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もう2日も過ぎてしまいましたが
1・17…1月17日はほとんどの神戸市民にとっては
とてもつらい記憶がよみがえる一日でした
我が家は人命にかかわる犠牲はなく
自宅半壊程度で比較的軽めの被災で済みました
16年前と言えば、当然の事のように私自身も今より16歳も若く
父も現役世代でとても元気であった為
避難所には行かず、ライフラインの途絶えた足の踏み場もない自宅で
ネコ6匹と私たち親子でとても前向きに過ごしていました
実を言うと、私はあの大地震の時は神戸にいなくて
地震の発生を知ったのは17日の午前10時過ぎ白馬・八方尾根のスキー場のホテルのTVでした
あの時のTVの映像を観た全身が震えるような衝撃は今もはっきりと覚えています
茫然とTVの映像を観て、ふと我に返ってロビーの公衆電話に走ったけど
その時には、ロビーに2台しかなかったピンク電話が長蛇の列で
(たった16年前の事やのに携帯の普及はまだまだで、高額な携帯電話持っていても電波障害でほとんど繋がらなかったらしいです)
その後ろに並んだ時の前で話している人の衝撃的な会話は
今まさに自宅が燃えている人、会社が燃えている人、自宅が倒壊した人、家族の行方が分からないなど、本当に我が耳を疑うような会話ばかりで、その会話を聞いているだけで私の心臓がバクバクと呼吸困難に陥ってしまうほどでした
それでも、まだまだその会話をどこか他人事のように感じながら自宅にコールすると
ツーッ、ツーッ、ツーッ・・・・
何度かダイヤルを回すも全く自宅には繋がらず・・・
あの時の何とも言えない絶望感と、その後父が無事でピンピンしている事を知った時の感激…人生の天国と地獄を一度に味わった瞬間でした
その後、私は実際震災には遭わなかったけど、白馬から自宅に帰宅するのがとても大変でした…
って、実は何と申しましょうか・・・
遠くの方には解らないかもしれないけど
関西から白馬と言うのは最も近い信州方面で
ほとんどが夜行バスかJRでの往復となるのですが
その時の私は、あり得ない事に5000円も高くなるのに、復路を松本空港からの飛行機をリザーブしていたのです。
なので、地震の影響を全く受けなかった伊丹空港までは普通に予定通り帰ってきて、そこからは無料バスで阪急の石橋駅まで行き、更に阪急で西宮北口まで行って、無謀にもタクシーに乗ろうと、タクシーの列に並んだけど、30分待っても1台も来ないので当初の予定通り自宅のある三宮まで歩く事にしたのです
取りあえず43号線まで出て西に向かって歩き出しましたが、43号線の北側は避難する人の行列で、とてもじゃないけど逆向きに歩いて行けるような状態ではなかったので、南に渡って、民家が傾いて来ている歩道ではなく神戸に向かう大渋滞の車道を、車にひかれないように友人と大きく横に広がって歩いていたら、通りがかったタクシーが乗って行きなさいと拾ってくれたのです
タクシーには先客がいて、そのジェントルマンが私たちを見かねて「乗せてあげて下さいと」運転手さんに言ってくれたそうです
結果、私たちは18日の3時頃の飛行機に乗って、その日の深夜12時頃には無事自宅に帰りつけると言う、当時の神戸市民なら誰もがぶっ飛びそうな早さで帰宅できたのでした
震災後の私たち親子のサバイバル生活は
それなりに大変でしたけど
それは全て生きていられたからこその大変さで
思いもかけず、命の灯をかき消されてしまった人々の事を思えば
自分たちの生きて行く事の苦労なんて、なんてことはなく
むしろ、あの時の何ヶ月間かの父との生活は毎日が子供の頃の夏休みのようで
戦争を経験している父が、サバイバル生活の色々なノウハウを教授してくれて
それまではあまり親を尊敬して生きてこなかった私ですが、父に教えられることの多さと、逞しい生活術に、本当に父が父で良かったと、心から思った日々で有りました
今年の1・17は私にとっては父との楽しかった思い出が少し寂しくよみがえる日で有りましたが
こんな思いもあんな思いも・・・全ての思いを
一瞬にして閉じる事になってしまった方々の
ご冥福を心よりお祈りしたいと思います
何だかご機嫌なハナちゃんです
ね~こはこたつで丸くなる
この歌は、間違いなく嘘です!!
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