わたしのこだわりブログ(仮)
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今回も焼物の話です。前回の「アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)」で載せきれなかった大陸の磁器や陶器を扱う予定でしたが、結局、焼物史をさかのぼる所から始めてしまいました。土器の写真もいろいろあったので・・。と、思ったのが失敗?マズイ!! 土器だけでも分量多い。半分以上進んでも着地が決められなくて・・。考えているうちに眠くなるのでした。結果、焼物史を一気に終わらせるべく引っ張りましたが、青磁(せいじ)までで断念しました。分量もいつも以上、写真多め。長すぎてチェックもままならない。とりあえず書いた所まで載せます。何回かに分けて読んでいただければ幸いです。m(_ _)m焼物自体はベースとなる粘土の素材と焼成温度や焼き方等で異なるのですが、実用と品質と言う観点から見ると、古来より素材や焼き方などもさらに研究されより素晴らしい焼物へと変化をたどっているのがわかります。焼物の頂点? 素材も特殊、焼成温度も非常に高温で、簡単に造る事ができない焼物が前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)」で紹介した磁器です。それは芸術性も加えて磁器は最高峰にある焼物でしょう。それにしても「焼物史」追っていて気付いたのは、これは人類史そのものなのだと・・。人が道具をもって進化した。その最初の道具が石器で、次に土器(焼物)。それらは後に生活の一部から芸術にまで発展する。その焼物は科学と言う技術も加わり大きく発展。特に日本には多種の焼物が存在しているので難しい回となりました。写真は大阪堺市の博物館、ギリシャ考古学博物館、韓国国立博物館、他から持ってきています。なお、資料としての必要性の為に陶磁器の本からも作品をひっぱらせてもらっています。焼物史 土器から青磁まで焼物(土器)の出現土器(どき・earthenware) 素朴な土器、土師器(はじき)須恵器(すえき)系土器須恵器(すえき) 陶質土器朝鮮半島との交流酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)彩文土器(彩陶) 古代ギリシャの土器エーゲ海の文明 ミノア(Minōa)文明ギリシャ本土の文明 ミケーネ(Mycenae)文明コリントスの黒絵式陶器彩文土器 黒絵式彩文土器 赤絵式陶器(とうき・pottery)唐三彩と奈良三彩遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)ガラス玉職人と釉薬平安の緑釉陶(りょくゆうとう)高級施釉陶器、古瀬戸(こせと)古瀬戸 伝承古瀬戸 美濃焼武士の茶の湯が求めた自然美の造形須恵器(すえき)系陶器 炻器(せっき・Stoneware)磁器(じき・porcelain) 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)高麗青磁青磁の色貫入(かんにゅう)焼物(土器)の出現ざっくり言うと焼物は土器(どき)類、陶器(とうき)、磁器(じき)に分類される。これらは、まずベースとなる粘土の素材が異なる。次に焼き窯が異なる。それは焼成温度の違いで明確に分かれ、かつ焼き方にも違いが出ている。同じ焼物でありながら、全く別次元のものとなっている。では、そもそも最初の焼物(土器)はいつ頃出現したのか?どこの国も原始に人が道具を使いだした頃に出現している。旧石器時代(Pal(a)eolithic Age)・・石器の出現から農耕の開始までの時代。狩猟具としては細石刃(さいせきじん)がメイン? 新石器時代(Neolithic)・・農耕・牧畜の開始。磨製石器の出現と土器の使用。 人口の増加など人間社会の変化が道具を変えた。 新石器革命(Neolithic Revolution)とも呼ばれ、石が加工され、焼物も現れた。旧石器時代と新石器時代の仕分けは、まさに人の生活にかかわる道具の変化などで仕分けられています。つまり、社会性が求められる農耕社会が訪れた頃、土器も出現している。とは言え、世界をみると文明の開始年代に地域差がものすごくあります。※ 文明の開始に数千年の開きがある所も。日本だけ考えるなら問題ないですが、世界でみた時に新石器時代は国により年代がかなり異なっているから特定年は入れられない。よって、文明の開始や焼物の出現、また変遷は地域ごとに考察したう上で、次のステップとして地域の国々との関連を考察するしか無いと言う事です。因みに、中国の長江(ちょうこう)では10000年前、細石刃石器群に伴って土器が出現しているらしいし、最新の情報では、中国江西省で、約20000年前とされる世界最古の陶器片が発見(2012年)されたそうです。(米科学誌サイエンスで論文発表。)放射性炭素年代測定によると、洞窟は約2万9000年前から1万2000年ほど前まで人が暮らしていた事がわかったそうだ。最も文明が早く始まった場所は、やはり中国なのか? ところで、土器の使用が新石器時代なので、日本の縄文時代は新石器時代に分類される。参考に日本における年代の仕分けです。旧石器時代 約30000年前縄文時代 約1万2000年前~2500年前・・土器の使用開始弥生時代 BC5世紀〜3世紀中頃 ・・水田稲作開始古墳時代 3世紀中頃〜7世紀頃 ・・ガラス玉、青銅鏡出土(いづれも大陸からの伝来品)飛鳥時代 592年〜710年奈良時代 710年〜794年平安時代 794年〜1185年鎌倉時代 1180年〜1336年室町時代 1336年〜1568年江戸時代 1600年〜1868年まずは土器から入りますが、気候の温暖化と植生、動物相の変化もまた土器の出現に関係しているらしい。土器は食す植物類の為の加工に欠かせない道具であったらしいのだ。もっとも文明に使用された道具も地域差があるようですが・・。※ 焼物から青銅器やガラスなどに早くから移行した地域など土器の進化だけでは計り知れない場所もある。比べるものではないかもしれないが、やはりエーゲ海史に残る焼物は同じ土器でも次元が違う。生活スタイルが違うと言えば違うけど・・。ギリシャ考古学博物館 たこ足文様の壺?