年上級の先輩にも負けない威圧感をアピールする
同情すべきは日樹にではなく高原の方にだと、微かに棘のある中西の見解だった
確かに傍目で見ていれば納得できなくもない
あまりにも切迫している最近の高原の行動は、3年間
部を共にしている者にでさえ近寄りがたい
それを遠慮なしに日樹のせいだ、と中西は言う
「ちょ、ちょっと待てよ中西! 運が悪きゃ諸藤は選手生命を失ってたかも知れないんだぞ」
「でも現実には失ってないわけでしょ」
「ま・・・そうだが」
「事故は起こるべくして起きてしまった 先輩たちが罪の意識を感じるのは勝手ですが
高原さんまでが責任を感じる必要なんてないんです」
今まで皆が心に蟠りを残していた
複雑な思いがもつれ絡み合い、時の流れの中で静かに修復を待ち、
わずかでも解れてくれれば良い、そう願うしかなかった
そうすることで罪の束縛から放たれるからだ
誰の心にも重々しく圧し掛かる事故だったはずなのに
躊躇なく核心に触れる新参者によって、こんなにも簡単に紐解かれていくとは
全く以って意識下になかった
1年生部員の中で一歩秀でた実力を持ち
目立たぬ容姿でありながらも真面目で裏表のなさそうな瞳、
落ち着いた身のこなし
その体中から常に自信が溢れている彼の口調は穏やかでも容赦なしに相手を刺す
中西に異論はない
「走りたければ、諸藤さんがここへ戻ってくれば良いことだし、そうでなければ追う必要もないでしょ」
「う・・・・」
佐伯と糸川は、中西に返答できない
きっと、あの日も
この部室で同じように部員たちが談笑していたのだろう
ただ残念なことに、話題は日樹を蔑視するような内容だった
もし日樹が、ここにいる中西のように自分の感情をあらわに出せる人間だったら
全てが違っていただろう
今さら遡れやしない
後輩を前にし、二人は塗り替えることのできない澱んだ過去を悔やむ
ただその場に居合わせてしまい、たった少しでも日樹に嫉妬を抱いたことがある為に
間接的に事故に関わったと己を戒めずには居られなかった
糸川も佐伯も他の部員も、そして高原も
皆同じ気持ちのはずだ
「美談に作り上げても何も変わりませんよ」
美談・・・
そうだ、そうでもしなければ罪の重さに堪えきれない
たった一つの逃げ道だったからだ
誰もが避けて触れなかった真実
それをあえて無関係の人間が冷静かつ公平に着目し審判を下す
「・・そうかもな」
やがて佐伯が小さくため息を発した
すでに陽はぐっと西へ傾き
隣並びの部室の物音も聞こえなくなっている
賑わっていたグラウンド使用の部活もすでに終了し、生徒達もほどんど下校済みのようだ
いつかは消えてなくなる
心の片隅に残りはするものの、記憶は必ず薄れていく
糸川、佐伯らとその下の代の学年が卒業してしまえば
陸上部も、事故とはもう無関係の人間ばかりになるのだ
「だいたいわかりました」
聞き知っていた通りだった
いっそ恨んでくれた方が当事者たちにとってはどれだけ気が楽だったろう
一方が静かに身を引いたつもりでも
実は逆効果、相手の胸中に大きなしこりを残している
この連鎖に気づきもしない
事を履き違えた偽善者
哀れだ・・・
そんな意味を込めて中西が冷笑しながら俯く
大人びた言葉選びをするこの少年も、数ヶ月前まで中学生だったとは殊更信じがたいこと
目立たない存在
誰もが抱くその第一印象
それは故意的に自分の存在を制御しているせいなのかもしれない
「そんな一件から、高原が諸藤を守っていたんだが・・・」
断片的な噂、一連の流れで欠けている部分を得て繋ぎ合わせることさえできれば満足だった中西は、
足元に置いた私物のバックに手を伸ばしていたが
