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こんなモノが出てきました。 少年時代にラジオ番組を録音したテープです。当時、メジャー・メーカーのカセット・テープは高価で、我々“ガキんちょ”が買える程度の価格帯には、こんなような、ワケのわからない“バッタモン”メーカーの、10本セットみたいなテープしかなく、無論、品質もそれなりです。はたして、きちんと音は出るのでしょうか?カセットレコーダーにて、再生してみると… おぉぉぉぉ!録音されている内容から日付を割り出すと、 1978年3月8日(7日深夜) 『所ジョージのオールナイトニッポン』を録音したテープでした。この放送の、およそ1ヵ月後、キャンディーズが解散する、という事で、この一週間は、ゲストとしてキャンディーズが出ずっぱりだった、そんなような記憶があります。当時のおいらは、親の教育方針で、一切、テレビを見せてもらえず、自然、新聞配達でGETしたラジオの方に傾倒して行き、すでにオールナイトニッポンのファンになっていた時期でした。で、この、一週間、キャンディーズがジャックした放送、火曜深夜の『所ジョージ』、木曜深夜の『自切俳人(ジキルハイド=北山修)』と、土曜深夜のサン・スペ『笑福亭鶴光』の放送は、聴きながら録音していたんですが、残っているのは、この1本のみ。内容としては、所ジョージの放送にキャンディーズがゲストで来てて、間を取り持つ為に、局アナのくり万太郎と近田晴夫が出演。当時の放送のレギュラーコーナー『替え歌コーナー』や『ツッパリ・バカ』などを、ゲストとともに、面白おかしく…ありがちな展開です。おそらく、経年劣化と粗悪品質の二重苦で、この後、再生できる回数は、かなり限られてくると思うので、早めにHDDに落としておこうか、と。 (しかし、所ジョージは、 30年間、まったく芸風が変わってません…笑)
2008年10月04日
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嫁サンは、どうも 『ママ&パパ』で呼ばせたいようなのですが、すでにワタクシは、 「お父さん、帰ってきたよ~!」とか、 「はいはい、お父さんは、おるよ~!」などと、完全に 『お父さん&お母さん』で接しております。いや、別に、 『日本人たるもの!』とか、こまっしゃくれた考えで、とかじゃないんですけど…子供の頃、そろそろ、まわりにも、自分の親を 『パパ&ママ』で呼ぶ女の子もチラホラ現れだした世代でありまして、住んでた団地の、同じ階段の斜め上に“和美ちゃん”という子がいまして、その子んちは、姉妹で両親のことを“パパ&ママ”で呼んでまして。それを見聞きしながら、ふと、 (なんか…いいなぁ)と。いやいや、ウチみたいなエキセントリックな親父との父子家庭、どう考えたって、そんな呼び方、不似合いすぎます。でも、ちょっとだけ、そんなような呼び方してみたい誘惑にかられ、一度だけ、親父のことを、 「~~しよるとよ、パパ」と言ってみたらば… 「なんか、貴様! その口のききかたは! 親を小バカにしくさって!」頭にたんこぶ、目の周りに青あざを作りながら 「ごめんなさい!ごめんなさい!」と平謝り(笑)それ以来、オイラの辞書の中には、両親の呼び名としての『パパ&ママ』は、きれいさっぱり抹消されましたとさ!今では、ママといえば、洋風飲み屋の女将、そこのおネエちゃんに金品をつぎ込むハゲちゃびんの社長がパパ、という概念が、ワタクシの『パパ&ママ』でございまして…
2008年03月03日
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おいらの勤務する“焼き畑農業的ダボハゼ工業”の社長の息子。 『オレ様は社長の息子なんだから、その存在そのものが偉大ナリ』といった、ある意味、どこかの国の“将軍様”のような思考回路を持っている。なもんで、周りが“そういう態度”で接しないと御機嫌ナナメになり、材料だの工具だの、はたまた製品までもガチャガチャ叩きつけながら作業し、彼の嫁や母親(共に在勤)が慌てて彼の元に“はべり”、御機嫌を伺うという日常風景。詳しく聞いたことは無いが、少なくとも30代半ばは過ぎている模様。生来のものか、社長夫婦の“しつけミス”なのかは、まあ、知ったこっちゃないが、あの年齢で、アレでは、おそらく軌道修正は手遅れではないかと… ***********************************************十代も終わりの頃、おいらは単身長崎から上京し(※長崎から見たら、神奈川は東京でした)当時の勤務先の社長の自宅に下宿していた。下宿とはいっても、社長の自宅は2階建てのアパートを改造したもので、1階が社長の自宅、2階の各部屋が社員の寮といった風情。当然、食事なんかは社長家族と共にするわけで、夕食時などさながらテレビの『大家族物語』的なにぎやかさ。その社長にはケンという息子がいて、当時まだ小学生。頭の良い、いい子ではあるのだが、常に、社員という“大人”と接している為、微妙にではあるが“こまっしゃくれ”たところも見うけられる子だった。ある日、いつものように“大家族物語的夕食風景”の中、どういう理由だったか、細かいところは記憶から飛んでしまっているが、件のケンが、おそらく何か“小生意気”な言葉を吐いてしまったのだろう。他の先輩は、ただ苦笑するだけで、いつも終わるのだが、おいらはケンの頭を“グー”でゴツン!とやってしまった。当時のおいらは、おそらく今よりも頑迷で、 『男は、かくあるべき!』