(土器) 紀元前1450年~紀元前1400年頃Minoan Santorini Akrotiri pithoi jarミノア文明 サントリーニ島 アクロティリ遺跡の壺(つぼ)水瓶か? あるいはワイン壺に利用されていたかもしれない。ミノア期にはすでにワインが造られクレタ島に輸出していたから・・。それにしても土器でこれだけの大きさの壺。よく今まで残っていたものです。サントリーニ島は以前紹介していますが、エーゲ先史では、2万年前に旧石器時代が始まっている。サントリーニ島自体はクレタ島に隣接し、クレタ島と同じようにミノア文明下で繁栄していた。※ 初期ミノア文明の開始はBC3650年~BC3000年頃?しかし、サントリーニ島は火山のカルデラ島です。大きな噴火で時の文明は滅んだのである。※ コロナ時に「サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説」書いてます。リンク サントリーニ島(Santorini)カルデラの島&アトランティス伝説ギリシャの土器は後でまた触れます。土器(どき・earthenware) ここでは土器一般と日本の土器についてです。土器は低火度(1000°C以下)で焼成され、無釉なので吸水性が高い(水が浸透してしまう)焼物だ。土器類も初期物「素朴な土器」から、「土師器(はじき)」、「須恵器(すえき)系土器」と焼物としての進化がみられる。素朴な土器人類史の最初の焼物が土器である。原始の頃、窯は無い。土をこねて形を造り、野焼きで焼成。「野焼」の焼成温度は700℃~800℃。土器は壊れやすく、形状も厚みがある。当初は、そこらへんの田畑の土や粘土を固めて積み上げた日干しレンガのようなものから始まったのかもしれない。自然の太陽光が、土を固める事を教えた?さらに火によってそれはもっと強度のあるものに変える事を知った?火おこしした焚火の中に置いて焼いたものはもっと強度を増した?それは偶然の発見から始まったのかもしれない。縄文土器から土師器までの土器は、日本列島古来の技法らしいが・・。※ 墓に土器類を埋葬する習慣のある所は古いものも出土したりする。日本では9000年以上前の縄文時代の土器が出土もしているが・・。土器の発祥が、日干しレンガのようなものから始まったのなら、それは人々の定住生活の中から必然的に始まったのかもしれない。教科書でお馴染み新石器時代の縄文時代中期の土器 火焔型土器(かえんがたどき)伝 新潟県長岡市 馬高出土。東京国立博物館展示品。写真はウィキメディアから借りました。燃え上がる炎のような形状から火焔型土器(かえんがたどき)と呼ばれている。見て「なるほど」なのであるが、縄文時代にずいぶんとアーティスティックな形状である。しかもこの土器は一つではない。東日本全体でもほぼ同じようなものが200以上の遺跡で出土しているそうだから驚きである。※ 制作年代は5300年前から4800年前の間500年と考えられている。※ 主に信濃川流域の遺跡から出土。また、これと対になるのか? 同じような文様の王冠型土器(おうかんがたどき)と言うのが存在する。表面デザインの意匠はほぼ一緒。片や派手に開いた火焔のデザインに対して、王冠の方はシンプル。でもこの文様は水? 波? を示しているようにも見える。これだけ凝って立派だから何かしらの祭祀に使われていたのではないか? と、想像できる。上に同じく新石器時代の縄文時代中期の土器 王冠型土器(おうかんがたどき)新潟県津南町 堂平遺跡出土。写真はウィキメディアから借りました。土師器(はじき)同質の焼物が海外にあるかもしれないが、「土師器(はじき)」の名称で日本独自の土器とされている。土師器(はじき)は、古墳時代から奈良、平安時代(~12世紀)まで生産され実用されていた赤褐色の素焼の土器。軟質素焼きの弥生式土器に代わり登場した。野焼き、もしくは穴を掘って窯として? 焼成。焼成温度は800℃~900℃。埴輪も土師器に分類。素朴故、位置づけは日常品。写真はあとで・・。須恵器(すえき)系土器古墳時代以降の焼物で、土師器(はじき)よりも高温で焼成された焼物(土器)は須恵器(すえき)系土器に分類。須恵器自体は陶質土器に入るが、須恵器系土器は材質において土師器と同質なので土師器寄りの焼物なのだろう。古墳時代前期(3世中頃~4世紀後半)中期(4世紀後半~5世紀)後期(6世紀~7世紀)以下に土師器と須恵器土器、また須恵器の違いがわかる写真を持ってきました。大阪、堺市の博物館から 土師遺跡(5世紀の中頃~6世紀の前半)上は須恵器系の土器? 土師器と材質がそんなに変わらない気がする。成型と焼きの違いは分かる。 大阪、堺市の博物館から 浅香山遺跡土師器(はじき)と須恵器(すえき)、比べると材質の違いも一目。明らかに須恵器は手が込んだ高級品の仕様に対して、土師器の造りは大雑把(おおざっぱ)。そもそも須恵器は従来の須恵器系土器とも素材の材質が違うから焼き上がりのカラーも違う。平城京出土の奈良時代後半の須恵器3点と土師器4点の含有量を調査したら土師器と須恵器には成分の違いが明確にある事がわかったそうだ。※ 2020年9月の奈良文化財研究所の発表。土師器にはリンが多く含まれていた。 → リンは畑の肥料として使われる。また、須恵器には亜炭(あたん)と呼ばれる炭化した木片が含まれていた。 → 亜炭が含まれる粘土は主に丘陵地帯で採掘される。これらの事からどうやら、土師器は田んぼから採取した粘土が使われた?須恵器は山から採取した粘土が使われた?焼物の粘土の材質にも進化が生じ、より焼物に適した粘土が使用されるようになったと考えられる。須恵器(すえき) 陶質土器須恵器の焼成には従来と全く異なり、地下or半地下式の登り窯が使用されている。焼物としては強く焼締まり、硬度も増した。つまり、焼き方にも一大革命が起きたと言う事だ。この高温焼成の土器生産技術は、そもそも中国江南地域で始まったらしい。朝鮮半島の伽耶(かや)、新羅(しらぎ)、百済(くだら)では、それら技術で陶質土器が造られている。※ 朝鮮半島の物は、伽耶(かや)土器・新羅(しらぎ)土器・百済(くだら)土器と呼ばれる。中国発祥の陶質土器は朝鮮半島経由で日本にももたらされた技術なのである。そしてそれらは日本では須恵器(すえき)と呼ばれる。古墳から出土されている事から古墳時代の須恵器は高級品。