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みなさん、こんにちは神田町では先日まで、大河ドラマを記念するフラッグで通行する人々を出迎えていました。岐阜女子大学書道部の皆さんが書かれた「信長」「光秀」「道三」のフラッグも飾られていたんですよさて・・フラッグを眺めていた時、「信長の料理の本ってないかな?」とふと思いつきました。さっそく、岐阜市立図書館の蔵書検索システムで関連する本があることを確認中身を確認したのは、以下の2冊1冊目は、 『信長のおもてなし』信長のおもてなし料理と、中世の食材について記載された本です。2冊目は、 『信長公おもてなし御膳再現研究会』おもてなし料理を再現し、再現料理の写真を掲載しています。なんと写真はカラー上記の2冊で確認した信長のおもてなし料理は、「品数が多い」、「光秀がおもてなし役を務めている」と感想はたくさんあるのですが、特に驚かされたのは鶏料理。鶴、白鳥、鷺・・・と現代では入手できないよ!という野鳥のラインナップです。メニューは、焼鳥と汁物が多いなか、「しきの羽盛」と文字では解らないものも。「手羽先」と予想し、「信長公おもてなし御膳再現研究会」で写真を確認すると・・・なんと丸焼きなんとか家で作れないかとチャレンジしたのがこちら量が多いように思えますが、信長のおもてなし料理からはかなり品数を減らしています。実食中「タコはどこから入手したんだろう?」と思い、数多くの食材を集めることの出来た信長の偉大さを改めて感じました。以上、「なっぱ」さんからの投稿でした。【 参考文献 】 江後迪子 『信長のおもてなし』 吉川弘文館2018 ぎふまちづくりセンター編 『信長おもてなし御膳再現研究会』 ぎふまちづくりセンター2013
2019年07月05日
緩やかな曲線に、かすかに感じる鉄路の面影...。 (専用線跡:華陽地内) ~帝国陸軍が撮影した航空写真と、米軍が作成した地図~ 建築物や土木構造物の新設や改築をする際、その土地が昔どのような土地であったかを知ることは重要です ワタシも建設系の仕事をさせていただいていますので、土地の履歴を調べることがあります そんな時は、国土地理院のサイトで過去の航空写真を閲覧しています リンク:地図・空中写真閲覧サービス(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do) ↑をクリック。 航空写真は詳細な地物が見て取れるので便利です 岐阜駅周辺を例に挙げると、一番古い写真は、撮影年不明の陸軍撮影のものとなります 航空写真へのリンクはできませんので、ズームアップして岐阜市周辺の地図を表示して、撮影年で並び替え(一番古いので、リストの最後に並びます。)すると見つけられます。なお、この写真の撮影年の推定は、記事の中段で触れさせていただきました 航空写真のほかに、古地図で調べる方法もあります。ワタシがよく閲覧するのは、テキサス大学オースティン校のサイトで公開されている『Japan City Plans』です。 リストの中に「Gifu」があります。ファイルサイズが大きいので、お気を付けください リンク:Perry-Castañeda Library Map Collection(http://www.lib.utexas.edu/maps/ams/japan_city_plans/) ↑ クリック 実はこの地図、米軍が作成したものです。昭和20年(1945年)の作成で、1930年代の日本で作成された地図を元に作成されています 昭和19年(1944年)11月に米国空軍が偵察撮影した写真を元に修正を行っているとも書いてあります 地図の上枠に「For use by War and Navy Department Agencies only」との記載があります。当然ながら、この時期に米軍が日本の地図を作製した理由は、戦争のため。実際に日本で測量を行うことはできないので、日本の地図を入手して編集したものと推察されます。 そして1945年7月、岐阜市は米空軍B-29による激しい空襲を受けることとなります。 