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M安全(株)の九州支店に転職し仕入れなどを担当する業務係となった私は、九州にある他の出張所からの商品を回して欲しいという要望にも応えなければならない事もあった。というのも九州支店は他の拠点よりも社員数や保持する商品も多く、常務の支店長がいることでもわかるように後に九州支社としても機能するようになるのだが、当時も九州全体の総まとめもやっていた。そのため、月に一回くらい九州の出張所から所長が集まって、本社の達示事項伝達や営業についての方策などについて話し合いが持たれていた。そういう中で同じ九州管内の所長などとも人間関係ができてきて、正直言っていい人ばかりではなかったが、いい人にも出会って次第に人脈もできてきて将来大きく助けてもらうようなことになる。 昭和44年29歳で転職した私は30歳にして車の免許取得のため自動車学校に通い始めた。そして、免許取得なったのは、昭和45年12月18日。二男の誕生日が同じ年の12月4日だったから3人の子供の親になっていた。まさに30の手習いそのものだった。運動神経の鈍い私は人よりも時間もお金もかかったが、これで将来への展望が更に開けたような気がした。 それから一年半後くらい経過した頃、いよいよ営業に出ることになる。私のテリトリーは北九州市の八幡西区から若松方面に行く周辺の工場や若松区の工場、それにまだいくつか炭鉱も残っていた筑豊方面であった。しかし、初めの頃、心配は車の運転のことが第一で営業は二の次という感じは否めない。国道3号線を走ると行き交う車が猛スピードで駆けぬける。小さな道路ではダンプカーが我が物顔で前から走ってくる。営業の引き継ぎでは私が運転をして、前任の先輩営業マンが助手席に乗って道案内をしてくれるのだが、さぞかし彼らは怖い思いをしたことだろうと後で思うことだった。 私のテリトリーの八幡西区から若松区にも三菱系のセメント会社と化学会社、日立系の会社、その他にも鉄鋼の会社など一部上場会社がズラリと並んでいる。筑豊にも三井系のセメント会社、衰退しつつあったとは言え三井漆生炭鉱、三井山野炭鉱、貝島炭鉱など錚々たる名のある企業が多かった。(筑豊の炭鉱のことについては当ブログの2013年4月7日に「筑豊炭田の思い出」と題してエッセイを書いている) 銀行でも営業経験のない私だったが、子供の頃は大人しいと言われた私が、その頃になると人と話すこともできるようになり、会話もスムースにできるようになっていた。 私達の仕事は安全に関することなので、大きな会社では安全課、そうでないところは安全の担当者がキーマンである。新規商品の売り込みは、殆どが先ず顔なじみの安全の担当者を訪ねて商品説明をし、そこでOKが出れば現場の担当者を訪ねて、次に資材課または会計係となって一つの商いは完結する。 (写真の地図は北九州市の八幡西部から若松区) (下の写真は八幡西区の三菱化学の夜景、ネットから借用) (下の写真は八幡の高塔山から若戸大橋と若松区を望む、ネットから借用) 引き継ぎも終わり、いよいよ独り立ちするようになりいくらか気持ちの余裕も出てくると、客先に向かう間の車中で聴くラジオも楽しみになってきた。そのことも当ブログ2013年4月2日に「ラジオと私」というエッセイに書いたが、面白い番組もあって楽しみながら運転をした。特に前記の筑豊方面に営業に行く火曜日は100kmくらい走るのでラジオは楽しみだった。営業での楽しみは昼食もその一つだったが、筑豊に行く日は田川市から飯塚市に抜ける201号線にある烏尾峠(通称はカラス峠)のドライブインで食べる「モツ鍋」だった。社内で食べる日は弁当持参もあったが、営業ではほとんどが外食であり、たまには安全の担当者に社内食堂に誘っていただきご馳走になることもあった。こうして、思い出すままに書いているが、この時代のことは手帳など一切残っていない。私の記憶ではこの頃から会社発行の「Safety Diary」に少なくとも主要な行事は書いていたのだが、全部廃棄してしまったようだ。逆にM安全を一応退社して鹿児島に帰って独立する昭和56年(1981)から今日までの約40年間分の簡単な手帳は残っている。 ⑩ (写真の地図は飯塚市を中心とする筑豊地区)
2022.08.08
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昭和44年(1969)11月20日に銀行を退職し翌日の11月21日から転職先のM安全株式に勤め始めたことは前回までに書いたとおりである。 仕事は業務係だったが、営業マンから回ってくる受注カードやお得意さんからの電話での注文を受注カードに書き込み、倉庫にある備蓄品であれば納品書を作成し、営業や配送に配達品として回し、商品がなければそれぞれのルートへ発注をする。仕入れは本社の各部門(当時は安全靴・安全用品・作業服など)への発注、現地仕入れ先への発注など多岐に渡るが、当時はFAXもない時代で発注書を書いて郵便で送るか、急ぐ物は電話注文する状態だった。受注カードを書いてから、その商品が揃って納品書に書き込むまでの仕事が業務係の主な仕事だが、その他にも倉庫の補助業務、荷造りの加勢、一括納品時の補助業務など何でもやった。 特に前回書いた新日鉄への安全靴の仕分けと配達は支店全員でやる大きな仕事であり、かすかな記憶では年に2回位に分けて八幡・戸畑各製鉄所へ配達していたと思う。もう数は忘れてしまったが、一回の配達が数千足に及んだのではなかったかと思う。その時は休日出勤をし、各部門ごとに先方からいただいたサイズ表に従って段ボール箱に詰め込んでいき、翌日から全員で手分けして各部門まで配達に行くのだ。たまたま私達のグループで配達に行った第2ストリップ工場(実際にこういう名前の工場があった)で安全靴の検収作業をやってくれたのは、あのマラソンの君原健二選手だった。32歳でマラソン選手の現役を引退したというからちょうどその前後である。