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2012年に改修されたJR東京駅丸の内駅舎。赤レンガの壁面を目立たせる黒い屋根。この黒屋根は粘板岩(スレート)でできています。そしてその粘板岩は、宮城県石巻市雄勝町の雄勝石(おがついし)です。東京駅の改修のため、雄勝町では雄勝石を6万枚以上保管していました。ところが2011年の震災の大地震で、雄勝石は津波で流されてしまいました。やむなく海外産の石を東京駅の改修に使うことが議論されました。しかし、雄勝町の人々はあきらめませんでした。町の復興の最中にも関わらず、町民は流された雄勝石4万5千枚を回収しました。そして、それらはすべて洗浄され、東京駅舎の屋根に使われました。JR東京駅丸の内駅舎の屋根に込められているのは、東北復興への願い。【雄勝石の角皿】
2020.09.30
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名古屋市中区大須。そこには招く様に手を上げた”まねき狐”がいます。神社の名前も”まねき稲荷”。愛知県では”特殊扱い”される、まねき狐。しかし、まねき狐は、けっして特殊なものではありません。ご覧の様に、神棚用に販売される狐は、手を上げて招いています。「神棚用 稲荷狐」実は、まねき狐は、まねき猫の起源と言われます。狐は、米を食べるネズミを食べる縁起物。商売繁盛を願う稲荷社に、まねき狐として祀られました。稲荷社には、子孫繁盛のご利益もあります。そのため、狐の尻尾を男性器にした狐の置物も作られました。特にその狐は、遊郭や水商売のお店で人気になりました。そして、それらの場所では、神棚にまねき狐を祀りました。明治5年、明治政府は公序良俗を乱すとして、まねき狐を禁じました。そこでまねき狐をまねて作られた「まねき猫」が普及しました。愛知県には常滑市という、まねき猫の産地があります。まねき狐が愛知県で希少なのは、まねき猫の御当地だからかもしれません。【 ペアまねきコンコン 】
2020.09.27
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愛知県の心霊スポットとしても有名な大慈山中之院。境内の多数の兵士像。たしかに特有の雰囲気があります。しかし心霊云々ということではなく、浅野祥雲の作品の特徴が影響していると思います。祥雲作品の特徴。それは祥雲の人物像の視線にあるでしょう。なにげなく撮る写真も、誰かと目が合うことに気づきます。それぞれの写真、誰がこちらを見ているか、探してください。その視線は怖いものではありません。時には優しく、時には何をしているのかと問うように、静かな視線が投げかけられています。彼らはもういないけど、変わらぬ止まった時がそこにあります。平和を守ると誓うから、いつまでも、やすらかに。【中之院の兵士像1】 「記事のリンク1」【中之院の兵士像2】 「記事のリンク2」【 進む道を誤った 】
2020.09.25
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愛知県知多郡南知多町の大慈山中之院の軍人像。中之院は岩屋寺の山門のすぐ前数十メートル、岩屋寺の奥の院への山道入り口付近にあります。そこには浅野祥雲のコンクリート像とは異なる、石像があります。石像の多くは、まだ少年と思わせる顔立ちの兵士です。浅野祥雲以外の4人の石職人の作品でしょう。浅野祥雲はあえて若年の兵士の像を避けたように思えます。似てはいますが、それぞれ別の石像です。胸から上だけの像は、運搬時に親族不在で無縁となっていたもの。運搬の都合から、これらは切断されました。祥雲が健在であれば、さぞや憤慨したことでしょう。これはコンクリート像(浅野祥雲作)でしょうか。親子の様に見える像もあり、より哀れに思えます。若い命が容赦なく奪われる。それが戦争とあらためて感じます。【中之院の兵士像1】 「記事のリンク1」【 武力が人を狂わせる 】
2020.09.23
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コンクリート像作家、浅野祥雲。祥雲の神髄に迫りたいなら、ぜひご覧戴きたい作品があります。その作品は、愛知県知多郡南知多町の岩屋寺の傍の大慈山 中之院にあります。それは、他で見る祥雲の作品とは一線を画す軍人像です。昭和12年、上海上陸作戦が行われ、日本軍は中国軍の大群の眼前に出る愚行を犯しました。上陸したのは、名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士。大軍を前に、わずか8日間で150名の兵士が全滅しました。それは一方的な虐殺出会ったと言われます。石像は全92体。このうち、浅野祥雲が81体のコンクリート像を、11体の石像を4人と石職人が作製したと言われます。昭和12~18年に、兵士の写真を参考にして作られました。犬を連れた兵士もいます。一人は服を着ています。この像は、当初は名古屋市千種区の覚王山の霊園北側にありました。第2次世界大戦後にG.H.Qにより廃棄されそうになりましたが守られました。しかし近年の土地問題から廃棄されそうになりました。そこで、平成7年に中之院に移設されることになりました。一部、名古屋市に残る像もあります。浅野祥雲が作る仏像は、仏像らしくないと言われます。人間味のある仏像は、愛らしくユニークです。仏像を人らしく、そして人も人らしく作る作家。浅野祥雲は、そういう作家なのです。【 風化しつつある日中戦争 】※中之院の兵士像の日記、次回も続きます。