みたいな、そんな、チョット突っ張らかったニイちゃんで、そういった“金持ちのボンボン”の小生意気な物言いを、苦笑いで聞き流すほど大人じゃなかった。するとケンは、 「…お前なんか、お父さんに言ってクビにしてやる!」半ベソをかきながら、それでもおいらを睨みつけて言い放った。これで完全においらのハートに火がついた。 「おぉ、上等だ! ちょうどオレも、そろそろ、長崎に帰りたいと思ってたんだ! おぅ、そうか、わかった、言って来い! 今すぐ社長に言って来い!おらっ!」と、子供相手に大人気無く、マジギレで対応していた。自分自身が、ことのほかクソ生意気なガキだったくせに、生意気なガキが嫌いなおいら。それからというものは、このケンに対する態度は徹底していた。いつもの夕食時に、他の先輩が 「おい、ケン、ちゃんと勉強してるか?」などと声掛けようもんなら 「いや、いいんスよ、こいつは! 社長の息子で偉ぇから、勉強なんかしなくても、 いざとなりゃ、金積めばどうにでもなるし、な、ケン?」とからかい、 「おい、ケン、野球の練習してるか?」と気にかけてやる先輩に 「んなモン、練習せんでも社長の息子だから、 チーム作ってもらえばエースで4番だよ、な、ケン?」と、傍から見たら、完全にいじめモード。これが、よっぽどケンには堪えたようだった。そうだろう、下宿する社員で、歳が一番近かったおいら。“ナックルボールの投げ方”も“サソリ固めの掛け方”も、全ておいらが教えた。休みの日など、部屋のカギを締めているのに、窓伝いにやってきて 「遊ぼう~よ~!」と攻めてくるケンに負けて、当時、寝る間際まで触っていたギターをちょうど“二人羽織”みたいな感じで教えたりしていた、そんなニイちゃんに、完全に突き放されてしまってから、数週間…例によって、また夕食時、傍から見たら“いじめモード”の物言いを。するとケンは、 「…そんな事無いモン。 偉いのは“社長”のお父さんだけで、ボクなんかただの子供だもん… なにも偉くなんか無いモン…」グッときた…ふうん、そうか、わかったんだ…ニイちゃんの言いたかった事、ちゃんとわかったんだ…元々、賢い子だったから、わかるとは思ってたけど…それでも、 「ふうん、そうなんだ、へぇ…」と、別段、意に介さないような小芝居を演じていた“頑迷”なおいら。それからというもの、バイクの後ろに乗せて、遊園地まで2人で遊びに行ったり、回転寿司に行ったり、一緒にプロレス見に行って、試合後、会場から出てきた藤波辰巳を見つけて、おいらが右手、ケンが左手を握って、ほとんど“寄り目”の状態で興奮しまくったり、以前よりも、より“仲の良い兄弟”のように関わっていた、おいらとケン。が、それからしばらくして、仕事に対する考え方でぶつかり、結果的に、社長とは袂を分かつことになり、寮を出た。そして、それ以来、ケンとは会っていない…あれから20年… *********************************************コンサートは第二部に入り、ゲストで来ているプロミュージシャン3人だけの演奏になった。ベースとピアノの二人のことなど、もうすでに眼中には無かった。ただ一人、力強い音でドラムを叩くミュージシャンに釘付けだった。おそらく、打楽器というのもは、かなりの運動量になるからか、その演奏者のクセというものが、如実に現れるようだ。“たたみかける”というか、そんな感じの演奏になったとき、その全身の使い方は、まぎれもなく、走ってた時の、キャッチボールしていた時の、ケンの雰囲気を残していた。昨年、ふとした事から、ケンがプロのミュージシャンとして頑張っている事を知った。学生時代にバンドでドラムをやっていた事は、風の便りで聞いてはいたが… (いい男になったな、ケン…)演奏を聴きながら、微妙にイメージが繋がらなかった“あの頃”のケンと“現在”のケンが重なった時、一瞬、他の演者も、会場の観客も、おいらの視界から消えた…不思議な気分だった…ホントに、今までに経験した事の無い、不思議な気分だった…そして、コンサートは終わった。ステージからケンの姿が消えるのを見送って、会場の外に出た。ふと左を見ると、締切になっているドアのガラス越し、開いたままの内扉の向こうにドラムセットの撤収をしているケンの姿が見えた!踵を返し、ホールから出る観客の流れに逆らいながら、ホール内に戻った。客席の最後部から“いい男になった”ケンの姿を眺めながら (ケン!演奏、良かったぞ!)迷ったあげく、その言葉は飲みこんだ。なんか、今ここでヤツに声を掛けるのは違う気がした。(それは、べつに、今日、嫁が大阪へ遊びに行ってて晩飯が無いから、 隣接するジャスコで“レジにて半額”の日切れ惣菜をゲットする為に 急いでここを出なきゃなんないとか、そんなようなモンダイではなく、 あくまでも、ホラ、なんていうか、さ!)パンフレットに記載された彼の経歴で“その20年”の、ほんの少しを窺い知ることはできるが、あまりにも遠い隔たりの20年…これから、また次の20年…社長の一人息子という立場もあるだろう。ひょっとしたら、まわりから突き上げもあるかもしれない。でも、ニイちゃんは、ミュージシャン・ケンを “まったく何の力にもなれない”けど、応援してるから!あの時、お前がつぶやいたように、お前と親父は別さ。お前はお前、お前が信じた道をとことん行けばいいじゃん!会場の客が、あらかた捌けてしまい、おいらも再び外へ出た。さっきの締切ドアの前、やはり内扉のむこうには撤収するケンがいた。いつまでも、その姿を見つめていたが、係の女の子がやって来て、まるでドラマの幕を降ろすようにそっと内扉を閉め、ケンとの20年ぶりの“時間の共有”は終わった。そして…ま、結果的に、買っちゃったワケでして…いや、まあ、アレですよアレ、ほら、結果論、結果論!