続く話が興味をそそったのか、その手の動きをピタリと止めチラリと視線だけを返す
「“番犬”と、まで噂になっていた、あれですか?」
校内の一部では随分と知れ渡っている、体格の良い高原を番犬にたとえた噂
そして中西は再び糸川と向き合う
あくまでも先輩に対する敬意は忘れない律儀な後輩
「あれだけ諸藤をガッチリガードしていた高原だったのに・・・今は互いを避けているようにさえ見えるんだ
二人の間に何かあったんじゃないかと・・・」
「単純に仲違いでもしたんでしょう」
気持ちが良いほど簡潔即答は呆れ顔を隠せない
ここでいくら憶測しても事実とは合致しないからだ
その上、ここで論議しなければいけないのは二人の関係がもつれた原因などではないということ
「そういや中西知ってるか?最近になって野球部の1年が諸藤の傍にまとわりついているらしいが」
「・・・野球部の一年・・・?」
「背の高い、投手ポジションの奴だ」
野球部1年、背の高い、投手・・・
ご丁寧にそこまでの検索キーワードを並べられれば必然的に該当するたった一人の人間が特定される
自分のクラスメイトだ
果たして糸川がそれを承知でかまをかけてきたのかを察するには唐突過ぎ
「なら、なお更のこと
諸藤さんの行動が納得いきませんね」
不覚にも動じてしまった自分を悟られないように破顔一笑を試みる
外は宵闇
診察時間も終わり、面会時間も終わろうとしている待合ロビーは
照明も落ち、非常灯だけと薄暗く静まり返り人影も見えない
面会人及び来客の出入りはこの時間になると警備員室のある裏口からとなる
ロビー片隅に設置されたジュースの自動販売機
時折モータが唸りだす音とその灯りだけが皓皓とその位置を主張している
院内を清掃する業者の人間が、日中は患者でごった返すロビーに
今日一日のドラマを思い描きながら作業を始める
大学付属病院となれば来院患者数も半端ではない
救急で搬送されてくる患者
長い入院生活、仲間と病室を抜け出て気分転換のひと時を過ごす患者
ロビーで恋人との面会、全快しての慶ばしい退院
避けられない悲しい別れ
ここには、日頃健常者にとっては全く無縁の世界が存在し
それぞれのドラマが繰り広げられている
この数日間、このロビーの決まった位置の長椅子に深く腰掛け
面会時間が終わるまで、ただじっと一人過ごす少年を目にしていた
闇の周囲に同化し、気配の無さについ見落としがちだが
確かにその存在はある
場所だけに、この世のものではないのか?と
思わず息を殺して見つめてしまったこともある
まさか、そんな時間にはまだ早すぎる
注意を払えば僅かに体勢も変化している
安堵してもう一度見直せば、この近辺で見かける学生と同じ制服
間違うことなく生身の人間だ
誰かと待ち合わせをしているのか
それとも面会者の付き添いだろうか
相手がよほど重病で、ここまで来ながら面会を許されないのだろうか
こんなことが何日も同じように続けば否が応でも気に留めてしまう
普段なら、すれ違う患者や面会に来ている子供らに声をかけたりするのが仕事の合間の楽しみだった
瞳を閉じたままずっとその場から離れることなく
毎日毎日同じように同じ場所で変わりなく時間を過ごしている彼の
耳を澄ませば闇の静寂の中に息遣いだけが聞こえてきそうだ
いつもなら彼が帰った後、彼が座っていた辺りの拭き残しをモップがけし、
それを最後にその日の仕事を終えていたが
今日は孫との約束があるため早く仕事を切り上げたい
少年は気配に気づいたか、ゆっくりと瞳を開き、無表情な顔でこちらを伺う
毎日いらしていますね
どなたか入院されているんですか?
大切な人・・・
その方にお逢いにならないんですか
それとも
お逢いになれない状況・・・ですか?