今回の記事は、先に紹介した航空写真(以下、「陸軍写真」と表記します。)と地図(以下、「米軍地図」と表記します。)を元に、岐阜市の市街地の変遷をたどってみます。 ぜひ、これらの資料を見比べながら読んでいただけると幸いです ~岐阜市街地の変遷(長良川)~ 「陸軍写真」と「米軍地図」を参考に、現在の市内の風景の中に、大正昭和初期の岐阜の街の遺構を探します。 米軍地図を見ると、現在の岐阜市と変わっていない部分もあれば、全く変わってしまった部分もあります。 いくつも気づくところがありますが、一番大きく姿を変えているのは、長良川より北の区域ではないでしょうか。 現在の長良川から分かれて、古川と古々川と呼ばれていた広大な河道が広がっています。この地域は、昔から水害の常襲地帯だったそうです。 そこで、古川と古々川を締め切って、堤防を丈夫にするとともに、長良川本川の川幅を広げる工事が行われました。 岐阜市史によると、これらの工事が完成したのは、昭和14年(1939年)のこと。 締切堤は現在の国際会議場付近に位置しています。 (長良川上流改修記念碑)(記念碑と金華山)※岐阜市史 通史編・近代P679に、当時の記念碑の写真が収められています。 この地図は1930年代の地図を元に作成されているため、まだ締め切られていない地図になっていると推察されますが、締切堤付近に野球場と陸上競技場があることが文字で書きこまれています。これらの情報は、昭和19年(1944年)の偵察撮影の写真を元に記入されたと思われます 一方陸軍写真では、不明瞭ではありますが野球場の輪郭を確認することができます。岐阜市史によると、昭和17年(1942年)以降に県営総合運動場が建設予定だったとの記述がありますが、戦時下において計画通りの工程で建設できたかは、岐阜市史では読み解くことはできません。 以上のことから、陸軍写真の撮影時期がおおむね昭和14年~19年頃であると推定しています。 旧古川河川敷に沿って、メモリアルセンターから明郷中学校にかけて、様々な公共施設が一列に並んでいることがわかります。 旧古々川河川敷の方はあまり明瞭ではありませんが、北消防署周辺から鷺山本通り南側一帯がその痕跡と思われます。(金華山から見る旧河川敷一帯) (当時の地図:改修記念碑説明版) 旧河川敷に公共施設や住宅が建ち始める様子は、「地図・航空写真閲覧サービス」で、陸軍写真より少し新しい、昭和22年(1947年)頃の航空写真で見て取ることができます。先の野球場や陸上競技場も、こちらにははっきりと映っています ~岐阜市街地の変遷(鉄道路線)~ もう一つ大きく変わっているのが、鉄道路線網です。 岐阜市内線や美濃町線が廃止されたことは、まだ記憶に新しいところですが、廃止された時点とは随分路線網が異なっています。この時代の美濃町線の線路は美殿町を通っていました。米軍地図に表現されている通り、徹明町から梅林にかけての道路は非常に狭かったようですが、陸軍写真では現在同様の広い道路となっています。昭和25年(1950年)に徹明町起点の路線へ変更され、昭和28年(1953年)には複線化されています。 鏡島方面にも線路が伸びています(鏡島線)し、岐阜市内線は長良北町よりも北に伸びています(高富線)。戦後の完成となる忠節橋の前後で線路が途切れていますが、その先の揖斐谷汲線は、当時すでに谷汲駅、本揖斐駅まで通じていました。 現在に比べて、鉄道路線網がかなり発達していたことがわかります。 しかし、市街地周辺地域の都市化が進むにつれ、輸送力増強や輸送時間の短縮のため、高富線と鏡島線は昭和35年、39年に相次いでバス輸送に転換されました。(旧鏡島線跡:鏡島精華1丁目地内) 岐阜駅周辺では、名古屋本線の名鉄岐阜駅の場所が現在と異なっていることがわかります。急曲線急こう配を解消するため現在の駅付近に移転したのは、昭和22年(1947年)のことです。 (名古屋本線名鉄岐阜駅の石積:吉野町3丁目地内) JRについては、高架化が記憶に新しいところですが、このほかにも、米軍地図によると東海道本線からは貨物専用線が伸びていたことがわかります 1本は五坪町の大日本紡績、もう1本は鶴田町の日本毛織へ続いていて、途中で名鉄各務原線と交差していました。 (専用線跡:一松道公園) 大日本紡績専用線跡の一部は、道路に転用されています。 大きく描かれた緩やかなカーブに、貨物線の線路敷らしさが感じられます。 昭和50年(1975年)の航空写真では線路が撤去されている様子が確認できますので、40年以上前に姿を消していることになります。 当時の構造物を確認することはできませんでしたが、その痕跡の一部は今も街の中に残っています。 かつての岐阜の街に思いを馳せることで、街づくりに尽力した先人たちに対し、感謝の気持ちを新たにすることが出来ました。 (名古屋本線の現役レンガ造橋台:高砂町2丁目地内) 出典:岐阜市史・通史編・近代および現代 ~最後に~ ワタシの担当させていただく記事は、今回がひとまず最後となります。駄文ばかりで、お役に立つ情報が十分ご提供できなかったことを反省しております。今後とも、本ブログをよろしくお願いいたします。 KTさんからの投稿でした。
2015年03月12日
こんにちは、岐阜市社会教育課です。3回シリーズの最終回、城戸久(きどひさし)氏の天守復元の話です。 「岐阜城復興天守の話 その1」(←クリック) 「岐阜城復興天守の話 その2」(←クリック) その1、その2については上記リンクをクリックしてください。 岐阜城の天守は、廃城後に加納城二の丸に移されたという伝承があります。 江戸時代中期に描かれた「御三階之図」という絵図は、その加納城二の丸の櫓の姿を描いたものといわれているのですが、昭和12年(1937)、当時名古屋高等工業学校助教授であった城戸氏は、この図面をベースに文献資料、絵図資料、他の城郭との比較を行い、天守復原の検討を試みました。 その結果、構造や規模の点からも「御三階之図」が岐阜城天守を復元する上で重要な参考資料であるとして、平面、断面、外観の復原考察を行い、図面を作成しています。 画像は、城戸氏の論文「美濃岐阜城建築論」に掲載された推定復元図です。昭和31年の2代目復興天守はこの研究成果を基に設計されました。 以上で、シリーズ「岐阜城復興天守の話」は終わりになります。
2015年03月11日
こんにちは、岐阜市社会教育課です。 前回は、「岐阜城復興天守の話その1」でご紹介をいたしましたが、3回シリーズの2回目、復興天守焼失と再建への道のりです。 昭和18年(1943)2月17日、復興天守は浮浪者のたき火で焼失してしまいました。 天守を失った衝撃は市民にとっても大きかったようで、その直後から再建の動きがみられます。 焼失から3日後の2月20日付岐阜合同新聞(現在の岐阜新聞)では、早くも金華警防団員から金一千円の再建資金が寄付されたほか、再建を促す嘆願や寄付、または労働奉仕の申し出が多く出ていると報じられました。しかし社会情勢もあり、この時は再建に至りませんでした。 現実的に動き出すのは昭和30年(1955)のことです。戦後復興のシンボルとして岐阜城再建期成同盟会により募金が始められ、設計を名古屋工業大学の城戸久(きどひさし)氏に依頼しました。 工事着工は10月7日、落成式は昭和31年(1956)7月25日、鉄筋コンクリート造りの3層4階です。 式典の中でこの2代目天守は同盟会から岐阜市に寄付されました。こうして岐阜城の天守が再び金華山上に現れたのです。 どこからでも仰ぎ見ることが出来る岐阜城は、金華山と一体で街のシンボルとなっており、現在に至るまで多くの人々に親しまれています。 明日、シリーズ3回目を掲載いたします。
2015年03月10日