主に祭祀で使用され、副葬品として墳墓に収められたようだ。古墳時代の話は大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の所で少し書いています。リンク 旧 仁徳天皇陵(大仙陵古墳)の謎秦一族のような渡来人の話は以下で書いています。リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)韓国国立博物館所蔵 中国 北斉時代の彩色土器の馬 6世紀南北朝時代の北斉時代 (550年~577年)※ 北魏が華北を統一(439年)から始まり隋が再び中国を統一(589年)するまでの乱世が南北朝時代。朝鮮半島との交流7世紀にもなると、朝鮮半島に日本の街もあり両者の交流はかなりすすんでいたらしい。それ故、百済王と日本の皇室にはかなりの親交があったのだろう。663年に起きた白村江(はくすきのえ)の戦いの時、たまたま? 百済王の皇子2人が日本滞在中であった。白村江(はくすきのえ)の戦いの突然の勃発。日本は百済王の援軍として、皇子と共に4万人以上の戦士を朝鮮半島に送って参戦している。残念ながら敗退。(百済は滅びた。)日本兵士の百済撤退のおりには、百済王族ら、大量の亡命者を運び日本に向かえ入れている。亡命者の中に技術者もいたかもしれない。それらを鑑(かんが)みると渡来人の技術者が日本で直接、須恵器(すえき)を発展させた説も考えられる。大阪、堺市の博物館から 大仙中町遺跡堺市博物館は、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)の正面にある。大阪、堺市の博物館から 大仙中町遺跡大阪、堺市の博物館から 南瓦町遺跡比べて気付くのは、須恵器はろくろを利用して形造られているのが明確。だから土師器と比べて、より薄く成型できているのだろうし、また轆轤(ろくろ)を使って器を造形する事自体が高級な行為であったと思われる。※ 轆轤(ろくろ)を使って成型する技や、窯(かま)を造る技術は5世紀頃には日本にもたらされたらしい。それは須恵器よりも少し前だったのかもしれない。大阪、堺市の博物館から 百舌鳥陵南遺跡焼き方も須恵器は進化をしている。須恵器は登り窯方式で高温で焼かれている。焼物として、両者は全くの別物と言える。酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)焼き方の温度以外にも進化があった。焼き窯の酸素のバランスで、同じ焼物でもカラー変化を出す事ができる技術だ。酸化焼成(さんかしょうせい)文字通り、酸素の供給を多くし、焼物や釉薬に含まれる金属を酸化させて色を出す方法である。銅が酸化すると緑青(ろくしょう)が生成されるのと同く、銅を含む釉薬を酸化焼成すると緑色になる。還元焼成(かんげんしょうせい)酸化焼成と逆に、窯内の酸素を量を減らして不完全燃焼を起こさせる方法だ。※ 酸化金属から酸素が奪う事を「還元」反応と言う。先の銅で例えると、酸化した銅から酸素を奪うと銅は純粋の赤銅色に戻る。だから、銅を含む釉薬を還元焼成すると赤系の色になる。ちょっとここで、ギリシャの土器を紹介。彩文土器(彩陶) 古代ギリシャの土器素焼きの土器に絵付けや文様を描いているのが彩陶である。※ 酸化鉄で赤色や黒色を発色。メソポタミアやインド、また中国にも見られる。かつてはメソポタミア起源説であったが、現在は中国発祥? 説もあるらしい。ギリシャ及びエーゲ海史における最古の土器は紀元前3000年頃のクレタ島からの出土らしい。クレタ島ではクノッソス宮殿を中心に紀元前3500年前にミノア文明が始まっていた。土器にもかかわらず、それらは非常に芸術性が高い。前出の日本の土器類とは全く次元が違う。最も、発見されていないだけで、当然前段階はあったろうが・・。釉薬(ゆうやく)を使っていないので、これらは土器に分類される。しかし、ギリシャのこれら土器は西洋美術のお手本として、ローマ帝国に継がれ、ルネッサンス時代に再興された。特に容器の形は高級陶磁器の壺や花瓶の原型となっている。エーゲ海の文明 ミノア(Minōa)文明初期ミノア文明期・・刻文ないし黒褐色の顔料による彩文土器。また黒褐色の顔料で素地を塗った上に白色や赤色顔料で幾何文様施した土器が出現。鉢、盃、水差、壺、また注口土器も造られた。中期ミノア期・・動・植物文様人物像が現れ、カマレス土器の最盛期を現出し、轆轤(ろくろ)が使用されるようになる。また人物や牛、魚、鳥などの彫像も出現。中期ミノアの第三期には草花悶魚、鳥、小動物などを写実的に表現した彩絵土器が出現。特にこの時代の美術性は評価されて「宮廷様式」と呼ばれ、ギリシャ本土に影響を与えたそうだ。ギリシャ考古学博物館 手付き壺ギリシャ考古学博物館 ギリシャ考古学博物館 ギリシャ考古学博物館 クレタ島出土。ミケーネ土器。タコ文双耳壺 紀元前15世紀頃。ギリシャ考古学博物館 サントリーニ島アクロティリ遺跡新石器時代からミノア文明の時代までの出土品 乳首型突起装飾水差しなどすでにアーティストが存在していたのでしょうね。ギリシャ考古学博物館 来歴は不明おそらくミケーネ文明下の抽象的文様の彩文土器(左)と幾何学文様時代移行期? の彩文土器(右)と思われる。ギリシャ本土の文明 ミケーネ(Mycenae)文明BC19世紀頃~紀元前10世紀 (ミケーネ初期) ・・素文赤色土器。茶褐色の直線文の彩文土器。BC13世紀前後 (ミケーネ最盛期) ・・クレタ土器の影響を受け、抽象的な形象文(魚、馬、戦士など)を施した彩文土器へ。BC12世紀~BC11世紀頃 (サブ・ミケーネ様式の時代) ・・南下してきたドーリア人 (Dorians)により、ミケーネ文化も土器も破壊された。 ドーリア人の元で造られた幾何学様式の土器をサブ・ミケーネ土器とも呼ぶ。※ ドーリア人はBC1世紀頃ギリシャに侵入しペロポネソス半島に定住した民族。代表的な都市はスパルタ(Sparta)、コリントス(Korinthos)。前1100年~前800年 ・・幾何学だけの図文による幾何学様式時代。ギリシャ考古学博物館 アテネ出土。 幾何学文双耳アンフォラ 紀元前8世紀ミケーネ文明 幾何学様式時代(前900年~前725年)古代世界の最高傑作に入るらしい。下は部分拡大同じ壺のボディー上部には絵柄。