2006年11月25日
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インターネット・タウンページで長崎市内のペットホテルをリストアップ、ウチらの宿や、その後の予定を勘案して『第一希望地域』『第二希望地域』と、優先順位をつけて、嫁サンに頼んでおいたら、おいらの故郷『大橋アパート』から、そんなに離れてない場所のペットホテルがとれたらしい。そのあたりの地域は、なんやかんやで縁のある場所。 ・高校のスクールバスの通り道 ・小学生の頃、足漕ぎカートに乗りに行ってた交通公園の近く ・近所の大半が、3巻しかなかったソフトクリームが、 同じ値段で5巻もあったお好み焼き屋に通った場所そしてなにより ・小学生の頃、歩きながら眠って、川に落ちた場所…けっこう、皆さん信じてくれないけれど、実話。まだ、小学校3・4年生の頃、街には野良犬がいた時代。上記の交通公園の近くにある別の公園で遊んでいた時に、野良の子犬を発見。おいらと姉、そして近所の女の子と3人で遊んでいて、みつけた子犬が3匹。一人1匹抱っこして、大橋アパートへ連れて帰ろうと思うが、怒られるのは明白。が、そのまま放置するには名残惜しく、延々と子犬を抱いて街を歩き続けた。姉と近所の女の子は、2人で楽しそげに話しながら歩いているが、おまけのようなおいらは、一人遅れて後ろを付いていく感じ。そんなふうに歩いているうちに、ふと体に強い衝撃を受けて我に返ると なぜか、川の中にいた…そして、体のあちこちを擦りむいていた。高さ1メートルくらい、幅2メートルくらいの、よりによってコンクリートで固めた水路に“居眠り歩行”にて転落したらしい。前方を歩いていた姉と、その友達の証言によると 「川の横を歩いていて、急に後ろから“キャイン!”という 子犬の鳴き声が聞こえたから、なにかと思って振りかえったら いなかった…」らしい。その水路の前の家のおばちゃんが慌てて出てきて、引っ張り上げてくれてタオルで体を拭いて赤チンかなんかつけてくれたのを覚えてます。たいがい、この話をすると、皆さん 「いやいや、それってネタだろ?」とか疑ってかかりますが、いや、まったくの真実ですから、あしからず…そういうワケで、“居眠り歩行”で事故りましたけど、運転の方は“居眠り”をせずに、また、その長崎へ向けて、走りましょう… (ついでに、その落ちた水路、ホントに高さが1メートルもあったのか、 現場検証でもしてきましょうかね…)
2006年07月26日
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小学校の頃、ほとんど“お小遣い”らしいお小遣いをもらうことはまれで、たまに親父に収入があったときに、機嫌が良ければもらえる程度。が、5年生の時に、父子家庭だった我が家に新しいお母さんがやってきて、それまでと違って定期的にお小遣いがもらえるようになった。まあ、よその家庭の子に比べると“すずめの涙”程度だったが、“ポケットにお金が入っている”という喜びを日々、かみしめていた。(が、母が教師だった為、小遣い帳をつけさせられるのが、ちょっと…)そんなある日、母から小遣いを貰ってホクホク顔のおいら、仲間ウチで『Bの裏』と呼んでいる団地と団地の間の公園で遊んでいるとおいらより2つ3つ年下の子が、当時、よく文房具屋で売っていた “竹ひごとアルミのパイプと紙で作る、ゴム動力の模型飛行機”おいら世代の方ならわかると思うが、文房具屋の店先に袋入りで吊り下げられた、アレ!そう、アレの完成したモノを持って遊びにやってきた。それを見てて、よしゃァいいのに 「おい、ちょっと貸してよ!」と、そのチビに言って、そのヒコーキをふんだくって遊んでいた。またまた、よしゃあいいのに、いつまでも返さずに遊んでいたら、なんとまあ、なんかのはずみ(今では記憶も…)で、そのヒコーキが大破…そりゃもう、そのチビ、泣く、泣く!どうしようもないので、チビに 「これ、いくらしたんだ?」と聞くと、その金額が、ちょうど前日、母にもらった小遣いの額と同じ…逡巡した…かなり逡巡した。迷い迷って、ポケットにあったヒコーキ代と同じ金額をチビに渡した。 「これで、また買え」チビは、その金と大破したヒコーキを持って帰っていった。『Bの裏』に一人残されたおいらは、シーソーに腰かけて放心状態だった。 「ああ… なんで、あの時に、すぐ返さなかったんだろう… いや、なんで借りちゃったんだろう…」頭を抱え、後悔すれど、すでにポケットの中に、金はナシ…さっきまでの、あの満ち足りた時間はどこへ?ホント、戻れるものなら、ヒコーキを借りる前の時間に戻れたらなァ、と。そこでだ!極楽とんぼの山本!まったく大バカ野郎だよ、あいつ…でも、ホント、今、あいつは函館に入る前の自分に、戻れるものなら戻りたいんだろうなァ…人生で、すべてを失うのって、ホント、一瞬なんだよなァ…なんて、ふと、自分の子供時代を思いだしてみたが…やはり、後悔先に立たず!16歳の時、交番に張ってある、当時のスーパーアイドル榊原郁恵の防犯ポスター 『後悔先に立たず…ね!』ってヤツを、決死の覚悟でパクってきたおいらが言うんだから、間違いない。やはり、後で後悔しないかどうか、自分に問いかけてから行動するべき。だから、今日も、会社で社長のせがれを、キレてドツき倒そうと思ったけど、ボーナスも近いので踏みとどまれました。うん、えらい。
2006年07月20日