日頃から通退勤をするのに国道3号線沿いの我が社の前を走っているのを見かけるものだったが、工場で会ったときには驚いた。何しろ50年前のことなので私も思い出しながら書いているが、現代のITの時代から考えるとまさに隔世の感がある。通信・運搬・その他諸々も。 一方で家庭生活では銀行の社宅を出た後、隣の戸畑区に近い「中井」の民間アパートを借りて引っ越した。そのとき年子の長女、長男がいたが、しばらくして二男も誕生し、5人家族となる。通勤は小倉北区の「中井口」から西鉄電車に乗り、戸畑区の「幸町」経由で八幡東区「中央町」を通過し「前田」で降りるという毎日だった。 (下の路線図は当時の西鉄電車の北九州路線図、ネットから借用) 中井のアパートに落ち着いた頃、私が学生時代に家庭教師をしていた教え子が同じ銀行に入社し、偶然にも私と同じ小倉支店に赴任してきたことを➆で書いたが、そのKRくんが、今度は中井のアパートを訪ねてきて、「自分も転職したい。M安全に世話してくれないか」とのお願いである。彼が頻繁に訪ねてくるのでアルコールの苦手な私が酒好きのKRくんのために「サントリーレッド」を買い置きし彼はそれを喜んで飲んでいたのを思い出す。私の転職先に彼が転職してくると、うまくいかなかった場合、彼の親御さんたちにも申し訳ないので私も躊躇していたが、遂に彼の熱意に負けて、一緒に鹿児島に帰って親御さんたちに説明を仕様ということになって帰鹿した。何十回となく通った彼の家ではオジサンたちも集まっておられて、衆議一決転職OKとなった。その後、会社にお願いしたが、九州各店では人員は充足しており、関西の尼崎支店なら空きがあるという。KRくんも、それでOKということで尼崎に向かった。その後、彼も順調に歩を進めて尼崎の支店長にまで上り詰めた。転職後数年間の独身時代は夏休みになると、我が家に帰ってきて二人で大分の九重連山のキャンプ登山に行ったものだ。最後は私のいる鹿児島で引取り、会社人生を全うした。 九州支店では私が入社した翌年、高卒の男の子が入社してきた。今度は私が業務の仕事を彼に教えながら彼は自動車学校にも通って免許を取得した。真面目ないい男の子だったが、お父さんの跡を継いで若松区の消防士になるということで3年後くらいには退社してしまった。 2年くらい業務の仕事をして、仕事にも慣れてくると会社の全体を見る余裕もでてきた。私は近い将来経理の中心になるようにと言われていたが、私のそれまでの中で感じたのは「この会社は営業で生きていかないと面白くないな」ということだった。そこで一念発起、支店長に相談すると「そういうことであれば応援します。車の免許も時間中に自動車学校に行って取得しなさい」という有り難い言葉をいただいた。勇躍30の手習いで自動車学校に通うことになった。➈ (下の写真は幸町の電停、ネットから借用)
2022.07.22
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昭和44年(1969)11月21日、新しい職場・M安全株式九州支店に初出勤した。場所は北九州市八幡西区前田町の3号線沿いにあった。なお、私が長崎に転勤した後、従来の支店から3号線の反対側200mくらい先に自前の土地・建物にして現在地に引っ越した。当時は目の前に八幡製鉄(株)の煙突が見える場所である。引っ越した後は、八幡製鐵所の西門の入り口の右側に位置する絶好の場所になった。それより前、昭和43年に八幡製鐵(株)と富士製鉄(株)の合併が発表されていたが、公取委の独占禁止法云々があり、両製鉄所が合併し新日本製鉄(株)となったのは、私が転職した翌年の昭和45年(1970)3月31日である。その後、2012年10月1日、住友金属を合併し新日鉄住金(株)となり、2019年4月1日、日本製鐵(株)に社名変更し現在に至っているようだ。 八幡製鐵所のことにこだわったのは、M安全(株)にとって大きな取引先であり、当時から八幡製鐵所に安全靴(上の写真にある、爪先に鋼板が入ったもので種類はたくさんある)を独占して納める納入業者だったからだ。八幡製鐵所への納入靴は特注で通常「ゥ0G]と呼んでいたが、革はウグイス色だった。もちろんその他の安全用品も数多く納めていた。 新入社員の私を入れても当時の支店の社員数は15名くらいだった。支店長、次長、営業4人、業務2人、経理2人、倉庫1人、配送2人という布陣だったと思う。私の初めての仕事は「業務係」である。支店長から「将来、支店の経理の仕事をやってもらうが、先ずは商品やお得意さんを覚えるように」ということで仕入れや電話応対、暇なときには倉庫に入って商品の勉強もすることになった。私自身、人間がいい加減なこともあり、銀行から全然雰囲気の違う職種・仕事であったが特別な違和感は無く、うまく溶け込めたように思う。会社は昭和28年創業の若い企業だったが安全靴を日本で一番最初に作ったこともあり、当時から安全靴のシェアは日本一であり、安全靴の生産工場も持っていた。その他に作業服の縫製工場もあった。その他、ヘルメット(後に自前の工場を持ち生産するようになる)、防塵マスク、防毒マスク、防塵メガネ、フェースシールド、耳栓、各種手袋、安全標識なだなどあらゆる安全用品を扱い、それぞれの有名メーカーの代理店として販売していた。それだけに商品知識を得ることや仕入れも多岐に渡るので、仕入先との交渉など大変だったが、仕事を楽しむことができた。 得意先は八幡製鐵所を始め、小倉の住友金属工業、それらの協力企業、戸畑、若松、門司の工場群、筑豊の炭鉱やセメント会社など工場と名のつく工場のほとんどと取引があった。しかし当時のことで重工業が主体であり、またそこが多くの安全衛生保護具を必要としていた時代でもあった。 九州支店には、後に九州支社も併設されるのだが、九州支店が日本を代表する重工業のお得意さんが多かったことや、当時九州にあった福岡出張所、長崎出張所、大牟田出張所、大分出張所のまとめ役の仕事もあって、常務取締役が支店長であった。当時は九州も含めて全国の販売網は50ヶ所くらいだった。現在は180ヶ所になっている。今日は固い話になってしまった。 ➇