こんにちは、岐阜市社会教育課です昭和31年に造られた2代目復興天守も来年には還暦を迎えますね 3回シリーズで、岐阜城天守のあゆみをご紹介したいと思います 1600年の岐阜城廃城後、山頂には建物がないままでしたが、明治時代になると昔を偲ぶ標札や道の改修を望む声が上がるなど、金華山活用の機運が盛り上がりますそれは明治43年の岐阜保勝會(ぎふほしょうかい)による天守再建により現実のものとなりました。全国で最も古い復興天守の建設です。実際の工事は3月に始まったようで、落成式は明治43年(1910)5月15日に行われました当時の新聞によると、落成式当日は10万人以上の登山者でにぎわい、市内では芸妓連の花車や呉服組合の仮装行列、花火、凧大会、自転車競走会等が催され、町中がお祭り騒ぎとなったようですまた、明治45年(1912)には「金華山古城趾建設満三年記念祭」が行われており、定期的にイベントが開催されていました。こんなところからも復活した天守に対する、市民の思いの強さが伺えます。初代復興天守は木造トタン葺きの3層3階で内部は吹き抜けになっており、ハリボテ状の構造であったといわれています。なお記録によれば、天守の工事にあたって「石垣を改築し規模を小にして原形に改むる」とあり、この時に天守台石垣の改変が行われたようです。 社会教育課さんからの投稿でした。次回を楽しみにしていてください。
2015年02月20日
岐阜県岐阜市大洞にある願成寺(がんじょうじ)には、中将姫誓願桜(ちゅうじょうひめせいがんざくら)という桜があります。 この桜はヤマザクラの変種で、同種の桜は確認されていません。2008年にはその種子が、柳津の高桑星桜(たかくわほしざくら)とともに、宇宙旅行までしています。 この桜の樹齢は1,200年程度とされており、1929年には、国の天然記念物に指定されました。 平安時代初期に中将姫が病気の治癒をこの寺で祈り、平癒したためにこの桜を植えたという伝承があり、今でもこの桜に祈ると婦人病に霊験があるといわれています。 中将姫と姫にまつわる一連のお話は、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材となっており、大変に人気があったようです。 また、民俗学の巨匠、折口信夫の小説「死者の書」は奈良・当麻寺の曼荼羅にまつわる中将姫伝説に題材を得た小説でもあります。その中将姫のお話は以下のような感じです。 ~中将姫は、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成の、美しく聡明な姫で、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。 中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかけるが、姫の殺害を命じられた者が、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろせず、「ひばり山」というところに置き去りにした。 姫は、その後、父・豊成と再会していったんは都に戻るものの、やがて当麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願う。 姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がり、これを用いて、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。 そして姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったとされる。~ ところで、大洞地区の長良川を隔てた対岸の藍川地区にある延算寺東院は、地元では「かさがみさん」と呼ばれ、小野小町が天然痘を患って快癒したとされる霊水があり、また、ここよりさらに山を隔てたむこう側には、三田洞弘法として知られる法華寺があります。 延算寺本坊には、柳原白蓮の歌碑もあり、中将姫、小野小町、柳原白蓮という古今に名高い美女、才女に縁のある地が密集しているのはただごとではないように思えますね。 三田洞弘法、かさがみさん、中将姫請願桜と三つの霊験のある場所がほぼ一直線にならんでいるのは、単なる偶然なのでしょうか・・何かこのあたりには尋常でない霊気があるのかもしれませんね。
2014年10月16日
