[Stockholm syndrome]...be no-w-here

2024.07.10
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★昭和二十年九月初旬
これがシベリアに足を踏み入れた最初の日だった。これから始まろうとしている辛い苦難の拘留生活が待っている事など誰も想像だにもしていなかった。
我が中隊約二百名は波止場からソ連兵に案内されて五、六キロ離れた小高い丘の上に点在していた集落に着いた。丸太や板切れを組み合わせて建てられた小さな小屋?家が三、四十軒建ち並び、どの家にも漁具が置かれている処を見ると彼らはアムール河で魚を獲って生活をしている漁民達だろうと思われた。
我々を一目見ようと集まって来る彼らの身なりを見る限り、かなり貧しい生活をしているのだろうと察しられる。彼ら漁民の多くは白系ロシア人ではなく東洋人によく似た顔をしたシベリアの少数民族のように思われる。

その夜は部落内で野宿する事になった。分隊毎に分かれ周囲の草原で毛布を敷いて寝た。季節は九月の上旬シベリアでも日中は暑いくらいだが、陽が沈むとグッと寒くなる。夜半は毛布一枚では眠れないほど冷えてくるのだ。 
夕暮れの事である。毛布を敷いて夜営の仕度をしている所へ部落のロシア人の婦人や子供らがゾロゾロ集まってきて我々に黒パンや小魚を差し出して、我々が持っている衣類や手袋と交換してくれと手まねで云ってくる。
特に手袋を欲しがるのだ。彼らには指が五本入る手袋は珍しいらしい。
日本では手袋と云えば指が五本入るのは当たり前だが、彼らが持っている手袋は軍隊で使う大手筒と同じで親指だけ離れ、あとの四本指が一緒になった手袋が普通なのだ。一部のソ連軍高官が五本指の手袋をしているぐらいだった。

翌朝、ソ連軍の命令で部落の広場に全員集められて持ち物検査が行われた。我々の持っている物を片っ端から広げ、貴重品などを見つけると有無も云わせず取り上げていく。
特に腕時計を欲しがり、我々の腕から無理やり取り外し盗っていくのだ。逆らうと銃口を突き付け強制的に奪っていくのだ。悔しいが丸腰の我々では手の出しようもなかった。
ソ連兵らは腕に幾つもの時計を巻き、自慢そうに見せびらかしている奴もいる。だが彼らの殆どが時計の針の見方も判らない奴らだ。
ロシア文字もろくに読めなくて算数の九九など全く知らない輩だ。日本兵が四列横隊に並び、番号を1、2、3、4・・・10、11と呼び小隊長が合計44人異常無しと報告しても彼らは九九が判らないから信用しないのだ。
我々を一 列に並べ一人づつ数えないと判らないほどド阿呆な奴らだ。然も将校ですらもだ。

満州の開拓団部落からシベリアに入るまではソ連兵らは一言も口を聞かず我々について来たが、シベリアに入るや途端に態度が変わり「ダワイ、ダワイ」と急ぎたてるようになってきた。
まだその頃我々は日本国が連合軍に降伏した事など全く知らないから、なぜシベリアなどに送られて来たのかまだ判らないままだ。
船でハルピンへ下るものだと思い込んでいたのが、何の知らせも無くシベリアに連れてこられてしまったのだ。これはどうした事だろうか、我々はこれから先どこへ連れて行かれるのだろうかと疑問がわいてくる。 
誰もが不安な気持に襲われている時、又例の噂が我々の疑問を解くが如くロコミで伝わって来る。それは我々日本軍兵士は停戦協定により、農繁期を迎えたシベリアの農場を応援するため、一時的にじゃが芋の取り入れを手伝うようにと協定が結ばれたと云う内容の噂が広がってきた。じゃが芋の収穫が済めばハルピンへ戻ると云うのだ。 
これらの噂も単なる噂かも知れないのだが、我々としては正規の情報が無いのだから噂を信じて自分自身の疑心暗鬼の心を慰めるより仕方がないのだ。

翌日、部落の近くまで引き込まれていた軽便鉄道の駅(駅舎などは無い)に行き、無蓋の軽便列車に中隊全員が乗せられ出発した。鉄道と云うよりトロッコのレールぐらいの鉄路が敷かれているだけの貨物専用の簡易鉄道なのだ。
既に荷物を満載した無蓋貨物列車が七、八両連結して待機し、我々の来るのを待っていた。 我々は無蓋列車に満載されている、通称、南京袋の上にまたいで腰を降ろして座った。
南京袋には中国文字や日本文字が印刷されている。この貨物は満州の我が軍の兵站から略奪してきた物資なのであろう。一両毎の貨車に二、三十人ずつが分散して乗り込んだ。

小型のディゼル機関車に引っ張られ青天井の軽便列車がゆっくりと動いて行く。シベリアの九月初めは最高の季節だ。無蓋車の荷物の南京袋にまたがって涼風を身体一杯に受けながら走り続けて行く。
何処へ行くのかは判らないが、広々とした荒原を眺めながらの旅も満更ではない。列車は西北に向きを変え走り続ける。
シベリアは広い。何処まで走っても人家らしいものは一軒も見当たらない。荒原と潅木の林ばかりが続く、移り変わり行く景色を眺めながら一時の旅を楽しんでいた。

暫くの間は景色に見とれていたがふと気がつき、自分がまたいで座っている南京袋に興味がわいた。一体此の袋の中に何が入っているのだろうかと思い、中身を調べてみる事にした。食事に使うフォークで南京袋に穴を開け中身を取り出して見た。何と此れが白砂糖だった。次の白い袋も破いて見ると此れがパイメン(小麦粉)だった。
ソ連さんも当時は食糧難(今でも食糧難だが)の時代だから、満州から手当たり次第に食糧を略奪して運び込んで来たのだろう。
これだけ大量に積んでいるから少しくらい盗んでも判りっこはないと(元々は我々の物だから盗む訳ではない)監視のソ連兵の隙間を見ては、何足も持ってきた新品の殿下に白砂糖や小麦粉を積み込み背嚢に隠した。後になって此の砂糖やパイメンが我々に非常に役立つ事になった。





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Last updated  2024.07.10 22:31:48
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