同じ空間に・・・
身を置くだけでいいから
言葉をかわしたわけではない
彼の心が流れこんでてきたのだ
大切な人・・・
その “大切な人” に彼の気持ちが伝われば良い
「早く良くなられるといいですね」
そんな思いを込め、たった一言伝えると彼が少しだけ緊張感から解けた表情をしたように感じられる
真っ直ぐ向けられる彼の瞳が、
暗闇でたよりの非常灯の光を吸い込んだ深い色の瞳が
一瞬、穏やかで温かな色にうつり変わった
「・・・暑い・っ・・」
病院正面玄関の自動ドアを通り越え、外に解放された瞬間
思わずそう囁いてしまった、第一声
見上げた空は雲ひとつなく、肌を照らす陽射しがじっとりまとわりつく、
湿度を多く含んだ空気はやや重い
院内の快適な空調の中で過ごしていた一週間
外気に晒された肌は気温の変化に対応できなかった
胸ポケットの携帯電話の電源スイッチをONにし
電話を掛けはじめた
コール数回で相手が出たらしく
「今、病院を出るところです・・・・はい、わかっています・・・では」
手短に用件を済ませると、再び携帯をポケットに戻し
先を歩く鏡が立ち止まった日樹をニコリと振り返る
「このところ晴天が続きで、随分蒸し暑くなっていますよ」
片方に日樹の入院中の小さな手荷物
もう片方の手の平を空に翳せば、そこから漏れた陽光がメガネのレンズに反射する
たった今の電話の相手は義兄の朋樹のはずだ
こうして義兄の秘書である鏡は常時、朋樹と密接に連絡を取り合っている
入院当日は、あいにくの雨だった
週明け、雨の月曜は生徒も気分重く学校へ登校しているころ
日樹は自由を得る為にここへ向っていた
その引き換えに、今までやんわりと自分を守ってくれていた目に見えない盾を失うことになる
「朋樹さんも、今日は早めに戻られるとおっしゃってました」
「・・・相変わらず、ですね」
今までに何度となく交わされた同じようなセリフ
「ええ・・・今、新しいプロジェクトの話が進んでいます
その会議をどうしてもはずせないので、今日は私が・・・」
多忙な義兄
無論、社長である父の後を継ぐことになるのだから
あらゆる会議の席をはずせない
その義兄と日樹が一緒に暮らすようになってから約1年が過ぎ、
朋樹は自分が自宅を留守にするようなことがある折りには
必ず鏡を代理で置くように配慮していた
その有難い配慮も、日樹にとっては “監視”そう、身に感じてならない
駐車場へ向う鏡の足取りは日樹を気遣い少しゆっくりとしたペースだった
義兄より少し低い背丈
いつもなら鈍色のスーツに身を固め、規則正しい皮靴の音を立て歩く鏡も
オフとなれば容姿もそれなりに砕け、
藤色の開襟シャツに白のスラックスは、清廉で知的な鏡らしく
細身でありながらも着衣の中身は鍛えられた肉体が存在することを幼いながらに記憶している
義兄が最も信頼し、その体全てまでも知り得ているパートナー
「この時間、駐車場はどこも満車で一番奥のスペースになってしまいました 申し訳ありません少し歩きますが・・・」
「大丈夫ですよ」
心配には及ばない、と
陽に透ける髪を揺らしながら日樹が首を横に振った
退院手続きが終えた午前10時半は
来院患者が殺到し、駐車場スペースもほぼ埋め尽くされている
とはいうもの、鏡が標す場所まで実際大した距離ではなかった
すでに見慣れたダークレッドの車が
整地された駐車場の木陰すぐ横に停まっているのを目に留めている
朋樹の車だ
わざわざ正面玄関に横付けでは大げさすぎる
「大丈夫ですか? 」
眼鏡越しの視線が日樹の足元へ移り、日樹はそれに頷く
別段何も変わりない
骨折していた部位に埋め込んでいた整骨用の金属を取り除くため
今回の手術は大腿部より上、足の付け根裏辺りに2針の傷を残したものの
少し攣れた痛みがするだけ
それよりも日樹は不可思議に思い、いち早く鏡に確認したいことがあった
そんな心情を鏡に見抜かれたのか
まるでこちらの思いを見透かしてる笑みに疑えた
「日樹さん、どうかしましたか?」
鏡から聞き訊ねてきたのだ
ゴゴゴォッー
轟音を響かせ上空を旅客機が通過する
壮大な青の空に白銀の機体が交わる様子は
雄大な姿とともに天空を飛翔し、人々の心を異国の地へ馳せる
何度も目視することがあろうとも、ついまた目を向けてしまう
しばし響く唸音に話を中断されながらも
日樹と鏡も例外ではなく、二人の瞳は高く空を見つめていた