2022.07.12
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(写真は平和通り、私がいた当時はなかったモノレールが開通し街の景観も一変している)私が銀行に入社し北九州の小倉支店に配属されて、仕事も出納・会計係、預金係を経験し、未熟ながら銀行業務にもいくらか慣れきたといことを前回書いた。それ以前にも書いたように、小倉支店は当時のF銀行の建屋を居抜きで買ったようで店舗は立派で風格のあるものだった。ただ京町銀天街の賑やかな場所だったので今思うにF銀行も大通りに面した場所に転居したのだろう。しかし、モータリゼーションの大きな波の押し寄せる中で、支店に駐車場も無く、お客さんの要望や先々を見据えて我が銀行も馬借町に土地を買って支店を新築して移転した。(旧店舗は小倉駅の左前方、京町2の左側あたり、新店舗は地図の真ん中、真下市立医療センターの真ん前あたりにある。銀行の前も高いところをモノレールが走る) 新しい支店も2階建てではあったが、以前の建物の比べると小ぢんまりとしていた。しかし、新築だけに快適な職場であった。その頃から私は「貸付係」となり、銀行のお金を貸し付けて金利をいただくという銀行にとって要のポジションの仕事をしていた。それ等を経験した後に渉外係があり、お得意さんをまわり、新規の預金の獲得や優良な貸付先の開拓という仕事が待っているというのがおおまかな順番である。 貸付係は窓口に2人、中に1人、その上に係長という4人編成だった。私達ペイペイは窓口でお客さんの応対をするのだが、私に付くお客さんと、FRくんに付くお客さんがおり例えば私に付くお客さんはFRくんの窓口にお客さんがいなくても、私の窓口が空くまで待っているという現象が起こった。またその逆も、もちろんある。貸付はお金の貸し借りという微妙な問題なのでそういう事があっても不思議ではないと、今になって思う。月末になると返済のお金や貸付の借り換えをするために利息を払いに来るお客さんで、窓口は大忙しだ。頭を上げる暇もないくらいお客さんがズラッと並んでいる。そういう中で計算機もない時代の金利計算はソロバンで金額✕日数✕日歩を位とりしながらやらなければならなかった。慣れるまでは大変だがまあ大過なくできたのだろう。大きな事故もなかったことを考えると。 そういう中で珍しいことが起こった。私が大学4年生のとき、当時中学3年生だった近所の子供を家庭教師として高校受験の加勢をした子供が某大学を卒業して私と同じ銀行に就職が決まったというニュースだった。そして4月になって配属先が決定し、私のいる小倉支店にくるとのこと。なんというめぐり合わせか。しかもこれには近い将来第2幕もあるのでお楽しみに! そういう中で、古い店舗の時からそうだったが、新しい店舗に引っ越してからも若い連中も中堅どころも銀行を辞める者が出始めた。この頃は組合の分裂という不幸な事態を引き起こすような金融再編とかがいわれ始めた時期で、先行きの不安を持つのも仕方のない情勢でもあった。私の目の前でも4,5人の者が辞めていった。他の支店でもそういう動きがあるということが入ってくる。現代は入社数年のうちに辞める人の比率が相当に高いと聞くが、当時は「一回入ったら一生の仕事」と言われる時代で、簡単には辞めるような時代ではなかったが、現実はそういう動きが多くなっていた。 そうする中で、結婚一年後に長女誕生、翌々年3月には長男が誕生し年子の子供を抱えることになる。2年位前から考えてはいたのだが、そういうことをキッカケに私も将来のことを真剣に考えて転職先を探し始めた。そういう意志のある信頼のおける同僚ともいろいろ話をしたりしていた。そのうちの一人がいい会社が見つかりそうだと言う。聞くと私の窓口にみえるお客さんの紹介だと言うではないか。その同僚NKくんは渉外係としてそのお客さんを担当する中で、転職の話をしたらしい。そのお客さんSBさんは、ある安全産業の下請けとして農業の片手間にヘルメットの新品の内装付けとマーク加工・古いヘルメットの塗り替えをする業者だった。私はSBさんがその会社から仕事代金として受け取って持ち込む手形の割引を担当していたのだった。もちろんその手形を割引するためには、それまでに然るべき調査はやった上でのことだったので、大体のことはわかっていた。しかもその会社は伸び盛りで二人でも三人でもいい人がいれば採用するという。しかし肝心なNKくんは別な会社に行くことになってしまった。私は直接SBさんに話をして会社のことを聞くなどし、面接にまでこぎつけた。 そして9月某日、八幡東区にあるその会社の九州支店に赴き常務取締役の支店長の面接。話はトントン拍子に進み、就職決定。その会社が11月20日が半期の締め日ということで11月21日からの出社となる。銀行には11月20日付けの退職届を提出し、受理される。その後バタバタと八幡西区の会社と妻の里に近い小倉の民間アパートを借りて引っ越した。銀行在職は小倉支店にみで7年8ヶ月。ときに昭和44年(1969)29歳の秋だった。➆
2022.07.04