2020.09.21
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自動車では安全性が重要です。特に自動車の走行中の転倒はあってはなりません。3輪トラックは、長尺の荷物が積載でき、小回りが利きます。そのため私の近所でも、最近まで3輪トラックを見かけました。特に長い材木を運ぶ材木屋さんが好んで使っていました。3輪トラックは、オート3輪と呼ばれました。特にマツダのオート3輪のT2000はよく見ました。写真は東京お台場にて撮影。以前はマツダCTA型というのもあったようです。こちらは私は存じません。比較的最近まで使われたオート3輪ですが、欠点がありました。しかし急ブレーキを踏むと、大きな荷重が前輪にかかります。そのため前輪1輪では支えきれず、転倒する事故が多発しました。便利でも安全性が重要な自動車。オート3輪が姿を消したのは、仕方がないことだったでしょう。「マツダ オート3輪」【オート3輪】
2020.09.18
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今日は”面白スポット”をご紹介しましょう。こちらは愛知県西尾市の閻魔堂(えんまどう)です。常福寺の「刈宿の大仏」から国道247号線に沿って、碧南市方向へ100メートルほどの場所にあります。この建屋の内部には「常楽院」と表示があります。そして入り口には、目を惹く鬼のコンクリート像があります。この鬼は、澤常吉という人の作品らしい。製作は昭和4年と伝わります。建屋の内部には、建屋一杯の大きさの閻魔様がおられます。こちらは知名度が高い後藤鍬五郎の作品と伝わります。そしてこの完成度が高い閻魔様の傍には従者が・・・・・・。従者はなぜかシェパードです。後藤鍬五郎は、以前にご紹介した刈宿の大仏の作者です。そして澤常吉は刈宿の大仏の世話人です。「刈宿の大仏」それにしても、2匹の鬼には独特の魅力があります。稚拙さがなんとも言えない愛嬌になっています。最後にもう一度、鬼をご覧ください。【 ねこカップ 】 にほんブログ村
2020.09.16
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瑛人さんのヒット曲「香水」に因んだ記事を書こうと思い早数ヶ月。いっこうに何も思い浮かびませんでした。その理由は明白。私が香水について何も知らないから。そこで図書館で香水の本を借りて読みました。香水に使われるフレグランス。このフレグランスの調香師を「パフューマ―」と呼ぶことを知りました。パフューマ―は原料の香料の香りを記憶しなくてはなりません。その香料の数は、なんと2,000種!さらにパフューマ―は混ぜ合わされた香料の香りから、その配合量まで再現しなくてはなりません。もちろん官能だけで。そして市販の香水などのコピーまでできて、初めてパフューマ―となります。パフューマ―はフランスでは、「ネ(鼻,nez)」と呼ばれる、あこがれの職業。2,000種の香料を操るパフューマ―。やはり香水は、私には遠い世界。そんな私が香水の日記を書くことになったのは、ドルチェ&ガッバーナの、その香水のせいだよ。「香水 / 瑛人 (Official Music Video)」【 D&Gの定番 ライトブルー 】
2020.09.13
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熱田神宮にあるこの築地塀は、「信長塀」と呼ばれます。桶狭間の戦いの前に熱田神宮に必勝を祈念した織田信長。願い通り今川義元を討ち取った御礼として、この信長塀を熱田神宮に奉納しました。信長塀は、土と石灰を油で練り固めて瓦を積み、桟瓦を葺いた築地塀です。信長と言えば、”きゅうり”の逸話を思い出します。それは戦国時代の武将はきゅうりを食べなかったという話。その理由は、きゅうりの切り口にあったと言われます。きゅうりの切り口には模様があります。(画像出典: https://www.olive-hitomawashi.com/column/2017/10/post-519.html)その切り口の模様が、織田家の家紋「織田木瓜」に似て見えました。そのため戦国時代の武士は、きゅうりを食べなかったと言われます。(画像出典: ウィキペディア)江戸時代の武士もきゅうりを食べなかったとも言われます。今度はきゅうりの切り口の模様が、徳川家の「三つ葉葵」に似ていたという理由で。武士がきゅうりを食べなかった理由。実際のところは、当時はきゅうりは安い野菜でした。そのために、気位が高い武士はきゅうりを嫌ったというのが真実の様です。ともかく、一度きゅうりの切り口をご覧ください。あの模様、あなたには何に見えるでしょうか?【 愛知県民食 「きゅうりのキューちゃん」 】 にほんブログ村