ここから更に東へ下った国際空港へ向うものか、飛び立ってきたものであろう
最も空港寄りの地になると、高速道路を低空で横断する旅客機を望め
運良くそのタイミングに出逢えれば、誰もがスリリング、迫力を超えた感動の一瞬を味わうことができる
入院して三日目、面会時間終了間際に病室へ飛び込んできた拓真
その拓真とバッタリ居合わせた鏡
この事実は間違えなく義兄、朋樹の耳に入っているはずだと思っていた
なのに・・・
部活帰りに立ち寄る拓真が、この鏡や朋樹と一度も行き会うことがなく
言い換えるなら、義兄達がその時間を意図的にずらして面会に来ていたような気さえする
偶然はできすぎな話だ
部活を終えてから大慌てでやってくる拓真
そのわずかな時間を日樹も心密かに待っていた
拓真と過ごす短い面会時間が、重苦しく締めつけられている日樹の心に精粋を注ぎ込んではくれたが
その間にも、いつ朋樹が目の前に姿を現すのではないかという微かな不安は抱かずにはいられなかった
だが、それが無駄な心配に終わったということに安堵するわけでもなく
むしろ不安を煽るのだ
朋樹がこの有様を黙認するには何か裏があるのではないか、と
詮索をしては別の不安を湧き起こされる
義兄が拓真の存在を知れば、そんな緩慢な状況は認められない
かつて自宅マンション前で、帰宅した朋樹と鉢合わせになってしまった時の
拓真への目に見えぬ仕打ちを考えれば益々腑に落ちない
日樹に近寄る “男” と名の付く生き物を、朋樹は許さない
あの時の、朋樹の外見と遥かに異なった内面を誰が知り得ようか
穏やかに接する表面とは裏腹に、血流と一緒になり
体中を流れ廻る怒涛を隠していた朋樹
拓真が気づかぬとも、傍にいた日樹は強く身にこたえていた
義兄が執拗に自分の周囲を警戒していること
「・・・鏡さん・・」
聞いたところで真実が返ってくるだろうか
それでも今、この場で確認しておきたい
「何でしょう?」
事務的な返事
あくまでもビジネスでは他人に腹のうちを読まれないような立ち振る舞いを要求される職務に就く鏡は
感情を表に出さず常時クールな表情だ
尚更のこと眼鏡越しでは瞳にベールがかかり彼の心理が見透かすことができない
「義兄さんには伝えてないんですか・・・」
「・・?・・・何を・・・ですか?」
知らぬ振りをするわけではなく、
鏡には日樹の問いかけの真意がわからなかったようだ
実際、不眠の苦しさに堪えかね睡眠誘発剤を飲用していたことも
この鏡を通じ義兄に知れてしまったことは記憶に浅い
「あの日・・・拓真君と・・」
「・・・拓真?・・・・」
威圧する朋樹へ怯まず自らを名乗った拓真
その横には鏡もいたのだから、鏡と拓真の面識は二度目になる
仕事柄、多くの人間と接する機会の多い鏡は洞察力、記憶力ともに優れ
そんな鏡が拓真を忘れるはずなどない
しばらくの間をあけ、上向きの視線を日樹へ戻した鏡
「あぁ・・・、あの少年のことですか・・・」
覚えていないといえば嘘だ
案の定、鏡の記憶の中に拓真は存在していた
それもたった今思い出したような口ぶりは、一度躊躇っていた笑みを落としてからだ
「義兄さんへは伝えてないんですか・・・」
「彼は・・・純粋そうな良い少年ですね 」
そう返事をしては日樹に笑みを向け、答えをはぐらかした
義兄が今動かないということは、この鏡に一任されている可能性もある
「鏡さん・・・義兄から何か言い付かっていますか?・・・」
「・・・いいえ・・・」
相変わらず表情ひとつ変えない鏡
「だったら拓真君のことは・・・」
返事はかわされる
そうわかっていても聞かずにはいられない
自分の知らないところで義兄やこの鏡が動くのは嫌だ
また自分を見失ってしまいそうで・・・
「・・・さぁ、日樹さん 帰りましょう」
上手く宥め抑えられてしまった
かつて、大好きだった義兄
その義兄が、いつかこの鏡にとられてしまう
漠然と思ったこともあった
鏡はすでに朋樹の愛車へと足を向けている
目をソラシテモ
イイデスカ・・・
高原が、そして拓真がそれぞれの想いで日樹を訪れた
二つの異なる時間を過ごした忘れられない空間に別れを告げるため
日樹はもう一度振り返る
パタン
日樹が乗り込んだ後部座席のドアが閉まるのを確認すると、
鏡は車を静かに走らせ始めた
車で病院から自宅までの距離は平行して走る私鉄一駅分
渋滞に巻き込まれなければたかだか5分しかかからない
