海外ロングステイ

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July 29, 2018
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司会の挨拶
春を感じる今日この頃ですが年と共に感性が鈍くなっています。
挨拶の後、先生曰く
変化が地球の原則です
しかし変化はない方がいいのです
人生とは変化の連続です
変化を先取りして失敗を経験すると生きずらくなります。
変化はミクロの世界にたとえれば人の肉体の一部にも当てはまる。
赤子を生む女性の一瞬の変化は大きい
変化を感知して則対応が大切ですが
臨機応変に対応することが大切です
心のとらえ方 変化にどう対処するのか
新年から1月が経ちました。
鬼が邪魔しています
その鬼というのは,自分の中に2つの気持ちがあります
意地悪じいさんと親切なじいさん。合わせ持っています
六道輪廻、108つの煩悩が内在します
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参考
六道輪廻について 
まず、『六道』とは【地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上】のことで、何れも迷の世界を示しています。『輪廻』とは『その迷の世界をグルグル廻って出抜けられない様子』を形容したものです。
この『六道』は人々の心を離れて別にそんな世界がある筈のものではありません。
よく爺さん婆さんに向って、田舎のお説教坊さんが、死んでから地獄へ落ちたり極楽へ生まれたりするように説いている向きもありますが、あれはあれで、方便として良いかも知れませんが、元来 『仏教の教理』はそんなことを言っているのではありません。
六道とは人々の心の階級であります。教養の程度といって置いても宜いでしょう。
仏教では、貧欲・瞋恚・愚痴の心を三毒といっています。そして、それを迷いの代表的のものとしています。教養のない者は、逆境に居ればすぐ不平不満を起こして瞋恚の炎を燃やし、順境に処すればすぐ有頂天になって貧欲の皮を突破る。そして平々凡々の時はウスボンヤリと愚痴を言って空しくその日を送っています。かかる程度の低い輩を『地獄』の衆生と呼んでいるのです。だから死ななくても地獄の衆生は、そんじょそこらにウヨウヨしているわけです。その三毒を一つ一つに分解して、貧欲を『餓鬼道』で代表し、愚痴を『畜生道』で、瞋恚を『修羅道』で代表しています。その上の階級が『人間界』で、ここでは食欲・色欲・睡眠欲という動物的本能の他に名声・利欲の二欲を加えた五欲の世界を代表させています。更に、もう一歩進んで、これも迷いの世界ではありますが六道の最高位に『天上界』があります。これは他の五道程の生々しい欲望はないのですが、天人に五衰の悲しみがあるなどといわれていて、まだ悟りの世界には達しておりません。どんな心の階級、教養の程度かと云いますと、眞・善・美を愛するという側でありまして、つまり哲学や科学・倫理や道徳・美術や芸術に打ち込んでいる連中をいいます。連中といっても職業人とか専門家とかいう意味ではありません。真善美を愛するといえば、まあ教養の高い方の側ではありますが、六道輪廻は免れません。いつ『地獄』に落ちないとも限りません。例えば音楽会に行って良い気持ちで聴いているうちは『天上界』に遊んでいると言えましょうが、その同じ人が帰りの電車の中で、足を踏んだ踏まれたで喧嘩をすれば忽ちに『修羅道』に落っこちてしまいます。
結局 人間は悟りを開いた上で、しっかり心の鍛錬をしない限りは、誰でも、如何なる高位高官であろうと学者であろうと文化人であろうと、その他 何であろうと、この六道を出たり入ったりしていることがよく判ります。
この状態を仏教では『六道輪廻』と云っています。決して迷信でもなければ低級でもありません。
【上記の文章は、耕雲庵立田英山老師の著書『禅海一瀾抄講話』より抜粋した文章です。】http://www.geocities.jp/gakunanzen/zuihitu/z3-rokudourinne.htm
108の煩悩について
天台宗・神木山等覚院(神奈川県川崎市)の僧侶、中島光信さんにお話を聞いてみました。