葬送の情景と思われる。古代ギリシャでは釉(ゆう)が知られていなかった為に、その焼物は本来全て土器に仕分けされる。しかし、慣習上、「コリント陶器」、「ギリシャ陶器」など「陶器」の名称が使われているらしい。BC8世紀頃からギリシャ人は地中海周辺に積極的な植民活動を展開。その結果、ギリシャ本土にはオリエント文明の影響が現れるようになり、幾何学文様と動物文のミックスした土器も出土。オリエントの影響による東方化様式時代(紀元前725年~紀元前600年)として区別する学者もいるらしい。これがその土器に当たるかわからないが、ギリシャ考古学博物館のギリシャ土器の展示品に「これはオリエントではないか?」と思う意匠の土器を見つけたので、紹介しておきます。ギリシャ考古学博物館 人頭有翼牡牛像(lamassu)? の描かれた土器アッカドを経て,アッシリア,アケメネス朝ペルシアに継承された超自然的な威力、魔力を象徴する精霊? 守護神像の人面有翼牡牛像のラマッス(lamassu)。大英博物館蔵のラマッス(lamassu)知性を象徴する人の頭部,鳥の王鷲を模した両翼。半身は雄牛。※ 大英博物館にあるラマッス(lamassu)の足はかぎ爪。※ ペルセポリスやルーブル美術館所蔵のラマッスの足は蹄(ひづめ)。コリントスの黒絵式陶器素地の赤褐色の地に図文を黒のシルエットで描き、像の文様や細部は錐(きり)でひっかいて仕上げる。最初に出現したのはコリントスから。商業都市コリントスは交易の中で最初にオリエント・スタイルをギリシャに持ち込んだとされる。※ コリントス地峡に位置するコリントス(Korinthos)は古代ギリシアにおいてアテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)の一つ。当初は動物行列文などを描いていたらしいたが、やがてそれらは神話や伝説の英雄らの姿にとって代わった。BC7世紀にはほぼ人物主体の図文になっていたらしい。コリントスの多彩な線描形式はBC7世紀頃に頂点に達し、盛期コリント様式(紀元前625年~紀元前550年)には他製陶を圧倒して展開。ギリシャ中に広まって行く。彩文土器 黒絵式素地の黒色は、粘土中に酸化鉄分を適量に含んだものと木灰を原料とし、これに酸味の強いワインを加えて練ったものを原料として使うと、焼成した時に独特のツヤのある黒色になると言う。つまり、黒絵式陶器(土器)は、酸化焼成(さんかしょうせい)による黒色の彩文土器の究極かも。ギリシャ考古学博物館黒絵式陶器の絵は人物主体で、そのテーマは主として神話や英雄伝説の場面が多い。また、当時は作品に陶工や画工の名前を記す慣習も流行したそうだ。黒絵式のピークは紀元前550年~紀元前520年。彩文土器 赤絵式赤絵式陶器は黒絵式とはまったく逆。図像の部分が赤褐色で、バックが黒。酸化焼成(さんかしょうせい)による黒色素地であるなら、図像の部分は筆で絵を描かないと赤褐色の図像は生まれない。下の陶器では素地が赤褐色でバックを黒で塗りつぶしているように見える。2つのパターンが存在していたのかもしれない。実際、塗りつぶしの方が楽であるし・・。赤絵式のようなタイプは陰影も付けやすいので人物の表情など細部に表現が与えられる。だが、素地が白ベースならもっと自由に表現できる。画家の意向か? BC5世紀には白地彩絵陶器が誕生して取って代わられて行く。黒絵式の最盛期は紀元前550年~紀元前520年頃。紀元前480年頃には赤絵式に圧されは完全に姿を消す。赤絵式は紀元前500年~紀元前480年が最盛期。白地式は紀元前490年~紀元前400年西洋の彩色に使われたのは石灰釉、長石釉などの鉱物で調合された釉です。ギリシャ考古学博物館下 はっきりわかる赤絵式陶器(とうき・pottery) 前出、土器は低火度(1000°C以下)で焼成され、無釉なので素焼き。故に吸水性が高い焼物だと紹介した。その後、技術が上がり焼成温度が高くなり、粘土の材質も変化を見る。ガラッと変わるのは焼物に釉薬が施されるようになってからだ。うわぐすり(釉薬ともいう)を付けて焼くと、表面がガラス状にコーティングされた焼物(陶器)になる。一般に低中火度(陶器は800~1250度)で焼成された軟硬質の焼物。素焼きのそれに鉛釉や灰釉の釉薬(ゆうやく)を人工的にかけて再び焼成したものが陶器である。日本にはたくさんの窯があり、いろんな焼物が存在しているので、陶器をさらに細かく3つに分類している。陶器(とうき)、炻器(せっき)、磁器(じき)。陶器と磁器は海外にもあるが、炻器(せっき)は日本独特の焼物かもしれない。ガラス質の釉薬をかけなくても、素材に耐水性のある焼物が存在しているからだ。1. 陶器(とうき・pottery)・・益子焼、萩焼、(古瀬戸)薩摩焼 土物(つちもの)とも呼ばれる施釉(せゆう)された陶器。2. 炻器(せっき・Stoneware)・・備前焼、信楽焼、丹波焼、大谷焼、常滑焼 土器と陶器の中間的性質。陶質の土器。釉(うわぐすり)をかけなくても耐水性を持つ。※ 粘土の素材にアルミニウムやカルシウムなどの物質や、化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英が含まれ、それらが高温焼成で溶けて融合。多孔質の陶器とは一線を画す焼物。3. 磁器(じき・porcelain)・・有田焼、伊万里焼、九谷焼、波佐見焼 施釉(せゆう)され、特殊な粘土(カオリン・Kaoling)を使用し、高温で焼成されたのが磁器。 それ故、石物(いしもの)とも呼ばれる。※ 粘土の素材にケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)と言う陶石を粉砕したものを使用。ここでは施釉(せゆう)された陶器(とうき・pottery)について深堀します。素焼きだけの焼物よりも釉薬をかける事で陶磁器の表面にガラス層を造り多少の防水化に成功。それら施釉の技術は7世紀中頃朝鮮半島経由でもたらされていたが、実際に日本で造られたのは8世紀前半。唐三彩を模した「奈良三彩」や「二彩」、おくれて青磁を模した「緑釉単彩」などが生産された。それらは高級故、貴族や皇族などの特別な階級向け焼物であった。※ 相変わらず一般庶民は平安時代に至るまで須恵器(すえき)を使用していた。