カーオーディオから朋樹の好みの曲が流れていた
車の中での会話は一言二言
会社が現在携わっている新プロジェクトのことについて、鏡が一方的に日樹へ語っただけだ
まだ未成年の学生とはいえ日樹も朋樹同様、社長の息子にかわりなく
今から社の内情について少しでも関心を持つように心掛けさせたい
そんな意味合いもあり朋樹にしろ鏡にしろ、日樹には日頃から小難しい話を聞かせている
勿論小さい頃からの生活習慣もあり、賢い日樹のこと
全てをスムーズに受け入れ理解するのは容易だった
「先にお部屋へ戻っていてください」
自宅マンションのエントランス前で日樹を車から降ろすと、鏡は建物地下にある駐車場へ車を移動させに行った
一週間ぶりに足を踏み入れた自宅
病院へ迎えに来る前、鏡が部屋の窓を少し開けておいてくれたのだろう
こもった不快な空気は感じられず、
玄関ルームに足を入れた瞬間、外気の蒸し暑さとは異なる冷んやりとした風が主を心地よく迎え入れてくれた
自宅はマンションの5階
立地条件が道路沿いにあるおかけで、ベランダからの侵入は人目につき不可能だ
無用心かもしれないが多少なら窓を開け放っていても心配はない
まっすぐリビングルームへ歩けば
白で統一された明るい部屋は静まり返り、時折カーテンが何かを囁くように揺れる
窓際近くあるローテーブルの上にはノートパソコンが開かれたままだ
少し前まで鏡がここで仕事をしながら朋樹と緻密に業務連絡をとりあっていたのだろう
自分が留守の間、もしかするとここに寝泊りしていたかもしれない
日樹がここに住むようになる前までは
鏡はここで朋樹と半同棲をしていたのだ
もう何年間も・・・
そしてこのリビングルームは
事故の入院の後、気遣って来てくれた高原を初めて迎えた場所
ここで彼の望む通りに足の傷を見せ
それから二人は肌を触れ寄せることになったが
何度繰り返えそうが、とうとう高原を満たすことができなかった
高原がもの足らなさを感じ、自分が至らなさを感じ
それが二人の間に溝を作ってしまったのか・・・
誘われるようにゆっくりと窓辺へ歩く
この窓から目の前に広がるのは
拓真と半日を過ごした緑地公園
思いがけない拓真の誘いでわずかなひと時を童心に戻って心の底から楽しんだ
今回の入院前日のこと
それは失って得たもの・・・
そもそもどこから道を誤ってしまったのだろう
記憶を手繰り寄せていかなければもうわからない
「自宅が一番落ち着くでしょう 今日は少しゆっくりされた方がいいです」
背後からは、いつの間にか戻った鏡の一声だった
窓辺に佇む日樹はまた現実に引き戻される
時刻はまだ11時過ぎ
これから学校に行っても十分午後の授業には間に合うのだが
「大丈夫ですよ、今日まではちゃんと休みの届けを出していますから堂々と欠席してください」
うっかり表情に出ていたのだろうか
鏡が先読みをして不安を取り除いてくれる
あまり学校にも戻りたいという気持ちがないがないものの
今この時間、学校では通常に授業が行われていると思えば少し後ろめたい
「先ほどの中国との業務提携と工場新設のお話ですが、恐らくこの下旬に日樹さんを含めたご家族全員で
渡航されることになります」
勝手知った鏡がリビングとキッチンを行き来しながら車内での話の続きを始める
「・・・家族全員で?」
「あちらの総経理、日本でいう会社社長が親睦を深めるために、ご家族をご招待をされたいとう打診を頂いています」
コップに飲み物を注ぐとキッチンのテーブルに二つ揃えて並べた
朋樹と暮らしていたころも、こんな風に鏡が世話を焼いていたのだろうか
「日樹さんが夏休みに入られる頃、朋樹さんの提案でこの月末に」
「・・・・」
いつの間にそんな話が持ち上がったのか、急過ぎて日樹としてもどう返事をしていいのかわからない
鏡は佇む日樹の傍らに歩み寄り、半分ほど開けられていたサッシ戸を全開にする
「気分転換になられるのではないかと」
確認するように鏡が覗き込む
こちらが聞きたいことはまんまとはぐらかされ、不要に止め処なく羅列される言葉は頭には入らない
全て朋樹の判断で、自分には承諾の余地なく進められていく話は気分転換どころか重荷だ
きっと気を悪くするだろう
そう思いながらも、日樹は鏡の脇をスルリと抜け
「部屋で休みます・・・」
逃げるような足どりで背中越しにそう伝えた
それでも鏡は朋樹に言い付かったことを忠実に守るのだ