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今日は嫁サンの誕生日。仕事を終え帰宅すると、嫁サンは実家に行って留守。その代わりに、部屋にはこんなモンが…いや、すごいなぁ!なんだか、 “小ホールで素人がやるピアノ発表会の楽屋”みたいな花。添えられたカードには 『お誕生日おめでとうございます』と書いてある。ほどなく戻った嫁サンに 「なに、これ?誰からよ?」と聞くと 「お義母さんからだよ」だと。なるほど、そういえば、数日前、妹から正確な日にちの確認メールがあったっけか。まあ、でも、身内で良かったよ。身内以外でこんなモン贈ってくるとしたらストーカーくらいのモンだろうからなぁ…その“嫁サンの誕生日”のイベントとして、昨日、食事に行った時の事。いろいろとくっ喋ってる中で、ふと蘇った記憶。『検便』に対してトラウマがあることは以前書いたが、来る“健康診断”に対して、自分がナーバスになっている事は『検便』だけでなく、もうひとつ 当日のパンツに気をつける、ということ。小学校の頃、寝小便が治らなかったことも以前書いたが、ある年、身体測定の日に、例によって寝小便をフラッシュ!し、連日のソレによってパンツのストックが無くなり姉のソレを履いていってしまった。身体測定のことを思い出した時にはすでに学校に…以前、クラスのイサムくんという子が、一度、お姉ちゃんのパンツを履いてきた時、それが発覚。その後の彼の悲惨な境遇を知っていたオイラ、半ばパニック。自宅の近所では、姉がバラしてくれていたおかげで“ジャイアン”を恐れて、口にこそ出さないがほぼみなさん、おいらの寝小便を知っていた(と思う)。“姉のパンツ”をきっかけにして、これが、最後の砦・学校にまで知られたら…必死で姉のパンツについたフリルを内側に押し込み (けして女モンじゃないですよ~)といわんばかりに胸を張って身体測定を受けるも内心はバクバクもの。なんとかバレずに(と思ってるだけ?)身体測定をうけたもののソレ以来、こういう身体測定だの健康診断だのというと、やはり… 『生まれ変われるとしても、もう一度、今の自分がいい』とは思うけれど、せめて寝小便だけは、ね…
2006年04月18日
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去年は工場の移転で、所属する工業会を離脱した為会社がかりでやる健康診断がなかった。工場移転1年半にて、ようやく地元の工業会だかに参加でき、来週になるけれど、健康診断が復活となった。ただ…以前は、ごく普通の『胸部X線』だの『心電図』だのといった、比較的“お手軽”なコース(バリウムがちょっとねぇ…)だったのに、前もって渡された“問診票セット”を開けて見てびっくり!なんと今回は 検便まで設定されているコースだと…いやあ、やっぱ、他人様に“現物”をお見せするのはチョッと…というよりも、この“検便”に関してはトラウマとでも言うのか…記憶を遡る事、数十年前。小学校高学年のある日、やはり健康診断がありまして、ケツの穴にペタっとやる『ポキール』とかいうヤツと一緒に、小さなビニール袋に入れたのち、薄手の茶封筒みたいな袋に詰めた 『現物』を、学校に持参したわけですよ。たしか、それを提出するのは“帰りがけ”くらいの時間だったのか、しばらくは、それらを各自で管理する状態でした。そんな時、教壇のあたりの床に“茶封筒”から落ちたと思しき 『現物』の入った小袋を1コ、オイラは見つけてしまったワケですよ。よせばいいのに、気分が大変、盛り上ってしまったワケですよ。先生が使う、超特大のモノサシの先っちょを使って拾い上げ、これまた、よしゃあいいのに、女子たちの方へ持っていき 「おい、これは、お前のやろ?」などと囃し立てながら、 「誰だ~、このネギ入りの“現物”落としたのは~?」ってな感じで調子こいておりました。が、ふとその時、この 『ネギ』というキーワードに、いち早く反応したのは、他でもないオイラ自身でした… (あ、そういえば、今朝“拾い上げ”た時に、たしか…)慌てて、自分の机の中のをチェックすると、そこにはカラの“茶封筒”が… 「おれのだった…」気づいた時はすでに、ほとんどの女子相手に 「ほれ~!お前のだろう!」と、テメエの“現物”を御披露してまわった後でした…当時のオイラが、クラスの中で“ジャイアン”的な存在だったのか、はたまた、あまりにも痛々しすぎて、誰も“いじれ”なかったのか、それとも、カトリック系の小学校で、心の優しい御学友ばかりだったのか、その真意は定かではないけれど、誰にもいじられる事もなく…いや、むしろ、なにかしら“ツッコまれた”方がよっぽど救いようがあったというか…そんなこんなで、使う道具なんかも、はるかに進歩した現代の検便においても、やはり“検便”と聞いただけで、かなりブルーになってしまう検便太郎こと、大橋あぱあとでした…
2006年04月13日
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夕方(仕事中)、外資系証券会社OLの妹から携帯にメールがきた。いつもは、たいがい昼休みに来るのに、変な時間にきたから (ん?なんかあったか?)と、便所でこっそり見てみたら 『今、会社の人に聞いたんだけどね、 本川内(長崎本線旧線の駅)のスイッチバック、 無くなったの知ってる???』…。わざわざ、そんなことを突然メールしてくる…。ま、そういう家系なのかもしれんがね、ウチは…。この本川内という駅、そのとおり以前はスイッチバックがあった。佐賀にある祖父の家に行く時、ここを通るのだがスイッチバックで後退し始めると必ず 「おまえが大人しゅう座っとらんけん、 もう長崎に帰るとたいっ!」と、しょうもないネタで親父に脅された。あまり学習能力の無かったおいらは、毎度毎度 「ごめんなさい、ごめんなさい!」と平謝りし、スイッチバックの終点付近でころあいをみて 「じゃ、ちゃんと座っとくか?じゃあ、よか」と許す親父。ようやくバックをやめ、汽車はまた佐賀に向かって走り出す。懐かしい駅です。また、この本川内地区は、長崎市郊外へ引っ越したおいらにとってサイクリングの時にはまず最初に越えなければならない峠があって(ショボい峠ですが)当時の愛車片倉・シルクパーフェクトクイックPR-10DKで、何度となく通った場所です。そういえば、高校一年の秋 『輪行家出』をしたときも、いったん、この本川内の峠まで来て (う~ん、全線チャリの家出だと、いつ九州を出られるやら…)と思案し、急遽長崎駅へ進路を変え、座席急行『雲仙・西海』号にて輪行家出をすることになったんですが、そういった意味でもなにかと思い出深い駅かもしれませんねぇ…
