きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

7・3、創価の師弟の日

2006年7月9日 23:17:03

『聖教新聞』 2006年7月3日付

全国代表協議会での名誉会長のスピーチから(下) (抜粋)

国家悪との闘争

 今年もまた、師弟の魂を刻む7月が巡り来る。 「創価の師弟」 の殉難の歴史は、永遠に輝き渡る。

 ご存じの通り、正法正義を掲げ、国家悪と戦い抜いた牧口先生、戸田先生は、昭和18年(1943年)7月6日に逮捕。

 牧口先生は昭和19年11月18日に獄死され、戸田先生は昭和20年7月3日に出獄された。

 法華経を持ち行ずる人は、必ず迫害される。

「悪口罵詈」 され、 「猶多怨嫉」 の難を受ける。

 これが法華経に説かれた方程式であり、広宣流布を成し遂げんとする人にとっての、いわば “宿命” である。

 この経文の通りに、牧口先生も戸田先生も、弾圧され、投獄された。

 第3代の私も、さんざんに嫉妬された。追い落とすために、どれほど、ありもしない作り話を書かれ、迫害を受けてきたことか。

 広宣流布を前進させたがゆえに、私も両先生と同じく、権力の迫害を受け、牢に入った。 「大阪事件」 である。

 しかし、法華経の眼から見れば、それらは、むしろ名誉なことだ。最も正しく、広宣流布を成し遂げている証拠だからである(大拍手)。

 〈 「大阪事件」 は、1957年(昭和32年)の参院選大阪地方区補欠選挙で、一部の会員に公職選挙法の違反者が出たのに伴い、同年4月3日、支援責任者だった名誉会長が不当逮捕された事件。
 事件の背景には、急速に発展する学会への、当局の警戒感があったと考えられる。
 大阪地裁での裁判で検察側は、一連の違反のうち戸別訪問が池田名誉会長の指示によるものとの主張を展開。しかし公判を通じて、検察側の言い分は崩された。 「禁固10カ月」 が求刑されたものの、昭和37年1月25日、田中勇雄裁判長から、名誉会長の 「無罪」 の判決が下された。
 もとより無実の罪であり、当然の公正な判決であるが、月刊誌 「潮」 で連載中の 「平和と文化の大城 池田大作の軌跡」 によれば、田中裁判長はのちに、 「池田会長は他の人と違う。輝いている。この人は将来、ものすごく偉くなる人」 と周囲に印象を語っていた。
 また公判担当の検察官も、判決の直後に、池田名誉会長に 「このような結果になるのではないかと思っていた」 と語りかけたという〉

逮捕直前まで折伏、座談会へ

 今日は牧口先生、戸田先生の遺徳を偲びつつ、両先生が逮捕された経緯がどのようなものであったのか、あらためて確認しておきたい。

 牧口先生は昭和18年7月2日、二人の会員を伴い、伊豆の下田へ折伏にされた。2日、3日、4日と連日、折伏のための座談会に出席。五日も現・下田市須崎へ赴かれている。同行した友の父親を折伏するためであった。

 そして6日の朝、須崎で特高刑事二人に同行を求められる。下田署まで4.7キロの道のりを歩かれ、逮捕された。

 暑い季節。しかも老齢の先生である。どれほど、お疲れであったろうか。

 この先生が連行された道沿いには、先生の殉教から60年となる2004年1月に 「下田牧口記念会館」 が開館し、敷地内には 「牧口常三郎先生 法難頌徳之碑」 が立っている。