おはようございますウカコヨです 10月には信長まつりということで、信長ゆかりの場所を訪ねようと思っていましたしかし、岐阜市には道三まつりもあるということで今回は、道三塚を訪れました 住宅地の中にあり、初見では分かりにくい場所にあります。 道三塚の説明を発見 要約すると・・・ 『弘治二年(1556年)四月十八日、斎藤道三は斎藤義龍と戦うことになった。長良川を隔てて衝突したとされる両軍であったが、道三方は敗れて大半の将兵が戦死した。道三自身も四月二十日に城田寺に逃れようとするところ打ち取られた。六十三歳であった。道三の遺体は崇福寺の西南(現メモリアルセンター内)に埋葬されたが、塚は長良川の洪水でたびたび流されたため、天保八年(1837年)に現在の場所に建てた。「道三無念の最後」という伝承は住民の間にも残っていたようで、この場所は特別な地として、周りが開発されても守られ続けている。』 だから、このような住宅地の中にあるのですね・・・ 中には碑がありました。 歴史を感じさせる雰囲気です。来年の道三まつりの成功を祈願しつつ、道三塚を去るウカコヨでした ウカコヨさんからの投稿でした。 【住所】正確な住所は分かりませんでしたが、岐阜市道三町12の西側くらいです。
2014年08月26日
毎朝、出かける前の日課。起きがけの一杯の水、そして、NHK連続テレビ小説。 ご存知の方はご存知ですが、翻訳家として活躍された村岡花子さんをモデルにした「花子とアン」が現在放送されています。 その中で腹心の友として描かれている仲間由紀恵さん演じる「葉山蓮子」さん。そのモデルとなった柳原白蓮(びゃくれん)さんはドラマでも描かれているとおり、壮絶な人生を歩んだ歌人ですが、岐阜を何回か訪れていたそうで、その名残が残る場所へ行ってきました。 岩井山延算寺。 岐阜市加野地区にある真言宗のお寺、別名「瘡神様(かさがみさま)」として、特に女性の方が多く訪れるお寺です。このお寺の東院に湧く水は薬水として、小野小町が病気を治したといわれ、多くの人が訪れる場所と・・・まぁそういう話は今回は置いておきまして、白蓮さんはこのお寺に2回泊まり、その名残が歌碑として残っています。 お寺にはこの歌碑のほかに、掛け軸などに白蓮さんの遺した歌が残されています。歌碑だけでなく、古くから残る本堂や鐘楼、手入れが行き届いている庭なども一見の価値ありですよ。 ちなみに御住職に伺ったところ、子どもの頃、白蓮さんにお会いしたことがあり、「会ったのはもうお婆さんになった白蓮さんだったが、子供ながらにこんな美しい人がこの世にいるのか」とびっくりしたそうで。 それではごきげんよう、さようなら。 【岩井山延算寺】http://www.geocities.jp/iwaisanensanjikasagami/ 【岐阜観光コンベンション協会】https://www.facebook.com/gifucvb (FACEBOOK)http://www.gifucvb.or.jp/ (WEB) 【岐阜市観光コンベンション課】http://www.city.gifu.lg.jp/kankou/ 【岐阜市のご案内】 マックさんからの投稿でした。
2014年05月22日
「国の重要文化的景観に 長良川中流域の岐阜を選定」「風景が宝物に」 昨年11月、こんなニュースが新聞の1面を飾りました。 「長良川の中流域における岐阜の文化的景観」、つまり、岐阜の風景が国の重要文化的景観に選定されたのです。 このニュースは私の周りで、なかなかの反響を見せました。 Facebookを見ると、岐阜でまちづくりの活動をされているような方だけでなく、普段は岐阜のまちに特に興味のなさそうな友人が新聞記事を写真にとって載せていたり、その投稿が他の人にもシェアされたり。 ああ、岐阜の人は、口ではあまり自分たちのまちのことを褒めないけれど、実は大好きでちょっと誇りにも思っている金華山と長良川の景色が、国に認められたことを嬉しく思っていらっしゃるんだ。 それだけ、岐阜の人にとって、金華山や長良川の景色は大事なんだ。 反響を見て、そう思いました。 しかし実は、文化的景観というのは、自然の景色だけで成り立っているわけではないのです。 文化的景観とは。 難しく言うと、「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの」。 