2006年03月29日
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子供の頃、おそらく小学校に入るか入らないかの頃そのドラマは吉永小百合主演の映画版とは別に、『島かおり』という女優サンを使って、TVでやっていた。(記憶が曖昧ですが、たぶん、そうだったと…)そのなかで、若いおネエちゃんが病気になり、分厚いガーゼだか包帯だかで顔半分を隠している。 「おとうさん、この人、どうしたと?」と聞くと、ウチのエキセントリックな親父は 「顔もなんも腐ってしもうたとたい!」えっ?顔が腐る?腐る?もう、その言葉を聞いただけで、なにやら得体の知れない恐怖に襲われてしまった。そう、今週、テレビ朝日でリメイク版が放映される 『愛と死を見つめて』は、当時のオイラにとって、とてつもないホラー番組だった。ただでさえ、幼い頭の妄想の中で、 “顔の腐ったお姉さん”に襲われる恐怖と闘っていたのに、あろうことか、ひとつ年上の姉が当時、酒屋さんから貰っていた“月めくり”カレンダーの上の部分にある“きれいなおネエさん”の写真にマジックインキで目の周りを“切り取り線”よろしく落書きを入れてしまった。もう、その時以降、オイラの恐怖はMAX。ふっと気になって、その“切り取り線”のおネエさんを見たりすると、向こうも“必らず”こっちを見ている、それも恨めしげに…(狭い家の)部屋の中の“どこ”に逃げても、じっと見てる…そして、例の陰気なメロディにのせた 『まぁ~こ~』という、これまた陰気な女の人の呼ぶ声が頭をよぎる。(あ、幼少の頃、周りから『マコちゃん』と呼ばれてたんで)そうなると、もう、独りで便所なんか行けません。狭い家だけど、視界の中に誰もいない状況なんて、 「あ~、ムリムリ!」といった状態でした。なかなか寝小便の治らなかったオイラ、おそらく、このドラマも、その一因だったのではないか、と。最近、朝、寝ぼけてTVのスイッチを入れておくと 『まぁ~こ~』(ウチの朝はテレ朝なもんで)が、時折ふっと流れる。当時の恐怖感や、その後、その“治らない寝小便”の事を “好きな女子”の前で姉にバラされ続けた哀しい記憶とあいまって、今でも、なんとなくイヤ~な気分になってしまいます…(このドラマが純愛ラブストーリーだと知ったのは、かなり後でした)
2006年03月15日
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“頭を下げてお詫び…”思い出すのは小学校の頃。体育の時間だったか、サッカー部の練習の時だったか、記憶は定かではないが、クラスの悪ガキ数名が女体育教師でありサッカー部監督であるカタヤマ先生に叱られた。当然、なぜ叱られたかは、まったくもって記憶に無いが(おそらく、また、テレテレとやっていたんだろうが…)校庭の端に立たされ、カタヤマ先生の説教を聞いていた。と、その時、事務員のタグリさんが 「カタヤマ先生~!お電話で~す!」と呼びに来た。カタヤマ先生は、おいら達に 「先生の(が)来るまで待っときなさい!」と言って職員室へ走って戻った。直立不動で待つこと数分…カタヤマ先生は戻らない。そんな時、ふと(誰だったかは失念) 「先生のクルマってどれ?」と、トボけた事を言い出した。長崎弁では助詞の『が』が『の』に変わる。(例) 匂いがする→匂いのする 犬がいる →犬のおるたしかにカタヤマ先生は 「せんせいのくるまでまっときなさい」と言ったわけだから、 「先生の車で待っときなさい」とも受け取れる。ならば、と(コレも誰が言い出したか…) 「先生の車ってどれね?探さんばね(探さないとね)」当時、カタヤマ先生はバス通勤、車などあろうはずもなく、“先生の車をそれぞれに探そう”という理屈で、ウチら悪ガキ達は、勝手に帰宅しました。翌日…登校すると、カタヤマ先生が来ていない!こまっしゃくれてるわりに、根は小心なおいら達、 「やっぱ、俺達が勝手に帰ったの、怒ってるのかな?」不安は広がるばかり…その不安がピークに達した放課後、これまた“誰がいいだしたか不明”だが、 「カタヤマ先生の家まで謝りに行こう!」という話になった。“だいたい、あの辺り”程度でしか先生の住所を知らないので、公衆電話ボックスの電話帳でカタヤマ姓で、かつ “だいたい、あの辺り”の住所に該当する番号に電話をかけ 「あ、あの、カタヤマ先生の家ですか?」と掛けまくること数件 「はい、そうですけど」と答えた家にブチ当たった。 「あ、そうですか、失礼します」と電話を切り、電話帳に載ってる住所をメモし、電信柱の住所表示を頼りに、ようやくカタヤマ先生の実家にたどり着いた頃にはもう、すでに夕暮れが迫っていたように思う。呼び鈴を鳴らし、お母さんにカタヤマ先生を呼んでもらう。パジャマにカーディガンを羽織った先生が出てきた。自宅前の道路に“前日、校庭で叱られていた時と同じ”隊形に並び 「昨日は、すいませんでした!」全員で頭を下げた。その姿を見て、カタヤマ先生は、一度涙を拭いて 「わかった。今度からちゃんとしなさいよ! 今日は、もういいから、気をつけて帰りなさい!」と、いつもの“怖いおネエちゃん先生”に戻って言った。後日、その日先生は、単に“風邪で休んだだけ”だったと知った。それから数ヶ月後、カタヤマ先生は“寿退職”し、熊本県は天草へと嫁いで行った。その時の悪ガキのひとりマサヒコ君は、現在、母校で教諭となり、カタヤマ先生が率いていた弱小サッカー部を、県内で優勝を争うチームへと育て上げたらしい… 結論!永田君も、もっと早く、頭下げときゃよかったのよ!