正倉院三彩 二彩瓶(磁瓶)高さ41.7cm 口径 18.5cm 胴径25.7cm 底径17.6cm本(陶磁器の文化)から借用した写真ですが、そもそも宮内庁正倉院事務所提供の写真です。参考にお借りしました。胴部6段に口頸部と高台合わせて8段継ぎ造りの「緑白二彩」の大形の瓶。緑釉で斜格子を描き、余白は白釉。現存する最も大きい奈良三彩瓶らしい。出土の類例から奈良三彩大瓶の定形であったらしい。肩の突帯、底部の二重高台に唐代の三彩水瓶や白磁瓶など、唐代陶磁の影響があるものの唐三彩の瓶には祖型がないと言う。唐三彩と奈良三彩飛鳥時代、遣唐使によって? 中国よりもたらされた唐三彩と技術。唐三彩をモデルに日本で最初に作られた釉のかかった焼物が奈良三彩。奈良三彩は従来の土師器(はじき)や須恵器(すえき)に三彩釉(さんさいゆう)をかけて造られている。 三彩釉(さんさいゆう)以前に日本では釉薬(ゆうやく)をかけた焼き物はなかった。そもそも粘土中の様々な内容物が焼成により溶解して焼物自体の色変化をもたらす事もあるが、敢えて素焼きの土器に金属由来の釉薬(ゆうやく)を乗せて焼く事で文様や色を付ける技術だ。奈良三彩 壺 8世紀 文化庁蔵 国法重要文化財高さ13.7cm 胴径21.cm 高台径13.5cm 奈良時代本(陶磁器の文化)から借用した写真です。参考にお借りしました。いわゆる骨壺として利用されていた? 失われているが蓋もあったはず。唐三彩 唐時代の12神像 虎蛇犬韓国国立博物館で撮影中国の12神像を陶器のフィギュアにしたもの。日本の十二支(じゅうにし)の祖型?ここまでのものは中国にも残っていないようです。中国がこれをとりあげてほめていたから・・。唐代の鉛釉(えんゆう)を施した施釉(せゆう)陶器。特徴的3つのカラーを使っている事から唐三彩(とうさんさい)と呼ばれる。※ (クリーム・緑・白)三色と (緑・赤褐色・藍)三色 の組み合わせが一般。唐三彩杯付盤 8世紀中国 出光美術館蔵盤口径28.2cm本(陶磁器の文化)から借用した写真です。参考にお借りしました。遣隋使(けんずいし)と遣唐使(けんとうし)参考に年代を入れておきました。遣隋使(けんずいし)は推古天皇(在位:593年~628年)の御代に始まり終わる。推古8年~推古26年(600年~ 618年)の18年間に3回~5回派遣された。隋は619年に滅亡。遣唐使(けんとうし)は舒明天皇(在位:629年~641年)の御代に始まり200年以上続いた。舒明2年(630年)~寛平6年(894年)の264年の長きに十数回派遣された。ラストから56年の歳月が開き、使節派遣の再開が計画されたが907年に唐が滅亡しそのまま消滅。※ 以前、遣唐使の事を書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化ガラス玉職人と釉薬古代の陶器は、粘土の素材も変化するが、施釉(せゆう)の釉薬(ゆうやく)の種類で分類されている。植物灰を材料とした灰釉(かいゆう)陶器。鉛に、銅化合物を加えて緑色に発色させた緑釉(りょくゆう)陶器。※ 朝鮮半島からの技術の伝来? 7世紀後半代になると緑釉陶器が畿内の各地から発見されている。釉薬の焼成後の発色(カラーバリエーション)から大きく彩釉(さいゆう)陶器と分類される。つまり、日本最古の施釉陶器が奈良三彩である。先にも書いたが、唐三彩は唐代の陶器の釉薬の色から呼ばれ、後に唐代の彩色陶器の総称となる。※ 奈良三彩は唐三彩をまねて日本で焼かれた軟質陶器とされてきたが、唐三彩伝来以前から似た物があった? 説もある。遣唐使の中に玉生(ぎょくしょう)と呼ばれるガラス玉造りの職人もいた。彼らが唐から持ち帰った技術(三彩の釉薬はガラスと同じ)を焼物に応用したのが始まりとする説が有力。地中海域でのガラスの歴史は割と古い。シリア・レバノンなどパレスチナ地方で製造が始まり、古代フェニキア人が交易品にしていた。「最古のガラスの誕生は紀元前3500年に遡る」と以前古代ガラスを扱った時に紹介した事がある。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードウイーン美術史美術館所蔵 ガラスの双耳灰壺 1~2世紀同じ形態のガラスの双耳灰壺はたくさんあるが、造形的にもこれだけ姿の美しいのはなかなか見ない。さすが王室のコレクション。美しいから撮影してました。話を焼物に戻して・・。釉薬をかけるだけでなく、この頃には絵を描いたり、彫刻したりするなどの技法が追加されて行く。特に唐三彩は、アジア圏のみならず、中東方面にも伝播? 各地で真似た? 地方色ある三彩が登場している。イランのサーダーバード宮(Sadabad Palace)の博物館所蔵品の中に三彩? 発見。イランのサーダーバード宮(Sadabad Palace)の博物館所蔵品平安の緑釉陶(りょくゆうとう)奈良時代から平安時代に代わると、器じたいも一新されるが、日本の鉛釉陶器はカラフルな三彩から単色に代わっていく。それは、またも半島経由で唐より越州窯(えっしゅうよう)系の青磁(せいじ)が輸入されてきたからだ。※ 越州窯(えっしゅうよう)の青磁は東洋最古。日本の単色の緑釉陶の出現と流行は、中国伝来の青磁(せいじ)を模倣した結果だったらしい。青磁は簡単に真似できるものではなかった。緑釉陶器は、9世紀初頭頃、国家的儀式や饗宴で用いられており、殿上人(てんじょうびと)に嗜好された結果? 唐(から)風として緑釉陶は平安京を中心に流行する。下の写真は共に本(陶磁器の文化)から借用。比較できるように対にしました。左 9世紀前半 緑釉陰刻文陶器碗(りょくゆう・いんこくもん・とうきわん) 京都市令然院跡出土 口径17.6cm 京都市考古資料館蔵右 9世紀 青磁劃花輪花碗(せいじ・かっか・りんかわん) 中国、越州窯系 口径12.2cm 国立歴史民俗博物館蔵ところで、緑釉(りょくゆう)自体は日本で開発されたわけではない。古代ローマ帝国では紀元前1世紀に使用され、中国でも1~2世紀の後漢時代に使用されている。鉛釉のベースに微量の銅を入れた釉薬を塗り、先に紹介した酸化焼成(さんかしょうせい)をすると銅が緑色に発色。(銅の量によって濃淡がでる。)それが緑釉である。高級施釉陶器、古瀬戸(こせと)焼き物の総称として使われる「せともの」という言葉は、「瀬戸焼」から発しているワード(語)です。