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Tくんの銀行生活も3年くらい経った頃、銀行では支店を新築し移転しようという話が出ていて、賑やかではあるが駐車場もない京町銀天街から馬借町(ばしゃくまち)への移転ということで建設が始まった。Tくんは、出納・会計の仕事から預金係へ移動し、銀行の仕事にも次第に慣れていった。支店には支店長、次長の管理職と出納・会計係、預金係、貸付係、渉外係、整理係(貸付金が倒産などで焦げ付き回収できなくなった金を取り立てたりする係)それぞれに係長がいて、その下にそれぞれの仕事に応じた人員が配置されていた。小倉支店は総員で24,5名だったと記憶している。 (写真はネットから借用) その間、彼女との関係も順調? に進んだのだろうか、すったもんだした事もあったような気もするがデートを重ねたり、彼女の仕事がH家電販売の電話交換手だったので業務終了後の事務所から電話を架けたりするうちにい、いよいよ結婚ということになる。私が25歳、彼女が22歳の昭和40年11月23日、勤労感謝の日が結婚式であった。結婚式は北九州市小倉北区にあった「新小倉ビル」のホールを借りての簡略化したもので、コーラスの仲間たちなどがが実行委員会を作ってくれての人前結婚式である。実行委員長は同僚であり男声カルテットの仲間でもあったMくんが引き受けてくれた。人前結婚式は賑やかで私もトップテノールで歌ったフォーガイズなどの歌の演し物、最後は私と彼女の二重唱「赤とんぼ」で締めくくったような記憶がある。もちろん私の親族や彼女の親族も出席してくれたが、普通の結婚式とは異なり、紅茶とケーキという簡単なものだった。私の親族は結婚式が終わった後、小倉駅近くのレストランで結婚式の当事者のいない「会食」をしながら「お腹の空く結婚式だった」と笑いあったそうだ。 当時は結婚すると富野にあった社宅に住むようになっていたが、その時は社宅に空きが無くて、南小倉のアパートを借りることにした。家主はお客様だったので、喜んで貸していただいた。しかし、そのアパートには一年も住まないうちに富野の社宅に引っ越すことになる。木造の二軒続きの古い家で風呂は石炭で沸かしていた。しかし、隣に住むKR先輩にも恵まれて夫婦とも気兼ねなく住むことができた。貧乏な私たちはカラーテレビどころか、白黒テレビもコーラス仲間から安価のものを世話してもらってやっと持ち始めたこの頃、世間ではカラーテレビなるものが普及し始めた。隣のKRさんは早速買われた。ちょうど前田武彦と芳村真理司会の「夜のヒットスタジオ」が始まった頃で、KRさんが、その時間になると窓から顔を出して「クマタツさん、テレビを見ませんか」とお誘いをいただき、夫婦で見に行ったものだ。当時は歌謡曲全盛の時代だったが、「夜のヒットスタジオ」はそれまでの歌番組とは一味違っていた印象がある。今でも記憶にあるのは伊藤ゆかり・恋のしずく、中村晃子・虹色の湖、ゆうべの秘密・小川知子、ブルーライト・ヨコハマ・いしだあゆみ、恋の奴隷・奥村チヨ、恋の季節・ピンキーとキラーズなどなどである。歌謡曲も大好きな私にとってカラーテレビで見る歌は至福の時間であり、今になっても忘れることはない。 「Tくんの物語」6回目次回は銀行最後の勤務から転職への動きを書く予定である。
2022.06.27
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窓口業務である出納係と出納帳記帳の仕事から1年位経って、それに加えて一日の〆である「総勘定元帳」をつくる仕事が回ってきた。 銀行の場合、皆さんご存知のように午後3時には店を閉じてしまう。そのため窓口でのお客さんへの応対は終わるが、店を閉じたあとは、全ての係でその日の〆をやらなくてはならない。会計係にはその日の伝票が全部まわってきて、それを科目ごとに仕分けをし、借方、貸方に記帳し全ての勘定を〆て貸借を合致させなければならない。これも一筋縄ではいかない。昔のことで記憶違いもあるかもしれないが、例えば貸付係では現金は一切動かなくても貸付金額の全てを振替伝票で処理する。貸付が100万円あると、その全てが普通預金とか当座預金に入るのではなく、それまでに掛かった費用とか手形の印紙代などを差し引いた金額が振替入金される。その振替伝票の中で貸付手形に貼った印紙代の伝票を貸付係が、うっかり切り損なってそれをチェックした上司も見過ごすような事があれば、全ての勘定がその切り損なった金額分だけ合わないことになる。会計係は必死になってその差額を探すのだが、発見したときはホッとすると同時に、ポカをやった貸付係に怒りをぶつけたくなる。貸付係で思い出すのは、ほぼ総勘定が出来上がった頃、「この伝票を今日の勘定に入れてくれないか」と係長が頭を下げてみえることがあった。これなどもこちらとすれば、「もう一回作り直さねばならない」と思っても客先のこと、上司からのお願いであることなど考えると文句の一つも言いたくてもグッと堪えるしかない。まあ、どこの社会でもあることだろうと、我慢することも覚えた。 これも新入社員で出納の窓口に座ってすぐのことだったか、しばらく経ってからのことだったか記憶が曖昧だが、一日を終わって出納係でお金を合わせた後、100万円単位以上のお金は歩いて5分くらいのF銀行まで預けに行っていた。翌朝は、その日の出金の多寡に合わせて、また100万円単位で引き出してきて、その日の支払いに備えるものだった。もちろん保安上の問題も有るので単独行ではなく、必ず二人で行った。夕方はF銀行も正面入口は閉じているので、裏口から出入りをした。私の銀行の金庫も大きく厳重で人が何人も中で動き回れる金庫だったのに、危険を冒してまで朝夕F銀行まで行っていたのか当時は聞くこともなかったが、不思議でならない。金利稼ぎだったのだろうか。現在は各銀行とも警備付きの車でお金を運搬するようになっているようだが、正に隔世の感がある。警備で思い出したが、当時もう一つ大事な仕事があった。毎朝手形交換所に行く仕事である。この仕事は出納係の時だったか、預金係になってからだったか記憶が定かでないが、私が入社した当時はこの手形交換の仕事もF銀行に委託していたと思う。ただいつの頃からか自行でやるようになって、これも必ず二人で行っていたが、この仕事は手形交換所までの距離が少しあったことと保安上の問題もあって運転手付きの銀行の車で行っていた。どの銀行も社用車で来ていたので、手形交換所の前はいつも高級車でいっぱいだった。自家用車はおろか運転免許証など持った我が銀行の社員は一人もいない時代である。因みに手形交換というのは、他行の小切手や手形で入金されたものを交換所に持ち込み、逆に自行の分を持ち帰って決済するものである。このとき決済が出来なければいわゆる「不渡り」となり倒産とかに結びつくのである。