2006年03月02日
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咳が止まらない…もう1週間以上も咳が続いている。TVのニュースで、川崎で結核が発生したので、2週間以上咳が止まらない人は、医者で確認を、と言っていた。それを聞いた嫁サンが 「えらい長いけど、結核じゃないの?」などと、物騒なツッコミを入れてくる。いやいや、たしかに痰は出るけど、緑色じゃないしね。もともと喉は子供の頃から弱くて、今でも2年に1度くらいは2週間近く風邪で咳が止まらないことがある。この弱い喉は、子供の頃は本当にコンプレックスだった。なんせ小学校低学年の頃から 『おっさん声』 『ガラ声』 『かすれ声』などなど、いろんな形容詞で周りから揶揄されてきた。 『変声期が無い』という特異体質だと、中学時代の音楽教師に教えられた。だよな、周りの子供はボーイソプラノで高い声で話しているのにめっちゃ童顔のおいらだけ“おっさん”の声。(余談ですが、子供の頃『ウィーン少年合唱団』が、 いつまでも大人にならないのが、とても不思議で 「そうか、あのメンバー達は、 みんな白木みのるみたいな連中なんだ!」 と無茶苦茶な推理をしており、 逐次入れ替わっていることに気づいたのは、ずっと後でした…)そんなモンだから、音楽の『歌う』系の授業が、どうしてもねぇ…あれは小学校3年生、新任のキレイな音楽教師・ハラサキ先生がきた時のこと。やってきました歌のテスト。ウチダくん、ウメダくんが終わり、おいらの番。ハラサキ先生のピアノ伴奏が始まる…おいら、歌わない…というより歌えない。伴奏、はじめに戻って「はい、歌って」と先生…おいら歌わない…また、伴奏、はじめに戻る、先生「歌いなさい」…歌わない…「歌いなさい」…歌わない…「歌いなさい」…ついには、ハラサキ先生、泣いちゃった…先生、嫌いじゃないから、おいらも泣けてきた…ピアノの伴奏が響く中、2人で泣いてた…でも、音楽は大好きなことは、そのあとハラサキ先生もわかってくれて本当は4年生から習うリコーダーの吹き方を教えてくれたりして…で、それが楽しくて、どんどん上達していった。そんなある日、帰る方向が同じだったのでハラサキ先生と一緒に帰宅している道すがら、リコーダーの事をとても誉められた。先生曰く 「才能があるかもよ! お父様に言ってクラリネットを買ってもらいなさい?」すかさず、おいら 「そんなの“買って!”なんて言ったら叩かれるよ、ははは」先生は、以前のテストの時のように悲しそうな顔をしてました…って、そういう話じゃなくて、咳が止まらない、という話!あまりの咳のひどさに輾転反側するうち、ある姿勢をとると、妙に咳が収まる事を発見!結局、昨夜は、一番中、その姿勢で寝たので、今日は体が…その姿勢とは、ローソファーの背もたれに額をつけて基本的にはうつぶせ状態?(半疑問系のアクセント)う~ん、たとえて言うとね…そう!これ、これ!このカッコ!情けないけど、このカッコで寝てました。そりゃ、首・背中が痛いワケだ…
2005年10月17日
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(つづき)結局、朝は駅員サンに起こしてもらい、御礼を言って南風崎を後に。寝起きで体温が変なのか、かなり寒気を感じて走った気がする。早岐・佐世保を抜け佐々町あたりの山間部に入る。途中、佐々町だったろうか、水だけで朝から走っているのでどうにも『味のある物』がほしくて、途中の小さな商店で休憩。たしか、コーラかチェリオか、そんなあたりを飲んだような…でも、はっきりと覚えているのは、その商店の若奥さんだろうか、背中に、赤ん坊を背負って店番をしていたのは25・6歳の女性。授乳の為なのだろうけど、ノーブラでガーゼに近い生地のシャツ1枚。それが、夏の暑さで汗かきまくりで“ピタっ”と肌に張り付いて… それはそれは『ゆっくり』とジュースを頂きました。さだかではないが、おそらく二人とも『前かがみ』で店を出たような気が… その後、目に焼きついた『その光景』をふりはらいつつ走りまくる。もうすでに、このころからサトーくんは目に見えて遅れだし、また、休憩回数が極端に増えてきた。初の遠乗りだから、しょうがないのだろうけど、そういう状態を思いやるだけの優しさを持っていなかったワタクシはだんだんフラストレーションがたまりはじめていました。それでも、昼前にはなんとか目当ての平戸大橋に到着! (ふ、ふとかねェ…)感動でした。サトー君に対するイライラも、家庭のゴタゴタも、すべて吹っ飛ぶくらいの感動でした。しばし言葉も無く、サトー君と平戸大橋をながめる… よし、じゃあ、帰ろう!一応、もうすでに『一文無し』だったワタクシの分までサトーくんが通行料(50円くらいだったか…)を出してくれ平戸側まで走り、無事、平戸大橋を“制覇”。これまで必死の思いで登った山道を引き返す。