※ 現在の愛知県瀬戸市瀬戸は、900年以上の歴史をもつ窯として、越前・信楽・丹波・常滑・備前と並ぶ日本六古窯の一つと数えられている。ただし、この中で施釉の陶磁器は古瀬戸だけ。(施釉としての歴史は800年?)つまり古瀬戸の特徴は灰釉(かいゆう)や、鉄釉(てつゆう)を施した施釉(せゆう)陶器であり、それは先にも触れたが、高麗(こうらい)の青磁(せいじ)の写しとして成立した可能性が高いらしい。古瀬戸 灰釉四耳壺 13世紀前葉 高さ28.4cm 上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 伝承まずは瀬戸に伝えられる史伝(しでん)から紹介。瀬戸焼の開祖として、瀬戸で祀られて居るのが加藤四郎左衛門景正(陶祖 藤四郎)。彼は宋代の中国に渡り陶磁器の技法を学んで帰国し、瀬戸で瀬戸窯を開祖した人物とされる。1223年(貞応2年)、永平寺を創建した曹洞宗の開祖 道元禅師(1200年~1253年)と共に加藤氏は中国(宋)へ渡ったとされている。つまり、禅宗と同じく日宋貿易の中でのいわゆる留学により陶磁器の釉薬や焼成について学んできたと言う事だ。因みに、当時は日宋間に正式な国交はなかった。以前書いているが、中国側からすれば、正式な国交の相手は国のトップの朝廷でなければならず、将軍では相手に不足だったからである。※ 日宋貿易に関しては以下で書いています。リンク 京都五山禅寺 2 遣唐使から日宋貿易 & 禅文化ところで、建仁寺でも修行した道元(1200年~1253年)が1226年に宋より持ち帰ったのが曹洞宗(そうとうしゅう)。創建は1244年。総本山は永平寺。曹洞宗(そうとうしゅう)は地方の武家、豪族や下級武士、一般民衆に広まって行く。 禅に関連して茶や茶の湯、書画、焼物も日宋貿易の中で日本に入ってきている。それらは禅文化に関連していると同時に、全て茶の湯に関係しているし、焼物につながるのである。※ 茶祖の寺として建仁寺を紹介しています。リンク 京都五山禅寺 1 大乗仏教の一派 禅宗と栄西禅師瀬戸焼き開祖の話に戻ります。戦国時代から江戸時代前期には茶入の祖、茶陶の名工として「藤四郎(加藤四郎左衛門景正)」が位置づけられていたのは確からしい。そして江戸中期以降に「藤四郎陶祖伝記」が語られるようになる。つまり瀬戸焼の名工の話はここから誕生している。が、江戸以前の陶祖に関する記述が無いらしい。また、考古学的に、瀬戸窯の始まりが平安時代まで遡るとされた事で、「藤四郎(加藤四郎左衛門景正)」事態の存在さえ否定されようとしているらしい。私的には、考古学的内容がわからないのでハッキリは言えないが・・。施釉(せゆう)の陶磁器として古瀬戸が現れるのは鎌倉時代以前にはあり得ないのです。瀬戸で平安の頃より焼物があったと言うのは須恵器(すえき)などの陶質土器だった可能性しか考えられません。帰国した藤四郎(加藤四郎左衛門景正)は国内の現窯場から適した土を探す中で瀬戸にたどりついたのではないかと推察できる。何より、無作為に山を探すのはムダ。現役の焼物の土地から探す方が合理的だから・・。焼物用の粘土の素材に関しては、いかに陶芸に向いた素材が産出できるか? が重要。焼物の産地として有名な窯場(かまば)がある所はそうした素材が採掘できる土地なのだと言う事を考えれば藤四郎(加藤四郎左衛門景正)が、もともとあった焼物(土器)の土地(瀬戸)に新たな施釉の陶磁器の窯を開いたと考えるのは自然な話だと思うのだ。また、文献が無いのも当然。今のように識字率が高くない時代に、陶工らが、書き物で文献を残すとは考えられ無い。口伝を誰かが江戸の時代にまとめて物語にしたのだと考える方が腑に落ちる。江戸時代はいろんな書物や伝記が書かれている。江戸時代は寺子屋があったから庶民の識字率も上がった。そうした「伝記物」は焼物に箔をつける意味でも必要だったのではないか? 古瀬戸灰釉菊花文壺 13世紀後半~14世紀前半メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art )所蔵古瀬戸 鉄釉印花文瓶子 14世紀初 高さ25.0cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 灰釉繍花文瓶子14世紀中葉 高さ25.7cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 灰釉魚文瓶子 14世紀前葉 高さ36.0cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。古瀬戸 美濃焼美濃焼は(現、岐阜県東濃地方)平安時代に作られた須恵器から発展した窯。鎌倉時代以降は隣接の焼物地(瀬戸)と同じ古瀬戸系施釉陶器を焼く。16世紀には、織田信長(1534年~1582年)の経済政策によって瀬戸市周辺の陶工らが美濃地方に移り住んで多数の窯が開かれたと言う。信長の経済政策の具体的話が不明であるが、物流のみならず、地域としての特産を奨励させる為に窯元を集結させての瀬戸焼ブランドの確立とバックアップを図った? のかもしれない。武士の茶の湯が求めた自然美の造形信長の時代はちょうど茶道の成立期に重なっている。以前「大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)」でも書いたが、当時(戦国期)、茶の湯は武士のみならず富裕な商人にまで降りてきて人気となっていた。リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名 (茶道の完成)織田信長が堺を直轄地にした1575年10月(天正3年)、堺の茶人17人を招き、信長は妙覚寺で茶の湯の会を催している。その時の茶頭が千宗易(せんそうえき)。千宗易は茶湯の術と道を極め完成させた。後の千利休居士(せんのりきゅうこじ)の事。その信長の開いた茶会では白天目茶碗、九十九髪の茶入れ、乙御前の釜、三日月の茶壺、煙寺晩鐘の掛け軸など名品が並んだと言う。当時は中国や朝鮮由来の名器が特にもてはやされていたが、武士による茶の湯の高まりが日本の陶芸に大きな変化をもたらせる事になる。元々禅僧であった茶人 武野紹鴎(たけのじょうおう)に支持し、大徳寺117世 古渓宗陳(こけいそうちん)に帰依していた千利休。