「何かあったら呼んで下さい 私はこちらにいますので」
「・・・はい・・・」
背後に鏡の視線をずっと感じながら
そう返事をしてリビングを後にした
日樹が自室に戻ると、鏡は病院へ行く寸前まで仕掛かっていた業務に戻る
静かで物音一つしないリビングに、キーインの音だけがカシャカシャと響く
滑らかな一定間隔のリズムは、鏡の指が正確に入力している証拠
それも見事なブラインドタッチ
退院後、日樹の傍にいるように言い付かった鏡は
朋樹が社から戻る夕刻までここでこうしていることになるのだが
昨夜もこんな感じだったろうか・・・
静那・・・せ・・・な・・・
「静那!」
「・・・え・・っ・・あ、・・・申し訳ありません」
何度か呼ばれていたようだが、気づかなかったのは意識をどこかに飛ばしていたせいだ
PC画面も流れ作業のように文字を流して見ていただけで、頭の中には何も入ってなどいない
うっかりしていたと、慌ててスクロールし画面を振り出しに戻す
向かい合わせに並べたパソコンのキーを打ち込む朋樹が
鏡を姓ではなく名を呼んでいたのだ
背広の上着を傍らに脱ぎ捨てた朋樹は、襟元のネクタイを緩め
ワイシャツの袖を無造作にめくり上げていた
筋肉でおおわれる露出した腕が逞しい
静那・・・
仕事中には絶対その名では呼ばれない
「朋樹さん・・・何か・・・」
「どうした、考えごとでもしてたのか?」
「・・・いえ・・・」
このニ、三日、鏡は迷っていた
朋樹に伝えるべきかどうか
迷った挙句、とうとう彼には伝えず終いで退院を迎える
隠しごとなどしたことがなかった
なのに・・・なぜそうしてしまったのか自分でも不思議でならない
それに勘の良い朋樹のこと、もしかしたらそぞろな今の反応から何かを察してしまったかもしれない
そう思いながらつとめて平静を装う
「もう遅い、今日は泊まって行くがいい」
時刻を確認し、手を休め一瞬そう囁いた朋樹
すでに明日へ日付が変わろうとしている
『泊まって行くがいい・・・』
以前なら聞き慣れていた言葉なのに、なぜか新鮮で体中も熱くたぎる
日樹と入れ替わりに鏡はこのマンションを出た
出た、と言っても週の半分を寝泊りをしていただけだが
それを失うということは状況が大きく変わる
家族の絆を前に、恋人という薄っぺらな関係では馴染んだ居心地の良い空間も
今では敷居が高すぎる
優しく呼びかけた主を慌てて見返せば、朋樹は再び真剣な眼差しでPC画面に向っている
通訳を含めた現地への人材派遣、資材調達、設備設計の詰め
工場の落成式典までの段取りなど
押し迫った会議続きのせいで、こうして自宅にまで残務整理を持ち込んでいるためか
その表情に少し苛立ちと疲れが見え隠れする
そんな時にこそ自分が支えにならなければ、そう連れ添ってもう何年になるか・・・
朋樹付きの秘書、鏡
その上、スケジュールが過密なところへ最愛の義弟の入院とあっては
いくら恋人であっても優先順位が下がろうとも不平を言うことができなかった
やっと自分に番が廻ってきた
「明日の退院のお迎えには」
「あぁ・・・すまないが私は行かれそうにない 10時頃、迎えに行ってもらえるか」
「わかりました」
拓真という少年が日樹を訊ねてきていることを朋樹は知らない
彼がやってくる時間帯と故意的に面会をずらすようにし向けていたのは
他でもない、この鏡なのだ
「これでやっと日樹も落ち着くだろう・・・」
「・・・ええ・・・」
退院の喜びが隠せず
15も歳が離れた義弟のこととなると朋樹は目を細め、一目瞭然この上なく柔らかな視線に変えれば
長年の関係を続けながらも、つい嫉妬してしまいそうになるの
「日樹に変わった事があったらすぐに伝えてくれ」
「はい」
鏡はあの日、病室で出会った拓真を直感的に邪気のない少年と判断した
日樹にとって危険ではない、と
そうとはいえ、なぜ自分が朋樹を裏切るような行為にでてしまったか
恐らく、
朋樹、日樹、そして鏡自身
今のままでは何も変わらない
わずかに抱いていた不安の煽り
都内の本社ビルを出た二台の車は千葉方面下り湾岸線を連なり走っていた
先頭車にピタリ距離を離さず後続の車が追う
前を走るのが朋樹、そして後を追尾するのが鏡の運転する車だ
スピードメーターは速度120キロを振り切っている
行くぞ・・・
朋樹がアクセルを一気に踏み込んで加速させればエンジン音が唸る
また・・ですか?