簡単に言うと、「地域の自然と人々の生活に根ざした身近な景観」。 つまり、自然と、人々の生活との両方がつくりあげた景観。自然だけでも人工物だけでもなく、自然の恵みを受けながら人々が暮らしたり、働いたりしている「あと」が、「文化的景観」の中にはたくさんあります。 たとえば長良川プロムナード沿い、河戸(こうど)に係留されている鵜舟。 鵜匠や船頭が家から川へまっすぐ最短距離で向かうことのできる細い道。 夕方、船頭が棹を差し、川を上っていく鵜飼観覧船。 鵜飼関係だけではありません。 現在、川原町と呼ばれているエリアには昔、川湊があり、上流から材木や和紙が運ばれ、この付近には多くの材木問屋や紙問屋がありました。そのうちのいくつかは今も残っています。 だから、たとえば、材木問屋の前に、材木を運ぶ馬車の馬をつないでおくための金属の輪。 そして、かつて材木を保管した、背の高い大きな蔵。 他にも、まだまだ、まだまだ。 普段、何気なく見ているような景色の中にも、実は日本でも珍しいほど、川とともに人々が生きてきた「あと」が、くっきりと表れているのです。こうした「岐阜らしい景観」の価値が今回、国に認められたのです。 景観が今も残っているのは、この地区に生きる人々が、受け継がれてきたものや知恵を守り伝えながら丁寧に暮らしてきたから。また、自治会やまちづくり会として力を合わせ、守り伝えようと活動してきたから。実際、自治会やまちづくり会の活動する範囲というのが、文化的景観の重要な構成要素にもなっているのです。 いにしえより人の心が通う景色。だからこそ、私もそれが大好きなのだと思います。 そんな「岐阜らしい景観」の真髄を、昨年末に取材&体験させていただいてきました。 お邪魔したのは、金華地区にある丸市木村商店さん。伝統ある紙問屋さんで、提灯に張るための和紙への印刷などを手がけていらっしゃいます。 この日はお店の仕事納め。木村さんと奥さん、そして4人の従業員の皆さんが大掃除にとりかかります。その中でも一大仕事なのが、今回取材させていただく「格子の洗い」。玄関や窓にかかる木の格子を拭いてきれいにするのです。 木村さん、まずは土間にある格子戸を外して外に出してきます。そしていきなり、戸にホースで水をかけ始めました。豪快!びっくりしていると、木村さんが従業員の皆さんにやり方を教え始めます。 「ここにある雑巾を濡らして、木によく水を含ませて、びちゃびちゃにして拭いてください。」 ...びちゃびちゃ?こんなに水をかけたら、なんだか木が腐ってしまいそうですが。 「そう思うでしょ。でも、水を付けて拭かないと、木から出てくる"あく"が取れないんです。拭いても、また次に掃除するころには出てくるんだから」 確かに、雑巾で一拭きしただけで、こんなに汚れてしまいます。 「しばらく拭かなかった柱は、粉をふいたようになって、表面からぼろぼろと崩れそうだったけれど、水をたっぷり含ませて拭いたら、木がよみがえったんですよ」 そうなんですね、ちょっと意外です。専門の方にお聞きすると、京都などの格子には「べんがら」という顔料が塗ってありますが、岐阜の格子は白木のまま。作ったばかりのときは色が薄いのですが、何度も拭くうちに、こんな落ち着きのある色に変化していくのです。 こうやって格子を洗う習慣は京都などにはなく、珍しいことなのだそうです。 土間の戸が済むと、今度は玄関の戸です。丸市木村商店さんでは、お盆と年末、年に2度洗うのだそうですよ。昔は一軒が洗うと、「あの家がやったからうちも」と、競い合うように洗ったのだそうです。ちなみに水を使うので、一見いかにも手が冷たそうですが、これは実は井戸水。年中15度くらいに保たれているので、夏は冷たく、冬はぬるく感じられます。 並んで洗う姿は壮観。 雪が降りそうな寒さに凍えつつ「洗い」が続く中、店の前に一台の車が停まりました。お正月用の鏡餅の配達です! いかにも年の瀬らしい景色です。 私も「格子の洗い」を体験させていただきました。 雑巾を濡らす水は確かにぬるい。玄関の戸を、脚立を使っていちばん上から丁寧に。ぐっと拭くと、すぐに雑巾が茶色く汚れました。日々の重みです。 1枚拭くのに、けっこう力を使います。