帰りしな、佐世保のあたりだったろうか、空腹が限界に近づいたときふとサトーくんが 「あ、そういえば…」と、バッグから『ピケ』(塩味のサラダ煎餅)とコーヒーガムを取り出した。なんでも自宅(商店)から持ち出したらしい。もう、完全に“味わう”とかの余裕は、まったく無くボトルの水で流し込む。ついでにコーヒーガムも“食べ”た。そう、噛んだのではなく食べた、2・3回噛んで飲み込んだ。それぐらい、腹が減っていた。若干、腹に落ち着きが出たことと、早く帰って“本飯”が食いたい一心でピッチが上がる。が、やはり、サトー君はタレっぱなし…。しばらく走っちゃ道端に停まってサトー君をしばらく待つ。また走っちゃ、しばらく待つ。もう、いいかげん、我慢の限界に近づく。それなりに『空気の読める』子だったので見知らぬ街で“置いてけぼり”食らうのが、よっぽどイヤだったのか、サトー君が飯を奢ってくれるという。あ、そう?いいの?あら、悪いね?『西海橋ビューロッジ』というドライブインでカレーを頂く。ああ、一日ぶりの『まともな食事』!ふつう、煎餅もらって、おまけにカレーまで奢ってもらったらゆっくり、ゆっくり伴走してあげたりしますよね? 置いてきちゃいました…その前後の記憶が消えちゃっているんですが、結果的に先に帰ってきちゃいました…本当にサトー君には悪いことをしたと思います。なんかチャラけた書き方してますけど、反省してます…帰宅後、こころゆくまで飯を食らい、ひとっ風呂あびてふと、国道を見上げた頃、ヘロヘロでチャリこいでいる姿を見たのが最後です。サトー君、ごめんね…2001年、春。あれから、何度となく、思い出の平戸大橋を訪ねようと思っていたが、かなわずようやく、およそ20年ぶりに訪ねてみた。 そして、 (飯も食わずに、よくこんなとこまで走ってた来たな…)と、おそらく佐々町あたりになるだろうか、感慨深く山々を見渡した 空腹でも『走りきった』という自信と 『いたわりの無さ』という負い目、両方を得た旅でした…
2005年07月09日
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“ツール”の話で思い出した苦い思い出…その数年前、長崎県には『平戸大橋』という“国内最大級”の(当時たしかそんな風な話を聞いたような聞かないような…)吊り橋が完成しました。長崎新聞で見た、その姿に感動し、行ってみたかったのですが、なんせチャリで日帰りするには、あまりにも遠い。それまでも泊まりのサイクリングは経験あったんですがそれは“おじいちゃんち”に泊まって、でしたんであきらかに『野宿』確定の平戸行きには二の足を踏んでました。八月の終わり頃、近所のひとつ下の友だち・サトーくんとチャリの話をしてました。このサトー君は、ちょうどサイクリングに目覚め始めた頃で「どこか行こうよ!」と、よくオイラをせきたててました。その日もたしか、そんなような話をしていたと思います。じゃあ、あっちゃこっちゃチャリってるオイラのスゴ脚を披露すべく「平戸大橋でも見に行ってみない?」と振ってみた。「いくいく!」即答だった。ならば、と思ったが、すでに午後。今なら「やっぱ、やめようよ」となるところだが、そこは若さ。“どうにかなるさ”と出発。長与・大草と『旧・長崎本線』まわりでとりあえずは大村市の長崎空港をめざす。理由は宿泊の為。日も落ちて、さらにしばらくたってようやく長崎空港へ。さあ、待合室のベンチでねるかぁ!って横になってたら 「出てくださ~い!閉めますよ~!」と警備員。うそ?空港って、夜は閉めると?まじね?やむなく1kもある空港の橋を戻って行く。あまりのショックに忘れていた空腹感がよみがえりなけなしの手持ち資金で、たしかチャンポン(おそらく…)を食べた。この時点で、おいらの所持金は…ジュース2本分くらいだったか?さてさて、長崎空港を追い出されたオイラ達は夜の国道を北上。しかし、田舎道が続くだけで野宿できそうなポイントが無い。おまけに沿道には『特攻隊…の地』とかの看板が点在し、なんか怖いし…暗いわ、疲れたわで、もうアップアップ。ようやく見つけた『←南風崎(はえのさき)駅』の看板。もう、ここしかないだろう、と坂を下る(国道から下った記憶がある)。いくと、木造の古い田舎の駅があり、壁に取り付いた(背もたれが“壁”)長い木のベンチもある。思いきって駅員サンに「これから平戸まで行くんですけど、今晩、ここに泊まっちゃダメですか?」と聞いてみた。比較的若い駅員サンだったと思うが「平戸まで自転車で行くとね~?うわぁ~!」みたいなノリで、「始発の来る前に起きて行くならよかよ。 もうすぐ最終の貨物が通過するけん、そしたら電気も消すよ」とOKが出る。すでに客車は最終が出た後らしく、もう誰も来ない様子。お言葉に甘えて、無いよりマシと、タオルを腹にかけて寝ようとした。すると、またまた駅員サンが「蚊に食わるっけんね~」と、蚊取り線香をわざわざ持ってきてくれ、なおかつ、かなり古いヤツではあるが、なんと毛布まで貸してくれた!長崎空港で追い出しを食っての“ここ”だけに、その有難さといったら…今でも鉄道旅が好きで、田舎の駅がことのほか好きなのはひょっとしたら、こういう体験が『根っこ』になっているからなのかもしれない… つづく