 先生の逮捕の容疑は 「治安維持法違反」 ならびに 「不敬罪」 であった。

 すでに逮捕の数年前から、弾圧の手は伸びていた。

 昭和17年5月には、機関紙 「価値創造」 が廃刊に追い込まれる。座談会等も昭和16年ころから特高刑事に監視されるようになっていた。

 昭和18年5月には、牧口先生が約1週間、東京・中野署に留置され、神札問題について取り調べを受けている。

 そういう状況にあってなお、牧口先生は、遠路、折伏に赴かれ、座談会に出席された。

 逮捕のその時まで、広宣流布に一身を捧げておられたのである。


 戸田先生も同じ7月6日朝、同じ二つの罪状で、東京・白金台の自宅で逮捕され、高輪署に留置された。

 一方、牧口先生は翌7日、下田署から警察署に移される。

 逮捕の際には、牧口先生の目白の自宅をはじめ、創価教育学会本部、自習学館も家宅捜索され、御書や牧口先生の著作などが押収された。

 結局、翌年までに、逮捕者は21人に上った。

 その中で、ただお一人、戸田先生が、牧口先生とともに法難を忍び、獄死した師匠の遺志を継ぎ、師匠の仇を討つために立ち上がったのである。

「師弟」 「師弟」 と口で言うのは簡単である。

 しかし戸田先生の牧口先生に対する思いがどれほどのものであったか。

 私はそれを、誰よりも知っている。そして、戸田先生が牧口先生にお仕えしたのと寸分違わぬ決意で、私は、戸田先生にお仕えしてきた。

 お二人の大闘争を偲び、世界に宣揚してきた。ご遺族も、誠心誠意、お守りしてきた。

 創価の3代にこそ、仏法の精神が脈動している。 「師弟不二」 がある。これ以上に尊い人間の関係はないと、私は信じている。

「先生、お丈夫で」 とただ一言

 逮捕から2カ月後の9月、警視庁特高課の取調室で、牧口先生と戸田先生は一緒になられた。

 牧口先生の7回忌の法要で、戸田先生は、牧口先生が特高刑事に怒鳴られた時の悔しさを述懐されている。

 〈家族からの差し入れの中にカミソリがあり、牧口初代会長がそれを懐かしそうに手に取ると、特高刑事が大声で 「牧口、お前は何をもっているのか。ここをどこと思う。刃物をいじるとはなにごとだ」 と怒鳴った。
 戸田第2代会長は法要で、 「先生は無念そうに、その刃物をおかれました。身は国法に従えども、心は国法に従わず。先生は 創価学会 の会長である。そのときの、わたくしのくやしさ」 と心情を述べている。〉

 そして同じ9月、牧口先生は、警視庁から巣鴨の東京拘置所に移送された。

 そこは3畳間の独房であった。

 移送の途中、警視庁内で、戸田先生は牧口先生と出会われた。

「先生、お丈夫で」

 戸田先生が声をかけられると、牧口先生は無言でうなずかれた。これがお二人の最後の別れとなった。

 以後、東京拘置所において、思想検事による、牧口先生の本格的な取り調べが始まった。

主張を曲げず看守をも折伏

「特高月報」 (昭和18年7月分)は、逮捕理由になった牧口先生の言動について、こう記している。

「会長牧口を中心とする関係者等の思想信仰には幾多不逞不穏のものあり」

『法華経、日蓮を誹謗すれば必ず罰がある』 『伊勢神宮など拝む要はない」 等不逞説法を流布せる」

 国家神道を全国民に強要した戦時下にあって、それが、どれほど勇気ある発言であったか。

 牧口先生は、過酷な尋問に対しても、主張を曲げなかった。看守を折伏され、絶えず御書を拝しておられた。

 あまりにも偉大な 「創価の父」 であられた。

「特高月報」 (昭和18年12月分)には、牧口先生の起訴状が掲載されている。

 主な起訴理由として、逮捕までの約2年間に 「毎月約1回、幹部会を開催」 「4回にわたり総会を開催」 「約240余回の座談会を開催」 「10回の地方指導」 などを行ったことが列挙されている。

「特高月報」 が、厳然と、先師の偉大さを証明しているのである。

権力を恐れた宗門の卑劣な行動

 それでは、両先生が広宣流布のため、命をかけて国家権力と戦っている間、宗門はどういう行動をとったのか。

 あろうことか宗門は牧口・戸田先生が逮捕された7月、両先生らを 「登山止め」 「末寺参詣禁止」 処分。さらに、牧口先生を 「信徒除名」 にした。

 同月、牧口先生の留守宅に宗門の坊主が訪れ、ご家族に、牧口先生に退転を進めるよう要請し、断られている。

 すべて、宗門に累が及ぶのを恐れての、卑劣な行動であった。

 宗門は戦時中、神札容認など、さんざんに謗法を繰り返したあげく、昭和20年6月17日に、大石寺で火災を起こした。神札が祀られていた書院をはじめ主要な建物を焼失し、時の法主・日恭は、逃げ遅れて焼死している。

 この時、宗門には、広宣流布の 「信心の血脈」 は途絶えていた。

 ただ 創価学会 にのみ、厳然と流れていたのである。





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