2020.09.11
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寺院では独創的な建造物に出会うことがあります。ここは愛知県西尾市吉良町の宝珠院。この寺院には、他にはない形の鐘楼門があります。その鐘楼門は六角形をした六角鐘楼門です。六角鐘楼門の両脇には、仁王像があります。この六角鐘楼門により、境内の建物も独特の配置になります。驚いたことに、梵鐘が2個もあります。2個の梵鐘は「慈悲の鐘」と「智慧の鐘」とのこと。下から梵鐘を見たのが、次の写真。宝珠院は、浄土宗西山深草派の寺院。豊臣家と徳川家の庇護を受け、両家の位牌を祀り、寺紋を「三ツ葉葵」とする由緒ある寺院です。この六角鐘楼門は、2001年の開創550年に、21世紀記念で建立されました。六角の形は六波羅蜜を意味します。寺院もこうして、少しずつ姿を変えていくのかもしれません。古きものと新しきものの融和、情緒ある形で進めばと思います。その前に、あの双鐘の語る歌を聴きたい。【食用の梵鐘】にほんブログ村
2020.09.08
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かつて愛知県犬山市の桃太郎神社には、鬼の骨がありました。しかし宝物殿の火災により、鬼の骨は失われました。火災の原因は放火とみられています。今では鬼の骨は、桃太郎神社の拝殿に飾られた写真でしか見ることができません。これが鬼の骨です。桃太郎が生まれた”桃”も焼失しました。鬼のミイラも焼失しました。これらの真贋を論じるつもりは毛頭ありません。ただ焼失したことを残念に思います。なぜなら、これらも日本の文化を伝える文化財だったのですから。桃太郎神社の鬼も泣いています。浅野祥雲作のこの鬼の目からは、涙(水)が流れています。鬼の骨、河童のミイラ、各地に不思議な物が残されています。これらは”興行”のために生まれたのかもしれません。ただ、見る人に夢を与えるものだから、放火という罪は許し難く感じます。【充電式 光る首輪】
2020.09.06
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竜の骨、ご覧になったことはありますか?写真は、名古屋市中区大須の亀岳林 万松寺の龍。真白ですが、これは骨ではありませんね。江戸時代、近江国滋賀郡伊香立村南庄(大津市北部)の丘で謎の骨が見つかりました。その骨は、藩主に献上されて「竜の骨」と判定されました。次の画像は、その時の絵。(画像出典: 朝日新聞 https://www.asahi.com/articles/photo/AS20190517001524.html)現在では「竜の骨」は、50万年ほど前の象の骨と判明しています。明治時代、ドイツ人地質学者ナウマンらが、その事実を解明しました。現在、「竜の骨」は東京の国立科学博物館に保管されています。竜の骨は正確には、ゾウに近い哺乳類「ステゴドン」の化石。竜のツノと思っていたのは、ステゴドンのキバ。骨の見方が上下さかさまでした。「ステゴドンの骨」 (画像はウィキペディアより)思い込みはいけません。物事も逆さに見たり、見方を変えれば、真の姿が見えてくるかもしれません。【ドラゴン柄といえば、フロレンティーン ターコイズ】
2020.09.04
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ご存知、徳川家の家紋、「三つ葉葵」です。写真は名古屋市の建中寺にある、徳川光友廟。三つ葉葵は初めから徳川家(松平家)の家紋ではありません。松平家が家臣の本多家か酒井家の家紋を譲り受けたといわれます。家紋にも譲渡はありました。家紋で面白いのは前田家の家紋。前田家の家紋は「加賀梅鉢」です。この家紋の別名を、剣梅鉢とも呼びます。 (画像出典: https://sengoku-his.com/766)前田家は徳川家に従いつつも、内心では反抗していました。その気持ちを家紋の中に、剣として描きました。次の写真は、金沢市で見た祠の瓦など。剣梅鉢の家紋は、一種の符丁でした。特に幕府に反意が強い武功派は剣梅鉢の剣を長くし、穏健的な文治派は梅鉢の剣を短くして示しました。かつて家紋には、家主の想いが込められていたのです。【なにかに使えそうな家紋タイル】にほんブログ村
2020.09.01
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