距離を離していく朋樹の車へ、呆れ半分のため息を漏らしてから鏡がそれに応じる
夜10時を過ぎた湾岸高速は混雑のストレスもなく、ちょっとしたカーチェイスを興じれ
朋樹はルームミラー越しの鏡へ、イタズラを企てた少年のような瞳を向け挑発する
ついて来い・・・静那
朋樹は承知している
日頃、抑えるばかりの鏡のプライドをちょっとばかりくすぐって刺激してやれば
やっとのこと本心を曝け出す
それが時には必要だと朋樹は認識し、素直に反応してくる鏡が愉快でならない
この二人も同乗者がいる時には決して無謀な運転はしない
それどころか常に安定し、巧みなドライブテクニックで車を走らせている
もっとも秘書、鏡の運転で移動することが多い朋樹にとって、自分が運転するこの機会は格好の羽伸ばしであり
車体を通じて風切る動体感覚が尚のこと爽快らしい
時には抜きつ抜かれつ
鏡が追い抜き朋樹の前を走ることになれば
チッ、と悔しがる朋樹の表情が伺える
しきりに点滅するウインカーに伴い変更される車線
そんな戯れを繰り返し、自宅に着いたのが2時間前だった
国産車で色違い同型のセダン
二台の車は朋樹のマンション地下駐車場で今仲良く並んで停車している
「日樹の将来を考え、正しい軌道に乗せてやりたい」
朋樹はマウスから離した手で頬杖をつき、仕事は一時休戦状態に入る
義弟に対しての深い想いは嫌というほど知らされている
穏やかな言葉と裏腹に、その尖った視線を感じたのは拓真の存在を黙秘していたという
後ろめたい気持ちが鏡にあったからだろうか
「それがあの方との約束だからな」
「悦子夫人・・・ですね」
「あぁ」
諸藤悦子、日樹の実母であり朋樹の継母となる優美な女性
この人の為に日樹を守りたいとうのが朋樹の切なる願いである
現時点で社長の後は朋樹が継ぐことになっているが、それもこの先
どこでどう変わるかは断定できない
そうなれば次男の日樹にも後継ぎ話がまわってくる可能性もあるということだ
諸藤家の息子としてふさわしい学歴を残し、自社もしくはそれに並ぶ企業へ入社し、行く行くは連れ合いを娶り、
後継ぎになる子をもうけ・・・と
諸藤家の次男として、日樹にはそんな一般的な未来図を思い描く朋樹は
それが本人にとって一番の幸せであり、母の願いであろうと信じてやまない
正しい軌道・・・
鏡は胸をチクリと刺された気がする
何か自分を否定されたような心境に陥るからだ
朋樹との関係が先の見えない、いつ終わるとも限らない間柄で
さらには男同士である二人の関係は世間でも認められない
大切な後継ぎをもうけられるわけでもない
もしこれから朋樹の子を産む女性が現れるとなれば、自分の存在が必要でなくなってしまったことになり
朋樹が次期社長となれば、男の愛人などゴシップ記事になるのは目に見えている
残念ながらどれをとってもプラスになる要素はひとつもありはしない
日樹の将来を考える朋樹の心境を推し量れば
いくつかの推論が浮かぶ
朋樹自身が一般的な人生をまったく放棄し、このまま鏡との関係を続けていくために日樹へ求めることなのか
あるいは朋樹が捨てきれない一般的な人生を、己の代わりに日樹へ託すのか
両者は似たようで実は意味合いがまったく異なる
だからといって朋樹が一般論を日樹に強制することが良いこととは思いきれず、
最近の鏡は無意識にそれを主張したがっていた
「煙草吸われますか?」
「いや、いい」
日樹がいなくても自宅での喫煙は控えることに徹している朋樹
「では、何か飲まれますか?」
鏡がキッチンへ行くことを目的に立ち上がり、朋樹の脇を過ぎようとした時だった
「何を隠している?」
朋樹のその瞳は鏡を見ていなかった
だが恐らくその瞳の奥は表面には露にならない冷えた色を秘めていることだけは鏡にも察することができた
「何を隠している」
直接、朋樹の鋭い眼光を受けたわけでもないのに
心なしか、トーンが下がった朋樹の口調に身が竦み、鏡はその場で自由を奪われる
たとえ針が一本落ちた音でさえ逃さぬ静けさ
この部屋の中だけが、凍る空気と共に一瞬で時間が止まってしまった
まだ30代にはいったばかりにも関わらず、会社トップ役員に立つ朋樹はそれだけの威圧感を持ち合わせている
直に10年、長年連れ添えば、相手の手の内が読めるというものか
ということはここ数日、体から滲み出た鏡の心の迷いも朋樹には悟られている可能性がある
悔しいがやはりお見通しなのだ、狼狽した相手の状況を朋樹はジリジリと責めて楽しむ
こちらから申し出なければこのまま緊迫した持久戦が延々続くが