銀行にとってはお客さんの社会的な信用に関わる仕事であり大切な仕事だった。今回、現在でも手形交換所は存在しているのかネットで調べて見たところ総務省から通達が出されて来年11月頃には手形交換所は廃止され「電子交換所」に変わるようなことも書いてある。早いところでは電子交換に変わっているのかもしれない。IT(コンピューターネットワークを使用した情報技術)の発達によって世の中はどんどん変わっていくようだ。 出納、会計の仕事を2,3年やっただろうか。次に与えられた仕事は預金係だった。毎日お金の出入りの多いのは普通預金だが、ここは女性が担当していた。私は当座預金や定期預金の担当だった。定期預金の払い出しがあれば金利計算をソロバンでやらなくてはならない。満期解約なら金利計算も簡単だが、お客さんの都合で満期前の解約があると、日歩計算をしなくてはならない。現在であれば計算機があるので簡単だが、当時はソロバンで桁取りをして慎重に計算するものだった。ただ係長が必ずチェックするし、係長不在の場合は次長がチェックするという形だったので、今回の山口県阿武町みたいな間違いはないようなシステムになっていた。3月、9月の決算前になると、預金係全員で土曜日の午後店を閉めてから普通預金の金利計算をやったものだ。これも現在なら日常的にパソコンに打ち込んだものがキーさえ叩けば金利も自動的に出てくるのだろうが、当時はソロバンだけが頼りだったので、詳細は省くが日歩計算をやって合計して、元帳に文字を書き込むという全く原始的なものだった。総勘定元帳も現在は夕方コンピューターを打てば自動で出来上がるようになっているだろう。 ここまで仕事の固い話ばかり書いてきたが、娯楽も広がってきた。銀行の営業室を片付けると広いフロアになるので、お客さんやF銀行の女子行員などを招待してクリスマスにダンス・パーティーを開いたこともあった。また当時はキャバレー全盛期であり、先輩から誘われて「月世界」や「新世紀」にも時々行っていた。当時はフランク永井の「13、800円」の歌のように給料がそのような時代に月一回でもキャバレーに行くと、2500円~3000円くらいの出費だったと思うので新入社員の私などはそうそう行ける場所ではなかった。一時パチンコにも凝った時代もあり、当時のマシンは手で玉を入れていたので、左手の人差し指にタコができるほどだった。100円で60発の玉が買えた時代だったと記憶しているが、あまり勝った記憶はない。それっきりもう何十年もパチンコ屋に足を踏み入れたこともない。お客さんの中に馬主がいて、小倉競馬にも何回か通った。これも勝った記憶はあまりないが、たまに「うな重」などをご馳走してもらったものだ。競輪の選手も二人お客さんでいたが、その選手を見に行って車券を買ったこともあった。とにかく北九州は遊ぶ場所には事欠かない街であり、気をつけないと身を持ち崩すことにもなりかねない恐ろしい所でもあった。市民文化ホールでの公演も楽しみだった。ダーク・ダックスや「オンリー・ユー」で一世を風靡したプラターズを合唱団のメンバーと一緒に見に行った(聴きに)のもいい思い出である。 「Tくんの物語」5回目
2022.06.03
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これまでに3回書いてきた「Tくんの物語」は三人称で書いてきて、文章を書く上で途中から書きづらくなっていた。そこに3回まで読んでくれた友人のKくん(「Kくん物語」の作者)からタイムリーに「一人称で書いた方が、連続ものを書くのには都合がいいよ」との助言があり、一人称に切り替えることにしてすでにアップしている3回分も躊躇なく一人称に書き換えた。この4回目以降も一人称で書くことにした。 昭和37年、鹿児島地元の銀行に入社した私がが小倉支店配属となり、少しずつ仕事を覚える中、翌年38年には大卒1人、専門学校卒1人、高卒1人、39年にも高卒1人と新入社員が配属されてきた。そういう中、3年目に従業員組合の分裂劇に遭遇する。私にとっては思い出したくもない事態であり、これまで知る人ぞ知るで、そのことは遠い昔のこととして封印し人に語ったことはなかった。正に自分の人生で一番暗い時代であった。しかし、自分の歴史を語るには避けて通れないことなので簡単に触れることにした。 当時は中小金融機関の苦境が語られる時期で、全国的に合併とか再編成とかでかしましい時代だった。そういう中で私の勤務する銀行も例外ではなく、当時の従業員組合に圧力がかかり、組合の力を抑えようとしていた。そしてついにある日、いわゆる第二組合が結成されたのだ。小倉支店で元の組合に残ったのはMくんと私、女性社員3人の合計5人だけだった。どういうことがあったのかわからないが、そのうち女性社員3人もいつの間にか第二組合へいってしまい、、正義感だけで残ったMくんと私には銀行もしばらくは静観するだけで、特別な圧力もかけてこなかった。Mくんと私に声がかからなかったのは、銀行側としては、日頃の二人の言動から声をかけても無駄だろうと思ったのだろうか。もちろん、声がかかっても当時独身でもあり、怖いもののなかった私は説得があったとしてもいく気はなかったのも事実である。あとで漏れ聞いたところによると、この日は全店で中間管理職が中心になり、一斉にそのために動いたそうだ。小倉支店では業務終了後、野球か何かをやろうということで、Mくんと私以外の若手が外に連れ出されて説得を受けたようだ。その集まりから帰ってきた若い連中が私達の前で泣きながら説得されたこと訴えたことを覚えている。今となってはMくん私の二人が何年間、従来の組合に残ったか記憶にないが、そのうちMくんに転勤の辞令がきて小倉支店から新任地に行ってしまった。そしてやがて二人とも新しい組合にいくことになる。しかし、その分裂からの数年間は銀行からも他の社員からも特別に酷い仕打ちにあった記憶もないが、いきなり同じ職場の人間が二つに分裂することを仕掛けられて支店の雰囲気もそれまでとは違うものになるのは避けることはできなかった。