茶の湯が流行し、彼ら茶人の下、戦国武将らが門下に加わる。茶の湯は禅の美意識と伴に「自然の美」が求められるようになり自然の灰を原料とした自然釉をかけた焼物、灰釉陶器が人気となる。何しろ、燃焼温度や焼き方で同じ釉でも全く別の焼物が出来上がる。一つして同じものはできない自然の妙。禅の美意識にマッチした古瀬戸や美濃焼がたくさん焼かれるようになったきっかけであったかもしれない。桃山時代にオリジナル? 志野焼に代表されるような「美濃桃山陶」の産地となり美濃焼が成立。産地の個性と言うよりは、最初は陶工の個性が反映されたのかな? と言う気もするが・・。美濃須衛(みのすえ) 灰釉四耳壺 12世紀末 高さ28.3cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。美濃須衛(みのすえ) 灰釉四耳壺 13世紀初 高さ21.5cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。灰釉四耳壺は酒などの貯蔵運搬の瓶(かめ)。ロープをかけて吊るせるようになっている。古瀬戸で量産され、ほぼ独占的に焼かれる器種になったらししいがもともと中国の白磁がモデルとなっている。中国 白磁四耳壺 13世紀初 高さ20.1cm上の写真は本(陶磁器の文化)から借用。須恵器(すえき)系陶器 炻器(せっき・Stoneware)素朴で自然の風合いを活かした焼き締めで備前焼、信楽焼、丹波焼、大谷焼、常滑焼などが入る。つまり、硬質磁器の特性であるカオリンは使用していないが、粘土に含まれるアルミニウムやカルシウムなどの物質や、化合しガラス化する珪酸を主成分とする石英などが、高温焼成の中で溶けて融合。多孔質の陶器とは一線を画す焼物が出来上がった。その為に陶器のように釉(うわぐすり)をかけなくても耐水性を持つ。2つと同じ物ができない面白さや個性は、鉄分や骨粉、他、様々な素材が混合したオリジナル粘土(地域特性の土)が使用される事。また、先に紹介した酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)と言う焼きの個性も影響している。堅牢で耐水性があり、瓶、壷、水差し、茶器、食器、花器、植木鉢など実用品としてだけでなく、焼き上がりの特性から工芸品など多く利用されている。備前 牡丹餅平鉢 17世紀初頭 天然灰釉の陶器メトロポリタン美術館(Metropolitan Museum of Art )所蔵Mary Griggs Burke Collectionウィキメディアから借りました。備前焼の歴史は古墳時代から平安時代にかけての須恵器窯から始まり発展したらしい。鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれ、鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれるようになる。室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まり名品が生まれている。備前 緋襷(ひだすき)徳利(とっくり) 桃山時代16世紀箱根美術館蔵緋襷(ひだすき)は稲の藁(わら)を模様としたもの。当初は作品同士がくっつかないようにするための藁だったらしい。上の写真に関しては、ウィキメディアから借りましたが箱根美術館の方に原元があります。箱根美術館には備前他、丹波、越前など他焼物のコレクションも充実しているようです。箱根美術館サイトで少し公開されているのでそちらでそちらで見比べてください。リンク 箱根美術館磁器(じき・porcelain) 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)粘土質物や石英、長石→陶土を原料として1300°C程度で焼成するが、焼成温度や原料によって軟質磁器と硬質磁器に分けられる。軟質磁器(soft-paste porcelain)・・英国で誕生したボーンチャイナ(Bone china)硬質磁器(hard-paste porcelain)・・青磁、白磁磁器の素地はそもそも粘土ではない。硬質磁器の素地ははケイ酸塩鉱物であるカオリナイト(kaolinite)(カオリン・Kaoling)を主成分とする陶石という石の粉(白色)。その磁土を高温(1350°C以上)で焼成した硬質の焼物が硬質磁器。※ カオリナイトは長期の風化作用によって花崗岩などの長石が分解して生成される。※ カオリン(Kaoling)と呼ばれるのは中国の有名な産地、江西省景徳鎮付近の高嶺(カオリン:Kaoling)の地名から由来。因みに、カオリンが手に入らない為に骨灰粉を利用してウエッジウッド(Wedgwood)が造り出たのがボーンチャイナ(Bone china)です。軟質磁器とは言われていますが、マイセンなどと比べてみれば、ジャスパーウェア以外のシリーズは普通の陶器に近い。 青磁(せいじ)と白磁(はくじ)の違いは白い石を原料とした磁器土を素焼した器に塗る釉薬の違い。そもそも、青磁の起源は紀元前14世紀頃、殷(いん) (紀元前17世紀頃~紀元前1046年)時代の中国。灰が釉(うわぐすり)として働きガラス質となる事はまさに偶然の発見であった。以降、植物の灰による灰釉(かいゆう)が青磁の釉薬(ゆうやく)として使われるようになったが、当時は焼成温度や技術がまだ未熟。鈍い草色程度にしか焼きあがらなかったらしい。研究され? 時代と共に発色もコントロール?後漢~西普の時代(1世紀~3世紀)に、青く発色する青磁の原型が誕生し、唐代末期(9世紀)の越州窯(えっしゅうよう)でオリーブ色の青磁が誕生した。この越州窯の青磁は海外に盛んに輸出され、日本にも朝鮮半島にも影響を与えている。先に触れたが、日本では平安時代、青磁を模倣して生まれたのが緑釉陶(りょくゆうとう)。しかし、まだ素材は磁器ではない。※ 緑釉陶の器は、桓武帝(737年~ 806年)の時代に始まり、その子、嵯峨帝(786年~842年)の時代には宮中祭祀に使われている。朝鮮の方では、越州窯の青磁に影響され、高麗青磁(こうらいせいじ)の誕生につながった。※ 中国→朝鮮→日本 と、技術がおりてくる。