でも、きれいになっていくのは嬉しい! 2階の窓の格子の洗いも始まりました。まずは窓から格子を外します。 がばっ、と外れるところは豪快ですが、大きいので運ぶのがなかなか大変。窓に残った桟も洗わなくてはいけませんが、窓から身を乗り出さねばならず、従業員の方もちょっとこわごわ...。 2階に行ってみると、屋根に格子を置いて洗っていらっしゃいました。力のいる作業ですが、翌日からの冬休みの話などもしつつ、皆さんちょっと楽しそう。 最後に、外していた格子や戸を戻して、格子の洗いは終了です。 少ししかお手伝いできていないのに、「助かりましたーありがとう」と声をかけてくださる木村さん。なんだかとても温かい気持ちになりました。 そんな心意気が、岐阜のまちの伝統の景色を形作っているのですね。 「岐阜らしい景観」、知っているようで、実は奥が深い。 その深さを知ったら、まちを歩くのも景色を見るのも、もっと楽しくなるような気がします。 「長良川中流域における岐阜の文化的景観」の国重要文化的景観の選定についてhttp://www.city.gifu.lg.jp/18203.htm ひゅりさんからの投稿でした。
2014年02月04日
この前、岐阜城と山麓の織田信長公居館跡でNHKの番組のロケがありました。 出演者はなんと春風亭昇太さんです昇太さんは「笑点」でもおなじみの落語家ですが、お城好きでも有名な方です。どれぐらいお城が好きかというと、自分でお城の本まで書いてしまうほどですそんな昇太さんに信長公居館跡の発掘現場等で遺跡の説明をしたわけですが、本当によく勉強されています。その知識には脱帽しました。 撮影は発掘現場の他、山頂の岐阜城、そして今話題の信長公の館跡から見つかった金箔瓦など盛りだくさんでした。 どんな内容になるのか楽しみです。 今回撮影された内容は、12月7日(土)午前7:30~8:00(NHK総合)の「ウィークエンド中部」(中部圏のみの放送です)という番組内の「春風亭昇太がゆく城めぐり」のコーナーで紹介されますので、みなさんぜひご覧ください ちなみにこの金箔瓦は、11月6日に岐阜市重要文化財に指定されたばかりです。これまでお城の瓦に金箔を貼るのは安土城からといわれていたのですが、岐阜城からみつかったことでその定説を覆す発見となりました。現在は、岐阜市歴史博物館で復元された金箔瓦と一緒に12月27日まで2階常設展示室に展示してあります。こちらもぜひご覧ください。
2013年12月05日
急に寒くなり、ようやく秋を感じ始めたらいぶるの守護神です(^○^)秋と言えば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋と言われますがそれに便乗し、歴史の勉強をしてみました☆ ということで、やってきました加納城跡♪現在は広く市民の憩いの場としての公園になっています! 現在は公園の一部で発掘調査が行われています。 加納城跡についての説明看板もあります。 加納城は2重の堀をもつ、南北に細長い城(南北約600メートル、東西約300メートル)であり、城の大手門は北側にあり、中山道に面し、大手門前で屈曲する構成となっていたそうです。内堀は本丸を取り囲む形で配置され、外堀は、荒田川(東側)、清水川(北側)、長刀堀(西側:現在の加納長刀堀(かのうなぎなたぼり))、加納中学校付近に南の外堀があったとのこと。(ウィキペディアより引用) では、最後に恒例の流行りの言葉でお別れしたいのですが、思いつかなかったのでまた次回までに考えておきます(;一_一) では(^_^)/~ ★らいぶるの守護神さんからの投稿でした。
2013年10月22日