そして人間社会の厳しい現実を味わうことになった。私にとっては、人のあり方や人の生き方について深く考えさせられる貴重な時期になった。 それより前、前回に書いたように「小倉市民合唱団」に入団して、再び歌う楽しさを味わい、新しい仲間もできて、誘って入った同僚のMくんと二人で青春を満喫していた。そういう中での組合分裂だった。 いきなりだが、ここらで恋の話を。恥ずかしがり屋で奥手だった私が組合問題より、もっと避けたい話題であるがこれも避けて通れないので思い切って告白しよう。妻との出会いは「小倉市民合唱団」の練習会場である湧金幼稚園。ときに私は22歳、彼女18歳の秋。私はテノール、彼女はメゾ・ソプラノ。二人共若かった。今からちょうど60年前のことである。初めて見たときには、世にいう一目惚れとかではなかった。(のではないか。そこらは微妙)練習に通ううちに当時の団の幹部たちがメンタルハーモニーの必要もあってか、練習後のお茶に誘ってくれるようになった。前に紹介した団の中で気の合う野郎ども4人で男声カルテット「フォーガイズ」も同じグループから生まれた。そのグループに彼女もいて、フォーがイズの楽譜を4人分つくってくれたりしていた。そういう中で私は次第に彼女に惹かれていったが、奥手の私は具体的に動くことはなかった。その雰囲気を感じたのか、言い出せない私を見かねたのか、自分から私に「彼女に話してみようか」と恋のキューピットをつとめてくれたのは「フォーガイズ」のセカンドテノール・ケンチャンである。小倉に行って1年位経った頃のことではなかったかと思う。初めてのデートは映画「ウィン少年合唱団」を見に行った。 ここまで汗顔の想いで書いてきたが、結婚に至るまでのことは気が向いたら書くことにしよう。「Tくんの物語」4回目
2022.05.25
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(写真はネットから借用。Tくんの時代は右の北九州市役所は勝山公園だった)鹿児島から遠くに出たことのなかった私は、鹿児島の地元銀行に就職して、勤務地は本部・本店が鹿児島市にあるから勤務地も県内だろうと思っていた。ところが数ある支店の中でも福岡支店についで2番目の都会店舗である北九州の小倉支店に配属された。田舎の銀行だから若いうちに都会店舗で鍛えてこいということだったようだ。何はともあれ勤務地に落ち着いて仕事を始めたことは前回までに書いたとおりだ。 さて出納係となった私は、窓口に座り、札勘定と出納帳を記帳する毎日だった。窓口に座り、お客さんの持ち込むお札の勘定と出金の札勘の日々である。元々、文系の私は出納帳一つの記帳にも間違い多発し、数字の厳しさに直面して〆の時間が苦痛になることもあった。 しかし、いいお客さんや先輩に育てられながら日々日常の仕事をこなしていくことができるようになっていった。一方で日常生活は、独身寮の生活だったが、先輩にも恵まれて日々順調だった。日曜日は寮母さんも休みで、昼頃起きた男どもが5,6人独身寮の入口部分にあった宿直室に屯して朝食と昼食を兼ねたご飯を食べたのだが、どういうものを食べたのか全然覚えていない。日曜の夜は外食に出かける人もいれば、気の合った仲間同士でご飯を炊いておかずを作って食べるなど様々だった。 (写真はネットから借用) 独身寮の食事場所は宿直室ということもあって、テレビが置いてあった。当時のことで白黒テレビである。そのテレビが男どもにとっては唯一の娯楽施設でもあった。日曜日の昼は「ロッテ 歌のアルバム」を大体見ていた記憶がある。「一週間のご無沙汰でした。玉置宏でございます。お口の恋人 ロッテ提供『ロッテ 歌のアルバム』・・・」という軽妙な司会で始まっていたようだ。当時の売れっ子歌手を呼んでヒット曲が歌われていた。そういう中で鹿児島出身の西郷輝彦が「君だけを」を引っさげてデビューした。続けて「十七歳のこの胸に」が大ヒット。ロッテ歌のアルバムに当時の御三家 橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦として、再三登場していた記憶がある。日曜の夕方は「てなもんや三度笠」後に渋い俳優となる「藤田まこと」の駆け出しの頃のドラマである。小さな坊さん・白木みのるも可愛かった。そして、その頃から少しづつテレビに出演し始めた高校の同期生「草野大悟」。ある夜、テレビの事件物を見ていると犯人役としていきなり草野大悟がテレビに登場した。文学座に入って俳優を目指しているとは風の便りに聞いていたが、いきなりのテレビ画面には驚いた。その後の彼は、舞台、映画、テレビに独特のキャラクターで活躍していたが、わずか51歳でこの世から去っていってしまった。今頃彼ありせばどのような大物俳優になっていたのかなと思うと残念でならないと今でも思う。そういう生活の中で少し気持ちの余裕? が出てきた若い私は小倉の街にも慣れてきて、なにか物足りなさを感じて、学生時代に歌った合唱を再びやってみたいと思うようになってきた。どういうきっかけで探し当てたか今になっては忘れてしまったが、混声合唱団の「小倉市民合唱団」を見つけた。できれば学生時代と延長上の男声合唱団で歌いたかったのだが、近くにそのような合唱団はなかった。そこで私より3歳下で仕事では一年先輩だったMくんを誘って一緒に練習風景を見学に行った。私が独身寮で2階に移ってからはMくんと同室になったが、そのMくんとは日々親しくなり休日には二人で出かけて、たまには私にとっては珍しいご馳走である焼肉や餃子など食べたりもした。またMくんは歌も上手で、飲ん方(飲み会)では皆のリクエストで村田英雄も真っ青になるような歌声で「王将」を歌って拍手喝采を受けていた。 「小倉市民合唱団」(現在も「北九州混声合唱団」として活動中)は、当時私と同じような年齢の男女が中心であった。そのためMくんも私もすぐに合唱団に馴染むことができた。曲は「春の日は花と輝く」など馴染みやすい歌が多かったのも良かったのだろう。若い人が多い中で北九州でのいろいろな演奏会への出演を中心に合宿やピクニックなど活動は多彩なものだった。合唱団は、年配の人もいたが、若い人たちが中心だったので、どこのグループでもそうであるように、練習の後、喫茶店などに行くこともあった。そういう中でお互いの人となりもわかり、その中で気の合った男性4人でカルテット(ここでは男声四重唱)をやろうということになり、「フォー・ガイズ」(四人の野郎ども)を結成した。その「フォー・ガイズ」の思い出についてはクマタツが2019年9月6日のエッセイ「男声カルテット『フォー・ガイズ』(4人の野郎ども)」に書いているのでここでは割愛する。そのような二度とない青春を私も人並みに過ごせたように思う。(続く) 「Tくんの物語」3回目