「実は、108というのは“とても多い”ことを示す数で、必ずしも数が決まっているわけではありません。簡単にいうと、煩悩とは自分を悩ませるもの、心を乱すものの総称ですから、一般的な意味で使う『愛する』ことだって、執着につながる煩悩だと考えることもできる。煩悩の数は時代や教義によって変わり、“8万4000煩悩”という考え方もあるほどなんですよ」
考えることがすべて煩悩…みたいになっちゃいそうですね。調べてみると、有名な考え方として「人の五感に“意識”を加えた『六根』を、それぞれ『好(いい)・悪(わるい)・平(どちらでもない)』、さらに『浄(きれい)・染(きたない)』、『前世・今世・来世』の要素があり、6×3×2×3で108になる」というものがあるみたいだけど、例えば“味覚×悪×浄×来世”のような組み合わせで、それがどんな煩悩なのかを素人が理解するのは難しそうです。
「より大きな枠組みだと、仏教の根本的な考え方として、人の煩悩は『貪(とん・貪欲に求めること)、瞋(じん・自分の心に執着して怒ること)、痴(ち・無知で愚かな考え方に囚われること)』の“三毒”に帰結する、というものがあります。いずれにしても、人の煩悩は“眠い、お腹が空いた”など身体が欲するものと、頭で考えるもの――物事に執着して、自分で生み出すものとがあるといえるでしょう」
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20111230-00022427-r25
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□節分の豆撒きを皆さんされてます
福は内、鬼は外
この鬼って徹底的に悪くなることを喜ぶんですよ。
一軒家で,寒いとき床をはがして燃やせ,壁をはがして燃やせ、挙げ句の果てに柱を燃やせ。・・家が壊れるまで続きます
そんな家の主でも、娘と結婚してせっせと働き、貧乏神が逃げてある日、福の神に変わる
こんな事がありました.バス停が何処にあるのか薬屋さんでお聞きしたら、教えていただいて.バス亭で待っていたら、バス停を教えてくれた親切な娘さんが寒かろうと薬屋に戻りお茶を出していただいた。
自分の事ばかり考えている人にはできません.鬼が自分の中にいるのです。
曽我廼家(そがのや) えんめいの話から   
主演の 「ある男がな、 海で溺れて、自分の国とまったく違う国に流れ着く。 
あまりおなかが減っていたので、 食堂でトンカツをたのんで夢中で食べる。 
食べ終わって、お!! 自分は財布を持っていない一文無しだと気付き、 
ご主人に詫びて、配達でも皿洗いでもさせて下さい、 代金を償いますと言うと、 
なーに、その必要は無い、この国は食べてもらった店がお礼にお金をさしあげる、 
とのこと。 へえ、と不思議に思ったが、もらい。 
宿を探して泊ると、 今度はその宿が、泊ったお礼とお金をくれる。 
おかげで、どんどんお金が貯まっていって、 
贅沢がエスカレートしてゆく。どこに行っても、お金をくれる。 
もはや、この世の春。 で、お金なんか持ってなくてもいいや、と、 
川にお金を捨てる。 すると、警察に逮捕され、死刑を宣告される。 
この国では、お金を川に捨てると死刑なのだ。」 
http://www.zabutontei.com/blog/uview.cgi?20071111012221OS0.txt
ここでお金を払えるのは相手が望むことを求めていないまでも感じて実行すること。よき親切でお金が払える。
浦島太郎も亀がかわいそうだとお金を払って結果、因果律が回ってくる。
私はみんな嘘つきだと思います
法律の網をくぐり抜けています
スピード違反してませんか
ちょっとしたごまかしを犯す。
非理法権天 法とは権力者が自分に都合良く作った
因果とは関係ない
理論は法律を構成する
権力を自分の都合で行う
理法権 つまり鬼のこと、不幸になる原因のこと
天   つまり福の神 普段忘れている
恐育、狂育、競育、凶育ばかり親が子供に求める
なぜ被害者意識になる
自然の変化に合せて自由に生きる
生かされている自分のもったいなさ
自分の命を大事にしなさいよ
自分が活かされることが 福の神
共働き家庭などの小学生を放課後に預かる学童保育(放課後児童クラブ)の利用登録者数が、今年5月1日時点で過去最多の85万1949人に上ったことが26日、厚生労働省のまとめで分かった。前年から1万8911人増えた。一方、希望しても利用できない待機児童が5年ぶりに増加。厚労省は「需要に整備が追いついていない。施設の拡充に努めたい」としている。 施設数は2万1085カ所(同524カ所増)で最多を更新。待機児童は前年比113人増の7521人だった。 