先日の台風18号は、日本各地に大きな爪痕を残して去って行きました。被害を受けられた地域の、一日でも早い復旧を願うばかりです。 さて、その台風18号が岐阜市を直撃した9月16日には、私の所属する係でイベントを行う予定でした。 それが... 加納城跡発掘調査現場の一般公開 ですっ まぁ、別に気合いを入れて言うほどでもないですねただ歴史ファンの方々に、遺跡に触れていただけるチャンスでもありましたので、私たちは、かなり力を入れて準備していました。 ですので、「中止」という選択は、当係にとっても残念でした 今回は、その一般公開で説明する予定だった内容を書きます 加納城とは、関ヶ原の合戦後に徳川家康が...と、最初から説明をすると長くなるので省略します(け、決して説明できないわけではないですよ...)。 詳しくは、岐阜市のホームページの「社会教育課」に、公開資料が掲載されていますのでご覧くださいhttp://www.city.gifu.lg.jp/17773.htm 今回の発掘調査箇所は、加納城の中でも「二の丸」に該当する部分です。ここには「二の丸御殿」があり、今回出土したものも、二の丸御殿に関係するものと考えています。 まずは... 漆喰(しっくい)で作られた「池」です。中には丸・瓢箪(ひょうたん)・扇(おうぎ)という縁起の良い意匠があります。大名たちは、御殿から鯉や金魚などが泳ぐ様子を眺めていたのでしょうか...ん~、何とも優雅ですね つぎは... 粘土と瓦を積み重ねて造られた「かまど」です。二の丸御殿には、台所があったという記録もあります。今でいうコンロのようなものでしょうか。「お風呂かもね...」なんて言いながら、想像するのは楽しいですね 最後は... 「金箔が貼られた皿(かわらけ)」です。かわらけは、本来素焼きなのですが、これは殿様専用でしょうかここまで凄いと、私のような庶民には、もはや使い方を想像することすらできません いかがでしたか発掘調査では、これ以外にも多くのものが出土しています。 それにしても、最近、岐阜市の歴史関係は「金」の話題で盛り上がっていますね。 そこで、こんなキャッチフレーズを考えてみました... 岐阜城で「金(箔かわら)」! 加納城で「金(箔かわらけ)」!! 駅前で「金(の信長像)」!!! ある柔道家のフレーズの完全なパクリということもあり、課内ではいまいちウケが良くなかったです それではまた、いい発見があったら書き込みたいと思います
2013年09月20日
まず、みなさんは、琴塚古墳ってどこにあるか知っていますか? 岐阜市東部で、各務原市との境にある地区にあります。この周辺には他にも古墳があり、古墳群の中の1つにあたります。 すでに消滅してしまったものもありますが、琴塚古墳は地域の方に守られ、現存する岐阜市内最大、県内3番目の大きさの古墳です。 1934年(昭和9年)に国指定の史跡となりました。 そもそも、古墳とは何でしょうか。簡単に言うと、大昔のお墓です。 この琴塚古墳は誰のお墓なのか未だわかっていません。 時代は、古墳最盛期の5世紀頃と推定されています。 古墳には、いろいろな形がありますが、琴塚古墳は、「前方後円墳」という四角形と円を組み合わせた形で、全長115m、前方部幅72.5メートル、高さ7.5メートル、後円直径68メートル、高さ10メートルあります。 また、今は木が生えて山のようになっていますが、作られたころは違いました。そして、古墳の丘の部分には、石が積み重なっており(「葺石」(ふきいし)といいます)、くびれ部には被葬者に対する祭祀のための区画(「造出し」(つくりだし)といいます)があります。 古墳の周囲には、二重の堀(内側の堀幅18~20メートル、外側の堀幅7.2メートル)がめぐらされています。二重堀を有する古墳は、岐阜県下唯一です。 このことから、格式ある重要な古墳ということで国指定史跡となりました。 出土遺物としては、円筒埴輪の破片が見つかっており、周りには埴輪がめぐらされていたようです。古墳の周辺では、石器や土器が発見されています。 また、市と地域の方が一体となり、清掃等保全活動を行っています。 一度、興味がある方は足を運んでいただきたいと思います。 ☆琴塚古墳☆ 岐阜市琴塚3丁目5-37 行き方 岐阜バス 諏訪山団地、各務原高校のバスに乗り「佐兵衛新田」下車、徒歩約4分。 岐阜上之保線、八幡線、大洞団地線、「琴塚」バス停 JR岐阜駅バスタミーナル14番のりば マイカー 駐車場2台 トイレも整備されています。
2013年06月19日
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