2022.05.07
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イラストはネットから借用した。 これは60年前、銀行に就職した「Tくんの物語」とした私の物語である。。昭和37年4月 鹿児島の地元銀行に入社した私は、それより前36年夏に入社試験に合格し、37年の3月、本部で新入社員研修を1週間くらい受講したという。入社したのは男子大学卒が7,8人、男子高卒10人くらいと、高卒女子の数は全然覚えていない。その全員が同じ研修を受講したが、内容はほとんど覚えていない。講座は本部のホールや会議室であったが「札勘定」「窓口応対」「電話応対」の実務以外はどういう内容だったかこれはもう全て忘却の彼方に在る。札勘定は皆さんが窓口で銀行員が両手でお札を振るようにして扇形に広げた後、札の上端を数えていって50枚を区切りにするのを見たことがあると思うがあれが札勘定である。私の勤務した銀行では扇形に広げたお札を4枚ずつ12回数えて最後の2枚まで入れて50枚にする方法だった。銀行によっては5枚づつ10回数えて50枚を一区切りにするところもあるという。50枚が二組集まれば千円札なら10万円、一万円札なら100万円の札束にするのだ。これを銀行では通常「札勘」と呼んでいるが、扇形に広げる「横読み」の他にお札の束を縦方向に持って数える「縦読み」の方法がある。この時、最後のお札で「パチン」と音を出せるよになれば一人前だったいう。私が少し覚えているのは、土曜の午後か日曜日だったかに、本店営業部の広いフロアで「電話応対」や「出納窓口での受付・札勘定」の実務があったのだが、慌てて幾つも失敗をした。その札勘定も現在は機械がやってくれるのかよくわからないが当時は研修でも先ずはこれという必須の科目だった。 研修の終わった私たち新入社員にそれぞれの新任地が発表されて、私の初任地は夢にも思わなかった小倉支店だという。私にとっては、正に青天の霹靂で、生涯でもっとも驚いたことだったと今でも思う。発令のあったその日のことは私は鮮明に覚えていて、銀行の近くのいずろの海岸近くにあった親戚の会社に勤めていた母親のもとに真っ先に駆けつけて報告をした。母子家庭で長男だった私は将来母親の面倒をみるためもあって地元の銀行に就職したつもりだったのだが、初任地とはいえ、とんでもない遠いところという感覚が当時まだ「井の中の蛙」だった私にはあり、ただ戸惑うばかりだった。 いよいよ私がが新天地・小倉 へ出発の日はきた。当日は現在「鹿児島中央駅」となった西鹿児島駅からではなくて、「鹿児島駅」らの出発だった。鹿児島駅では家族のほか大学時代一緒に歌った「男声合唱団 フロイデ・コール」の同級生や後輩たち、家庭教師として数年間、逆にこちらがお世話になった附属小学校の男の子やそのお母さんなど多数の見送りを受けて不安の中にも希望も入り混じった気持ちで出発した。 小倉駅に着くと右も左もわからないだろう私を迎えるために先輩のAさんとMさんが迎えに来てくれていて、職場兼独身寮のある京町銀天街の小倉支店まで案内していただいた。見慣れない九州有数の繁華街を期待と不安の入り混じった気持ちで先輩方についていく私は傍から見るとどう見えたのだろうか。初めて着るスーツは? ネクタイは? 似合っていたのだろうか。? 今も私は思う。誰でも一回は通る道ではあったようだが・・・。小倉支店の予備知識は全然持たずに行ったのだが、銀天街の中にあったこと、建物が立派だったことには驚いた。それもそのはず、以前は都市銀行のF銀行の建物だったというのだ。店舗部分は2階まで吹き抜けで広々としていた。ただ先日も書いた私の独身寮の部屋は1階の宿直室の奥にあり、ビルの谷間でもあったので一日中暗い部屋であった。しかし、半年後には2階の先輩が一人転勤異動があったので、私も2階の明るい部屋に引っ越すことができた。私のいた1階の部屋には転勤してきた同年齢の独身者が入った。 支店で配属された係は「出納・会計係」だった。ベテランのおじさん行員が後ろに控えていて、私は若い女子行員と窓口に並んでお客さんと直接お金のやり取りをする仕事だ。お客さんからの入金を私と女子行員のどちらかが受け取ってそれを研修で体得した「札勘」をし、入金表に金種ごとに数字を記入し、後ろに控えるベテランおじさん行員に渡すと、それをおじさん行員が間違いがないか「再勘定」して「預金係」などに伝票を回して一つの仕事が終わるのである。出金の場合は後ろから現金と伝票が回ってきて「再勘」をし、予め渡しておいた「番号札」と引き換えに窓口のお客さんに現金を渡すのである。当時はパソコンどころか計算機もないし、計算は全て「そろばん」でやっていた。「そろばん」は小学校で少し習っただけだったと記憶する私も何とかこなした記憶があるので、そういう意味ではのんびりした時代だったのかなと思う。出納係としては一日のお金の出し入れを出納帳に記入する仕事もあり、窓口業務の合間を縫って入金、出金を全て記帳し、午後3時になったら、渉外係(一日中お得意さん回りや新規のお客さんの開拓をする仕事)の帰りなども待って、全ての記帳の後、いよいよ出納帳を〆て、その残高が現金や小切手などの合計金額と合うかを見なければならない。一発で合えば「一算ごめい」(一算合明)となり、出納係の仕事は終わのだが、私みたいな新入社員はなかなか合わずに苦労したものだ。これが世間の人が言う「銀行員は、その日の勘定が1円でも合わなければ、帰れない」ということだ。その場合には伝票と出納帳の記入間違いはないかということから始めるので大変だった。ただそのことで、お客さんにまで迷惑をかけたことはなかったのが幸いだったと今になっても思う。 今日は私が新入社員として初めて経験した専門的な退屈な出納係の話中心で終わってしまったが、この辺で〆て次回を期すことにしよう。 「Tくんの物語」2回目