2005年07月04日
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この『土曜スペシャル』(だっけか?)は我が家には欠かせない。ま、次週やる 『一度は泊まってみたい高級ホテル』みたいなネタになると、およそ関わりは出てこないが『旅』関連の多い枠だけに、たいがいの場合は 「あ、ここ、行ってみたい!」とか 「あ、これ、食いてェ~!」みたいな話になる。で、今日の番組・路面電車ネタ。こういう企画では必ず登場する、わが故郷・長崎。少年時代、よくタダ乗りしてました。降り際に「お金忘れました!」と言ってダッシュで逃げる。それも、3・4人まとめて。バレバレじゃん!でも、運転手サンも電車を放って追いかけるわけにもいかず、成功率は10割でした。(どうも、すいませんでした!)とりあえず今回も、知ってるコト、知らないコト、いろいろと為になります。「♪ながさき~えざき~♪えざ~きべっこうて~ん」の江崎べっ甲店の紹介をやってて、ふと思い出した少年時代…長崎の平和公園にほどちかい原爆資料館。(当時)その向かい側に『中古賀べっ甲会館』という観光客相手の大きなべっ甲細工屋さんがあり、ここが、わが大橋アパートのクソガキ達の憩いの場でした。というのも、ここのべっ甲店は二階にはガラス張りの工房があり、製作の様子も見れますし、一階の奥まったあたり(だったと思うんだけど…)には、“小さなプール”くらいの水槽が設置してありました。なかにはタイマイ(アカウミガメ)の、大きいものでは1m位のが全部で4・5匹泳いでいるんです(数の記憶、微妙…)。その水槽の横には休憩用のベンチもしつらえてありました。それともうひとつ!当時は、銀行や郵便局には冷水器というモノが置いてありウチらガキどもも、よく夏の暑い時期には頂いておったのですが、この中古賀べっ甲会館の冷水器は、そういう金融機関にありがちな『ペダルを踏むとピューっと水が出る』タイプではなく家系ラーメンの店などによくある、セルフサービスでお冷を汲む、あれ。おまけに中身はなんと『真水』ではなく『麦茶』!これはもう、長崎の真夏の暑さに渇いたガキどもにはタマリません!しょっちゅう何人かで行っちゃ~、ベンチに座って麦茶のコップ片手にカメ見物。それもアホみたいにがぶ飲み状態。ここでひとつ根本的なこと。その麦茶を置いているのは、なぜでしょう?間違っても『近所のクソガキども』にサービスする為?…ではないですよね?あくまでも、長崎観光に来られたお客サンに「長崎は暑いでしょう?よろしかったらお茶でも?」みたいなノリなワケですよね?まあ、ウチらも、間を置き置き行けばよかったのでしょうがなんせ子供ですから『さじ加減』というものを知らない。一週間くらいだったろうか、水槽の周りを占拠し、がぶ飲みを続けた結果般若か仁王か、といった表情の支配人サンの登場で~す! 「なんか、おまえたちは! こん(この)麦茶はおまえ達に飲ますっとじゃなかとぞ! 帰れ、帰れ!もう2度と来んな!」ひえ~!襟首を捕まれたウチらガキどもは、いとも簡単に支配人サンの手によって店の外につまみ出されてしまいました。がしかし、まだ子供ですから、この支配人の行為に完全に逆ギレ(今風にいうとね!)なんとかリベンジしてやろ!と、ウチら全員(5人くらいだったかな?)で街じゅうの 『野良犬の糞』をかき集めに行きました。当時は、まだまだ街に野良犬が徘徊していた時代です。ある者はダンボール箱に、ある者は板っキレに載せて、ものの15分ほどで大き目のバケツ1杯分はあろうかという枯れたものや、半生状態のものを集めてきたウチらは中古賀べっ甲会館の店先にバラまいてしまいました!しかし…なかなか支配人は気づかない…こういうイタズラというものは、相手の反応を見てナンボ。“この距離があれば、間違い無く逃げ切れる”というギリギリの地点まで店に近づき「や~い!や~い!クソべっ甲店~ん!」などと、はやしたてて、ようやく支配人は異変に…しかし、そこは、やはり支配人も九州男児!店先にバラまかれた物体を見てキレたのでしょう、それらの物体を数個、素手でつかんでは、ウチらめがけて投げつけてきました。それを見て「クソべっ甲店のクソ男ぉ~!」などと、大盛り上がりでウチらは大橋アパートまで逃げ帰りました。それからは、また金融機関の味気ない真水がウチらの『清涼飲料水』に戻りました、とさ。そんな夏が、また長崎にやってきます…ん、きれい!
2005年07月02日
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