また、中国の青白磁や朝鮮の高麗青磁を模して造られた日本最初の硬質磁器が先に紹介した古瀬戸です。以下に韓国国立博物館で撮影してきた青白磁を紹介します。非常に陶磁器の数も多く、全部撮りきる事は不可能。自分の好みの作品のみ撮影し、且つ、ここではさらに厳選して載せてます。高麗青磁朝鮮半島の後三国を統一(936年)して誕生したのが高麗国(918年~1392年)。※ 日本は平安時代(794年〜1185年)中期から室町時代(1336年〜1568年)初頭。高麗青磁は越州窯(えっしゅうよう)の影響を受けて誕生した。高麗時代の青磁を高麗翡色(こうらいひすい)と呼んでいたらしい。青磁 魚龍形注子 高麗時代 12世紀韓国国立博物館で撮影青磁 人形注子 高麗時代 12世紀韓国国立博物館で撮影青磁 透彫七宝文香炉 高麗時代 12世紀 高さ15.3cm、直径11.5cm韓国国立博物館で撮影蓋に・・七宝柄が透かし彫り。本体・・花びら一枚ずつ表現したハス(蓮華)の形。台座・・香炉を背負うように3羽のウサギ。香炉には、陰刻や陽刻、透かし彫り、象嵌など、様々な工芸技法が使われている。青磁 貼花繍枝蓮文花瓶韓国国立博物館で撮影部分拡大本来、青磁はシンプルな造形だけでも十分美しい。ここに花や葉を立体的に造形しようと考えた発想がまた素晴らしい。凡人の発想ならシンプルが一番、とか言って何もしなかっただろう。造形的にも、これは特別な意味を持つ青磁の花瓶だ。青磁 瓦 高麗王朝韓国国立博物館で撮影屋根に使うのはもったいない高級瓦。今や瓦(かわら)一枚でお宝美術品。もっともこちらの品は、実際には使われなかった予備の瓦かな?あまりに綺麗だったから撮影してました。床の間にでも飾りたいわ青磁 陽刻蓮池童子文盌 高麗12世紀韓国国立博物館で撮影青白磁 鳳首瓶 中国宋~1159年韓国国立博物館で撮影白磁 青畫(せいが) 梅鳥竹文 壺 朝鮮15世紀~16世紀韓国国立博物館で撮影白磁 壺 朝鮮15世紀~16世紀韓国国立博物館で撮影白磁 透刻青畫 牡丹唐草文 壺 朝鮮18世紀韓国国立博物館で撮影青磁の色釉薬(ゆうやく)には2タイプある。自然の灰を原料とした釉(灰釉)と長石や珪石、石灰、等の鉱物で調合された釉。先に植物の灰による灰釉(かいゆう)が青磁(せいじ)の釉薬(ゆうやく)として使われるようになった。と書いたが、実は灰釉(かいゆう)は東洋独特の釉なのである。灰釉は中国の唐や宋の時代に発展。しかし。これは器が高温で焼けなければ意味がない。5世紀頃、朝鮮半島経由で焼きの温度を上げる新しい「焼き窯」の技術が伝来する。それが地中に穴を掘る「完全地下式」窖窯(あながま)と、山などの傾斜に屋根を付けた「半地上式」窖窯(あながま)である。※ 窖窯(あながま)はロクロ技術と共に伝来し、日本では須恵器の生産が始まった。窖窯(あながま)が導入された事により窯の温度も1000℃を超えた。1000℃を越えると、燃料の灰の中の石灰やアルカリ成分、また珪酸の化学反応が起き、器の表面にガラス質を形成した。当初は草木灰を水で溶いて器に塗っただけだったらしいが、やがて草木灰の種類も研究される。※ 藁(わら)や糠(ぬか)、籾殻(もみがら)等の灰には、シリカ(珪酸)成分が80%程度含まれている。木の種類として松、杉、樫(かし)、楢(なら)、橡(くぬぎ)からみかんや橙(だいだい)、椿(つばき)やどの果樹や花木、また栗の皮なども灰として研究された。灰自体は似たり寄ったり・・と言えど灰特有の物質(元素)の有無が少なからずあり、微妙な化学反応の違いが作品の味になる? 「 こだわり」もあると言う。また、自然有釉と石灰釉や長石釉などの混合も研究されているらしいが、鉱石の方はまさに化学式なのかもしれない。先に「酸化焼成(さんかしょうせい)と還元焼成(かんげんしょうせい)」で、焼き方を紹介していますが、青磁の釉薬にはわずかに鉄が含まれている。鉄分は「還元炎焼成」式で焼き上げると、酸化第二鉄が酸化第一鉄に変換され青緑色に変色。青磁の色の濃淡は酸化第一鉄の含有量によって決まるそうです。また、鉄以外の成分も青磁の色に影響。ケイ酸(Si(OH)4)を主成分とする釉薬の場合は青が強く出る。※ ケイ酸は多くの鉱物の成分。酸化カルシウム(CaO)(石灰)や水酸化カルシウム(Ca(OH)2)(消石灰)を主成分とする釉薬の場合はオリーブ色(深い緑)になると言う。どんな色を出したいか? どんな焼物を造りたいのか? それが、かつては経験値で導きだしていたのだろうが、今はある程度化学式で求められる。とは言え、同じ品を量産するのは自然釉ではかなり難しいと言える。ただ一つの茶碗を求めた安土桃山時代なら自然の妙こそが正解だったかもしれない。どう焼きが出るか? どんな名品が焼きあがるか? 陶人さんの一番のお愉しみが窯出しなのもうなずけます。青磁 蓮瓣(れんべん)文碗韓国国立博物館で撮影貫入(かんにゅう)上の茶碗に見えるようなひび割れのようなのが貫入(かんにゅう)です。これは土台の粘土の収縮率と表面を覆うガラス質の収縮率の違いにより起こる現象です。これを失敗とするのではなく、これが青磁の一つの魅力でもあるのです。青磁の場合は何回も釉薬を重ねて焼成するため特に貫入(かんにゅう)が出やすいのだそうです。貫入(かんにゅう)の出方もいろいろあるのかもしれませんが、美しい透き通るグリーンの表面に細かく入った貫入(かんにゅう)は一つの景色としてとらえられているのです。途中感が否めませんが、今回はここで強制終了させていただきます。※ いつものように、誤字脱字など後から修正あると思います。実は、入院まで1カ月を切り、いろいろ入院準備が忙しくなってきました。検査の後は疲れ切ってます。だからどうしても今回焼物を終わらせたかった・・。もしかしたら入院前に「景徳鎮(けいとくちん)」の焼物が載せられるかもしれませんが、約束はできません。パソコンとゲーム機の持ち込みは予定していますが、気力が持てるかわかりません。なる早で退院し、リハビリ入院もやめて早く自宅に戻るつもりですが・・。m(。-_-。)m関連リンク先リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
2024年06月16日
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