過去に鏡が勝ちを得た事がない
最終的には快楽というアンフェアな手段を使われ朋樹に敗退してしまう
この世で最も愛して憎い相手・・・
いつか手放されてしまうのではないかと付きまとう不安に対し
鏡が常に言葉だけでは得られない確証に飢えていることを承知している朋樹の自信
この関係は社内の主従関係と一緒で逆転することがない
コンピューターがしきりにバックグラウンドで作業している機械音が空間に割って入る
時間経過とともに、鏡のPCモニターに設定してあったスクリーンセーバーが作動し始めたのだ
張り詰め刺すこの空気から一気に抜け出せる方法はわかっている
『貴方の大切な義弟にまとわりつく “男” が現れました』
たったひとこと拓真の存在を伝え
そして、彼は危険ではないと強調して補足してやればいい
そうすれば、いかなることに優先させてでも朋樹は事実確認に四方手を尽くすだろう
だが、今の朋樹にとって後から付け加えた
『彼は危険ではない』
この言葉はなんの意味もなさない
義弟の意思に関係なく、拓真という少年を引き離す算段が即座に施され
その役割に自分も加担しなければならなくなる
だからこそ頑なに口をつぐむ道を選択する
入院中、失意と虚無の表情しか見せなかった日樹
拓真の出現で一転し、愉悦に満ちた幼い顔に変化させ
自ら歩き出そうとするやっと芽吹いた新芽をみすみす摘み取ってしまうには
未来へ繋がる一筋の光を遮断してしまう罪悪感に苛まれる
あるいは、この目の前にいる男としばらく交わっていない飢餓感が、男の義弟へ向ける愛情を嫉妬し
自分でも知らずに疼く体の苛立ちを謀反という形で欲情させようと誘っているのか
どちらにしろ、もう平常心だと自負することはできない
「お前らしくないな」
フッと小さく笑みを漏らし
情けをかけたのか、珍しくも先に沈黙の幕を引き裂いたのは朋樹だった
緊張感がほぐれ小さく息を吐き出す鏡の体内は、冷静に装う外見と大よそ異なり
交錯し抑え切れない激情が今、一気に冷却されている
仕切り直すために鏡は眼鏡の位置を人差し指で修正した
「静那、疲れているんじゃないか?」
「そんなことはありません」
本心疲れている・・・
だが認めてしまえば身崩れしてしまうのだ
プロジェクトが本格的に動き出すまでは誰も同じように思考を巡らし、
予期せぬアクシデントを想定しながら気心休まらない状態が続く
きっと自分だけではないはず
目の前のこの主も・・・
「朋樹さん・・・」
「なんだ」
互いの瞳はまだ相手を見ようとはせず
相変わらずの余裕を見せているのは朋樹だけだ
「クレーム対応の2原則とは・・・何でしょうか・・・」
冷静になれ、冷静に、そう心に唱えてから重々しくも言葉にしてみたが
心の中の一番の蟠りを我ながら的確な例えで引き合いに出せたものだ
「ん?」
眉頭だけをピクッとさせ、反応した朋樹がようやく鏡に視線を合わせる
自分より優先されていること
仕事絡みとなれば間違えなく必ず食いついてくるだろうと鏡には勝算があった
「朋樹さん・・・クレーム対応の2原則は・・・原因究明、そして再発防止です」
「それがどうした」
今更わかり知れたことを
議論にまとまりのつかない会議中に見せる、嫌気を含んだ訝しげな表情が返ってくる
「・・・今の朋樹さんは根本的な原因究明を怠われているように思われますが」
強く熱い思いとは裏腹に、絞りだした言葉の語尾には力がなくなっていた
これ以上長引けばもう言葉を選んでいる場合ではなくなる
感情に任せに本題からズレた私情まで持ち込みそうだ
いや・・・もうすでに
貴方はこのまま義弟の未来を自分の思うがままに押し付け閉じ込めていく気ですか?・・・
もしそうならば、この関係もいずれ破綻も迎える
衣擦れの音、朋樹が立ち上がって歩み寄ってくるのがわかる
くるか・・・
挑発に乗りついに動いた朋樹の息遣いを、そして体温を身近にかに感じた
きっと体を拘束される
息をのみ込んで覚悟を決め瞳を硬く閉じた瞬間・・・
予想に反し、その足音が遠ざかる
「今日はもう終わりにしよう」
朋樹のその言葉が呪縛を解く
再び瞳を開いた時、朋樹はリビングのドアの前でこちらを振り返っていた
プライベートに見せるいつもの穏やかな微笑
「・・・朋樹さん・・・」
「泊まるも帰るも、静那 お前の好きにするといい」
そう言い渡すと、リビングを出て浴室に向ってしまった
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