2022.04.27
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2009年8月撮影 これは「Tくんの物語」とした自分の物語である。今年は令和4年(2022年)、私が社会に出たのは昭和37年(1962年)であった。それから今年はちょうど60年目であり、社会人としても今年は還暦を迎えたことになる。私は大学を卒業して地元の銀行に入社したが、その初任地が思ってもいなかった小倉支店であった。小倉市、八幡市、戸畑市、門司市、若松市が合併して「北九州市」になる前年のことである。あの東京オリンピックは更に翌年の昭和39年であった。 鹿児島市という中都市に育ち、ほとんど大きな都市に行ったことない私にとって、翌年は100万都市となる北九州市の中心都市・小倉市は、刺激的で、目を見張ることばかりだった。小倉支店は小倉駅から歩いて5分くらいのところで、北九州一の繁華街・魚町と交差する京町銀天街の真ん中にあった。独身寮も銀行店舗の裏側にあり、赴任の初日から繁華街の中で生活する毎日となった。赴任当時の小倉支店の人数は私を入れて支店長以下21人(男性18人、女性3人)で、男性独身者7人が裏の独身寮で暮らしていた。寮母さんは通いで、早朝に来て、宿直者が横にある戸口を開けて迎え入れる形をとっていた。そして、宿直者を含む朝昼晩の食事を準備して、夕方は4時くらいには帰っていたようだ。当時週休2日とかは話題にものぼらない時代で土曜日も午前中は仕事だった。そういう中で毎週土曜日の昼に出されるカレーライスは大きな楽しみだった。日曜日は自分たちでそれぞれ炊事するか、外食するかだった。たまに自分たちでご飯を炊くようなことがあると潔癖な先輩のAさんから「米は水が透明になるまで洗えよ」と指示があるものだったが、そうすると栄養分が無くなるので誤魔化して適当に洗っていた。現在のように手軽に安価な弁当を買えるような店はなかったように私は記憶している。 京町銀天街の中にある支店の周辺は商店や飲食店が多く、夜も遅くまで賑わっていた。通りの入口近くには「森下そばや」があり、当時は大晦日も遅くまで仕事をしていた私たちは銀行から支給される「年越しそば」の食券を持って交代で食べに行っていた。支店の右隣には喫茶店「マヤ」があって、コーヒー通のお客が通う有名店だった。銀行のお客さんの中にも毎日コーヒーを飲んでから来る人もいた。銀行の左隣は「肉の大阪屋」その隣は鍋焼きうどんがおいしい「若竹」があった。私と仲の良かったNくんはこの「若竹」に通ううちにレジ係の店員さんと仲良くなって結婚してしまった。他にも先輩行員が近所の店の娘さんと結婚したと聞いたことがある。支店の真ん前には「小林文具店」があり、その右側数件先には「長田理髪店」があった。長田理髪店は大きな店で奥に向かって10コくらいの理容椅子が並んでいた。この長田理髪店の大将が「小倉祇園太鼓」になると絶妙な太鼓叩きをする人だった。小倉祇園太鼓は各町内毎に山車に載せた太鼓を持っており、京町の山車は銀行の倉庫に保管してあった。7月初めになると町内の世話役たちが集まって山車を倉庫から曳き出して「打ち初め式」が行われ、それから毎晩本番の日まで練習が行われる。私など部外者はそれを遠巻きに見ているだけなのだが、本番になると銀行にも二人の動員要請がくる。当然のように若い方から二人が出ることになり、揃いの浴衣をもらって私も2年連続で出場した。もっとも太鼓を打たせてもらうことも、また打てるはずもなく、山車の露払いや山車の綱を引っ張るくらいが私たちの仕事であった。 鹿児島から出ていった私は食べ物でも食べたことのないものがたくさんあった。昭和37年(1962)といえば、昭和30年(1955)頃から始まった高度成長期の波に乗ることもなかった家庭に育った私にとっては大都会小倉は珍しくて美味しい食べ物の天国だった。小倉には大きな中華料理店があり、餃子などは店頭でも販売していた。また朝鮮系の人々も多く、道を歩くと彼らの経営する焼肉屋から美味しそうな匂いが流れ出ていた。そういう食べ物を初めて味わうのも楽しみの一つだった。もっともそういうものも、たまにしか食べることはできなかったが。京町銀天街を室町側に出たところに美味しいラーメンを食べさせる屋台があった。ラーメンを置いて食べる台もないので、手で持って食べるのだが、親父さんが雑巾のような汚れた厚い布を一緒に差し出してくれるのを左手の手のひらに載せてからラーメン丼を持って食べるものだった。これがあとを引く味で、同僚たちと夜遅く、銀天街の中を下駄をカラコロ言わせながら何回通ったことか。今も私には忘れられない味である。また、京町銀天街と交差する魚町銀天街にも夜になると屋台が数台出た。当時は「おはぎ」や「餅」などを売っていたようだ。 小倉城 2009年8月撮影 下の地図はネットから拝借 私の職場の銀行支店は「京町銀天街」にあった。もっとも銀行支店は私の小倉在任中に馬借町に新築して引っ越したので、その後はパチンコ屋になっていたが、数年前にTくんが訪れたところビジネスホテルになっていた。そしてその他の店舗や飲食店もほとんどなくっており「小林文具店」だけが残っていた。正に昔日の想いがした。「Tくん物語」の一回目はこの辺にしょう。小倉城
2022.04.16
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