何で親は保育園に入れる?子育てが大変なんですか
恐育、狂育、競育、凶育、をしたがる
幼稚園のころから子供にはやりたいことをやらせる。
ご覧なさい。大卒の62%は何をやったらいいのかわからんといっています
子供に自由にやらせないで外に預ける子育て。
今の新卒の求職者は 給料なんぼあたると聞くが
仕事もできないのに月給を決めたがる。乞食教育、泥棒根性を育てている
□節分を堺に良くなるのに鬼が邪魔する
あなたたち、今ここに生きている。許されている.命を与えられて今を生きる。
何の功績無くても命ながらえて
活かされている役割を誰に感謝する
神や仏は方便である
自然をバカにしていながら自然に生かされている
自然の変化の感知 知恵を持つことの大切さ
知恵とは生かされていることを知る 自然の法則を知る事
神ありき 光有り
神の存在はキリスト教だけ
聖書にアダムとイブが書いてある
エデンの園で知恵の木があります。
アダムではできないことを知らされる。
アダムとイブでは役割が違う
知の木の実 これは人を傲慢にし 罪の意識がない
アダムはこれを食わない 善
イブ食べる 悪
善悪の戦いがくり返される
人はパンだけで生きるものにあらず
神の言葉には 善悪が含まれている
□1日1回親切をやってみる
人生が変わる
いままでの人生で失敗は何か。自分に問え
人から評価されないのはへいきとという考えが大切
先人の後を追うな
雑談
勝ったから強いと評価される。しかしプロセスが大切で、人格を教えない
負けたってくじけない。自分を大切にしなさい
戦ってかなわなかった勝者を褒めるのが大切
夫婦はつかず離れず
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参考
非理法権天出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内、 検索 非理法権天(ひりほうけんてん)は、近世日本の法観念を表しているとされる法諺。
 概要 [編集]江戸時代中期の故実家伊勢貞丈が遺した『貞丈家訓』には「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する」と、非理法権天の意味が端的に述べられている。非とは道理の通らぬことを指し、理とは人々がおよそ是認する道義的規範を指し、法とは明文化された法令を指し、権とは権力者の威光を指し、天とは全てに超越する「抽象的な天」の意思を指す。非理法権天の概念は、儒教の影響を強く受けたものであるとともに、権力者が法令を定め、その定めた法令は道理に優越するというリアリズムを反映したものであった。
非理法権天は、中世日本の法観念としばしば対比される。中世日本において基本的に最重視されたのが「道理」であり、「法」は道理を体現したもの、すなわち道理=法と一体の者として認識されていた。権力者は当然、道理=法に拘束されるべき対象であり、道理=法は権力者が任意に制定しうるものではなかったのである。こうした中世期の法観念が逆転し、権力者が優越する近世法観念の発生したことを「非理法権天」概念は如実に表している。
南北朝期に楠木正成が「非理法権天」の菊水旗を掲げたとする説があるが、これは瀧川政次郎らの考証により江戸期におこった伝承であることが明らかとなっている。しかし、非理法権天の由来が楠木正成に仮託されたことで、非理法権天は尊皇思想に結びつけられ、その過程で「天」は天子、すなわち天皇であり、天皇が全てに超越するという思想が一部に生まれた。大東亜戦争期の日本では「非理法権天」が皇国主義・軍国主義と密接な関係を持つスローガンの一つとして掲げられ、教科書の中でも使われた。楠木正成の家紋から名をとった菊水作戦で沖縄に向かう戦艦大和には、非理法権天と印した幟があったといわれる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%90%86%E6%B3%95%E6%A8%A9%E5%A4%A9
参考終わり





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Last updated  August 10, 2018 10:17:19 AM
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